日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
松永 真
グラフィックデザイナー
インタビュー:2017年10月31日14:00~16:30
場所:松永真デザイン事務所
取材先:松永 真さん 松永真次郎さん
インタビュアー:久保田啓子 関康子
ライティング:関康子
PROFILE
プロフィール
松永 真 まつなが しん
グラフィックデザイナー、アートディレクター
1940年 東京生まれ
1945年 疎開のため東京・高輪から福岡県筑豊に疎開
1964年 東京藝術大学美術学部デザイン科卒業
1971年 資生堂宣伝部を経て、松永真デザイン事務所設立
日宣美特選、東京ADC賞、毎日デザイン賞、
ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ金賞・名誉賞、
芸術選奨文部大臣新人賞、日本宣伝賞・山名賞、
N.Y.ADC賞、紫綬褒章、亀倉雄策賞、原弘賞など。
Description
前文
かの田中一光は、松永真デザインを象徴する「半径3メートルの発想」という信条について、次のように述べている。「実は『生活』が『作品』の根底にしっかりと根を張っているという、彼らしい自信の表現であり、中略、生活が社会に透視され、それが世界にまで拡大してゆくという、シンプル極まりない素直な理想が、実は松永真のバックボーンなのである」。
また、亀倉雄策も次のように評している。「この人こそ、自分の持っている人間性が、そのままデザインになっている人だと思う。それが、できたのは、自分の信念をまげないために、ねばり強く努力を持続するシンの強い人だと思う。松永のデザインはまさに『日常性の美学』である」。戦後を代表する2人のグラフィックデザイナーが、松永真のデザインの真髄を「日常性」や「生活」のなかに見出しているのは、決して偶然ではない。
20世紀初頭に始まる近代デザインは技術革新と歩調を合わせて、「豊かな生活の実現」を目指して発展してきた。その一方でデザイナーの作家性や個性を発信する新たな表現の舞台でもあった。日本のグラフィックデザイン界においても、原弘、亀倉雄策、田中一光らは、作家性の強い作品を生み出し評価され、デザイン界を牽引していた。このような流れのなかで、松永は日常に溶け込むアノニマスなデザインの領域を切り開き、確固たる地位を築いた最初のデザイナーなのだ。
一方で、松永は、自ら「フリークス」(Freaks)と名づけた創作活動も続けている。「フリーク」とは、衝動、気まぐれ、酔狂などの意味をもつ言葉。事務所での本業とは異なるアトリエというスペースで、子どものように生き生きと創作に没頭する。クライアントからの依頼があって初めて成立するシンプルで厳格なデザインとは異なり、内なる情熱のままに表現し、創作できるもうひとつの開放的な世界。この二つの世界を行き来しながら、松永のデザインとフリークスという一見真逆の創造は醸成されている。
Masterpiece
代表作
・資生堂 ビューティケイク<ブロンズサマー>(1969)資生堂
・資生堂 サンオイル<人・人・人>(1971)資生堂
・紀文素材缶(1978)紀文
・日本国憲法(1982)小学館
・スコッティ(1986)日本製紙クレシア
・PEACE "Love, Peace and Happiness" ポスター(1986)
・ISSEY MIYAKE シンボルロゴ(1989)
・カルビー シンボルロゴ(1994)
・ベネッセコーポレーション シンボルマーク(1995)
・UNO(1998)資生堂
・JAPAN“燃え盛るか日本、燃え尽きるか日本” ポスター(2001)
・国立西洋美術館 シンボルマーク(2004)
・ISSIMBOW (2005) 日本香堂
・FOMA SH702iD (2006) シャープ / NTTドコモ
・HIROSHIMA APPEALS 2007 ポスター(2007)
財団法人 広島国際文化財団 / 公益社団法人 日本グラフィックデザイナー協会
書籍
『松永真のデザイン』(1992)講談社
『グラフィック・コスモスー松永真デザインの世界』(1996)集英社
『松永真、デザインの話』(2000)アゴスト
『松永真、デザインの話+11』(2004)ビー・エヌ・エヌ新社
『ggg Books 別冊-9 松永真』(2013)DNP文化振興財団
Interview
インタビュー
デザインが情報として消費されてしまう現状に
不安を覚えています。
松永真デザインの源泉
― 松永さんは東京藝術大学を卒業後、グラフィックデザイナーとして50年以上活動されています。その間、多くのポスター、CI、日用品のパッケージ、携帯電話などのプロダクトと、変化の激しい現代にあって人々の生活に密着した普遍的なデザインを探求していらっしゃいます。それらはデザインの未来のためにもアーカイブとして残してほしい仕事です。
最近では、ご子息の真次郎さんを中心に作品や資料を整理され、また幼少期をすごした福岡県の田川市立美術館、ニューヨーク近代美術館、東京国立近代美術館をはじめ国内外88カ所のミュージアムに作品が所蔵されているとのこと。本日は松永さんのデザインアーカイブに対するお考えを伺いたいと思います。
松永 私の仕事がアーカイブに相応しいとおっしゃってくれるなら、その前に私のデザインの源泉についてお話しできればと思います。
私の仕事は、「生活すべてがデザインである」「半径3メートルの発想」という言葉に集約されているように、生活環境をかたちづくるグラフィック全般に関わっています。そういう意味で1987年の毎日デザイン賞受賞は私にとって大きな出来事でした。なぜならそれ以前は建築やクルマ、ファッションなどのビッグプロジェクトが主流で、ティッシュペーパーやカンチューハイのパッケージのようなアノニマスな日用品のデザインが受賞したことがなかったからです。私はこの受賞にとても驚き、大きく背中を押されるような気持ちになりました。
― たしかに、松永さん以前は、たとえば亀倉雄策さん、田中一光さんのような作家性の強い方々が主流でしたね。松永さんがそれだけではないデザインの可能性を探るきっかけは何だったのでしょうか?
松永 子ども時代を福岡県の筑豊ですごしたことが大きいのです。私はもともと東京生まれ、白金で暮らしていました。ところが、太平洋戦争の末期に書家だった父が東京大空襲を逃れて一家で九州に疎開し、幼少から中学の途中までをそこで暮らしました。 当時の筑豊は石炭産業が栄えていて活気づいていました。狭い地域に三井鉱山のエリートから真っ黒になって働く炭鉱労働者まであらゆる階級の人々が暮らし、子どもたちはみな同じ学校に通っていたのです。そこには、自宅にグランドピアノや美術全集があるようなエリート家庭の子どももいれば、勉強ができるのに進学をあきらめざるを得ない貧しい家庭の子どももいました。私の家だって決して裕福ではなかったけれど、父が東京から持ち込んだ蓄音機やフランス製の9ミリ映写機などがある文化的な生活環境は保てていました。
― そのような子ども時代にデザイナーの素養を見出す出来事があったのですか?
松永 もともとお絵描きが上手な子どもで、絵のコンクールで表彰されたり、同級生の名札をつくってあげたりするようになりました。
― 名札ですか?
松永 小学生はみんな同じ名札を付けていますが、生徒一人ひとり違っていますよね。そこで私はクラスの友だちの名札をつくってあげたりしていたんですが、それが評判になって他のクラスからも頼まれて苦労しました。また学校や地区の文化行事やコンクールなどでは賞を独占していました。卒業するときには校長先生が私のために学校初の「文化功労賞」をつくり、その表彰状を書家の父が校長先生から頼まれて困惑していたことがかけがえのない思い出です。
― 松永さんのお仕事は、企業のロゴや日用品のパッケージ、ヒロシマ・アピールズなどの社会的メッセージ性の強いポスターなど、常に時代を超えた普遍的な価値を表現されているという印象をもちます。それらは老若男女、国や文化の枠を超えて万人が共有する感覚に訴求する力があります。そのセンスは、純粋だった幼少期を筑豊という独特の社会ですごし、子どもながらに社会の不条理や矛盾を垣間見、一方でそのような状況でも力強く生きる人々の姿を体感することによって育まれたのではないかと思います。松永さんご自身も「少年期に体験したこの現実はデザイナーにとってとても大きな骨(バックボーン)になった」と述べておられますね。その後、松永さんは京都で中学、高校時代をすごし、東京藝術大学に進まれるわけですね。
松永 藝大ではデザイナーの川上元美、マリメッコで活躍された石本藤雄や絵本作家のいわむらかずおなど、優秀なクラスメートがひしめいていました。私たちの時期だけ「工芸デザイン科」ということで、デザインだけでなく漆芸や彫金、染色なども勉強させられたんですよ。何でグラフィックデザインなのに彫金なんだ?と、当惑もしましたが、人間国宝のような作家から直接薫陶を受けることができたのですから、結果的にはとても幸運なことでした。今から思えば、伝統工芸に触れる機会がもてたことで得た何ものかが、その後の仕事に影響を与えてくれたように思います。
― デザインの勉強だけでは得られないものつくりへの姿勢、ものの捉え方、知識や知恵を学ぶことができたということなのですね。そして藝大を卒業後は資生堂宣伝部に7年間在籍し、独立されたわけですね。
松永 東京で生まれて幼少期に九州へ、そして中学で京都に転向して、東京に戻って来て藝大から資生堂の宣伝部へ。つまり18歳以前と以降の関係が色濃くつながって、私にとって大きな糧となっています。
デザインアーカイブについて
― そんな松永さんの50年に及ぶ作品や資料は相当の量になると思います。現在、ご子息の真次郎さんを中心に作業を進めているそうですね。
松永 50年以上ですからね、その量は膨大です。私の場合、20代の頃はデザイナーとして駆け出しで仕事量はまだ少ないし、本人にとっては手がけた仕事はどれも代表作といった意気込みだったし、また時間にも余裕があったので資料やデータはほとんどすべて残しています。ところが30代以降、仕事に合わせて資料も増えてくるし、第一忙しくてそれどころではありません。そこで歴代のアシスタントに任せることになってしまいますが、その性格や資質によって整理や保存の状態はまちまちです。彼らにしてみれば、どの資料を残してどれを処分すべきかといった判断はできないでしょう。この部分は私や私の身内しか責任がもてないということで、現在は息子や女房を中心に進めています。
― 資料整理は二次的仕事になってしまうということですね。この調査に協力してくださった多くの方が、松永さんと同じように自分ではなかなか進まないとおっしゃっています。
松永 そうですね。私自身はほとんどできていません。その分、息子や女房に大きな負担をかけていると思います。
― 具体的にどのようなかたちでアーカイブされているのでしょうか?
松永 まず、いらないものを処分することから始めています。こうした仕事をしていると自分が手がけた全集などの書籍類、何かに役立つかもしれないと保管している印刷物、過去にいただいた表彰状などが膨大にあって日々片付けています。表彰状は額に入れていちいち飾っておく趣味もないし。ただ、私が整理したいものをもらってくれる人もいるのでとても助かっています。
仕事に関するものは、以前は寺田倉庫などに預けていましたが、現在は事務所、アトリエ、自宅の地下室の3カ所に分けて保存しています。この建物(事務所)は三橋いく代さんのデザインで収納スペースをしっかり確保してくれているので、フリークスの作品などもここの地下で保管しています。一時期、東京オペラシティに事務所を構えて、地下の倉庫も借りて月々莫大な賃料を払っていたのですが、先々のことを思えば自分のスペースを確保した方が良いと考えるようになったのです。その頃からアーカイブということを意識し始めていたかもしれませんね。
松永真次郎 具体的には、ポスター、パッケージ、ブックデザイン、ドローイング作品、ブロンズ作品など、カテゴリーごとに収納・保管しています。そして作品タイトル、制作年、サイズ、カテゴリー、クライアントなどの作品情報を、作品画像データとともにファイルメーカーでデータベース化し、保管場所や保存数、コレクション先などもあわせて検索できるようしています。各プロジェクトの進行資料についても、ファイリングして整理・保管しています。
― ポスターなどの実物はどのように保管されているのですか?
真次郎 ポスター作品については、B全判は専用のキャビネットに納め、B0判は撒いた状態で保存ケースに入れて専用の棚に収納しています。それ以下のサイズのものは、一定期間保存し、残念ですが、最終的に処分しています。パッケージ作品は、プロジェクトごとに箱などにまとめて保管しています。例えばティッシュペーパーの「スコッティ」は1986年以降、何度かのリニューアルをしてきていますが、そのプロセスや改良点を辿れるように保存しています。宝酒造の「カンチューハイ」もオリジナルのデザインから何度かリニューアルをして、種類も増えていますが、主要なデザインはすべてを保管しています。
グラフィックデザインは複製品なので、例えばポスターなどは、代表作で数枚しか残っていない作品もありますが、比較的新しい作品であれば数十枚あるものもあります。とは言え、保管場所には限りがあるので、定期的に在庫を整理する必要がありますが、これは結構大変な作業です。
松永 資料整理に関して私が行っていることは、仕事にABCのランクをつけて、どれを残すかを判断することです。すべてを残せればいいですが、場所にも限りがあり優劣をつけざるを得ません。またメモやアイデアスケッチもすべてを残しておくことはできません。このアーカイブ調査の亀倉先生の部分で、本人はメモなどをすべて処分していたが、それを惜しんだお弟子さんがゴミ箱から拾ってとっておいたという記述がありましたが、私も同じだなあと思って読みました。
― では、雑誌や新聞などの記事はいかがですか?
真次郎 掲載された新聞、雑誌、カタログなどは、すべて現物を保管しています。さらに掲載ページのコピーをファイリングして、同時にファイルメーカーでデータベース化して、掲載年月、新聞・雑誌名、記事タイトルなどから検索ができるようにしています。
― 今、事務所の地下室でポスター作品や書籍類などの大量のアーカイブを見せていただいているわけですが、他にご自宅とアトリエの地下にも同じように保管されているということですか?
真次郎 アトリエの地下には、主にポスター作品とパッケージ作品が保管してあります。自宅の地下には、自身の作品集やドローイング作品、ブロンズ作品などが保管してあります。
― ここまでしっかり整理されたアーカイブを拝見するのは初めてです。真次郎さんが作成しているデータベースも収蔵先とその点数まで記入されていて、資料性の高い内容ですね。これがあれば、どこに何があるかすぐにわかります。現物の整理保管も大変ですが、このデータの入力作業はそれ以上ですね。
真次郎 データベース化は2000年頃から始めました。何もないところから作成しましたので、時間はかかりました。メインのポスター作品から入力をはじめて、徐々にカテゴリーを増やして、その後は新作が完成するたびに追加で入力するようにしています。ですが、単に事務所や自宅で整理・保管しているだけでは何の意味もないと思います。やはり、ミュージアムや大学などの公的な機関に保管されて、作品が有効に活かされることによって初めてアーカイブとしての価値をもつと考えています。しかし、これら作品の受け入れ先を見つけることは、とても難しい課題だと思います。
松永 問題は、こうして日々多大なる労力をかけて整理・保管している資料の行き先です。私の場合は、女房や子どもたちまでは守ってくれると思いますが、孫たちの世代ではどうなるかわかりません。
― 松永さんの場合、ポスターに限れば大日本印刷のDNP文化振興財団、富山県美術館、武蔵野美術大学美術館をはじめ、ドイツ、フランス、アメリカなど、比較的多くの公的機関にコレクションされていますね。
松永 ポスターは平面だし比較的保管しやすい。また作家性やメッセージ性が強いので展覧会も開催しやすいし、美術館でもコレクションの対象として魅力を感じるのでしょうね。ただ、私の仕事はポスターだけではないし、それ以外のデザインについても丁寧にアーカイブし、活用してくれるところがあるといいなあと考えます。
― 松永作品の所蔵について調べていたところ、幼少期をすごされた福岡県の田川市美術館にまとまったかたちでコレクションされていると知りました。どのような経緯があったのですか?
松永 最初にお話ししたように疎開先が筑豊だったというご縁で、初めて田川市に美術館ができるときに少年時代の恩返しにと、シンボルマークやロゴタイプをデザインし寄贈しました。また美術館開館記念で「松永真・デザインの世界展」が開催され、そのときの展示作品をそのまま寄贈したというわけです。
デザインアーカイブのあるべき姿
― 松永さんがデザインアーカイブやデザインミュージアムについて、どのようにお考えなのか伺っていきたいと思います。
松永 やはり自分のアーカイブは残したいと考えています。幸い、私の場合は作品や資料の整理は息子が行ってくれていて感謝しています。そんな話を人にすると「息子さんが後を継いでくれていいですね」と言われますが、クリエイティブを継承するなんてことはそもそもあり得ません。本人もそのようなことは思ってもいないでしょう。
― それにしても身内がアーカイブ作業をしてくれているということはとても幸運なことだと思います。
松永 先ほども言いましたが、アーカイブを家族などの個人で保存、継承していくことは非常に困難です。やはりミュージアムや大学などの公的機関が保存していくことが望ましいと思います。
今、ドイツのポスターミュージアムから展覧会の要請をいただいていて準備を進めている最中ですが、そのまま作品を寄贈できればと考えています。すでにミュンヘンとハンブルグのミュージアムに所蔵されていますが、ドイツであればお国柄というか作品をきちんと保存してくれるだろうという信頼感や安心感もあります。現在、美術館側と調整作業を進めているところです。ただその中身は私の仕事の一部にすぎません。
― たしかに、展覧会作品の寄贈ですと全作品ということにはならないですね。けれどもあるテーマにそって構成された作品群がそのままアーカイブになれば、松永さんのメッセージを明確に伝えることはできるのではないでしょうか。
松永 こうしたかたちでもアーカイブになれば幸運かもしれませんね。
― 松永さんはパッケージやCIなど、企業や組織の仕事も多いですが、クライアントが文化活動の一環として製品に関わるデザインをアーカイブするような動きはないのですか?
松永 残念ながら、日本では自社製品やデザイン資料の管理保管をしている会社は少ないようです。企業や組織では担当者や部署が変わることもあって、デザインの思想をつなげていくことが難しいように感じます。例えば、企業のなかでは「カンチューハイ」のようなロングセラー商品のデザイン経緯もきちんと保管されておらず、必要になるとデザイナーが持っている資料を参考にするしかないケースも多い。かつては資生堂ですらアーカイブが完全ではなく、私や石岡瑛子さんなどは自分が所持している資生堂時代のポスターなどを展覧会の際に提供したことがありました。
― これだけ時代の変化や商品サイクルが速いと、デザインのオリジンを探ったり、変更のプロセスを辿ることが難しくなっているのですね。デザインアーカイブには結果だけでなく、デザインが生まれた背景や変化の過程を記録し辿ることによって、その時代を再検証できるという重要な意味があることを強く感じます。
松永 逆に質問があるのですが、この「日本のデザインアーカイブ実態調査」のゴールはどこにあるのでしょうか? と言うのも、私自身、自分の仕事や資料の整理を進めていますが、その後どうなるのかはわかりません。こうした活動は一企業では無理だし、とは言っても今の日本の様子では国や行政がデザインミュージアムをつくること自体困難のようだし、それは到底期待できないでしょう。
― おっしゃる通りです。私たちは弱小のNPO法人にすぎないので、デザインミュージアムをつくることなどはできません。ただ、日本のデザインをつくってきた方々の世代交代が進むなかで、彼らの作品や資料はどんどん失われています。一度失われてしまったら二度と取り戻すことはできません。だからこそ現状をヒヤリングし、記録に残しておくことは無駄ではないと考えています。例えば展覧会を開くにも作品や資料がどこにあり、誰が管理し、どのような状態にあるのか、その手掛かりを残しておくことも重要です。将来、同じようなことを考えている人や組織との連携に期待しながら、こつこつ作業を進めているところです。
松永 私が最近気になっていることは、いわゆるデザインジャーナルがなくなってしまったことです。単に情報を得るだけならばウェブでいいかもしれませんが、私は生活そのものがデザインであると考えているので、デザインが情報として消費されてしまう現状に不安を覚えています。デザインの意味や背景を考え、語り合う場としてのジャーナルの意味は大きいのではないか。デザインアーカイブという視点から見てもデザインジャーナルの存在は大きいはずです。
― そうですね。ただ、デザインアーカイブについていえば、少しずつではありますがアーカイブに着目する組織や団体、個人が登場してきています。国立のデザインミュージアム建設は難しくても、小さなデザインアーカイブがネットワークしていくという、ミュージアムの新しいかたちはあるかもしれません。そうした組織との連携を探っていきたいとも考えています。本日はありがとうございました。
文責:関 康子
連絡先
松永真デザイン事務所
電話:03-5225-0777
ファクス:03-5266-5600