日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
原 弘
グラフィックデザイナー
文:関 康子
PROFILE
プロフィール
原 弘 はら ひろむ
グラフィックデザイナー
1903 長野県生まれ
1918 東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)印刷科入学
1921 同校卒業と同時に製版印刷科助手に就任
1927 「造型美術家協会」結成に参加
1931 東京府立工芸学校、助教諭就任
1932 「東京印刷美術家集団(Tokyo Printing Artist’s Circle)」を結成、代表就任
1933 「日本工房(第一次)」結成に参加
1934 「中央工房」結成に参加
1935 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)」図案工芸科講師就任(-40)
1941 「東方社」設立に参加、美術部長就任(-45)
1945 「文化社(第一次)」設立(-46)
1951 「日本宣伝美術協会」設立に参加
1952 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)商業美術科主任教授就任
1953 「日本デザイン学会」設立に参加
1959 雑誌『グラフィックデザイン』創刊に参加
1960 「日本デザインセンター」設立に参加、取締役就任
「世界デザイン会議」、日本実行委員会委員長
1962 武蔵野美術大学、造形学部産業デザイン学科、商業デザイン専攻主任教授就任
1964 東京オリンピック デザイン懇談会委員
1971 紫綬褒章
1978 勲四等旭日章授章
1986 逝去
Description
概要
原弘は日本の近代グラフィックデザインの基礎をつくった人物と言えるだろう。原以前のグラフィックデザインはアール・ヌーボーやアール・デコ様式の応用や、江戸以来の美人画の継承など、「絵画」の延長線上にあった。例えば、竹久夢二、樋口五葉、杉浦非水ら画家による装丁や美人画ポスター(三越呉服店のポスターは代表的)は、当時の様相を象徴していると言える。
そこに登場したのが原弘である。原は印刷会社の跡取りとして生まれ、東京府立工芸学校で印刷技術を学ぶが、師である宮下孝雄との出会いによってデザイナーの道を選ぶことになる。しかし、原の技術者、研究者としての資質は、一デザイナーという枠を超えて、グラフィックデザインという領域においてさまざまな基礎をかたちづくることにもなった。
原の基礎づくりの第一は、欧米のデザイン理論を学習・研究し、デザインという実践を通して広く日本に定着させたことだ。換言するならば、タイポグラフィ、写真、レイアウトといった20世紀初頭に確立された概念や要素を自らのデザインに再構築させてみせた。原の仕事が日本のグラフィックデザインの近代化を牽引したのだ。
第二は「紙」の開発である。紙の専門商社である竹尾と共同して、アングルカラー、マーメイド、シープスキンといった幾種ものファインペーパーを生み出した。特にマーメイドは全60色という豊かなカラーバリエーションがあり、現在でももっとも使われている紙の一つである。グラフィックに欠かせない「紙」の選択肢を増やすことによって、グラフィック表現の可能性を広げた。
他にも、原は、日本宣伝美術協会、日本デザイン学会、日本デザインセンターなどの日本のデザインを牽引する団体や会社の設立に参加し、その活動を通してデザインやデザイナーの地位向上、社会的役割の拡大、またデザイン理論の研究に貢献した。同時にデザイン界の重鎮として、世界デザイン会議、東京オリンピック、札幌オリンピックなどの国家的なイベントにおいて大きな役割を果たし、武蔵野美術大学で長らく教鞭を執るなど、後進の育成も実践した。晩年には勝見勝をして「ブックデザインの帝王」と称させるほどに、百科事典、美術全集など、格調の高い装幀を世に送り出した。
原は、グラフィックデザインという領域において、生涯を通してコマーシャルな仕事とは一線を画し、学究的なアプローチでデザインに取り組んだ。圧倒的な市場主義がひたひたとデザイン界に浸透しつつある今、原弘という孤高のデザイナーの存在を忘れてはならない。
Masterpiece
代表作
ポスター「映画五月一日」、自主制作(1927-29推定)
パッケージ「新装花王石鹸」、花王石鹸(1931)
『新活版研究』自主制作、(1934-32推定)
雑誌『光画』表紙デザインなど (1928~35)
ポスター「大東京建築祭」、都市美術会(1935)
『TRAVEL IN JAPAN』アートディレクション、鉄道省(1935~1940)
日本観光写真壁画 (1937)
『FRONT』アートディレクション、東方社(1942~45)
ファインペーパー『アングルカラー』『マーメイド』などディレクション、竹尾(1959~1972)
ポスター「日本のタイポグラフィ展」(1959)
「東京オリンピック」チケットなど広報ツール(1964)
ポスター「ダダ展」、東京国立近代美術館(1968)
装幀『円空』、求龍堂(1973)著者:谷口順三、写真:後藤英夫
装幀『東洋陶器大観』、講談社(1974)
装幀『世界大百科事典』、全35巻、平凡社(1975)
著書
『新活版術研究』、東京府立工芸学校製版印刷科研究会(1931~32推定)
『グラフィックデザイン大系 第1巻~第5巻』(共編)、 美術出版社, (1960~1962)
『世界のグラフィックデザイン2』(編)、 講談社 (1974)
『原弘 グラフィックデザインの源流』、平凡社 (1985)
『現代日本のブックデザイン 1975~1984』(共編)、 講談社 (1986)
Report
レポート
日本のグラフィックデザインの近代化を牽引した
原以前のデザイン
1903年生まれの原弘は、第二次世界大戦前、戦中、戦後から高度成長期を経て成熟期に至る日本の激動期に生き、その活動は日本の近代デザインの萌芽期から成熟期を網羅している。
原前後の日本のグラフィックデザイン界には、三越呉服店のポスターや大蔵省専売局(現・JT)のたばこのパッケージを手がけた杉浦非水(1876-1965)、アールデコ様式を取り入れた優美なスタイルと資生堂初期のデザインアイデンティティを確立した山名文夫(1897-1980)、モダニズムにいち早く目覚め平面から空間デザインまでを手がけた河野鷹思(1906-1999)らがいた。絵画的要素が色濃い杉浦、アールデコの美意識が際立つ山名、モダンスタイルを先取した河野、そして理論的アプローチでデザインの近代化に臨んだのが原弘である。以下、年代を追って原の活動と日本のデザインの歩みを振り返ろう。
1903年~1941年(戦前、戦中)、学びの時代
東京府立工芸学校で学ぶ
原弘は、日露戦争の1年前の1903年に長野県飯田の「発光堂」という印刷業を営む家庭の長男として誕生。父、叔父ともに単なる職人ではなく活字や写真に精通した芸術肌の人物であったようだ。1918年、家業を継ぐために新設の東京府立工芸学校(現東京都立工芸高校)に入学、印刷科に在籍し製版印刷を学ぶ。印刷会社の跡取りを期待されていたが、師である宮下孝雄(図案家)から図案法を学び、レタリングとレイアウトといった文字の選択や創作、ページの割付や構成といった図案法に興味を持った。
1921 年、卒業後は実家には戻らず、宮下の後任として印刷科の助手として母校に残り、石版と印刷図案の指導にあたる。その際、技術指導のための教科書ともいえる冊子『ひろ・はら石版図案集』と『原弘石版図案集Nr.Ⅱ』を独自刊行している。以降20年間、母校で教鞭を執りながら、東京を拠点に国内外の最先端の芸術やデザインに触れ、デザイナーとして研鑽の日々を送る。
欧州の芸術、デザインと出会う
原がデザインという世界に一歩を踏み出した20世紀初頭、欧州は第一次大戦、ロシア革命を経て激動の時代を迎えていた。芸術分野では、キュビズム、未来派、ロシアアヴァンギャルド、オランダの『デ・ステイル』創刊と新造形主義、パリやニューヨークを中心としたアールデコ様式、チューリッヒのキャバレーで興ったダダイズム、そして1919年には敗戦国ドイツのワイマールにおいてグロピウスらを中心とした「バウハウス」が誕生した。アート、デザイン、建築などの視覚芸術から演劇、文学、音楽に至る領域まで、後に近代デザインに決定的な影響を与えた前衛的な芸術運動が一斉に花開いたのだ。そのうねりは当然、雑誌や書籍を通じて日本にも輸入され、後の芸術、デザインに大きな影響を与えることになる。
一方、工芸高校を卒業した20代の原が生きた日本は、大正デモクラシーを経て民主的で自由な機運で満たされ、先述の欧米から押し寄せる芸術運動のうねりを受けた新興美術運動が興隆していた。原も、プロレタリア演劇を多く上演していた「築地小劇場」(後に河野鷹思のデザイナーへの足掛かりとなった)に足しげく通い、舞台美術家の吉田健吉や劇作家・造形作家の村山知義らによる舞台演出や舞台美術を通して、ヨーロッパの新興芸術運動を体感していた。
その後、1927年に結成された「造形美術家協会」に参加。同協会は翌1928年には機関誌『造形美術』を創刊し、同時に「造形美術家協会絵画研究所」を創設した。原はこの研究所に出入りしながらポスター「無生産者新聞を読め」「鎖を切れ!」などの作品を発表し、デザイナーとして頭角を現していった。
この時期の原について「原弘は当時日本ではまだ名称もなく先行事例も少なかった、『グラフィック・デザイン』と『ヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン』を支える理論とその方法論を諸外国から吸収しながら、それらと日本独自の社会・文化とをどのように融合すべきかを考えたパイオニアの一人」であったと、寺山祐策はテキスト「新青年 原弘の彷徨」(『原弘と造型』 武蔵野美術大学美術館・図書館刊、2022年)のなかで記している。
1932年、雑誌などを通してバウハウスを知った原は、近代デザインの思想や理論を独学し、その総括として自力で『新活版技術研究』刊行し、モホリ=ナギらが理論化した「ニュータイポグラフィ」の概念を紹介している。また、ドイツの雑誌に掲載されいてたエル・リシッキーによるマヤコフスキーの詩集のレイアウトと出合い、二色刷りの簡潔で大胆なデザインに衝撃を受ける。原は(印刷)技術者、研究者、デザイナーという視点からデザイン理論を習得していた。
その頃の代表作というとレタリングを活かしたポスター「映画五月一日」(1927-29推定)、花王石鹸の新包装などがあげられる。花王の仕事は、当時「広告の神様」と言われた宣伝部長の太田英茂が主催した指名コンペを経て、原が勝ち得たものであり、「ヴァーミリオン(朱色)のベタに、ローマ字を白ヌキした」シンプルなデザインで話題を呼んだが、原案は「ローマ字が白く浮きだしになっていた」のだが(『原弘 デザインの世紀』平凡社 2005)、その後デザインを具体化する過程で浮き出しはとり止めなったようだ。
人脈と活動の広がり
一方で、1932年に野島康三、中山岩太、木村伊兵衛の3人の写真家によって創刊された写真雑誌『光画』の制作に参加し、幅広い人々との交流が生まれる。なかでもドイツから帰国したフォトジャーナリストの名取洋之助と出会いがきっかけとなり、1933年「日本工房(第一次)」の創設に名取、木村伊兵衛、伊奈信夫、岡田桑三らとともに加わった。府立工芸学校の教員でもあった原は、授業が終わってから数寄屋橋にあった日本工房の事務所に通うこととなった。ところが第一次日本工房は名取と他のメンバーの軋轢から1年で終わり、原は木村伊兵衛、伊奈信男、岡田桑三らと脱退し、1934年に「中央工房」を設立する。名取は写真家の土門拳、藤本四八、グラフィックデザインナーの山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策らを迎え、第二次「日本工房」を再結成し、後に海外広報誌『NIPPON』を発行する。
原の活動拠点となった中央工房は事務所内に国際報道写真協会を設立し、展覧会や印刷物の制作を行う。原にとって大きな足跡となったのは、1937年にパリで開催された万国博覧会の日本館(ル・コルビジュエの弟子であった建築家、坂倉順三が設計)で展示された「日本観光写真壁画」だ。これは高さ2.2メートル、横18メートルという大壁面に日本の四季や自然、名所や風俗を写真で構成した巨大な観光ポスターであり、原は写真の選定から画面の構成を任された。この仕事で注目すべきは、白黒写真で構成された大画面の一部に着色を施したことだ。当時の写真界ではモノクロ写真に人工的な着色をすることが邪道とされていたが、原はあえて小さな抵抗を試み、写真を使ったグラフィック表現に新たな可能性を示したのである。『光画』の制作を通して先端的な写真技術や作品に接する機会を得ていた原にとって、印刷、写真、文字、構成というグラフィックデザインの基礎技術の応用は大きな興味の対象だった。この原の挑戦は日本のデザインの重要なステップとなった。
1941年、原は20年教鞭を執ってきた府立工芸学校の教職を離れ、活動の軸をデザインに移した。同時に中央工房の仲間である岡田桑三が設立した出版社「東方社」の美術部長に就き、同社で発行する大日本帝国の対外宣伝グラフ誌『FRONT』のアートディレクターを務める。同誌はA3判の2色のグラビア刷りの大判の印刷物で、その目的は国外向けに日本の国威や思想を広報することであり、最大で15カ国語に翻訳された。原はレイアウトやレタリングなどの手法を駆使し、15カ国語版すべてのデザインを行った。それらは、例えばリッシキー的な表現やアメリカの雑誌のスタイルをとり入れるなど、かなり自由で実験的であり、現在でも十分に通用する出来栄えである。しかし『NIPPON』、『FRONT』はともに戦争のプロパガンダメディアとして戦後は批判の対象となり、これらに関わった編集者、写真家、デザイナーたちにある種の負い目を感じさせることになった。東方社は1945年3月の東京大空襲で社屋は全焼し、翌年には戦後のメンバーを中心に新たに「文化社」を創設したが、いくつかの印刷物を手がけるも1947年に解散を余儀なくされた。
1946年~1969年(戦後高度経済成長)、充実期
1945年から60年代にかけて、日本は戦後復興から高度経済成長を果たし、デザインもその追い風を受けて質量ともに大きな発展を遂げた。原のデザイン活動も同様である。このおよそ15年間、原は自らのグラフィックワークにとどまらず、デザインの文化的・技術的啓蒙、デザイン理論の構築、デザイナーの地位向上、デザイン教育とあらゆる領域において中心的な役割を果たしていく。
1947年、 44歳となっていた原は、文化社の解散によってフリーランスとなった。「正直いってデザインで妻子を食わせる自信はなかったし、デザインで身を立てていくことになろうとは思っていたなかった」と(1970年『日本デザイン小誌』ダヴィッド社刊)と心境を吐露している。当時の日本人の誰もがそうであったように、原自身も厳しい生活を強いられることになった。1950年には『児童百科事典』の創刊にともない編集委員に就任、以降平凡社の顧問として数多くの百科事典の装丁に関わることとなった。
1951年、 原は、山名文夫を委員長に、河野鷹思、亀倉雄策ら50名ほどのデザイナーととも職能団体「日本宣伝美術家協会(以下日宣美)」を結成。日宣美は展覧会開催、作品公募および入賞作品選定を通してグラフィックデザインの地位向上や若手発掘を担った。事実、日宣美は若手の登竜門として一時代を築いた。原は雑誌の対談で「ほんとうに世界でも、これだけ会員が多くて民主的な運営をされている会というのは、めずらしいんじゃないですか。それで定期的に展覧会をやって、それが社会的に反響があって、若い人がだんだんそこに吸収されていくという、まったくどこへ行っても驚くんじゃないかと思う」と語り、デザイン分野は現実的で厳しい世界だと述べる亀倉雄策の発言を受けて「現実社会で生きた空気を吸っていなかったら、できない仕事ですよ」(『デザイン』No.32、1962年)とも述べている。ところが1970年、学生運動のあおりを受けた「日宣美粉砕共闘」が審査会場に乱入、20年におよんだ活動は終焉を迎える。ある意味でその役割を果たしたのだとも言えよう。
1952年、 原は武蔵野美術大学商業美術科の主任教授に就任。また、竹橋の東京国立近代美術館が開館すると、1975年までの23年間、同館の展覧会ポスターのほぼ全部をデザインし、その数は200点におよんだ。同館は2012年に「原弘と東京国立近代美術館:デザインワークを通して見えてくるもの」展を開催し、原の同館における仕事を総観した。その概要文によれば「国立近代美術館のポスターとしては、文字組みと色面構成だけのシンプルなもの、写真と文字の組み合わせ、大胆なレタリングを駆使したものなど、さまざまなタイプのものが作り出されましたが、そこには一貫して、原弘のほかの仕事に通じる品格や清潔感があります。節度あるそのデザインは、当館の特徴をも映し出しています」とある。原の知的で奇をてらわぬ正統的な「デザイン」と「近現代アート」との相性が良かったことを物語っている。
1960年、 原は、「日本の広告デザインの発展と質的水準の向上をはかる創造集団」として創業した「日本デザインセンター」の設立に、トヨタ自動車、東芝、野村證券など出資企業8社、そして亀倉雄策、山城隆一らとコアメンバーとして参加し、後に社長も務めた。高度経済成長期、新しい製品やサービスが日々誕生するなかでその広告宣伝のための上質なデザインが求められたのだ。この時期、日本デザインセンターは、ライトパブリッシティ(1951年設立)、サンアド(1964年設立)と並んでその一翼を担った。但し、原自身は広告制作の最前線からは一歩引いた立場を踏襲した。
同年、東京では、世界中の著名デザイナー、建築家が結集した「世界デザイン会議」が開催され、原は実行委員会副会長として主に広報活動を担当する。同会議ではランドスケープ、建築、インテリア、プロダクト、グラフィック、ファッションとあらゆるデザイン領域が網羅され、戦後の文明に大きな影響を与えるようになった「デザイン」について、さまざまな視点から議論がなされた。原は同会議の意義を「(略)デザインの問題、デザイナーの思想が、これからの文明に大きな責任を負わされざるを得なくなって来たと同時に、それは個々のデザインの分野の中だけで論議されるべきものではなく、(略)地球上の各地域のデザイナーや、デザインの問題に積極的な関心を持つ人たちが、相寄って総合的に討議されなければならない重要な問題を含んでいる」(『東京新聞』1960年3月17日)と寄稿している。
1961年、 原は第7回毎日デザイン賞を受賞した。その理由は、竹尾洋紙店(現・竹尾)と特種東海製紙との共同による「ファインペーパー」を開発であった。原が開発したアングルカラー、パルテノン(1953年)、マーメイド(1956年)、マイカレイド(1957年)、パンドラ(1959年)、彩雲・虹、玉しき(1969年)、羊皮紙、シープスキン(1970年)などの個性的な紙は、その風合いや豊富なカラーバリエーションがあり、現在も多くのデザイナーから愛用され、グラフィック表現に貢献している。例えば、「マーメイド」は製紙工程で特殊なフェルト(織模様)によって紙の表面に独特の風合い(フェルトマーク)を持つ機械すきのファインペーパーである。その風合いがまるで人魚(マーメイド)が住む海のさざ波を連想させることからこの名前が付けられたと言い、原の洒脱な感性も感じさせてくれる。今日では原以外にも多くのデザイナーが紙開発をしているが、その先鞭をつけたのは原である。
1962年、 原は『年鑑広告美術別冊』の「明治・大正・昭和のデザイナーの生活というエッセイ」で、デザイナーの世代論について記述している。それによると、1962年当時、戦前から活動する原や亀倉などの40代、50代の第一世代デザイナー、戦時中に成年し、戦後に活動を始めた30代、40代の第二世代デザイナー、そして日宣美展を契機に活躍する第三世代デザイナー(粟津潔のように正規のデザイン教育を受けていない者もいる)、そして正規のデザイン教育を受けた第四世代の特徴をあげつつ、デザイナーの社会的地位や職業的保障についても語っている。
1963年、 デザインの重要性とデザイナーの社会的地位をアピールする絶好の機会があった。翌年の東京オリンピックの開催だ。そのために組織委員会デザイン懇談会が創設されると、美術評論家の勝見勝がデザイン専門委員会委員長を務め、原弘をはじめ河野鷹思、亀倉雄策、杉浦康平、粟津潔ら、戦中から戦後派のデザイナーが制作物のデザインにあたった。原もメンバーとして広報を担当、公式招待状、賞状、公式広報、シンボルマーク、入場券などのデザイン制作を担当した。同年、雑誌『太陽』創刊と同時にアートティレクターに就任している。
その後、原は札幌オリンピック冬季大会デザイン委員(1967年)、日本デザインセンター代表取締役社長などの重職を務めながら、レタリング、エディトリアル、タイポグラフィ、写真技術などのグラフィックワークに取り組み、デザイン理論、技術向上に大きな役割を果たした。
1970年~1986年 晩年の活動とブックデザイン
1970年、67歳となった原は、武蔵野美術大学の主任教授の辞任。これを機に、執筆、国際交流など文化活動を担うかたわら、ブックデザインを多く手がけるようになった。この間に原が装丁した代表的な書籍には次のようなものがある。
1970年・・・編集人、装幀を行った『日本デザイン小史』(ダヴィッド社)
1971年・・・第6回、第7回造本装幀コンクールで文部大臣賞を受賞した『パウル・クレー』画集(求龍堂)、『国民百科事典、第3版』全9巻(平凡社)
1972年・・・『世界版画体系』全16巻(筑摩書房)
1973年・・・『円空』(求龍堂)
1974年・・・勝見勝と監修した『世界のグラフィックデザイン』全7巻(講談社)
1975年・・・『建築大辞典』(彰国社)、『東洋陶器大観』全12巻(講談社)、『世界大百科事典、全35巻』(平凡社)
1979年・・・『奥村土牛作品集』(文藝春秋社)
1980年・・・『東洋陶磁』全12巻(講談社)
1981年・・・『中国の博物館』(講談社)
1982年・・・『西域美術』(講談社)
これらは原の装丁本の一部であるが、いずれも大著、全集ばかりである。そして1975年に脳血栓で倒れた以降もブックデザインに精力的に携わり、数々の賞を受賞する。全集や百科事典の装丁を手がけるに際しては「全集や百科事典のようなもので問題になるのは、全部揃うまでに長いのは三年くらいかかるでしょう。飽きるということがあるわけです。(略)私はそれに対するひとつの考え方として、その時々の流行のスタイルを入れるのを避けます。(略)本は飽きないということが大切ですね」とエッセイ「百科事典の装丁」(『PIC著者と編集者』1971年)で語っている。
原のグラフィックワークの重要な部分を担っていたブックデザインについて、勝見勝は1959年に創刊した季刊誌『グラフィックデザイン』(講談社、1970年)の「原弘の装本をめぐって」というテキストにおいて以下のように記述している。「仕事の虫ということだけなら、いわば職人気質に終わるところだが、原君はそうではない。早くからバウハウスやノイエ・ティポグラフィの国際風潮に目をむけ、戦後もタイポグラフィを中心として、国際的なデザインの動きにたえず注意をはらい、そこから汲みとるべき栄養は、たえず自らも摂取し、後輩にも教示して来ていると思う。(略)日本の職人気質で、西洋のデザイン理論を咀嚼した人といえようか。おそらく、こういう形で、古き日本と新しい西洋とが結びつき、しかも豊かな実りをおさめるという可能性は、原君が最後かもしれない」。さらに原を「ブックデザインの帝王」と称している。また、原を継ぐ世代としてデザイン界に多大な影響力を持った田中一光は「原先生はブック・デザインの神様のような人」というテキストにおいて「素材、工程、情報、人材、国際性とデザイン界のあらゆる基礎的な問題は、すべて原弘の手で築かれたといっても過言ではない。それらはまさに日本のグラフィックデザインの年表を読む思いがする」(『原弘:グラフィック・デザインの源流』平凡社、1985年)と記述している。
原弘のアーカイブ
さて、これだけ日本のデザインに貢献した原弘の作品や資料は現在どうなっているのだろうか? 展覧会ポスターのデザインを23年間手がけた東京国立近代美術館、長らく教鞭を執った武蔵野美術館美術館・図書館、そして紙開発で共同した特種東海製紙のPam(paper and matereial)に、主に収蔵されている。特にPamでは「原弘アーカイヴ」が設立され、遺族により3万点におよぶ資料が寄贈された。このアーカイヴには、原弘による書籍やポスター約4,000点を中核に、それらの周辺資料、スケッチや直筆の原稿類、原のコレクション(国内外の古典的名著や名作ポスターなどの印刷物)が収蔵され、企画展を通して公開され作品に触れる機会も設けている。まさに日本グラフィックデザインの歴史を語る貴重な資料である。Pamの館長、千葉寿子さんに幾つか質問を送り回答をいただいた。
Pamが原さんのアーカイヴを受け入れるまでの経緯は?
原弘の戦後の仕事の核となったのが、ブックデザインであることは言うまでもありません。当時国内にはその仕事のうえで満足のいく用紙がないことを憂えた原は、1959年に竹尾洋紙店(現・株式会社竹尾)の竹尾榮一氏と岐阜の真砂製紙(現・特種東海製紙株式会社 岐阜工場)に訪れたことをきっかけに、多くのファンシーペーパーの開発に携わることとなりました。色のバリエーション、テクスチャーの設計に原の感性や経験、海外の装幀事情にも通じた知識が投影され、結果、アングルカラー、マーメイド、パミス、マイカレイドなど多くの魅力的な紙が生み出されることとなりました。日本の出版文化やデザイン表現の多様化などに大きく寄与したと言えるでしょう。そのような深い縁で、特種製紙株式会社(現 特種東海製紙株式会社)は、1980年代以降、他の国内製紙メーカーに先駆けて文化財の保存保護紙の開発にも注力するようになったこともあり、原弘の膨大かつ貴重な資料を後世に残す役割を担うこととなりました。1986年から開始しておよそ3万点の資料を受け入れています。
具体的にどのような資料や作品を収蔵しているのか?
総数は約30,000点、内、書籍約14,000点 (本人の装幀約2900点)、ポスター約4327点 (本人の作品約113点)ほか、カレンダー、パッケージ、書簡、写真、スライド、デザイン用具などです。本人の作品約4,000点のほかに、関連する各種団体の資料(日本工房、中央工房、東方社、日本宣伝美術会、世界デザイン会議、東京・札幌オリンピックなど)や、研究のために収集されたと思われるノイエ・テュポグラフィの文献、活字見本帳などのデザイン関係資料、海外のデザイナーとの交流を垣間見ることのできる書簡、木村伊兵衛撮影の写真なども含まれます。
資料の整備の現状は?
書籍、ポスターについてはリスト化されていますが、雑資料についてはいまだ未整理のものもあります。研究者のみな様からの、閲覧希望、貸出希望にはご遺族と連携し対応させていただきます。
Pamで開催された「原弘と日本のタイポグラフィ五十年」展(左)と「Hara Hiromu Collection 20世紀グラフィックデザインの名作・秀作・問題作 Part1」展の展覧会風景
Pamではすでに、「原弘と日本のタイポグラフィ五十年」展(2015年)、「原弘の仕事からみる 戦後のブック・デザイン」(2006年)「Hara Hiromu Collection 紙と印刷とデザインの実験室20世紀グラフィックデザインの名作・秀作・問題作 Part1」展(2004年)「原弘と国立近代美術館のポスター」展(2003年)、「原弘作品展」(2003年)などの展覧会を開催している。また、他館で企画された展覧会に対して収蔵品の貸し出しなどにも対応している。これからも原弘の仕事や思想を後世に繋ぎ、より多くの研究者やデザイナーと協働していきたいと考えていると言う。(文責 関 康子)
参考文献
『日宣美の時代』トランスアート (2000)
『原弘 デザインの世紀』、平凡社 (2005)
『原弘と東京国立近代美術館:デザインワークを通して見えてくるもの』、東京国立近代美術館(2012)
『原弘と造型』武蔵美術大学 美術館・図書館 (2022)
WEB「松岡正剛の千夜千冊」https://1000ya.isis.ne.jp/1171.html 他
原弘さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
Pam 原弘アーカイヴ https://www.tt-paper.co.jp/pam/