日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

五十嵐威暢

彫刻家、デザイナー

 

インタビュー:2022年11月15日 14:30〜16:00、2023年4月5日 14:00〜15:00
取材方法:オンライン
取材先:五十嵐威暢さん、
羽田麻子さん(アシスタント)、
野見山桜さん(デザイン史家・デザイン研究家)
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜

PROFILE

プロフィール

五十嵐威暢 いがらし たけのぶ

1944年 北海道生まれ
1968年 多摩美術大学卒業
1969年 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程修了
1970年 イガラシステュディオ設立
1994年 彫刻家に転身
2011年 北海道新十津川町の「かぜのび」を拠点に活動

多摩美術大学美術学部二部学科長、第9代学長を務め、現在、同大学名誉教授。
外務大臣表彰、北海道文化賞、勝見勝賞、毎日デザイン賞特別賞、iFデザイン賞、グッドデザイン賞など受賞多数

五十嵐威暢

Description

概要

五十嵐威暢は、70年代からグラフィックデザイナーとして活動をスタートした。ポスターをはじめ、誰もが知っているようなサントリーや明治乳業、カルピス、パルコのロゴ、アクソノメトリック(透視)図法による、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のカレンダーなどのアルファベット作品、家具や電話機、カトラリー、時計などのプロダクト、サントリーホールのサイン計画など、平面も立体も手がけ、既存の枠にとらわれることなくデザインの可能性を追及した。そして、40歳のときに次のことをしようと考え、10年かけて事務所をたたむ準備をして、1994年の50歳のときに彫刻家に転身した。木、鉄、テラコッタといった多彩な素材を駆使して、自然をモチーフに身体を使って作品づくりに打ち込み、現在は北海道新十津川町の「かぜのび」を拠点に活動している。
これまでデザイナー、彫刻家として、50年間にわたって多彩な作品を生み出してきた。特筆すべき点は、デザイン作品もアート作品も、大学やオフィス、公園、商業施設、駅構内、展望室、工場、医療施設などに設置され、人の営みの中で息づいていることだ。その根底には、作品が展示品として飾られるのではなく、人に活用されることを望み、それによって「日常の環境を豊かにしたい」という五十嵐の思いが根ざしている。
五十嵐は早くからアーカイブの重要性に目を向け、仕事の資料を80年代から自身で保管してきた。また、多摩美術大学や紙の総合商社 竹尾のアーカイブ事業に携わり、2023年秋には金沢工業大学(KIT)内に五十嵐威暢の研究と、アーカイブの収蔵品を活用した新しい感性教育の拠点として「五十嵐威暢アーカイブ」が誕生する予定だ。作品が街中で生きているように、アーカイブ資料も多くの人に研究・活用されることを願い、現在、そのプログラムを考えているところだという。
PLATの取材でお会いしたなかで、これほどアーカイブについて長年にわたって考え、取り組み、寄与してきた人は初めてではないだろうか。金沢工業大学内「五十嵐威暢アーカイブ」プロジェクトに携わるデザイン史家・デザイン研究家の野見山桜さん、五十嵐さんのアシスタントの羽田麻子さんを交えて、五十嵐さんにアーカイブに対する考えを伺った。

Masterpiece

代表作

グラフィック・ロゴ

渋谷PARCO・パート3 ロゴ(1981)、EXPO '85公式ポスター(1982)、カルピス ロゴ(1983)、MoMA ポスターカレンダー(1984〜1991)、明治乳業 ロゴ(1986)、世界デザイン博覧会 公式ポスター(1987)、サントリー ロゴ(1990)、多摩美術大学 ロゴ(1995)、札幌駅JRタワー ロゴ(2003)、太郎吉蔵 ロゴ(2005)

 

プロダクト

「コードレス電話機」エヌテクス(1989)、「鋳物スツール」山田照明(1989)、「ディナーウエア」山田照明(1989〜1994)、「MoMAトランプ」ニューヨーク近代美術館(1993)、「アイメガネッタ(老眼鏡)」アバンティ(1995)、「eki クロック&ウォッチ」m+h unit Inc.(2005)

 

彫刻

「アルミ アルファベット 彫刻」(1983)、「響」サントリーホール、東京(1986)、「KUMO」麻布十番商店街、東京(1996)、「Lotus」山之内製薬(現・アステラス製薬)、東京(1997)、「波のリズム」都営地下鉄大門駅、東京(2000)、「Dragon Spine」一の坂西公園、北海道滝川市(2004)、「Sky Dancing」芝浦工業大学、東京(2005)、「予感の海へ」東京ミッドタウン、東京(2006)、「こもれび」名古屋ルーセントタワー、愛知県名古屋市(2007)、「水平な気分LHH」ラグナホンダホスピタル、サンフランシスコ(2008)、「思い出せない白の伝説」かぜのび、北海道新十津川町(2011)、「テルミヌスの森」JR札幌駅パセオ、北海道札幌市(2011)、「知の大地」福岡大学中央図書館、福岡県(2012)、「輝きの大地」新十津川町役場庁舎、北海道(2021)

 

書籍

『Igarashi alphabets: From graphics to sculptures』ABC Verlag,Zurich (1987)、『デザインすること、考えること』朝日出版社 (1996)、『あそぶ、つくる、くらす―デザイナーを辞めて彫刻家になった』ラトルズ(2008)、『はじまりは、いつも楽しい デザイナー・彫刻家 五十嵐威暢のつくる日々』柏艪舎(2018)、『TAKENOBU IGARASHI:DESIGN AND FINE ART』グラフィス、アメリカ(2018)、『Takenobu Igarashi A-Z』テームズ・アンド・ハドソン、イギリス(2020)他、多数

五十嵐威暢作品

Interview

インタビュー

金沢工業大学内に「五十嵐威暢アーカイブ」を設立するのは
自分にとって実験的な試みだと思っています

デザインの世界への興味

 最初に、デザインを生業にしようと思われたきっかけからお聞かせいただけますか。

 

五十嵐 叔父の存在が大きかったと思います。五十嵐正という建築家で、おしゃれでダンディでユーモアにあふれ、僕の憧れの人でした。北海道で初めて一級建築士を取得し、帯広を中心に個人住宅から公共施設まで500もの数の建物を設計しました。当時、叔父は帯広に単身赴任していて、家族のいる札幌に帰る途中、僕ら家族の住んでいる滝川の家に立ち寄り、最近手がけた物件について話をしてくれました。僕はその頃、小学生でしたが、その建築の話がおもしろく楽しく惹き込まれ、叔父が来るのを毎回、楽しみにしていました。そして、いつしか僕も将来、建築家かエンジニアになりたいと思うようになりました。
大学受験が始まる3カ月ほど前に、叔父がまたわが家に訪れ、僕にこんな話をしてくれました。「建築もいいけれど、色彩という点からすると不自由だ。デザインという世界もあるよ」と。それまで建築の大学を目指して猛勉強していたのですが、そのときに初めて「デザイン」という言葉を知り、考えを変え、デザインの大学を急いで調べました。そして、それぞれの大学からどんな卒業生がいるか調べて、最終的に三宅一生さんや和田誠さんなど、自分が好きなデザイナーがたくさん出ている多摩美術大学に決めました。

 

 その叔父様が設計された建物を見られたことはあるのですか。

 

五十嵐 社会人になってからですね。北海道は想像以上に広く、滝川から帯広はとても遠いですから。20年ほど前に北海道の仕事が続いて、それをきっかけにいろいろな友人ができ、その一人が叔父の設計した六花亭の当時の社長、小田豊さんを紹介してくれたのです。それを契機に六花亭をはじめ、叔父の設計した建物をたくさん見ました。生涯で500棟手がけたうち、40軒以上、現存しています。それで何か記録を残せないかと考えて、写真家の藤塚光政さんと建築評論家の植田実さんに相談して協力いただき、書籍『建築家 五十嵐正』(西田書店、2007)を制作しました。この中には、叔父が手がけた500棟の建物の所在を記した地図が入っています。500という数は、あらためてすごいなと思います。叔父は昔、「暇だったから、頼まれたら設計しただけだけれどね」と笑って言っていましたけれど。

 

 ご両親も多才な方だったそうですね。

 

五十嵐 父は一橋大学で経営を学び、第一銀行の東京本店に勤めました。語学が堪能で、ドイツ製のカメラやビデオを持っていて、僕たち兄弟もよく撮影してくれました。母は金沢と神戸と2つの女学校で学び、謡や仕舞、茶道、書道、水彩画、切り絵、木彫り、織物、オルガン、蘭の栽培、俳句など、20以上もの趣味をもっている人でした。父と母は、僕が生まれる前は東京に住んでいたのですが、関東大震災で大火災に見舞われ、祖父から「そんな危険な東京にいないで、北海道に来て後を継げ」という鶴の一声で、北海道の滝川で暮らすことになりました。祖父は福井の出身で、16歳で北海道・滝川に移住し、天秤を担いで魚売りから始め、その後、造り酒屋を営み、北海道の議員や商工会議所の初代会長を務めました。

 

 五十嵐さんが創造するデザインやアートの世界の起源は、建築家の叔父様の存在と、音楽や芸術、日本の伝統文化などが当たり前にあった家庭で育ったことからきているのですね。最初はデザインに興味をもって多摩美術大学に入学され、在学中にアメリカ留学を決断されますが、それは何がきっかけだったのですか。

 

五十嵐 子どもの頃から、世界中、いろいろなところに行ってみたいと思っていました。僕が大学生のとき、60年代には1ドルが360円で、海外旅行をする人も留学する人もまだ少ない時代でした。留学生を受け入れる大学も少なく、欧米の10校に手紙を書きましたが、返事がきたのは3校でした。そのなかで僕が選んだのが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の大学院修士課程です。その頃、ちょうど多摩美に研究室ができたので、その研究生として1969年に留学しました。
僕はすでに4年制の多摩美の教育を受けていたので、UCLAでは、先生の理解もあって、まだ経験していない領域を学ぶことになりました。社会的、教育的な研究テーマに取り組んだり、陶芸や写真プリントの技術を学んだりしました。

 

 アメリカから帰国して、どこにも就職せず、すぐにご自身の事務所を開かれたのですよね。私(関)もアクシスに勤めていたときに、その青山霊園近くの事務所に何度か伺わせていただきました。

 

五十嵐 大学の先生から、特殊効果などの技術に携わる有名な映画会社を紹介されたりもしたのですが、僕は日本で仕事をしたいと考えていました。アメリカにいるよりも、速いスピードでいろいろなことを経験、吸収できると思ったからです。

 

 デザイナー時代は、アクソノメトリック(透視)という建築のパースの技法を使ったタイポグラフィやデザインが特徴的ですが、先ほどお話のあった叔父様の存在や、初めは建築を目指していたということも影響しているのでしょうか。

 

五十嵐 そうだと思います。東京で仕事を始めて気付いたら、僕の周りにはグラフィックデザイナーの知り合いはあまりいなくて、倉俣史朗さんや内田繁さんといった建築やインテリア関係の人ばかりで、そういう人たちと仕事をする機会も増えていきました。倉俣さんは、自分の手がけたお店がオープンしたときに、いつもみなを招待してくれました。そこにはデザイナー以外にも、彫刻家や画家、写真家など、分野の垣根を超えた多彩な人が訪れて、自然なかたちで出会い、互いにいろいろなものを吸収していった、かけがえのない時間を過ごしました。 僕が最初に取り組んだ仕事は、建物のサインや企業のロゴデザインでした。その数年後にCI(コーポレート・アイデンティティ)ブームが起こり、僕もたくさんその仕事をしました。僕がデザイナー時代に一番興味があったことは、建築やエンジニアリングの世界では多いと思いますが、全体のシステム開発や、いろいろなことを統合することで、それが自分の得意とする領域でした。

 

 

アーカイブの重要性に気付いたきっかけ

 

 ここからアーカイブについて伺いたいと思います。五十嵐さんは、かなり以前からアーカイブの重要性についてお話しされていましたが、そのきっかけは何だったのでしょう。

 

五十嵐 僕がアーカイブについて意識が向くようになったのは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程に留学したときのある体験がきっかけでした。そこでとても大きな文化的ショックを受けたのです。
当時、UCLA内に複数あった図書館のひとつが、その土地の出身で、優れた功績を残した建築家の図面をたくさん保管していて、そのコピーを一枚1ドルで誰でも入手できるシステムになっていました。大きな建築設計図面から、空間からディテールまでそろっています。それによって何がいいかというと、その建築家が亡くなった後も、彼の手がけた建物に小さな設計変更や大規模なリノベーションの必要性が生まれた際に、容易に図面を入手できるということです。このシステムを国が支援していたのですが、それもすばらしいと思いました。そういうことが60年代のアメリカで当たり前のように実行されていて、その文化的レベルに驚かされました。

 

 その運営主体は、図書館なのですか。例えば、司書のような方が寄贈された建築家の図面を整理され、そのコピーを販売していたということでしょうか。

 

五十嵐 そうです。ちょうどコピー機が普及した頃でもありました。図書館に限らず、いろいろなところでアーカイブ資料を保存し、うまく活用している事例がありました。

 

 その後、五十嵐さんは作品資料をご自身で保管、保全されてきたと伺いました。いつ頃から、どこで保管されていたのですか。

 

五十嵐 カリフォルニアでの経験を経て、その後、欧米のデザイナーと交流が盛んになって、彼らの仕事場を見る機会が増えていきました。そのオフィス空間にはストレージがあって、そこに資料がきちんと整理されていて、誰かが突然行ってもプレゼンテーションできるという、すばらしい状況をいくつも見ました。その中には、チャールズ・イームズさんのような大御所も、若いデザイナーもいました。
しかし、日々、増え続けていく資料を保管するには、地価の高い東京のオフィスでは難しいことです。ちょうどその頃、僕は寺田倉庫の寺田保信さん(現オーナー)と知り合う機会がありました。寺田さんがまだ若いときで、新しい試みに挑戦しようと考えられていたときでした。僕と彫刻家・造形作家の脇田愛二郎さんは、クリエイターの環境をよくしたいという思いがあり、よく話をしていました。そして、海外のデザイン事務所で見た、夢のような環境を日本でも実現できないかと思い、寺田さんに相談して倉庫を借りることにしました。1980年頃から、僕は意識的にそこに仕事の資料をとにかくどんどん入れていって、30年間ぐらい続けました。それが現在のアーカイブ資料の大半というわけです。

 

羽田 五十嵐さんは、一点もののアルファベットの彫刻や自主制作した作品などについては、写真だけを世の中に発表し、現物は自分の手元に残すということをしてこられたんですよね。先方に作品を渡していないので、今も現物を五十嵐さん自身が持っているという状況があります。

 

 2018年に北海道の札幌芸術の森美術館で開催された「札幌美術展 五十嵐威暢の世界」のときに、倉庫から貴重なマケット(模型)が出てきたとおっしゃっていましたね。模型はスペースを取りますし、日々の仕事が大変なので、どんどん廃棄しているとおっしゃる方が多いのですが、五十嵐さんもデザイナー時代はとてもお忙しかったと伺ったので、その間に仕事の資料を整備保管する作業は大変だったのではないかと想像します。

 

五十嵐 単純に仕事が忙しいからというのは、言い訳にはならないと僕は思うんです。アーカイブを整備したいと考えるなら、どんな状況下でもとにかく努力するしかないと思っています。資料の中には、仕事でうまくいったものだけでなく、うまくいかなかったものもあって、その両方から学ぶことが、山のようにあります。特に失敗から学ぶことは、じつにたくさんあります。そういう失敗から学ぶアーカイブの研究がなされると、教育的な観点からもすばらしいのではないかと思っています。

 

 『はじまりは、いつも楽しい デザイナー・彫刻家 五十嵐威暢のつくる日々』(柏艪舎、2018)でも、成功例だけでなく、失敗談についても書かれたとおっしゃっていましたね。

 

 

多摩美術大学と竹尾のアーカイブ事業に携わる

 

 多摩美術大学には、2018年にアートアーカイヴセンターという施設ができて、和田誠さんや佐藤晃一さんなどの資料も収蔵されていますね。五十嵐さんの作品も収蔵されていますか。

 

五十嵐 一部のポスターが収蔵されています。多摩美術大学は僕の母校であり、2011年から2015年まで学長を務めました。1989年に美術学部二部の創設にも携わりました。当時、社会人の教育が理想の姿にないことに気付いたからです。その必要性が叫ばれていたなかで、コンピュータと英語を駆使する若い人を育てることを目的に創設しました。残念ながら、2014年に閉じることになりましたけれど。
多摩美は、アーカイブに早くから目を向けていました。僕もお手伝いしたのですが、竹尾が創業100周年記念事業の一環として、1997年に20世紀を中心としたヨーロッパ諸国、アメリカ、日本などの歴史的なポスターを購入して、1998年からそのポスターコレクションの研究に竹尾と多摩美術大学グラフィックデザイン学科が共同して取り組み始めました。そのポスターというのは、ニューヨークの有名なラインホールド・ブラウン・ギャラリーがクローズするので売りに出したもので、約3,200点あります。それに関するデータベースを構築したり、収集に参加した人の様子を記録したり、教授陣だけでなく、若い人も研究に参加しています。その研究成果を書籍にまとめて何冊か出版していて、近年では2、3年に一度、そのポスター展を東京都庭園美術館で開催しています。
そういう流れのもとに、僕が多摩美の学長を務めていたときに、多摩美術大学アートアーカイヴセンターの建物が建ちました。大学院の人たちが使うスペースなどもあるようですから、展覧会だけではなくて、研究する環境も整いつつあるのかなというふうに思います。

 

 五十嵐さんは竹尾アーカイヴズの創設にも関われたのですよね。

 

五十嵐 僕は竹尾アーカイヴズの顧問を務めています。ここには、僕のポスターコレクションを中心に作品が収蔵されていて、1973年の初個展で発表したアニマルイラストレーションをはじめ、シルクスクリーンによる立体アルファベット、サマージャズフェスティバル シリーズ、世界デザイン博、EXPO'85 つくば万博(国際科学技術博覧会)などのポスターがあります。
竹尾アーカイヴズというのは、竹尾が2016年に設立したものです。紙の総合商社として、創業以来、取り組んできた紙の開発や見本帖製作、竹尾ペーパーショウや竹尾賞の記録など、これまで蓄積してきた知見や試みをもとに、21世紀の「紙の文化」に寄与する目的で設立されました。近い将来にアーカイヴズの公開を目指して、資料のデータベース化を行っているところですが、じつは当初の予定より少し公開が遅れていて、その次のステージとして将来こうあるべきということについても、まだ話し合っているところです。新型コロナウイルスの影響や戦争などで世界的にビジネスが厳しい状況がありますから、そういうことも多分に影響しています。

 

 

金沢工業大学内に「五十嵐威暢アーカイブ」を設立

 

 今秋、金沢工業大学に開設されるという「五十嵐威暢アーカイブ」について、お聞きしたいと思います。美大ではなく、理工系の学校に設立することを考えられたのはなぜですか。

 

五十嵐 この大学で僕は40年近くデザイン顧問を務めたということと、これからSTEAM教育(科学:Science、技術:Technology、工学:Engineering、アート:Art、数学:Mathematicsの5つの領域を対象とした教育概念)を取り入れていこうとしていて、ここに私の作品や資料を寄贈しアーカイブ化することで、おもしろい結果が生まれるのではないかという期待感があったからです。

 

 金沢工業大学は、建築アーカイヴス研究所も有名ですね。私たちはその取材で2度ほど訪れましたが、学生たちが生き生きと過ごすための場づくり、環境づくりにとても力を入れていて、ひじょうに活気があり、自由闊達な空気を感じました。その活動の一環として、「五十嵐威暢アーカイブ」ができることはすばらしいことだと思います。
おそらく五十嵐さんは、ご自身の作品や資料が学生の学びとなり、街中や社会の中で活発に使われていくことを希望されているのではないかと思います。今後の展望になるかもしれませんが、そういうふうになるためには、何かしらの仕組みづくりがないと難しいですよね。

 

五十嵐 僕はアドバイザーという立場で、意見を聞かれたら、できるだけがんばって答えるようにしていますけれど、それだけでは不十分だと感じています。今日の取材に参加してくれているデザイン史家・デザイン研究家の野見山桜さんや、僕のアシスタントを28年やってくれている羽田麻子さん、あるいは金沢工業大学の担当者など、こういう若い人たちが今、何を考え鼓舞しているか、みなの意見や夢などを取り入れながら考えていくことが大事だと思っています。美術館の場合は、作品を展示すれば、その役割はほぼ達成すると思いますが、大学ですから、もうひとつ何か乗り越えて切り拓いていく活動や編集作業が必要だと感じています。

 

 金沢工業大学には、どのような作品が収蔵されるのですか。それらはすべてデータ化されるのでしょうか。

 

五十嵐 デザイナー時代と彫刻家になってから、僕がこの50年間に生み出したほぼすべての作品です。グラフィック、プロダクト、立体アルファベット、クラフト、彫刻、模型、スケッチ、版下、図面などで、アイテム数は5,000点にのぼります。それに加え、道具や資料に書籍、自身が集めたほかの人の作品もあります。データ化については、これから進めていくことになると思います。

 

 現在の建物内に五十嵐さんのコーナーのようなものがつくられるのですか。

 

野見山 それについては、私から説明させていただきます。金沢工業大学には、ライブラリーセンターという図書館施設があって、その中に展示室と収蔵庫、研究室が兼ね備えられた五十嵐さんの作品や仕事や活動に関する資料を収蔵したアーカイブ施設が新たにつくられます。コーナーというより、きちんと施設としての機能が備えられたもので、改修工事が終わったところです。

 

 そこに五十嵐さんのアーカイブ資料が保管されて、そこで展示やワークショップを開催することもできるのでしょうか。

 

野見山 そうです。先ほどおっしゃっていたように、活用するためのプログラムを学校側と私とでいろいろと考えているところです。展示が常に行われている状況をつくることで、コレクションを広く見せていき、時にはそれを使ったワークショップを行うなど、教育的な役割も担う場を創造しようとしています。そういう意味では、アーカイブで所蔵する作品や資料群は、五十嵐威暢の活動の軌跡であるだけでなく、未来の創造に向けた教育のためのリソースという新しい役割が期待されています。
ほかにも、国内外で同じような活動を展開する教育機関や、デザイン・アート関連の企業や団体とのネットワーク形成や連携もできたらと考えています。また、作品が生み出された背景や社会の流れ、交流のあったデザイナーやアーティストについても研究して、その成果を展示発表することも想定しています。

 

 私たちが取材したなかで、デザイナーが亡くなられている場合は、お弟子さんが作品や資料の整理にあたられるケースが多く、ご本人が高齢の場合は、作業は困難をきわめます。そのため、とりあえず段ボールに入れて未整理のまま保管されている方が大半です。
そういうなかで五十嵐さんの作品や資料のアーカイブ化は、スタッフ等の体制も整備され、何よりご本人がお元気で自身の希望を伝えることもできるので、今後のデザインアーカイブ整備の模範になるのではないかと、今までにない期待感が私たちのなかにあります。

 

五十嵐 ただ、誰でもそうですけれども、毎年、年をとっていくなかで、やはりいろいろなハンディを感じますし、実際に表れてきています。いろいろなことを忘れていて、思い出せないこともあります。ですから、周りの人も含めて、共同研究のようなかたちでやるしかないと思っています。当然のことですけれど、長生きするかもしれないけれど、しない可能性が高いなかで自分は今、何をやるべきかと常に考えています。今回、金沢工業大学内に「五十嵐威暢アーカイブ」を設立するのは、ある意味、自分にとって実験的な試みだと思っています。

 

 

国内外の美術館でのアーカイブ収蔵状況

 

 五十嵐さんのアーカイブ資料は、金沢工業大学、多摩美術大学アートアーカイヴセンター、竹尾アーカイヴズにあって、そのほかに国内外の美術館にも収蔵されていますか。

 

五十嵐 国内の美術館は、少ないです。海外の美術館は、50カ所くらい収蔵されています。最初のきっかけは、70年代後半にアメリカの化粧品会社エスティ ローダーのご夫妻が来日されたときに、数名のデザイナーのポスターを購入されたのですが、その中に僕のデザインしたポスターも入っていました。そこからニューヨーク近代美術館(MoMA)とのつながりが生まれたのが始まりでした。最近、また海外の美術館から作品寄贈のリクエストが増えています。

 

 それはデザイナー時代の作品ですか、それとも彫刻家になってからの作品ですか。

 

五十嵐 両方ですけれども、量としては、圧倒的にデザイン作品の方が多いですね。ポスターやクラフト、プロダクトなどで、僕は家具もデザインしましたし、時計やトランプ、ありとあらゆる領域をやっているので、さまざまなものが収蔵されています。ドイツ・ミュンヘンのピナコテーク デア モデルネ美術館は、20世紀と21世紀の芸術、建築、デザインの分野の世界最大規模のすばらしいコレクションをもっていますが、ここにも僕のポスターやプロダクトの作品が収蔵されています。

 

 海外の美術館の作品寄贈にあたっては、五十嵐さんから働きかけられたのですか。

 

五十嵐 いえ、圧倒的に先方からコンタクトしてくるケースがほとんどです。MoMAでは、アクソノメトリック図法によるMoMAオリジナルカレンダーやトランプなどをつくり、15年くらい仕事をしたこともあって、それらを含めて多くの作品が収蔵されています。
余談ですが、当時、こんなエピソードがありました。MoMAの方から、「日本のデザイナーの友人たちに、コレクションにしてほしいからといって作品を勝手に送ってこないでほしいと言ってくれ」と言われたのです。彼らがそれを税関で引き取らなければならず、それにお金がかかって大変ということでした。「いつも世界中のデザインに目を光らせていて、そのなかで誰がいい仕事をしているかを見きわめ、そこから何をコレクションするかを決めるのは私たちの仕事なので、あなたたちが送ってきてもここに収蔵されることはありえません」ということでした。

 

 MoMAにパーマネントコレクションされたいという方は多いでしょうね。みなさんにお伺いしているのですが、日本にデザインミュージアムがないことで、戦後、日本をつくり上げた方々の作品資料が散逸したり、廃棄されたりする状況があることを知って、私たちに何かできないかということから、このデザインアーカイブの活動は始まっています。日本にデザインミュージアムがないという状況について、どのように思われますか。

 

五十嵐 MoMAやグッゲンハイム美術館など、世界にはいろいろな美術館がありますが、都心の地価が高いという理由から、最近では地方都市やデザインミュージアムにあまり熱心ではない国など、いろいろなところに支店のような美術館がつくられ始めています。
日本も、美術館のような大きな建物をつくるには、とりわけ東京は地価が高すぎることがネックになっていると思います。また、アート作品と違って、デザイン製品の難しいところは、展示される作品が市場で売られていることです。しかし、北欧では、60年代に美術館にコレクションとして収蔵されたものが、今も店頭で手に入る状況があって、そこにグッドデザインに対する考え方の違いが表れていると思います。

 

 

デザイナーから彫刻家に転身した理由

 

 最後に、もうひとつお伺いしたいのですが、五十嵐さんは時間に追われるようなコマーシャル広告ではなく、きちんと自分の考えを発信し、誰もがうらやむような独自の世界を築かれ、順風満帆だったなかで、突然、アートの世界に転身されました。デザインとアートは、同じクリエイションではありますが、アートはデザインと違って人から頼まれてつくるものではなく、内側から込み上げてくる情熱でものをつくる、表現するものだと思います。これまでも多くの方から聞かれていると思うのですが、デザイナーから彫刻家に転身された理由を、あらためて伺えたらと思います。

 

五十嵐 あるとき新聞を開いたら、東京大学のある教授の記事が出ていたんですね。どんなに優れた人物、専門家であっても、全力で研究したことの先には、それ以上の未来はない、と。その期間は、20年だというのです。つまり、約20年、全力で考え出したことを、さらに20年追いかけることは難しいというか、不可能なので、20年がんばったら、テーマを変えてみてはどうか。そうすれば、新たな視野、新たな世界が広がって見えるだろう、というようなことが書かれていて、なるほどと思ったのです。そして、僕はデザイナーとして活動を始めてから、約20年後に彫刻家に転身しました。

 

 視点を変えてみようと思われたのですね。

 

五十嵐 そうですね。1994年に彫刻家に転身してからは、10年単位で活動の拠点を変えています。最初はロサンゼルスで活動していて、10年後の2004年に帰国して、神奈川県横須賀市秋谷にアトリエを構えて、さらに縁があって、北海道新十津町の廃校になった小学校を改修して「かぜのび」と名づけたアトリエ兼ギャラリーを2011年につくり、2014年からそこで本格的に創作活動を始めました。

 

「かぜのび」外観

「かぜのび」外観
Photo by Machiko Kosuge

 

制作中の五十嵐さん

制作中の五十嵐さん
Photo by Asako Hada

 

「かぜのび」のアトリエ

「かぜのび」のアトリエ
Photo by Koji Sakai

 

「かぜのび」のギャラリー

「かぜのび」のギャラリー
Photo by Yasuhiro Tsushima

 

 

五十嵐 デザイナーから彫刻家へというと、年をとった人の老後の遊びのように思う人もいるかもしれませんが、僕はそういう意識でつくっていません。僕は人生を楽しみたいという気持ちがすごく強いんですね。そのためには、アートの方がより自由を獲得することが可能だと感じたのです。
僕は単に彫刻作品をつくるのではなく、パブリックアートの世界を創造したいと考えています。それは、あらゆることが包含される、領域を超えた世界です。当たり前と思われていることに疑問を抱き、いろいろなことをひっくり返し、壊しながら再構築して新しい世界に挑戦したいといつも考えています。
といっても、僕はデザインの仕事をやめてしまったわけではありません。最初はまだデザイナーの肩書きの印象が強かったので、なるべくデザイナー時代の知り合いに仕事をお願いしたり、受けたりすることは避けていましたが、その後、10年、15年と経ってから、アートとデザインの仕事を両方するようになり、現在に至っています。
デザインとアートを比較してみたら、いろいろおもしろいことがわかってきました。例えば、デザイン作品というのは、できあがって人に手渡したときから、その美しさと機能が日に日に古くなっていくけれど、ファインアートは、日々、価値が上がっていく。そういうおもしろい比較がいろいろできるんですね。
金沢工業大学の「五十嵐威暢アーカイブ」では、収蔵作品・資料の展示を定期的に開催しようと考えているのですが、その展示手法は「比較」をひとつのテーマにしているんです。比較というのは、いいか悪いか好みで決めるのではなく、右に置いたものと左に置いたもののどこが違うかという答えを探し出すような作業です。難しいことをやろうとしているのではなく、誰でも楽しめる、なるほどと思うような、そういう理解を次々と編み出していく世界を創造していきたいと考えています。

 

 デザインとアートということで言えば、以前はアートとデザインのあいだに隔たりがあって、よく議論になりましたけれど、今の20代、30代は、ジャンルの壁を軽々と飛び超えて、アート作品的なものをつくる人も増えてきています。

 

五十嵐 いろいろな動きが出てきて、ある意味、おもしろいですね。ただ、もうちょっと、なんて言ったらいいかなあ。工夫、あるいは、質の高い理解、そういうものがもっとあるといいんだろうなと思います。 最近、こういうことがありました。1981年にオープンした渋谷PARCO・パート3のために僕がデザインしたアルファベットのロゴが、2019年に新しく建て替えられた渋谷PARCOに恒久的に設置されることになったのです。僕の場合は、コーポレートロゴやCIの全盛時代に育ってきたわけですけれど、そのときに生み出した作品がこうして今の時代にパブリックアートとして設置されるというのは、おもしろいことだなと思いました。それからこれも最近のことですが、海外の写真集に僕のデザインしたサントリーホールの彫刻が掲載されたんですね。

 

野見山 世界中にあるいろいろなパブリックアートの彫刻作品をスケーターが滑る風景を撮影している写真家がいるのです。その方の写真集がフランスの出版社から刊行されることになって、五十嵐さんのサントリーの彫刻作品の写真も掲載したいとコンタクトがあったのです。第一版のときには、五十嵐さんは断られたので、五十嵐さんの作品がレイアウトされるはずのページは真っ白な状態で出版されました。第二版を刷るときに、またコンタクトがあって、そのときは五十嵐さんがOKを出されたので掲載されました。その写真集の制作意図としては、屋外にある彫刻作品をストリートカルチャーの代名詞のようなスケートボードで滑ることで、おそらくパブリックアートはみなのものであるということを言いたいのではないかと思うのです。

 

 梅田正徳さんの場合は、梅田さんのデザインした椅子やプロダクトのイラストを描いてSNSにアップする人がいたりして、近年、海外で若い世代のファンが増えているそうです。彼らはデザインやアートといったジャンルは関係なく、純粋にいいもの、おもしろいものに対して反応しているように思います。金沢工業大学の「五十嵐威暢アーカイブ」も今の若い人たち、そして、後世の人々にどのように受け止められ、研究され活用されていくのか楽しみですね。また、今、個展を2つ予定されているそうですね。今後もたくさん作品が生まれていくことと思いますので、そちらも楽しみにしております。本日はありがとうございました。

 

 

五十嵐威暢さんのアーカイブの所在

問い合わせ先
五十嵐威暢アーカイブ https://igarashiarchive.jp
竹尾アーカイヴズ https://www.takeoarchives.com
多摩美術大学アートアーカイヴセンター https://aac.tamabi.ac.jp
五十嵐威暢美術館 かぜのび https://takenobuigarashi.jp/kazenobi-jp/