日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
新井淳一
テキスタイルプランナー
インタビュー:2022年6月23日 11:30~16:30
場所:異国調菜 芭蕉、桐生市市民文化会館、大川美術館
取材先:新井リコさん、新井正直さん
インタビュアー:久保田啓子 関 康子
ライティング:関 康子
PROFILE
プロフィール
新井淳一 あらい じゅんいち
テキスタイルプランナー
1932年 群馬県、桐生市生まれ
1950年 群馬県立桐生高校卒業
1955年 新金織物工場 勤務
1966年 ㈲アルス設立
1979年 ㈱アントロジー設立
1983年 第一回毎日ファッション大賞特別賞受賞
1984年 東京・六本木に『布』(NUNO)の見世をオープン
1987年 英国王室芸術協会から王室名誉工業デザイナー(Hon. RDI)の称号受章
㈲新井クリエーションシステム設立
1992年 国際繊維学会(The Textile Institute)からデザインメダル受賞
2003年 英国国立ロンドン大学から名誉博士号授与
2011年 英国王立美術大学(Royal College of Art)から名誉博士号授与
2014年 文化庁長官賞受賞
2017年 逝去
その他の活動
大塚テキスタイルデザイン専門学校、多摩美術大学、中国人民大学(北京)、清華大学(北京)、香港理工大学等で教鞭を執る
Description
概要
二次元から三次元へ。布の次元を根本から変えた新井淳一が、テキスタイル、ファッションデザイン界に与えた影響は計り知れない。その生きざまは、まさに新井の座右の銘である天衣無縫、縦横無尽。言葉通りその情熱は新しい布づくりにに向けられた。特に原料となる糸、布の織り方や編み方、更にできた布の加工方法の探求である。もうひとつのこだわりが、アーティストではない、デザイナーでもない、アルチザンでもない、テキスタイルプランナーという立ち位置である。生産設備やブランドに縛られることなく、その都度最適な技術者や生産者と協働しながら、見たことのない「織物」を発明して見せた。そんな彼を人々は「ドリーム・ウィバー(夢織人)」「布の魔術師」「トライマン」「桐生生まれの世界人」などと呼ぶ。
同世代のデザイナーの多くがそうであったように、新井の布づくりは日本経済の高度成長、日本のファッション、デザインのグローバル化と歩調を合わせていた。1960から70年代のファッション界では、高田賢三、三宅一生、山本寛斎、川久保玲、山本耀司ら日本人デザイナーが、欧米中心だった世界に大きな波紋を起こしていた。同じ頃にアジア、中南米、アフリカなどの多様な布と出会った新井は、三宅、山本(寛斎)、川久保らと協働しながらテキスタイルの世界においても新しい風を吹き込んでいった。
桐生生まれの夢織人の姿勢は生涯変わらなかった。活躍の時期に合わせてアルス、アントロジー、新井クリエーションシステムという拠点を設立し、その時々にフィットする仕事環境を築きつつ布の可能性を探求し続けた。新井は文筆家、教育者としても大きな実績を残している。その一枚の布のなかには、彼が生み出した最先端の技術が、美しい詩が、布への知識が、人育ての芽が幾重にも織り込まれているのだ。
今回は桐生に、妻であり画家である新井リコさん、義息子で新井の晩年を支え、現在はその活動を継承し、アーカイブ作業にあたる新井正直さんを訪ね、さらに所縁の場所を案内ただきながらの取材となった。
新井の貴重な作品や資料の大半は、2019年の火事で失われてしまった。しかし、世界中の美術館に収蔵されている作品、実際に彼と仕事を共にした人々を通して、その大きな仕事を振り返ることは可能だ
Masterpiece
主な仕事
(以下は新井淳一が開発した技術・技巧によって生まれた布)
パピリオ(1958年特許出願、1963年取得/カット織物/米国VANのコート地、年20万ヤード輸出)
ミラクレット(1965年頃開発/特許取得/ラメ織物のアルミ溶解捺染技法)
龍模様のショール(1979年頃製造/オパール加工/山本寛斎のために制作)
縮絨加工布「朝鮮人参」(1981年製造/トリコット編紐糸とウールの織物を縮絨加工)
絞りメルトオフ加工(1982年頃開発)
ジャカード織「布目柄」(1983年頃製造)
ジャカード織「籠織」(1982年製造/綿糸とトリコット編紐糸の二重織)
蜘蛛の巣柄のレース(1984年製造ラッセルレース編、シルクショールも制作)
パネル柄のスカート地(1982年頃製造/ウェスト部分に伸縮糸を織り込む/三宅一生氏のために制作)
メタライズド・ウール(1990年開発/ラメ糸とウールの織物/国際羊毛事務局との協働制作)
クラッシュ・プリーツ(1993年製造/プリーツ加工したラメ織物に転写捺染)
主な展覧会
「現代織物」展(クーパーヒューイット国立デザイン博物館 1990 ニューヨーク)、「Junichi Arai Textile Exhibition」(トロント装飾美術館 1992)、「モノクローム 新井淳一・リコ 二人展」(カリフォルニア大学デイビス校 1997)、「想像の布 新井淳一とその仲間たち」展(奈良元興寺 1998)、「Contemporary Japanese Textile」展(ニューヨーク近代美術館 1998)、「新井淳一の布」展(英国ハリス美術館 2002)、「新井淳一-進化する布」展(群馬県立近代美術館 2005)、「新井淳一の布・五十年の軌跡」展(清華大学 2010 北京)、「伝統と創造/新井淳一」展(東京オペラシティギャラリー他巡回 2013~14)、「布衣再造 新井淳一芸術」展 (湖北美術館 2016-2017 武漢)、「Self-organization/Junichi Arai’s Textile Anthology」展(香港理工大学 2017-2018)、「テキスタイルプランナー新井淳一の仕事」展(大川美術館 2020)
Interview
インタビュー
新井のテキスタイルは一種の発明、
世界中どこにもない
火事で失われた作品と資料
ー 2019年のご自宅の火事で、新井淳一さんの作品や布サンプル、資料が焼失したと聞いています。そのような状況ではありますが、新井さんのアーカイブについてお話を伺いたく。
正直 火事は2019年5月14日夕方に発生して燃え続け、零時すぎにようやく消えました。作品はもちろん、布のハンガーサンプル、世界中から集めた民族衣装類、本人やスタッフが書き留めていた開発データやメモ、写真や映像記録、義母リコがまとめていた新聞や雑誌のスクラップ、膨大な蔵書などが燃えてしまいました。義父の死後、妻(淳一の長女)と私が少しずつ整理を始めていた矢先に起きた火事でした。
ー 焼失したものの貴重さを思うと残念でなりません。原因は何だったのですか?
リコ 漏電でした。火事があった日は落雷をともなう大雨が降り、屋根から雨水が入って電線から漏電して発火したそうです。
正直 出火元の部屋に火柱が見え、消そうと思ってドアを開けようとしましたが開かず、義母を外に連れ出すのがやっとでした。
ー 本当に大変でしたね。ということは、新井さんの作品や資料はすべて焼失してしまったのですか?
正直 不幸中の幸いで、大川美術館が義父の亡くなる直前の2017年に大作4点、翌2018年に118点を収蔵してくださいました。多摩美術大学名誉教授のわたなべひろこ先生のご支援と桐生市や商工会議所、美術館の関係者のみな様のご尽力のお陰です。ただ、公的機関である美術館に収めるには審査が必要だったため、市民文化会館の大ホールの舞台に4点を吊り下げて見ていただきました。しかし、その日義父は容態が悪くなり、緊急入院します。その頃、既に体調を崩していて、何度も病院へ行って点滴をしてもらっていました。
リコ その夜、正直が病室に来て、審査は高評価だったと新井に報告をしてくれました。ひとつの仕事が済んだことで安心したのか、二日後、新井は亡くなりました。
ー 4点は新井さんご自身が選ばれたのですね。
正直 はい、体調がすぐれないなか自宅隣の倉庫に行って自身で選びました。その4点はイギリスのハリス美術館の展覧会場のために制作した巨大な幔幕(暖簾のような作品)です。
ー 2018年に収蔵された118点はどんな作品ですか?
正直 義父は2017年9月に亡くなりましたが、2016年から18年にかけて自ら選んだ118点の作品が武漢の湖北美術館から香港理工大学に巡回していました。それらが日本に戻ってきて大川美術館に収蔵されたのです。義父が最後まで手元に残したものでした。
ー 新井さんが選定されたのであればコンプリートコレクションですね。他にはどのような物がありますか?
リコ 足利市立美術館には新井が収集したアフリカなどの仮面があります。
正直 他にも、ニューヨーク近代美術館、クーパーヒューイット国立デザイン博物館、シカゴ美術館、ビクトリア&アルバート美術館、パワーハウス美術館、湖北美術館など、欧米、オーストラリア、中国などの美術館にパーマネントコレクションされています。
ー 現在、正直さんが新井さんの作品や記録の整理をされているそうですね?
正直 私は1982年から2014年まで群馬県繊維工業試験場に勤務、製品の試験や開発研究などを通して地元の繊維企業に対する技術的な支援を行っていました。仕事を通して義父と出会い、さまざまな場面に立ち会ってきました。試験場を辞めてからは、義父と始めたメタリックスリット糸を使った織物などの開発に取り組んでいます。死後は妻と共に「新井淳一記念工房」の名前で義父の制作活動を継承しつつ、生前の創作活動や実績の調査研究、取材や展覧会の対応、広報活動を担っています。
ー 火事で多くを焼失したことは残念ですが、ぜひとも新井さんの業績を後世に伝えていただきたいと思います。
布づくりの探求
ー 新井さんの活動について伺いたく。新井さんが布づくりに携わるきっかけは何だったのでしょうか?
リコ 新井は桐生の織物業を営む家に生まれ、織機の音を聞き、布に包まれて育ち、女工さんたちと生活をともにするなかで、自然と布をつくるようになっていた。けれどもそこに至る道のりは順当だったわけではありません。戦争や災害、家業への反発、進学や就職、友人や先覚との出会いや別れ、本当にいろいろな経験を得て「布」にたどり着いたのだと思います。
生まれたときから、跡取りとして周りからも期待されていました。本人は小さい頃から読書が大好きで小学生のときには図書館の本を読み漁っていたそうです。父母の影響からクラシック音楽にも親しんでいました。そんな環境に育って、いろんな知識や発想を蓄積していたのだと思います。文章を書くことも好きだったし、上手でした。生涯、たくさんのエッセイやコラムを書き続けました。
正直 義父は実家がキャサリン台風(1947)の被害にあって大学進学を諦め、人形劇団や同人誌の活動を経て本格的に織物業に踏み込みます。20代で父親の会社・新金織物工場の社員として働きますが、34歳のときに自分で開発した捺染技法「ミラクレット」の失敗で父の会社を倒産させたため、「アルス(ARS)」を立ち上げます。以後、自分の企画した布を外部委託して生産する方式に転換します。一方、東レの嘱託社員としてメキシコに滞在して技術指導したのを契機に、東欧、東南アジア、インドに赴くなど、世界各地の民族衣装と出会い、手づくりの布たちの素朴な美しさに魅了されます。
40代にはその人脈から山本寛斎、ビギ、三宅一生、川久保玲といったデザイナーたちに布を提供するようになり、47歳で満を持して「アントロジー」を創設します。アントロジーとはフランス語で、「詞華集」や「傑作集」などと訳され、古代ギリシャ語の「花」と「集める」を合わせた言葉が語源となっているようです。歌や詩を集めて編む……美しい言葉だと思います。
また独自の肩書「テキスタイルプランナー」にもこだわりました。自社の生産設備を持たず、企画した織物を地元や周辺地域の分業化した工場や職人に委託して生産しました。これに関わる人たちの力を合わせることが大事で、自らの役目はその旗を振ることと決め、「テキスタイルプランナー」を名乗ります。
ー 新井さんの布のなかで、印象的なものは何ですか?
正直 たくさんありすぎて困ってしまうと言うか、とにかく多様なものをつくっています。私が印象に残っているのは、80年代に開発したウエスト部分に伸縮性をもたせたスカート地です。ウエストの部分に高伸縮性のポリウレタン糸を織り込み、その生地をスカートの長さで切り離すと台形になります。それを二枚重ねて脇を縫い合せるとスカートができます。画期的なアイデアであり、大切な布を裁ち落として無駄にしたくないという気持ちもこめられていたと思います。
リコ 新井はさまざまな技術や織物を開発して、40件近い特許をとりましたがビジネスで活かせたのはごくわずかです。本人はお金儲けにはそれほど興味がなかったし、自分の功績が特許というかたちで残ることに喜びを感じていました。
正直 義父は織物生産のためにアルス、アントロジー、新井クリエーションシステムという会社を経営しました。けれども、創造への情熱が先行するあまり経営は上手くゆかず、利益を得ることができませんでした。先述のスカートは、後に技術を真似た人たちによって量産されましたが、義父には何のリターンもなかったのです。
ー 新井さんが新しい布を発想するきっかけは何だったのでしょうか? 例えば、新しい糸があるから、新しい技術ができたからといったことですか?
リコ こんな新しい糸ができたら何かつくってみてくださいと、持ち込まれる話が多かった。新井は人の繋がりには恵まれていました。相互依存ですね。例えば、京都に尾池工業(当時の尾池商店)という、現在はフィルムやコーティング技術を扱う会社がありますが、以前は金糸メーカーでした。尾池さんは見本の糸を持って桐生によく来ていて、新井ともよく協働していました。そのなかで画期的だったのは東レとデュポンが共同開発した薄いフィルムに尾池さん独自のメッキ加工を施し、それを細く割いてつくったスリット糸です。その糸を使ってキラキラと輝く広幅の織物ができるようになったのです。こうした新井の作品を展示するための資料館を尾池工業の本社内に開設するというお話もありました。
正直 私は義父の指示でその資料館に収める作品の整理を始めており、その足跡をまとめるために顕微鏡を使って一つひとつの織物を観察、分析して、技術や技法を記録していました。ところがその作品も全部、火事で燃えてしまいました。尾池さんにとっても、繊維業界にとっても大きな損失です。
ー 新井さんの業績は語りつくせませんが、森山明子さんの著書『新井淳一-布・万華鏡』と正直さんがまとめた「魂を包む布の創造―新井淳一の仕事」(『SPINNUTS』No.106 2020 JUNE)という記事から、その一端を知ることができますね。
リコ 『銀花』(第59号1984年秋、63号1985年秋)もよくまとまっています。
ー リコさんは画家でいらっしゃいますが、布づくりで新井さんと協働されることはありましたか?
リコ 新井の発想は、私が口出しできないほど奇抜でひらめきがありました。とても他人は入り込めませんでした。
正直 とは言っても、義母が描いた絵を原図とした布はありますよ。例えば、雑誌『オール読物』の表紙(グラジオラスの花)の絵をコンピュータに読み込んで織った、木綿強撚糸のジャカード織ショール。それから蜘蛛の巣模様のラッセルレース編もそうです。
ー 蜘蛛の巣のショールは愛用しています。
リコ ありがとうございます。蜘蛛の巣のヒントは、新井から渡された漁網のように編まれた見本切れでした。イメージを膨らませていたときに、ふと、古今和歌集の文屋朝康の「秋の野におく白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸すぢ」という和歌が浮かんできて、水滴にキラキラ輝く蜘蛛の巣を織物にしたらどんなに素敵だろうと。新井は私が描いた原画を基に古い編み機を最大限に活かして唯一無二の布にしてくれました。蜘蛛の巣のショールは綿糸と絹糸の2種類を製作しましたが、綿製の方が私のイメージに近い仕上がりです。残念ながらその編み機がなくなりました。
ー 蜘蛛の巣のショールはもうつくれないということですか?
リコ はい、その編み機を使える職人さんが亡くなったので……。新井は新しさを追うだけでなく、特に地元桐生の昔ながらの技術や織機、編み機にも目を向けて、その特徴を活かした布づくりも大切にしていたのです。職人や技術が廃れていく現実を変えたいと奮闘していました。
正直 義父も繊維業界の先達からいろいろ教わりました。まずはその教えを素直に聞き、後はそれを自分の作品に活かすためにどのように変えていくか考え続けていたのです。私は、義父がすごいなあと思うのは、理想の布のための糸づくり、糸を撚るところから始めたことです。糸の性質を理解しているからこそ、糸を自由に組み合わせて新しい布をデザインすることができた。
ー テキスタイルプランナーの真骨頂ですね。
正直 義父はテキスタイルプランナーという独自の肩書を創った人。糸ばかりでなく、桐生にある技術を全部使うことが前提で、足りないものは他所の産地まで協力を求めた。扱う布のバリエーションの多さ、知識の幅の広さは問屋さんに引けをとらなかったと思います。
ー ところで、新井さんの言葉で「自己組織化」とはどういう意味でしょうか?
正直 ウールは湿った状態で揉まれると縮絨(フェルト化)し、加工方法の違いで異なる結果を生じ、同じものをつくることが難しい。これには自然の法則が有るようで、例えば結晶ができる際に自らそうなる力を持っているように、まるで織物や糸が自ら成るようになることを指しているのだと思います。
『布』の見世オープン
ー 新井さんといえば1970年代以降、山本寛斎さん、三宅一生さん、川久保玲さんたちとの協働が知られていますが、織物をつくる人として、自らの見世『布』(NUNO)を六本木アクシスにオープンされたことは画期的でした。(以下織物の布と区別するためこの店を『布』と表記)
リコ ええ、『布』のオープンのきっかけも劇的だったのですよ。桐生にミツバという自動車関連の部品を製造する会社があります。そこに当時のアクシス社長だった石橋寛さんとAXIS誌の編集長だった林英次さんがお見えになりました。石橋さんはブリヂストンの仕事もなさっていたのでミツバを訪問したのでしょう。そこでミツバの社長秘書に「桐生で面白い布をつくっている人を知らないか」とお尋ねになったそうです。彼(秘書)は桐生高校の新井の後輩であり、私が学生時代に有志とともに結成した「学生美術連盟」とも縁があったことからアントロジーを紹介してくれたのです。ところがアントロジーは狭い事務所で、仕事が忙しくなり始めていてお客様をお迎えできる状況ではなく、お二人には新井がフィリピンから買ってきた小さい腰掛に座っていただきました。新井はスタッフにお二人と懇談している間は電話を取り継がないように伝えましたが、浜野安宏さんから急用の電話が入りました。その内容は、新井が第一回の毎日ファッション大賞特別賞に内定したと言うもの。浜野さんはアクシスの創設に関わった人物でありAXIS誌の初代編集長です。その電話の先に石橋さん、林さん、そして新井が居合わせたということです。こんな偶然もあって、新井はアクシスに店をつくることになりました。
ー 偶然と言えば、浜野さんはAXIS誌の創刊号で「生活におけるエレクティシズム」を特集して、その巻頭記事が洋食屋「芭蕉」の主人、小池魚心(1906-82)さんのインタビューでした。今まさに私たちはその「芭蕉」でインタビューをしており、リコさんと正直さんのご配慮に感謝いたします。
リコ 当時、浜野さんは何度かこの店にいらしていたと聞きました。
芭蕉の現在、写真(右)左壁面は棟方志巧による壁画
ー その魚心さんに新井さんも大きな影響を受けたそうですね。新井さんのエッセイ集『縦横無尽』の中に「間に合わせ文化がはびこる世相に背を向けて『芭蕉』は成立した。その演出された空間が、本物だけを熱愛した魚心さんの心に乗り移った調度が、料理が、日本のみか世界から桐生を訪れるデザイナーたちの心を打った」と書かれていますね。
リコ 魚心さんは旧ビルマの大使館で料理人をしていたという経歴の持ち主で、建築や美術など芸術全般に通じていて、世界中の民芸品も収集していました。あの棟方志巧に頼んで壁画を描いてもらったものの、しっくりこないと漆喰で塗りつぶしてしまったという人物です。その絵は魚心さんの死後に発掘されましたが、そんな独特の哲学と美意識を持った人だったのでたくさんの人から慕われていました。新井は10代の頃から私淑して、魚心さんから大きな影響を受けました。
ー 今、その「芭蕉」にいて、感無量です。そんな新井さんは以前から店を持ちたいとお考えだったのでしょうか?
リコ 新井は以前から自分たちが織った布を直接顧客に届けたい、「生産者から生育者へ」という希望をもっていました。布は水と同じで形や機能がどうにでも変化するのだから、使い手が自由に布を扱い身に着ければいい、つまり生産者は布を創り、生育者が布を育てるのだと考えてたのです。ところが従来、布製品の流通は問屋などの中継ぎに依存していたため、生産者から生育者に直接布を届けることができませんでした。
ー 東京オペラシティアートギャラリーの展覧会のビデオで、新井さんは布を「固まっていない、時になびき、光で変化し、横たわる、様々な形になる」と語っています。まさに「生産者から生育者へ」に通じるメッセージですね。
リコ 店ではなく「見世」という表現にもこだわっていました。『布』という名は新井自身が決め、『布』のロゴも何十枚も色紙に書いていました。最終的に林さんのご意見から決断したのですが、それは色紙からはみ出す勢いのある筆字で現在も使われています。店のインテリアも新井がデザインしました。粗削りの木材の柱と分厚い一枚板を組み合わせた棚は圧倒的な存在感を放ち、そこにロール状に巻いた反物を大胆にディスプレイしました。店はその年の商空間ディスプレイデザイン賞もいただきました。『布』は新井の長年の夢の結晶だったのです。
ー 新井さんは店でどのような布を売ったのですか?
リコ 綿やウール、麻、絹などの素材の、白、生成り、藍色、黒を基調とした原反を中心に、ショールやスカートなどの衣服類も扱いました。『布』は従来のテキスタイルショップの概念を大きく変え、外国からもたくさんのお客様がお見えになりました。
正直 店は1984年4月にオープンしました。これも偶然なのですが、私は火事になる前に、義父が『布』の見世のオープンに至る行動を記した1984年の手帳を保管していました。その中には開店までの日々のスケジュールやメモがぎっしり書き込まれており、貴重な資料なので大川美術館の展覧会にも展示してもらいました。残念ながら1987年のアントロジーの倒産によって、義父はわずか3年数カ月で『布』の経営からも離れることになりました。
多彩な人
ー 先ほどご案内いただいた桐生地域地場産業振興センターでは、新井さんのもうひとつの姿を知ることができました。
正直 本日はグァテマラの民族衣装を見ていただきましたが、あれは1980年代に義父を含む有志たちが協力して収集したコレクションの一部です。日本の他、アジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、中南米など世界中の約2000点を収蔵しています。これらは有志たちは桐生の繊維産業を発展させたいという熱意から、現地に行って収集したり、コレクターを通じて入手したもので、桐生の誇る宝のひとつになっています。あの展示室も有志たちの働きかけで建設されました。現在、このコレクションは年3回開催の「世界の民族衣装展」で公開されています。
産業振興センターでのグァテマラの民族衣装展、新井さんらが収集した衣服で構成
ー センターに隣接する桐生市市民文化会館(美喜仁桐生文化会館)に展示されているアート作品も、新井さんがプロデュースしたのですね。
正直 1997年にオープンした文化施設です。義父は大ホールの緞帳と館内の装飾作品3点をプロデュースしました。緞帳制作ではパリ在住の染織作家シーラ・ヒックスにデザインを依頼。桐生の機屋で織った織物に、転写捺染で着色したプレート状の布を数十枚取り付けたオリジナルの緞帳「花咲く未来」が完成しました。メインアトリウムにある作品は、イギリスの作家ピーター・コリンウッドに依頼、『STEELWEAVE1[Macrogauze3D]』という大作で、4×7.6メートルという大きさです。当時ブリヂストン宇都宮工場で、太さ8ミクロンの超極細のステンレス繊維を開発し、その用途開拓を義父に依頼しました。義父はそれを3,600本撚り合わせた糸をつくり、コリンウッド氏にその糸を使った作品を依頼しました。エントランスロビーの壁面にある作品『未来からの要請』も同様のステンレスの糸で織ったタペストリーで、新井の監修の下17人の女性作家が共作したものです。微妙に色の異なるステンレスの糸が織り込まれ、重厚な輝きを放っています。義父自身が手がけたのは小ホール入り口のドア(8枚)の二重ガラスの間に挟み込んだ作品「Mineral」です。ポリエステル・フィルムにアルミ蒸着してつくったスリット糸(ラメ糸)の薄い織物を不定形に重ね合わせ、転写捺染機で着色すると同時にプレスしてつくるオブジェです。表裏異なる色と模様で、両面から楽しむことができます。
桐生市市民文化センターの新井作品「Mineral」
ー 誰もが見られる貴重な作品ですね。大川美術館では、2020年に「テキスタイル・プランナー、新井淳一の仕事展」が開催され、コロナ禍だったにもかかわらず多くの来場者があったそうですね。
正直 展示は80年代から最晩年の作品で、三宅一生氏や川久保玲氏のために制作したもの、加藤登紀子氏の衣装になった光る布、他に義父の愛用品も展示しました。義父は大川美術館の創設者、故大川栄二さんと親しく、結果的には作品が地元桐生の美術館に収蔵されてよかったと思います。
大川美術館で開催された「新井淳一の仕事展」会場風景。右写真奥はリコさんのグラジオラスの原画を織った作品 © 大川美術館
ー 新井さんはコラムやエッセイも書かれていました。
正直 私の記憶にあるのは、旅先のホテルで朝早くから、あるいは浅草-新桐生間の特急りょうもう号の車上で原稿を書いていた義父の姿です。最初は1980年から81年に東京タイムスに33回連載のコラム「見たり、聞いたり、試したり」でした。そのひとつ『ひと耳惚れ』の記事に関心をもった加藤登紀子さんと親交が始まり、衣装の布を提供するようになったそうです。1988から96年『WWDジャパン』に148回続いた「天衣無縫」、1994年から約2年間は地元の『桐生タイムス』では50回続いた「縦横無尽」などです。自分の思いを文字にして伝えることに熱心で、手紙もマメに書いていました。
ー 新井さんは「天衣無縫」「縦横無尽」というコラムのタイトル通りの人物でした。他にも布の魔術師、ドリーム・ウィーバー、テキスタイル・フューチャリスト(布の未来派)など、たくさんの尊称で呼ばれましたね。エッセイ集『縦横無尽』の巻頭に蓑崎昭子さんがこんな言葉を添えています「まだ見ぬ布を希求して、世界各地を旅し出逢い語り合い、(略)かならず根城である桐生、伝統あるこの織物産地に戻って創造の手を弛むことなく動かし続けた、称してテキスタイルプランナー」。
正直 義父の仕事は一種の発明と言えるでしょう。しかも多種類の染織技法を対象としていました。世界中を探してもこのような仕事は無いと思います。
ー 実験と発明、発見と創造 既存の織物のイメージを一新したのですね。本日は新井さんにちなんだ場所をご案内いただき、また貴重なお話をありがとうございました。
新井淳一さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
新井淳一さんのデザインアーカイブについては、
NPO法人建築思考プラットフォームのウェブサイトからお問い合わせください。