日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

渡辺 力

プロダクトデザイナー、インテリアデザイナー

 

インタビュー:2017年7月13日14:00〜16:00
場所:自由学園明日館
取材先:山本章さん(山本章デザイン事務所、Qデザイナーズ在籍スタッフ)
インタビュアー:浦川愛亜 石黒知子
ライティング:浦川愛亜

PROFILE

プロフィール

渡辺 力 わたなべ りき

プロダクトデザイナー
1911年 東京生まれ。
1936年 東京高等工芸学校(現・千葉大学)木材工芸科卒業後、群馬県工芸所に入所し、ブルーノ・タウトに師事する。
1949年 渡辺力デザイン事務所設立、
1956年 松村勝男、渡辺優が加わり、事務所名を「Qデザイナーズ」と改称。
2013年 逝去。

渡辺 力

Description

説明

戦後まもない、1949年に個人事務所を立ち上げ、フリーランスデザイナーとして活動した草分け的な存在であり、20世紀の日本のデザイン界の礎を築いてきたひとり。52年に日本インダストリアルデザイン協会(JIDA)の初代理事を務め、53年に勝見勝、剣持勇、丹下健三、柳宗理らと国際デザインコミッティー(現・日本デザインコミッティー)を設立し、59年には勝見勝、加藤達美、佐藤潤四郎、吉田丈夫と財団法人クラフト・センター・ジャパンを創設。66年には、東京造形大学室内建築科開講に参画した。
また、戦後のまだ貧しかった時代に、民主主義を体現する多くの革新的な製品を生み出したことでも知られる。例えば、それ以前は畳の生活が当たり前であった一般家庭にも椅子を普及させたいと考え、座布団を合わせて使うローコスト生産の「ヒモイス」、贈答用の高価で大型のものしかなかった時計を6畳一間の日本の狭小住宅でも使用しやすい安価で小ぶりな「小さな壁時計」としてデザインした。インテリアでは、50年以上建築家の清家清と協働して、多くの住宅建築の内装、家具を担当し、宙に浮いているように見える本棚や移動畳といった実験的な家具にも挑戦した。
2000年代からセイコーウオッチより腕時計シリーズ「リキ ワタナベ コレクション」、タカタレムノス「RIKI CLOCK」など、主に時計のデザイン開発に取り組んだ。また、メトロクスから清家清設計の住宅「数学者の家」で製作した「ソリッドスツール」や、紙素材の組み立て家具「カートンファニチャー」など以前手がけた製品が復刻された。2011年には、ロイヤルファニチャーコレクションから生誕100年を記念して「ヒモイス」が復刻販売された。渡辺のデザインが時代を超えた普遍性をもっていることの証である。

Masterpiece

代表作

<プロダクト>

「ヒモイス」(1952)、「トリイスツール」(1956)、「円形テーブル」(1956)、
「リキベンチ」(1960)、「キャスロン101」(1964)、「リキスツール」(1965)、
「小さな壁時計」(1970)、「第一生命ビルのポール時計」(1972、現・DNタワー21 日比谷)、
「ユニトレイ」(1976)、「RIKI CLOCK」(2003)、
セイコーウオッチ「リキ ワタナベ コレクション」(2000〜)

 

<住宅・商業施設等の家具>

「うさぎ幼稚園」(1948・清家清設計)、「斉藤助教授の家」(1952・清家清設計)、
「数学者の家」(1954・清家清設計)、「SH‐1」(1953・廣瀬鎌二設計)、
 京王プラザホテルメインバー「ブリアン」のインテリアと家具(1971)、
「聖パウロ教会」小礼拝堂と椅子(1974・日本設計)、
「軽井沢プリンスホテル南館」(1982・清家清設計)

 

<著書>

『素描・渡辺力』(1995・建築家会館)
『ハーマン ミラー物語 イームズはここから生まれた』(2003・平凡社)

渡辺力作品

Interview

インタビュー

製品だけでなく、デザイナーの考えを継承していくことも、アーカイブでは大事なことだと思います。

ホテルの内装デザインを手がけた80年代後半

 山本さんは、以前、Qデザイナーズの事務所に在籍されていたのですね。

 

山本 大学を卒業後、イタリアに留学することを決めていたのですが、半年間ぐらい時間があったのでアルバイトでもしようかと思っていた矢先、教授から紹介いただいたのがきっかけでした。1987年2月から10月までの約9カ月在籍しました。
初めてお会いしたときから、なぜだか渡辺先生は私を気に入ってくださって、事務所番頭格の水野信策さんからは「いまだかつて山本くんほど気に入られた人はいないよ」と言われました。大学も高校も同じだとわかって親しみを感じてくださったのかもしれません。そのとき先生は75歳。30代から50代くらいの所員が8名ほどいました。事務所が始まって以来の忙しさということで、仕事の依頼を受けても断ることもあったほどで、私も残業や休日出勤もしていました。

 

 その頃、Qデザイナーズではどのような仕事をされていたのですか?

 

山本 主にインテリアデザインの仕事です。なかでも大きなプロジェクトはプリンスホテルで、毎年、国内外の各地に建っていました。建築家の清家清さんが建物を設計して、客室やレストラン、バーの内装をQデザイナーズが手がけていました。ほかに、日立やINAX(現LIXIL)のショールーム、歯科医院や旅行代理店の内装、展示会のブースなどを手がけていました。

 

 山本さんはそれからほどなくしてイタリアに留学されたのですね。

 

山本 イタリアには7年間ほどいて、トリノ工科大学に2年、その後トリノ在住の浅原重明さんやレイモンディ建築・デザイン事務所で働いていました。そのあいだに日本に3回ほど帰ってきて、その度に先生にご挨拶に伺ったんですけれど、いつも歓迎してくださって、食事に誘ってくださったこともありました。イタリアにいるあいだ、事務所の方たちとも手紙でやり取りをしていたのですが、そのあと、Qデザイナーズが解散して、事務所もたたまれてしまったということを知りました。
1994年に帰国して、1995年にフリーランスで仕事を始めてからは、先生にも事務所の方にもしばらくお会いすることはなかったのですが、1997年に東京・新宿のリビングデザインセンターOZONEで先生と柳宗理さんと長大作さんの3人のシリーズ展が開催されるのを知って、オープニングに行ってみることにしました。会場に先生がいらっしゃったので、ご挨拶すると、またすごく喜んでくださって。連絡先をお教えすると、「ちょっと仕事を手伝ってくれないかな」とおっしゃるのです。事務所は解散したけれども、先生はその後もお一人で仕事を続けられていたということでした。
最初は1976年にデザインされたダイチのステンレストレイを佐藤商事の「ユニトレイ」としてリデザイン、次にセイコーウオッチのデザインをお手伝いしました。特に腕時計のデザインは、先生にとって初めての試みでもありましたし、どうなるかわからないというところから始まったのですが、発売後、大ヒットしました。その後にデザインを手がけたタカタレムノスの掛け時計もよく売れました。それらのヒット製品をお手伝いさせていただいたことで、先生にさらに信頼をしていただいたのだと思いますが、その後も亡くなられるまでお仕事をサポートさせていただきました。

 

過去の作品を見たくないと、物を残さない方だった

 

 そうした晩年の製品も含めて、図面やモック、資料などのデザインアーカイブがどこに保管されているか、山本さんはご存知ですか?

 

山本 事務所の物置に保管されていたものと、ご自宅に少しありました。亡くなられたあと、一部愛着のあるものはご遺族がお持ちになり、図面や家具、展覧会で使った大判の写真などは、メトロクス代表の下坪裕司さんが会社で管理、保管してくださっています。下坪さんにはいろいろな面で協力していただいています。私はご自宅で使われていたイームズのロッキングチェアや、エーロ・サーリネンの「チューリップチェア」、USMハラーのシステム棚、蔵書などをいただきました。

 

 90歳を過ぎた頃から断捨離をされていたのではないかというぐらい、メトロクスの下坪さんのところに「これいらない?」といろいろな物を持って来られたとお聞きしましたが、山本さんも何かいただきましたか?

 

山本 その頃から「家の整理を始めています」とおっしゃって、少しずつ物を処分されていましたね。私はイームズの本や玩具、デザイン誌やポスターなどをいただきました。セイコーの方には「時計の色の参考にしてください」と、日本の伝統色をまとめた厚い大きな本を譲られました。日本の伝統色というのは、季節によって変える着物のかさねにみられるように多彩にあって色の名前も情緒深いものです。セイコーの方がそれに触発されて伝統色シリーズの企画が生まれ、それもとても評判がよかったです。

 

 力さんは、ご生前にご自身のアーカイブについて話をされていましたか?

 

山本 少なくても私が事務所に在籍していたとき、また、晩年に仕事をお手伝いさせていただいていたときにはお聞きしたことはなかったですね。むしろ、自分の過去の作品を見たくないとおっしゃって、あまり物を残しておかない方でした。過去の作品を見ていると、あとから「ああしておけばよかった」「こうしておけばよかった」と気になってしまい、気が滅入ってしまうからということでした。ですから、ご自宅にはデザイン製品がたくさんありましたが、ほとんどご自身以外のデザイナーのものでした。
2005年にメトロクスで、2006年に東京国立近代美術館で先生の個展が開催されたのですが、その話を最初にいただいたときは、先生はまったく興味を示されませんでした。「昔のものを掘り起こすのは嫌だ」「そんなことをやっても意味がない」「展覧会はしない」と、きっぱりおっしゃっていたのですが、東京国立近代美術館の方や、メトロクスの下坪さんが熱心に何度も先生にご相談されて、「私もお手伝いしますからやりましょう」と説得して何とか開催する運びになりました。オープニングにはたくさんの方が訪れて、サインを求められたりもして、先生はとても喜ばれていました。晩年は、ご自身がデザインした掛け時計をご自宅に飾られたり、腕時計も身につけられたりしていました。

 

 回顧展をご経験されたあとに、力さんのアーカイブに対する考えが変わられたりはしませんでしたか?

 

山本 特に変化はなかったようでした。

 

スケッチはあまり描かず、模型もほとんどつくらなかった

 

 それでは、図面を描く前のラフスケッチのようなものも残されなかったでしょうね。

 

山本 お若い頃はスケッチ画を描かれていたのかもしれませんが、もともとあまり描かれない方だったようです。事務所でずっと家具デザインをサポートされていた稲田愿さんは、先生が描かれた小さなスケッチ画をお持ちだとおっしゃっていましたけれども。私が先生の図面を描いている姿を見たのは2回くらいで、ピッピッピッと手の動きがものすごく速く、線を止めずに家具の角も線が交差するような勢いがあったのを覚えています。T定規を使って正面図をいきなり描き始められました。
先生が通われていた東京高等工芸学校(現千葉大)では、普通の工業図面ではいけないと教えられたそうです。線に強弱をつけたり、気持ちを伝えることが大事だと。そのこともあると思いますけれど、先生の描く線は味があって、ほか方の説明的な線とはタッチがまったく違うのでひと目でわかります。

 

 晩年に時計のデザインをされていたときも、スケッチは描かれなかったのですか?

 

山本 描かれませんでしたね。図面は、私がコンピュータで描いていました。時計のプロジェクトでは、最初にデザインの参考になるようなものやご自身が昔デザインされたものを持って来られて、「こんな感じのものを考えているんだけれど、山本くん、ちょっと考えてみて」と渡されるのです。そして、それをもとに図面を描いてお見せすると、「ここをこうして」と細かい指示をいただいて、それを修正してということを何度も繰り返して進めていきました。ですから、膨大な数の図面をつくります。文字の種類や大きさ、バランスにとてもこだわりをもっていらっしゃって、実寸と拡大したデザイン図をたくさん並べて、ああでもない、こうでもないとやっていました。時計のプロジェクトは、針も含めて、とにかく文字盤のデザインに情熱を注がれました。

 

 試作品や模型はつくられていたのですか?

 

山本 私が事務所で働いていた頃は、インテリアの仕事がほとんどだったので、建築の内装模型みたいなものは少しつくられていましたけれども、プロダクトの試作品のようなものは見たことがありませんでした。事務所に唯一あったのが、日比谷のポール時計の小さな模型でした。
あるとき、「ちょっとこんな三面図を描いたから、山本くん、模型みたいなものをつくってよ」と言われて、飯台などで使われるサワラ材を想定したワインクーラーのモデルをつくりました。発泡材に樹脂パテを盛ってつくったのですが、「へぇー、ヘラでシゴいたの!」と昔の職人言葉でおっしゃって、つくり方に感心されていました。

 

 著書もありますが、原稿は残っているでしょうか?

 

山本 生原稿はないと思いますね。先生の手紙は少し持っています。よく手紙を書かれる方でした。「用事があるので、電話してください」という手紙をいただいたこともあります。おかしいですよね。
先生は、活動の半分はデザイン啓蒙をされていた方でしたし、新聞や雑誌への投稿もしょっちゅうされていました。その記事も残っていると思います。例えば、クルマのL字型のドアハンドルの先端を進行方向に向けて取り付けていたために、歩行者の衣服を引っかけて事故を起こしたことがあり、形だけを追ったそのデザイナーの責任をいち早く新聞に投稿されましたし、自身でデザインした家具の木材質をメーカーの都合で無断変更されたときは、交渉の余地がないとデザイン誌で糾弾してそのメーカーと絶縁してしまいました。発祥の地への母校の記念碑設置寄付呼びかけに対しては、義憤から長文の匿名反論を私がワープロで清書、投函したこともありましたね。今見れば過剰であったり誤解もあったかもしれませんが、デザインへの認識向上のためにあえて言った節もあるし、事を正すに躊躇しない厳しい面をもった方だったとも思います。

 

渡辺力のアーカイブをたどる調査

 

 雑誌や新聞に掲載された切り抜きなどは残っていますか?

 

山本 先生は興味なかったようですが、事務所では記録されていたようです。事務所の歴史を所員の出入りなどまで、かなり克明に記したノートも見たことがあります。事務所解散後に散逸してしまいましたが、所員だった篠原高徳さんが記事の切り抜きやインテリアの写真などを合せたスクラップブックを保管してくださっています。大きいものが3冊、小さなものが2冊ほど。それがあったおかげで、東京国立近代美術館の個展を開催するときに、時系列を追って製品が開発された年代をある程度調べることができました。今、私がそのスクラップブックをお借りしていて、写真に撮って記録しているところです。結構たくさんあり進まなくて、1年近くお借りしたままなんですけれど。

 

 山本さんが何かアーカイブを整理しようと思われてお借りしたのですか?

 

山本 私のわかる範囲で記録していこうかなと思っています。写真で記録しながら、作品のある場所を調べて、そこに行けば見られるというふうにまとめています。時計に関してはアーカイブだけでなく、今後の先生のシリーズの仕事に活かせるのではないかと思って調べているところです。
先生が亡くなられたあと、ご自宅や事務所の物置を整理していて新たな図面や写真などの資料がいくつか見つかりました。先生は物を残さない方だったので、もしかしたらご自身が気に入られていたり、もう一度考え直したいとか、何かしら意図があって手元に残されていたのではないかと思うのです。それらをアーカイブする際には、先生の思いを推察したり読み解く作業も同時に行っていますが、これまで知られていなかった事実が明らかになることもあります。
例えば、国立能楽堂の時計の図面が出てきたので、事情を説明して見せていただいたら、図面と同じ物が飾られていることが判明しました。
ご自宅からはネガがたくさん出てきたので現像所で焼いてもらったところ、そのなかに街の公園によくある公共時計の試作品のようなものが4種類ぐらい写っていました。昔のことを知っているセイコーの方にお聞きしてみたところ、それは先生のデザインしたものに間違いないだろうということでした。 また、親族の方との話から、記録には残っていなかった日本輸出入銀行(現・国際協力銀行)ロビーの振り子大時計も先生がデザインしたものだとわかりました。
倉庫からは、「ヒモイス」の原寸A0の青焼きが出てきました。青焼きというのは、日にさらされていると退色していきますが、折り畳んで暗い場所に保管されていたおかげで、比較的鮮やかで綺麗でした。それもきちんと残しておかなければいけないと思い、エプソンにお願いして細密スキャンでデータ化、高品質プリントをつくり、青焼きと一緒に保管しています。
作品以外の、雑誌の記事や手紙などの文書関係については、アーカイブズ学について造詣が深く翻訳、出版もされている娘婿の塚田治郎さんが少しずつ収集、整理してくださっています。

 

 アーカイブ調査は、期限を決めて行っていらっしゃるのですか?

 

山本 特には考えていません。アーカイブの調査は毎日やっているわけではなく、図面やネガから何かを発見したときに現地に行って調査して記録を取っているという具合です。そのデータは、基本的には今後の先生のシリーズの仕事に役立てていければと考えていますが、一方ではこういう記録をきちんと残しておかないといけないという使命にも感じています。
製品だけでなく、デザイナーの考えを継承していくということも、アーカイブでは大事なことだと思うのです。むしろ、デザインにおいては形よりも、考え方やフィロソフィーの新しさ、素晴らしさの方が重要ではないかとも思います。残念ながら、例えば作家性が強い方などがほぼお一人で活動された場合、亡くなられたあと話題にならなければ、どんどん世間から忘れ去られてしまいます。

 

 デザイナーのアーカイブを現代に活かしながら、その考えを代弁していく山本さんのような方がいることが理想的ですね。

 

時計のデザインに情熱を傾けた晩年

 

 ところで、力さんが個人的に集められているものはありましたか?

 

山本 先生は、とりわけマリンクロックがお好きでした。船に付いている防水用の時計です。コレクションをしたいぐらいだとおっしゃって、古道具屋で手に入れたマリンクロックを3つほどご自宅に飾られていました。私が事務所に在籍していたときには、セイコーでデザインしたマリンクロックが倉庫に山積みされていました。生産中止になると聞き、先生が在庫をすべて買い取られたとのことで、興味のある方に差し上げたりしていました。私はその当時、マリンクロックのよさがわからなかったのでいただかなかったのですが、今、とても後悔しています。
それから鉄道の運転手が持っていた懐中時計もお好きでした。「あれが僕のデザインの原点のひとつ」ともおっしゃっていました。今はもう鉄道の時計はみなデジタルになっていますね。

 

 力さんが時計を数多くデザインされていたのは知られていますけれど、時計がそれほどお好きだということは、これまで評論などであまり語られてこなかったと思いますので、貴重なお話ですね。晩年はその思いがまた仕事につながったということは、力さんにとっては大きな喜びだったのではないでしょうか。

 

山本 昔は公園や空港、能楽堂など、公共空間の時計をさまざまデザインされていたと思うのですが、だんだんそういう仕事がなくなっていって、私が事務所に入ったときはその最後の時期だったように思います。
その後は製品化を前提にしなくても、少しずつ時計のデザインを続けられていて、松屋銀座の展覧会などにも出されていたそうです。そして、90年代の終わり頃に「時計の仕事はもう一度チャレンジしたい」「ライフワークのひとつ」ということをどこかの雑誌に書かれていました。
そのようななかで、セイコーが自らのアーカイブを見直し、渡辺先生を「再発見」したところから腕時計の仕事が始まったのは興味深いですね。晩年は時計の仕事をたくさんすることができて、なおかつ大ヒットしたということで、とても幸せだったのではないかと思います。

 

 子どもの遊具にもご興味をもっていらっしゃって、2006年には松屋銀座で力さんが監修され、世界の遊具をセレクトされた「幼子のためのおもちゃ」展が開催されましたね。

 

山本 ご自身でデザインされた子どもの遊具は「リキスツール」だけでしたけれど、セイコーの子ども向けウオッチをデザインすることになったときはとても興味をもたれていました。私に子どもが生まれたときは、自身で松屋銀座の展覧会にセレクトした銀のラトルをプレゼントしてくださいました。北欧の積み木にも関心をもたれていましたね。
お孫さんの面倒もよくみられていました。先生の日々の生活を書いた記事が新聞に連載されたことがあって、仕事のことが大半なのですが、娘さんが里帰りされたときのことも書かれていました。「女性陣は全然、頼りにならないから、僕がお風呂から何まで全部やってあげた」とか、孫が家にいて楽しく、帰ってしまうと寂しい、というような。その記事もおそらく私の家にあります。

 

仕事に必要なのは、過去ではなく「今」

 

 最後に、山本さんご自身のデザインミュージアムに対するお考えをお聞きできればと思います。実際にご自身が力さんのアーカイブをされているという点からでも。

 

山本 私は今のところ写真を撮ったり、何がどこにあるかということを調べて記録するということぐらいしかできていません。それも今後の仕事につなげるという思いが根底にあるので、できているのかもしれません。そうではなかったらモチベーションとしてもなかなか難しいかもしれませんね。
先生が亡くなられたあと、ご遺族やセイコーウオッチの方とも何度も話し合い、先生の時計に対するフィロソフィーは形を超えて普遍的であり継承していくべきとの結論から、RIKIシリーズを継続し私がディレクションしています。もともとウオッチは、ファッションや流行の要素が大きいので、先生もみなのアイデアを大胆に取り込んで、楽しんでおられました。先生の哲学プラス何か渡辺力を思わせる要素を重視しつつ時代に合わせて変化していけるといいのですが。反対にタカタレムノスのクロックは、サイズや材質など現代にマッチさせるアレンジ以外かなり厳密に復刻にこだわっています。先ほどお話した公共時計など最近いくつか復刻させましたし、検討中のものもまだあります。この2つの柱がRIKIという時計のブランドを支え、商品として現存するアーカイブのようなことが実現できているのかもしれません。まあ、売れているうちだから言えることですが。
今は時計のことを調べるのが主ですけれど、本当はそれ以外にも記録を取らないといけないと思っています。

 

 山本さんご自身がこういう場所があったらと思う理想的なミュージアム像はございますか? こういうミュージアムがあったら行きたい、お仕事での参考になるというような視点からでも。

 

山本 私は、建築では実質図面よりも最初の段階のスケッチの方に興味があります。アーカイブでも何を残すかというところだと思いますけれど、最初のインスピレショーンの部分と最終形ぐらいをコレクションしていくというのがいいような気がします。できたものだけを並べただけでは、博物館のようになってしまいますし、デザインミュージアムというのであれば、もうひとつ何かアイデアが欲しいですよね。
それから自分の仕事に役立つということで言えば、過去のものではなく、今現在、世界各国の一般家庭でどのような時計が使われているか、その生活空間を見ることができると嬉しいですね。それはネットでも調べられないことなので。デザインミュージアムという観点とは少し違うかもしれないのですけれど、興味があるのはそういう情報です。

 

 それにしても、今、山本さんがされているアーカイブの調査というのは、今まで知られていなかったような発見もあって、調べられていておもしろいのではないですか?

 

山本 ほかのデザイナーの方よりも、先生の場合はわかっていないことが多いので調べて発見するのはおもしろいですね。ただおもしろいだけでなく、この製品とこの会社がつながりそうだということを考えることをいつも念頭においています。そうして広げていくことで、先生の考え方をより多くの人に知っていただいて、後世に残していきたいと考えています。
今、私は主に時計のことを調査していますけれど、それまで先生のことをまったく知らなかった方にも広く伝えて、先生の手がけたほかの製品にも興味をもってもらえたらと願っています。
いい物というのは、すでに世の中にたくさんありますけれど、今はなかなか物が売れない時代です。やはり物ではなく、その考えを伝えることが重要ではないかと思っています。その伝え方の工夫も大事ですね。

 

 死蔵になってしまうことが多いなかで、アーカイブが後世にも生き続けていくという今日のお話は多くの方の参考になるのではないかと思います。貴重なお話をありがとうございました。

 

渡辺力画像 渡辺力画像

左/「国立能楽堂」の時計の図面(1984)  右/セイコーウオッチにて打ち合わせする渡辺氏と山本氏(2005)

 

 

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