日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
勝見 勝
評論家、編集者
インタビュー01:2024年4月3日 15:00〜16:30
インタビュー02:2024年4月20日 11:00〜12:16
PROFILE
プロフィール
勝見 勝 かつみ まさる
評論家、編集者
1909年 東京生まれ
1932年 東京帝国大学(現・東京大学)文学部美学美術史学科卒業
1934年 東京帝国大学大学院修了
1941年 商工省工芸指導所嘱託
1953年 日本デザイン学会創立に参画
国際デザインコミッティ(現・日本デザインコミッティー)創設に参画
1954年 桑沢デザイン研究所開設に参画
1955年 造形教育センター創設に参画
1959年 『グラフィックデザイン』誌(芸美出版社)創刊
1960年 世界デザイン会議の開催推進に協力
1964年 オリンピック東京大会のデザイン専門委員会委員長
1966年 東京造形大学設立に尽力
日本万国博覧会協会シンボルマーク選考員会委員長
1967年 札幌冬季オリンピック大会デザイン専門委員会委員長
1971年 ピクトリアル研究所設立
1972年 沖縄国際海洋博シンボルマーク選考委員会委員長
1973年 世界インダストリアルデザイン会議の開催に協力
1975年 紫綬褒章受章
1981年 日本グラフィックデザイナー協会のICOGRADA加盟に尽力
1982年 日本人初となるSIAD名誉会友の表彰状を英国大使館で受ける、
毎日デザイン賞特別賞受賞
1983年 勲四等旭日小綬章受章、国井喜太郎産業工芸賞特別賞受賞
急逝
〈そのほかの委員・顧問・理事等〉
毎日産業デザイン賞審査員(1950〜76)、『工芸ニュース』編集顧問(1951〜64)、日本宣伝美術会評議員(1952〜69)、東京アド・アートディレクターズ・クラブ(現・東京アートディレクターズクラブ)顧問(1952〜83)、日本インダストリアルデザイナー協会顧問(1952〜83)、通産省産業意匠奨励審議会委員(1957〜65)、『デザイン』編集顧問(美術出版社、1959〜62)、ICOGRADAサイン・シンボル委員会委員(1965)、ICOGRADA日本通信会員(1966〜81)、総理府明治100年記念式典シンボル審査委員長(1967)、文化庁芸術選奨選考審査員(1970〜78)、日本出版学会理事(1970〜71)、財団法人工芸財団理事(1973)、国井喜太郎産業工芸賞選考委員(1973〜83)、沖縄海洋博政府館顧問(1974)、モントリオール五輪記念銀貨の審査委員長(1975)、第6回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ審査員・副議長(1976)、日本グラフィックデザイナー協会顧問(1979〜83)、第29回アスペン国際デザイン会議のサイン・シンボル、ヴィジュアル・コミュニケーション分科会モデレーター(1979)、日本専売公社シンボルマーク審査員(1979)
※年譜や著作・出版年等は、『グラフィックデザイン』「勝見勝追悼号」第94号(講談社、1984)に掲載された年譜(p76〜79)を参照しています。
Description
概要
日本のデザインの歴史は、戦後、大きく発展した。その立役者は、デザイン評論家の草分け的存在でもある、勝見勝と言えるだろう。その功績でもっとも知られているのは、1964年開催のオリンピック東京大会における国際シンボルシステムの導入であり、各国の国際行事(オリンピックや万国博)に影響を与えた。その後、空港や公共施設、商業施設等のピクトグラムとして普及し、今日に至る。
『勝見勝著作集』全5巻(講談社、1986)の編集を担い、大学の教授を歴任した出原栄一は、『デザイン学研究』No.51(日本デザイン学会、1985)に勝見の業績を分類して解析している。それが「デザインの啓蒙および評論、造形による教育、デザイナーの地位向上、デザインのプロモーター、日本デザインの国際化」である。勝見は、大学で美学・美術史を学び、文学、短歌、登山、作詞作曲と幅広い教養と趣味をもっていた。1930年代中頃に雑誌『生活美術』への投稿や、デザイナーの亀倉雄策らとの交友が契機となり、そこからデザインの世界に導かれていったのではないかと、出原は推測している。1941年に商工省工芸試験所の嘱託になり、1944年頃から美術評論や海外のデザイン書籍の翻訳を手がけ始め、1952年頃からデザイン評論が多くなっていく。「著書訳40余、雑誌論文220、新聞寄稿110以上」で、「インダストリアル・デザインやグラフィック・デザインの領域だけでなく、建築や都市計画さらにデザイン振興に関する政治、経済、教育の問題まで及んだ」という。
出原の『デザイン学研究』の記事には、もうひとつ興味深い内容がある。戦後、日本宣伝美術会、日本インダストリアル・デザイナー協会などが続々と誕生し、日本のデザイン界の組織づくりが始まったときのことだ。勝見はすべての機関の設立に参画し、1952年に理想とする日本のデザイン界の組織を構想。記事中に、勝見が書いたその組織図が再掲されている(初出は、『工芸ニュース』20巻11号)。すでに存在しているものと、将来、つくられることが望ましいものを書き入れているのだが、後者にはデザイン専門誌やデザイン年鑑、各種産業別デザインセンター、デザインライブラリー、デザイン問題懇話会(のちの「通産省奨励審議会」が設立)、産業審議会(のちの「日本産業デザイン振興会」が設立)のほか、「デザイン博物館」も構想に掲げていた。PLATの活動をするうえでも、勝見が考えたデザイン博物館とはどのようなものだったのか、お聞きしてみたかったところである。
現在、勝見勝のアーカイブ資料は、多摩美術大学アートアーカイヴセンター(AAC)に約6,000点が収蔵されている。じつは、それらの資料はAAC設立以前に寄贈されたものであり、その出元が不明なままだった。今回、中川ケミカルが勝見勝の資料を保管していたという情報を得て、同社会長の中川幸也さんと、取締役であり、長女の小沼訓子さん、サインデザイナーでグラフィックデザイナーの太田幸夫さんにお話を伺った。
Masterpiece
代表作
著作・編集・翻訳・出版
『山小屋』同人誌(1938)、『山へ開く窓』朋文堂(1941)、『手と造形』教育美術振興会(1944)、フリイドリッヒ・ヘリッヒ著『手と機械』翻訳、科学新興社(1944)、オスカール・ビー著『工芸と社会』翻訳、宝雲舎(1947)、『手と進化』ぼくたちの研究室、さ・え・ら書房(1949)、『工芸ニュース』産業工芸試験所、丸善(1951〜64)、『商業デザイン全集』全5巻、イヴニングスター社、ダヴィッド社(1951〜54)、『ABCの歴史』さ・え・ら書房(1953)、『世界の商業デザイナー』ダヴィッド社(1956)、『現代のデザイン』河出書房(1956)、『グロピウスと日本文化』彰国社(1956)、『新造形美術(中学教科書)』日本書籍(1957)、ハーバート・リード著『インダストリアル・デザイン』前田泰次との共訳、みすず書房(1957)、メッカー+フーバー著『宣伝+デザイン』翻訳、白揚社(1958)、ヘンリー・ドレフュス著『百万人のデザイン』翻訳、ダヴィッド社(1959)、『グラフィックデザイン』芸美出版社、ダイヤモンド社、講談社(1959〜84)、『グラフィックデザイン大系』全5巻、美術出版社(1960〜61)、ハロルド・ヴァン・ドレン著『工業デザイン』翻訳、白揚社(1962)、『現代デザイン入門』鹿島出版会(1965)、『現代デザイン理論のエッセンス』監修、ぺりかん社(1966)、『世界のグラフィックデザイン』全7巻、講談社(1974〜76)、『勝見勝著作集』全5巻、講談社(1986)
評論
「家具と様式」『装飾家具意匠集成』技術資料刊行会(1951)、「美術と人間」「工芸」『美術』毎日新聞社(1951)、「ハーバート・リードとD.P.U.」『工芸ニュース』20巻4号、商工省工芸指導所(1952)、「デザインの美学」『商業デザイン全集』第1巻、イヴニングスター社、ダヴィッド社(1953)、「デザイン運動の100年」『リビングデザイン』創刊1〜12月号連載、美術出版社(1955)、「美術教育の系譜(西洋)」「外国の美術教育」『美術教育講座 1 原理編』金子書房(1956)、「デザイナー誕生」『リビングデザイン』1号(1957)、「今日の家具」『今日の住宅 20世紀生活のデザイン』朝日新聞社(1958)、「モダン・クラフトー機能主義の死角から」『リビングデザイン』3号(1958)、「工業デザインーこの未知なるもの」『リビングデザイン』4号(1958)、「ビジュアルデザイン」『グラフィックデザイン大系』1巻、美術出版社(1961)、「グロピウスとバウハウス」『世界建築全集 9 近代 ヨーロッパ・アメリカ・日本』平凡社(1961)、「Kunstgewerbe und Kunstindustrire in Japan」『Form』(1961)、「柳宗悦の死と民芸」『芸術新潮』7月号、新潮社(1961)、「Graphic Design in Japan」『Graphis』(1964)、「Design Policy for the Tokyo Olympics」『Print』(1964)、「国際行事と絵ことばーその後の実験にもとづく見通し」『朝日ジャーナル』朝日新聞社(1968)
Interview 1
インタビュー01:中川幸也さん、小沼訓子さん
インタビュー:2024年4月3日 15:00〜16:30
取材場所:中川ケミカル
取材先:中川幸也さん、小沼訓子さん
インタビュアー:浦川愛亜、久保田啓子
ライティング:浦川愛亜
戦後の日本のデザイン界に貢献した、
勝見勝の資料保管に中川ケミカルが尽力
〈イントロダクション〉
多摩美術大学アートアーカイヴセンターには、「勝見勝アーカイヴ」として、戦前から戦後にかけて日本のデザイン界を牽引した勝見勝(1909〜1983)の一次資料・二次資料が約6,000点所蔵されている。
グッドデザイン運動、日本デザイン学会、雑誌『グラフィックデザイン』、世界デザイン会議(1960)、東京オリンピック(1964)、日本万国博覧会(1970)、札幌オリンピック(1972)などに関する資料のほか、和書は約1,000冊、洋書は約1,400冊(和書と洋書のリストがある)、文書、写真、私信、メモ、フライヤー、コレクションなどの資料が約80箱、ポスターコレクションは約2,000枚、美術作品コレクションは約200点。資料公開に関しては、応相談とのこと。これらの資料は、2002年から2003年に多摩美術大学アートアーカイヴセンターに寄贈されたとのことだが、これらの資料がこれまでどこで保管され、どのように寄贈されたのか取材を通して明らかになった。
勝見勝のデザイン界における役割
1982年のCSデザイン賞授賞式にて、勝見勝(左)と中川幸也会長。右は、『グラフィックデザイン』第94号「勝見勝追悼号」。
©『グラフィックデザイン』(第94号、1984年6月発行)
小沼 『グラフィックデザイン』誌の勝見先生の追悼号(第94号、1984年6月発行)に、先生と父の写真が掲載されています。
中川 もう40数年も前のことになります。ちょうど勝見先生と2人で撮影した写真が手元にあったので、追悼文とともに掲載いただきました。この『グラフィックデザイン』の雑誌は、いつ頃から発行されたものかご存知ですか。
ー その追悼号に勝見さんの詳しい年譜が掲載されているのですが、『グラフィックデザイン』の創刊は1959年で、勝見さんが50歳のとき、編集室は東京都杉並区永福町にあったようです。山友だちの飯島章男さんと共同出資して起こした芸美出版社から創刊したそうです。編集長が勝見さんで、アート・エディターが原弘さん。国立国会図書館に所蔵されている創刊号を読んだのですが、バイリンガル表記で、用紙をいくつか変えた凝ったつくりになっています。創刊号の表紙デザインは田中一光さんで、記事には亀倉雄策さんの「日本の新人」、原弘さんの「デザイナーの絵本」、河野鷹思さんの「スエーデンのグラフィック・デザイン」、山城隆一さんの「印刷デザイン実験室 足あとと銅版画によるイマージュ」などがあり、質の高い内容で読み応えがありました。
中川 1959年というと、昭和34年ですよね。その頃、私は大学に入った頃です。勝見先生は、その頃からデザインをご専門にされていたのでしょうか。
ー その年譜によりますと、この雑誌を創刊した翌年の1960年には、「日本で初めての〈世界デザイン会議〉(5月11日〜16日東京産経会館国際ホール)の開催推進に協力」して、「会議に来日したハーバート・バイヤー、オトル・アイヒャー、ミュラー・ブロックマン、マックス・フーバー、ソール・バス、ハンス・グゲロなどと親交をむすび、その後の国際交流の布石とする」。「オリンピック東京大会のデザイン懇談会に招集され、シンボル・マークの指名コンペチション(亀倉雄策案を採用)にかかわり、のちに座長として東京大会のデザイン・ポリシーの基準をまとめる」とあります。
勝見さんは、高校生の頃から山登りに熱中して、22歳のときに日本山岳会会員になり、山の雑誌に論文を投稿されたりしていたそうです。1941年の32歳のときに工芸指導所に嘱託として入られて、美術やデザイン評論を書かれ、その辺りから次第にデザインの世界に入っていかれたようです。
中川 1941年というと、私が生まれた年です。戦争が始まった年ですね。その頃からデザインについて考えていらっしゃったとは、恐れ入ってしまいます。
ー 勝見さんは、英語やドイツ語にも精通されていたので、世界のデザイン状況を見ていて日本もこうならなければいけないと考えられていたのかもしれません。アーカイブ資料の中には、バウハウスの貴重な書もあるそうです。勝見さんの年譜には、東京オリンピック、世界デザイン会議、日本万国博覧会など、戦後のデザインの歴史がすべて詰まっているので、これもデザイン史において貴重な資料のひとつだと思います。
日本のデザイン界の巨人、勝見勝との出会い
ー 中川ケミカルさんと勝見さんとのご関係を伺いたいのですが、その前に中川ケミカルさんの会社について少しご説明いただいてもよろしいでしょうか。
中川 中川ケミカルは、もともと1936年に創立した中川堂という看板屋で、私は子どもの頃から職人さんたちに囲まれた環境で育ちました。看板屋の世界では、筆で一本線を引くだけでも10年の修練が必要と言われ、職人さんたちは毎日、古新聞に字を書いて練習していました。私は高校生のときから家業を手伝い始めました。その後、これから先を見据えて、すべての看板屋が役に立つような素材をつくれないかと考えるようになりました。看板屋として一人前になるには、気の遠くなるような年月を要するからです。そして、発想の転換をして、塗料の代わりに着色された素材に定規を当てて切るだけで文字がつくれないかと考えました。父に話をしてみたところ、思いがけず承諾してくれました。そこから試行錯誤を経て、切って貼る素材「カッティングシート®」が生まれました。
ー 素材から独自に開発されたというのは、すごいことですね。
中川 最初はなかなか普及せず、大変苦労しました。1975年から国鉄や空港、公共施設のサインに使われ始めるようになり、次第に注目されるようになりました。この素材を開発したときに、私は街をきれいに彩って生活を豊かにしたいという思いがありました。街の景観を損ねることなく、美しく使われるために何かいい方法はないかと思い、友人の鎌田経世(つねよ)さんに相談したところ、「デザイン賞をやったらいいんじゃないか」とアドバイスしてくれました。鎌田さんは、日本サインデザイン協会のメンバーでした。競い合っていいものが生まれる、デザイン賞はいいアイデアだと思いました。「カッティングシート®」の認知度をさらに高めるために、「審査員に誰か大物が一人でも加わってくれたらいいけれど」と私が言ったら、鎌田さんが「勝見勝先生がもし引き受けてくれたら、国際的に市民権が取れるデザイン賞になるよ」と言ったので、私は「いいですね、会いに行ってみます」と軽く返事をしました。私はデザイン界のことも、勝見先生のこともまったく知らなかったので、お会いする前にいろいろ調べてみたら、勝見先生は1964年の東京オリンピックの総合プロデューサーを務められた大変な方だったので驚いて、急に不安になってしまいました。
ー 勝見さんとお会いになったのはいつ頃で、会長と勝見さんはそれぞれ何歳くらいだったのですか。
中川 第1回目のCSデザイン賞が開催されたのが1982年で、お会いしたのはその2年ほど前になります。私は39歳、勝見先生は71歳で、30くらい歳が離れていて、勝見先生は私の父と同じくらいの年齢でした。最近になってわかったことなのですが、日本サインデザイン協会の会長、浜口隆一先生が勝見先生に、事前に電話を一本入れてくださっていたそうなんです。「これから中川というのが行くから、ひとつ話を聞いてやってくれ」と。昨年、久しぶりに鎌田さんにお目にかかって、そのことを聞いて恐縮してしまいました。そんな東京オリンピックの総合プロデューサーとして大成功した方に、40前の若造が自分の会社の賞の審査委員長をやってほしいと言っても、おいそれとお引き受けしていただけないですよね。その事実を知って、涙が出ました。以前から、浜口先生は「カッティングシート®」について、「ガラス面など、空間に浮くような素材として使ったらおもしろいかもしれないね」とおっしゃって、盛んに応援してくださっていたんです。
ー 先ほどの『グラフィックデザイン』の年譜によりますと、会長とお会いになる前年の1979年、勝見さんが70歳のときには、日本グラフィックデザイナー協会の顧問、アスペン国際会議の「サイン・シンボル・ヴィジュアル・コミュニケーション」分科会のモデレーターを務められ、亀倉雄策、田中一光と日本専売公社シンボルマーク審査員、デザイン学会より功労賞を受ける。1980年には、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で「ジャパンスタイル」展が開催され、開会式に出席と書かれています。
中川 そうですか。そのようなことをまったく存じ上げなかったので、当時の私はよくそんなすごい方のところに行ったなと思いますね。
ー 『勝見勝著作集』のデザイナーに向けた論評を読むと、一人ひとりに応援メッセージが書かれていて、勝見さんは優しくて温かい方だと感じたのですが、一方で『グラフィックデザイン』誌の第94号に掲載されている、デザイナーの方々の書いた追悼文を読むと、とても緊張する怖い方という印象を受けたのですが、会長は実際にお会いになられていかがでしたか。
中川 私もとても怖い方だと噂に聞いていたのですが、実際にお会いしたら、そんなことは全然なく、勝見先生は静かに耳を傾けてくださいました。お会いした場所は、東京・広尾の『グラフィックデザイン』の編集室で、先生と編集者の佐々木和古さんがいて、2人にお話させていただきました。私は「デザイン賞をつくりたいのですが、そのお力添えをいただけないでしょうか」と話し、自分の希望を3つお伝えしました。ひとつは、街を美しくするために開発した素材なので、素材本来の力を引き出した正しい使い方を普及するために、いい作品を奨励するような賞にしたいということ、もうひとつは、業界全体に貢献したいと思ったので、ほかのメーカーの素材も受賞対象にするということ、その代わりに賞の名前は、「カッティングシート®」からとってCSデザイン賞としたいということ、それ以外は勝見先生にお任せしようと思っていました。先生は「お引き受けしてもいい」とおっしゃってくださったのですが、「自分は70歳を過ぎているので長いお付き合いは難しいと思うけれど、デザイン賞の立ち上げについてはお手伝いしましょう」とのことでした。また、「この素材がどのような力や可能性があるのか、もうひとつ見えない部分があるので、3回くらいコンペを行ったあとに、もう一度企画を練り直して、将来に向けてしっかりした方針を立てたほうがいいでしょう」と助言をいただきました。
ー CSデザイン賞のトロフィーは、五十嵐威暢さんがデザインを手がけられていますが、その経緯を教えていただけますか。
中川 これだけの賞をつくるのだから、何かシンボルになるようなトロフィーがあったほうがいいのではないかと考え、勝見先生にご相談したところ、「五十嵐威暢さんのところに行ってみたらいいんじゃないですか」と言われたのです。後日、私は東京・青山にあった五十嵐先生の事務所を訪ねました。私は「勝見先生にご相談して、こういう賞をつくることになり、そのトロフィーをつくりたいのです」とご相談したところ、五十嵐先生は「私たちみたいなデザイナーが喜んで机の上に置きたくなるようなもので、会社名が前面に出ず、広告的な雰囲気のしないものがいいと思います」とおっしゃいました。私は「もちろん、結構です」と言って、全面的にお任せしました。完成したものを見たときに、大変感動いたしました。CSをモチーフにして、2つのCの形をしたオブジェが回転してSの文字になるという彫刻作品のようなトロフィーでした。
第1回のCSデザイン賞は、1982年6月19日に開催されました。審査員については、勝見先生からは特に推薦はなかったので、鎌田さんと私が相談して決めました。審査委員長に勝見先生、審査員には鎌田さんをはじめ、日本サインデザイン協会の理事の北山廣司先生、日本商環境設計家協会の理事の高村英也先生、影絵作家の藤城清治先生、版画作家などがいました。
CSデザイン賞審査会の風景。左から、日本サインデザイン協会理事の北山廣司、日本商環境設計家協会の高村英也、勝見勝。
写真提供:中川ケミカル
ー カットするという素材なので、影絵や版画の作家の方を審査員に選ばれたのですね。第1回目は、どのような作品が受賞されたのですか。
中川 第1回のグランプリ受賞作品は、銀座のランドマーク的な存在だったソニービルの壁面を使ったものでした。それまで垂れ幕のようなバナー広告が主流でしたが、貼ってはがせて短期で交換できるという「カッティングシート®」の特徴を活かした作品で、約3カ月のあいだに3回、デザインを貼り替えるというものでした。このときは足場を組んだのではなく、上からゴンドラに乗って壁面に貼る作業をしました。勝見先生は、第1回の応募作品を見られてグラフィックデザインやCIに向いているとぴんときたと思うのです。1983年の第2回の開催時には、審査員長に高村英也先生、審査員にグラフィックデザイナーの永井一正先生が入られ、CIの作品が2位に入りました。そして、当時のCIブームとともに、「カッティングシート®」は急成長していきました。
第1回CSデザイン賞の受賞作品
写真提供:中川ケミカル
小沼 銀行のCIを変更するときなど、日本全国に素材を送って同日同時刻にいっせいに変えることができるのも、「カッティングシート®」の利点のひとつだと思います。そういう時代の流れと呼応して、「カッティングシート®」の市場は急速に広がっていきました。勝見先生に、その後の展開をご覧いただけなかったことが残念に思います。
『グラフィックデザイン』誌の継続を支援
ー 勝見さんが亡くなられたのは、突然のことだったそうですね。
中川 第3回の審査委員長に永井一正先生が決まったのが1983年6月で、その年の11月10日に勝見先生が急逝されました。私たちもCSデザイン賞を立ち上げてまだ1年半でしたから、途方にくれたのですが、これまでCSデザイン賞の立ち上げにご協力いただき、勝見先生や佐々木さんにいろいろデザインのことを勉強させていただき、大変お世話になった御恩を感じておりました。そこで勝見先生が創刊された『グラフィックデザイン』の雑誌を継続していけるように支援しようと思いまして、編集室と資料が置かれている勝見さんのご自宅の部屋の家賃やそのほかの運営経費などを中川ケミカルがしばらくのあいだ、お支払いさせていただきますと、佐々木さんに申し出ました。
ー そうでしたか。私(久保田)は、佐々木和古さんと生前、お親しくさせていただき、広尾の編集室にも度々、伺わせていただいていました。そこにはグラフィックデザイン関係の本など、資料がたくさん置かれていたので、勝見先生が亡くなられたあと、和古さんがそれをお一人で守っていかれるのは大変なことではないかと内心、心配しておりました。その後、風の便りに中川ケミカルさんがその資料類を保管されていると耳にしたのですが、そうではなかったのですね。
ー 会長は、その資料類をご覧になられたことはございますか。
中川 いえ、私は資料類を見たことも触れたこともなく、何があったのかまったく存じ上げません。それらの資料は、そっくりそのまま編集室と先生の部屋にずっと置かれていました。
小沼 父は勝見先生と佐々木さんが大恩人だということで、並々ならぬ思いと関係で支援していたと思います。
ー 会長が勝見さんとお会いしていたのは、2、3年くらいということですから、その数年間の時間のなかで濃密なご関係を築かれたということなのですね。いつ頃まで、その支援を続けられていたのですか。
中川 『グラフィックデザイン』第93号の発行後、勝見先生が亡くなられて、94号が追悼号でした。雑誌は1986年発行の100号まで続き、その後も中川ケミカルが家賃などの支援をさせていただいていました。けれども、バブルが崩壊して私の会社も一時期、ピンチになり、その話を佐々木さんにしました。そこで佐々木さんがサインデザイナー、グラフィックデザイナーの太田幸夫先生に会いに行かれて、太田さんが教授をされていた多摩美術大学で資料類を引き受けていただけないかとご相談したのではないかと思います。佐々木さんや太田先生から直接聞いたわけではないので推測ですけれども。
ー そうでしたか。後日、寄贈の経緯を太田さんにお伺いできればと思います。勝見さんが亡くなられたあと、CSデザイン賞は継続されたのですか。
中川 CSデザイン賞は、現在も続いております。当時、勝見先生に言われたように、デザイン賞を始めてから3年経ったあとに企画を練り直し、組織変更をしました。第4回の審査委員長には、永井先生から亀倉雄策先生をご推薦いただき、審査員に永井一正先生、田中一光先生、福田繁雄先生という、日本のグラフィックデザイン界を代表する方々が加わってくださいました。
ー 錚々たる方々ですね。
中川 私は本当にデザイン界のことは詳しくなかったのですが、今、思えば、本当にすばらしい方々に集まっていただいたと思います。第4回の審査員には、亀倉先生のご意見で建築家やインテリアデザイナーもいたほうがいいだろうということで、菊竹清訓先生や内田繁先生も加わりました。私はみなさんに、個人的にも最後まで親しくしていただきました。
小沼 父はみなさんにとても好かれて、可愛がられたと思います。菊竹先生も内田先生も、お身体の具合が悪くなられても、ほかはすべて降りたけれど、中川ケミカルのCSデザイン賞の審査会には行くとおっしゃって、最後まで来てくださいました。
中川 そうでしたね。審査会は、東京・六本木の国際文化会館で行っていたのですが、内田先生をタクシーでご自宅までお見送りしているときに昔話をいろいろしました。それが内田先生とお会いした最後でした。 私は趣味でそばをうつのですが、みなさんによくそばをうってお持ちしました。田中一光先生が賞を受賞されたときに、特別なそばを贈りたいと思って、金箔のそばをうってお持ちしたことがあります。上から金箔を振りかけたものはよくありますし、練り込んだら金の色が見えなくなってしまうので、試行錯誤して一本一本の表面につけて、キラキラと輝くそばをつくりました。
ー 小沼さんは、勝見さんとお会いになられたことはございますか。
小沼 CSデザイン賞の第1回の会場には行きましたが、その頃、私は中学生で、大勢人が集まっているのを覚えていますけれども、残念ながら勝見先生のことは記憶にありません。佐々木和古さんとの思い出はたくさんあります。勝見先生が亡くなられてから編集室によく伺わせていただいて、一緒に食事をしたり、お茶を飲みながら3時間くらいお話したり、いろいろとご相談にのっていただいたり、とてもお世話になりました。和古さんは、桑沢デザイン研究所でデザインを学ばれていたので、そこで教えられていた勝見先生とお会いになったのかもしれませんね。だんだんご連絡が取れなくなって、亡くなられたのを知ってお別れ会に参列いたしました。
CSデザイン賞は、現在は原研哉さんが中心になって審査をしていただいています。ポスターの絵は、今も永井先生が描いてくださっています。毎回、何の動物かみなでワクワクしながら解読するのを楽しみにしています。
第23回CSデザイン賞のポスター
写真提供:中川ケミカル
ー 受賞作品を楽しみにしております。このPLATの取材をしているなかで、ご遺族が資料を保管されていても次第にお年を召されて、今後どうしたらいいか悩んでいるというお話をよく聞きます。勝見さんの資料はどこで保管されていたのかということがずっとわからなかったので、それを中川ケミカルさんが長年支援されながら守っていらしたと伺って、本当にすばらしいと思いました。中川ケミカルさんが守られてきた資料は勝見さんのものでもありますが、日本のデザイン界にとっても貴重な財産であると思いますから、勝見さんもきっと喜んでいらっしゃるのではないかと思います。本日はお忙しいなか、貴重なお話をいただきありがとうございました。
Interview 2
インタビュー02:太田幸夫さん
インタビュー02:2024年4月20日 11:00〜12:16
取材方法:電話
取材先:太田幸夫さん
インタビュアー:浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
勝見勝が目指していたのは、「生活者のためのデザイン」ではないか
〈イントロダクション〉
太田幸夫さんは、サインデザイナー、グラフィックデザイナーとして活動され、勝見のアーカイブ資料を多摩美術大学アートアーカイヴセンター(AAC)への寄贈に尽力された中心的人物である。アーカイブ寄贈の経緯や勝見との思い出などを伺った。
コーヒーカップから大型デザイナーズ家具まで
ー 先日、中川ケミカルさんから、勝見勝さんのアーカイブ資料を多摩美術大学に寄贈されたのは、太田さんと『グラフィックデザイン』編集者の佐々木和古さんではないかとお聞きしました。
太田 佐々木さんから依頼を受けて、当時、私が教授をしていた多摩美術大学に受け入れてもらえるように努力しました。
ー 現在、AACに所蔵されている「勝見勝アーカイヴ」は、蔵書や資料類が中心のようでした。『グラフィックデザイン』誌の編集室には、ほかにも何かあったのでしょうか。
太田 『グラフィックデザイン』誌の編集室は、広尾のマンションのワンフロア6部屋を使用していて、これまでに蓄積された膨大な資料の数々がありました。蔵書や紙の資料だけでなく、コーヒーカップから大型のデザイナーズ家具、美術品など、「勝見コレクション」と言われていた貴重なものです。家具は、チーク材のデスクや応接室セットなど、どれも高級なものばかりでした。その中には、松屋銀座で私が購入のお手伝いをしたアルネ・ヤコブセンの「スワンチェア」も2、3脚あります。その「勝見コレクション」を4トントラック4台分使って移動しました。
ー 家具は、ほかの場所に寄贈されたのですか。
太田 家具などは東京造形大学に、定期刊行物などは凸版印刷の印刷博物館に寄贈しました。蔵書や紙の資料などは多摩美術大学に寄贈のご相談をしました。当時、多摩美術大学には、デザイナー12人のアーカイブ資料があり、資料の数の多さは勝見さんがトップでした。
勝見勝とICOGRADAの総会で出会う
ー 太田さんは、視覚言語「LoCoS」の開発をはじめ、サインデザイナー、グラフィックデザイナーとして活躍されるようになったのは、勝見さんの影響があったのでしょうか。
太田 いいえ、私はイタリアに留学した際に、言語の違いに困惑して、見るだけでわかる絵ことばを独自に研究し、開発しました。それとは別に、同時期に勝見先生はオリンピック東京大会でピクトグラムの実用化に尽力されていました。
視覚言語としてのアイソタイプ(国際絵ことば)の創始者は、オーストリアの社会学者オットー・ノイラート(1882〜1945)という人物です。オリンピック東京大会が開催される40年以上も前に、彼は老若男女の一般市民に向けて、誰もが見るだけでわかるアイソタイプを考案しました。彼の遺志を受け継ぎ、アイソタイプ研究所の主宰者であり、夫人のマリー・ノイラートさんが『グラフィックデザイン』誌42号(1971年6月発行)に「オットー・ノイラートとアイソタイプ」というタイトルで、その出発点から約半世紀にわたる回想録を寄稿くださったので、ぜひお読みいただければと思います。
ー はい、拝読したいと思います。太田さんが勝見さんと初めてお会いになられたのは、いつ頃ですか。
太田 私は多摩美術大学院美術研究科修了後、1964年から1966年まで、イタリア国立ベニス美術学院に留学しました。そのときに言語の違いに困惑して、見るだけでわかる絵ことばのデザイン研究開発に専念していました。イギリスで創設されたICOGRADA(世界グラフィックデザイン団体協議会)のことをドイツの先生から聞いて、自分の研究テーマと重なるところがあったので、その団体に手紙を書いて出席できることになりました。各国のグラフィック関係者の国際総会で何百人も出席するなかで、日本人は私一人でした。そこで自分の研究発表もさせていただきました。
その後も、ICOGRADAに日本人では私一人が出席していました。そういう状況のなかで1966年7月にユーゴスラビアで開かれたICOGRADA総会に勝見先生は、「オリンピック東京大会のデザイン・ポリシー」のスピーチをするために初めて出席されました。そのときが勝見先生との最初の出会いです。その夜、勝見先生に食事をごちそうになりました。
1966年秋に私は帰国し、その暮れに勝見先生から「東京造形大学に来てみないか?」と連絡をいただきました。東京造形大学は1966年4月に開学し、勝見先生がその設立に尽力されました。造形大は八王子駅からさらに離れた場所にあり、土地勘がなくてどういうふうに行けばいいかわからず、約束の時間よりも2時間近くも遅れてしまいました。辺りは真っ暗になり、校舎の窓にひとつだけ明かりが灯っていて、その部屋で勝見先生が待っていてくださいました。着いてすぐに遅れてしまったことをお詫びしました。勝見先生は私のことを非難することもなく、先生のご配慮から、私がイタリアで研究してきた絵ことばや絵文字、ピクトグラムについて、東京造形大学で専任講師として教えることになりました。また、勝見先生にご推薦いただいて、銀座の松屋デザインギャラリーで私が研究開発した視覚言語を発表する機会もいただきました。この展示で私は、自分が研究してきた絵ことばを「LoCoS(Lovers Communication System)」と名付けました。
ー 1971年に、勝見さんはピクトリアル研究所を設立されます。その研究主任を太田さんが務められ、『グラフィックデザイン』誌の編集者の勝部さんと運営されていたそうですね。その経緯と活動内容を教えていただけますか。
太田 ピクトリアル研究所設立の発案者は、勝見先生です。けれども、勝見先生はとてもお忙しかったので、実務は勝部さんと私に任されました。ここでの研究内容は、『グラフィックデザイン』の「PIニュース」(※)という記事で数回にわたって発表していますので、ご覧いただければと思います。
私はこの研究所の仕事以外に、自分の絵ことばやピクトグラムの研究も続けていました。『グラフィックデザイン』誌第42号には、私の開発した「LoCoS」について書いた原稿が掲載されています。私は視覚言語について60年以上、現在も研究を続けています。
私には、心残りがひとつあります。英国の動物学者・遺伝学者のランスロット・ホグベンの書いた『コミュニケーションの歴史』という本(原書1949年発行、岩波現代叢書1958年発行)があります。しかし、その後、60、70年以上、そのような視覚コミュニケーションについて著した本がなく、今日に至っています。これは由々しき事態です。哲学者・評論家の鶴見俊輔さんにその続きを書いていただきたいと嘆願したところ、「君が書いたほうがいいんじゃないか」と言われたのですが、私などに到底できるものではありません。今度は勝見先生にご相談したところ、「ああ、わかった」とおっしゃったのです。しかし、その後、急逝され、鶴見さんも亡くなられて、今、途方に暮れています。
ー そうでしたか。勝見さんのコミュニケーションについての著書を拝読してみたかったです。残念です。太田さんから見て、勝見さんはどのような方でしたか。
太田 1966年のICOGRADAの出会いから、勝見先生とは17年間のお付き合いでした。私は自分のライフワークとして絵文字、絵ことば、視覚言語、「LoCoS」の研究に邁進する日々のなかで、勝見先生はそれは違うとか、だめだというような人生の先輩としての物言いはせず、私に対して叱ることもなく、いつも丁寧な話し方で接してくださいました。私が東京造形大学の専任講師で教える内容についても、勝見先生をはじめ、すべての先生が背中を押してくださり、自分の信念のもとにやらせてくださいました。
勝見先生は、さまざまな功績を残され、世界的に評価されてきました。けれども、勝見先生が心底、本当にやりたかったことは、生活者のためのデザインだったのではないかと思うのです。お金持ちの人のためのものではなく、展覧会で発表するだけのものではなく、不特定多数の人々が購入でき、日々、それに満足して、幸せに暮らすためのデザインを生み出すことに取り組みたかったのではないかと感じています。
ー 勝見さんは、東京オリンピックの際に作成した絵ことば(ピクトグラム、シンボル)についても、「世界共有の文化財」と考えていたそうですね。「彼ら(作成したデザイナー)の同意を得て、それらのシンボルの著作権を、国際社会に公開することにより、その後の国際行事に採用され、リデザインされてゆく道を開きたいという声明を発した記憶がある。そして、私はこの提案を、〈絵ことばの国際リレー〉と名づけたのである」(『グラフィックデザイン』誌42号)と語られていました。そういうお考えがあったからこそ、今、空港や公共施設、商業施設等のピクトグラムとして広く普及し、私たちの生活に馴染み深いものになっているということなのですね。
太田 私の開発した「LoCoS」も、誰でも見ればわかるというもので、生活者のための視覚言語です。この研究は64年目に入りますが、今後もできる限り、続けていきたいと考えています。
ー 貴重なお話をありがとうございました。
※『グラフィックデザイン』「PIニュース」
52号(1973/74)から59号(1975)まで連載され、「札幌冬季オリンピックの〈絵ことば〉調査」「鉄道、観光案内、ドライバーなどのデザインガイド」「図書館、産業地図の絵ことば、家庭製品の取扱注意マーク」「ピクトリアル研究所が制作した東京駅の案内図のデザイン」などについて報告・分析した記事を紹介している。
(後日、太田さんから多摩美術大学への寄贈の経緯を書いた報告書をいただいた。その一部を抜粋して紹介する)
「勝見勝と共にデザインを考える会」経過報告書
1983年、勝見勝の逝去後、『グラフィックデザイン』誌の編集室には、蔵書をはじめ、同誌編集資料、ポスター及び地図コレクション、北欧モダンデザインのヴィンテージ家具や生活用品が残されていた。それを「勝見コレクション」と呼んだ。そして、中川ケミカルの中川幸也会長の助力により、その「勝見コレクション」は散逸することなく、1983年勝見逝去当時のまま、2002年まで19年間保管されてきた。
2002年、中川ケミカルの社内事情と佐々木和古さんの意向により、太田を介して多摩美術大学に受け入れを要請して実現。当時、東京造形大学専任講師だった神田昭夫さんが作成した、勝見コレクションの図書資料などのリストと市価を書いたリストも渡した。
約10年後、多摩美術大学の美術館と図書館の取り壊しが決まった。勝見コレクションの分量があまりに多く、倉庫に入らないため、取捨選択をしてほしいと要請を受ける。そこで太田が分散保管を考え、15名ほどのアドバイザーに協力を仰ぎ、東京造形大学や凸版印刷博物館などに一部資料の委託分散保管を打診して協力を得ることができた。将来は各々でデータベース化し、国の科学研究助成金(科研費)を申請するなどして、共同研究としてアーカイブを立ち上げられたらいいと考えた。
2015年に、旧美術館と図書館跡に多摩美術大学アートテークが竣工。その5階にアートアーカイヴセンターが設置された。
2019年、グラフィックデザイン学科の佐賀一郎先生と大学院博士課程の王小楓さん、アートアーカイヴセンター職員の田川莉那さんと面談し、勝見コレクションの研究資料がすべて綺麗に整理されているのを確認。
佐賀一郎先生の指導のもと、王さんは勝見勝についての博士論文(英語)を2020年3月に多摩美術大学へ提出。また、王さんが中心となり、勝見勝資料そのものだけでなく、勝見勝を知らない人がその仕事の足跡をたどることもできる、研究者と諸学者向けという二重構造のデータベースを開発中。
2021年にアーカイヴセンターから「資料公開が可能になった」と連絡あり。実資料の閲覧方法と利用者の制限が決定。
「勝見勝先生の逝去から38年目にして、勝見勝アーカイヴ計画が具体化されましたのは、多くの方のご配慮とご協力をいただいたお陰です。広尾の旧『グラフィックデザイン』編集部での長期保管スペース維持に巨額の支援を惜しまれなかった中川ケミカルの中川幸也会長、日本デザイン学会歴代3代の会長と本部事務局内にできた勝見勝アーカイブ委員会委員長の埼玉大学井口壽乃先生、多摩美術大学藤谷宣人理事長(当時)+高橋士郎学長(当時)、初代アートアーカイヴセンター所長久保田晃弘先生、中国からの大学院博士課程王小楓研究生の「勝見勝研究」を3年間指導して昨年、博士号を授与された佐賀一郎先生、アートアーカイヴセンターと太田の間を当初より的確に橋渡ししてくれた田川莉那様、多摩美大総務部+研究支援部(当時)+図書館担当の立場で当初から太田の相談に乗ってくださった恩蔵昇様に衷心よりお礼を申し上げます。また、勝見勝と共にデザインを考える会の本レポートの編集・送付協力をいただいた及川利春様、中山美薇様、鈴木敦子様、八雲企画の小野寺聖様にも厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございました」。(太田幸夫)
勝見 勝さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
多摩美術大学アートアーカイヴセンター https://aac.tamabi.ac.jp