日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
粟辻 博
テキスタイルデザイナー
インタビュー実施日:2016年10月28日 11:00~13:30
場所:粟辻博・早重さん自宅
インタビュイー:粟辻早重さん
インタビュアー:久保田啓子、関康子
ライティング:関康子
PROFILE
プロフィール
粟辻 博 あわつじ ひろし
テキスタイルデザイナー
1929年 京都市生まれ。
1950年 京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)卒業、
鐘紡紡績(現クラシエ)入社、意匠課配属。
1953年 活動拠点を東京に移転。
1958年 粟辻博デザイン室設立。
1963年 フジエテキスタイルの仕事を開始。
1988年 デザインハウス・アワをオープン。多摩美術大学教授就任。
1995年 死去。
Description
説明
京都の西陣生まれの粟辻博にとって、テキスタイルはもっとも身近な創造の対象だったのだろう。
戦後、1950年~60年代、目覚ましい経済発展を遂げた日本では公団や民間を中心に大量に住宅が供給され、各家庭に三種の神器(洗濯機、掃除機、白黒テレビ)など、さまざまな製品が納まっていった。しかし人々の生活空間のクオリティへのこだわりは薄く、空間に大きな面積を占めるカーテンやのれんなどのテキスタイルやファブリックが注目されることはなかった。
そんななか、関西から東京に拠点を移した粟辻は、長期にわたる欧米旅行でモダンリビングを体感し、モダンデザインに刺激を受け、日本ならではのテキスタイルデザイン、インテリアテキスタイルの世界を築いていく。その活動や作品はテキスタイルデザイン界に革命を起こし、日本人が今まで目にしたことなかったファブリック、それらがもたらすモダンで洗練された生活空間を体現してみせたのだ。
粟辻の生涯を通してもっとも知られた仕事は、フジエテキスタイルとのコラボレーションによって生まれた一連の製品、特に「ハートアート」ブランドとして一世を風靡した作品群だ。それらは従来のテキスタイルデザインと違って、シンプルでモダン、シャープな印象を与えている。同時にロールブラインドの普及、欧米では当たり前である同じテキスタイルを使ったカーテンから椅子の張地、クッションや小物に至るファブリック製品の開発などを通して、テキスタイルを空間デザインの重要な要素にまで高めた。
また、亀倉雄策、田中一光らのグラフィックデザイナー、宮脇壇、東孝光、石井和紘ら建築家、内田繁、三橋いくよ、近藤康夫らインテリアデザイナー、藤塚光政ら写真家など、その幅広い交友関係と人望の高さは粟辻の人柄をしのばせる。妻の早重も人形作家、料理家として活躍している。
Masterpiece
代表作
オーガスト(1973)、デンキュウ(1980)、ジテンシャ(1982)、ナミ(1986)、
ヤケイ、ヒビキ、セキ、カサネ(1988)、
大正海上火災本社ビル レセプションホール、タピストリー(1984)、
ヒロシマターミナルホテルロビー、タピストリー(1987)、
デザインハウス・アワの製品(1988~)他
<著書>
『粟辻博のテキスタイルデザイン』(1990 講談社)
Interview
インタビュー
アーカイブは京都国立近代美術館に寄贈
関 粟辻博さんの作品や資料は、京都国立近代美術館に寄贈されたと聞きました。
粟辻 はいそうです。粟辻が亡くなったのは1995年、その5年後の2000年に地元の京都国立近代美術館で「粟辻博展:色彩と空間のテキスタイル」と題した回顧展が開催されました。その準備もあって、私と、現在デザイナーとして活動している2人の娘で作品や資料の整理を行ったのですが、そのまま美術館に寄贈しました。故人の作品や資料を家族が管理していくことはとても骨の折れることです。私や娘たちが元気なうちはどうにかなっても、孫の世代までその責任を負わせることは酷なことだと思います。そういう意味でも、公立の美術館で所蔵してもらえることはとてもありがたいと思います。
関 寄贈されていないものもあるのですか?
粟辻 粟辻は、1954年に東京に移って間もない頃、油絵の制作に没頭していた時期がありました。二科展などにも出品して、55年、56年、57年と連続して入選していましたが、それらの作品、またテキスタイルの原画などで寄贈していないものもあります。それらは自宅で保管しています。
関 粟辻さんのデザインアーカイブというと具体的には、どのような物になりますか?
粟辻 まず作品。それからテキスタイルデザインの原画。また後に公共施設やホテルなどのパブリックスペースに展示するアートピースを多く手掛けていますが、それらに関するメモ、個展や展覧会に関する資料、掲載雑誌、写真、それからデザインや美術関係の書籍などがありました。
関 それから、1988年に自作の展示や製造・販売を目的に設立したデザインハウス・アワで製造したオリジナル製品なども、デザインアーカイブと言えますね。
粟辻 そうですね。粟辻のテキスタイルを使ったクッションやランチョンマット、またテキスタイルの図柄を絵付けしたカップ&ソーサーや皿などを細々ですが今でも販売しています。
関 粟辻デザイン(娘の美早、麻喜が主宰するグラフィックデザイン事務所)にお邪魔すると、お父さまから引き継がれた貴重な書籍がそのまま本棚に収まっていますし、デザインハウス・アワのカップ&ソーサーでお茶が出てきます。日常使いにはもったいないほどの美しいカップですね。早重さんは料理上手で有名ですが、ご自身でも使われますか?
粟辻 正直、料理を盛りつけることがなかなか難しいお皿です。でもなかにはお気に入りの絵柄もあって、工夫し、楽しみながら使っています。
関 デザインは使われてなんぼの物ですから、こうして日常生活で使われ続けることが、デザインアーカイブとしても理想的な在り方かもしれませんね。 粟辻邸の訪問は今日で3度目なのですが、いつ来ても早重さんのセンスの良さと、この住まいを心から愛されているという雰囲気が溢れています。「塔の家」などで知られる住宅作家の東孝光さんの設計なのですよね。 この空間が粟辻さんのテキスタイルデザインのアイデアの源泉でもあったのでしょうか?
粟辻 この家には1971年に越してきたので、45年にもなります。粟辻は住宅建築を多く残された宮脇壇さんら、何人か親しい建築家がいましたが、結局はそれまで面識のなかった東さんに自宅の設計を依頼しました。東さんの代表作で、ご自邸でもある「塔の家」にインスパイヤーされ、雑誌や本などを読んで、東さんの建築や住宅に対する考え方が好きになったようです。それに東さんは大阪の出身ですから、関西人ということでも気が合ったのかもしれませんね。私は塔の家を訪問させてもらって、建物の中央を貫く階段に小さな部屋がへばりついているような、それまで見たこともなかった家だったので、正直な気持ち、こんな家を造られた大変だわ、と思ったことを今でも覚えています。
関 でも、そんな建築家が設計したお家を上手に住みこなしていらっしゃいます。
粟辻 そうですね。当時として珍しかった大きなガラス窓、吹き抜けや中二階、キッチンと一体化したダイニングテーブルなど、ワクワクするすばらしい空間を設計してくださったと思います。実際には寒かったり、電球を取り換えるのが大変だったりします。けれども、気になる箇所は手を加え、家族や暮らしの変化に合わせて普請を施しながら、少しずつ気に入った家に育ててきました。道具も、最初のうちはしっくりこなくても、使っているうちに手に馴染んで自分だけの道具になる・・・家もそんなものだと思います。時々やってくる孫たちもこの家が大好きです。
関 この家に粟辻さんの作品を飾ったり、使用されたのですか?
黒川 不思議なのですが、そういうことは意外と少なかったと思います。 自分の作品が近くにあるのは疲れるとも言っていました。 作品を飾るよりも、リビングの大きな白のベニヤ貼りの壁面をキャンバスにして、ペンキ塗装でそれはカラフルな色をあちこちに塗って楽しませてくれましたね。
モダンリビングとインテリアテキスタイル
関 1950~60年代、日本はちょうど高度成長期であり大量の住宅が供給された時代です。それと同時に、2DK(個室2室+ダイニングキッチン)といったモダンリビングの間取りが発明されましたが、人々が家具やインテリアに興味をもつようになるにはもう少し時間が必要でした。この時期に粟辻さんはテキスタイルデザイナーとしての足固めをしていたわけですが、粟辻さんがインテリアテキスタイルに係わるきっかけは何だったのでしょうか?
粟辻 粟辻は絵がとても上手でした。京都市立美術専門学校で図案を勉強していた頃には、舞台美術のアルバイトもしていたようです。卒業後は鐘紡紡績の意匠課に入って、テキスタイルデザインの仕事をしていましたが、舞台美術をやったこともあって、平面だけでなく空間のデザインにも興味があったのだと思います。その後、拠点を東京に移してからはテキスタイルでも、服地ではなくインテリアテキスタイルを手掛けるようになりました。
久保田 粟辻さんが本格的にインテリアテキスタイルのデザインに取り組まれるようになったのは、やはりフジエテキスタイルの富士栄良治さんとの出会いからでしょうか?
粟辻 それ以前から個展を開いてデザインを発表していました。ただ、フジエテキスタイルとの出会いは、粟辻の仕事の可能性を飛躍させることになりました。1960年代当時、「モダンリビング」と言っても、実際に意識していた人はほんの一部でした。テキスタイルという言葉も珍しく、カーテンやお布団の図柄くらいの認識だったと思います。そんななかで、まだまだデザイナーとしての経験も少なかった粟辻がフジエさんとパートナーを組むことになって、試行錯誤を重ねながらインテリアテキスタイルという新しい領域を開発していったのだと思います。そんな時、1964年でしたが、粟辻と私は初めてヨーロッパからアメリカを4カ月以上かけて巡る機会に恵まれて、インテリアデザインとは、テキスタイルデザインとは、を肌で感じ、その可能性を真剣に考えることができたのです。
関 具体的にはどのようなことだったでしょうか?
粟辻 欧米ではテキスタイルだけでなく、目にするもの、手にするものすべてが魅力的でした。発想が自由で、生き生きしていて・・・。実際にデザインの楽しさに触れて、それまでのデザイン観が一変したようでした。そして何より、デザインには範囲や規制は一切なくて、やりたいことをとことんやっていいのだ!ということを肌で感じられたことでした。それ以降、粟辻は、テキスタイルデザインだからこうでなくてはならないという制約から解放されて、平面から空間へ、テキスタイルからインテリアテキスタイルへと活動領域を広げていったように思います。
関 帰国後1965年には、フジエの仕事をする傍ら、渋谷の南平台にアトリエもつくられましたね?
粟辻 はい。そこで内田繁さんや三橋いく代さんとも出会いました。粟辻はフジエテキスタイルの仕事はもちろんですが、一作家としての表現や活動もとても大切にしていました。欧米旅行の影響もあったのかもしれませんね。企業とパートナーシップを保ちながら、デザイナーとして優れたデザインや製品を生み出していく一方で、そこでは実現しづらい個人の表現やテキスタイルの可能性を探るという活動も同じくらい重要だったのだと思います。この二つをバランスさせるために、お金がないにもかかわらずアトリエを開設して、シュールームのように使ったり、展覧会を開いたり、オリジナル製品を開発したり、一デザイナー、表現者としてメッセージを発信していました。
関 それがデザインハウス・アワに繋がっていくわけですね。
粟辻 1988年には原宿の粟辻アトリエを改装して、デザインハウス・アワの拠点としました。インテリアデザインは三橋いく代さんにお願いしました。今は娘たちの粟辻デザインのオフィスになっています。
そういえば、今回、粟辻のデザインアーカイブについてインタビューしたいというお話をいただき、久しぶりに『粟辻博のテキスタイルデザイン』を手に取りました。この本は田中一光さんがレイアウトを、藤塚光政さんが写真を撮り下ろしてくださいました。巻頭文は亀倉雄策さんと石井和紘さん、論文は川床樹鑑さんがたくさんの関係者にインタビューをしてまとめてくれました。考えてみると、こうした作品集も立派なデザインアーカイブなのですね。私も久々に通読して、忘れていたことを思い出して懐かしくなりました。
関 そうですね。ご自身の作品集や著書なども重要なアーカイブとおっしゃる方も多いです。それに、粟辻さんは、美早さん、麻喜さんという2人の娘さんがデザイナーとして父の遺志を継いでおられるのではないですか? それが何よりのデザインアーカイブと言えそうです。
粟辻 はい。ただ、遺志を継ぐというよりも、2人とも自然なかたちで粟辻の影響を受けているのだと思います。今は時代も移り、デザインの在り方、デザイナーの仕事ぶりなども大きく変化してきているようですね。私たちの時代は終戦後間もなかったので日本のデザイン界は本当に何もありませんでした。けれど、人間同士の繋がりは強く、毎日のように集まっては議論をしたり、お金がなくても自分たちの考えを実現させようというエネルギーがありました。
関 最後に、粟辻さんのデザインアーカイブは京都国立近代美術館に多くが所蔵されているわけですが、今後の生かし方についてご希望はありますか?
粟辻 やはり、後進の方々に役立てていただきたいという気持ちはあります。ただ、その前にアーカイブとして整理され、保存されることが大切だと思います。アーカイブをどのように役立てていくかは、本人やその関係者の気持ちよりも、それで学びたい、役立てたいと思う人たちがいて、アーカイブが誰にでも公平に公開されることが重要なことだと思います。
関 本日は長時間ありがとうございました。
文責:関康子
粟辻博さんのデザインアーカイブ問い合わせ
粟辻デザイン http://www.awatsujidesign.com/
京都国立近代美術館 http://www.momak.go.jp/