日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
石岡瑛子
アートディレクター、デザイナー
インタビュー01:2023年2月23日 14:00~16:00
場所:石岡怜子デザインオフィス
取材先:石岡怜子さん
インタビュアー:久保田啓子 関 康子
ライティング:関 康子
PROFILE
プロフィール
石岡瑛子 いしおか えいこ
アートディレクター、デザイナー
1938年 東京生まれ
1957年 東京藝術大学美術学部工芸科図案計画専攻入学
1961年 資生堂宣伝部入社
1963年 第13回日本宣伝美術会展、特選受賞
1965年 第15回日本宣伝美術会展、日宣美賞受賞(女性初)
1968年 資生堂退社
1970年 石岡瑛子デザイン室設立
1971年 渋谷パルコ、トータルディレクションに参加
1980年 ニューヨークに移住
1983年 『石岡瑛子風姿花伝 EIKO by EIKO』出版
求龍堂、キャラウェイ・エディションズ
1993年 映画「ドラキュラ」で、第65回アカデミー賞衣装デザイン賞受賞
2002年 紫綬褒章受勲
2005年 自叙伝『私デザイン』出版 講談社
2008年 北京オリンピック開会式 コスチュームディレクションを担当
2012年 逝去
Description
概要
2006年、朝日新聞社刊『AERA DESIGN ニッポンをデザインした巨匠たち』という本の取材で石岡瑛子さんをインタビューしたことがある。朝日の担当者と二人、緊張して都内の某ホテルの一室で待っていると、時間通りに石岡さんは現れた。思っていたよりも小柄な方だったがその身体から発せられるオウラによって二人とも圧倒されてしまった。インタビューは2時間ほどだったと記憶している。どんな質問にもまっすぐに率直に答えてくださって、いつの間にか時間がたつのを忘れてしまっていた。
この取材の前年の2005年、石岡さんは『私デザイン』という、ニューヨークに拠点を移して以降の活動や人間模様を自ら執筆した本を出版されていた。もちろん、それを読んでインタビューに臨んだのだが、同書であまり触れられていなかった1960から70年代に遡って、当時の仕事やデザイン界についても語ってくださった。その記事の巻頭には「石岡瑛子さんは『デザイン語』という世界共通言語を操る地球人だ。70年代その発想と独創性はすでに国境や文化圏といった境界だけでなく、性別や年齢などのバリアもやすやすと超えていた」と記したが、没後10年がたった今、その作品や活動は時間をも超越している――「TIMELESS」であると付け加えたい。
没後8年を迎えた2020年に東京都現代美術館とギンザ・グラフィック・ギャラリー(2021年、京都dddギャラリーに巡回)で、ほぼ同時に大展覧会が開催された。その背景には、自身もグラフィックデザイナーで、実妹である怜子さんの存在があった。また、展覧会に合わせて河尻亨一氏による『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』、展覧会図録『EIKO 血が、汗が、涙がデザインできるか』も発行された。展覧会と書籍を通して、石岡瑛子というクリエイターの圧倒的な人間力と濃密な仕事力が再認識されることとなった。
今回は、石岡瑛子のデザインアーカイブについて、実妹でアートディレクター、グラフィックデザイナーの石岡怜子さん、ギンザ・グラフィック・ギャラリーのキュレーターとして親交があったDNP文化振興財団の北沢永志さん(23年4月に退社)、森崎陵子さん、田仲文さんに取材した。
Masterpiece
代表作
グラフィックワーク
雑誌広告「資生堂ホネケーキ」資生堂(1964)
ポスター「シンポジウム:現代の発見」コンペ出展作品(1965)
ポスター「資生堂ビューティケイク」資生堂(1966)
ポスター「NEW MUSIC MEDIA」(1974)
雑誌表紙『野性時代』 角川書店(1974~78)
ポスター「モデルだって顔だけじゃダメなんだ。」パルコ(1975)
ポスター「あゝ原点。」パルコ(1977)
ポスター「地獄の黙示録(日本語版)」(1979)
ポスター「西洋は東洋を着こなせるか」パルコ(1979)
装幀『NUBA by Leni Riefenstahl』パルコ出版(1980)
パッケージデザイン「山本海苔」山本海苔店 (1981)
装幀『Eiko by Eiko: Japan’s Ultimate Designer』Callaway Editions U.S. (英語版)
求龍堂(日本語版)(1983)
レコードジャケット「Milse Davis :TUTU」(1986)
東急百貨店コーポレイトアイデンティティ 東急百貨店(1989)
東急百貨店ポスター「Qその1。」東急百貨店(1989)
展覧会
写真展「映像と肉体と意志-レニ・リーフェンシュタール展」Bunkamuraザ・ミュージアム(1991)
映画、舞台
セットデザイン 映画「MISHMA-A Life in Four Chapters」(1985)
衣装デザイン 映画「ドラキュラ」(1992)
衣装デザイン オペラ「ニーベルングの指環」(1997)
衣装デザイン 映画「The Cell」(2000)
プロモーションビデオ 「ビョーク:コクーン」(2001)
競技ウェア ソルトレイクシティ冬季オリンピック
カナダ、スイス、スペイン、日本チーム (2001)
衣装デザイン シルク・ドゥ・ソレイユ「ヴァレカイ」(2002)
衣装デザイン 北京オリンピック開会 (2008)
衣装デザイン 演劇「スパイダーマン」(2011)
衣装デザイン 映画「白雪姫と鏡の女王」(2012)
著書
『Eiko by Eiko: Japan’s Ultimate Designer』Callaway Editions U.S. (英語版)
『石岡瑛子 風姿花伝 - Eiko by Eiko』求龍堂(日本語版)(1983)
『レニ・リーフェンシュタール ライフ』求龍堂(1992)
『石岡瑛子 風姿花伝 - Eiko by Eiko』求龍堂(2000)
『Eiko on Stage』Callaway Editions, U.S. (2000)
『私 デザイン』 講談社 (2005)
『石岡瑛子 ggg Books 68』ギンザ・グラフィック・ギャラリー (2005)
Interview 1
インタビュー01
姉貴(石岡瑛子)は、新しい仕事に取りかかるときには
常に真っ白いキャンバスに向かうところから始めていた
石岡瑛子のアーカイブの今
2020年秋、東京都現代美術館(以下 MOT)とギンザ・グラフィック・ギャラリー(以下ggg)は、石岡瑛子の作品の数々と多数の来館者によって熱気に満ちていた。没後8年、初の回顧展だった。
石岡瑛子は1980年に日本での輝かしい実績をあっさり捨てて、ニューヨークに拠点を移し、ハリウッド映画、ブロードウェイ、欧州のオペラハウス、世界的アーティストたちと向き合いながら、まさに地球上を縦横無尽に彼女らしくしなやかに、活動を繰り広げた。なかでも、2008年、チャン・イーモウ(映画監督)が総監督を務めた北京オリンピック開会式では、そのゴージャスで手の込んだコスチュームとともにクリエイター、EIKO ISHIOKAの名は何億人という人々の記憶に刻まれたに違いない。
それから4年後の2012年、すい臓がんのために亡くなったというニュースは衝撃的だった。享年73歳、早すぎる死だった。現在、その貴重な作品や資料はどのような状況にあるのだろうか?
ー 現在、石岡瑛子さんの作品や資料は日本とアメリカにあると聞いていますが、現状はどうなのでしょうか? 実妹である怜子さんはどのように関わっているのですか?
石岡 亡くなる前に、姉貴から日本に一時帰国するから整理を手伝ってほしいと連絡がありました。姉貴は私と違って何でも取っておく人だし、完璧主義者。彼女のペースに巻き込まれたら自分の仕事もできなくなると、快諾しませんでした。ところがそれから間もなく病気で亡くなってしまい、私がどうにかしなければならないと覚悟を決めました。
姉貴は日本の仕事をざっくり整理して国内の倉庫に預けていました。具体的にはポスターはマップケースに、ブックデザインやレコードジャケット、その他のスケッチや校正類はプロジェクトごとに箱に入れてありました。ところが姉亡き後、夫のニコ・ソウルタナキスが瑛子の遺言で、作品や資料をすぐに一カ所にまとめたいと、NYの事務所からマネージャーを送り込んできたのです。私は「待った!」をかけて、まずNYに持っていく前に整理する必要がある、ニコの新たな拠点とアーカイブの今後を決めてから移動させるべきだと主張しました。その調整はなかなか労を要しました。
ー そのときに石岡さんの全作品がアメリカにわたっていたら、MOTやgggの展覧会は実現できなかったかもしれませんね。
石岡 そう。私は姉貴の死の直後から、日本で全容展をやろうと目論んでいました。それは、デザイン関係者を含めて多くの人が、石岡瑛子の仕事を日本でやったものとアメリカにわたって以降のものが別物であると捉えていたからです。その背景には彼女が生前に一度も個展をやっていなかったこともあるでしょう。両方の仕事は一本の幹で貫かれているということと姉貴のクリエイティブ哲学を見ていただくには、全容展というかたちでしか考えつきませんでした。そのためには作品や資料を根こそぎアメリカに持っていかれたら困ってしまう。
同時に、東京の美術館のリサーチを始めましたが全容展を開催できる規模の美術館が意外に少ないことを知りました。権威的な場所は瑛子の精神に反していると感じ、当時MOTに在籍してた長谷川祐子さんに相談してようやく一歩を踏み出せました。ただ長谷川さん自身は多忙だったため、実動は学芸員の藪前知子さんが担当することになったのです。
ー 多くの作品が日本にあったとは言え、その準備は大変だったのではありませんか?
石岡 MOTで展覧会の開催が決まってからも、私のスタッフとアメリカチームとで作品や資料の整理作業は続いていました。作業が進むにつれて、アメリカに送るものは送り、日本国内に残すものは一つの倉庫にまとめました。結果的には展覧会の準備とアーカイブ整理をうまくリンクできたことはよかったと思っています。
現在、石岡の作品や資料は日本とアメリカに分散している。MOTの石岡瑛子展カタログによれば、夫のニコ・ソウルタナキス(2011年に結婚)により、2013~14年に主に映画関連の作品や資料はロサンゼルスの映画芸術科学アカデミー(Academy of Motion Picture Arts and Sciences:AMPAS)のアカデミー映画アーカイヴとマーガレット・へリック図書館に、2014~15年にかけてドローイングや写真などの資料が、カルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のチャールズ・E・ヤング・リサーチ図書館に寄贈されている。
AMPASのウェブによればコレクションには衣装デザイナー、アートディレクター、グラフィックデザイナー、映画、テレビ、舞台などのディレクターとしての石岡の仕事、具体的にはその制作や研究のための素材、衣装デザインのドローイング、写真、書籍、その他の作品が網羅されている。また別項目にはペーパー類27点、写真類18点、66種類のポスター、その他2834項目のアートワークがあると記載されている。それらの一部はデジタルデータとして閲覧することができる。
一方のUCLA、チャールズ・E・ヤング・リサーチ図書館のウェブには、展示会、ファッションショー、スポーツ関係、その他、書籍や定期刊行物、レコード カバー、パッケージデザイン、衣装デザインのスケッチ、舞台衣装、公演の記録写真、衣装の生地サンプル、また学生時代の作品の一部が収蔵されているとある。アイテムは、衣装の図面やスケッチ、セットの設計図、公演の制作記録や写真、生地のサンプルなどがあり、具体的にはポスター、写真、スライド、透明フィルム、ネガ、デザイン プロジェクトや広告キャンペーンに関連する制作資料、オーディオビジュアルおよびデジタルデータなどが含まれている。興味のある方はそれぞれのウェブ(以下)にアクセスいただきたい。
AMPAS https://collections.new.oscars.org/Details/Collection/2420
UCLA https://oac.cdlib.org/findaid/ark:/13030/c8k64qnk/?query=eiko+ishioka
二つの展覧会が物語る石岡瑛子
ー 具体的に展覧会の準備はどのように進められたのですか?
石岡 瑛子の作品は膨大で世界中に分散しており、加えて展覧会準備とアーカイブ整理を同時に進めなければならないという事情から、私はMOTに対して「通常準備には3年はかかると聞いているし、映画や舞台の世界は美術界とは違ったルールで動いているから、衣装の貸し出しは早めに交渉を始めた方がいいのでは」と伝えました。ところが、日本の美術館経営は年度予算がきっちり決められているため、その予算建てに合わせてしか動けないということで、準備は遅れていったのです。ある時期からは海外交渉の専任者をつけてくれてなんとか対応できましたが、とにかく解決すべき課題が山積みでした。
ー MOTの展覧会「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」の展示作品のハイライトは、映画「ドラキュラ」の赤いガウンでした。ところがさまざまな事情から最終的には怜子さんが自腹を切って作成し、展覧会終了後は文化学園大学に寄贈したと聞きました。
石岡 映画「ドラキュラ」の衣装は、瑛子が海外に渡って初めての仕事であり、アカデミー賞を受賞した重要な作品でした。なかでも「赤い甲冑」「赤いローブ」「白いウェディングドレス」「クリムト調のゴールドのガウン」は必須であり、私はこれら4つが映画のストーリーや人物を表象する大事な要素だと考えたのです。そこで、監督のコッポラさんがナパバレーに所有しているワイナリーに衣装の幾つかを展示していることが分かったので、貸し出しの交渉をしたのですが埒があかず時間だけがすぎていきました。諦めきれずに調査を続けていたら赤いローブの制作者に行き着き、型紙が見つかれば喜んでつくると言ってくれたのです。ところが30年も前のことで型紙を見つけることができずに万事休すと思っていたら、パルコなどで瑛子と仕事をしていて私の友人でもあるファッションクリエイターの伊藤佐智子さんが一度つくったのだから写真から想像してつくることができるのでないかとアドバイスをくれたのです。再交渉の結果、再制作が実現しました。ちなみにインナーの白いドレスは伊藤さんにつくってもらって展示に漕ぎつけました。
「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展示風景 東京都現代美術館(2020~21)。グラフィックワークを中心とした展示(左)と映画「MISHIMA」のセットを再現した展示。写真:森田兼次
ー ほぼ同時期にgggでも展覧会「石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか」が開催されていました。
石岡 詳細はわかりませんが、ずいぶん前から姉貴とgggの北沢永志さんとの間で展覧会の話があったようです。しかし実現する前に姉は亡くなり、私が引き継ぐことになりました。ただ私は、まず瑛子の全容展を開きたかったので、「gggではスペースが足りない」と北沢さんにお伝えしました。それでも北沢さんは何らかのかたちで展覧会を実現したいとおっしゃる。結局、コロナ禍のせいでMOTでの開催がずれたために、ggg展と開催が重なってしまいました。そこで、差別化するためにコンパクトでもパワーのある企画を立てようとチームをつくって臨みました。こうしてMOTでは全容展、gggではグラフィック展と自然とすみ分けができて、違う個性の展覧会ができたのです。
ー 両展ではBGMとして石岡さんの肉声が流れ、展示構成も石岡さんの創作の根底に流れる「Timeless, Original, Revolutionary」というコンセプトが理解できました。特にハスキーな肉声は絶大の効果を発揮し、まるで石岡さんがそばにいて「Timeless」, 「Original」, 「Revolutionary」と語りかけているようでした。怜子さんが最初に言っていた「石岡瑛子という1本の幹」が見事に表現されていたと思います。
石岡 あれは幸運な偶然でした。あの音源は、北沢さんがDNP文化振興財団のアニュアル用に準備していたインタビューで、相手は『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』の著者である河尻亨一さん。ところがそのとき姉貴の病気はすでに進行していて、病院を抜け出してインタビューを受けていたのです。だから話の内容はデザイン全般に及んでまるで遺言のような内容だった。私はこのテープを聞いて、この肉声は、瑛子の日本とアメリカのクリエイティブを一本の幹で貫く絶好の素材だと思い、MOTでも使わせてほしいと北沢さんに懇願しました。彼が快諾してくれたお陰で、20分くらいの長さに編集して二つの展覧会のBGMとして流すことができたのです。
石岡瑛子の50年におよぶ「創造劇場」は、大きく2幕で構成されている。
第一幕は日本が舞台、役回りはデザイナー、アートディレクターである。東京藝術大学を卒業後、資生堂宣伝部に入社し、男社会であった当時のデザイン界に殴り込みをかけたのだ。「ホネケーキ」という主力商品を包丁で真っ二つに切ってみせるという大胆なポスターを皮切りに、前田美波里を起用して女性のイメージを一新させたファンデーションのポスター(同サイト内「資生堂企業資料館」を参照)など、石岡の手になるデザインは資生堂のイメージをアップデートする原動力となった。
資生堂から独立後、フリーランスの立場でかかわった渋谷パルコのトータルなイメージディレクションと一連のコミュニケーションデザインでは、時代のアイコンとして、アカデミー賞受賞女優フェイ・ダナウェイ、両性具有のシンボルとしての沢田研二、女性のヌード、辺境に生きる普通の人々などを起用。その型破りで挑発的な表現によって1970年代という特異な時代を切り取り、視覚的に再構築してみせた。それはまさに「私の作品や生き方の根底にあるのはいつも進歩し続けたいというパッションです。なぜなら私の世代では女性が仕事をし続けることは大変だった。だから行動してきました」(『AERA DESIGN』)という、石岡の生き方そのものであった。
第二幕の舞台はニューヨークを中心とした世界、役割はクリエイティブディレクター、映画や舞台のプロダクションデザイナー、衣装デザイナーである。映画、演劇やオペラ、アーティストとの協働など、ショービジネス界を舞台にグラフィックデザインという二次元世界から、衣装から空間のクリエイティブディレクションという三次元世界の表現へと飛躍を遂げる。第二幕の共演者はフランシス・フォード・コッポラ(映画ポスター、映画の衣装などのクリエイティブデザイン)、ジャズ界の帝王マイルス・デイヴィス(レコードジャケット)、映画監督のポール・シュレイダー、ターセム・シン(映画のクリエイティブディレクション)、アーティストのビョーク(ビデオ制作)など数えきれない。彼らのようなつわものを相手にクリエイティブディレクターという役割をどう演じきったのか。その根底には1本の強い幹が貫いていたのだ。今や直接聞くことはできないが、自著『私デザイン』のあとがきからその手がかりとなるメッセージを記したい。
どんな風に創作の栄養を蓄えるのか?
「ひとつだけ伝えられることは、肉体の五感(今では六感も含めて)を研ぎ澄ましておいて、二十四時間、それこそ一日のはじまりから終わりまで、見たもの、聞いたもの、感じたもの、触れたもの等が体内に蓄積されていく。そして行動を起こす段階になると、その吸収されたエッセンスが覚醒し撹拌されて、脳の中に指令を出すのではないかと言うの実感である」。
数々の危機を乗り越え、ここまで来ることができたのは?
「国を越え、人種を越え、性別を超え、ひとりの独立した人間として互いにスクラムを組み、孤独、美、笑い、怒り、哀しみなどを分ちあった彼らの助けがなければ、そのプロジェクトも日の目を見てはいない。彼らとの人間関係を通して築き上げてきたEmotion(感情・感動)こそが、私にとって最上の、そして唯一の、表現への道案内なのだ」。
アートとデザイン
ー 両方の展覧会を拝見しました。gggは作品数こそ絞られていましたが、スケッチや校正紙、コンペ出展作品、芸大時代のクロッキーなど、石岡さんのデザインの背景が伝わってきて感動しました。
石岡 姉貴は、資生堂の入社試験に他の人はデザイン作品を持参したのに対し、クロッキーを持って行ったという逸話のある人です。それは、表現の原点はそこにあると確信していたからです。同様に新しい仕事に取り掛かるときには常に真っ白いキャンバスに向かうところから始めるので、そのプロセスは饒舌です。ggg展の企画は北沢さん、河尻さん、グラフィックの永井裕明さんが最初から参加してくれて活発な議論を積み上げながら、最終的に作品とその背景にあるスケッチや校正紙というプロセスを重視する展覧会にしました。
銀座ggg展、京都ddd展で展示されたクロッキーと校正紙から。卓越した表現力と想像力が読み取れる。
ー MOTとgggの2つの展覧会は、MOTは現代アート、gggはグラフィックデザインとアプローチは違っています。そのあたり、展覧会を通して感じられたことはありますか?
石岡 MOTでは、私は監修という立場だったので、展覧会の骨子を決める段階まではいろいろ言いましたが、具体化する段階ではあまり口出しできるわけではなかった。一方gggでは、デザイン界では骨子をどのように具体にするかの世界観が勝負どころだと思っていたので、そこに多くの時間を費やしました。2つの展覧会を通して、アートのキュレーションとデザインのディレクションでは目的意識が違うのだと痛感しました。
ー どういうことでしょうか?
石岡 例えば、MOTの展示構成についてです。私なら会場スペースを均一な割り振りではなく、「血が、汗が、涙がデザインできるか」というテーマを意識して考えます。作品を均質に陳列するより、全体の流れを読み解き強弱をつけた方が効果的ならそちらを選択します。またデザイン側の視点に立つとできるだけエモーショナルに感じてもらう努力をしますが、一方アート側の立場では抑制的に「正しく伝えること」を重要視するのだと感じました。
美術館とはそもそも博物館から派生したもの。だから「歴史を紐解きながらその時代を映し出す、年代を重視する」という彼らの言い分もわからないではありません。私は、広告という領域は時代とリンクしていますから、姉貴の日本の仕事の展示は年代順でもいいと考えました。でもアメリカに移住後の仕事は興味がひかれれば受けるというやり方をしていたので、いろいろなプロジェクトが同時多発的に発生していたのです。だったら展示も時系列以外の解釈があってもいいし、その方が石岡瑛子の全体の精神や哲学が伝わると信じていました。
ー 石岡さんの自著『私 デザイン』を読んでいても、アメリカの仕事はいろいろなことが同時に世界中で発生し、なおかつその関わり方も実に多様でした。
石岡 本当にそう。アメリカに移ってからの仕事ではアートディレクターとして地位が明確だった日本とは違って、プロジェクトごとにポジションを確立することから始めなければならなかった。姉貴は「私はアメリカの仕事は、衣装、セットやプロダクト、あるいは両方のデザイン依頼を受けていたので、衣装デザイナーという肩書には満足していない。私は映画や舞台の全体を見ながらデザインをしているのだから……」と言っていました。
ー 確かに、映画「MISHIMA」などではセットデザインも手がけておられますね。また石岡さんのイマジネーションは強烈なので、衣装デザインという範疇からはみ出して、映画や舞台の世界観にも大きな影響を与えています。
石岡 映画や舞台は最終的にはディレクターのものであると姉貴は言っています。ただ、自分がメンバーとして関わる以上はディレクターの全体の意図を理解したうえで、自分がつくり上げたいものについても徹底的に討論したい、それが姉貴の一貫して姿勢でした。
ー 一方のgggはグラフィックワークに軸を置き、デザイナー石岡瑛子に密着した内容でした。特にスケッチや校正紙などの展示物から、石岡さんの体温が伝わってくるようでした。資生堂の初期の頃の作品もありましたね。
上段.銀座のggg展の会場風景。エントランスには石岡のシンボルカラーである深紅の空間に、瑛子の言葉が構成された、
下段.京都のddd展の会場風景。展示は言葉で埋め尽くされた深紅の回廊から始まる。
撮影:金子親一
石岡 資生堂の「ホネケーキ」は初期の小さい仕事だけど、姉貴の持ち味がストレートに出ているすごく重要な仕事ですからMOTでも一作品目として展示しました。グラフィックワークだけのgggでは、一点一点このプロセスを経て展示作品を決定しました。姉貴の作品や資料を整理、総観して初めて、これは重要だ、意味があるのだということがわってくるのです。MOT展の企画に参加してくれた佐藤卓さんから「今回は回顧展にするのですか?」と聞かれたので、「生きている人間としてやるに決まってるでしょ」と答えました。姉貴の仕事はタイムレスだからこそ、今展覧会をするのです。そういう意味で、本人の息遣いや体温が伝わってくる直筆の構成やスケッチ、音声を流すことがとても重要だった。
ー あれら貴重な資料はこれからも日本に在り続けますか?
石岡 日本での仕事は基本的に日本にあります。嬉しいことにggg展を拡大して2023年秋から北九州市立美術館を皮切りに巡回展の予定があるので、アーカイブ整理はその後も続くと思います。
とは言え、私が生きている間は管理できますが、私の死後どうなるか心配です。姪が二人いますが二人とも海外暮らしです。このような状況でとにかくポスターだけもしっかり残したいと、姉貴の全ポスター作品を5セットにまとめて、一つはDNP文化振興財団に寄贈して、残りも寄贈先をリサーチしています。いくつか名乗りを上げている美術館や大学がありますが、代表作の2,3点だけほしいというところは現時点ではお断りしています。アーカイブという視点から考えると、思考の流れが読み取れる程度のコレクションをしていただくことで代表作の意味や重要性が見えてくるわけで、あくまで全作品の寄贈にこだわりたいのです。東京アートディレクターズクラブや日本グラフィックデザイン協会とかはこの問題をどのように考えているのでしょうね。
ー MOTやgggの展覧会では、若者が熱心に石岡さんの作品に見入っていました。デジタルの時代だとは言え、現物の持つインパクトはデジタルでは受けられない。
石岡 瑛子の作品は印刷物が多いわけですが、現物と対峙するのとサイトで見るのとではまったく違います。展覧会を観た多くの人たちが脳裏に焼き付いた、心に刻まれたと言っていてうれしかった。友人が小学生の息子を連れて行ったら、美術に興味がないのにポスターのまえで動かなくなったと話してくれました。
日本のデザインアーカイブについて
ー 石岡瑛子さんが亡くなってからアーカイブに関わってきて、怜子さんは何か感じたことはありますか?
石岡 グラフィックデザインではポスターは比較的残せますが、それでも体系的に残せるかと言うと難しい。とにかく代表作数点だけ保管するという現状は変えていかなければならない。パッケージ、紙袋といった立体作品の保管はさらに難しい。現在、グラフィックデザイナーの表現領域は映像やウェブまで拡大しています。こんな時代のアーカイブの在り方を確立しなければならないと痛感します。私も質問あるんですが、この「日本のデザインアーカイブ実態調査」のゴールは何なのでしょうか?
ー まずは戦前から戦後の日本のデザインに貢献してきた方々100名の調査です。彼らの作品や資料の現状、これからについて聞き取り、それをウェブで公開して共有することです。
石岡 今の時代、人々はウェブで検索したらおしまい。ウェブは記録として情報は取れますが、作品が持っている深いメッセージ性や感情やら魂はかき消されてしまう。このまま行くと、人間にとって一番重要なイマジネーションが欠落してしまうと危惧しています。アートがそうであるようにデザインにも現物に触れられる場をつくらなければいけない。
ー その通りです。今、日本各地でデザインミュージアムをつくろうという機運も生まれており、そうした組織とコラボレーションする方法を見出したいと考えています。ただデザインは、石岡さんや田中一光さん、倉俣史朗さんの作品のようにアートとしても価値のあるものから市井に溢れているありふれたデザインまで、その幅は広い。従来の美術館という概念で、デザインをどのように扱うべきかわかっていない部分があるように感じます。
石岡 私は、あるデザインに対してアートとしての価値があるかないかを判断することには抵抗を感じています。従来の美術館の概念でデザインの価値を決められるのも好きではありません。そもそも「デザイン」と「アート」とは違うものだからです。そろそろデザインを独自の概念で評価する視点を持ってほしいと思います。
デザインは歴史が浅いし、アートのように限定的に流通するものではないから、「アートとは認めづらい」のでしょうが、そんな考え方は古いと思います。デザインが持つメッセージ性には時代感があり、その創造性には哲学があり、卓越した表現力と魂を埋め込むという行為はデザインもアートも同じです。デザインはアートと隣接するものだと思います。
そもそも「現代」と言う、テクノロジーの進化でコミュニケーションの根底が揺さぶられている激変の時代に、デザインを過去からの概念で決めるのは違うのではないか。美術館も従来の枠組みから自由になる時が来ていると思うのです。美術館は今、デザインだけでなく映画、演劇、音楽、ファッション、漫画、アニメーションなど、ジャンルを横断しながら新しい文化をどのようにつくるのか、その意志が問われているのではないか。デザインの発展のためにもデザインミュージアムができることはとても意味があることだと思いますが、個々の館が「質」を求めてデザインの歴史をつくっていくことにこだわってほしいと願っています。
ー 本日はありがとうござました。
Interview 2
インタビュー02:2021年11月19日 16:00~17:30
2023年4月18日 16:00~17:30
場所:公益財団法人DNP文化振興財団
取材先:北沢永志さん、森崎陵子さん、田仲 文さん
インタビュアー:久保田啓子 関 康子
ライティング:関 康子
DNP文化振興財団と石岡瑛子
現在、石岡瑛子の作品や資料は主に日本とアメリカで保存されている。
約10年前にアメリカの2つの組織(映画芸術科学アカデミーとカルフォルニア大学ロサンゼルス校)に寄贈された石岡の作品や資料は、すべてではないがアーカイブとして整備されてウェブで公開されている。実績のあるデザイナーであっても、その作品の保管が家族やスタッフたちに委ねられている日本とは対照的だ。現在、日本にあるものの大半は実妹の石岡怜子が保管しているが、次世代にどのように引き継いでいくかは未定であると言う。そこで怜子は、DNP文化振興財団(以下DNPF)の協力を得て石岡瑛子の全ポスターを5セットにまとめ、その内1セットをDNPFに寄贈した。せめてポスターだけでも残そうという苦肉の策だ。
ここでは、長年、DNPFの文化振興事業にかかわり、なかでも巨匠から若手まで多くのグラフィックデザイナー、アートディレクターたちと親交を結びながら企画展や出版活動を牽引してきた北沢永志さん(2023年4月退職)を中心に、同財団の森崎陵子さん、田仲 文さんに石岡瑛子のアーカイブとギンザ・グラフィック・ギャラリー(以下ggg)で開催された展覧会について聞いた。
日米に分散するアーカイブ
石岡瑛子ポスターコレクションの経緯について
北沢 2011年の初秋、私はアメリカから帰省中の石岡瑛子さんとポスター寄贈と展覧会開催について話し合う段取りをつけ、編集者の河尻亨一さんにも同席していただき、お会いできるのをとても楽しみにしていました。ところが、体調不良とのことで急遽キャンセルになり、連絡が取れなくなりました。しばらくして2012年年明け早々、石岡さんの逝去を知らされて驚愕したことを覚えています。その後、寄贈と展覧会開催については実妹の怜子さんが引き継ぐことになりました。当時、石岡さんの作品や資料は寺田倉庫などに保管されていましたが、瑛子さんの夫である映画プロデューサーのニコ・ソウルタナキスさんと怜子さんとの協議の結果、その多くがアメリカに送られることになったのです。
森崎 一方で怜子さん、北沢と私は、2014年の7から8月にかけて何度か倉庫に出向き調査を行い、その後全ポスター476点を5セットにまとめました。その中の1セットをDNPF のアーカイブとしてコレクションしています。
北沢 DNPFには「田中一光アーカイブ」、「福田繁雄アーカイブ」、「永井一正アーカイブ」、「横尾忠則アーカイブ」を中心に、内外の作家約200人、約20,000点の作品が収蔵されていますが、石岡瑛子さんに関しても、ポスターはすべてアーカイブ(1セット)させていただいています。後の4セットについては、怜子さんがふさわしい寄贈先を調査していると思います。
石岡瑛子展の開催について
北沢 私はgggから刊行している世界のグラフィックデザインシリーズ『ggg Books-68 石岡瑛子』の制作の頃(2004~2005年)から、gggで石岡瑛子展を開催したい旨をご本人に打診していました。それからしばらくして、その前哨戦と言いますか、衰退する日本のグラフィックデザイン界に喝を入れたいと思い、2011年、財団の活動報告書『Graphic Art and Design Annual 2010-2011』の序文のために、「グラフィックデザインはサバイブできるか」というテーマで、ニューヨークで活躍中だった石岡瑛子さんにインタビューをお願いしたのです。インタビュアーは、過去に瑛子さんと親交のあった河尻亨一さんにお願いし、ニューヨークまで飛んでいただきました。あの東日本大震災のちょうど3か月後で、日本全体が意気消沈していた頃です。そして2020年、東京都現代美術館(MOT)での石岡さんの全容展と同時期に、gggはグラフィックワークを中心とした展覧会「石岡瑛子 グラフィックデザインはサバイブできるか」を開催しました。2011年のロングインタビューが伏線となっているのは言うまでもありません。
具体的には1960から80年代までの仕事、資生堂とパルコを中心としたポスター、関連するスケッチや版下をメインに、『野性時代』(角川書店)、書籍の装丁、挿絵、リトグラフ、コンペ出展作品、卒業制作作品などを厳選し、石岡瑛子の創造の核心に迫りたいと考えました。また私たちがこだわったのは、石岡瑛子という一人のクリエイターの人間性や存在感です。その演出のために、本人の言葉を体感できるインスタレーションやインタビューの肉声で会場を満たしました。
作品では、例えばマイルス・デイヴィスのレコードジャケットの校正紙、芸大時代のクロッキー、日宣美に応募して見事女性初の最高賞を受賞した作品などです。そこに残された瑛子さんの筆致には迷いがなく、的確に指示や変更点が書き込まれていてデザインに対する情熱と卓越した技量が溢れています。幸いなことに校正紙の多くは日本に残ったようです。人間性の演出では、後で分かったことですが、ドクターストップがかかっていたにも関わらず、瑛子さんが病院を抜け出して受けてくださった、まさに命がけのロングインタビューです。これを編集して会場に流すことで、まるで瑛子さんが身近にいて、来場者に語りかけているような臨場感を演出できました。ただとても残念なことに、その歯に衣着せぬ強烈な人生訓は、瑛子さんからの若いデザイナーたちへの遺言となってしまいました。
また、MOTはアート、gggはデザインと、テーマに一線を引けたことで、両展を通して石岡瑛子のグラフィックデザイナー、アートディレクター、クリエイティブディレクター、コスチュームデザイナーとしての多彩さ、卓越性を表現できたと思います。同時に瑛子さんは80年代以降活躍の軸を海外に移しましたが、gggで展示した80年代以前の仕事が海外進出の足掛かりなったことを示せました。
この展覧会が実現できたのも、実妹である怜子さんが早い段階から、私たちスタッフを叱咤激励して積極的に牽引してくださったことが大きいです。もともと瑛子さんと怜子さんは共にアートディレクター、デザイナーとして第一線で活躍するライバルでしたが、姉妹ということもあり、あえてお互いに意識しないようにしていたらしいのです。しかし、瑛子さんの死によってその関係性に変化が生じました。怜子さんは、膨大に残された実姉である瑛子さんの作品に直に対面し、展覧会開催日が迫るなか、徐々にその偉業を実感されたそうです。そして、私は、時々ですが、まるで怜子さんに瑛子さんが乗り移ったのではないかと感じるような瞬間に立ち会うこともできました。姉妹の強い絆でしょうか。生前、瑛子さんは怜子さんとコラボレーションする機会がほとんどなかったが、この展覧会が姉妹初の共同作業となったと思います。「他者とのコラボレーションを通して、めったに得られない人間関係を築き上げたい」というのが瑛子さんの信念でしたから……。
gggの展覧会が巡回展へ
田仲 gggと京都dddギャラリーでの展覧会はとても好評でした。石岡作品のパワーはもちろんですが、ちょうどコロナ禍の時期とも重なって、展覧会のタイトルである「グラフィックデザインはサバイブできるか」という言葉が共感につながったのだと思います。また、会場に流した石岡さんの肉声、言葉の強さや明確さが特に若い女性の心に響いたようで、会場で一言一言をメモする人もいました。
この9月から北九州市立美術館を皮切りに全国の美術館5カ所への巡回が決まっており(2023年9月現在)、皆さまの反応が今から楽しみです。展覧会のコンテンツは、gggおよび京都ddd同様、石岡さんが東京を拠点に活躍していた1960から80年代の仕事が中心となりますが、さらに展示数を充実させ、時代に鋭く切り込むようなアドバタイジングワークをはじめ、ブックデザインやアートワーク、レコードジャケットのデザイン、手描きのスケッチなど全500点以上もの作品を一挙公開します。また、作品のみならず、石岡瑛子さんの人物像をより身近に感じてもらう試みとして、彼女の言葉を作品と同等に扱いながら会場全体に散りばめる予定です。全国の方々に石岡さんの作品と言葉、双方から発せられる熱量を届けることができましたら幸いです。
北沢永志さんの石岡瑛子像
北沢 実を言うと私は石岡さんから届いたファクスやメール、色校正紙などを全部保存しています。瑛子さんの字や文章は、その佇まいのようにダイナミックで美しく、指示も的確で、頭脳明晰、感性豊かというのが一目瞭然です。作品集のデザインの現場には何回かご一緒させていただきましたが、何といってもどんな小さな創造的行為に対しても粘り強く熟考され、ご自分が納得のいくまで一切の妥協は許しません。それに加え、説得力と独特の深みのある魔声とおおらかな包容力によって、誰もが自然と瑛子さんの熱意に魅了されてしまうのです。例えば、作品集の1見開きのデザインに対して、4案、5案つくるなんて当たり前で、その凛とした表現力やスピード感は本当にすごかった。一言でいえば、瞬発力と集中力と持続力、まるで奇跡の瞬間を見ているようでした。
石岡さんはいつどんなときにも真正面からデザインや創造に取り組みました。そして、「表現者にとって最も大切なことはDiscipline(訓練・鍛錬)よ」と常々口にされていました。つまり、一流の人と組み、一流の仕事をすることは、自分自身を磨き育てることだったのです。反面、最高の仕事をしたい、今まで見たことのないような作品をつくりたいという気持ちが人一倍強かったので、プロジェクトのコラボレーターやスタッフとの軋轢も多かったようです。自己プロデュースも上手だったので、瑛子さんに嫉妬し、誹謗中傷する人たちもいましたが、日本のグラフィックデザイン界では唯一、二人の巨匠、亀倉雄策さんと田中一光さんが石岡瑛子さんの才能を認め、親交を深めていたようです。現在でもデザイン界には「ガラスの天井」があって女性が活躍するのは大変なことですが、石岡さんの時代は今とは比べものにならないほどハードルが高かったはず。質量ともあれだけの仕事をしていくことは並大抵のことではなかったと思います。
そんな女性にとって厳しい時代の中で、師を持たなかった石岡さんが、唯一影響を受けた人物は、ナチ体制下で優れたプロパガンダ映画『オリンピア』を監督した、あのレニ・リーフェンシュタール(1902-2003)だったと思います。レニの波乱万丈の生涯に対しては、世界的にいまだ賛否両論はありますが、石岡さんとレニの共通点は、「創造への情熱」と言えるでしょう。余談になりますが、今の日本のデザイン界に、そんな情熱と才能を持った、第二の天才石岡瑛子の出現を心待ちにしています。
デザインアーカイブに対して感じること
北沢 デザインアーカイブに関しては日本だけでなく全世界共通の悩みです。1952年に設立された国際グラフィック連盟(AGI)でもアーカイブのためのファンドを立ち上げる動きがあるようですが、具現化するまでには相当の時間がかかるでしょう。石岡瑛子さんのような国際的なデザイナーのアーカイブが海外に流失してしまうことは残念ですが、日本の現状を考えると致し方ないことです。
DNPも「DNPグラフィックデザイン・アーカイブ」を実施していますが、一財団の取り組みとしては限界があることも事実です。しかし、今一番やらなければならないことは、たとえ今は必要がなくても、100年後、誰かが必要とするかもしれないその人のためにも、博物館の「三つの無」、無制限、無目的、無計画の精神を持ち、作品を収集することだと思います。アーカイブとは、現在の基準で役に立つかを判断しないことです。
2023年9月9日~11月12日
「石岡瑛子 I デザイン」展 北九州市立美術館にて開催
https://kmma.jp/exhibition/
石岡瑛子さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
DNP文化振興財団(ポスターアーカイブに関して) https://dnpfcp.jp/foundation/