日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

大野美代子

デザイナー

 

インタビュー:2022年7月12日13:30〜15:30
場所:珈琲館(世田谷)
取材先:池上和子さん(エムアンドエムデザイン事務所の元スタッフ)
インタビュアー:浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜

PROFILE

プロフィール

大野美代子 おおの みよこ

デザイナー

1939年 岡山県生まれ
1963年 多摩美術大学デザイン科卒業、松屋インテリアデザイン室勤務
1966〜1968年 スイスのオットー・グラウス建築設計事務所にて研修(日本貿易振興機構海外デザイン留学生)
1971年 エムアンドエムデザイン事務所設立
2016年 逝去

大野美代子

Description

概要

家具やインテリアデザインから出発した大野美代子は、その後、領域をエクステリアまで広げ、それまで光の当たらなかった土木の世界にデザインをもたらし、日本の街並みや景観を美しく豊かにするために尽力した。土木の仕事は、橋梁(歩道橋、道路橋、高速道路橋、鉄道橋)、防護柵や遮音壁、トンネルの抗口、地下道などがあり、細部にも丁寧に目を行きわたらせて、生活者の視点に立って考えることを大切にして取り組んだ。特に橋のデザインにおいては、65もの数を手がけ、そのうち橋梁・構造工学において優れた業績に対して授与される土木学会田中賞を19も受賞した。
大野が橋のデザインに興味を抱いたのは、柳宗理の存在があった。大学卒業後、スイス留学へ旅立つ前に、八幡製鉄の歩道橋の仕事を受けていた柳から、欧州の橋の資料を集めてほしいと依頼を受けた。大野は資料を集めて2部コピーし、1部を柳に送り、もう1部を自分用として見ているうちに橋のデザインに魅了された。
帰国後、縁に導かれて、橋梁デザインをはじめ、多様な土木の仕事に携わるようになる。生前、大野はこう語っていた。
「今まで、日本の土木の世界はやや閉鎖的で、これだけ重要な役割を果たしているにもかかわらず、世間一般に認められてこなかった。今、それが様々な弊害を引き起こしている。今後は積極的に情報を発信し、美しく橋を創ることによって、人々に親しまれ、橋づくりに関わる私たち全員が誇りを持って仕事のできる分野になっていくことを望みたい。」(『スツールからブリッジまで』2018、エムアンドエムデザイン事務所)
大野の資料は、2021年に多摩美術大学アートアーカイヴセンターに寄贈された。70年代からエムアンドエムデザイン事務所で働いていた池上和子さんに、大野美代子の仕事、人柄、寄贈の経緯などについて話を聞いた。

Masterpiece

代表作

橋梁デザイン

「蓮根歩道橋」(1977)、「辰巳の森歩道橋」(1979)、「フランス橋」(1984)、「かつしかハープ橋」(1986)、「横浜ベイブリッジ」(1989)、「鶴見橋」(1990)、「東京湾アクアライン」(1997)、「千葉都市モノレール栄橋横断橋」(1998)、「鮎の瀬大橋」(1999)、「陣ヶ下高架橋」(2001)、「川崎ミューザデッキ」(2003)、「長崎女神大橋」(2005)、「JR土讃線鉄道高架橋」(2008)、「はまみらいウォーク」(2009)

 

その他の土木の仕事

「首都高速湾岸線1期・2期 防音壁」(1982)、「名古屋第二環状自動車道 遮音壁」(1988)、「東京外環道 遮音壁」(1992)、「空港北トンネル坑口」(1993)、「福島西泉地下道」(1995)、「伊勢湾岸自動車道 東海・大府高架橋 遮音壁」(1998)、「TMS型防護柵」(1999)、 「しんとみリフレッシュパーク」(2006)、「秋葉原駅前高架橋改修」(2013)

 

プロダクト/インテリア

クラブ「スコッチ・ファイブ」(1970)、「ヒノキのダイニングセット」(1972)、「リビング・スペース・ユニット」(1973)、「松のスツール」(1977)、藤代健生病院のデイ・ルームのインテリアデザイン(1976)、「立ちイス」(1988)、「ガリバーの椅子」(2010)

 

書籍

『橋梁デザインノート』共著、日本道路協会(1992)、『これからの歩道橋』共著、技報堂出版(1998)、『鮎の瀬大橋』エムアンドエムデザイン事務所(2000)、『ペデ まちをつむぐ歩道橋デザイン』共著、鹿島出版会(2006)、『BRIDGE―風景をつくる橋』鹿島出版会(2009)、『スツールからブリッジまで』エムアンドエムデザイン事務所(2018)

大野美代子作品

Interview

インタビュー

学生さんたちの研究材料として、これからも大野の資料が活用されていくことを願っています

70年代にエムアンドエムデザイン事務所を設立

 エムアンドエムデザイン事務所は、大野美代子さんとデザイナーの三井緑さんが共同で設立されたのですね。

 

池上 大野と緑さんは同年齢で、予備校時代の友人です。大野は多摩美術大学、三井さんは東京藝術大学と、学校は違いましたけれど、学生時代から仲がよく、二人とも写真が好きで、リュックを背負って一緒に東北に撮影旅行に行ったりしていました。その後、大野はスイスに、緑さんはデンマークに留学して、それぞれ家具を勉強したこともあり、気が合ったのだと思います。帰国後、1971年に2人でエムアンドエムデザイン事務所を設立しました。エムアンドエムは、それぞれの名前(美代子と緑)の頭文字「M」から付けられました。

 

 池上さんは何年に大野さんの事務所に入られたのですか。

 

池上 私は1972年の大学3年生からアルバイトとして働き始めたのですが、そのときは大野と緑さん、そして、竹内きょうさんというスタッフもいました。大野が以前働いていた松屋のインテリアデザイン室の後輩で、1972年にエムアンドエムデザイン事務所に参加された方です。私は大学を卒業後、1974年に入所しました。

 

 どうして大野さんの事務所に入ることになったのですか。

 

池上 私は大学で工業デザインを学んでいて、将来、家具やインテリアの道に進みたいと考えていました。在学中に実際の現場を見たいと思い、知り合いのデザイン関係の方に、どこかでアルバイトをさせてくれるところがないか相談したところ、大野が家具やインテリアを手がけているので、そこがいいのではないかと紹介してくださったのです。私は週に1、2回、春夏冬の大学が休みのときは、ほとんど毎日行ってお手伝いをしていました。青焼き図面を焼いてもらいに専門店に行ったり、インターネットなどない時代だったので、当時の家具の販売状況を調査するために百貨店を見て回ったりと、日々、走り回っていた記憶があります。
事務所には、アルバイトをする人があちこちから来ました。その中からスタッフになった人も何人かいます。最初はアルバイトで入れて、大野や上の人たちが自分たちと合うか合わないか様子を見ていたのかもしれません。小さい事務所ですから、やはり相性が大事だと考えていたのだと思います。

 

 池上さんは、事務所のごく初期にアルバイトで入り、最後までスタッフとして在籍されたということは、大野さんと相性がよかったのですね。大野さんはどのような方でしたか。

 

池上 事務所が設立されてまもなくの頃から、最後に事務所をたたむまで、本当に長くいましたね。大野は、とにかく優しい人でした。思いやりがあって、人の話に耳を傾けて聞いてくれて、とても話しやすかったです。あまり細かいことは言わず、おおらかでゆったりとした雰囲気がありながら、心遣いがひじょうにある人でした。写真家の藤塚光政さんは、大野のことを「強い人には鬼だけれど、弱い立場の人に優しい」とおっしゃっていましたけれど。仕事に関しては、とても真面目でした。当たり前といえば当たり前ですけれど、いつも誠意をもって人に接することを大切にしていました。

 

家具やインテリアのデザインから、土木の世界へ

 

 大野さんは、橋のデザインがよく知られていますけれど、それを手がける以前、スイス留学から帰国後の70年代、80年代は、家具やインテリアの仕事をされていたのですね。

 

池上 大野がデザインした家具は、例えば、日本の食卓事情に合わせて、小皿や海苔、佃煮などの嗜好品を収納できる棚や引き出しの付いた「ヒノキのダイニングセット」など、生活の中で人が何を求め、どのように使うのかを真剣に考えたものです。大野が腰を痛めたときに考えた、立った姿勢で寄りかかれる一文字書きのフォルムの「立ちイス」は、1988年の「KAGU 東京デザイナーズウィーク’88」展に出品しました。
近い将来の日本の住空間を想定して提案した、「リビング・スペース・ユニット」というコンセプトモデルもあります。ユニット式のキャビネットで構成されるもので、家族各々のパーソナルな空間を確保しながら、共有のコミュニケーションスペースも創出できるというものです。この家具の考え方を、のちに青森県弘前市の藤代健生病院という精神病院のデイ・ルームに展開しました。大広間に畳のようなくつろげる間やベンチ、温かみのある木製の家具を配して、図書、手工芸、面会、食事など、用途に合わせて多様な空間をつくり出しました。青森という、冬は雪深くて閉鎖的になりがちな場所でもあるので、美しくて楽しいものをと考えたようです。このときにデザインした作業椅子が、後に「松のスツール」として商品化されました。

 

 大野さんは、スイス留学中にスキーで怪我を負われて、入院した病院の美しさや快適さに心を奪われたことがきっかけでケアデザインに興味をもたれ、その後、その青森の精神病院や老人病院に携わることにつながったそうですね。

 

池上 ケアデザインの仕事は、とても興味をもっていました。日本インテリアデザイナー協会のメンバーだったのですが、そこにケアデザイン研究会のようなものがあって、老人介護施設やリハビリ施設でいいところがあるとみなで見学に行くなど、かなり熱心に積極的に活動していました。

 

 インテリアは、老人施設や精神病院のほかに、どういうところを手がけられたのですか。

 

池上 店舗やクリニック、個人住宅などで、70〜80年代が多かったですね。最初に手がけたインテリアの仕事は、田町駅の近くの「スコッチ・ファイブ」という、オーナーがお寿司屋さんのクラブです。おそらく1970年だったと思います。8坪ほどの小さな空間で、入り口とトイレは黒を基調として、床にはシャギーのカーペットを敷いたストイックなデザインの空間でした。

 

 大野さんが初めて手がけられた橋は、1977年に竣工した板橋区蓮根町の交差点を結ぶ「蓮根歩道橋」でした。それまでは家具やインテリアを手がけられていて、橋の仕事に携わったことがなかったのに、どういう経緯で声がかかったのでしょうか。

 

池上 声をかけてくださったのは、首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)の椎泰敏さんでした。椎さんは海外への留学経験もあって、建築家やデザイナーが協働したさまざまな橋を見てきて、「これからの日本の橋にもデザイナーの協力が必要ではないか」と考えていたそうです。
「蓮根歩道橋」は、東京都の委託の仕事でした。歩道橋は、子どもからお年寄りまで地域の人たちが日常生活で利用するもの。ちょうど老人病院や精神病院など、身体的、精神的に弱い人々のための仕事をした後だったので、その経験をもとに橋の中央にベンチを置いて、点字テープを貼った手すり、舗装面にカラーリングを施すといったデザインを提案しましたが、いずれも前例がなかったため、最初は全面的に却下されました。けれども、椎さんと大野は何度も打ち合わせに足を運び、粘り強く協議を重ねた末、実現することができました。

 

 作品集『BRIDGE―風景をつくる橋』に書かれているエピソードでは、都の男性職員から、橋の中央にベンチを設置するという提案に対して、「一体、誰が利用するのか」と聞かれ、大野さんが「老人、妊婦」と答えると、どっと笑いが起きたと。出来上がってみると、実際に高齢者や妊婦、子どもたちがベンチに腰かけている姿があって、手すりについても現在では全面的に設置することが法令で定められているけれども、当時は不要と言われたとのことで、そういう時代だったのですね。

 

橋のプロジェクトのほとんどを、藤塚光政が撮影した

 

 「横浜ベイブリッジ」は、860mという長さの、もっとも大きな規模のプロジェクトで、港のシンボルになり、観光名所にもなりました。

 

池上 当時、首都高速道路公団としても、これほど大きな橋を手がけるのは、初めてだったと思います。その頃、横浜市には都市デザイン室というのがあって、歴史的建造物も多く、観光都市でもあったことから、街の景観デザインに力を入れていました。それもあって首都高速道路公団は、このプロジェクトにもデザイナーを入れた方がいいと考えたのだと思います。
「横浜ベイブリッジ」は、調査や検討を15年間行って、その後、大野が基本デザインに携わったのは1980年で、完成したのは1989年です。高速道路と国道の二層の斜張橋という形式と、橋の長さ、2本のタワーの高さとその間隔、桁下の高さという橋の条件が決まり、これらをもとに大野は遠景から、すべての角度から美しく見えるデザインを考えました。
デザインの検討を重ねているときに、この模型をつくって事務所の屋上に持って行って、新宿の高層ビル群をバックに藤塚さんに撮影していただいたことがありました。模型は私がつくったのですが、タワーの断面は六角形で、上部に向けて細くなるなど、細部までデザイン案に忠実に再現したので大変でした。その後、いろいろ変更が加わって、最終的に今の形になったのですが、基本的なイメージは、最初の大野のアイデアが生きています。

 

 くまもとアートポリスの一環としてつくられた「鮎の瀬大橋」は、倉俣史朗さんがプロジェクトのコミッショナーである磯崎新さんに大野さんを紹介されて携わることになったそうですね。

 

池上 倉俣さんとは、1年間だけだったそうですが、松屋インテリアデザイン室で毎日、机を並べて仕事をしていたそうです。『BRIDGE』には、当時の松屋での2人の仕事風景の写真が載っていて、倉俣さんについて大野はこう語っています。「図面の描き方ひとつ、すべてのものに対して美しさにこだわる一方で、とてもいたずら好きな楽しい人でした」(『BRIDGE―風景をつくる橋』鹿島出版会、2009)。
橋のプロジェクトは、ほとんどの場合、構造形式やもろもろの条件が決まってからデザイナーが入ることが多いのですが、「鮎の瀬大橋」はこの辺りに橋をかけるという大まかな位置が決まっていたくらいで、最初からデザイナーが入ることができたので、やりがいがあったと思います。1989年の現地調査から始まって、10年後の1999年に完成しました。この橋ができる以前は、地域に暮らす人たちはV字形の谷を下ったり登ったりしながら、移動に徒歩で2時間もかかっていたので、完成したときはたいそう喜んでくださり、大野もとても嬉しかったようです。 この「鮎の瀬大橋」のプロジェクトのときに、藤塚さんがたくさん撮影してくださったので、大野がそれらの写真をきちんと整理したいと考えて、のちにこの仕事をまとめた冊子『鮎の瀬大橋』をつくりました。エディトリアルデザインは、藤塚さんの紹介で秋田寛さんが手がけられました。「鮎の瀬大橋」のある場所は、起伏が激しいところなので撮影は大変だったと思います。写真を見た人が藤塚さんが撮影したアングルを探すのですが、どこから撮られたのかわからないことが多かったですね。

 

 大野さんの作品の写真は、藤塚さんが撮影されることが多かったのですか。

 

池上 主要なものは、ほとんど藤塚さんです。大野が松屋のインテリアデザイン室にいた頃、藤塚さんは『JAPAN INTERIOR DESIGN』の編集者で、写真も撮られていたので、おそらく家具の撮影か何かで知り合ったのだと思います。大野は特に希望を言わず、藤塚さんを信頼して基本的にいつもお任せして撮影していただいていました。

 

 橋の仕事は、ほかにも「辰巳の森歩道橋」「フランス橋」「かつしかハープ橋」など、計65もの数を手がけられましたが、当時は、竣工したと思ったら、次の現地調査をしに行くという具合に、複数のプロジェクトが同時進行していて多忙を極められたと思います。これほど多くの橋のデザインを手がけられたデザイナーは、後にも先にも大野さんしかいないのではないでしょうか。

 

池上 橋のプロジェクトは、環境、地質、構造、設備など、各分野のさまざまなスペシャリストが関わっています。維持管理の問題や行政上の分担もあり、いろいろなことが絡み合って制約も多く、デザイン案を一生懸命考えても、すべてOKになるかわからないですし、完成までに何年もかかりますし、なかなか一筋縄ではいきません。まったく経験のない方が携わるのは難しいというか、ちょっと嫌になってしまうんじゃないかなと思います。

 

逝去後の展覧会の開催と資料の寄贈

 

 2016年に大野さんが逝去された後も、事務所の運営を続けられていましたが、昨年閉じられた理由は何ですか。

 

池上 大野の具合が悪くなる少し前から、事務所を閉じようという話が出ていました。公共事業予算が縮小されていくのに伴って、橋の仕事が少なくなってきたことが一番の理由です。これからどうしようかという話がずっとありました。
2014年に大野が倒れて入院することになり、ここまでやったのだからもういいかという気持ちもあったようで、事務所を閉じることに決めました。けれども、まだ続いている仕事があったのと、2016年に大野が亡くなった後も展覧会の準備や資料の整理、残務処理など、いろいろとやることがあって、ようやくひと通り終えられた2021年に閉じました。

 

 2018年に大野さんの展覧会「BRIDGE 大野美代子の人と人、街と町を繋ぐデザイン」を開催することになった経緯を教えていただけますか。

 

池上 大野が亡くなってから、展覧会をしたいと思っていたのですが、どうしたらいいか全然わからなかったんですね。そこで親しくしていた日本インテリアデザイナー協会の副理事長の井出昭子さんと、大野とお付き合いのあった脇田美術館の学芸員の岩田希美さんに相談をもちかけて、展覧会の開催のことと、大野の資料をどこかに寄贈できないかという話を3人でしていました。
展覧会に関しては、脇田美術館の岩田さんが竹中工務店の運営するギャラリーエークワッドに交渉してくださって、2018年に「BRIDGE 大野美代子の人と人、街と町を繋ぐデザイン」展を開催することができました。ただ、開催までに準備の時間がなかったので、作品集『BRIDGE』に掲載した藤塚さんの写真を引き延ばして、文章と一緒にパネル化しました。また、「横浜ベイブリッジ」などの模型をいくつかこのために製作し、「鮎の瀬大橋」の模型は、熊本の現地近くの資料館にあったものを運び込みました。さらに、大野がデザインした家具も一緒に展示しました。
寄贈に関しては、藤塚さんに撮っていただいた写真と、大野の撮り溜めた写真がかなりの量があって、それらをどうしようかと井出さんと岩田さんと考えていました。大野の写真というのは、国内外で撮影した橋や街の風景の写真で、そのスライドファイルが何十冊とありました。3人で話し合うなかで、大野の母校である多摩美術大学はどうだろうという話になったのです。じつは、多摩美の学校案内に卒業生の作品が紹介されていて、毎年更新されるのですが、大野の「横浜ベイブリッジ」は毎回、掲載されていたんですね。
そこで客員教授をされていた川上元美さんに相談に伺いました。大野と川上さんとは、大野がスイスに留学していたときに、川上さんがイタリアのアンジェロ・マンジャロッティの事務所にいらしたので、向こうで会ったりして、古くからお付き合いがありました。川上さんから環境デザイン学科の先生をご紹介いただき、その先生のところに行って話をして、学内で協議してくださることになり、しばらくして受け入れてくださるとのご連絡をいただきました。ですから、寄贈の件では、川上さんに大変お世話になりました。多摩美では、ちょうどアートアーカイヴセンターが設立される頃で、タイミング的にもよかったと思います。

 

大野美代子資料

展覧会風景。『BRIDGE 大野美代子の人と人、街と町を繋ぐデザイン』図録より。

 

 

 多摩美に寄贈されたものは、大野さんと藤塚さんの写真以外にスケッチや図面、模型などもありますか。

 

池上 橋のプロジェクトに着手するときに、どのように発想して考えていったかという検討書も一緒にお渡ししました。その中に簡単な形状図を入れています。ほかには、新聞や雑誌の記事、書籍、展覧会のパンフレットなどです。
模型は場所をとるので処分してしまい、スケッチもほとんど残っていませんでした。学生時代や仕事を始めた頃のスケッチ帳は、かろうじて少しだけあったので寄贈したところ、多摩美の方が喜んでくださいました。仕事が忙しくなってきてからは、スケッチも描いてすぐに捨てるようになりましたね。

 

 作品集『BRIDGE―風景をつくる橋』も、大野さんが手がけた代表的な橋のプロジェクトをまとめた、アーカイブの要素をもっていると思います。

 

池上 藤塚さんに撮影していただいた写真がたくさんあって、それを本にまとめたいと大野は考えていたのですが、忙しくて、なかなか手がつけられないでいました。あるとき、鹿島出版会の方から書籍の話があって、その後、担当者が来ていろいろと相談して、つくり始めるまでに3年ぐらいかかったと言っていました。大野は本をつくりたいんだけれど、どういうものにしたらいいかずっと悩んでいました。藤塚さんに相談したところ、グラフィックデザイナーのスワミヤさんを紹介してくださって、こういうイメージでつくったらと、見本をつくってきてくれたらしいんです。それを見て、どんどん話が進んでいったという感じで、打診から5年かかったわけですが、やはり具体的に物を見ながら話を進めていくというのがよかったのだと思います。
それから、かなり前から、大野からこれまで新聞や雑誌などに書いたことを本にしてほしいと言われていたのですが、日々の仕事に追われてなかなか進みませんでした。大野が亡くなった後、私と残ったスタッフでまとめて『スツールからブリッジまで』という原稿集にして関係者にお配りしました。

 

大野美代子資料

原稿集『スツールからブリッジまで』、『鮎の瀬大橋』、展覧会図録『BRIDGE 大野美代子の人と人、街と町を繋ぐデザイン』、『JAPAN INTERIOR DESIGN』(1985年2月号、インテリア出版)に、「エムアンドエムデザイン事務所の橋梁デザイン」というタイトルの特集が組まれた。

 

土木や家具の仕事をまとめたファイルを制作

 

 家具も多摩美に寄贈されたのですか。

 

池上 家具は場所をとるので受け入れていただけるかわからなかったので、多摩美の方にはお話していません。家具は、今、大野の関西の家にあります。大野は普段、東京に住んでいて、夏休みやお正月休みにその家に行くという感じでしたが、体調を崩してから転居しました。そこに多摩美の卒業制作のラタンのスツールをはじめ、大野がデザインした家具を置いていて、今は2人のお姉さんたちが使われています。それらの家具が今後、どうなるかはわからないですね。
それからもうひとつ、大野が亡くなったあとに残ったスタッフと一緒に、経歴や仕事の年表、土木や家具の仕事を中心に1ページごとにまとめたファイルとそのデータも多摩美に寄贈しました。写真の下にある概要の文章は、大野が書いたものを引用したり、私が書き足したりしたものです。橋のプロジェクトでは、歩道橋、道路橋、高速道路橋、鉄道橋があって、その他の土木の仕事に防護柵や遮音壁、トンネルの抗口、家具というふうにジャンル分けし、年代順に並べています。大野とエムアンドエムデザイン事務所が手がけた仕事を網羅したものが必要だと思っていたので、すごく手間と時間がかかりましたけれど、つくってよかったと思います。

 

大野美代子資料

土木や家具の仕事をまとめたファイル

 

 このファイルを見れば、大野さんの土木や家具の仕事がわかるようになっているのですね。本を出されていないデザイナーですと、亡くなられた後に、その方がどういう方で、どういう仕事をされてきたのか、わからなくなってしまうケースも多いなかで、池上さんをはじめ、スタッフの方々がきちんとまとめられて、大野さんは幸せですね。ところで、防護柵や遮音壁などもデザインされたのですね。

 

池上 道路の防護柵のデザインも、大野がやりたいと思っていた仕事でした。一般的な防護柵は、白いガードレールですけれど、当時の建設省東北地方建設局の方がもっと景観に配慮した美しい防護柵をつくらなければいけないと考えて、コンペでメーカーに技術提案を募集して神鋼建材工業(現・日鉄神鋼建材)が選ばれて、大野がデザインを担当しました。これは実現して、全国展開しています。走行車からも歩行者から見ても、美しい風景に見えるように考えて設計されています。
遮音壁もやりたい仕事のひとつでした。首都高速道路公団でも、大きくて目立つから何とかしなければという思いがあって、大野に話がきていくつか実現しました。それからケアデザインを取り入れたリフレッシュパークや、地下道、トンネルの坑口などにも携わりました。大野は、街の中にあるいろいろなものを一つひとつ綺麗にしていかなければいけないという、使命のような気持ちを抱いていて、自分がやりたいと思っている仕事を一生懸命、たぐり寄せるように取り組んでいました。
それからケアデザインの仕事ももっとやりたいと思っていましたし、作品集『BRIDGE』の中に、大野が海外で撮影した街の小さな橋が載っていますけれども、そういう日常の人々の生活を支える小さな橋も手がけたいと思っていました。

 

 話は少し変わりますけれども、大野さんは土木学会田中賞の賞碑のデザインを依頼されて、そのグラフィックデザインを小島良平さんが手がけられたのですね。

 

池上 小島さんは、予備校時代の仲間だったそうで、気軽にいろいろなことを頼んでいて、仲がよかったです。そんな仕事までお願いしてしまっていいのだろうかと、私は内心、心配していましたけれど。例えば、70年代当時、店舗のインテリアデザインをした際には、看板のロゴから宣伝用の小さなマッチケースのグラフィックまでお願いしたり、首都高速道路公団が70年代後半に、若手を中心とした景観の研究会を立ち上げ、その内容をまとめた『景観』という報告書の表紙のデザインもしていただきました。中身は固い内容なのですが、洗練された美しい表紙で、研究会の土木技術者の方々も喜んでくださいました。
一番驚いたのは、「横浜ベイブリッジ」のスカイウォークという遊歩道のためのロゴデザインを横浜市が小学生を対象に公募して、その中から選出したものを小島さんに綺麗に整えていただいたことです。そんなふうに大野はすごいことを大胆に頼んでいて、ギャランティもそんなにお支払いしていないのではないかと思うのですが、小島さんはいつも快く引き受けてくださって、どれも本当にとてもすてきなデザインでした。

 

 それは小島さんのアーカイブ資料情報としても、貴重なお話ですね。それらの資料も残っていたのですか。

 

池上 マッチケースなどは残っていませんでしたが、首都高速道路公団の報告書『景観』は、かなり装丁がボロボロになっていましたが事務所にあったので、これも多摩美にお渡ししました。
こうした大野の資料は、学生さんたちの研究材料として活用できるかたちになっているそうです。昨年は、多摩美術大学環境デザイン学科と東京大学、法政大学工学部の有志の学生さんたちによって、大野が手がけた東京周辺の橋を対象に研究活動が行われました。その成果は多摩美術大学のアートテークで、大野美代子研究展「ミリからキロまで」として開催されたのです。学生さんたちの研究展示とともに2018年の「BRIDGE 大野美代子の人と人、街と町を繋ぐデザイン」展のときに展示したパネルや「横浜ベイブリッジ」の模型をギャラリーエークワッドさんからお借りして展示するなど、全体に見応えのある展覧会でした。そういうふうにこれからも大野の資料が学生さんたちに活用されていくことを願っています。

 

 今後もたくさん活用されていくといいですね。またの機会に、多摩美術大学アートアーカイヴセンターさんに、大野さんの資料についてお聞きできたらと思っております。本日はありがとうございました。

 

 

 

大野美代子さんのアーカイブの所在

問い合わせ先

多摩美術大学アートアーカイヴセンター https://aac.tamabi.ac.jp