日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
木村一男
インダストリアルデザイナー
インタビュー:2017年10月26日 13:30~15:00
場所:名古屋学芸大学
インタビュアー:関康子 涌井彰子 (伊奈史朗さん)
ライティング:関康子
PROFILE
プロフィール
木村一男 きむら かずお
インダストリアルデザイナー、名古屋学芸大学大学院教授
1934年 大阪市生まれ
1958年 東京藝術大学美術学部卒業
日産自動車株式会社、造型課入社
1972年 日産自動車退社
世界インダストリアルデザイン会議実行委員会事務局長
1974年 社団法人日本インダストリアルデザイナー協会事務局長
1981年 財団法人国際デザイン交流協会常務理事、事務局長
1987年 世界デザイン会議運営会事務局長兼務
1992年 株式会社国際デザインセンター代表取締役専務
2002年~ 名古屋学芸大学メディア造形学部教授、学部長
2006年~2018 〃 大学院メディア造形研究科、研究科長
Description
前文
新幹線などの車両デザイン、国際的なデザイン交流に大きな役割を果たした木村一男は、デザイン界では特異な存在だ。
木村の活躍は大学を出て日産自動車のインハウスデザイナーであった60年代、退社してJIDAなどデザイン団体の役員として日本のデザイン振興にあたった70年代から90年代、そして2002年以降は教育者としてデザイン人材の育成にあたっており、多元的にデザインに関わってきた。また80年代以降はライフワークともいえる車両デザインの開発に携わってきた。これ程幅広いフィールドで活躍したデザイナーは恐らくいないだろう。
木村がデザイン振興・交流活動を行っていた80年代は車や電子機器メーカーが海外進出を図り、後期のバブル景気の勢いもあって、日本のデザイン界では国際交流が盛んに行われていた。そのピークは1989年に名古屋で開催された世界デザイン博覧会であり、その中核事業は木村が事務局長を務めていた世界デザイン会議であった。世界中から著名デザイナーが集結し、物から都市まで幅広い討論が行われた。この多忙な時期に、新幹線をはじめとした車両デザインにも携わり、その質向上に大きな役割を果たした。木村が手掛けた新幹線100系以降、その独特のエクステリアやインテリアデザインは高く評価され、鉄道ビジネスは今や日本の輸出産業にまで成長している。
もうひとつ、木村は「フットワークの良さ」で知られている。1泊3日で欧米を往復することを意に介さず、展覧会やイベントを見学し、体感し、人物と出会い会話する・・・それがモットーであり、そのネットワークの広さは誰もが認めるところだ。何となく内向きと言われる昨今、木村に続く人物の登場を期待したい。
Masterpiece
代表作
・ニッサン・シルビアCSP311(1965)日産自動車、エクステリア・インテリアデザイン
・ニッサン・サニークーペ(1968)日産自動車、エクステリア・インテリアデザイン
・新幹線100系(1985)日本国有鉄道、 エクステリア・インテリアデザイン
・モハ281系電車はるか(1994)JR西日本、 エクステリア・インテリアデザイン
・新幹線500系のぞみ(1996)JR西日本、インテリアデザイン
・新幹線700系のぞみ(1997)JR東海+JR西日本、エクステリア・インテリアデザイン
・モハ285系寝台電車サンライズ・エクスプレス(1998)JR西日本+JR東海、
エクステリア・インテリアデザイン
・新幹線N700系7000/8000番代みずほ・さくら(2011)JR西日本+JR九州、
エクステリア・インテリアデザイン
書籍
『日本の近代デザイン運動史』(1990) ペリカン社 共著
『都市産業革命宣言』(1994)プレジデント社 共著
『ヒット商品のマーケティング』(2001)同文館出版
Interview
インタビュー
デザインミュージアムは優れたデザイン、優れた企画、優れた人材育成という機能が大切
デザイナーへの道
― 木村さんは車や新幹線車両などのデザイン、大阪の国際デザイン交流協会や世界デザイン会議の事務局長など、日本のデザイン振興活動で中心的な役割を果たしてこられました。本日は、デザイナーとデザイン振興の視点から、デザインアーカイブ、デザインミュージアムについて伺いたいと思います。木村さんのデザイナーとしてのキャリアは日産自動車から始まりますが、それまでの経緯からお話しいただけますか?
木村 私がデザインに興味をもったのは、中学校の美術の恩師が東京藝術大学出身で大きな影響を受けたこと。そして、高校3年になっていよいよ進路を決めるときに建築をやってみたいなあと考えたことです。とはいえ何もわからなかったので、大胆にも当時活躍しておられた建築家の丹下健三さんに手紙を出したところ、なんとご本人が会ってくださったんです。でもいろいろお話をするなかで「お止めなさい」と。一方、その頃ようやく知られ始めたインダストリアルデザインにも興味があったので、柳宗理さんに会おうと日本民藝館を訪ねました。幸運にも近くにあった柳さんの事務所でお会いすることができ、アドバイスだけでなく受験勉強のご指導までいただきました。偉大なお2人の先生のお蔭で1954年に無事に東京藝術大学工芸科工芸計画部に入学できました。
― 巨匠である丹下さんと柳さんが一介の高校生に会ってくれたというのも驚きですが、直接手紙を書いたり、訪ねて行った木村さんの行動力もすごいですね。現在の木村さんの片鱗を感じます。
木村 大学時代にもデザインの勉強だけでなく、大学祭や学内の展覧会、デザインコンペへの応募、自主的なデザイン講座の企画や運営、実際のデザイン・ワークなど、いろいろなことを仕掛けました。当時の日本のデザイン教育は欧米に比べて後塵を拝していましたので、とにかくいろんな機会をとらえて勉強したいという気持ちが強かったのだと思います。
― その後、車や車両デザインを手掛けるようになるきっかけも学生時代にあったのですか?
木村 卒業制作は「通勤電車」をテーマにしました。もともと電車が好きだったのですが、寝台車や特急電車のような特殊なものではなく、日常的に使われる通勤電車をもっと快適にしたいなあと考えたからです。
車両デザインは鉄道会社や路線によって条件が違ってくるのですが、私は子どもの頃から身近に感じていた阪神電車をテーマにしました。同社の車両部に行ってヒヤリングをしたり、当時の国鉄や日本車輌製造のエンジニアの方々に助言をもらったりして、その成果を45分の1のモデルとパネル6枚にまとめて展示しました。
― 卒業後はなぜ日産自動車に入社されたんですか?
木村 当時の日産自動車のデザインチーフであった佐藤章蔵さんの下で働きたかったからです。残念なことに佐藤さんが入社して1年ばかりで退社されてしまい充分な指導を受けられませんでしたが、入社5年目に「CSP311(シルビア)」の担当になり、エクステリアからインテリア、エンブレムに至るまでたった3人のデザイナーで開発にあたりました。途中からドイツ人デザイナーのアルブレヒト・フォン・ゲルツがコンサルタントとして参加して、アドバイスをもらったことも印象に残っています。この車は、1964年のモーターショーで「ダットサン1500クーペ」として発表され、1965年から「ニッサン・シルビア」として販売されました。その後は「サニークーペ」などのデザインを担当して、1972年に退社しました。
― 日産ではインハウスデザイナーとして活動されていたわけですが、その当時の資料などはどうされたのですか?
木村 インハウス時代のものは基本的に会社に帰属します。
― では、日産ではデザインアーカイブはどのような状態にあるのかご存知ですか?
木村 日産にはOBを中心とした「かたちの会」という組織があり、 2017年春に退社されましたが、長年チーフクリエイティブオフィサー(CCO)として活躍された中村史郎さんの強いバックアップもあって、そこが昭和20年~50年代の車を中心に資料の整理を行いました。会のメンバーが交代で月に2、3回、神奈川県厚木にあるグローバルデザインセンターの一室で、設計図、スケッチ、写真やモデルなどを整理して、それらはアーカイブとして収納されています。アーカイブの整理は、当時を知っている本人たちが行うのが一番ですし、活動を通して新旧のデザイナーたちの交流が生まれる可能性もあり、この試みはいいアイデアだと思います。
― そうですね。日産デザインのDNAの継承にとても有効な試みだと思います。ところで、実車の保管はどうなのでしょうか?
木村 日産ヘリテージコレクションとして、神奈川県座間工場跡に約400台(内公開は300台)ほど、そのうち7割が走行可能な状態で保管されています。申込制ですが、誰でも見学できます。
他に、横浜の日産グローバル本社の1階はギャラリーとして公開されていて、テーマごとにいろいろなモデルが展示されています。私が手掛けたシルビアとサニークーペも展示されました。こうした企画も大きく捉えればデザインアーカイブ活動と言えるかもしれませんね。
日本の車両デザインのパイオニア
― 日産退社後、車両デザインに係わるきっかけは?
木村 旧国鉄時代の車両デザインはエンジニアや車両メーカーのデザイナーが担っていて、国鉄自体にはデザイナーはいませんでした。きっかけとなったのは、1979年に卒業制作のときに指導を仰いだ国鉄の技師だった星晃さんの推薦で、車両デザイン専門委員会にメンバーとして参加したことです。その頃、国鉄内でもようやく車両デザインを重視しようという意識が持ち上がってきたときで、松本哲夫さん、手銭正道さんと共に参画しました。星さんが卒業制作のことを憶えていてくださったのです。
― 具体的にはどのような仕事だったのですか?
木村 いったいどんな仕事なのかと期待したのですが、最初は、当時最終段階に入っていた東北・上越新幹線200系のカーテンと妻壁の色を選ぶということでした。その後、0系以降初めての新形式である100系では、企画の段階から関わり、大きな成果をあげることができました。
― その後、1987年の国鉄の民営化を機に、木村さん、松本さん、手銭さん、そして福田哲夫さんが中心になって「トランスポーテーションデザイン機構(TDO)」を設立して、新幹線など数々の車両のデザイン開発に参加されているのですね。そこで、新幹線などの車両デザインについて伺いたいのですが、JRなどの鉄道会社、車両メーカー、木村さんのようなデザイナーと、どのようにして開発を進めているのでしょうか?
木村 いろいろなケースがありますね。指定されるケース、長年継続して担当するケース、コンペによって選ばれることもあります。通常、鉄道会社から依頼があると、まず車両計画の概要説明があった後、「デザイン企画書」としてデザインコンセプト、外形・車内デザインの方向、椅子などの部品、色彩計画などを提案します。それが承認されると、車外(エクステリア)、社内(インテリア)と共に、シートや照明計画、さまざまな部品、素材、表示、色彩といったディテールにまでわたって展開していきます。
その際、鉄道会社はもちろん、車両メーカーのデザイン部門、設計部門との共同作業は欠かせません。
実物大のモックアップもつくって検討していきます。客室ばかりでなく、出入り口、トイレ、洗面所といった部位も細かく検討します。最近では車内での大きな荷物の扱いが課題です。そして設計ばかりでなく、営業や運営の担当者、最終的には経営上層部も加わって検討されます。通常、最初の打ち合わせからお客様に乗っていただくまでに5年くらいかけて取り組みます。近年、デザインに対する関心も高まり、より良い快適性、居住性が求められているのでデザインの役割がますます大きくなってきています。
― 車両デザインに関する資料やテータはどのように整理、保存されているのでしょうか? またTDOではどのようになさっているのでしょうか?
木村 デザインと設計は不可分でその量は膨大なものになります。基本的には各車両メーカーのデザイン部門がプロジェクトごとに整理、管理しています。しかし実物大のモックアップなどは財産管理上や保管スペースの問題もあって廃棄せざるを得ませんね。
TDOとしては、関わった企画書、構想図、実施図、試作サンプルなどは一応ある程度は保管していますが、全部にわたることは不可能です。車両メーカーと分担・協力しながら保管しているのが実情です。
― 車両デザインでのTDOの役割とは?
木村 担当するプロジェクトのデザインの基本計画から実施展開まですべてに関わっていますが、それとともにその鉄道会社のデザイン展開を長い目でとらえてアドバイスすることも重要だと思っています。外からの眼としての役割です。
プロモーションとデザインミュージアム
― 木村さんはJIDA(日本インダストリアルデザイナー協会)、国際デザイン交流協会など、デザイン団体の事務局長を担当され、国内外のデザイン振興にあたってこられました。世界のデザイン振興団体、デザインミュージアムについてもよくご存知かと思います。
木村 まず思うのは、デザインミュージアムと言ってもいろいろな視点があるということです。例えば、デザインをプロダクトと捉えるならば、その対象はピンから飛行機まで非常に幅広い。一方、デザインをアイデンティティの側から見ると、形よりもむしろ発想や企画といった思想の部分が重要になります。あるいはパブリックデザインとパーソナルデザインという見方もあります。要は、「デザインミュージアム」と言っても、何を見せるか、何を伝えたいかという視点によっていろいろな可能性があるわけです。
― 木村さんご自身はどのようにお考えですか?
木村 そうですね。私は考える優れたデザインの条件は、美しいこと、イノベーティブ(革新性)、社会や生活への影響力の3つです。さらにデザインミュージアムということになると、こうした視点で選定したデザインの数々を文化史的に構想していくことが第一歩ではないかと思います。ただし、それらを陳列するだけでは魅力的なミュージアムにはならないでしょう。アートミュージアムとの違いはここにあります。アートは優れた作品を展示するだけでも十分に魅力的ですが、デザインミュージアムはそうではない。いくらグッドデザインでも、単に茶わんやコップ、コンピュータや車などを並べるだけでは不十分で、最低限でもその理由づけが必要です。つまり、製品の背景、なぜ、どうやってそのデザインが誕生したのか、社会や生活をどのように変えたのか・・・といった物語が不可欠なのです。デザインにはアート、サイエンス、ソーシャルという視点が必要なのです。
― そういった意味で木村さんの印象に残るミュージアムはありますか?
木村 ロンドンの「デザインミュージアム」は最近西ロンドン・ケンジントンに移転して建物も一新され、内容も一層充実しました。展示品を見るだけでなく実際に手で触れられるし、デザインを身近に感じ楽しめる工夫が満載で、デザインミュージアムのひとつのかたちではないでしょうか。
― 木村さんがかつて理事長を務めたJIDAでもデザインミュージアム活動をされていますね。
木村 そうですね。JIDAメンバーを中心に委員会を設置してインダストリアルデザインのコレクションを行っており、長野県信州新町に小さなミュージアムをつくって公開しています。本日、ご一緒してくださった伊奈さんたちを中心に活動をしていただいています。
― JIDAミュージアムについては、別途ヒヤリングをさせていただいています。
木村 私の長年の経験からデザインとは何かを考えてみると、プラクティス、プロモーション、エデュケーションという領域があると思います。プラクティスはデザインの実務であり、私の場合は日産や車両のデザインです。プロモーションはデザイン振興や交流であり、私はJIDAを皮切りに国際デザイン交流協会や世界デザイン会議事務局などを担当するなかで、世界中のデザイナーや団体と交流しながらデザインの発展に関わってきました。エデュケーションはデザイナーやデザイン人材の育成であり、私は80歳を過ぎた今でも大学で学生たちを教えています。言い換えれば、プラクティスは「物(モノ)」、プロモーションは「事(コト)」、エデュケーションは「人(ヒト)」ですね。
私のデザイン人生は幸運なことにデザインの物(モノ)、事(コト)、人(ヒト)に関わることができました。デザインミュージアムも優れたデザイン、優れた企画、優れた人材の育成という機能をもつことが大切なのかもしれませんね。
― 短い時間でしたが、最後に木村さんの長いデザイン人生からの言葉をいただけました。本日はありがとうございました。
文責:関康子