日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
石本藤雄
テキスタイルデザイナー、陶芸家
インタビュー:2023年9月21日 14:30〜16:00
取材場所:オンライン
取材先:石本藤雄さん
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
PROFILE
プロフィール
石本藤雄 いしもと ふじお
テキスタイルデザイナー、陶芸家
1941年 愛媛県砥部町生まれ
1960年 東京藝術大学美術学部工芸科に入学、グラフィックデザインを専攻
1964年 繊維商社 市田株式会社に入社
1970年 市田を退社後、世界周遊の旅へ
フィンランドのマリメッコの関連会社ディッセンブレに入社
1974年 マリメッコに入社、デザイナーとして採用される
1989年 アラビアのアート部門で客員作家として作陶を開始
1994年 カイ・フランク デザイン賞 受賞
1997年 ヘルシンキ市文化賞 受賞
2006年 マリメッコを定年退職
2010年 フィンランド獅子勲章プロ・フィンランディア・メダル受章
2011年 旭日小綬章 受章
2020年 帰国
2022年 愛媛県松山市道後にアトリエを開設
Description
概要
60年代から70年代にかけて、多くの日本人デザイナーが世界に羽ばたき、活躍の場を広げた。そのなかで石本藤雄が興味を惹かれたのは、世界中に多くのファンをもつフィンランドのテキスタイルメーカー、マリメッコだった。フィンランドの関連会社に勤めながら毎年、マリメッコにデザイン案を提案し続け、3度目に採用のチャンスを掴んだ。そして、1974年から32年間にわたって同社で活躍。その間にデザインしたテキスタイルの数は400点以上、同社で歴代2位を記録する。また、マリメッコに在籍しながら、1989年からフィンランドの陶磁器ブランド、アラビアのアート部門で作陶を始めた。生活を豊かにする多彩な作品を生み出し、その功績が讃えられて1994年にフィンランドで活躍するデザイナーに与えられるカイ・フランク デザイン賞を受賞し、2010年にはフィンランドに多大な貢献を果たした人物に授与される、フィンランド獅子勲章プロ・フィンランディア・メダルを受章。世界にその名を轟かせた。
石本が創造する世界は、森と湖の国フィンランドと、生まれ故郷の愛媛県砥部町で幼少期に親しんだ自然の風景がベースになっている。それは特別なものではなく、どこにでもあるような風景であり、どこか懐かしさも感じられる。独自の感性と観察力、色彩感覚によって、ささいな日常の中に輝くような美しさを見出すのが、石本の才能なのである。マリメッコのテキスタイル作品は、音楽を奏でるような心潤う色や、風に吹かれてサワサワとなびく草木の音、甘い花の香りが漂ってくるような五感を刺激する魅力がある。陶芸作品では、道端や野原に生えているツクシやフキ、オオイヌフグリなども題材になり、愛媛県の実家がみかん農家だったこともあり、果物をモチーフにすることも多く、その丸々と実の詰まったフォルムから生命のエネルギーが感じられる。
2006年にマリメッコを退職後は、陶芸活動に専念。2020年に帰国し、2022年に愛媛の道後にアトリエを構え、今も精力的に活動している。石本のマリメッコのテキスタイルは現在もリバイバルされて多様なプロダクトや空間に展開され、自身でも当時商品化されなかったアイデアをもとに、手ぬぐいなどを制作しているという。こうしたリバイバル商品などの開発にあたっても重要な要素となる、マリメッコやアラビア時代、および現在のスケッチや資料をどのように整理・保管されているのか。これまでの足跡を振り返りながら、お話を伺った。
Masterpiece
代表作
マリメッコのテキスタイル
「Onni(オンニ:幸せ)」(1975)、「Kukkaketo(クッカケト:花畑)」(1975)、「Kuja(クヤ:路地)」(1976)、「Sumo(スモウ:相撲)」(1977)、「Jama (ヤマ:山)」(1977、「Suvi (スヴィ:夏)」(1977)、「Taiga(タイガ:草原)」(1978); 「Kuuma(クウマ:暑)」(1978)、「Seven Flowers(セブン・フラワー:7つの花)」(1978)、「Sarastus(サラスツス:夜明け)」(1980)、「Kuiskaus(クイスカウス:ささやき)」(1981)、「Nauru(ナウル:笑い)」(1982)、 「Ilo(イロ:よろこび)」(1981)、「Maisema(マイセマ:風景)」(1982)、「Linnunpesä (リヌンペサ:鳥の巣)」(1982)、「Ostjaki(オストヤッキ:フィン族の名前から引用)」(1983)、「Lompolo(ロンポロ:ラップランドの小さな湖)」(1983)、「Isokarhu (イソカルフ:北斗七星)」(1983)、「Sinitaivas(シニタイヴァス:青空)」(1985)、「Koski(コスキ:渓流)」(1986)、「Kesanto(ケサント:休耕地)」(1988)、「Salava(サラヴァ:柳の一種)(1988)、「Lainehtiva(ライネヘフティヴァ:うねり)」(1988)「Korsi(コルシ:ストロー)」(1989)、「Linnanpuisto (リナンプイスト:城の庭園)」(1989)、「Lepo(レポ:休息)」(1991)、「Kesästä kesään(ケサスタ・ケサアン:夏から夏へ)」(1991)、「Suuri Taiga(スウリ タイガ:大草原)」(1992)、「Ukonhattu(ウコ ンハッツ:トリカブト))(1993)、「Sudenmarja(スデンマリヤ:オオカミのイチゴ)」(1993)、「Siimes (シイメス:木陰)」(1995)、「Ruusumaja (ルウスマヤ:バラの館)」(1995)、「Paratiisi (パラティッシ:楽園)」(1996)、「Lehmus(レフムス:菩提樹))(1997)、「Vire(ヴィレ:幡がなびく)」(1997)、「Juhla(ユフラ:祭日、お祭り)」(1998)、「Lähde(ラフデ:泉)」(1999)、「Hurmio (フルミオ:夢中)」(1999)、「Neidonkorento (ネイドンコレント:トンボ)」(2002)、「Villi ja vapaa(ヴィッリ ヤ ヴァパ:おてんば)」(2003)、「Selänne(セランニ:水上から見た遠景)」(2003)、「Tuulispää (ツーリスパー:一吹の風)」(2004)
陶芸作品(アラビアで制作した作品含む)
「山」、「かぼちゃ」、「赤い実」、「オオイヌノフグリ」、「みかん」、「やまもも」、「瓜」、「白瓜」、「冬瓜」、「南天」、「ストライプ」、「梅」、「ヘチマ」、「青い実」、「海」、「ぶどう」、「花」、「紅白花」、「柳」、「オリーブ」、「陶の花」、「円盤」、「蕾」
Mustakiviのプロダクト
MUKI マグカップ 、TUULI カップ、KASANE カップ 、KASANE プレート、PIKKU 小皿、SOBA プレート、SOBA はし置き、HORISONTTI プレート 、LONG PLATE 長角皿、MIZUHIKI プレート、ONNEA ゴブレット、ONNEA 鉢、ONNEA 大鉢、CUP カップ、PLATE 丸皿、PLATE 角皿、NASSEN てぬぐい、CHUSEN てぬぐい、CHUSEN ハンカチ 、いろは フェイスタオル、KUKKIA ブローチ、FUJIWO ISHIMOTO フレーム付ポスター、FUJIWO ISHIMOTO ポストカード、PLEATS フラワーベース
書籍
『Fujiwo Ishimoto: Matkalla Resan On the Road』(Marimekko Oyj、2002)、『石本藤雄の布と陶』(パイインターナショナル、2012)
Interview
インタビュー
スケッチや資料は整理していません。自分のなかで一番弱い部分ですね
大変な仕事だと思っています
大学時代に陶芸に触れ、マリメッコと出会う
ー 以前、このPLATのデザインアーカイブの取材で川上元美さんから、東京藝術大学の同級生に多彩なデザイナーがいると伺いました。松永真さんや上條喬久さん、そして石本さんもいらっしゃったと。そこでぜひ石本さんにもお仕事に関することやアーカイブ資料についてお話を伺ってみたいと思い、ご連絡させていただきました。
石本 藝大の同級生には、ほかにもいろいろな人がいましたよ。絵本作家では『わたしのワンピース』(こぐま社、1969)を描かれた西巻茅子さんや、「14ひきのシリーズ」(童心社、1983〜)を手がけられた、いわむらかずおさんなどもいました。これらの絵本をおそらくご覧になられたことがあるんじゃないかなと思います。
それまでグラフィックとプロダクトデザインを教える図案科という名称でしたが、僕はラッキーだったなと思います。僕が入学したのは1960年で、僕らの代になって生徒数を25人から70人に増やして、デザインと工芸を一緒にした工芸科に変わったんです。1、2年は基礎的なことを学んで、3年生の前期に金工(彫金、鍛金、鋳金)、漆、陶芸、染織、木工、グラフィック、プロダクトデザインをそれぞれ3週間ずつ教わりました。教える先生には、人間国宝の作家もいました。4年生のときに将来に向けてどの方向に進みたいかを考えて、コースを選択するのですが、大半の人は工芸を選んで大学院に進みました。工芸を学ぶには、1年間では足りないですからね。僕はグラフィックデザインを選びました。グラフィックやプロダクトデザインを選択した人は、ほとんどが就職したと思います。
ー グラフィック以外で、石本さんが興味をもたれた授業はありますか。
石本 陶芸はとても興味がありましたし、実際にやってみておもしろかったです。でも、陶芸の道に進むということは、田舎に帰る感じがしてね。要するに、僕はとにかく東京に出たいと思って、東京の大学を受けたわけです。田舎には帰りたくなかった。でも、陶芸を経験できたことは、とてもよかったと思っています。陶芸の授業で初めてろくろを使い、30センチの高さの花瓶をつくることになりました。僕はつくしをモチーフにした花瓶をつくろうと考えたんです。つくしの袴(はかま)って、わかりますか。袴の部分を山形にナイフで引っかいて線描きしたのですが、その技法は最近の作品でも使用しています。その花瓶は自分でもよくできたなと思って、気に入っていましたが、大学に置いておくことになったんです。その後、まだあるかなと思って大学に問い合わせてみたら、紛失してしまったそうで残念でした。
ー マリメッコを知ったのは、大学時代だったそうですね。ほかにもいろいろなテキスタイルブランドがあるなかで、マリメッコのどんなところに魅力を感じたのですか。
石本 大学3年生くらいのときに、スウェーデンのデザイン誌『FORM』や、ドイツのインテリア誌などにマリメッコのテキスタイルが掲載されていたのを見たのが最初でした。それまでテキスタイルのデザインは、伝統的な小さな花柄が多かったなかで、デザイナーのマイヤ・イソラのケシの花をモチーフに大胆に描いた「Unikko(ウニッコ:ケシの花)」など、モダンアートのような斬新なデザインは前代未聞、とても刺激的でした。僕はそのなかでも特に、マイヤが民族衣装からインスピレーションを得てつくった「FANDANGO(ファンダンゴ:ダンス・音楽)」というテキスタイルにすごく興味をもっていました。マリメッコの会社で働きたいと思ったのですが、藝大の先輩に「マリメッコは女性しか入れないよ」という冗談を真に受けて、そのときは落胆していました。
ー 少し上の世代の仲條正義さんなど、藝大でグラフィックデザインを専攻された方は、資生堂に就職された方が多いですよね。
石本 石岡瑛子さんもそうですね。僕も就職先を考えるときに一番興味があったのは、資生堂です。そこですでに資生堂で働いていた石岡さんに僕が藝大でつくった作品を見てもらったのですが、「あなたは資生堂よりも市田の方がいい、市田に行きなさい」と言われました。市田というのは繊維業界トップの商社で、石岡さんもその会社に興味をもっていたそうです。じつは藝大の主任教授にも、染織の授業で僕のつくるものを見て、僕にはテキスタイル関係の会社が性格的に合っていると言ってくれたんですね。そういうみなさんの助言があって市田の会社に入り、テキスタイルの道に進んだことは、その後の僕の人生にとってとてもよかったと思っています。
市田では、入社してすぐ呉服の担当になりました。新人はあまり人がやりたがらない部署に送られるわけです。僕はそれまで着物のことなんてまったく知りませんでしたが、初めて小紋柄を見たときに、緻密に引かれた細い線の美しさに驚き感動を覚えました。こういう世界があるんだと思ってね。それから日本人特有の美意識とか、どのようにしたらハーモニーを奏でるのかとか、似通ったものだけを集めるのではなくて、異なるものを合わせた対比の美しさなど、さまざまなことを勉強して着物の世界に深く入っていきました。着物そのもののデザインだけでなく、着付けの仕方や、モデルに着物を着せて写真撮影をするとか、PR誌をつくるなど、グラフィックやアートディレクションの仕事にも携わりました。
マリメッコのテキスタイルの実物を見たのは、その頃のことです。フィンランドのヘルシンキにあるマリメッコのショップの店長をしていた方が知人の家に来ていて、そこで持って来られていたテキスタイルをたくさん見せていただきました。ほとんどがマイヤの手がけた大柄の抽象的なデザインでした。
ー 市田の会社はとてもおもしろそうなところだと思いますが、1970年に退社されて世界一周の旅に行かれたのはどうしてですか。60年代から70年代にかけて川上元美さんなど、さまざまな人が世界の舞台で挑戦しようと羽ばたいていた時代だったと思いますけれど。
石本 僕は田舎を出たいと言って東京に来て、さらに海外に出てしまったわけですが、何かの目的があってというわけではなく、違った世界をのぞきたい、世界を見たいと思ったんです。川上くんは、イタリアのアンジェロ・マンジャロッティ建築事務所に行かれましたが、その頃にはもう日本に戻ってきていましたね。僕は退職金と愛車を売却して旅費を工面して、いろいろなところを周遊できる航空券を購入して、最初にアメリカに行きました。1970年のことです。当時、グラフィックデザイン界では、アメリカが一番注目されていましたからね。「I(ハート)NY」のロゴが有名ですが、巨匠ミルトン・グレイザーらがいる、ニューヨークのプッシュ・ピン・スタジオを訪ねたりしました。そこでいただいたポスターを今でも持っています。
ニューヨークでもマリメッコのテキスタイルを扱うお店に行って見て、やっぱりいいなと思いました。それからモントリオール、ロンドン、コペンハーゲンに行きました。このまま日本に帰るよりも、もう少し外国にいてできたら仕事もしてみたい、それならマリメッコがいいと思い、フィンランドに向かったんです。マリメッコで働きたいという、学生時代からの夢をあきらめきれませんでした。
自然の風景を題材にしたテキスタイル
ー マリメッコにはどなたかの紹介を受けて行かれたのですか。
石本 いえ、紹介などありませんでした。すごくラッキーなことに、すでに2年ぐらい前からデザイナーの脇阪克二さんがマリメッコで働かれていたんですね。脇阪さんは、日本人で初めてマリメッコに採用された方です。マリメッコを訪ねたときに、創業者で社長のアルミ・ラティアさんは不在だったので、脇阪さんからいろいろお話を聞きました。それから3日後くらいにアルミさんとお会いすることができました。堂々として、颯爽と歩かれていた姿が印象的でした。僕はそれまでテキスタイルのデザインを手がけたことがなかったので、市田にいたときにアートディレクションを手がけたPR誌を見ていただきました。当時のファッションアイコンだった、モデルのヴェルーシュカ・フォン・レーエンドルフを表紙にしたビジュアルブックで、アルミさんは中でも北海道の釧路の草原で撮った写真を興味深そうに見ていました。
けれども、マリメッコの会社では、グラフィックデザインの仕事は今すぐにはないということで、アルミさんの息子さんのディッセンブレという関連会社を紹介いただきました。ディッセンブレというのはフランス語で12月という意味で、ギフト商品を扱う会社です。そこでは商品をどう撮るとか、カタログにどうレイアウトするかというグラフィックデザインの仕事や、商品のディスプレイなどにも携わりました。試用期間は3週間と言われたのですが、僕はその会社で働き始めて1週間後に本採用されました。
ー その後、どのようにしてマリメッコの会社で働けるようになったのですか。
石本 年に1度、マリメッコに企画をプレゼンテーションできるということで、毎年、企画を考えて提出していました。3度目くらいのときでしたかね。イタリアの建築デザイン誌『アビターレ』に、ポーランドのザリピエ村という農村の写真が掲載されていたのを見て、ひらめいたのです。その村では家の外壁に花柄模様を描く文化があるようで、それをモチーフにしたいと思ったんです。マリメッコにその記事に興味があるという話をしたら、現地に行って見てきなさいと調査研究のために出張旅費を出してくれて、実物を見ることができました。戻ってきてから、ロール状のトレーシングペーパーを150センチ幅に切って、太いマジックでデザイン画を描きました。そのとき使ったマジックは、フィンランド製ではないのですが、当時のポスターカラーでは出ないような美しい発色で、特にピンクの色がきれいでした。イメージを伝えるのに、色は大事ですからね。そして、クジャクと草花をモチーフに、赤、緑、青、ピンクといった鮮やかな色を使って描きました。部屋中、インクの匂いが充満していましたね。そして、ついにそのデザインが認められてマリメッコに採用が決まったのです。そのデザインは、「kuja(クヤ:路地)」という名称で商品化されました。
ー グラフィックデザインは1枚の絵の中で完結しますが、テキスタイルデザインは一定の幅で同じ柄を連続してつなぎ合わせるリピートという技術が必要ですよね。
石本 マリメッコのテキスタイルには、1メートルほどしてからリピートする柄もありました。長い反物では、リピートによって絵が生きるということもあります。僕の「Taiga(タイガ:草原)」というテキスタイルは、8月頃の水田をイメージして、稲穂が出る前の葉の先端が風になびいている様子を描いています。これはどこを切ってもいい、途切れることなく永遠に続いていくもので、そういうデザインが一番理想的だと僕は思っています。
ー 石本さんがマリメッコでデザインされたテキスタイルというのは、マリメッコのデザインを目指してつくられたのでしょうか、それとも石本さんの個性をそこに載せてデザインされたのでしょうか。
石本 一般的なマリメッコのデザインのイメージというと、マイヤの花柄や、黒白、赤白のストライプなどでしょうか。でも、社内で特にマリメッコのデザインとは何かとはみな言いませんでしたし、アートディレクターも固定されたデザインを求めていなかったと思います。みんなどんどん脱皮しながら、新しいものを生み出していました。芸術作品を生み出すようにね。それがとにかくおもしろかったです。クリエイトするやりがいがありました。
ー 石本さんのマリメッコのテキスタイルデザインは、草花など、自然の風景が多いですが、それは生まれ故郷の自然風景でしょうか、それともフィンランドで見た風景なのですか。
石本 どちらもありますが、根底には愛媛県砥部(とべ)の生まれ故郷の風景があるかもしれません。僕の故郷は、池に睡蓮が咲いていて、小川が流れていて、山があって、日本中、どこにでもあるような普通の景色です。けれども、山というのは、その土地特有の形をしていて、それぞれに異なると思います。砥部の障子山は、なだらかな山並みの中に飛び抜けてきれいな三角形のとんがり頭が特徴です。帰郷途中に電車の中からその山が見えてくると、すごく懐かしい気持ちになって、いいなあと思うんですね。子どもの頃、いつもその麓で遊んでいましたから。ヘルシンキには、山がないんですよ。かすか地平線の彼方に雲が山並みのように見えるときがあるんですが、そのときに故郷を思い出して懐かしくなったりしましたね。
砥部の僕の育った家は、戦前まで砥部焼の窯元の作業場があったところでした。その土地を僕の父が購入して、新たに家を建ててみかん農家を営んでいました。すぐ横には3つぐらい登り窯があって、よくその窯の中で遊びました。今はもう壊してしまって、跡形もないですけれども。家の裏には、制作に失敗して壊した焼き物のクズの山がありました。80年代に日本に陶芸ブームが巻き起こって、そういうクズに興味をもって掘り起こしに来る人がたくさん来ていたようです。
ー 石本さんはテキスタイルデザインの製法もさまざま駆使されて、日本の伝統的な墨流しを取り入れた「Koski(コスキ:渓流)」や、筆致を活かして4色の十字を描いた「Sumo(スモウ:相撲)」、クレヨンの質感やタッチを活かした「Maisema(マイセマ:風景)」、「Nauru(ナウル:笑い)」という作品では自分でハンドプリントするなど、ユニークなつくり方をしているものもありますね。
石本 「Koski(コスキ:渓流)」は、マリメッコの社内の流し台に自分ですった墨を流して、和紙を浸けて水面にできた絵を写し取りました。それを7版に分けて色を載せてプリントしてもらいました。クレヨンのタッチを活かすというのは80年代当時、世界中で流行っていてね。「Maisema(マイセマ:風景)」では、4色のクレヨンを使って重ね塗りして表現しました。「Nauru(ナウル:笑い)」は、一種のゲームのようでした。1枚に2色のストライプの模様を入れた版を自作して、144センチ幅の生地の上に乗って自分の手でプリントして仕上げたものです。僕が乗ったら、その重みで生地がへこむでしょう。問題なくうまくいったので大丈夫でしたけれど。若かったんですよ、僕も。
アラビアで作陶を始める
ー マリメッコに在籍中、アラビアで作陶を始められましたが、陶芸に興味を持たれたのは、幼少期の原体験があったからでしょうか。
石本 先ほども言いましたが、大学までは陶芸をやることが田舎に帰ることにつながる気がしたので、それまでは考えていませんでした。陶芸をやってみたいと思うようになったのは、80年代に入ってからです。陶芸の世界で巨匠と言われるビルゲル・カイピアイネンのアラビアでつくったお皿に興味を惹かれたことと、80年代末にアメリカで活躍されている陶芸家の金子潤さんのつくる作品に感動したことがきっかけでした。金子さんはアメリカのネブラスカ州オマハに暮らしていて、アラビアに3カ月間、客員作家として招聘され、そのときにお会いしました。金子さんは、お茶碗やお皿のような食器をつくるのではなくて、アブストラクト(抽象芸術)の作品を制作され、それもとても大きなサイズのものをつくられていました。フィンランドの焼き物でそういう芸術作品を見たことがなかったので驚き、何かマリメッコのデザイン精神にもつながるものがあるようにも感じていました。
陶芸は、テキスタイルとは違ったおもしろさがありました。そこから強く惹かれるようになって、アラビア文化基金の奨学金制度を利用して、マリメッコを半年間休職させてもらって、アラビアのアート部門に客員作家として陶芸を学びました。さらに、マリメッコを2カ月間休職させてもらって、金子さんに招待されてオマハに行き、そこで陶芸の作品づくりをさせていただいたり、テキスタイルデザインのアイデアを考えたりしました。のちにマリメッコで商品化された「Lepo(レポ:休息)」というフリーハンドによる線描きのデザインは、オマハにいたときに生まれたものです。これは子どもの頃、砥部の実家にいたときに、野良仕事をして草っぱらにごろんと寝転んで休んだときの記憶をイメージしたものです。その後、僕は2006年までマリメッコでの仕事と並行して、週末にアラビア内のアトリエで作陶を続けました。
Lepo(レポ:休息)」(1991)
ー 石本さんは2006年にマリメッコを定年退職されて、その後もしばらくアラビアに在籍され、2020年に帰国されますが、日本に戻ろうと思われたのは何かきっかけがあったのですか。
石本 フィンランドにずっといたいという思いはなく、日本にいつかは帰ろうと思っていました。それまで住んでいたヘルシンキの家を売却して、2020年9月に日本に戻ってきました。日本に戻って何をやるかは具体的に考えていなかったのですが、これまでやっていた焼き物をやりたいとは思っていました。ただ、アトリエの場所や窯をどうするかということを考えていて、結局、決まったのが帰国してから2年後の2022年でした。道後にあるMustakivi(ムスタキビ)というお店のある建物内にアトリエを構えることになって、そこに以前から使っていた道具や、アラビアで使っていたときと同じサイズの窯を取り寄せて入れました。Mustakiviにはショップやギャラリーがあって、僕の作品も販売してもらったり、個展を開催してくれたりしています。
Mustakiviのショップ&ギャラリー
ー 日本でも北欧のデザインはとても人気です。私たちがイメージする北欧のイメージは、北欧ならではのライフスタイルやインテリアに対するこだわり、豊かな生活などがあると思います。また、マリメッコのテキスタイルやアラビアの食器、イッタラのガラスの器など、生活に寄り添う北欧メーカーのつくるすばらしい商品があり、それらが総合的に合わさって魅力を生み出していると思います。石本さんがヘルシンキで50年間デザイナーとして、作家としてそういう会社で仕事をされ、実際に生活をされたなかでフィンランド独特のデザインの魅力、あるいはデザインを生む土壌について何か感じられたことがあれば、ぜひ伺いたいのですけれど。
石本 僕は人だと思っています。カイ・フランクやオイヴァ・トイッカ、カイピアイネンなど、北欧には本当にすばらしいものをつくる人がたくさんいて、クリエイターとして尊敬していました。そんな彼らに直接お会いして話ができたことは、僕はすごくラッキーだと思います。彼らはもう亡くなってしまいましたが、彼らがデザインしたものは今も残っていて、生活で使われていますよね。
そういう彼らが手がけたものや、イッタラ、アラビア、アルテックのものなどを紹介する「フィンランドのライフスタイル 暮らしを豊かにするデザイン」というタイトルの展覧会が今年の4月から香川県の高松市美術館を皮切りに巡回しています。そこに展示されているのは、ほとんどがインテリア家具・雑貨のオンラインショップのScope(スコープ)さんが扱っているものです。僕の花のレリーフ作品もたくさん扱ってくれていて、カイピアイネンの花のお皿の横に僕の「陶の花」という作品を展示してもらって光栄でした。この展覧会は、今年の夏に盛岡の岩手県立美術館、来年は広島県のひろしま美術館や福島県のいわき市立美術館に巡回する予定です。
ー 日本と北欧のデザインは昔から影響し合ってきましたが、石本さんから見て、北欧のデザインのなかに日本に通じるものを何か感じられたことはありますか。
石本 フィンランドでは、300年ほど前は陶器ではなく、木でつくられたお皿を使って食事をしていて、いろいろなものをつくるうえで、中心になるマテリアルが木でした。そういう点が日本と共通していますかね。僕自身は日本的とか、北欧的ということを考えたことはなく、デザインを考えるうえでも意識したことはありません。
現在のアーカイブ資料について
ー それでは、ここからデザインアーカイブに関するお話に移らせていただきたいと思います。石本さんが手がけられたマリメッコやアラビアの作品に関するスケッチや図面などの資料は、それぞれの会社が管理されているのでしょうか。
石本 マリメッコの場合は、僕はアイデアスケッチなどを渡していません。アイデアスケッチからフィルムを起こして、そのフィルムや配色の記録などはマリメッコがすべて持っていると思います。僕の記憶では、マリメッコにはミュージアムや資料館のようなものはないと思います。アラビアのほうはわかりません。
フィンランドのヘルシンキにデザインミュージアム・アラビアというのがあって、アラビアのセラミックとイッタラのガラスを中心に所蔵していて、僕の作品も何点か入っています。ヘルシンキのデザインミュージアムにも、僕のマリメッコのテキスタイルやアラビアの作品が入っていますが、いずれもきちんとアーカイブの整理をされているのかはわかりません。香港のM+にも、僕の作品が何点か入っています。
ー 商品化される前の試作品(サンプル品)は、ご自身でお持ちですか、それともどこかに寄贈されていますか。
石本 それは自分で持っています。昔つくった試作品をもとに、今のアトリエで商品化したものや、これから商品化しようと考えているものもあります。例えば、アラビアでデザインした花瓶があったのですが、製法に難しいところがあったようで当時は商品化されませんでした。それが日本の技術ではできるということで、今年、商品化したのが、「PLEATS」という花瓶です。一枚の紙を山折り谷折りしながら考えてつくったもので、僕が日本に持ち帰った試作品から型をとって、有田焼で再現しました。
「PLEATS」(2023) Mustakivi
ー アイデアスケッチやメモなどは、整理して保管されたりしているのですか。
石本 それが一番の僕の弱点です。どこかにはありますね、探せば。捨てるものも、もちろんありますけれどね。2013年に生まれ故郷の愛媛県美術館で初めて僕の個展「布と遊び、土と遊ぶ」を開催したときに、マリメッコのテキスタイルや焼き物の作品と一緒にアイデアスケッチなどを一部寄贈しました。
僕はマリメッコに入社した1974年頃に、たくさんアイデアスケッチを描いていたんです。今見ても、なかなかいいなと思って、そのデザイン画を手ぬぐいなどに商品化したりしています。注染(ちゅうせん)という技術でつくったもので、僕はそれが好きなんです。手ぬぐいを何層も積み重ねて色を上から注ぐと、下まで染みわたるので裏表がない。すばらしい日本の技術だと思いますね。てぬぐいのかまわぬさんでつくってもらって、西武池袋店さんやビームスさん、Mustakiviのウェブサイトからも購入できるようになっています。
「CHUSEN てぬぐい」。左から、「SONO」「ISHI」「HANAMICHI」「GOSYUNEN」
ー 石本さんはご自分の作品やスケッチや資料を後進のために遺して、いつでも見られるように状態にして学びや研究材料にしてほしいという思いはありますか。
石本 ありません。とにかくスケッチや資料を整理することなく、あれこれひっくり返すこともない状態で。自分のなかで一番弱い部分ですね。アーカイブ資料の整理というのは、大変な仕事ですよね。
ー 資料を整理してくれるようなスタッフやお弟子さんはいらっしゃらないのですか。
石本 いません。僕の弟子になるより、自分でつくってくれたほうがいいと考えているほうなので。教えることは、僕はすごく苦手です。今まで大学でも教えたことがなくて、ヘルシンキのアアルト大学で1、2度、講演をしたことがありますが、マリメッコのテキスタイルをたくさん持って行って、ただ広げて見せただけですけれどね。
ー 著書や作品集もその方の思想や作品を後世に伝える、ある意味でアーカイブだと思っています。石本さんは作品集をつくられていますよね。
石本 ええ、お陰様で、マリメッコでつくってもらった『Fujiwo Ishimoto: Matkalla Resan On the Road』と、デザインジャーナリストの川上典李子さんに取材して書いていただいた『石本藤雄の布と陶』の2冊あります。マリメッコでつくった作品集のほうは、自分で編集しました。その中に石の写真が掲載されているんですけれど。僕は1994年にカイ・フランク デザイン賞を受賞して、そのときにヘルシンキ市内で個展を催したときにつくったポスターの写真です。上が日本の伊勢神宮の石で、下がフィンランド最北のラップランドの教会の前に転がっていた石です。自分で撮影したもので、同じフィルムに偶然入っていたものです。
ー 「日本にいたらこうなっていただろうという自分と、フィンランドに留まることでの自分」(『石本藤雄の布と陶』p.99より抜粋、パイインターナショナル、2012)を石で表現したというポスターですね。
石本 そうです。その石が今もあるだろうかと思って、数週間前に伊勢神宮に行ってみたんですね。そうしたら、すごくくたびれた石になっていて、ショックでした。年をとった感じでね。そのときに携帯電話で撮影したのがこの写真です、見えますか。ポスターをつくったのは1994年ですが、石を撮影したのは80年代ですから、40年余り経っていることになりますけれど、こんなにも変わるものかと思って。ちょっとした切れ目なども同じなので、たしかに同じ石なんですけれどね。でも、この石は参道の左手の杜の前に佇んでいたと思ったんですけれど、今回見てみたら手水のそばにあって、場所の記憶が違っていました。もしかしたら、僕が勝手に記憶を美しくつくり上げていたのかもしれないなと思って。今度、ラップランドの石も見に行きたいと思っているんです。
ー たしかに昔のようなエッジがなく、半分くらいになってペシャンコな印象ですね。風化してしまったのでしょうか。現在の石の姿を対比させて、また写真を撮られるとおもしろいかもしれないですね。
昔のデザインをリバイバル
ー マリメッコでは、石本さんが以前にデザインされたテキスタイルをいくつかリバイバルされていますよね。
石本 ええ、例えば、僕がマリメッコに入って最初にデザインした、草花をモチーフにした「onni(オンニ:幸せ)」や、四弁の小花をデザインした「Kukkaketo(クッカケト:花畑)」、線画の版を2つ使ってプリントした「Kuiskaus(クイスカウス:ささやき)」、愛媛県の伊予かすりから着想を得て、かすれたようなぼかしの技術を取り入れた「Ostjakki(オストヤッキ:ハンティ人)」などのテキスタイルをリバイバルしてくれて、クッションや毛布、ドレスといったいろいろな商品を展開してくれています。
先ほどお話しした「Taiga(タイガ:草原)」は、柄をうんと拡大して「Suuri Taiga(スウリ タイガ:大草原)」というテキスタイルをつくったのですが、2018年にリニューアルオープンした松山の道後温泉の宿泊施設「茶玻瑠(ちゃはる)」の家具の座面にも使われています。僕はそこの9階のエグゼクティブフロア客室をプロデュースさせてもらったんですけれど、ほかの階にも僕のテキスタイルが部屋の家具や寝具に使用されていて、ダイニングの壁にはファブリックボードが飾られています。
「茶玻瑠」9階のエグゼクティブフロア客室
写真提供:株式会社 茶玻瑠
ー ぜひ今度伺ってみたいです。マリメッコにはフィルムが残っているということでしたので、ある時代にこれはリバイバルするといいのではないかという話になると、作家の許可を得て再生産していくというシステムが会社のなかでできているということですね。すばらしいですね。
石本 じつは、先ほどもマリメッコから電話をもらったところでした。ひとつは昔のテキスタイルをリバイバルしたいという件と、もうひとつは新しくデザインしてほしいという話で、ずっと返答していなかったので、ついに電話がきてしまったというわけでした。でも、新しくデザインするというのは、不可能ですよ。手ぬぐいのような、ある程度小さな、形が決められた中でデザインするのと、マリメッコの150センチ幅のなかで自由にデザインするのとでは、全然違いますからね。それにあの頃のエネルギーは、今の僕にはないですね。当時は、次はこれをやろうという一種のひらめきがありました。そういう仕事を続けていると、次々に湧いてくるんですよ。でも、僕はそういう仕事は長いこと、20年くらい途絶えていますからね。アイデアのひらめきには、すごくエネルギーがいるんです。大変なことですよ。
ー マリメッコの生地をつくるときの、新たなデザインを生むというのは、やはり相当なエネルギーが必要なのですね。焼き物の作品については、今、こんなものをつくってみたいという構想は何かありますか。
石本 ええ、焼き物ではあります。できるかどうかはわからないけれども、細い茎がヒューっと伸びて大きな葉がパッと広がる、この植物なんですけれどね。これはおそらくフキだと思うんですけれども、日本のフキとは違うと思います。帰国する前に、2019年にフィンランドで撮影した写真がこれです。
石本さんがフィンランドで撮影した植物の写真 Photo by Fujiwo Ishimoto
石本 マリメッコでデザインした「KESANTO(ケサント:休閑地)」のテキスタイルにも描いていて、この中の大きな葉っぱです。レリーフではつくりましたけど、スタンドにできるものをつくりたいんですよね。ただ、重力的に、バランス的に焼き物では難しいんですよ。こんなふうに粘土でつくってみているんですけれどね。このバランスをどうするか、まだ考えがまとまっていません。それからこれはフィンランドを発つ前に試作したんですけれど、みかんの上に茎と花をつけたもので、これはつくれるかなと思っています。
ー 石本さんは、焼き物では草花だけでなく、果物の作品も多いですね。野菜では、冬瓜も題材に作品をつくられていますね。
石本 「冬瓜」にも花をつけようか、悪くないね。
ー ところで、藝大の同級生の方々とは、今も親交はあるのですか。先輩の石井幹子さんの代は、毎年、同窓会を開いていて、同級生に蓮池槇郎さんもいるそうです。石本さんの代はいかがですか。
石本 僕の代の工芸科のメンバーも、毎年クラス会をやっていますよ。卒業してから、もう60年くらい経ちますかね。川上くんも、松永くんも時々、参加していると思うんですよ。僕はフィンランドにいたから、日本で開催するときはなかなか参加できなかったけれど、一度だけ小豆島でやったときに参加したことがあります。以前、クラスメイトでイタリアに住んでいた人がいて、僕がそのときにヘルシンキにいたので、みんな家族も呼んで20人くらい集まって、ヘルシンキやストックホルム、コペンハーゲンを一緒に回ったこともありました。
ー 石本さんは陶芸作品をつくられたり、川上さんは家具に漆を使われたり、松永さんはブロンズ(青銅)の彫刻作品をつくられたりと、みなさん藝大で工芸に触れられたからか、そういう経験が今に生きていらっしゃるのでしょうかね。
石本 そうかもしれませんね。僕は藝大で初めて焼き物を学んだとき、本当におもしろいなと思いましたし、アラビアでもいろいろなことを学んでおもしろかったです。80代になった今も粘土に触って作品をつくっていて、アトリエには今、毎日のように来ていますよ。
石本藤雄さんの現在のアトリエ
石本 ぜひ今度、近くに行った際は伺わせていただきたいと思っています。これからもすてきな作品をたくさんつくっていただいて、私たちの生活をわくわくさせていただきたいと思います。今日はお時間をいただき、ありがとうございました。
石本藤雄さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
Mustakivi https://mustakivi.jp