日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
水之江忠臣
家具デザイナー
インタビュー:2025年11月13日 13:30〜15:30
場所:天童木工
取材先:加藤直樹さん(天童木工 企画課)、出口順平さん(D インテリアディレクター)
インタビュアー:浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
PROFILE
プロフィール
水之江忠臣 みずのえ ただおみ
家具デザイナー
1921年 大分県生まれ
1941年 日本大学専門部(現・日本大学)建築科を卒業
1942年 前川國男建築設計事務所(現・前川建築設計事務所)に入所
現役兵として入隊
1945年 終戦のため除隊
1953年 前川國男建築設計事務所に復職
1954年 神奈川県立図書館の家具を担当
「S-0507」制作、天童木工で製品化
1955年 国際文化会館の家具を担当
1958年 建築学会室内計画委員
日本室内設計協会を発足、理事を務める
1959年 世界デザイン界会議実行委員
1963年 前川國男建築設計事務所を退職、水之江インテリア・デザイン研究所設立
1964年 「ハンス・ウェグナー展」の企画、展示デザイン(東京・伊勢丹)
伊勢丹とハーマン・ミラーの提携打ち合わせのため、アメリカに派遣
イタリア、スウェーデン、フィンランドの家具視察のために派遣
ハーマン・ミラー日本総代理店のモダンファニチャーセールスの相談役に着任
1965年 日本女子大学家政学部住居学科の講師(〜1967年)
1968年 日本デザインコミッティーの会員になる
1971年 「長大作、水之江忠臣、松村勝男ファニチャーコレクション展」開催
1972年 毎日産業デザイン受賞
1975年 アルテックのアルヴァ・アアルトの家具の企画と展示デザイン(日生会館)
1976年 日本デザインコミッティー主催「デザイン・フォーラム’76」公募展審査委員長
1977年 逝去(56歳)
Description
概要
水之江忠臣は、日本の家具デザインの黎明期に活躍した、家具デザイナーである。戦後、日本では海外の模倣や、見た目だけを重視した奇抜な形状の家具が多かったなか、水之江は雑誌記事でこう語っている。「世界の主流に追い迫るためには、デザイナーにしても(製造)業者にしても、家具そのものについて根本的な問題の解決を考えないかぎり、前進の道は開けてこない」(『工芸ニュース』「家具(室内)」丸善、1962)。その言葉から、日本の家具デザインを世界水準へと高めていこうとする、彼の強い意識と志の高さがうかがえる。
水之江は大分県に生まれ、日本大学専門部(現・日本大学)建築科を卒業後、1942年に前川國男建築設計事務所(現・前川建築設計事務所)へ入所し、家具デザインを担当する。それまで建築空間の家具は、百貨店内部の家具部門や産業工芸試験所で制作されていたが、1940年を過ぎた頃に建築事務所内に家具部門が創設されて注目を集めた。それが戦後、日本を代表する建築家の坂倉準三、前川國男、吉村順三の事務所である。長大作、水之江、松村勝男といった若手デザイナーがこれらの部門に配属され、建築に付随する家具設計を担った。
水之江の代表作「507(現・S-0507、通称ブックチェア)」は、1954年竣工の前川の設計による神奈川県立図書館のために製作された。100回以上の試作を重ね、図書館完成後も改良を続け、生涯をかけて情熱を注いだという逸話はよく知られている。水之江は造形美の追求はもとより、工場と綿密に協議しながら、低価格で量産・製造しやすく、耐久性を備えて長く使える家具を目指した。1955年に竣工した国際文化会館では、坂倉・前川・吉村による共同設計が話題を集め、家具を担当した長、水之江、松村の仕事も高く評価された。
水之江はまた、海外のデザインを積極的に学んで吸収した。1964年に欧米の家具を視察し、ハンス・ウェグナー、ジョージ・ネルソン、チャールズ・イームズといったデザイナーと交流をもち、見聞を広めた。外国のデザイン雑誌もよく見ていた。その理由を『デザイナー その現実とビジョン』(ダイヤモンド社、1964年)で述べている。「あとで『知らなかった』は通用しない。知っていて、それに抵抗し、それとは異なったものを考える」。雑誌が到着すると、「すぐにバラして、鉛筆で雑誌名・号数などを記入し、項目別に袋のなかへ区分けする。その作業が、心楽しく」とあり、雑誌記事の整理方法を明かしている。
不慮の事故により56歳で急逝したため、寡作だったが、1954年に天童木工によって製品化されたブックチェアは、約70年経った現在もロングセラーとして多くの人に愛され、日本の家具デザイン史に名を刻む名作として知られる。武蔵野美術大学名誉教授の島崎信は、「日本の近代椅子のひとつの完成品といえるのではないでしょうか。(中略)同じ成形合板でラウンジチェアも作っていて、そちらも素晴らしいデザインです。日本の近代椅子を語るうえではずしてはならない椅子です」(『座って学ぶ 椅子学講座2 – ムサビ近代椅子コレクション400脚』武蔵野美術大学 美術館・図書館、2018)と記している。
そんな水之江のアーカイブ資料は、現在、天童木工東京支店が保管している。2016年11月にPLATデザインアーカイブの取材で、天童木工に長大作のアーカイブ資料について話を伺った際に、水之江の資料も見せていただいた。それは、2014年に日本大学理工学部建築学科の大川三雄研究室の卒業論文の研究テーマとして、当時学生だった出口順平さんがまとめたものだ。今回、天童木工を再訪し、同社企画課の加藤直樹さんと出口さんに、水之江のアーカイブ資料と人物像などについて話を伺った。
Masterpiece
代表作
家具のデザイン
「507(現・S-0507)」天童木工(1954)、「219 角卓子」天童木工(1954)、「ロビーチェア」いずみ製作所(1960)、「258 長方卓子」天童木工(1963)、「Mシリーズ・小イス」二葉工業(1967)、「桂」ホクトウ金属(1967)、「はとNo210M」三平興行(1967)、アームチェア「リリー」いずみ製作所(1970)、「アームチェア」山川らたん(1971)、「イージーチェア」天童木工(1972)、スタッキングチェア「MIC300」いずみ製作所(1972)、「イージーチェア T-5162」天童木工(1974)
書籍&雑誌への執筆(家具デザインの啓蒙活動)
『世界美術全集 日本編』28巻、平凡社(1955)、『国際建築』「造型以前の諸条件:量産椅子の設計から製作まで」美術出版社(1955)、『国際建築』「ペリアンに学ぶもの = WHAT MADAME PERRIAND TEACHES US」美術出版社(1955)、『国際建築』「ノル・グループ 家具のコレクションとインテリア・デザイン」美術出版社(1956)、『インテリア JAPAN INTERIOR DESIGN and DECORATION』「私のデザイン」No.1、日本室内設計研究所(1960)、『国際建築』「NO FURNITURE ジョージ・ネルソンによるビルト・イン家具の提案」美術出版社(1960)、『工芸ニュース』「家具(室内)丸善(1962)、『新建築』7月号(1962)、『New Furniture No.6』Arthur Niggli(1963)、『デザイナー』河原淳著、ダイヤモンド社(1964)、『室内』「世界デザインめぐり日本」室内(1964)、『家具産業』「デザイナー, その人と作品」日本家具工業会(1968)、『ファニチャー』「自分のペースを守りつづけるデザイナー」出版社不明(1970)、他
Interview
インタビュー
イントロダクション
2016年11月に、天童木工にて水之江の資料を拝見する機会を得た。その資料は、水之江夫人の逝去後、子息が天童木工に寄贈したもので、紙袋3つ分ほどに収められていたという。その後に水之江と親交のあった人物から追加資料も加わった。収蔵資料には、図面、スケッチ、手紙、自宅で使用していた家具試作品などが含まれている。代表作「507」の試作品2脚もあり、左右フレームの角Rの違いが確認できる。「507」は、100回以上も調整を重ねたという逸話があるが、当時、天童木工の会議室が水之江の試作で埋め尽くされたと伝えられており、その試行錯誤の多さがうかがえる。
そのほかの資料には、名作椅子を撮影した大量のネガ写真が5冊ほどのアルバムにまとまっている。紛失時用の連絡先としてなのか、自身の住所や氏名、電話番号が書かれていて、水之江にとって貴重な資料だったのではないかと想像する。また、海外の雑誌、若手建築家特集号の『新建築』(長大作、松村勝男、水之江の3人の記事が掲載されている)、チャールズ・イームズやハンス・ウェグナーからの手紙。おそらくイームズが書いたとされる「thank you」というメモ紙もある。
大学の卒業論文で資料を研究する
ー 現在、出口さんはどのようなお仕事をされているのですか。
出口 大学を卒業後、インテリアメーカーに9年勤めたあと、2025年に独立して、現在は空間を含めた家具制作のディレクターとして活動しています。空間の設計意図やプロジェクトの背景を解釈し、目的や時代性に合った空間・家具づくりを考えて提案します。全国を回って素材や工場の技術、工場長の人柄まで含めて調査し、デザイナーと工場の架け橋となる役割を担っています。
ー 水之江さんと同じ日本大学建築学科のご出身なのですね。
出口 私は建築学科で建築を学びました。幼少期に、大工の従兄弟が家を建てる姿を見て、ものづくりの素晴らしさを感じたことが原点です。それ以来、ものづくりに関わる仕事がしたいと漠然と考えるようになりました。その後、ミッドセンチュリー期のチャールズ・イームズやジョージ・ネルソン、北欧のハンス・ウェグナーやフィン・ユールの作品に触れ、家具への興味が深まりました。まずは建築全体を幅広く学び、将来的に家具の仕事につなげたいと考えて建築を専攻しました。
ー 卒業制作で水之江さんのアーカイブ資料を研究されたそうですね。以前、PLATのデザインアーカイブの長大作さんの取材のときに天童木工の永坂英樹さんからお聞きしたのですが、日大の先生と水之江さんに縁があったことが出口さんの研究のきっかけだったと伺いました。
出口 おそらく私のいた大川研究室の大川三雄先生だと思います。入学後、先生に「建築よりも家具の歴史を学びたい」と相談したところ、「君に合っている専攻がある」と勧められたのが歴史研究でした。その専攻では、坂倉準三さんや吉村順三さん、前川國男さんの建築史を研究する先輩が多く、前川國男さんの事務所で家具デザイナーとして従事していた水之江さんの存在も話題に上がっていたそうです。ただ、家具に強い関心をもつ学生がいなかったため、研究には至っていませんでした。そういうなかで家具に興味のある私が入学したので、大川先生から水之江さんの研究を提案され、私はぜひやりたいと引き受け、アーカイブ調査が始まりました。
ー 当時、水之江さんのことをご存知でしたか。
出口 いえ、知りませんでした。家具に興味はあったものの、3年生までは建築を学んでいましたから。先生からお聞きしたのは、水之江さんは前川國男さんの事務所に在籍し、優れた椅子のデザインを手がけ、多くの功績を残したにもかかわらず、十分に評価されていない、と。「この人物を調べてほしい」「まとめ方は一緒に考えよう」と言われ、4年生になってから調査を始めました。
ー 今日、加藤さん(天童木工)にご用意いただいたのが、出口さんがまとめられた全資料ですね。資料類は同じメーカーと思われる封筒に入っていて、さらに箱に収められていますが、その封筒や箱を選ばれたのは大川先生ですか。
出口 はい、先生が「とても貴重な資料だから」と、紙類が酸化しにくい素材の封筒や箱を用意してくださいました。資料のほとんどが紙なので、のちに酸化が進むとパラパラと崩れてしまう危険性があるからです。

水之江のアーカイブ資料は、酸化しにくい素材の封筒と箱に収められて保管されている。
時代背景から浮かび上がる功績と役割
ー 水之江さんのアーカイブ資料の内容をまとめた出口さんの卒業論文は、一冊の冊子としてまとめられていますね。日本の家具デザイン史についてもまとめられていて、読み応えがありました。アーカイブ資料をまとめるにあたって、最初にどのようなことをされたのですか。

出口順平さんの卒業論文。
出口 1920年以降の日本の家具デザインの歴史を調べるところから始めました。時代背景を理解しなければ、水之江さんがどの時代に、どのような役割を果たしたのか見えてこないからです。先生から『形而工房』(美術出版社、1987)という500ページくらいある分厚い本を渡されて、読み込みました。産業工芸試験所の話や、豊口克平さんの雪の上に座って人体の形状を型取りした実験など、当時の家具デザインに対する考えや試みが網羅されている本です。
その後、私は天童木工さんに連絡を取り、水之江さんのご子息である卓さんにお話を伺いました。そして、アーカイブ資料をお借りできることになり、調査は一気に進みました。
ー 水之江さんのアーカイブ資料は、どのように保管されていたのでしょうか。
出口 資料は種類ごとに封筒に分けられていて、その整理の仕方から水之江さんの関心の領域が伝わってきました。最初はご本人が大まかに分類し、そのあとに奥様が整理されたそうです。その分類方法から、水之江さんは几帳面で、強いこだわりをもった方だったのだろうと感じました。一方で、紙にわずかな折れ目がついても気にせず封筒に入れているものもありました。

出口さんがまとめた水之江の家具リスト。
ー それらの資料を、出口さんはどのように整理されていったのですか。
出口 最初に自分なりに調査した日本の家具デザイン史をもとに、年表を自作しました。そのなかに水之江さんのアーカイブ資料の内容を組み込んでいきました。転換期になりそうなポイントとして、前川事務所時代、ハーマン・ミラーの日本窓口を担う時期、ハンス・ウェグナーと出会う時期の3つにしぼりました。アーカイブ資料を読み進めていくと、日付が書かれたメモも多く残っていたので、推測しながらその日付に沿って年表に位置付けていきました。
国内外の家具デザインの状況を調べる
ー PLATのデザインアーカイブ取材では、デザイナーのみなさんは自身の写真や図面、スケッチなど、デザイナーの制作物に関する資料が多いのですが、水之江さんの場合は、ご自身で収集された家具産業に関する資料が多そうですね。
出口 かなり多いです。息子さんから、水之江さんは新聞や雑誌の切り抜きをよく集めていたと伺いました。当時の家具業界の動向を伝える、業界新聞のような冊子があり、その切り抜きがとても細かく整理されて封筒に入っていました。あくまで僕の推測ですが、水之江さんは自分が家具をつくるための工場を探す目的で、こうした調査をしていたのではないかと。生産量やコストなどに印が付けられていて、効率性や生産性を見ていたことが伝わってきます。さらに、その工場がどんな会社なのか、社長はどんな人物か、技術責任者は誰なのかといった点まで詳細に調べ、仕事をしたいと思える会社かどうかを見極めたうえで、その後の関係を築いていったのではないかと想像します。
資料のなかには、水之江さんは「四徳主義」という言葉を使って、デザイナー、生産者(工場、メーカー)、販売者、消費者の四者がいい関係を保つことでいい製品が生まれ、お互いに利益を得るものづくりが大事だと語っている記事がありました(※)。
また、ジョージ・ネルソンによる産業工芸指導所の講義内容をまとめたメモもありました。ネルソンは講義で、デザイナーとメーカーのあるべき関係や、家具の価格設定についても語っていたようです。その講義を聴いて、水之江さんはご自身が考えていたことに確信を得たのではないでしょうか。
そのほかに、倉俣史朗さんに関する新聞記事の切り抜きも残されていて、水之江さんが倉俣さんの動向に注目していたのではないかと思いました。
※ 「デザイナーは生産者、販売者に対しては商品としての利潤を与え、消費者に対しては商品に使用価値を、適正な価格をもつ商品として提供する。それによってデザイナーは生産者、販売者に対して、市場を開拓させ、そのリアクションとしてデザインの利益を受けることが可能になる」(『インテリア JAPAN INTERIOR DESIGN and DECORATION』 No.1、日本室内設計研究所、1960)。

水之江の資料『家具新聞』の記事。
ー 水之江さんは海外へ家具メーカーの視察にも行かれたので、そこで学んだことも多かったのではないでしょうか。私は国会図書館で、水之江さんが海外の家具について執筆された雑誌記事をいくつか読みました。「NO FURNITURE ジョージ・ネルソンによるビルト・イン家具の提案」(『国際建築』美術出版社、1960)や、「ノル・グループ 家具のコレクションとインテリア・デザイン」(『国際建築』美術出版社、1956)などです。
出口 水之江さんは、伊勢丹とハーマン・ミラー提携の打ち合わせのために、1964年2月に渡米しています。その際、ヨーロッパの家具視察の派遣要請も受けて、イタリア、スウェーデン、フィンランド、デンマークを訪れました。そのときにさまざまな資料を持ち帰っていたはずです。日本デザインコミッティーの活動にも関わっていましたし、国内外の家具デザイン業界の情報もかなり網羅的に把握されていたのではないかと思います。
ー 評論家で編集者の勝見勝さんも、国内外のデザインを広く調べていらっしゃいました。勝見さんと同様に、水之江さんの幅広い調査研究の姿勢からも、日本の家具デザインをよりよくしようという意識の高さを感じます。その点について、出口さんはどうお考えですか。
出口 前川國男さんの事務所に在籍していた頃の資料からは、そこまでは読み取れませんでしたが、1964年6月から水之江さんがハーマン・ミラー日本総代理店のモダンファニチャーセールスの相談役に就任しました。実際に渡米して、ハーマン・ミラーのようなアメリカの優れたメーカーの姿を目の当たりにし、日本の家具メーカーもこうあるべきだ、そうならなければ業界はよくならない、と考えていたのではないかと推察します。ハーマン・ミラーと関わるようになって以降、家具雑誌の記事を時代ごとに整理してスクラップしている点からも、その意識の変化がうかがえます。
天童木工との協働、ブックチェア誕生の背景
ー アーカイブ資料から、水之江さんのお人柄のようなものは感じられましたか。
出口 筋の通らないことはしない方だったのだろうと感じました。水之江さんが椅子のデザイン修正について指示を出した文書があり、それに対して天童木工の技術部長が手書きで返送して、何度かやり取りが行われています。その内容から、価格と製造工程について徹底的に議論していることがわかります。製造工程は価格に直結するので、生産スピードを上げられるか、より効率的な方法はないか、といった点を細かく詰めているのです。1957年頃のものと思いますが、その臨場感が強く伝わってきました。
加藤 そのやり取りをしていたと思われる当時の技術部長は、乾三郎さんが1958年に入社されたので、その前任者だと思われます。1957年というと、神奈川県立図書館のために制作された椅子「507(現・S-0507)」だと思います。発売後も細かい調整が続けられました。ブックチェアという愛称で親しまれていて、今もロングセラー商品です。天童木工の製品の中でも、最も手頃な価格帯でありながら、一番売れ続けている椅子です。

天童木工の工場と水之江がやりとりした資料。
ー 以前、長大作さんからも、水之江さんは朝起きるとすぐに天童木工に電話をかけ、その椅子のデザインの修正を少しずつ重ねていったと伺いました。私が日本の家具の中で名作をひとつだけ挙げるとすれば、間違いなくブックチェアです。最初に座ったときに、その座り心地に驚きました。その座り心地のよさと造形の美しさは、天童木工さんの技術力の証でもあると思います。
出口 水之江さんにとって、天童木工さんのような工場との共創は、とても重要なことだったと思います。デザイナー一人の力ではなく、技術者と高め合う関係性があってこそ、ものづくりは発展していくと思います。
1963年に出版されたドイツの家具年鑑本『New Furniture No.6』(Arthur Niggli発行)の同じページに、ハンス・ウェグナーと水之江さんの家具が掲載されたことがあり、それをきっかけに二人の交流が始まったのではないかと言われています。水之江さんは1964年1月に伊勢丹で「ハンス・ウェグナー展」を企画・展示デザインを手がけ、6月にアメリカと北欧などの視察派遣を受けたなかでウェグナーから客員としてデンマークに招かれました。水之江さんは、デンマークでウェグナーの家具がごく自然に日常空間の中で使われている様子を目にし、家具が生活に深く溶け込む北欧の文化に強い衝撃を受けた、という記事も資料のなかにありました。
そうしたウェグナーからの影響もあってか、その頃に水之江さんはブックチェアのデザインにまた変更を加えています。ただ、デザインを変えると木取りも変わるので、効率や生産性、材料調達にも影響します。そうした問題を、デザインと生産性のあいだを行き来しながら詰めていった様子が、技術部長とのやり取りからよく伝わってきました。水之江さんのように何十年にもわたって同じメーカーと向き合い、脚の微調整やわずかなテーパーの変更といった細かな改良を重ねるデザイナーも稀有だと思いますし、その要望に応え続けられる体力のある天童木工さんのようなメーカーも、なかなか存在しないと思います。
ー 以前、長さんから、水之江さんと松村さんとは、よく家具の話をしたと伺いましたが、そのほかに水之江さんが親しかったデザイナーの方はいたのでしょうか。
出口 息子さんがまだ幼かった頃、水之江さんは剣持勇さんとよく一緒にお酒を酌み交わしていたそうで、とても親しい間柄だったと伺いました。アーカイブ資料のなかに剣持さんのメモで「水之江さんはとても几帳面な人だから、丁寧に扱ってほしい」といった趣旨のことが書かれた紙が残っていました。どなたかを介して、水之江さんに渡す資料に添えられたもののだと思います。また、水之江さんが前川國男さんの事務所に在籍していた頃は、建物の1階に柳宗理さんの事務所があったので、さまざまな建築家やデザイナーが行き交う環境だったのではないかと思います。
水之江のデザインに向き合う姿勢
ー 水之江さんの仕事への姿勢やデザインに対する考え方について、出口さんの見解を教えていただけますか。
出口 水之江さんにとってのデザインは、家具そのものの造形だけでなく、ものがつくられ、流通し、最終的に使われるところまでをひとつの流れをデザインの仕事と考えていたのではないかと想像します。
そう考えるようになったきっかけは、やはりハーマン・ミラーとの関わりだったのではないかと思います。水之江さんは、最初は前川さんの事務所で神奈川県立図書館のためのブックチェアのスケッチを何度も描き直しながら、家具そのものの完成度を高めていく、いわば純粋な家具デザイナーとしての時期がありました。そこから次の段階として、「これをどう売るのか」という流れへと進んでいって、デザイナー、生産者(工場、メーカー)、販売者、消費者の四者の関係性に着目するようになった。今で言えば、経営や流通も含めた包括的なデザインを実践していた人だったのではないかと思います。
ー デザインそのものについては、どう感じられますか。
出口 ウェグナーのような曲線的なデザインには、強い憧れがあったと思います。ウェグナーの特徴をつかむためにたくさん描いて研究をしているようなスケッチ画があります。けれども、最終的にはご自身のデザインを貫いたのだと思います。前川事務所時代に応接室用のソファなどを手がけていますが、そこでも極端な曲線は使わず、実直なラインのデザインです。
ー 剣持勇さんや柳宗理さんの家具が個性的な造形を特徴とする一方で、水之江さんは造形よりも「生活の中の椅子」という視点に重きをおいていたのかもしれませんね。水之江さんの資料のメモに「広く使われてほしい」という言葉があり、とても印象的でした。もともと、ブックチェアも広く万人に使われる図書館のための椅子でしたね。
出口 水之江さんの資料の中にある記事には、「大衆」や「日用品」といった言葉が頻繁に登場します。彼は、大衆をターゲットにしなければ、長く残るものにならないと理解していたのでしょう。実際、代表作となったブックチェアに関しては、形、デザイン、価格、メーカーとの関係性、使う人への配慮、そのすべてがきちんと考えられていて理想的に噛み合っている。今も若手から大御所まで建築家がブックチェアを物件に入れているのを雑誌などでよく見ますし、街中のレストランでもよく見かけますし、一般の住宅で長年、愛用している方も多い。どんな場所にもなじみ、生活の中にごく自然に溶け込みます。まさに大衆日用品としての家具だと思います。
ブックチェアが生まれた当時、50年代半ば頃といえば、日本の家具デザインの歴史が始まってから30年ほどしか経っておらず、何が「いい家具」なのかという基準も定まっていなかった時代です。そういう時代に、さりげなく生活の中にあるけれど、じつはとてもよくできている椅子を水之江さんは生涯をかけて取り組み、それを成し遂げたと私は考えています。
60年代当時の家具デザイン
ー 出口さんの卒業論文のなかに、水之江さんが活躍された当時の日本にはイミテーション(模倣)や表層的なデザインが多く存在していたと書いてありました。当時のイミテーションの話はよく聞くのですが、表層的なデザインとはどういうものがあったのですか。
出口 奇抜な椅子のデザインが数多く現れ、翌年には消えてしまう時期があったようです。北欧の家具デザイン、そして、柳宗理さんや長大作さんらの家具デザインが確立したあとのことで、おそらく1960年代頃だと思います。見た目のインパクトを優先した派手なデザインで、椅子なのに背もたれがトゲトゲしていたりと、機能性が十分に考えられていないものもありました。水之江さんの目には、デザインがつたなく映ったのではないでしょうか。一方で、そうしたデザインを手がける若いデザイナーにとっては、新しい価値観に挑戦する試みでもあったのだろうとも感じます。
ー 天童木工さんでは当時、家具のデザインコンペティション(1961年からスタートした「天童木工家具デザインコンクール」)を行っていましたが、そうした奇抜な作品もあったのでしょうか。
加藤 応募作品やスケッチの写真が弊社にすべて残っていますが、当時、成形合板が普及し始めた頃で、かなり変わった形状のものが多く見られます。そのコンペに受賞して現在も販売されているものには、田辺麗子さんの手がけた「ムライスツール」など、実用性の高いシンプルなものが中心です。審査委員長には剣持勇さん、審査員を丹下健三さんや豊口克平さんなどが務めたので、きちんとジャッジされていたと思います。
出口 水之江さんも、スケッチに個性的な案を描いていますが、最終的に世に出ている製品は、削ぎ落とされたシンプルなデザインです。
ー そのほかのアーカイブ資料では、写真や図面は残っていますか。
出口 図面は60年代のものはほとんど失われてしまっているのですが、70年代以降のものについては青焼きの図面が残っています。ただ、青焼きのまま保管するのも限界があるので、スキャンなどでデータ化したほうがいいのだろうとは思っています。写真は、この資料箱の中にいくつか入っています。海外視察時の写真は見当たりませんでしたが、ウェグナーと一緒に写っている写真や、山形の産業工芸試験所でネルソンが講義を行った際に、ネルソンと話している様子を写した写真などが残っています。


二葉家具とのやり取りの手紙と図面。
ー アーカイブ資料をまとめるうえで、大変だったことはありましたか。
出口 あまり大変だと感じたことはなかったですね。むしろ、1年間ずっと楽しかったです。建築学科に入学して、4年生になってから自由研究として、「やっと自分の好きな家具について関わることができる」と思っていたので。
ー まとめるにあたって、「こういう資料がもっとあればよかった」と感じたことはありましたか。
出口 日本の家具デザイン史ですね。それを体系的にまとめた本が、そもそもあまりないので。『形而工房』は、その中でも一番よくまとまっている本だと思います。 そのため、最初は家具の歴史を追いかけるところから始めました。各メーカーが出している本やカタログ、それぞれのデザイナーが生きていた時代背景や、誰とどんな関係があって影響を受けているか、といったことを整理しながら、とにかく多くの書物を読みました。メーカーの流れを横軸にして、そこにデザイナーを縦軸に入れていく。全体像をどう捉えるかという点が難しかったです。それを理解するには、実際にショールームなどで作品を見て、いつ制作されて、どれくらいの開発期間があったのかを一つひとつ追っていく必要がありました。
デザインミュージアムへの展望
ー このアーカイブ資料は、今後どのように扱われていくのでしょうか。それについては、天童木工の加藤さんに伺ったほうがよいでしょうか。
加藤 出口さんが水之江さんのアーカイブ資料をここまで徹底的に整理してくださったことに深く感謝しております。ほかにもこれまで弊社が協業してきたデザイナーたちの図面などのアーカイブが社内にたくさん残っているので、今後整理していく必要があると考えています。
日本では、三宅一生さんを中心としたデザインミュージアム構想など、デザインミュージアムをつくろうという動きは以前から何度もありましたが、なかなか実現には至っていませんね。現在、日本の産業の活性化を目的とした、経済産業省主導のデザインミュージアムプロジェクトがあります。当社もそれに関わっていて、会社として果たし得る役割について模索しているところです。
その活動では最近、東京に主要拠点をおくだけでなく、地方にも目を向けるべきという考え方が出てきています。日本民藝館のような、各地にデザインミュージアム的な機能をもつ拠点をつくり、それらを東京の中核拠点とつなぐという案も出ました。そうしたネットワーク型のミュージアムができたら、よりリアリティのあるデザインミュージアムが実現できるのではないかと思っています。実際、地方の家具メーカーの工場見学ツアーの試みが始まっていて、先々週に天童木工の工場にも多くの方にお越しいただきました。もし、仮に「天童木工デザインミュージアム」が設立されたとしたら、それを山形のハブとして地域のものづくり産業と連携できるのではないかと思っています。
ー 実現できるといいですね。出口さんのほうでは、この卒業論文を書籍にまとめるというお考えはありませんか。日本の家具デザイン史と水之江さんの資料を合わせて一冊にまとめて、大学などで学生に伝える活動もいいのではないかと思いました。
出口 たしかに日本の家具デザイン史を体系的にまとめた本は少ないので、若い世代の意識を変えるきっかけになるかもしれませんね。実物の家具に触れられる場も限られていますし、ミュージアムなどで十分にアーカイブされていない現状もあると思いますから。もし僕が水之江さんについて本を書くとしたら、デザインそのものというより、工場との関係性に焦点を当てて書きたいです。これまで私自身、前職も含めて仕事のなかでいろいろな工場を見てきましたが、天童木工さんの椅子の製作工程を初めて見たときは、衝撃を受けました。日本の手仕事はもちろん大切ですけれど、どうしても価格が高くなります。そのなかで、天童木工さんの価格とデザインのバランスを慎重に考慮している姿勢は、やはり稀有だと思います。
ー 日本にデザインミュージアムがないことについては、どう感じていますか。特に家具において、どのようなミュージアムがあったらいいと思いますか。
出口 ルーヴル美術館や大英博物館もそうですが、内容以前に、まず空間の広さに圧倒されます。1日では回りきれない広さがあって、「また行きたい」と思わせるものがあります。そう考えると、こぢんまりとしたものより、思い切ってスケールアウトしたデザインミュージアムがあってもいいように思います。まず空間の規模に驚いて、展示物を見ると、「こんなものづくりが日本にあるんだ」と奥深さを感じられる。
例えば、デザイナーズチェアのコレクションで名高い、ヴィトラ・デザイン・ミュージアムに初めて訪れたときは、やはりその規模感に圧倒されました。日本の家具も集めたら、相当な量になると思うんです。小さく区切って見せるのではなく、ヴィトラ・デザイン・ミュージアムのように大きな空間に壁一面に椅子を並べるのも一案かと思います。特に注目すべき作品を低い棚に配置するなど工夫しながら、「物量」を感じられる見せ方がいいのではと。家具に限った話ではなくて、デザインミュージアムは日本のカルチャーを紹介するために必要なものだと思っています。
ー PLATのデザインアーカイブの取材のなかで、大学の学生にアーカイブ資料を研究してもらうことが理想的だという声を度々、耳にしてきました。今回、水之江さんの資料をまとめられた出口さんのお話を伺うことができ、とても興味深く、またアーカイブ資料を所蔵する大学の方々にとっても示唆に富む内容だと感じました。また、天童木工さんは、経済産業省主導のデザインミュージアムプロジェクトに参加されて、今後の自社のアーカイブについて模索されているというお話も興味深く、今後の展開に期待しております。本日は貴重なお話をありがとうございました。
水之江忠臣さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
天童木工 https://www.tendo-mokko.co.jp