日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
三宅一生
デザイナー
インタビュー01:2025年12月22日 17:30~18:30
取材場所:三宅デザイン事務所
取材先:北村みどりさん、大森昌子さん
インタビュアー:関 康子
ライティング:関 康子
PROFILE
プロフィール
三宅一生 みやけ いっせい
デザイナー
1938年 広島県生まれ
1964年 多摩美術大学図案科卒業
1965年 パリに渡る
1970年 帰国、三宅デザイン事務所設立
1971年 ニューヨークで ISSEY MIYAKEコレクション発表
1973年 パリコレクションに初参加
1977年 1976年度毎日デザイン賞受賞
1983年 「ISSEY MIYAKE SPECTACLE:BODYWORKS」展
1988年 プリーツの仕事を開始
「ISSEY MIYAKE A UN」展
1990年 第1回ヒロシマ賞受賞
1991年 フランス芸術文化勲章コマンドール受章
1993年 「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」ブランド発表
1997年 紫綬褒章を受章
1998年 文化功労者へ顕彰
A-POC プロジェクト開始
「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」展
2000年 「三宅一生展 ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」
2004年 財団法人三宅一生デザイン文化財団設立
2006年 第22回京都賞思想・芸術部門受賞
2007年 21_21 DESIGN SIGHT開設 ディレクター就任
「リアリティ・ラボ」プロジェクト開始
2010年 文化勲章受章
「132 5. ISSEY MIYAKE」ブランド発表
2011年 財団法人から公益財団法人へ移行
2012年 「国立デザイン美術館をつくる会」発足(青柳正規氏共同)
2016年 フランス レジオン・ド・ヌール勲章コマンドール受章
「MIYAKE ISSEY展:三宅一生の仕事」
2022年 逝去

撮影:Brigitte Lacombe
Description
概要
三宅一生は、デザインの発展の原動力であり続けたクリエイターである。
その核は「一枚の布」から発し、「ボディ」、「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」、「A-POC」、「132 5. ISSEY MIYAKE」に見られる革新性であり、ナラティブに語られることの多かった衣服デザインに、合理性や技術革新などのモダンデザインのコンセプトを融合させたこと、そして何より「人間と衣服との関係性」、「人が服をまとうことの意味」を探求したことにあった。衣服デザイナー三宅一生については、決定版である『三宅一生』(タッシェン刊)をはじめ、多くの作品集、写真集、三宅一生論などの出版物、新聞や雑誌記事、番組などをご覧いただきたい。
同時に、三宅一生は、もうひとつの顔を持っていたと思う。それはデザインアクティビストという顔であり、建築、プロダクト、グラフィック、工芸、ダンス、アート……を包括する「人間に備わった根源的な創造性と情熱」への圧倒的な信頼に立った、デザイン文化の創生と発展に寄与することだった。それは1960年東京で開催された世界デザイン会議で、当時美術大学の学生だった三宅は、議論の対象に衣服デザインがなかったことに反応して、「デザイン学生連合(仮称)結成へ」を宣言した頃から始まっていた。そこには「衣服というものが生活とどれほど大きな連がりを持っているかなどということは、今さら言うまでもないことです」と記され、三宅の衣服デザインへの並々ならぬ情熱が率直に語られていた。と同時に、「衣食住」が生活基盤であるにもかかわらず、世界的な国際会議において、衣服デザインがテーマに挙げられていないことに対する違和感があったことは否めない。しかしこの出来事はその後の三宅の活動の原点となった。
そんな三宅は、2000年前後からデザインアクティビストとして本気の一歩を踏み出した。そのひとつが「造ろう デザインミュージアム」(2003年1月28日、朝日新聞夕刊)の寄稿を機に始まった国立デザインミュージアムの創設に向けた活動だ。これは日本の産業、経済、文化の発展に大きく寄与している「デザイン」の記録、保管、整備、広報の必要性を説き、デザイン界に大きな影響を与え、今日に至っている。
2004年には財団法人三宅一生デザイン文化財団を設立し、自身の作品のアーカイブ整備を実施、少し遅れてプレ・デザインミュージアムとも言える 21_21 DESIGN SIGHTを創設し、自らもディレクターに就任、展覧会を軸としたデザインプロモーションを展開し、今や外国の来訪者も多く立ち寄る東京を代表するデザイン拠点となっている。
三宅一生が逝去して4年がたった。「三宅さんが亡くなったらISSEY MIYAKEブランドはどうなってしまうのだろうか?」という懸念をよそに、同ブランドは快進撃を展開している。そこには何か秘密があるのではないかと想像していたときに、同財団が取り組む三宅一生アーカイブの存在を知り、三宅に50年間伴走した北村みどりさんへのインタビューという貴重な機会をいただくことができた。北村さんの話から、創造とは何か、アーカイブとは何かについて、ひとつの回答をいただいたように感じた。三宅自身が発想し、構築した三宅一生デザイン文化財団の取り組みは、デザインアーカイブやデザインミュージアムへの多くの示唆に富んでいる。
Masterpiece
代表作
「タトゥ」(1971年春夏コレクション 以下コレクション省略)、「コマ・ドレス」(1976春夏)、「パラダイス」(1976秋冬、プリントデザイン:横尾忠則)、「一枚の布ニット」(1977春夏)、ボディ シリーズ (1980秋冬~1985秋冬、プラスチック・ボディ、ラタン・ボディ、ウレタン・ボディ、ワイヤー・ボディ、ウォーターフォール・ボディ、シリコン・ボディ)、「紙衣」(1982秋冬)、「チューブ・ドレス」(1983秋冬)、「バルーンコート」(1987春夏)、「オリガミ・プリーツ」(1989春夏)、「リズム・プリーツ」(1990春夏)、「コロンブ」(1991春夏)、「スクエア・オン・スクエアズ」(1991秋冬)、「ツイスト」(1992春夏)、「バルセロナオリンピック、リトアニア共和国選手団公式ユニフォーム」(1992)、「フライング・ソーサー」(1994春夏)、「ステアケース・プリーツ」(1994秋冬)、「スターバースト」(1998秋冬)、「A-POC キング&クイーン」(1999 春夏)、IKKO TANAKA ISSEY MIYAKE「ニホンブヨウ」 IKKO TANAKA ISSEY MIYAKE「シャラク」(2015)
主な展覧会
「ISSEY MIYAKE SPECTACLE:BODYWORKS」(1983-1985)ラフォーレミュージアム飯倉/オーティズ・アート・インスティチュート・オブ・パーソンス・スクール・オブ・デザイン/サンフランシスコ近代美術館、ヴィクトリア&アルバート美術館、「ISSEY MIYAKE A UN」(1988)パリ装飾美術館、第一回ヒロシマ賞受賞記念「三宅一生展 TEN SEN MEN」(1990)広島市現代美術館、「三宅一生展 PLEATS PLEASE」(1990)東高現代美術館、「イサム・ノグチと三宅一生 アリゾナ」(1997)丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」(1998-1999)カルティエ現代美術財団、エース・ギャラリー、「三宅一生展 ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」(2000) 東京都現代美術館、三宅一生ディレクション「XXIc.―21世紀人」(2008) 21_21DESIGN SIGHT、「MIYAKE ISSEY展:三宅一生の仕事」(2016)国立新美術館
主な出版物
『三宅一生の発想と展開 ISSEY MIYAKE East Meets West』(1978)平凡社、『ISSEY MIYAKE BODYWORKS』(1983)小学館、『一生たち ISSEY MIYAKE & MIYAKE DESIGN STUDIO 1970-1985』(1985)旺文社、『ISSEY MIYAKE PHOTOGRAPHS BY IRVING PENN』(1988) 日本語版・リブロポート/4カ国語出版、『アーヴィング・ペン 三宅一生の仕事への視点』(1999)日本語版 求龍堂/5カ国語出版、『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE』(2012)タッシェン、『三宅一生』(2016、改訂増補版 2024)
Interview 1
インタビュー01
作品ではなく、三宅の思想、仕事のやり方を継いでいくことが大切なのです。
悩んだときには三宅のアーカイブを見直すことでしょう。
三宅一生との出会い
北村みどりさんは現在、三宅デザイン事務所の会長、三宅一生デザイン文化財団の理事長であり、三宅一生の思いを継ぎ、体現できる唯一の人物といえるだろう。初めてお会いしたのは1980年代後半、『AXIS』誌の編集スタッフとして、日本初の衣服デザインの展覧会として大評判となっていた「ISSEY MIYAKE A UN」展(パリ装飾美術館)について取材に伺ったとき。当時すでにアタッシュドフレスとしてISSEY MIYAKEブランドの顔として活躍されいて、その後もメディアや展覧会を通して「三宅一生」を世界に向けて発信し続けている。その北村さんは「三宅一生アーカイブの今と未来」についてどうお考えなのだろうか。
ー 北村みどりさんは三宅一生さんのもっとも近くで、その人と仕事に寄り添い、活動を支えてこられました。北村さんは最初の頃はフィッティングモデルをされていたとお聞きしました、その当時の話をお聞かせください。
北村 先生(三宅一生氏)は海外から帰国して、1970年に三宅デザイン事務所(以下MDS)を設立して日本での活動を始めました。その数年後に縁あって、私がフィッティングモデルをすることになったのです。それが最初の出会いで、私は20代前半でした。スタジオではいろいろな服を試着するのですが、せっかくなら感想を述べた方がいいのかなあと思って「これは好き!」「それは着たくない!」と、今振り返ると身震いしてしまうくらいの傍若無人ぶりでした。でも先生はそんな無謀な私を新鮮に感じたのか、私の感想や意見を尊重して「なら、こちらの服はどう?」「こんな感じならいいかな?」と受けとめてくださった。最初はこんな感じでスタートしたのです。
ー そのときの様子が目に浮かびます。
北村 先生は私のはっきりものを言うところがお好きだったんだと思う。とは言え、私自身も仮縫いでいらしていたプロのモデルさんたちがどんな服も着こなして上手に表現している姿を目の当たりにして、たくさんのことに気づき学んでいきました。
ー その当時、北村さんはどんな服がお好きだったんですか?
北村 私は学生のときから服がとても好きで、その頃はミッソーニを着ていました。
ー その若さでミッソーニですか。すごい。
北村 そう。当時、東京プリンスホテルのアーケードに「PISA」というショップがあって、ミッソーニを扱っていたんです。ミッソーニを着てエルメスのスカーフを巻いて、アンドレア・フィステルの靴を履いてスタジオに出入りしていたのだから本当にめちゃくちゃだった。(笑)でもそのくらい服が大好きで、学生時代は横浜元町の生地屋さんで気に入った布を買って服をつくったり、友だちの誕生日には手づくりの手提げをプレゼントしたり、そういうことが好きだったのです。
ー お聞きしていると今の北村さんに通じる素地がすでにおありだったのですね。そんな北村さんがMDSに正式に入られたきっかけは何だったのでしょうか。
北村 フィッティングモデルの仕事で頻繁にMDSに出入りするようになってしばらくたったある日、先生が私に「欧米ではアタッシュドプレスというスタッフがいるんだけど、僕もそういう人材が欲しいから、みどりさんがなってくれない?」とおっしゃった。私が気軽に「いいですよ」とお答えしたら、デザインスタッフだった毛利臣男さんがその場に居合わせて「アタッシュドプレスって『あたしゃ、プレスだよ』、つまりはアイロンかけのスタッフなんだから‥‥‥」って、冗談をおっしゃって。(笑)そもそも先生が知識も経験もない私に声をかけてくださったのは、私の率直さや天真爛漫ぶりをおもしろがってくださったのかもしれません。私は後先のことを考えずにお引き受けしたのだけど、それから50年近くたってしまったのだから、出会いって本当に不思議よね。
ー アタッシュドプレスになって、北村さんの意識も変わりましたか。
北村 最初のうちは私自身がお引き受けしたものの、自由な立場からなぜ社員にならなくちゃいけないの?という気持ちがどこかにありました。ところが先生の近くにいて仕事ぶりに触れ、周りにいるすばらしい方々の存在を知り、生意気だった私が先生を敬愛するようになって、借りてきた猫のようにおとなしく謙虚になっていったの。それに、創造という行為、つまり人がつくりあげた物や作品に対して尊敬の気持ちをもつことの大切さ、好き嫌いという感情だけで発言してはいけない世界があることを知りました。でも、そんなこともすべてを含めて日々勉強であり、新鮮な毎日でした。
ー 北村さんの変化には何かきっかけはあったのですか。
北村 先生は当初から東京、パリ、ニューヨークの3都市にお店をつくることを目標とされていて、ショッピングバックに「東京、パリ、ニューヨーク」と印刷していました。最初からしっかりした目的をもって、死に物狂いで働いていらしたんです。そしていよいよ1976年に青山のフロムファーストに旗艦店をオープンし、同じ建物の空きスペースを借りて大がかりなオープニングショーも開催されたのです。そのとき先生の友人や私もモデルとして出演して、観客もすばらしい方々が大勢来てくださって、その現場に立ち会うことのできた私は「先生は特別な人なのだ」と悟ったのです。
ー 先ほどから北村さんは三宅さんのことを「先生」とおっしゃっていますが、生前からそうだったのですか。
北村 普段は「一生さん」です。だけど世界に出ていろんな経験をするうちに、アタッシュドプレスの多くがブランドのデザイナーに敬意をもって接している様子を見て、自分も公の場では「三宅さん」あるいは「先生」と呼ばなければならないって思った。今は対外的には先生、三宅さんと呼ぶことが多いです。生前は仕事だけでなくて食事をしたり、旅をしたり、本当に多くの時間を共にしたけど、そのときは「一生さん」と。内と外で使い分けています。
三宅一生をどう伝えるか
ー 北村さんは三宅一生さんの書籍や展覧会のほとんどをディレクションされていると伺っています。それぞれコンセプトや目的は違うと思いますが、北村さんが三宅さんやそのものづくりについて一貫して伝えたいことは何でしょうか。例えば、タッシェンから出版されたアタッシュケースのような箱入りの『三宅一生』は、まさに三宅さんの集大成ですね。
北村 私は先生の偉大さを後世に伝える役割を負っていると自負しています。私が先生から学んだこと、教わったこと、クリエイションなどを伝えなければならないという使命感をもっているのです。現在は香水の本をつくっています。
特にその集大成ともいえるタッシェンの『三宅一生』は、先生のものづくり、研究開発のヒストリーの全容を記録することを目指しました。先生のアイデアがどのような調査や研究、開発プロセスを経て衣服として完成したのか、それらがどのように発表され受け入れられたのかという流れを辿り、同時に研究開発の賜物であるショーや展覧会、書籍や映像なども納めました。
初版の準備中にプレゼンしたら「僕はこんな重い本は嫌だよ」とおっしゃったけど、私はどうしても実現したかった。背景には、私が考えられる限りのすべての活動を記録しておかねばならないという切実な思いがあったのです。

『三宅一生』(2024年刊、増補改訂版) 北村が考えられる限りの三宅の活動のすべてを記録した決定版。 撮影:吉永恭章
ー そこには北村さんしか知らない大切な出来事も含まれているのですね。
北村 そうね。私は先生とほぼ24時間一緒にいましたから。(笑)開発の最終段階である仮縫いのときにはどんなに忙しくても時間を確保して立ち会いました。最初の頃は先生から「こちらに来て見てよ」と声掛けがあったのですが、言われなくてもかならず隣に座って「襟くりがちょっと浅い」「ポケットの口をもう少しだけ大きく」とか、私が実際に試着をして確認しました。ショーの準備のときも同じで、「あのモデルどうかな?」とささやかれると、走っていて調整したりもしました。その一つひとつが私にとってはかけがえのない出来事なのです。
ー 展覧会や書籍の制作では、三宅さんと北村さんはどのようなコミュニケーションを取りながら進めていらしたのですか。
北村 先生は24時間、365日考えていらっしゃった。だから、いろいろな場面で漠然としたイメージ、思いつきを言葉で発せられるのです。私はそれらを拾い集めておいて、ひとつのうねりに高まってきたタイミングで具体的な企画に落とし込んでいきました。そして何度も対話を繰り返しながら、時には喧嘩をしながら、スタッフみんなに参加してもらってまとめていったのです。例えば、先生の「パリで、僕の服づくりをプレゼンテーションしたい」というような何気ないつぶやきを受けとめて、あるときは一気に、あるときは時間をかけてかたちにしていくわけです。けれど先生は私だけでなく周りの人たちにもつぶやくから、そうしたこともすべて聞き取ってまとめていくというのが私の役割でした。ただ私は先生の言いなりではなく率直に意見を言っていたし、先生もそれを受容してくださっていました。
MIYAKE・ISMとは
ー 一昨年のインタビューで皆川魔鬼子さんもおっしゃっていましたが、スタッフのみなさんは日頃から三宅さんが発する言葉やアイデアを頭に叩き込んで、それをいかに三宅さんのイメージに叶うようにつくりあげていくかをいつも考えていたと。私は、三宅さんは最初からきっちりした完成像があってデザインされているのかと思っていたので、その話を聞いて意外な印象をもちました。
北村 先生はお忙しすぎました。やるべきことが多くて、すべてを見ることは時間的に不可能でした。だからこそ優秀で情熱のあるスタッフで周りを固めて、彼らと協働していたのです。
ー それは、三宅さんが大きな方向性を示される、あるいは課題を出されて、みなさんがそれを具現化していくということですか。
北村 みんながゾローッと先生についていくんですよ。ついていくというのは変ですけど。(笑)そのために先生と一緒のときはもちろん、あらゆることにアンテナを張って一生懸命に勉強して、先生のイメージを具現化していくわけです。そういう意味では、私たちはみんな生徒です。でも教えてもらうだけではダメで、先生を刺激するようなアイデアやコンセプトを発信することも重要なのです。そういう相互関係を築けないと先生とは協働していけないのです。
ー 三宅さんご自身はその大きな方向性、うねりの「素」をどのように発想されていたのでしょう。
北村 それは私が言えるような簡単なことではなかったし、実際に苦しんでいらしたと思います。だからパリコレが終わると次のコレクションのために旅に出たり、新しいことに挑戦したり、出会いを求めたりと、頭の中をリセットする時間を意識的にもたれていました。そしてまた日々の勉強を怠らず、次の創造のための調査、研究、開発に労を惜しまなかった。その直観力や思考力、完成への執着は半端ではなかったし、本当にいつも何かを考え続けていらした。
ー これだけスピート感のある時代、業界でありながら、毎回ゼロから新しいコンセプトを立ち上げて素材開発から服づくりを実践しているからこそ、「ISSEY MIYAKE」ブランドはモードとは異なる文脈で評価されるのですね。
北村 先生が亡くなった現在もゼロからつくりあげる姿勢は変わりません。スタッフ一人一人が先生の発想や仕事ぶりを目の当たりして訓練されているからできているのです。そして先生が生きていらしたときには気づかなかったことも今なら理解できて、さらに発展させているのです。
ー 三宅さんご自身が迷ったり、核心をもてないときもあったのでしょうか。
北村 もちろんです。そんなときはみんなの意見やアイデアを聞く耳とご自身を変化させる勇気もおもちだった。先生にとってもっとも大切なことはより良い目標、創造を達成することであり、そのために常に柔軟でいらしたのです。私たちの幸福はすばらしいお手本が身近にいてくださったこと、そして今なお目標を共有しながら前進、成長する条件と環境を保持できていることです。だから私は安易に妥協することは絶対にしません。できないならなぜできないのか、実現するために何をすべきなのか、とことん考えつくす癖がついています。
ー 三宅さんは「一枚の布」から始まり、「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」(以下PLEATS PLEASE)、「A-POC」、「132 5. ISSEY MIYAKE」(以下132 5.)と、衣服デザインの概念を一変するような発想と行動が圧倒的であり、世界的な評価を得ておられます。けれどその背後にはフィッティングのエピソードにあるように、デザインへの1ミリ単位のこだわりや布地の独自開発など、繊細な目配りもしっかりされていた。「神は細部に宿る」と言いますが、大胆なアイデアの実現のために緻密は積み重ねがあったのですね。それこそがプランドの神髄、MIYAKE・ISMだったと。
北村 そこは大切にされていました。本当にすてきな衣服をつくるためには、ポケットにちゃんと手を入れることができる、入れたときに服の形がゆがまない、そこまで目配りしてミリ単位で位置やサイズにこだわっていらしたし、確固たる美学がありました。そして実践を通して、そのクリエイティブを継承するスタッフを育て上げた。いいスタッフが育っていると思います。

1994年10月、1995年春夏コレクション準備中のパリオフィスで三宅一生(右)と北村みどり。 撮影:TETSUO FUKAYA
三宅一生のもとから現在第一線で活躍しているデザイナーが多く巣立っている。小野塚秋良、津村耕佑、滝沢直己、吉岡徳仁、藤原大、高橋悠介らは、独自の活躍を展開し、高い評価を得ている。
2007年、三宅は研究の場として「リアリティ・ラボ(Reality Lab.)」を社内に設立。ここは、三宅を中心に熟練した技術者と若手スタッフがチームを組み、日本のものづくりの未来を見据えた服づくりとものづくりのための「実験室=ラボラトリー」だ。ここから折り紙の原理とサスティナブル手法を取り入れた「123 5. 」、そのコンセプトをプロダクトに展開した照明器具「陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE」が開発され話題となった。さらにプリーツ技術を進化させた現代男性のための日常着「HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE」、バッグ「「BAO BAO ISSEY MIYAKE」などの革新的なブランドが誕生している。

「リアリティ・ラボ」とアルテミデが共同開発した照明器具「陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE」。 撮影:吉村昌也(左)、岩崎寛(右)
アーカイブ整備と活用
ー これも皆川さんからお聞きしたのですが、三宅さんがある時期からアーカイブ整備に本格的に取り組まれたと。今ではアーカイブズ担当者もいてスムースに作品や関連資料にアクセスできるそうですね。
北村 アーカイブは保管管理だけでなく、新しいものづくりのリソースとして生かされることが何よりも大切だと考えます。そういう意味で私たちは先生の作品や資料を整理して大切に保存しているし、その全容を把握して必要なときに用意してくれるスタッフもいます。そうしてようやく生きたアーカイブになるし、これからの人たちにとって新しいクリエイションの貴重なリソースとなり得るのです。
すばらしいアーカイブはこれから何十年、何百年と継承されていく。それは三宅一生が生きた証であり、時間が経るにしたがって「アーカイブ=三宅一生」となるものと思います。今は長年MDSに在籍していて先生の仕事もしっかり把握しているスタッフがアーキビストの役割を担っていて、明日までにこれとこの資料を見たいと連絡するときちんと用意してくれるのです。
大森 アーカイブはまだまだ整理が続きますが、できる限り多くを把握して役立てられる状態にしています。また私たちなりに要望を分析して、参考になりそうな資料をそろえて提供しています。これが見たいならあれも見たいに違いないと予測して用意します。
北村 先生の仕事は単独で存在するのではなくて、いろいろと繋がっているところがおもしろい。大森はそこまで考えて対応してくれます。いずれは先生と直に言葉を交わし仕事をしたスタッフはいなくなるけれど、アーカイブを通して先生と対話をしながらクリエイションの神髄を理解できると思うのです。
ー アーカイブを構築して、活用していくことも三宅さんご自身のお考えだったのですか?
北村 三宅財団は先生の構想を具現化したものです。先生亡き今、私をはじめみんなが三宅財団をいかに充実させていくかを考えているところです。アーカイブはもちろんだけど三宅財団そのものが三宅一生であり、そのクリエイションは文化史として記録、継承されなければなりません。
ー 三宅さんのアーカイブにはどのようなものがありますか?
北村 オブジェクトとしては、コレクションで発表されたものを中心に衣服と小物があり、それに加えて資料群として製作過程の記録、サンプルや見本、作品制作後の写真や雑誌などの記事もあります。写真は私たちにとって貴重な資料であり、アーヴィング・ペンさんなどの写真はそれ自体が立派な作品です。詳細は大森から聞いていください。
ー アーカイブの活かし方としては、作品や資料、映像などを活用したワークショップなども行われるのでしょうか?
北村 本人が行っていました。そうしたことも先生にとってはものづくりの一環であり、自然な行為だったのです。
着ることの根源に迫ったクリエイション
ー 三宅さんの衣服は常に革新的でしたが、なかでも「PLEATS PLEASE」は既製服の概念を一新したまさにユニバーサル・クローズでした。
北村 「PLEATS PLEASE」は三宅の原点である「一枚の布」の展開のひとつです。ジーンズのようにカジュアルで誰もが楽しめる服をつくるために、リーズナブルな化学繊維をいかに着やすく現代的で新しい価値ある服に仕立てていくかを考えた結果、プリーツを入れるというアイデアが生まれ、そのコンセプトを貫くために製造工程まで新しく整備しました。普通のやり方ではプリーツの入った布で服を仕立てていくのだけど、「PLEATS PLEASE」は服の形になったものにプリーツをかけるという真逆の発想によって、生地の無駄がなく、作業も効率的で、品質を安定させることに成功しました。三宅はこのように社会を見据え、物事を複合的に考えるクレバーな人でした。
三宅の服づくりは「一枚の布」という発想を原点としています。日本の着物はまさに一枚の布そのものです。このコンセプトから「PLEATS PLEASE」、「A-POC」へ、そして2022年からの「IM MEN」に至っています。現在の私たちは三宅が残してくれた遺産を生かしながら事業を続けていると言っても過言ではありません。
ー そういう意味で、三宅さんが1980年代に発表された「ボディ」シリーズ*は異色な印象をもちます。一枚の布というよりも西欧的な立体造形から発想されているような。
北村 「一枚の布」というコンセプトを衣服に還元していくためには、人間の身体=ボディの存在は欠かせません。ボディが基本にあって一枚の布を纏わせると考えるならば、コンセプトの根幹は同じであり、ボディは服づくりのベースです。三宅の最初の作品はタトゥをテーマにしていました。
* 三宅は「ボディ」シリーズに数年間取り組んだ。最初は1980年秋冬コレクションで発表された「プラスチック・ボディ」、‘82年春夏には「ラタン・ボディ」、’83年秋冬の「ワイヤー・ボディ」、’84 秋冬の「ウォーターフォール・ボディ」と展開された。それらは「ISSEY MIYAKE SPECTACLE:BODYWORKS」展に集約され、東京、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ロンドンで開催された。三宅にとって「ボディ」は「一枚の布」と表裏一体の重要なコンセプトだったのだ。

「ISSEY MIYAKE SPECTACLE:BODYWORKS」展、サンフランシスコ近代美術館。「ボディ」シリーズを纏ったオリジナルデザインの人体モデルによる圧倒的な展示で話題を呼んだ。 撮影:藤塚光政
ー 三宅さんが、原点であるボディに興味をもたれたきっかけは何だったとお考えですか。
北村 三宅は1960年に東京で開催された「世界デザイン会議」の議題にファッションデザインが取り上げられなかったことに抗議文を送り、その後衣服デザインを学ぶためにパリに旅立ちました。ところが憧れのパリの女性たちの服装が伝統的な価値観に縛られていることに衝撃を受けていたところに、1968年の5月革命に遭遇したのです。このような新旧の時代の変化を体感して衣服を纏うことの意味、そもそも衣服とは何なのか‥‥‥、デザイナーとしてその原点を探求する道を歩んだ。三宅の服づくりには一貫した哲学があり、時代や流行に左右されることがありません。一つひとつのプロセスを地層のように積み重ねていくことで、まるで大地のように揺るぎない世界がかたちづくられるのです。
ー 最近は老舗のスーパーブランドであっても大資本のもとでクリエイティブディレクターが頻繁に更新されて、ブランドのDNAが継承されづらくなりつつあります。このような時代にあっても三宅さんのブランドはその真髄が貫かれているのですね。
北村 私たちにはクリエイションに集中できる環境が整っています。以前、「あなた方はいいわね、一生さんが良いものをつくることを何よりも大切にされているから」と、他社のデザイナーから言われたことがあります。そういう意味で私たちは本当に良いものをつくりたい人にとっては羨ましい会社です。それを支えているのが「一枚の布」という、三宅から私たちに投げかけられた永遠かつ深遠なテーマなのです。
ー 本当に納得です。「PLEATS PLEASE」はジーンズのように手軽でユニバーサルな普段着を、「A-POC」は着る人も服づくりに参加できる画期的な衣服であり、「132 5.」はサスティナブルやアップサイクルを先取りし、さらに折り紙から発想した一枚の布の展開です。そのどれもが一枚の布から発せられ、流行やモードではなく社会や人々が求めているテーマを体現したものです。三宅さんの未来を読み解く先見性と実行力は卓越していますね。さらに、三宅さんの偉大さは、そうした新しい服づくりを通して人材育成も達成されていることです。

躍動する「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」(1993)、パリコレのフィナーレ。 撮影:Philippe Brazil。(左上)
「三宅一生展:ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」(2000)黒の「ジャスト・ビフォア」と「A-POC キング&クイーン」による展示。東京都現代美術館。 撮影:吉永恭章(左下)
「132 5.」が展示された展覧会「MIYAKE ISSEY展 三宅一生の仕事」(2016)国立新美術館。 撮影:吉村昌也(右)
北村 本人にはそんな大それた考えはなかったと思います。ただ周りの人たちが三宅の行動する姿を見て遅れまいと一生懸命努力する。その結果、人が育つ。戦略的、計画的に教育しているわけではありません。緊張感のある職場だけど、「いいものをつくる」ことを第一にしている恵まれた環境です。けれどこの体制が維持できるのはビジネスが順調であることが前提です。三宅亡き後、どうなるのかと心配していただいていたようですが、それを乗り越えて今も発展できていることがすばらしいと思います。
ー ビジネスと言えば、「ISSEY MIYAKE」ブランドのショップは70年代半ばからは倉俣史朗さんが、90年代以降は吉岡徳仁さんが主にデザインされています。最近京都の「ISSEY MIYAKE」と「HaaT」のショップに行きましたが、両方とも京町屋を上手にリノベーションして街並みに溶け込んだすてきな佇まいでした。そこで感じたのは、スーパーブランドのショップはブランディングが最優先でどこも同じ印象を受けますが、「ISSEY MIYAKE」ショップは、その場所のコンテキストにまで目配りされていて奥深さを感じます。
北村 京都の「HaaT」の空間デザインは吉岡徳仁さんです。三宅が倉俣史朗さんに、「誰か立体ができる人を紹介してほしい」と相談したところ、ご紹介いただいたのが吉岡さんです。以来たくさんのことがありましたが、彼は本当にまじめに努力して今があると思います。吉岡さんは三宅と仕事をするようになって、コレクション用の小物を担当し、倉俣さんが急逝されてからはショップデザインを任され、その後独立されてからはブランドの時計や香水瓶などのプロダクトデザインも手がけています。三宅が育てた人は本当に多いです。
ー 三宅さんが「この人は!」と直感さられるものは何なのでしょうか。
北村 私にはわからないけど、何かがあったのでしょうね。だからと言って同じ系統の人ばかりに凝り固まっていたわけではないし。ただし、厳しかったですよ。
デザインミュージアムを造ろう
ー 三宅さんが提唱された日本のデザインミュージアム創設ですが、今さまざまな動きがあります。北村さんご自身はどのようにお考えですか。
北村 三宅が存命中は関わりましたが、今は特に関係しておりません。と言うのも、デザインミュージアムについては三宅個人の考えであり思いでしたから。本人が亡くなった今、会社として継承して、「デザインミュージアムはこうあるべきだ」と意見することはありませんし、実現に向けて今活動している方々の考えで行動されることが一番いいのだと思います。ただ三宅は世界的な視野で語っていたと思います。実際、三宅の発言や行動は世界的な注目を集めるし、世界に通用するレベルが求められます。そんなことは今の私たちにはできません。まず私たちの足元を固める、三宅一生のアーカイブを確立し、継承することの方が優先順位は高いのです。
ー 三宅さんがご存命あれば、状況は変わっていたかもしれませんね。
北村 そうですね。三宅が元気でいてくれたらどうなっていただろうかとは考えますね。でもデザインミュージアムをつくることは壮大な話です。三宅自身は簡単に人様にドネーションを頼むような性格ではなかったし、時代を先読みして判断して決して無理はしなかっただろうと想像します。デザインミュージアム設立はそれだけ重い課題であり、簡単に実現できることではありませんから。
ー 三宅さんのデザインミュージアム構想に触発されて、日本国内に大小さまざまなデザインミュージアム計画が立ち上がっています。戦後80年を迎えて、デザインを歴史的に検証できる時期がようやく来たとも感じています。私たちの活動も日本初の「デザイナーズ・デジタル・アーカイブ」を目指しており、こうした個々のプロジェクトがひとつに集約されていくと、それなりのミュージアムやアーカイブになる可能性もあると思うのです。三宅さんのような発言力と行動力をもつ人がいないことが残念です。
北村 そうですね。デザインにはつくる人の意志や物語があって、さまざまな物事との関係性が積層されて歴史になっていくわけです。そしてデザインミュージアムは作品や資料を一カ所に集約して展示すればいいということではありません。なぜなら私たちの環境を形成するあらゆるものがデザインであり、デザインは生きているので展示にも工夫が必要だからです。そのうえ全体を統合するコンセプトを構築するためには強力な思想や計画性が求められ、実現するための資金や体制も不可欠です。だから簡単に「デザインミュージアムを造ろう」などと、私は言えません。
ー 三宅財団に立ち戻って、これだけ充実したアーカイブを活かして「三宅一生デザインミュージアム」に発展させるといった展望はありますか。
北村 いろいろなお話はいただいているのですが、時期が熟すのを待つというか、慌てる必要はないと考えています。もしそのときが来たら、判断は「先生は喜ぶだろうか、嫌がるだろうか」を基準に考えることになるでしょう。そしてGOとなったら前向きに進めたいし、それが後進たちのためになると思いたいです。実際、外部の展覧会に作品を出展するときにも、関係者が一堂に会して丁寧に検討します。三宅が亡くなった今、私は展覧会や書籍などすべてに関して、参加すべきか否かの判断を下す責任ある立場なのです。
ー 三宅さんと仕事を共にしていない若い方々が増えていて、いわゆる三宅スクールで学んでいない人も多いと思います。近い将来、三宅さんのスピリットやものづくりのDNAはどのように変わっていくとお考えですか。
北村 本当に。先生の生の声を聴いたことのないスタッフも多くなってきました。でも、それは仕方のないこと、私にだって何百年も生き続けることはできないのだから。(笑)だからこそ、アーカイブや書籍、映像などを制作して伝えていくしかないのです。一方、三宅と直に仕事をしてきた人たちはさまざまな領域で活躍しています。彼らの仕事を通して三宅のものづくりを学ぶ、継承してもらうこともできるでしょう。彼らは自分のポケットに三宅からもらったものを一杯詰めているから、それを少しずつ後輩に渡してもらう、それが続いていくことを願っています。三宅も彼らの考え方で可能性を広げてくれることを喜ぶでしょう。作品ではなく仕事のやり方、三宅の思想を継いでいくことが大切なのです。デザイナーたちも心と頭で常に三宅と問答しているだろうし、「本当にこれでいいのか」と悩んだときにはアーカイブを見直すことでしょう。
ー 継承ということでは、例えば京都には、300年、400年と続く老舗がたくさんありますが、それらは基本的に一家相伝と言いますか、一族で継承していることが基本です。そういう意味で「ISSEY MIYAKE」ブランドは血縁関係ではないですが、クリエイティブのDNAを継ぎながら100年、200年ブランドになってほしいです。
北村 なると思います。世界での三宅一生への評価は高く、亡くなってさらに尊敬されています。それは三宅が50年間、偉大な仕事をし続けた賜物です。
ー ファッションの世界も含めて世の中は収益第一にシフトしている今、ものづくり第一のブランドは貴重な存在です。北村さんのお話を伺っていて、「ISSEY MIYAKE」ブランドの成功はいいものをつくり続けている「結果」なのだと再確認しました。
北村 その通りです。常に人の期待を裏切らない、期待以上のクリエイティブを見せてきたから今があるのです。以前、石岡瑛子さんは「あなたの服は丈夫だし古くならないから、新しいものは買えないじゃいの!」とおっしゃって、先生は「瑛子、それならその服はしまっておいて、新しいのを買えばいいじゃないか」と、お二人でよく笑い合っていました。
ー そういう私も今日はアーカイブがテーマなので、1990年代前半のシフォンツイストを着てきました。30年以上たった今も着続けていて、リバーシブルなので旅行時も愛用しています。
北村 本当に、30年以上も着続けてくれているなんて嬉しいし、うちの会社って素敵なものをつくっているとあらためて確認できたわ。大切なのはそれをいかに継続するか、私は見守り続けたいと思っています。今もコレクションで発表する服をパリに送り出す前にかならず見ています。私が確認しなくてもいいのかもしれないけど、私に見せるとみんな何か安心するのかしらね、明日も若いスタッフが何か見せに来ることになっています。
ー そういう場合は、北村さんは「三宅さんならこう言うに違いない」ということを想像してアドバイスなさるのですか?
北村 そういうときもあるし、私なりの意見を述べることもあります。
ー 「こうあるべき」みたいなことも?
北村 それはないです。みんな自由だし、それが時代に合っていていいものであれば私がとやかく言うことではありません。でも「ISSEY MIYAKE」ブランドとして発表したときに、みんなが誇りをもてるような仕上がりなのかどうかにはこだわっています。その結果としてビジネスが成立し継続してけるのだから。
ー 本日は50年、三宅さんと伴走された北村さんから見た三宅さん像を伺いたかったのですが、素敵なお話をありがとうございました。三宅さんについてはたくさんの書籍、新聞や雑誌などの記事、ビデオ、テレビ番組がすでにあります。でも、北村さんの言葉を通して、三宅一生という偉大なデザイナーの新たな一面、今日はアーカイブ、継承というテーマの発見があるに違いないと思っていました。
北村 そう、三宅との50年間、その人間性や仕事について語りつくすことはできません。私は50年間お世話になっていて、私の人生のすべてを捧げたと言っても過言ではないけど、誰をもってしても「一生さん」を語りつくすことは不可能です。それに展覧会や本づくりのためにアーカイブを参考にするのだけど、50年前の服でもまったく古くない、今も新しいし、そこが三宅の服の卓越しているところ。それは「一枚の布」という普遍的な命題があるから。素材やデザインも流行を追うのではなく、自分たちが自らゼロから開発する‥‥‥未だに。だからこそ今があるのです。
ー このような機会をいただき心から感謝いたします。そして「ISSEY MIYAKE」ブランドのますますのご発展を祈っております。
Interview 2
インタビュー02:2026年1月28日 13:30~15:30
取材場所:三宅一生デザイン文化財団、江東区オフィス
取材先:大森昌子さん、照屋全宝さん
インタビュアー:関 康子
ライティング:関 康子
三宅一生アーカイブ
北村みどりさんの話を受けて、現在、三宅一生デザイン文化財団でアーカイブズディレクターとして活動している大森昌子さんとスタッフの照屋全宝さんに、三宅一生アーカイブの詳細を伺った。訪問した江東区のオフィスは保管庫も兼ねており、その保管施設には2万点およぶ作品と資料が所狭しと整理、保管されていた。まさに臨場感にあふれる取材となった。
三宅一生アーカイブの背景
ー 2000年頃から三宅一生さんを中心にアーカイブ整備に取り組まれているとお聞きしました。そこで、三宅さんのアーカイブの現状と、それらが世界の衣服や文化の発展のためにどのように活かされているのか、アーカイブズディレクターのお立場からお話を伺えればと思います。まず、アーカイブを統括する三宅一生デザイン文化財団についてお聞かせください。
大森 三宅一生デザイン文化財団(以下、三宅財団)は2004年に文部科学省の認可により設立され、2011年に内閣府移行認定を受けて公益財団法人となりました。役割は大きく三宅一生が生み出してきたデザイン活動を整理保存してアーカイブを構築し広く活用していくこと、そして2007年からは六本木の21_21 DESIGN SIGHT(以下2121)の活動が加わり、これらを通して暮らしを豊かにするデザイン文化と社会の発展に貢献することです。
ー 三宅さんは1994年にギャラリー(設計:坂茂 後にMDSG)をオープンしてさまざまな展覧会を開催されていました。そうした活動が財団設立につながったのでしょうか。
大森 ギャラリーは1994年に三宅デザイン事務所(以下MDS)の活動としてオープンしました。1998年に名称をMDSGと定めて、国内外のデザイナーやアーティストを招聘して展覧会やイベントを開催し、2004年からは三宅財団が活動を引き継いで2005年まで継続しました。
三宅はずっと以前から衣服づくりに加えて、展覧会の企画などを通してデザイン文化の発展に関わっていました。例えば、1976年にはニューヨークで観た「Inventive Clothes 1909-1939」展に感銘を受けて、京都で「現代衣服の源流」展として再現させたり、コンテンポラリーダンスカンパニー「モミックス」のパフォーマンスを紹介しています。1991年には「ISSEY MIYAKE MEETS LUCIE RIE」展を開催しています。また、「ISSEY MIYAKE」としては、1983年に「ISSEY MIYAKE SPECTACLE : BODY WORKS」展、1988年の「ISSEY MIYAKE A UN」展、続く1998年の「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」展はパリのカルティエ現代美術財団からニューヨークを巡回し、2000年には「三宅一生展 ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」を東京都現代美術館で開催しています。こうした活動はデザイン文化の向上を目指していたことで一貫していました。

「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」展 (1998) パリ、カルティエ現代美術財団 撮影:吉永恭章(左)
「三宅一生展:ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」(2000) 東京都現代美術館 撮影:吉永恭章(右)
ー 早い時期からデザイン文化の振興に取り組まれていたということですね。そんな三宅さんのアーカイブは、現在、どこにどのようなかたちで整理、保存されているのでしょうか。
大森 現在(取材時2026年2月)三宅財団のアーカイブは、三宅の1970年からのデザイン作品とそれにかかわるさまざまな資料群です。現在は2拠点で保管していますが、昨年に財団の活動拠点となる収蔵庫を備えた施設が完成し、建物の枯らし期間を経て重要な作品や資料群を近々移す予定です。
ー そもそも、三宅財団がアーカイブに取り組む以前、MDSではどのようなかたちで作品などを保管していたのでしょうか。
大森 MDSはコレクション発表後そのシーズンの活動を終えると、発表された多くの衣服を段ボール箱に収納して管理していました。1990年頃からはデータベース制作のためにそれらの整理に取りかかり、新たにスタッキング可能なプラスチック段ボール製の箱をつくって、キャスター付きの専用台車を使って保管するという方法にアップデートしました。現在もその方法を踏襲しています。財団設立以前の整理と保管作業はMDSの担当者、広報、企画/技術のスタッフが行っていました。
ー 実際には何がアーカイブされているのか、具体的に教えていただけますか。
大森 ニューヨークとパリで発表した「ISSEY MIYAKE」ブランドのコレクション作品とそれにかかわる資料です。作品とは衣服と小物のことで、小物には帽子、眼鏡、靴、靴下、バッグなどが含まれます。現在、衣服と小物が各1万点、計2万点ほどが収蔵されています。その他は、「ASHA BY MDS」、「ISSEY MIYAKE PERMANENTE」、「Plantation」、「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」、「A-POC」、「ISSEY MIYAKE MEN」、さらにブランド以外で三宅が発表したプロジェクトも含まれています。資料は、服づくりの過程で生まれるデザイン画、テキスタイルブック、パターン、縫製の指示書、販売のための絵型、制作ファイルなど、加えてコレクションの招待状などの印刷物、コレクション前後のプレス写真や記録映像、メディアの掲載物まで多岐にわたります。それらのなかには写真家が撮影したものなど、それ自体が価値あるものも含まれています。
ー とは言え、アーカイブの中核は衣服作品だと思うのですが、どのようなプロセスを経て整理/収納されているのでしょうか。
大森 アーカイブを意識して整理を始めたのは2000年、先述の東京都現代美術館の展覧会の後からでした。月2回くらいのペースで「見分け」という時間を設けて、三宅と北村とともに30年間の作品を年度ごとに1から2シーズンずつ確認していきました。この見分けは数年間続きました。
ー 三宅さんと北村さんが参加された「見分け」とは、どのような作業だったのですか。
大森 まず箱に収納している作品をすべて取り出してハンガーにかけて総見し、コレクション発表の準備と同じようにコーディネーションしてマネキンに着せます。そのうえで「これは重要、これは寄贈してもよい」などと判断を下していきました。その際、「紙衣」など重要作品はすべてのアイテムを保管し、一方、数色展開した素材では服のコンセプトを際立たせるために白地の服だけを残すなど、三宅自身がその場で決定しました。この作業を続けた結果、国立新美術館で「MIYAKE ISSEY展:三宅一生の仕事」が開催された2016年前には、1999年秋冬コレクションまでの「見分け」は一通り終了し、さらに70年代の作品は2度目の確認を終えていました。
ー 膨大な作品を三宅さんご自身がマネキンに着せて判断されていたのですね。
大森 そうです。三宅の衣服は人が着ることでコンセプトが鮮明になるので、ボディに纏わせることは重要でした。三宅自身がボディに服を着せながら「この生地は薄いから、背中側にタックを寄せた」などと、素材やデザイン、服づくりのディテールについて語ってくれたのです。三宅の服の着せ方や布の扱い、そのとき語られた言葉は私たちにとってかけがえのないアーカイブとなります。みんな必死にメモを取りました。
ー アーカイブに対する三宅さんの強い思いが伝わってきますね。
大森 この「見分け」には、アーカイブズ担当者だけでなくブランドのデザイナーや技術者も参加していました。同作業は担当者にとっては作品の選定基準のようなものを学ぶ機会となり、ブランドの企画担当や技術者技術、デザイナーには三宅から直接服づくりを学ぶ貴重な時間だったと思います。
ー 北村さんのお話にもありましたが、三宅さんの服づくりはまさに現場で伝えられ、引き継がれていくのですね。そして今、三宅さん亡き後もアーカイブの指針は受け継がれていると。
大森 「ISSEY MIYAKE」ブランドは、三宅以降現在に至るまで毎シーズンの作品をアーカイブに加えています。その際、その衣服デザインのコンセプトを踏まえたうえで、三宅自身がアーカイブする作品を厳選したように、新しい素材や手法を開発したり発展させた作品を収蔵していくことが大切だと思います。
ー 現在はどなたが判断なさるのですか、MDSのデザイナーですか?
大森 コレクションで発表された服をすべて並べて、三宅財団のスタッフ、ブランドのデザイナーや技術スタッフ、広報が参加して検討しています。特に財団スタッフは、選ぶ服の特徴を一点一点確認しながら進めています。
ー 作品以外には、絵型、写真、雑誌、テキスタイルファイルなどの資料があるとのことですが、なかでも三宅財団らしいものというと何でしょうか。
大森 ISSEY MIYAKEのテキスタイルは独自に開発していているので、テキスタイル関連資料があります。例えば、約50センチ幅にカットされた布はそのひとつで、保管箱から衣服を取り出すことなく染めや織、布の質感を確かめ学ぶことができます。他にシーズン毎の分厚いテキスタイルファイルは、布地がどこで織られ、染められたかという制作のプロセスを辿ることもできる貴重な記録です。
ー 資料群のなかに三宅さんの手書きのメモやスケッチなどは含まれていますか。
大森 三宅や北村、デザイナーの日常的なメモやノートは、プライベートな要素も含まれるので現時点では三宅財団の管理資料ではありません。けれども北村からは本人がコレクションの仮縫いのときに使っていた絵型、小さくカットされた素材が貼られ多くメモが書き込まれたノートなどを預かって保管しています。
ー 三宅さんはアーティストとのコラボレーションも多く、ユニークな資料がありそうですね。
大森 美術家の横尾忠則さんによるパリコレクションの招待状があります。1977年から現在も制作を続けてくださっていて、三宅財団の大切なアーカイブです。財団設立間もない2005年には、「横尾忠則が招待するイッセイ ミヤケ パリコレクション 1977→1999」展が富山県立近代美術館で開催されました。同展では招待状に加えてデザインに使用された原画、横尾さんのプリントデザインを使った三宅の衣服作品が展示され、一般の方々に観ていただく機会となりました。他にアーヴィング・ペンさんによる撮影写真、田中一光さんのデザインで毎シーズン制作されたポスターなども三宅財団ならではのユニークなものです。
ー プレス用の資料や写真もアーカイブとして価値がありますね。
大森 はい。コレクションやイベントに関わる資料も多くあります。コレクションショーを記録するポジフィルムとそのプリント、映像フィルムなどです。他に雑誌やWEBから発信された記事や映像もできる限り保管しています。紙媒体は記事のファイリングはもちろん、特に重要なものは保存/活用分として2冊ずつ原本を保管しています。写真は記録用の他にアーヴィング・ペンさん、スノードンさん、篠山紀信さん、操上和美さん他、多くの写真家による作品も大切に保管しています。
三宅財団のアーカイブ体制
ー 現在、アーカイブ作業は大森さんと照屋さんのお二人が専任で行っているのですか?
大森 作品(衣服と小物)に関しては常勤で3人おり、他に縫製の修復やメインテナンスを担当する非常勤スタッフが1名、計4名体制です。資料群のアーカイブ作業に加えて、社内外プロジェクトや美術館への作品貸し出しやメディア対応などは、私と照屋を含めて4名が担当しています。
ー 外部への作品貸し出しは展示方法によって見え方が変わってきますね。
大森 その通りです。三宅の作品は展示方法によって見え方や捉え方が変化するので、相手の方と時間をかけて詰めていきます。使用するマネキン、服の着せ方、照明、展示デザインといった細かい部分まで検討し、シミュレーションして貸し出し対応を進めます。そのときに先述の記録写真などのアーカイブ資料が参考になります。
ー こうした対応は当然、MDSのデザイナーをはじめ社内に対しても行われていると考えます。北村さんは「アーカイブは保管管理だけでなく、新しいものづくりのリソースとして生かされることが何よりも大切」とおっしゃっていました。
大森 はい。そう考えています。
ー 一般の学生、学芸員や研究者に対しても対応されているのですか。
大森 当財団は公益財団法人ですので公開活動は欠かせませんが、現在は2121がその役割を担っていると考えています。またアーカイブの公開活動としては、複数年の準備を経て2016年の「ISSEY MIYAKE展:三宅一生の仕事」展の開催や、タッシェンの書籍『三宅一生』の編集発刊などがあります。またアーカイブに関するご質問に対しては、美術館や研究機関、研究者の方々からの資料閲覧や情報提供は実施していますが、広く一般の方々を対象にしてはウェブサイト上での公開や定期的な作品展示などの活動には至っておりません。今まさに三宅と共に活動した時代から次の段階に入り、北村が語ったように私たち自身も三宅一生の衣服デザインを深く学びながら公開活動の企画について検討を重ねているところです。
アーカイブとデジタル、AI
ー さて、最後の質問ですが、現在デザインの現場ではデジタル化、AI化が進み、それに伴って作品や資料の質も変わってきています。物からデジタルへという変化がアーカイブにも大きな変化をもたらしていますが、三宅財団の取り組みではいかがですか。
大森 たしかに、作業を進めていると2000年以降は記録類の資料が少なくなっていることを実感します。それ以前はメモやノートだけでなくファックスなどのファイルが残されており、当時のコミュニケーションの様子を読み取ることができます。当財団では資料のデジタル化を進めていますが、同時に原本も大切に保管しています。なぜならデジタル化で活用しやすくなる一方、原本でしか得られない情報も多くあると考えているからです。
ー 三宅財団では、パリコレクションの映像や三宅さんのインタビューなど、映像資料も多いと思いますが。
大森 重要な映像、古い映像を優先してデジタル化しましたが、現在のものと比べると画質が良くありませんでした。ビデオ機器の保守点検が終了することもあって、ビデオ映像のデジタル化を加速させる必要に迫られています。コレクション映像など当財団にとって重要度の高い映像は、新技術による2度目のデジタル化を行いました。
ー 最近はAIが経年劣化などを補完してくれるようですが‥‥‥。
大森 映像のデジタル化を依頼している会社からテストケースとしてAI処理したコレクション映像を見せていただきましたが、当時はモデルの顔や色彩が微妙に異なるなどフェイクな印象がぬぐえませんでした。AIで加工してくださった方によると過去の写真を学習させればもっと良くなるそうですが、アーカイブではまだ本格的に使う段階ではないように思いました。とは言え、今後のアーカイブはテクノロジーをいかに使いこなすかも課題だと考えます。
ー 三宅財団のアーカイブは私たちが取材をしたなかでもっとも充実しています。これは三宅さんがクリエイターとしてだけでなく、産業人、経営者、そして文化人としての使命感を貫かれたからだと思います。いろいろ課題はあると思いますが期待しております。ありがとうございました。
インタビューの後、収蔵庫をご案内いただいた。そこは巨大な空間で、空調整備がされ、棚が設えられており、大きく作品(衣服と小物)と資料群(絵型、テキスタイル資料、雑誌他さまざま)に区分けされて保存されていた。作品は基本的に年代順に衣服と小物に分かれて整理されていて、衣服はデザインや生地によって、ハンガー掛けと、箱への収納の2通りの方法で、一点ごとに年代(コレクション)とシーズンがわかるIDナンバーがつけてられている。特に重要な作品は中性紙を使った特注の箱に納められている。資料は絵型、テキスタイル資料などがファイリングされた状態で、種類と年代によって仕分けされ、また書籍や雑誌などは、タイトルや年代ごとに区分されて棚に納められていた。
この膨大なアーカイブを整備し、次のクリエイションのリソースとして活用し、さらにデザイン文化の向上に貢献している三宅財団の取り組みは、デザインアーカイブのひとつの典型であると思う。26年春、移転を機にさらにアップデートされることだろう。
三宅一生のアーカイブの所在
問い合わせ先
公益財団法人 三宅一生デザイン文化財団