日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
粟津 潔
グラフィックデザイナー
インタビュー:2019年7月23日 16:00~18:30
場所:KEN
取材先:粟津ケン (プロデューサー、粟津デザイン室代表、KEN主宰)
インタビュアー:関康子
ライティング:関康子
PROFILE
プロフィール
粟津 潔 あわづ きよし
グラフィックデザイナー
1929年 東京生まれ。
1945年 独学で絵、デザインを学ぶ
1955年 日本宣伝美術会展「日宣美賞」を受賞。
本格的にデザインの道へ踏み込む。
後に粟津デザイン研究室を設立
1960年 建築家、デザイナーたちと「メタボリズム」を結成
1967年 大阪万国博覧会、EXPOランド、日本館等の基本構想を担当
1970年 第3回ワルシャワ・国際ポスター・ビエンナーレ銀賞、特別賞受賞
1977年 サンパウロ・ビエンナーレ展招待作家、
「グラフィズム3部作」を出品
1985年 つくば万博テーマ館展示、色彩計画プロデュース
1990年 紫綬褒章受章
1997~98年 ポーランド4都市の国立美術館で大回顧展
2000年 勲四等旭日小綬章、毎日デザイン賞特別賞受賞
2009年 死去
Description
前文
粟津潔は美術やデザインの専門教育を受けることなく、実践から学びデザイン界での居場所を獲得した稀有な存在だ。粟津の理解者であったグラフィックデザイナー勝井三雄(2019年8月死去)は2007年の座談会で語っている。「やっぱり彼が藝大とか教育大でデザイン教育を学ばなかったというのが彼の生涯にとって非常に大きな要素ですよね。学校の教科課程から学んだんじゃなくて、自分のフィールドに最も合った自分の人間性に合ったものだけを独学で強烈に吸収していった」。(『粟津潔、マクリヒロゲル ドキュメント・ブック』より抜粋)
粟津世代の創造の原点は戦後の焼野原だった。しかし、日本が高度成長の波に乗ったあたりから、グラフィックデザインの在り方や表現は多様化していった。和の美学とコマーシャルデザインの融合を試みた田中一光、いち早くデジタル技術に着目し表現の可能性を探った勝井三雄、日本デザインセンターの中枢にあって独自の表現を探求する永井一正、編集とアジア文化を切り口に新たな境地を切り開いた杉浦康平。そんな彼らに対して粟津は荒野に立ち続けた。そして高度成長の光に照らされることのなかった部分を見逃すことなく、グラフィズムによってメッセージを発信し続けた。
著書『デザインの発見』では、「デザイン一般の世界には、流行に乗り込む<のり馬>と、それに集まる<やじ馬>が増えました。流行に乗っていれば生活も気楽であり、充分以上に食っていけるという安心感があります。そして、安心感の上に乗ってしまう場合が多いのです」と述べている。50年前の文章だが、安心・安全が何よりも重視されてリスクを避ける現代社会を予言しているかのようだ。生涯、表現者としての「個」にこだわり、たくさんの人と関わり、たくさんの文章を書き、映像やパフォーマンスなどさまざまな創作に挑戦し、自分だけの表現を開拓してきたからこそ、粟津作品は現在も圧倒的な熱を発散している。今回は自身もクリエイターであり、粟津作品の再考を試みる子息の粟津ケンさん、金沢21世紀美術館のキュレーター高橋律子さんに粟津潔アーカイブについて伺った。
Masterpiece
代表作
ポスター「海を返せ」(1955)
雑誌『デザイン批評』 編集と表紙デザイン 風土社 (1966―1970)
ポスター「GO!1500.000/ベトナムに平和を」 市民文化連合会 (1966)
ポスター「韓国の民主化闘争を支持する緊急国際大集会」 韓国問題緊急国際会議実行委員(1976)
「グラフィズム 3部作」(1977)
「H2O EARTHMAN」(1993)
ポスター「H2 OEARTHMAN 粟津潔展」(1994)
ポスター「HIROSHIMA=NAGASAKI50“I’m here”」(1995)
三沢市寺山修司記念館、建築、展示構想 (1997)
ポスター「第9回国際デザイン・コンペティション作品募集」 財団法人国際デザイン交流協会(1999)
主な著書
『デザインの発見』 三一書房 1968
『デザインになにが出来るか』 田畑書店 1969
『粟津潔デザイン図絵』田畑書店 1970
『デザイン夜講』 筑摩書房 1974
『造型思考ノート』 河出書房新社 1975
『阿部定 昭和11年の女』 井伊多郎,穂坂久仁雄共著 田畑書店 1976
『粟津潔・作品集 全3巻 』講談社 1978-79
『ガウディ讃歌』 現代企画室 1981
『粟津潔の仕事 1949-1989』 河出書房新社 1989
『象形文字遊行 文字始源』 東京書籍 2000
『粟津潔 デザインする言葉』 フィルムアート社 2005
『不思議を眼玉に入れて 粟津潔横断的デザインの原点』 現代企画室 2006
『粟津潔 荒野のグラフィズム』 フィルムアート社 2007
『粟津潔、マクリヒロゲル 金沢21世紀美術館コレクション・カタログ』現代企画室 2012
Interview
インタビュー
デザインで「社会を変える」ことを目指していた
金沢21世紀美術館の粟津コレクション
― 金沢21世紀美術館(以下21美)の「粟津潔 デザインになにができるか」展を拝見し、あらためて粟津作品のパワーに圧倒されました。最初に21美で3000点に及ぶ粟津作品の収蔵に至る経緯をお聞きしたく。
粟津 2006年、粟津潔はすでにアルツハイマーという治らない病気に侵されていました。僕は生田(川崎市)のアトリエの倉庫に無造作にスタックされ半ば放置されていた膨大な作品や資料を総観して、彼が戦後ずっと表現してきた世界観やメッセージを社会に還元していかなければと強く感じました。その意味も含めて粟津が館長を務めていた印刷博物館内のP&Pギャラリーで「*ex-pose'06 粟津潔デザイン曼荼羅」展を博物館と共同で制作しました。開催期間中、知人を介して当時21美の館長だった蓑豊さんが展覧会に来てくださり、その日は黙って帰られたのですが、翌日作品をすべて寄贈してほしいと連絡をいただいたのです。その後、学芸課長だった不動美里さんも来られて、話が具体的に進んで行きました。粟津作品の多様さ、社会性、独自性、現代性に共鳴してくれた結果だと思います。芸術の価値を見出すのはこのような鋭い眼差しをもつ人と作品との決定的な「出会い」からだと強く感じました。
― 寄贈に際して、3000点近い作品の分類や整理はどうされたのですか?
粟津 ポスターから立体、タブローまで、細かく分類される前の状態で、4トントラックで計4回、学芸員立会いのもと美術輸送されていきました。
― その直後、2007から2008年にかけて「荒野のグラフィズム:粟津潔」展が開催されました。
粟津 寄贈した2788点の中から1750点を選んで、説明や解説を付けずにただただ隙間なく展示するという壮大な展覧会でした。不動美里さんの企画、すごい展示センスでした。それは21美として「現代とは?」という大きなテーマを「粟津潔」を通して感じ、考え、さらには日常から逸脱した「場」を来館者とともに再創造するというチャレンジであり、同時に21美のスタンスを全面的に表明するものでした。
そのため、最大の展示室がイベント会場となり、さまざまなコトが起こりました。粟津潔と多くの仕事をしてきた文芸美術評論家の針生一郎さんや中原佑介さんが粟津潔論を語り、音楽家の一柳慧さん、寒川晶子さん、林光さん、小杉武久さん、沢井一惠さん、山下洋輔さん、AYUOさん、パフォーマンスの浜田剛璽さんといった手練れアーティストが、粟津潔の描いた無数のイメージを背景にユニークなコンサートを連続的に行いました。また、映画監督の篠田正浩さんや松本俊夫さん、デザイナーでは勝井三雄さん、永井一正さん、福田繁雄さん、日比野克彦さん、図録の装幀を担当した祖父江慎さん、文化人類学者の西江雅之さんやアートプロデューサーの北川フラムさんら粟津潔と関係が深かった方々によるパフォーマンス、映画上映、ワークショップ、レクチャーなどのイベントが28件45回も開催されたのです。
本人不在のなか、粟津ワールドを発端として新たなアートを生み出す場が実現できたのは、学芸員の不動さんの芸術魂と実践力があったからです。ところが現代美術界やメディアからはピンとくるシャープな反応が多くありませんでした。針生一郎さんが言うように日本には定評主義な人が多いからかもしれませんが、だからこそ一部の人々の間ではレジェンドな展覧会として語り継がれているのだと思います。僕個人はこれをきっかけに芸術に目覚め、自分の美意識の根源に立ち返ることができました。
― 「荒野のグラフィズム」というタイトルにはどのような思いが込められていたのですか?
粟津 粟津は16歳のときに、太平洋戦争中の東京大空襲ですべてが破壊つくされた東京の下町で、義理の叔父さんを隅田川から運び出し、その死体を自ら火葬するという経験をしています。終戦後の焦土と化した荒野が原風景だったのです。彼は戦後さまざまな仕事に就きながら独学で絵を描き始めました。自身のエッセイでも語っていますが、街そのものが美術館であり、そんな街にあふれた数々のポスターや雑誌などの複製物が先生でした。こうした生い立ちが高度成長の光に照らされることのない人々や市井で生きている民衆への眼差しとなり、生涯変わらぬ創作のスタンスになったのかもしれません。「ストリート」が彼の出発点だったわけです。ところが、粟津作品の大半が、どこか敷居の高い感じが好きではないと語っていた「美術館」に所蔵されているのだから、人生何が起こるかわかりませんね。
― 展覧会後も21美では粟津コレクション、アーカイブの整備、調査研究が進められているのですね。
粟津 はい。専任のアーキビストもいらっしゃるし、アーカイブの整備は着々と進められています。粟津研究に関しては、2014年から5年かけて「粟津潔、マクリヒロゲル」というプロジェクトが実施されました。これは21美の学芸員の方々が粟津の創作や仕事を多面的に掘り起して、コレクション展の一部として展覧会に仕立てて公開するものでした。初回はパフォーマンス、2回目が視覚伝達論、3回目が建築、4回目が写真、最後は絵本がテーマで、展覧会と同時に冊子も発行されています。
― そして2019年には、企画展「粟津潔 デザインになにができるか」が開催されました。ケンさんはどのように関わられたのですか?
粟津 展覧会の企画監修です。監修という立場が今でも何だかよくわからないのですが、本展のグラフィックデザインを担当した僕がもっとも信頼する軸原ヨウスケさんと一緒に第7展示室の構想を担当しました。展覧会のコンセプト、作品の選定、展示構成はキュレーターの高橋律子さんを中心に3人で進めました。
― 今回は2回目の大きな企画展だったわけですが、「荒野のグラフィズム」との違いは?
粟津 「荒野のグラフィズム」は寄贈されたばかりの粟津ワールドを余すことなく体験してもらうことを第一に考え、1750点という圧倒的な数の作品を展示しました。展覧会としては説明不足だった部分もあるかもしれないけど、1点でも多くの作品に触れ、粟津潔というデザイナーの圧倒的なエネルギーを感じ考えてもらうことが目的でした。
今回も単なる回顧展ではなく、粟津とは何者か、彼の表現、活動は何だったのかを、2019年という現代にリアルタイムで問い直したかった。未来を想像するための展覧会であり、粟津潔を知らない若い世代に何かを感じてほしいという強い思いから、高橋さんの提案を発端に「粟津潔、デザインになにができるか」というタイトルを決めました。最初の展覧会から10年たって日本や21美を取り巻く環境も変わりました。それを踏まえて、高橋さんは膨大でカオスな作品群を再編集して展示室ごとにテーマを掲げ、言葉を引用するなどして、粟津作品に初めて出会う来館者にもメッセージが視覚伝達できる構成にまとめました。そのお蔭で一つひとつの作品に重さを感じることができます。
― ケンさんはパンフレットで「2019年、私たちはいま、『デザインになにができるか』をあらためて問わずにはいられません。優れた表現は、対峙する者の内に潜む感性や想像力を呼び覚まします。粟津潔の表現とは、まさにその無数の潜在的な想像力を、人びとの生の営み、社会的な力へと転化させる試みでもありました。創造的な可能性を追求する『場』を、観客とともに『デザイン』していくのがこの展覧会の目的である」とおっしゃっていますね。
粟津 今この時代、それはデザインだけではなく、美術や音楽も同じです。粟津は生涯を通して経済の下僕的デザインには興味がありませんでした。彼は露骨に「反体制」な作家ではないですが、「デザインとは開いてはいない扉をつぎつぎと開き、あばきだしていくことである」と言うように、そもそも資本主義社会の下僕にはなりようがない哲学と自由への信念をもっていたのです。
今回は粟津の独自性を語るために、彼の精神の一部を体現する現代作家とのコラボ―レーションを試みました。それは僕と軸原さんが任された第6室の「すてたろう元年* 民衆のイコン・秩父前衛派・韓国民衆版画」です。ここでは針生一郎が「民衆のイコン」と言った、阿部定や海亀、印鑑や胎児などの粟津作品の重要なモチーフに加え、「秩父前衛派」と「韓国民衆版画」を紹介しています。
「すてたろう元年」は「令和元年」に対してのカウンターなネーミングです。不都合は隠蔽するといった全体主義なセンスに不感症になってきている今の日本だからこそ、粟津の劇画に登場する「すてたろう」と、自分の夢に出てきたという少年「H2O EARTHMAN」をヒーローに据えました。前者は母親に殺された赤子が最後に復活するという日本の古い民話を元にしたキャラクターであり、後者は海から生まれたある種の奇形児であり、神の子でもあり、もしかしたら粟津自身を表現したものかもしれません。3メートルに及ぶEARTHMANのモニュメントを展示会のために制作し、江戸時代には被差別民のカラーだった柿渋色に塗装しました。この色は白い布に染み込んだ乾いた血の色は河原者のアイデンティティであり、歌舞伎座の緞帳にある三色のうちのひとつです。つまりこれがデザインです。それは見えない情念、消されてゆく痕跡を露出させ見えるようにする、ということでもあります。
*「すてたろう」は粟津潔が生涯で唯一発表した嬰児をモチーフとした劇画
― 「秩父前衛派」や「韓国民衆版画」は、どんな方々なのですか?
粟津 「秩父前衛派」の笹久保伸さんはきわめて非凡なギタリスト、実は世界的な音楽家です。すでに30枚以上の音楽CDを出しています。彼はペルーのアンデスの音楽を4年間滞在し習得しました。その経験が自身のアイデンティティと創作の軸足になりました。その彼は出身地である秩父の環境、神や文化の破壊をフィールドワークし、そこから発見したテーマを写真、映画、版画、パフォーマンス、インスタレーションなどさまざまな手法で作品化しています。この時代僕は彼をもっともエッジな芸術家だと思っています。近年のテーマは秩父の神の山と崇められる「武甲山」です。この山は秩父の人々にとって神聖な場所であったにもかかわらず、高度成長の陰で採石場として取り崩され今は原型をとどめていません。彼はそれを作品化し、瀬戸内国際芸術祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭などで発表しています。また粟津潔作品との共作CD本も出版しており、その中で「すてたろう組曲」*を作曲、演奏しています。4年前には僕がプロデュースし、キューバで開催された「粟津潔展 マクリヒロゲル・ハバナ」にもギタリストとして参加してもらいました。展示会場や野外での演奏をはじめ、キューバ文化庁主催によるソロ・コンサートも開いて生粋の芸術国で賞賛されました。
韓国民衆版画は、1970から80年代にかけての韓国の民主化運動とともに誕生した「民衆美術」です。木版画というダイレクトで力強い線による表現、これを「抵抗の武器」と捉え、命がけの創造活動を通して民主化運動への弾圧に抗していました。この民衆運動を日本から支えた在日朝鮮人二世、故人の梁民基(ヤン・ミンギ)さんの元にこれらの版画がありました。今回の展示は、朝鮮美術文化研究者の古川美佳さん、京都で東九条マダンの実行委員長で梁さんのご息女の梁説(ヤン・ソル)さんの2人に監修していただき、古川さんに展示作品を選定してもらいました。粟津潔もこの運動をサポートするためにポスターやイラストをデザインしており、もっと光をあてるべき重要な仕事だと思っています。2つに共通していることは、まさに粟津の「マクリヒロゲル」精神を体現していることです。
*「すてたろう」に触発され、秩父前衛派の笹久保伸と青木大輔が作曲した15の組曲
― 「マクリヒロゲル」とは?
粟津 かつて粟津は雑誌『デザイン批評』でこう言っています。「私は総ての表現分野に、その表現の境界をとりのぞくだけではなく、階級・分類・格差・芸術に現われた上昇と下昇の表現も、とりのぞいてしまいたいと決断する。それを『マクリヒロゲル』!」と。粟津はこのような行動もデザインであり、だからこそデザインは誰でもできると考えていたのではないか。また音楽も木版画も映画も「複製物」であり、複製芸術に生涯こだわった粟津潔と通じるものがあります。秩父前衛派と韓国民衆版画は僕が近年出会い、感動した「闘うアート」です。ぜひとも21美の粟津潔展という舞台で、デザインになにができるかに対する一回答として紹介したかったのです。
ところで粟津潔の交友関係は本当に広かったのですが、僕としては美術家の中村正義さんと山下菊二さんとのつながりや仕事がとても気になります。この2人は日本の近代美術史において重要な存在で、彼らの仕事はいつ対峙してもすごいエネルギーを放ってきます。両者、今こそ必要な本物の反骨精神をもった美術家ですが、彼らの重要な作品集を粟津が編集、装幀しているし、興味深い対談も残しています。またこのような機会があったら3者のコラボレーション展示を試みたいですね。
― 今回も関連イベントがありますか?
粟津 笹久保伸さん、KOJI ASANO さんをはじめ、韓国の歌手・作家のイ・ランさんとピアニスト・エッセイストの崔善愛(ルビ、チェ・ソンエ)さんのコンサート、花生けの上野雄次さんのパフォーマンスなどです。粟津潔の子どもから孫の世代のアーティストが彼のスピリットに呼応し次代につなげていきます。これもまたマクリヒロゲルです。
「社会を変える」ためのデザイン
― さて、粟津さんは建築家に混ざってメタボリズム運動に参加し、雑誌『デザイン批評』の編集長を務め、多くの著書を通して社会に発信し、勅使河原宏さんらと映像など新たな表現も探求しておられました。
粟津 粟津はデザイナー、美術家、編集者、エッセイスト、写真家、映像作家、アーティストあり、興味の対象が変わることによって変化し続けていました。制度やジャンルから自由自在にはみ出した人であり、既存の文脈では判断、理解できない多様な側面があります。特に正規の美術やデザイン教育を受けた人にとってはわかりづらい存在でしょう。針生一郎さんが「粟津は産業社会の下僕でないことをやっていた」と言ったように、戦後モダニズムが進行してデザインが経済活動の道具化するなかで、粟津はそうではないものを求めていました。生涯を通してクライアントとデザイナーという関係性を超えようとしていました。描くことに始まり、自力でデザインを学び、たくさん本を読み、多くの文章を書き、多様な人々と関わり合いながら仕事をしてきました。彼にとっては生きることがデザインでありアートでした。それは間違いないですね。
この作家が亡くなって10年。美術や音楽もそうですが、デザイン界も細かいジャンル分けや仕事の分業化が加速し、表現の幅が一段と狭まっているように感じます。つまらないですね。制度化した芸術界は可能性を殺してしまっている。しかしいつの時代もそうですが、その逆境に反発し既存の枠から飛び出す表現こそが、新しい荒野を切り開いていくのだと思います。
― 粟津作品で感じるのは、そのテーマやアイデアの源泉がとてつもなく広く深いことです。
粟津 デザインや美術の専門教育を受けていない分、発想が自由で柔軟だったのだと思います。「荒野のグラフィズム」のトークショーで永井一正さんが勝井三雄さんに対して、粟津が現代的なデザインに目覚めるきっかけは杉浦康平さんと勝井さんとの交流だったけれど、その後それぞれ作風が変わりましたねと質問しています。それに対して勝井さんは「ものの原質に戻っていく、あるいはそれを探っていくということでは共通していますが、僕の場合には、表現を形づくる原形質というか構造の面にすごく興味を持つわけです。だけど粟津さんの場合には人間への飢えのような、生の執着みたいなものがあって、僕とは対象がちがうんじゃないか」(『粟津潔、マクリヒロゲル ドキュメント・ブック』より)と応答しています。つまり、彼は自身のエッセイで「イラストレーションとは、暗い闇の現実の中へ踏み込んで、そこに人間自身の眼光を照り輝かせ、それを際立たせて表現することに他なりません」と言っていますが、人の情念のようなものをカタチにしたかったのだと思います。
― また、絵画や版画、活字など、手を使った表現、身体性を感じさせるデザインが多いですね。
粟津 当初は粟津がイラストレーションを描き、細谷厳さんたちがデザインしていた時期もあったようですが、独学してグラフィックデザイナーとして活動するようになりました。とにかく自分で手を使って表現することが好きで、時代によって亀、地図、判子、指紋といったお気に入りのモチーフをさまざまな仕事に使ったりもしていました。今だと同じモチーフでデザインしたら問題だけど、粟津はそういうことに頓着しない人でした。また印刷技術にとても興味を持っていて、木版画のアダチ版画研究所やシルク印刷のサイトウプロセスといった工房に入り浸って、職人さんたちと新しい表現や技術を研究していました。アドリブの人であり、そうあり続けるために勉強と修行を怠りませんでした。最近のグラフィックデザイナーはアートディレクター志向で自分の手で描く人は少ないですよね。それもまた時代でしょうけれども。
― 粟津さんの仕事は原水爆禁止日本協議会や韓国の民主化闘争、新劇のポスターなど、思想や社会運動に関わるものが多く、コマーシャルデザインは少ないように感じます。
粟津 そうですね。実際広告代理店からの仕事の依頼は少なかったと思います。本人が社会運動の渦中にどっぷりつかることはなかったけれど、デザインで「社会を変える」ことを目指していた時期もあったかもしれません。だからといって自分で仕事を選別することはありませんでした。例えば1970年の大阪万国博覧会の際、親しかった針生一郎さんは反万博派でしたが、粟津は「自分はデザインという技能を有する一介の賎民である」と言って、来た仕事はやる、というのが流儀だというようなことを「デザイン批評」など、自身が編集していたメディアでも述べています。実際は国家事業である万博でもかなり活躍しています。またデザインは協働作業が前提だから、そのなかで仕上げることが重要であるとも考えていました。そういう意味では決して作品至上主義ではなく、色校正を何度もくり返えすことはなかった。チャンス・オペレーション、偶然性を尊重していました。
― 自主独往の人だったのですね。
粟津 「グラフィックデザイナー」と言われることに対しては何も言っていなかったけれど、万博でも交流のあった岡本太郎が自分を芸術家ではなく岡本太郎だと言っていたように、「自分はデザイナーではなく粟津潔だ」くらいに考えていたのではないかなと思います。肩書きにこだわる人ではなかったですね。色々とやった人だから。
21美以外の粟津作品の今
― さて、作品の大半は21美にコレクションされているわけですが、ほかに粟津作品が収蔵されているところはありますか?
粟津 ポスター類はDNP文化財団に相当数、それに本人も創立に関わった川崎市市民ミュージアムには200点近い作品がありましたが台風19号による水害で水没してしまいました。映画ポスターは50年代の日活映画のシルクで擦った作品も含め国立フィルムセンターに多く寄贈しました。また文章の原稿の一部は今でも粟津デザイン室でファイリングしています。(写真1) 粟津は交友が広かったので、一柳慧さんや寺山修司さん、谷川俊太郎さんの手紙といった文化資料として興味深いものも幾つか残っています。海外では4年前のハバナでの展示をきっかけに版画やポスター作品およそ80点がキューバの美術評議会にコレクションになっています。粟津潔の複製した「阿部定」は座頭市や初音ミクのように今後芸術の国であるこのキューバでも知られることになるかもしれません。また一昨年前には中国の西安のユーラシア大学で展覧会を行いました。この大学のデザイン美術館にも粟津コレクションは100点以上あります。その他海外ではニューヨーク近代美術館をはじめ、ロサンゼルス・カウンティー・ミュージアムにも多くのポスター作品があります。ここでも数年前にそのコレクションをメインにした個展が行われました。ところで、これらほとんどすべてが寄贈作品です。「商品」になったことは僕の知るかぎりほぼありません。高く売れるものが優れたアートとする感覚が美術界にはあるようですが、だとすると粟津潔はその文脈からは大きく外れますね。海外ではロサンゼルス・カウンティー・ミュージアムにも多くのポスター作品があります。
写真1 粟津潔の生原稿
― たくさんの本を出版されておられるので、蔵書もあったのではないですか?
粟津 はい。デザインで言えばバウハウスからロシアアバンギャルド、北斎はもちろんですが、とりわけ幕末の絵師である英泉や芳年に傾倒していたので本もたくさんありました。また突然ガウディに惚れこんだら本も読みますが、自分でもバルセロナへ幾度も旅をし、本を書き、ドキュメンタリー映画もつくって上映会と展覧会まで企画しました。晩年は白川静に影響を受けて毎日100枚以上の象形文字を筆で描いていました。若い頃はハーバード・リードやヴァルター・ベンヤミン、文学ではランボー、太宰治、山頭火まで、本当に幅広く興味の赴くままにたくさんの本を読みこんでいました。50年代のベン・シャーンはもちろんですが、粟津潔は魅了された作家作品を複製物である書物から盗み、模倣します。その対象はすごいスピードで変化していきました。現在彼の本棚に残っていた書籍の中の多くは原広司さんが設計した「越後妻有里山現代美術館キナーレ」という施設にあり、北川フラムさんの蔵書と並んで「粟津潔文庫」として一般公開されています。もちろん粟津がブックデザインを手がけた本もたくさんあって、それらは21美にコレクションとしてあります。
― 写真類はいかがでしょうか?
粟津 特に50年代から60年代の初めにかけて「原水協」の仕事で関わりのあった土門拳さんや東松照明さんの影響で熱心に撮っていた時期がありました。それらはネガは失われましたが、プリントは21美にあります。1980年代に田中一光さんがプロデュースした「東京デザイナーズスペース」というギャラリーがあって1週間ごとにデザイナーが個展を開いていました。多くの人はポスターやパッケージといった仕事を展示するのですが、粟津はあえて撮りためていた写真を展示したそうです。写真は彼が文字通り見ていた風景、出来事です。そこに彼の無名なる人々に対するシンパシーを感じることができます。写真についてはキュレーターの高橋律子さんが調査してくださり、『海と毛布―粟津潔の写真について』という冊子をまとめてくれました。
― アーカイブという視点から粟津潔さんはとても恵まれていらっしゃいます。作品は21美に収蔵され、アーカイブ作業も進んでいる。またご子息であるケンさんが展覧会をサポートし、さまざまな活動を通して粟津イズムをつないでいます。そんなケンさんから見て、現在のデザインアーカイブやミュージアムの在り方をどのようにお考えですか?
粟津 粟津アーカイブに関しては本当にありがたいことです。この展覧会をきっかけに粟津潔作品は、著作権フリーのオープンデータとしての公開を目指すことになりました。誰でも彼の画像を書物やネット上で自由に使用できることになるでしょう。これは複製物に生きた粟津潔らしい試みであり、美術館としても画期的なアクションだと感じています。これも彼の作品や作家としてのスタンスに新たな芸術的価値を発見してくれた人がいたからです。そこが大事です。またアーカイブ以前の問題ですが、選ぶ側の審美眼が重要であり、私たち自身が定評主義、権威主義、西洋至上主義的なものの見方、考え方から解放されなければならいと思います。きっと、想像力と教育の問題ですね。
さらに理想を語らせていただくならば、コレクションやアーカイブを調査研究し、今日的なテーマを掘り起こして展覧会に仕立て広く公開するという循環ができればいいですね。僕は外部の人間なのではっきりと言えませんが、聞くところによると多くの美術館は人手不足で、1人の学芸員が企画展の制作・運営、コレクションやアーカイブの整備、レクチャーやワークショプの企画運営までやっていて、とにかく負担が大きすぎるようです。また公立美術館の職員は移動する人も意外と多いので仕事が引き継がれづらいという体制的な問題もあるように見えます。このような状況ではアーカイブの整備が進まないのも仕方ないですね。アートやデザイン、文化においても経済至上主義が持ち込まれる現状を変えることはできるのか。僕は経済レベルと文化レベルはだいたいにおいて比例しないことを知っています。つまり文化は金では買えないということですが、あらゆる意味において「デザインになにができるか」、それがこの時代強く問われていることは確かです。
アーカイブは未来を担っていく人たちのための文化財と僕は捉えています。あらためて考えると粟津潔の功績のひとつは無名なる人々の魂というか、見すごされてきた情念のような何かをカタチにして、私たちの目で見えるようにしたことです。有名な作家の残した仕事も重要ですが、それだけではなくアーカイブをする側の方々にもその粟津潔的視点をもって、何が重要かを見極める優れたセンスをものにして欲しいと思います。
Report
レポート
インタビュー:2019年7月9日 11:00〜12:00
場所:金沢21世紀美術館
取材先:高橋律子さん(金沢21世紀美術館キュレーター)
インタビュアー:関康子、涌井彰子
ライティング:関康子
美術館のシステムはアートを中心に構築されている
金沢21世紀美術館の粟津潔コレクション
金沢21世紀美術館(以下21美)は、「新しい文化の創造」と「新たなまちの賑わいの創出」を謳って2004年に開館、2019年で15周年を迎えた。公園の中に佇むアートオブジェのような開放的な建物はルーブル美術館ランス別館なども手がけた世界的建築ユニットSANAAが設計し、その平面図をモチーフにした軽快なロゴデザインは「デザインあ」などの番組でも知られるグラフィックデザイナー佐藤卓によるもので、まさに21世紀の美術館像を体現している。また、レアンドロ・エルリッヒの「スイミング・プール」、ジェームズ・タレルの「ブルー・プラネット・スカイ」、パトリック・ブランの「緑の橋」といった恒久展示作品は、今までのちょっと小難しい現代アートのイメージを覆し、誰もが楽しめる作品として人気を博している。インバウンドで盛り上がる金沢城公園近くの観光エリアという恵まれたロケーションもあって、連日たくさんの来館者でにぎわっている。そんな21美がカバーする領域は、現代アートを中心に建築、デザイン、ファッション、工芸などの新ジャンルまで、老若男女が楽しめる幅広さが特長だ。そのミッションは以下の4つ。
1. 世界の「現在(いま)」とともに生きる美術館
2. まちに活き、市民とつくる、参加交流型の美術館
3. 地域の伝統を未来につなげ、世界に開く美術館
4. 子どもたちとともに、成長する美術館
このように21美はアートを通して、人と人、街と人が交歓しながら新しい文化を醸成する「場」として大きな成果をあげ、「美術館、アートによる街おこし、地域活性化の成功例」として知られた存在だ。
その21美のコレクションのひとつとしてグラフィックデザイナー粟津潔の作品群があり、2006年、知人を介しての話が粟津家から蓑豊館長(当時)にあった。(詳細は粟津ケンさんインタビュー参照)。粟津の場合は、父親の生家が石川県旧富来町であったこと、さらに「アートやデザインは生きたものでなければならない」という美術館と作家の思想の一致が後押しとなった。
「粟津潔 デザインになにができるか」展を企画し、粟津潔アーカイブも担当するキュレーターの高橋律子さんによると、2019年7月の時点で、絵画、スケッチ、書籍・雑誌、ポスターなど2943点の作品のデジタル画像化とデータベース作業はほぼ終了し、21美のウェブサイトで一般公開され誰もがアクセスできる状態にある。
データベースの登録項目は、粟津家で使われていたものを参考に分類、記述されている。写真類や映画のタイトルデザインのような映像もデジタル化、データベース制作が進められている。粟津がブックデザインした書籍は21美に所蔵されている。21美ではこうしたアーカイブ作業と並行してキュレーターによる研究も進められ、その成果は展覧会(以下)として公開され、出版物も発行された。
●企画展「荒野のグラフィズム 粟津潔」 (2006-2007)(写真2)
粟津作品の寄贈を機に企画された展覧会
●「粟津潔、マクリヒロゲル」シリーズ (2014-2018)
21美キュレーターによる作品・資料の継続的な調査研究を通して、多角的な視点から粟津潔の世界を紹介、再考するプロジェクトで、21美のコレクション展の一部として公開された。
・マクリヒロゲル1「美術が野を走る:粟津潔とパフォーマンス」(2014)
・コレクション展 歴史、再生、そして未来
マクリヒロゲル2「グラフィックからヴィジュアルへ 粟津潔の視覚伝達論」(2015)
・コレクション展 ダイアリー/粟津潔、マクリヒロゲル3「粟津潔と建築」(2016)
・コレクション展 PLAY/粟津潔、マクリヒロゲル4「海と毛布―粟津潔の写真について」(2017)
・コレクション展 アジアの風景/粟津潔、マクリヒロゲル5「粟津潔のブック・イラストレーション」(2018)
●企画展「粟津潔 デザインになにができるか」(2019)(写真3)
写真2
「荒野のグラフィズム:粟津潔展」(2007-08年、金沢21世紀美術館)展示風景
(正面)1977年のサンパウロ・ビエンナーレに出品された《グラフィズム3部作》の再展示
(左)《スペース・ポエトリー》1977年
画像提供:金沢21世紀美術館
写真3
「粟津潔 デザインになにができるか」(2019年、金沢21世紀美術館)展示風景
画像提供:金沢21世紀美術館
なかでも「粟津潔 マクリヒロゲル」シリーズは、21美のキュレーターが各々の視点から粟津潔のマクリヒロゲル精神と創造の世界を掘り下げ、現代という時間軸で再考するという意欲的なプロジェクトだ。2014年度はパフォーマンスに着目、現代も活躍する表現者を通して、粟津の既存のヒエラルキーを解体していった開拓精神を再考した。2015年度は、1955年に日宣美賞を初受賞した代表作「海を返せ」以降の作品を一堂に介し、粟津の視覚伝達の手法を探った。2016年度は「メタボリズムと万博」「建築家との協働」「建築雑誌のデザイン」という3つの切り口から、粟津と建築の関係を紹介した。2017年は写真作品のイメージ分析と個展「海と毛布―粟津潔写真展」の2つを素材に写真情報を分析して撮影場所や撮影年をあぶり出し、粟津と写真の軌跡を追った。そして2018年は、特に子どもに向けたイラストレーションを通して、粟津の子どもたちへの眼差し、印刷技術へのこだわりを分析した。いずれも展覧会と冊子で公開されている。
キュレーターが語る粟津アーカイブの今
では、実際に粟津作品アーカイブの作業はどのように進められているのだろうか。
21美ではアーカイブをまとめるに際して、現担当である高橋律子さんが前任者から引き継いで3年弱ということもあり、専門知識を有するアーキビストとの協働で進めている。実際にはキュレーターが作品の分類を行い、専任のアーキビストはそれに沿って記述、登録作業を担当している。作品管理データベースは早稲田システムのI.B.Museum SaaSを採用しているが、21美独自の項目にそって改良していると言う。現在、21美では粟津作品、2944点のデジタル化を優先、画像ごとに登録番号をつけて作品名、作家名、分類、制作年、素材・技法、サイズなどの基本情報を入力し、データベースとして公開している。
しかし粟津作品に関してはこれでは不十分らしい。ポスターなどグラフィックデザインの場合、イラスレーターやコピーライター、クライアントなどの関係者が多く、特に映画や劇団のポスターではカメラマン、俳優(肖像権)、製品のポスターではメーカー名や技術など、カバーしなければならない項目が膨大だ。また粟津作品の場合、英訳や再版を経たもの、複製物を使った原画、複製を重ねた原画などが多いためにオリジナルの特定が難しい。要は唯一無二なアート作品と異なり、複製物であることが前提のグラフィックデザインはクリアにすべき項目が多く、デザイン独自の登録フォーマットづくりから取り組まなければならないのだ。高橋さんは、この状況を打開するためにデータベースを公開し、研究者や修士・博士課程の学生も自由に研究できる環境を整えて、調査の幅が広がることを期待している。
さて、高橋さんはキュレーターとして、どのような取り組みをしているのだろうか。
「粟津研究では、2016年と2017年DNP文化財団の助成を受けて、『グラフィックデザイン史における粟津潔の役割:金沢21世紀美術館所蔵作品・資料をもとに建築、映像・写真との関わりから再考する』という調査を実施しました。その結果は2016年、2017年、2018年の「粟津潔 マクリヒロゲル」シリーズとして発表しています。特に2017年の「海と毛布―粟津潔の写真について」は、写真の背景に映っている青函連絡船や旅館の看板を手がかりに1959年に津軽で撮影されたことを特定できました。1枚の写真から粟津の足跡や視点を辿り、その時代を振り返る貴重な一歩になったと思います」。
今回の展覧会の意図についても伺った。
「21美は現代美術の美術館なのでいろいろなアートを楽しみたいという柔軟な見学者が多いのが特長です。粟津展は単なる回顧展にはしたくなかったので、懐かしさとかノスタルジーに向かわないように工夫しました。そこで、ポスターや書籍といったジャンル別ではなく、社会、文化、民衆といったテーマによる構成を試みました」。
本展では粟津ケンさんが企画監修しているが、遺族との協働にはどのような意味があるのだろうか。
「ケンさんは私たちが知りえないたくさんの知識や情報をもち、何といっても粟津潔の一番の理解者です。協働できることはとても心強いことです。本展では、ケンさんから社会性のデザインをテーマしてはどうかというお話をいただき、相談のうえ「デザインになにができるか」というタイトルに決めました。デザイナーとしての粟津の新たな評価軸を示し、さらにケンさんからの提案もあり、新たに民衆や弱い立場の人々に対する粟津の立ち位置を提示できたと思います。社会へのメッセージ性の強い初期から中期の作品とは対照的に、晩年の「すてたろう」「EARTHMAN」は、社会へのメッセージという一貫した態度を見せつつも、会場を優しく包み込むような穏やかさを称えています。展覧会から粟津の多彩さを満喫いただければ嬉しいです」。
デザインに限らず、最近の表現や創作の手法が多様化するなか、アーカイブという視点から21美を含めて現代美術館はどう対応していくのだろうか。
「そこは大きな課題です。デザインではアーカイブの方法自体が研究対象になっているほどです。アーカイブでは、作家の言葉やテキストはもちろんですが、作家本人や関係者へのインタビュー、映像記録はその人柄を知るツールとして有効です。また、昨今のアーカイブではデジタルデータが重視されていますが、私は、記録と保存という意味から印刷物も重要だと考えています。なぜならデジタル技術は進化が目まぐるしくメディアやソフトが変わるので、一定期間で更新しなければならず手間と費用がかかります。また、映像作品はデジタル化によって作品の意味や意図が変わってしまうケースもあり、作家やご家族と相談しながら作業を進める必要があります。今後ますますデジタル化は進みますが、だからこそオリジナルは重要になってくるでしょう」。
開館以来、金沢の名所として定着した21美は、観光の目玉として国内外から多くの来場者を迎えている。訪問時(2019年7月6日)も全館大賑わいで、粟津潔展もたくさんの見学者で溢れていた。彼らの多くは粟津が誰かを知らないだろうが、「マクリヒロゲル」を信条とした粟津のこと、デザインの専門家に限らず幅広い人たちが見学することを望んでいるに違いない。21美では粟津以外にもプロダクトデザイナーの川崎和男、グラフィックデザイナーのサイトウマコト、建築ユニットのアトリエワンなどの作品も数点規模でコレクションしている。それはデザインをデザインとして収集しているのではく、デザインと呼ばれてきた「作品」のなかの現代性を評価しているためだ。
デザインアーカイブの課題は、日本の美術館におけるデザイン部門がまだまだ発展途上であり、デザインを専門にするキュレーターが圧倒的に少ないことがあげられる。20〜21世紀の創造活動という点ではデザインの存在感は増しているが、現在の美術館のシステムはアートを基準にしており、複製物を前提としたデザインを扱う制度がないために対応が進んでいないのが現状だ。ようやくデザインアーカイブが注目されるに至り、いろいろな課題が表面化してきている。金沢市では来年、国立近代美術館の工芸館別館がオープンし、工芸やデザインが今まで以上にクローズアップされることになるだろう。これらが起爆剤になって、デザインにおけるこうしたシステムや体制が整備されることに期待したい。
粟津潔さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
金沢21世紀美術館 学芸課 https://www.kanazawa21.jp
〒920-8509 石川県金沢市広坂1-2-1
Tel:076-220-2801(学芸課)
Fax:076-220-2806