日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
浅葉克己
グラフィックデザイナー、アートディレクター
インタビュー: 2018年6月19日16:00~17:30
取材場所:浅葉克己デザイン室
取材先:浅葉克己さん
インタビュアー:関 康子、石黒知子
ライティング:石黒知子
PROFILE
プロフィール
浅葉克己 あさば かつみ
グラフィックデザイナー、アートディレクター
1940年 神奈川県生まれ
1958年 神奈川県立神奈川工業高等学校図案科卒業
同年、百貨店松喜屋宣伝部に入社
1959年 桑沢デザイン研究所リビングデザイン基礎コースで学ぶ
1960年 佐藤敬之輔タイポグラフィ研究所に入所。
5年間タイポグラフィ、文字設計を学ぶ
1964年 ライトパブリシティ入社
1975年 浅葉克己デザイン室設立
1987年 東京タイプディレクターズクラブ(TDC)設立
1996年 映画「写楽」第19回日本アカデミー賞最優秀美術賞授賞
(美術監督として)
2002年 紫綬褒章受章
2008年 「祈りの痕跡。」展開催
同展空間デザインと出品作「浅葉克己日記」で
2度目の東京ADC賞グランプリ受賞
2011年 桑沢デザイン研究所第10代所長就任
2013年 旭日小綬章受章
Description
概要
浅葉克己はアートディレクションとタイポグラフィという両軸でグラフィック界を牽引してきた稀有な存在である。アートディレションは組み合わせの仕事であると語る浅葉は、その飽くなき好奇心と鋭い嗅覚で、面白いものをいち早く見つけ、人々にあっといわせる広告やデザインを数多く世に送りだしてきた。西武百貨店「おいしい生活」ではウッディ・アレンを起用し、サントリーの「夢街道」では中国のシルクロードでの広告撮影を当時の日本で初めて実現させた。日清カップヌードルではアーノルド・シュワルツェネッガーにやかんを持たせた。
実は幼少の頃は、ソール・スタインバーグのようなイラストレーターになることを夢見ていたという。そんな彼が文字の世界に深く入ったのは、レタリングの大家・佐藤敬之輔と出会ったことがきっかけだった。佐藤は会うなり「絵は五百年しか残らない。文字は千年残る」と言い、タイポグラフィの奥深さを熱心に伝えた。それから師と仰ぎ5年間、文字設計から世界のタイポグラフィの系譜まで、文字に関するありとあらゆることを学んだ。1ミリに10本の線を烏口で引くレタリングの特訓をしたのもこの頃である。佐藤は研究者であったがデザイン出身ではなく、自身の理論を具現化する術はもち得ていなかった。浅葉は師の研究成果を具体的な形に落とし込む職人として力を発揮し、それがタイポグラファーとしての才能を開花させた。文字の世界への興味は、現存する象形文字のトンパ文字と出会ったことで加速し、50歳を過ぎてから書道家の石川九楊に弟子入りして楷書を学んだ。
デザインを生業にしてから60余年が過ぎたが、今も創造の世界への意欲は衰え知らず。「日課」はその表われといえるだろう。毎日日記を書き、「一日一圖」として文字やマークを必ず一つ考えるようにしている。さらに筆を持ち、毎朝、臨書する。挑むのは中国・西安の大雁塔に収められている玄奘三蔵法師の書で、心を静めて楷書に臨むと、さまざまな思考が頭を巡り、イメージも沸いてくるという。
かつては寝ずに24時間活動していると言われたほど、エネルギッシュ。たくさんの本を読み、手業を含めて肉体を鍛錬し、そうして集めた情報を「血肉化」することが自身のデザインの基盤となると考えている。
Masterpiece
代表作
広告、ポスターなど
キューピーマヨネーズ「野菜シリーズ」キューピーマヨネーズ (1974)、
サントリーオールド「夢街道」サントリー (1980)、西武百貨店 (1981)、
西武百貨店「おいしい生活」西武百貨店 (1982)、
アリナミンA25「いやはや、魚人だ」武田薬品 (1986)、
日清カップヌードル「シュワルツェネッガー、食べる。カップヌードル。」 (1989)、
Typography in Asia展ポスター「A View from Tokyo」 (1990)、
自主制作ポスター「アジア22の文字」東京TDC「熱いアジアと89人のタイポディレクター」展 (1991)、
映画「写楽」美術監督、ポスター 松竹 (1994)、長野オリンピック公式ポスター (1998)、
コンサート告知ポスター「乾坤価千金。」林 英哲 meets 山下洋輔 (2003)、
「WATER FOR LIFE/コップ一杯の水」日本グラフィックデザイナー協会 (2005)、
「ミサワ デザインバウハウス」ミサワホーム (2009)、「生き続ける墨と書」台湾・妙法自然展 (2011)、中嶋敦『文字禍』特装本装丁 市原湖畔美術館(2015)、他多数
ロゴマーク
横浜美術館 (1977)、民主党 (1998)、STOP AIDS (1992) 、
凸版印刷「血曼荼羅プロジェクト」 (2002)、132 5. ISSEY MIYAKE・IN-EI ISSEY MIYAKE (2010)、
GOOD GOODS ISSEY MIYAKE (2018)、他多数
著書
『世界のグラフィックデザインシリーズ 18 浅葉克己』gggBooks (1995)、
『生きる力をくださいトンパ。』KKベストセラーズ (2002)、
『地球文字探険家』二玄社 (2004)、
『トンパのアサバイブル』宣伝会議 (2008)、
『浅葉克己デザイン日記 2002-2014』グラフィック社 (2015) 、他多数
展覧会
「七つの顔のアサバ」展ギンザ・グラフィック・ギャラリー(2005)、
「祈りの痕跡。」展21_21 DESIGN SIGHT(2008)、
浅葉克己のタイポグラフィ展「ASABA’S TYPOGRAPHY.」ギンザ・グラフィック・ギャラリー(2015)、
浅葉克己個展「アサバの血肉化」京都dddギャラリー(2016)、
浅葉克己個展とディーン・プール氏制作「ASABA卓球台」の発表会 ニュージランド(2018)、他多数
Interview
インタビュー
タイポグラフィ美術館をつくりたい。
アーカイブにはディレクションが大事です。
版下は痕跡、すべて保管している
— 2016年に、DNP文化振興財団の北沢永志さんをインタビューさせていただき、浅葉さんのポスター約1300点が前年に寄贈されたと伺いました。どのような経緯だったのでしょうか。
浅葉 2015年にDNP大日本印刷のギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)でタイポグラフィ展「ASABA’S TYPOGRAPHY.」を開催しました。 キャッチコピーが「デザイン生活60年、卓球生活40年、書道生活20年」。これまでアートディレクター、グラフィックデザイナーと名乗ってきましたが、軸にあるのはタイポグラフィです。僕が背負ってきたものすべてを吐き出そうと企画しました。出品作品は、長年借りている晴海にある倉庫から探し出しました。ポスターはもとより昔の版下もすべてそこに収めており、これをきっかけにアーカイブの整理が進み、作品の一部であるポスター1300点をDNP文化振興財団に寄贈することとなりました。
— 版下が残っているとは貴重ですね。今までの聞き取り調査の中では、グラフィックデザイナーの方は保管場所の問題もありますが、印刷されたものがすべてで、そのプロセスにはこだわらないというお考えなのか、版下は捨ててしまったという方が多いのです。
浅葉 僕は版下をずっと大事にしてきています。だって仕事としてやっていることは版下屋そのものでしょ。そもそも自分の痕跡がここにあるのだから、残さなきゃいけないと思ってきました。とはいえ、仕事が済んだら倉庫に詰め込んでいただけ。作品と版下をそれぞれバラバラにまとめて保存していました。トンパ文字を書いたときのスケッチや版下も出てきました。展覧会では実物を見てもらいたかったから、この版下をもとに10のコラージュ作品をつくり、展示しました。額装していた「おいしい生活」も取り出して、ほかにも版下や紙焼き素材などを適宜カットしてコラージュしました。3カ月ぐらい徹夜状態でやりましたよ。その作品も版下も、今も倉庫で保管しています。
— そうした痕跡に触れられるというのはすばらしいことですね。今の時代はすべてコンピュータの中で進んでいるので、テクスチャーなどまったく感じられないですから。
浅葉 うん、つまんないよね。今のグラフィックはさっさと、すごいスピードでできるでしょう。それはやはり軽くなっていると感じます。表現も思考も軽い。
— 実際にその版下を再構成する作業のなかで、あらためて気付きなどありましたか。
浅葉 手を動かしたものに向き合うと、息づかいがすごいなと思います。
— タイポグラフィから広告までのデザイン活動のほか、浅葉さんは文字の研究家としても調査や収集を重ねてこられました。昨年まで日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)会長を、また現在も桑沢デザイン研究所の所長を務めるなど、多くの要職を担っていらっしゃいます。さまざまな団体に関わる本などの資料もすべて残されているのでしょうか。
浅葉 何でもとっておくので、いつも怒られています。蔵書は秘書が整理してくれているけれど、スペースがないので、どう整理すればいいかアーカイブのノウハウがあるなら教えて欲しいと言っています。活動の軌跡としては、すべて日記に書いているから時々引っ張り出して参考にしています。夜、寝る前にだいたい1時間ぐらいかけて毎日、日記を書いています。酔っ払った字で書いたときもありますよ。その書きためた日記と関連する作品を合わせて、先の展覧会のタイミングで、グラフィック社から『ASABA’S DIARY 浅葉克己デザイン日記 2002-2014』として出版しています。これもひとつのアーカイブですね。普通、日記は没後百年とかしてから出てくるものだけど、生きているうちに公表しちゃった。
— この日記を振り返ると、過去の作品を一望できますね。広告の仕事では未開の地、知られざる場所を多く訪ねていらっしゃいます。
浅葉 シルクロードを舞台としたコマーシャル撮影も日本人として初めてといっていい出会いでしたね。僻地ばかり行くので、「僻地探険家」の異名があります。これまで250の地域に行き、たくさんの少数民族にも会いました。小さな情報を得てまずロケハンに行き、面白そうだったら撮影するために再び訪ねるという方法をとっています。
あえて自分の形はつくらない
— 浅葉さんが未知なものを求めるのは、なぜでしょうか。
浅葉 生涯旅人なのでしょう。松尾芭蕉みたいなものかな。僻地では面白い発見があります。まず風習や習慣が違うということが面白い。南インドのトリパンドラは、われわれと習慣が違って「YES」の場合は首を横に振る。そんな発見が面白いのです。
— そうした驚きや発見が作品の根源にあるからでしょうか、浅葉さんの作品には、浅葉作品を端的に示すような「形」はないですね。
浅葉 そうですね、形はない。「空」(くう)です。「色即是空」なのです。
— 『般若心経』などにある言葉ですね。この世の万物は形をもつがそれは仮の姿で、本質は空であり、不変のものではない、ということですね。それは意識されてのことですか、それとも自然にそのようになったのでしょうか。
浅葉 意識的なものですね。自分の形はつくらないで、いろいろなことで展開していくという道を選びました。そのほうが面白いと思ったからです。
— だから変幻自在でいられるのですね。空にしておくための日常的な作法はありますか。
浅葉 書の臨書じゃないかな。毎朝やっています。僕は50歳を過ぎてから石川九楊さんに楷書を学び始め、20年以上が経ちました。書の歴史というものは長く、白川静先生はそれをさかのぼっていかれた。その講演会を聞き、知識の豊富さに身震いしたこともあります。講演録が残っているのでぜひ読んでみてください。白川先生は編集者でもなかなか会えないような存在でしが、じつは僕、5回お会いしているのです。NHKの番組でご一緒した時に気に入られちゃって。すばらしい甲骨文字を持っていらしたんだけど、僕が触っていたら折れたことがあった。それから中国に行くたびに探したけれど、あれほどの甲骨文字はとうとう見つけられなかった。
文字との出会い
— グラフィックデザインと文字は切っても切れないものですが、浅葉さんが文字に興味を持たれたきっかけは何だったのでしょうか。
浅葉 それはレタリングの大家である佐藤敬之輔先生に出会い、佐藤敬之輔タイポグラフィ研究所に入ったことです。僕は最初、イラストレーターになりたかったのです。県立神奈川工業高校の図案科で学び、横浜の百貨店・松喜屋の宣伝部にデザイナーとして就職していたら、ある日、宣伝部に所属する富井虎雄さん——彼は戦前の有名デザイナーで高校の先輩でもあったのですが、喫茶店に僕を連れ出した。そこに現れたのが佐藤敬之輔先生でした。進駐軍の情報部で一緒に働いていた仲間だったそうです。佐藤先生が「うちに遊びにいらっしゃい」と誘うので訪ねたら、すごかった。そこは文字の巣みたいな場所で、ビーカーが置いてあったりして、不思議な博士の怪しい研究室みたいな雰囲気がありました。佐藤先生に文字について熱く語られ、文字の世界も深いな、イラストを描きながら文字を学ぶのもいいなと思ったのがきっかけです。それから5年間、文字設計を佐藤先生のもとで学びました。松喜屋は辞めて、桑沢デザイン研究所にも入りました。青葉益輝や長友啓典は同級生で、僕は彼ら同級生にレタリングを教えていました。
— 文字というと、日本では漢字、平仮名、片仮名とありますが、浅葉さんが最初に興味をもたれたのは漢字ですか。
浅葉 平仮名なんです。平仮名を書いていたら佐藤先生に「うまいなぁ」と驚かれたこともあります。それで書道を習いにいこうと思い、横浜高島屋でやっていた町春草さんの塾にも通いました。それは1年で辞めてしまい使っていた硯も捨ててしまったのですけれど、90年代になってから展覧会で石川九楊さんを知り、再び学び始めたのです。
— 習う前から才を発揮されていたわけですが、小さい頃から文字に親しんでいたからですか。
浅葉 今思うと、金沢文庫の影響ですね。僕は神奈川県の金沢文庫に生まれたのですが、金沢文庫というのは鎌倉時代の国会図書館で、国宝や重要文化財を管理しています。隣接した称名寺は金沢流北条氏の菩提寺で、僕は子どもの頃からそこを遊び場にしていました。日蓮の書や山門にあった運慶・湛慶の彫刻などを普段から見て育ったのです。朝起きて、運慶・湛慶の彫刻の真ん中を陣地にして、その迫力に臆しながらも「これに勝つぞ」って見ていた。小学校で写生に行っても、毎日遊び知り尽くした場だったから、どこを描けばいいかわかっていました。紙一枚もらってパパッと描くと、先生から「君、うまいな」と褒められて。そんなことから絵描きになりたいと思い始めた。ちなみにうちの家系は先祖代々ずっと金沢文庫で、どうやら北条家の書記を務めていたようです。
— その先祖からのDNAが今につながっているのかもしれませんね。トンパ文字(ナシ族の象形文字)とはどのように出会われたのでしょうか。
浅葉 1990年代にパリでふらっと立ち寄った書店で、和書の『世界の文字をたずねて』という本に目が留まったのです。京都で印刷会社を営む中西亮(ルビあきら)さんが世界中で集めた文字が収録されていました。中西さんは108の国を訪ね歩き、失われつつある文字を生涯かけて集めた収集家です。僕は1987年に89人の仲間と東京タイプディレクターズクラブ(TDC)を立ち上げたあとで、この本から文字への興味がさらに掻き立てられました。中西さんが集めた文字を見に京都のご自宅に伺い、保管されていた資料をお借りしたこともあります(現在、中西コレクションは国立民族学博物館に収蔵されている)。アジアの代表的な22の文字を使った「アジア22の文字」という作品は、その資料をもとにつくりました。
次はトンパ文字をテーマにしたいと考え、杉浦康平さんに誰が第一人者かと尋ねたら、西田龍雄先生だと教えてくれたのです。西田先生は当時、京都大学の図書館長で、西夏文字の解読者として著名な研究者でした。中西さんとも旧知の仲だったので、口説き落として中西さんに旅の計画をお願いし、西田先生と中西さんを含む6名のグループで17日間、ナシ族のトンパ文字を探しに中国雲南省麗江に行ったのです。文字を探すのはスパイ行為にあたると言われ、「少数民族友好団」という名前に変えました。昆明からクルマで移動し、大理を経て丸二日かけてようやく麗江に到着するという長旅です。経典を書き読む人をトンパと呼びますが、僕らは老(ラオ)トンパに話を聞き、経典を入手しました。それから17年間で5回麗江を訪ね、研究を進めてきました。文字は人間が発明したものですが、今、どんどん失われているので、調査・研究は重要なことなのです。
— 文字のつくりかたで民族の思考もわかります。
浅葉 そうですね、日本でいえば江戸文字がユニークです。あれは民衆がつくった文字です。書道家は否定しているけれど、面白いですね。歌舞伎の看板や、寄席文字、相撲字、千社札の籠文字とか。浄瑠璃の文字なんて三味線の音からできているといいます。時々、地方の古本屋でそういう資料も探し出しています。
— そうして集められたトンパ文字を含めたコレクションは本当に貴重ですね。同様に取材で行かれたアフリカなどの秘境の写真も得難い資料だと思います。
浅葉 貴重なもので言うならば、パノンカメラ商工が1964年に製造したワイドラックスカメラもそうでしょう。これで撮り続けて55年になります。日本製で、僕は前回の東京五輪で買いました。今では国内に数台しか残されていません。そのほか、文章も直筆で書いているので、原稿も残しています。
これからのアーカイブ構想
— 2011年に桑沢デザイン研究所の第10代所長に就任されました。桑沢デザイン研究所、あるいは同じ桑沢学園の東京造形大学ではアーカイブに関する動きは何かあるのでしょうか。
浅葉 今、たしかに全国的にアーカイブが注目されていますよね。先般も九州産業大学から予算が取れたので20点ポスター作品を送って下さいと言われました。この産業大学とは、GCP(Goo Choki Par)というクリエイターのメンバーの中Chokiの親御さんが教授で、そのご縁で依頼を受けました。ポスターはそのほか富山県美術館にも収蔵されています。桑沢学園に関しては、桑沢デザイン研究所で創立者である桑澤洋子さんに関するアーカイブは進めています。桑沢デザイン研究所はバウハウスをモデルとして発足しました。デザインの原動力を培うことを教育理念としています。バウハウスの精神を受け継ぐ学校は世界各地で誕生しましたが、主な学校としてはアメリカ・ノースカロライナのブラック・マウンテン・カレッジ、シカゴのニュー・バウハウス、そして日本の桑沢デザイン研究所の3校と言われ、現在では前2校はすでになく、桑沢デザイン研究所のみとなってしまいました。桑沢デザイン研究所では今、毎年学生をバウハウスに行かせています。バウハウスは宿泊できるようになっており、建築と演劇の学校もあります。見学ツアーのようなものですが、学生が現場を見るのはよい体験となります。BAUHAUSのロゴの下に学生を立たせて、写真を撮るよう勧めているんです。「ロゴの下に立てば、天からデザインが降りてくる」と言ってね。
— それもバウハウスから現在へと続くアーカイブ活動ですね。日本では、日本デザイン団体協議会D-8などもアーカイブに関する調査や働きかけを始めていますが、浅葉さんはどのようにお考えですか?
浅葉 本当はタイポグラフィ美術館をつくりたいと思っています。東京TDCを設立して30年経ちましたし、50年続く日本タイポグラフィ協会もある。印刷物や受賞作をいつでも見られるようにしたい。それに加え、これまで僕が探究してきた文字に対する知識を残したいと思っています。白川先生は中国では大きな尊敬を集めていますが、それは中国でもわからなかったような漢字や文字への造詣の深さゆえです。香港や中国のデザイナーの人たちが僕に着目しているのもそこで、書もやっているデザイナーがあまりいないから興味をもたれているのです。実際に、アラン・チャン(陳幼堅)にアーカイブしたいと声を掛けられたこともあります。彼はギャラリーを持っています。昨年、凸版印刷との印刷実験で来日しました。凸版印刷といえば、金剛峯寺所蔵の重要文化財「両界大曼荼羅(通称「血曼荼羅」)」を3億円投じて復元再生しました。あの技術は日本だけのものですし、残していく、アーカイブするための手法のひとつといえます。凸版印刷はミュージアムもありますし、調査するのもよいのではないでしょうか。
— お話を伺っていると、浅葉さんにとって、生きることイコール表現なのですね。仕事と思ったらできないようなことばかりです。あふれ出るエネルギーや想像力を、そのままアーカイブとして残すならば、この事務所を使うしかないと思えてきます。
浅葉 この建物はアルド・ロッシが設計し、内田繁・三橋いく代さんが内装を手がけました。最初は卓球台を真ん中に置いていました。
— アーカイブに関しては、みなさん興味はあるものの、作家ご本人が亡くなられると、整理はできても方向性を定められず難航してしまうケースが多いのです。
浅葉 ディレクションは大事かもしれないですね。僕も具体的にやらなきゃね。
— 浅葉さんのような方が声をあげることが、アーカイブ活動を後押しすることにつながると思います。本日は、いろいろと興味深いお話をありがとうございました。
文責:
浅葉克己さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
DNP文化振興財団 http://www.dnp.co.jp/foundation/
九州産業大学 https://www.kyusan-u.ac.jp/
その他
富山県立近代美術館 ポスター「おいしい生活」、武蔵野美術大学図書館 ポスター「長野オリンピック」、三宅一生デザイン文化財団 掛け軸「一、二、三」、美濃和紙の里会館(岐阜県) 掛け軸「三、四、五」、新潟県立近代美術館 ポスター「ミサワ デザイン 2009 バウハウス」、アドミュージアム東京 ポスター「ミサワ デザイン 2009 バウハウス」、防府天満宮(山口県) 石碑「LOVE神社」、新田神社(大田区) 石碑「LOVE神社」「石の卓球台」青山石材店(愛媛県) 石碑「石の卓球台」、角田浜(新潟県) 石碑「ヒエログリフ」、ベルリン バウハウス資料館 ポスター「ミサワ デザイン 2010 バウハウス」、台湾 福田繁雄設計芸術館 ポスター「亀倉賞受賞記念展」「浅葉克己とミサワバウハウスポスター展」「天國と地獄」