日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
田原桂一
写真家、アーティスト
インタビュー:2024年9月17日13:30~15:00
取材場所:BUILT
取材先:田原博子さん 松浦文生さん(元スタッフ、フォトグラファー)
インタビュー:関康子
ライティング:関康子
PROFILE
プロフィール
田原桂一 たはら けいいち
写真家、アーティスト
1951年 京都生まれ
1971年 渡仏
1977年 アルル国際写真フェスティバル新人大賞
1984年 日本写真協会賞新人賞
1985年 木村伊兵衛賞
1993年 フランス文化芸術勲章シュバリエ
1995年 パリ市芸術大賞
2006年 帰国、活動拠点を日本に
2009年 株式会社KTP設立
2017年 逝去
Description
概要
田原桂一がパリから東京、さらに世界へと活躍の舞台を広げた1970年代から90年代は、まさに日本の多くの表現者たちが世界へ羽ばたき、そのクリエイティビティが認められた時代だった。そういう意味で、田原も勢いに乗り、牽引した写真家=表現者の一人である。
田原を知ったのは『世紀末建築』だった。それは、以前勤務していた会社の会議室だった。ひょっとすると倉俣史朗さんの紹介だったのだろうか、田原は講談社から出版間もない全六巻の写真集『世紀末建築』の中から数冊を持参してやってきた。まず金色に輝く豪華な装丁と本の重さに驚き、ページをめくってさらに驚愕した。そこには見たこともない絢爛豪華なヨーロッパ文化の表象としての建築空間があでやかに切り取られていた。一方で、撮影者である田原は、作風から少しずれていて(あくまで個人的な印象だが)、物腰が柔らかく、こちらの素朴な質問に一つひとつ丁寧に答えてくれるような人だった。その数年後、プラハとブタペストを訪れたときには、写真集で見たホテルや温泉施設に足を運んだものだ。
田原は「日本の写真家」という枠では括れない。圧倒的なスケール感の作品もあれば、光の粒子で心象を語る作品、深い洞察に裏付けられたポートレートと、被写体のテーマと作風は自由で豊かだ。だがその独特の「光」が田原の作品であることを証している。写真家だけでなく、光の芸術家として建築や庭園、都市にまで活動を広げていたことは知っていたが、今回の取材でその内容は想像を超えたものだった。田原は光をつかみ取るためにカメラという道具を選び、同時に光を絵具のように使いこなす「光の探求者」だったのだ。
今回は、妻で、現在は田原の展覧会のキュレーションにも携わる田原博子さん、スタッフとして田原を支え、作品や資料の整理にもあたる写真家の松浦文生さんからお話を伺った。
Masterpiece
主な作品
「都市」シリーズ (1973-74)
「窓」シリーズ (1973-81)
「光合成」シリーズ 田中泯と共作 (1978-1981、2016)
「顔貌」シリーズ (1978-1987)
「エクラ」シリーズ (1979-1983)
「ポラロイド」シリーズ (1984)
「トルソー」シリーズ (1987-1995)
「エジプト」シリーズ (1996)
「手」シリーズ (-2017)
主なライトスケープ
「光のオベリスク」 東京/日本(1987)
「光跡」 横浜/日本(1988)
「光の祭典」 リヨン/フランス (2000)
「四次元の柱」 汐留/日本 (2000)
「光のエコー」 パリ/フランス (2000)
「白夜」 パリ/フランス (2003)
主な彫刻、建築作品
「光の庭」 北海道/日本 (1989)
「竜の戦い」 アンジェ/フランス (1993)
「光の門」 カールロー/アイルランド (2001)
「光の扉」 リール/フランス (2003)
「チャペル・ルアンジェ」 京都/日本 (2003)
「澄」 新荘市/台湾 (2011)
パリ第七大学新校舎外壁 パリ/フランス (2007)
GINZA888ビル 銀座/東京 (2008)
主なブランディングワーク
モエ・シャルドン (1999-2007)
ダンヒル (2000-2003)
カルティエ (2001-2006)
アンジェノワール、ワールド (2003-2008)
主な出版物
『éclat』GARERIE de FRANCE (1982)
『世紀末建築全六巻』講談社 (1984)
『METAPHORE』求龍堂 (1986)
『顔貌』PARCO出版 (1988)
『KEIICHI TAHARA Photographies』Desastre (1990)
『艶のかたち金沢』高桑美術印刷 (1992)
『天使の回廊』新潮社 (1993)
『IN-BETWEEN』Caixa Tarragona (1994)
『Le Louvre Architecture』ASSOULINE (1995)
『LES ANGES DE CROATIE』ASSOULINE (1995)
『OPÉRA de PARIS全4巻』文献社 (1995)
『ART NOUVEAU』ASSOULINE (2000)
『国会議事堂』講談社 (2015)
『迎賓館 赤坂離宮』講談社 (2016)
『Photosynthesis1978-1980』SUPER LABO (2016)
Interview
インタビュー
「僕の作品を宝にするのもゴミにするも君次第だよ」
とニコニコと言われて……、私には大きなプレッシャーです。
田原桂一のアーカイブ
ー 田原桂一さんには、倉俣史朗さんの作品を撮影していただいたことがあって、今もお人柄や仕事ぶりを思い出します。本日はその田原桂一さんのアーカイブや活動についてお話をいただきたく。
田原 宜しくお願いします。倉俣さんは、田原にとって特別な人と聞いています。倉俣さんは、日本では無名だった田原の作品の「窓」シリーズを見て、「すごい奴がいるんだよ」といろいろな雑誌社に紹介してくれたそうです。その縁が日本での仕事を広げてくれたと。
ー その田原さんは2017年に65歳という若さで逝去されました。現在、作品や資料はどのような状況にあるのですか?
田原 田原はパリのサンマルタン運河の近くにあったアトリエ兼自宅を引き払うことを決めて、箱根に新たな拠点となる物件を購入しました。そこを選んだ理由は母屋のほかにスカッシュコートだったという大きな空間があって、仕事場や暗室を整え、パリからの膨大な作品や荷物を納めるのに好都合だったからです。室内も大幅に変えて、パリで使っていた家具などを持ち込んで心地よい空間をつくりました。そして、荷物をパリから少しずつ移動させて2006年に箱根に拠点を移しました。
スカッシュコートだった広いスペースにはギャラリーのように田原の大型作品が保管されている。
生活の場はパリから持ち込んだアンティーク家具などで心地の良い空間にリノベーションした。
ー 本当に素敵な空間ですね。
田原 けれど田原の一周忌の前に、松浦さんはじめ、アシスタントだったみなさんと相談して、木箱に入ったままの大型のガラスや石の作品はここに残し、ネガやポジ、銀塩プリントなどは都内にある湿度調整ができるスペースに預けることにしました。
松浦 整理は今も続いています。プリント作品はエクセルでデータ化され、ポジやネガは作品やシリーズごとにファイルして保存されています。その数は膨大で、代表作の中でも貴重なものはある程度整理できていますが、それ以外の総数は未だ把握できていません。
田原 田原は整理整頓が身についた人で、どんなに多忙でもパリに行くときなどはデスク回りを完ぺきに整理していましたし、日常的にも灰皿や万年筆などを決めた場所にきちんと置くような人でした。パソコンの中も整理されていたので把握することができました。松浦さんが昨日も倉庫に行って整理を進めてくれて、私が知らないことも教えてくれるのでとても助かっています。
松浦 同じネガであっても、プリントした時期や色調、枠取りが違うと別の作品になります。そうした細かい分類を博子さんにお伝えして、情報を共有するように努めています。
田原 作品に関しては、生前からすでに「都市」「窓」「エクラ」「顔貌」などの代表作は、フランス国立図書館、ポンピドゥーセンター、国立オペラガルニエ館、ヨーロッパ写真センター、東京都写真美術館など、世界各地の美術館や大学、研究機関にコレクションされています。けれど将来的には、まとまったかたちで美術館や個人のコレクターに収蔵してもらいたいと考えています。誰もがそうだと思いますが、芸術作品は作家自身よりもずっと長く生き続けるものなので、できるなら作品を分散することなく継承していきたいと思っております。
田中泯との幻のプロジェクト
ー さて、この取材はこの夏(2024年)「田原桂一OPÉRA de PARIS」展で、偶然博子さんとお会いしたことがきっかけで実現しました。田原さん亡き後、博子さんは展覧会を開催するなど、膨大な作品を引継ぐ大役を担っておられるのですね。
田原 私は田原の側に15年もおりましたが、他界する2年前に入籍することができ、晩年に妻になることができました。今は彼の40年に及ぶ作品を守り、次の時代につなぐ役を担うことになりました。出会った当初はまったく違う世界にいたので写真のことは何もわからず、そこからできる限り近くで学び続けてはおりましたが、田原亡き後は彼の日仏両方のスタッフや親しかった方々の支えがあってこの7年間無我夢中でやってきました。田原は写真家として認知されていますが、実はいろいろなジャンルで活動していて、本人も「写真家になるつもりでパリに行ったわけではない。カメラは持っていたけれど。」と、「写真家」と決められることに違和感をもっていたようでした。継承にあたっては私もその気持ちを尊重したいと考えています。
ー 博子さんはどのように田原さんの作品をつないでいるのですか?
田原 お話しするときりがないのですが、私にとって印象に残っている出来事を聞いていただきたいと思います。
田原は亡くなる1年ほど前から写真の整理を始めていて、私はそれまで見たことのなかった作品を多く知ることになりました。そのひとつが田中泯さんとのプロジェクトで、作品を見た瞬間に衝撃を受けました。田原もこれは絶対に残したいと、いつになく強く魂を込めるように言ったので、私は何とかしなければとメディアの方々を自宅に招待して作品を見てもらう機会をつくりました。その後、話が少しずつ広がって原美術館での展覧会が決まりました。けれど残念なことに展覧会は、田原が亡くなった2カ月後の2017年秋に開催されたのです。
ー 泯さんとのプロジェクトとは、どんなものだったのですか?
田原 1978年の秋、27歳の田原は33歳の田中泯さんとパリで出会い、意気投合した2人は光と身体の関係性を探求する旅に出ました。それはパリ、ローマ、ニューヨーク、アイスランド、ボルドー、日本では東京や九十九里などを3年かけて巡り、その土地や自然、光や空気に反応する泯さんの身体を田原がひたすらシャッターを切るというフォトセッションでした。けれどこのコラボレーションの結晶は世に出ることはなかったのです。
ー 未発表だったのですか?
田原 ところが撮影から35年の歳月が流れ、田原が何十年ぶりかでこの作品を発掘したと時を同じくして、泯さんから偶然電話をいただいて、「今ちょうど泯さんの写真を整理していたところなんだ」と。この再会がきっかけで、2016年に写真集『Photosynthesis 1978-1980』が出版され、36年ぶりに新作を撮ることになりました。展覧会は46点を厳選し、「田原桂一『光合成』with 田中泯」展として開催され、泯さんによるパフォーマンスも披露されたのです。
ー お2人のセッションはさぞかし刺激的だったでしょうね。
松浦 お2人とも若く、レンタカーを借りて各地を回りながら、「ここだ!」とひらめいた場所で降り立っては撮影するという旅だった。泯さんはこのセッションのためにすね毛から眉毛まで体毛を剃って、身体から無駄なものを一切排除したという大変な意気込みだったそうです。NYでは真っ裸の泯さんと2人で警察官に追われたこともあったとか、忘れがたいエピソードも多く、アーティストとして至福の時間だったと思います。
田原 泯さんがインスピレーションを得てパフォーミングを始めると、すかさず田原がシャッターを切る、アシスタントもいない2人きりの旅だったから即興的だったろうし、表現者同士がぶつかり合い、緊張感のある現場だったのではないかと思います。田原は泯さんの人間性や芸術性といった抽象的なものではなく、彼の肌を通してその土地の光や空気、湿度を即物的に捉えたかったに違いありません。作品を手に取ると、その生々しさや現実感が見る者に迫ってきて圧倒されます。
ー 35年ぶりの再会はお2人に何をもたらしたのでしょうか?
田原 亡くなる一年前に女子美術大学美術館で「田原桂一 in JOSHIBI 〈光合成〉プロジェクト『奥の細道』」展を開催し、また初めて自費出版を行いました。再会から田原が亡くなるまでの1年間、泯さんは本当に親しくお付き合いくださり、死の数時間前には山梨のご自宅から駆けつけてくれました。何より、このプロジェクトは田原にとって原点回帰であり、この作品を世に残さねばならないという想いを強くしたのだと思います。その信念が田原に不思議なパワーをもたらしたのか、原美術館に加えてプラハ国立美術館、銀座ポーラミュージアム・アネックスでも個展が決まったのです。
ー 田原さんの強い意志が、3つの展覧会を開催させたのですね。
田原 プラハ国立美術館からの要請を受けて現地に向かった2017年2月頃、田原の病状は悪化していて病院で肺にたまった水を抜いてその足で空港に行き、一人でプラハに向かいました。それは、そばにいた私が、彼は最期に生き様をも伝えようとしていると感じるほどの気迫でした。私は彼の回復を信じ、オープニングは無理でもクロージングにはプラハに行くのだと希望を託していたのです。しかし彼は6月6日に亡くなり願いは叶わなかった。
展覧会は「田原桂一:光合成1978-1980」と題し、2017年3月から8月まで開催されましたが、結局私たちは展覧会に行けず、友人の紹介で知り合った田原に憧れを抱いていたカメラマンの若い男性が会場の写真を撮ってくれ、私はそれを編集して冊子にまとめました。もし田原が生きていればロンドンのテート・モダン、ニューヨークのホイットニー美術館をはじめ、泯さんと訪れたパリやローマも巡回する予定で準備を進めていましたが実現できていません。ただ、プラハで展示した作品は今もプラハで保管されています。
プラハ国立美術館の見本市宮殿を会場に開催された「田原桂一:光合成1978-1980」展の様子
©Kenta Umemoto
ー 田原さんは亡くなる直前まで精力的に活動していたんですね。
田原 本当に亡くなる2週間前まで、テレビ朝日とBS朝日の番組のさまざまなジャンルの表現者が登場する「白の美術館」で、宮沢りえさん、山本耀司さんといった出演者のポートレートを撮り下ろす仕事を続けていました。すでに車椅子に座って酸素吸入をするほどの体調だったのに、スタジオ入りするときは自分で歩き撮影に臨んでいました。私は彼ほど自分の仕事をやり遂げ、責任をまっとうした人物を知りません。普段は言葉の少ない人でしたが、その行動から人に対する深い感謝の思いを感じました。
田原桂一、光との出合い
ー そんな田原さんの原点は何なのでしょうか?
田原 彼は京都生まれの京都育ち。お家が染色業を営んでおり、お祖父さまが写真家、離婚されたご両親も絵を描かれるという芸術的な家庭だったと聞いています。そんな家に育ったのでカメラの扱いを自然に覚え、門前の小僧ではないけどカメラを持たせたら一流の才能を発揮したのだと思います。高校を卒業して1972年、前衛音楽家であるツトム・ヤマシタさんが主宰する「レッド・ブッダ・シアター」という劇団の照明係として渡仏し、劇団がアメリカに移動するときに「興味ないから」とそのままパリに残った。そうして始めたパリ暮らしはどん底、お金も仕事もないからマルシェで野菜の切れ端をもらって飢えをしのぎ、観光客相手にポラロイドでスナップショットを撮って日銭を稼いだそうです。
ー そこまでしてパリに残った理由は何だったのでしょうか?
田原 初めて訪れた外国であるパリの光だったのだと思います。「パリの蒼色の空、その奥に漆黒を、さらに壮大な宇宙を感じた」、「湿度の高い日本の光と異なる、夏のパリの矢のような強い光、その光が生む明暗のコントラスト、日本とは違う光を捉えたかった」と語っています。そこに光の写真家、田原の原点があるのだと思います。彼は光をつかみ取るためにカメラという道具を選んだのかもしれません。
ー そうして、田原さんの光、パリを撮り始めたのですね。ここから田原さんの代表作と歩みを博子さんと松浦さんに伺っていきたいと思います。
田原 初期の代表作「都市」シリーズは、パリの街と光に出合った田原の写真家として最初の作品でした。その心境については「強い太陽が光の粒子をまきちらしながら、巨大な壁のように立ち並ぶ建築群の石壁を侵蝕しつつ、この街を照らしだす。略 乾いた硬質な、矢のように僕の眼を射る光だった。その時、はじめて光を掴みとれるようにすらおもえた。光を物質のようなものとして、感じたきっかけだったかもしれない」と記しています。
また同時期の「窓」シリーズは、彼が暮らしたエレベータのないアパルトマンの屋根裏部屋にこもって、天窓を見つめる日々から生まれたと聞いています。「もう五年は掃除したことのない窓ガラス。ホコリが積もり、雨が降り、鳥の糞がこびりついたその窓ガラスは、陽の中でキラキラ輝いている。略 その縞模様の隙間から青空に浮いた白い雲が流れていく。雲と窓と漂う煙の間で、焦点を失った視線が、昼に近い朝の光の中に溶け込んでいく」と当時を振り返っています。
ー 「都市」と「窓」は、田原さんの心象をフィルムに焼き付けたものだったのですね。その後、ヨーゼフ・ボイスなどの芸術家たちのポートレートを撮った「顔貌」シリーズ、抽象的に光をとらえた「エクラ」シリーズへと展開していった。「エクラ」は繊細な光から強烈な輝きへ、光そのものを被写体とした作品でした。
田原 「エクラ」については、「光は時間の流れの中で、空間に痕跡を残し、そして消えていく。定着されるべき光があるとするのなら、やはりそれは“かたち”であるべきではないという想いがより一層強くなる」と語っています。こうして田原の足跡を振り返ると写真家、表現者としての早熟ぶりに驚きます。初期の「都市」「窓」「顔貌」「エクラ」シリーズは彼が20代、30代で撮ったものですが、深い洞察力が見てとれます。それは時代を超越する何か、永遠を感じさせるのです。そして「窓」などの作品が評価を受けて、1977年にアルル国際写真フェスティバル新人大賞を受賞しました。
ー その後、意欲的に取り組んだ「トルソー」も田原さんらしい作品ですね。
田原 「トルソー」は「ルーブル宮殿に宿る守護神達は幾世紀にもわたる光と空気と人々の視線を受けて艶かしく磨き上げられ、いのちを持ってしまったのかのようだ。石の地肌の奥深くに醒めることのない熱を蓄え、細胞分裂を繰り返すが如く、エネルギーをやわらかく発光させ、長い年月のうちに表層につややかな輝きを獲得した。それは、人々の空想、あるいは理想の肉体へと限りなく近づいていく」とあります。「トルソー」は、1980年代半ばらか10年以上取り組んだテーマで、ネガを紙だけでなく布やガラス、石版などに焼き付けることによって、写真の新たな可能性を探っています。
ー 被写体は実に多様ですが、どれも田原さんらしい高貴さがあります。
田原 私は30代で田原と出会い、その瞬間からこんな人がいたのかと彼に尊敬の念を抱きました。今でこそ田原の代わりに偉大な作品を世に残す活動をしていますが、今の私ならもっと田原を受け止め、理解してあげられたのに‥‥‥と思うことがあります。加えて残念なことは、日本では、写真は欧米のように芸術分野として認知されておらず、写真家に対する敬意も決して高くありません。たしかに写真の撮影は一瞬であり、ネガがあれば何度もプリントできます。しかし写真家は満足する1枚が仕上がるまで何時間も暗室にこもって作品に向き合います。本人が焼き付けたビンテージ写真は粒子の細かさ、明暗のコントラストなどのクオリティは絵画に匹敵します。そうした田原の作品を目にすると、その繊細さ、深さ、美しさ、エレガンスに心打たれます。
ー 大きな賞を受けた田原さんは、その後、「世紀末建築」「パリ・オペラ座」などの大作に臨み、前者は1984年に講談社から『世紀末建築全六巻』として出版され、日本への凱旋を果たされました。このときに私は田原さんと初めてお会いしたのですが、華麗な光でヨーロッパの建築空間を切り取った絢爛たる写真に目を見張ったことを覚えています。
田原 彼の仕事は自発的なものと、依頼を受けたプロジェクトに分けられると思っています。先日見ていただいた「パリ・オペラ座」シリーズはフランス政府からの依頼で8年もかけた仕事ですが、「僕にとっては『世紀末建築』や『オペラ座』は作品ではないんだよ。『窓』とか泯さんとの写真こそが、僕が本当に撮りたかったものなんだ」と語っていました。もちろん、自発的な作品か依頼を受けた写真かの区別は、田原自身の内面的な気持ちであって見る側には関係ないことですが。
ー たしかに「窓」や「エクラ」は光の本質や心象風景をとらえた抽象芸術であり、一方、「パリ・オペラ座」や「世紀末建築」は、照明係としてパリに渡った田原さんの「光の演出家」としての特徴が色濃く反映されているのかもしれません。そういう意味で田原さんは本当に光の探求者だったのだと思います。
田原 もともと劇団の照明係としてパリに行った田原は舞台が大好きで、バレエ、オペラ、歌舞伎、宝塚歌劇……何を見ても、演者の振る舞いや舞台効果、演出について彼なりの見方や感じ方を語ってくれました。実際に、田原の空間写真は、天使の彫刻や西洋建築独特のオーナメントや豪華なシャンデリアなど、彼しか切り取れない独特のアングルや感性があり、背景にはその歴史や物語を理解したうえで撮るという意志があるのです。彼の瞳は物資や現実ではなく、それらを透過してもっと向こう側に何かを見つめているのです。
ー 日本でも、金沢市、赤坂迎賓館、国会議事堂などの特別な空間や建築物を撮影されています。西洋の空間とは違う写真になっているのでしょうか?
田原 例えば『艶のかたち金沢』は、金沢市と高桑美術印刷からの依頼で金沢の文化や伝統を撮影しました。それを見ると日本の建築・空間は西洋に比べるとボリュームはなく平面的です。けれど田原が撮ると漆、金箔、紅、友禅など、あるいは茶室の空気感、提灯の赤い灯などを艶やかに捉えて、日本の空間や文化がもつ豊饒さを定着させています。
松浦 田原さんは豊饒さを演出するために夜に照明や蝋燭などを持ち込んで、日常を演劇的に転嫁させます。そういう意味で、田原さんの光の探求はどのような場所や環境でも行われていたのです。
『艶のかたち金沢』から、「畳と茶の湯の炉」「地蔵堂と格子を通過する光」。日本の日常が光によって新たな風景に生まれ変わる
ー 本当にそうですね。ところで松浦さんと田原さんの出会いはいつだったのですか?
松浦 私が中学生のときで、「窓」シリーズを写真雑誌で見て衝撃を受けました。「窓」は風景とも人物とも静物とも違う、まったく新しいジャンルの写真でした。具象を撮っているのだけど抽象の世界まで映し込んでいる。窓なのか、空なのか、光そのものなのかという、根源的なところまで迫っている。窓を撮りながら真実まで映し出した写真は稀有なのではないかと。田原さんは人物や空間、風景を対象としながら、その奥にある何かを撮ろうとしている。
ー それでアシスタントになった?
松浦 そうです。田原事務所に入ったのは1989年。大学卒業後、建築事務所や貸しスタジオのアシスタントをしていたのですが、あるとき『コマーシャルフォト』で田原さんがアシスタントを募集していることを知ってその日のうちに面接に行って、「すぐに来てくれ」と。それからアシスタントとして数年勤め、独立後も田原さんが亡くなるまで声がけをいただいたときに手伝っていました。田原さんは若いときに自ら運転して世界中を撮影していたから、基本的には何でもご自身でできました。
光の探求は、写真から彫刻、建築、そして空間へ
ー 田原さんは写真家に限定されることを嫌ったとのことですが、写真以外ではどのようなお仕事をされていたのでしょうか? 私は、80年代後半だったと思いますが横浜のみなとみらい地区で田原さんがサーチライトを使った光のイベントを見に行ったことがあります。
田原 彼の光の探求は、写真から空間、建築、光の彫刻の制作と広がっていきました。横浜は「光跡」というプロジェクトでサーチライトを使った光の柱、ガラス彫刻などでライトスケープを生み出しました。最初の頃は何十台ものサーチライトを集めることが大変だったそうですが、器具の手配が容易になってからは東京の光が丘や汐留でも挑戦しています。2000年以降は、マルセイユ、ジュネーブ、パリなどライトスケープを実現しました。ライトスケープとは光によって都市や建築に昼間と違った風景を生み出すこと。今でこそライトアップやプロジェクションマッピングが普及しましたが、田原の試みはその先駆けだったと思います。
ー 光の彫刻ともいうべき立体作品も挑戦されていますね。
田原 2004年に東京都庭園美術館で開催された「田原桂一光の彫刻」展のために制作した「光の門」は、現在青山のワールド本社の庭に展示されています。もともと庭園美術館正面には安田侃さんの彫刻があったのですが、展覧会期間中だけ「光の門」を設置できるように交渉しました。田原はこの作品のためにポルトガルまで行って白色大理石を見つけ、2本の大理石柱に発光ダイオードを仕込んだクリスタルプリズムを貫通させて光らせるという幻想的な作品をつくりました。
「光の門」は現在、青山のワールド本社ビルの庭に設置されている。
ー ぜひ拝見したいと思います。他にはどうですか?
田原 彼は、「窓」「顔貌」「トルソー」などの作品は紙だけでなくガラスや石材、布などにプリントしていました。石材はパリ郊外のサンマキシマムという場所の粒子が細かくて化石を含む石灰岩を気に入っていて、厚さ2センチほどの板状にして表面を磨きネガをプリントしていました。本人は「時の封印」「光の記憶」であると言っていました。さらに素材の上に金箔や銀箔を置いてネガをプリントしたり、光を透過するガラスにプリントしたり、実験をしながら作品の可能性を追求していました。
松浦 ガラスや石材へのプリント作業は田原さん一人では無理なので、私だけでなくパリのスタッフも召集して行われました。箱根のアトリエで一週間籠って、立体トルソーにネガを焼き付けたこともありました。最初にトルソーに乳剤を塗ってネガを焼き付けるのですが、失敗したら乳剤を洗い落としてまた同じ作業を繰り返す。これは田原さんが独自につくりあげた手法で普通ではできません。
田原 (透明なオブジェを持ってきて)これは、倉俣さんに触発されたところもありますが、田原の代表作である「トルソー」シリーズから9点を選んでアクリルキューブにプリントしたものです。最初はお世話になった方々へのプレゼントとして制作したのですが、ほしいという方がたくさんいらして、2020年に『KEIICHI TAHARA RENAISSANCE COLLECTION』として商品化しました。田原の作品をインテリアとして楽しんでいただきたいという気持ちを込めています。
『KEIICHI TAHARA RENAISSANCE COLLECTION』から。アクリルのキューブはインテリア小物として魅力的だ。
ー テーブルや棚に置けて身近に田原さん作品を鑑賞できますね。田原さんは本当に幅広い活動をされています。
田原 ダンヒルやカルティエ、モエ・シャルドンといったブランドのクリエイティブディレクションやブランディングを手がけていました。新しいショップや製品のコンセプトを考えて実現する仕事です。カルティエのグローバル戦略を任されたときには、まずは同社の歴史やものづくりを知らなければならないと倉庫まで出かけていき、ブランドの真髄を学び理解したうえでビジュアルイメージに昇華させました。世界のスーパーブランドのトップたちに信頼され仕事を任される田原と共有した時間はかけがえのないものです。
日本ではワールドの「アンジェノワール」というブランドのディレクションを任されました。田原というアーティストを迎えて、ヨーロッパや日本のすばらしい職人による衣服、ジュエリー、文具、生活雑貨を扱うセレクトショップです。田原はブランドのコンセプト、ショップデザイン、マーチャンダイジングからグラフィックワークまで一切を行っていました。他には建築も手がけており、銀座8丁目にある「銀座888ビル」では、建築デザインからインテリア、ロゴのデザインまで、「僕は器用貧乏だ!」と言いながら楽しんで仕事をしていました(笑)。
「アンジェノワール」は田原のディレクションによる上質なセレクトショップ、青山にショップがあった。
ー ところで、田原さんはデジタルをどのように活用されていましたか?
松浦 デジタルは積極的に使っていました。その作風からは意外ですが、田原さんは、Macは初代から使っていて、1990年代後半にフォトショップから登場してからはレタッチなどの作業で自由に使いこなしていました。デジタル登場前のフィルムはドラムスキャンしてデジタルデータ化していたのですが、技術が向上するについて全面的にデジタルを採用していたのです。
キュレーターとして作品に向き合う
ー さて、作品や資料の整理について伺ってきましたが、田原さんが亡くなって7年、展覧会や出版などのプロジェクトを進めておられますか?
田原 2018年、田原の一周忌展として銀座のポーラミュージアム・アネックスで「Sens de Lumière(光の感覚)」展を開きました。これが私にとって初めてのキュレーションでした。同展では「窓」や「トルソー」に加えて、会場に箱根の自宅からソファーやアンティークの照明器具、カメラなどの愛用品を持ち込んで田原の存在を感じられる展示を行い、「光をつかみ取る」という世界観を再現しました。ドラマチックな空間を演出するために、私が壁の一部を白い布のドレープで覆いました。
2021年には同じポーラミュージアム・アネックスで「田原桂一表現者たちー白の美術館」展を企画しました。同展では田原が1978年から87年に撮影した「顔貌」からヨーゼフ・ボイス、クリスチャン・ボルタンスキ―などの巨匠と、BS朝日の「白の美術館」で撮影した方々のポートレートを展示しました。会場は空間を歪曲する壁で2分して、それぞれ黒と白に塗り分けて、黒い部屋には「顔貌」を、白い部屋には「白い美術館」のポートレートを展示し、境界には白い布を暖簾のように下げて映像を投影しました。2つの部屋を行き来するうちに、「鑑賞者=表現者」であることに気づいてほしいというメッセージを込めました。
そして、2024年「OPÉRA de PARIS」展です。本展は田原が8年をかけて撮影した写真集「OPÉRA de PARIS」から約30点を厳選。展示は壁面全体を写真で覆い、映像も制作して、鑑賞者に田原と同じ目線でガルニエの空間と目くるめく光を体感してほしいと考えました。
上から「Sens de Lumière(光の感覚)」展、「田原桂一表現者たちー白の美術館」展、「OPÉRA de PARIS」展から。
ー 虎ノ門のVLCギャラリーでも、4回にわたって展覧会を開催されていますね。
田原 2022年秋から24年春にかけて、「窓」「エクラ」「トルソー」「手(Les Mains )」という4シリーズを展示しました。「手」は田原の最晩年の仕事で、年齢を重ねた男性の老成円熟な⼿と無垢で瑞々しい⾚ちゃんの⼿がまるで対話をしているような作品です。私はこの4シリーズが田原を象徴する作品だと考えて展覧会を企画しました。
ー ポーラミュージアムとVLCの展覧会は、博子さんしか実現できなかったと思います。生活を共にしていたからこそ、一つひとつの作品に込めた田原さんの思いをくみ取り、私たちに伝える翻訳者の役割を果たしておられるのだと。最後に田原さんの膨大な作品やアーカイブを継承するにあって、ここだけは押さえなければと思っている点は何ですか?
田原 欲張りですが、田原がやってきたことのすべてを伝えていくということです。彼は根っからのアーティスト。本物をつくってきた人がもつ余裕があったから、自分の仕事や作品について積極的に語ることはなかった。「僕の作品を宝にするのもゴミにするも君次第だよ」とニコニコしながら言われて……私には大きなプレッシャーです。写真以外にもいろいろ挑戦する田原から刺激を受けて、今の私は「職種は関係ない、やれることをやればいい」と考えるようになりました。昨年七回忌だったのですが、私にとりましてはひとつの節目として、初の試みであるオペラ座の展覧会を無事に終え、そしてこの取材を受けて、次のステップに進まなければとも考えています。
ー 今後挑戦してみたいことがありますか?
田原 今まで行った展覧会や企画をひとつにまとめた大回顧展を実現したいし、田原が40年近くもすごしたパリでも展覧会を開催したいです。田原はよく何かを進めるときは「点から線へ、そして面へ広げていく」と言っていましたが、私も友人や知人を辿りながら自分の思いを実現したいと考えています。
ー 本日はありがとうございました。
田原桂一さんのアーカイブの所在
http://www.keiichi-tahara.com/html/index.html