日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
豊口克平
インダストリアルデザイナー
インタビュー:2022年5月11日 13:30〜16:00
場所:取材先自邸
取材先:豊口 協さん
取材協力:大柴健宏さん、森谷延周さん
インタビュアー:関 康子、石黒知子
ライティング:石黒知子
PROFILE
プロフィール
豊口克平 とよぐち かつへい
インダストリアルデザイナー
1905年 秋田県生まれ
1928年 東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部)卒業
型而工房設立に参加
1933年 商工省工芸指導所(現・産業技術総合研究所)入所
(のちに通産省工業技術院 産業工芸試験所 意匠部長)
1955年 桑沢デザイン研究所 教授
1960年 豊口デザイン研究所を設立(前年開設の豊口デザイン研究室を改称)
武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科主任教授就任(77年名誉教授)
第1回モスクワ日本産業見本市会場デザイン
1962〜67年 日本産業巡航見本市船さくら丸展示設計
1969年 大阪万国博覧会協会ディスプレイデザイン顧問受託
1974年 日本インダストリアルデザイナー協会名誉理事
日本インテリアデザイナー協会名誉理事
1976年 勲三等瑞宝章受章
1990年 通産省デザイン功労賞 第1回受賞者に選ばれる
1991年 逝去 従四位勅授
Description
概要
豊口克平は日本のデザインの黎明期に、先駆けて人間工学的な視点で家具をとらえ、日本人にあった新しい近代的な生活を提唱したインテリアデザイン界の重鎮である。
明治38年(1905)秋田県鹿角市生まれ。小学校の頃は、電灯がなく、毎日石油ランプのホヤ研ぎをし、和服と下駄で登校していた。中学進学を目指して受験勉強をしていたが家庭の事情でやむなく断念し、秋田工業学校に進学。大正14年(1925)、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)図案科に入学したことが、デザイナーとしての道を定めた。同校では家具デザイナーの森谷延雄(木の芽舎)に学んでいたが、33歳で急逝。後任の講師として赴任したのがモダニズムの建築家、蔵田周忠(ちかただ)であった。
1919年にバウハウスが設立され、欧米で近代デザインが発展したのは1920年〜30年代。豊口は蔵田に薫陶を受けインテリアデザインを専攻し、そこからドイツ工作連盟やバウハウスに傾倒していった。蔵田の目を通して知る近代デザインは、当時の日本の状況と比して眩しいものに映ったことだろう。卒業後、蔵田を主宰に同校の生徒が集った実験的デザイナー集団「型而工房」(1928〜1938)の設立に参加。拠点であった代官山の同潤会アパートに通い、中核メンバーとして活動した。日本のプロダクトデザインは型而工房から始まるとも言われる。海外様式を真似ただけのイミテーションがまかり通っていた時代に、豊口らは合理主義、機能主義を実践したからである。家具職人が慣習として用いていた尺貫法から世界基準のメートル法へいち早く切り替え、入手しやすく安価な木材を規格化して、低コストで品質がよく、大量に生産できる家具の設計を目指した。豊口にとって型而工房は「思想形成時代」であった。
同じ頃(1928)、仙台に商工省(現・経済産業省)工芸指導所が設立された。金工や木工、漆工をはじめとした日本の伝統的産業やその他工芸産業を育成し、輸出することを目的とした日本初の国立のデザイン指導所である。33年にはブルーノ・タウトが、40年にはシャルロット・ペリアンが指導のために来日している。豊口は33年に、所長を務める工芸家でデザイナーの国井喜太郎に誘われて入所、型而工房の活動も続けながら、タウトの元で椅子の規範原型の研究を皮切りに、家具の標準化に力を注いだ。同時期に所属した剣持勇とともに日本のモダンデザインのパイオニアと称される。戦後、同所は通産省産業工芸試験所(産工試)と改称、1959年に豊口デザイン研究室を開設するまで公務員として、生活者に近代的で良識的なデザインを提供する道を探り続けた。
晩年は教育とメーカーのコンサルタント、万博の設計や企画に携わった。その足跡はまさに現代デザインの礎といえる。今回は、豊口デザイン研究所で仕事を共にしてきた息子の豊口協さんに話を伺った。
Masterpiece
代表作
ディペンデントハウス(進駐軍家族住宅)家具の設計(1945〜48)、半休息椅子 通称“トヨさんの椅子” 天童木工(1955)、日本航空ダグラスDC−8 インテリアデザイン アートディレクター(1958)、日本産業巡航見本市船さくら丸展示設計 日本産業巡航見本市協会(1962〜1963)、「スポークチェア」天童木工(1963)、「オリンパスオート」35mm判カメラ オリンパス光学工業(1963)、逓信総合博物館 展示基本設計 日本電信電話公社(1965)、万能顕微鏡「AH」開発デザイン オリンパス光学工業(1965)、「ラタンの休息椅子」とテーブル 山川ラタン(1965)、機械振興会館 全館の家具設計(1966)、量産家具ネコス工業(1967)、モントリオール万国博覧会日本館ディスプレイデザイン JETRO(1967)、第15回東京モーターショー 総合企画 テーマゾーン 自動車工業振興会(1968)、カーフェリー インテリア 兼松造船(1971)、中野サンプラザ インテリア計画 基本設計 雇用促進事業団(1972)
主な書籍
『現代家具製作の知識』共著、東学社(1936)、『新住宅と家具』共著、技術資料刊行会(1948)、『インダストリアルデザイン 生産工学講座』日刊工業新聞社(1959)、『インダストリアルデザイン全集2 』編、共著、技報堂(1963)、『デザイン戦術 中堅企業と工業デザイン』編著、ダイヤモンド社(1965)、『インテリアデザイン事典』監修、理工学社(1972)、『型而工房から:豊口克平とデザインの半世紀』共著、美術出版社(1987)
Interview
インタビュー
国策としてのデザインは創造につながらない宿命を感じる
型而工房とブルーノ・タウト
ー 豊口克平さんは50年以上に及ぶデザイナー生活を送られ、家具からオリンパスのカメラや顕微鏡、万博の設計、大学でのデザイン教育など、幅広く活躍されました。イラストなどのサインにはKappeiと書き、近しい方もそう呼ばれていたそうですが、ここでは本名の「かつへい」さんと呼ばせていただきます。さて、協さんはお父様と同じ千葉大学を卒業後、松下電器を経て、1963年に豊口デザイン研究所に入所され、お父様とお仕事を共にされてきました。実際に身近で見てこられたわけですが、一言で言うと、どういうデザイナーだったのでしょうか。
豊口 協 改めて考えると、難しいですね。でも僕から言えることは、日本人の生活を近代化させる、その先駆けになった人だということですね。戦前から戦後へ、さまざまな困難が待ち受けるなかで、日本人の生活を近代的なものへといっせいに変えていこうと、言い続けてきました。日本人は西洋人に比べて足が短い。それは正座しているためで、足が圧迫されて背が伸びないのだという持論をもっていました。そこでまず畳の上でも椅子を用いる、椅子の生活を提案したのです。そこには、生活デザイナーという自負がありました。僕は父とそうした近代的な暮らしについて直接、語り合うことはありませんでしたが、『工芸ニュース』をはじめとした雑誌や新聞、本などに文章を数多く載せており、手元にも千数百枚に及ぶ原稿がありました。そこからの800枚を選んで晩年、『型而工房から 豊口克平とデザインの半世紀』(1987、美術出版社)という一冊の本にまとめています。ですから、そこに語り尽くされているのですが、近代化を言い続け、実際にやってのけたというのは大変なことで、簡単にできることではありません。
ー 克平さんはご自宅でお仕事はされていなかったのですね。
豊口 自宅では、原稿を書いたり、絵を描いたりはしていましたが、仕事をすることはありませんでした。私が中学生の頃は、親父が何をしているのかはっきりと知らなかったのです。大学受験を考える年頃になり、母に児童文学をやりたいので文学部に進学したいと告げました。母・冨美子は歌人でもあり文学部出身だったのですが、将来を考え食べていけるような道を選んでほしいと言われたのです。そこで悩んで、父の東京高等工芸学校での恩師であり、型而工房で共に働いた蔵田周忠先生に相談したのです。蔵田先生は、僕の名付け親でもあるのです。すると、蔵田先生は「父親がどういうことをしているか君は知っているかい。後を継いでみる気はないのか? 重要なことだと思うよ」とおっしゃった。その言葉に後押しされて、父が通った千葉大学の工学部を受験することにしたのです。
ー 蔵田周忠さんは、モダニズムの建築家ですね。型而工房は、蔵田さんを軸に東京高等工芸学校を卒業した生徒が集まって結成されました。バウハウスなどのデザイン運動にも目を向けながら、日本で広がっていた生活改善運動に対応すべく、家具を標準化し大量生産を可能にするための設計と試作、発表に取り組んだ先駆的なデザイナー集団です。拠点は代官山の同潤会アパートでした。家具を科学的に分析しながら制作していました。その後、克平さんは、型而工房での研究を続けながら、仙台にできた商工省(現・経済産業省)の工芸指導所(現・独立行政法人産業技術総合研究所)に入所されます。日本最初のデザイン行政組織で、ブルーノ・タウトも来日し、その指導を受けられました。
豊口 商工省工芸指導所は、世界に日本の工芸品を輸出することを目的として発足されました。そのための近代的なデザインを学ぶ指導者として、ナチスドイツから亡命していた建築家、都市計画家であったタウトが来日したのです。父は指導所の時代を「研究時代」と呼んでいました。タウトより、「ものづくりとは何か」と「正しいデザインのあり方」についての本質を教えられたと口にしていました。まもなく東京駐在を命ぜられ、タウトからの直接指導の機会は多くはなかったようですが、それでも「椅子の規範原型」の研究など、貴重な経験を得て、大いに役に立ったようです。一方で、指導所では日本人の体型や行動、暮らしに合う椅子を提案するため、テストチェアによる実験的な測定を重ねていました。しかしタウトはそうした科学的実験データは役に立たない、椅子に直接腰かけて、体感し感知することがすべてであると否定したそうです。
雪型による実験から“トヨさんの椅子”へ
ー 西洋には長い椅子の歴史がありますが、日本にはそうした感覚的な蓄積はありません。生活のスタイルも異なりますので、見解の相違があったのでしょう。実験はどのようなことをされていたのでしょうか。
豊口 機能実験室をつくって、日本人が座るときに椅子が身体を支える支持面の高さや奥行き、傾斜角度がどうあるべきかといったデータを実測していました。その座ったときの型をどうやってとるか。今のように3Dプリンタがある時代ではありません。石膏や砂は粘性と凝固性のある可塑媒体ではないので使いにくく、型をとるのにとても苦労したようです。そこで、剣持勇さんに協力してもらい、冬のさなかに鳴子温泉へ行って、「雪型による椅子の支持面の実験」を行ったのです。雪型で座姿勢を測定し、人体曲線図を完成させました。子どもの頃に雪深い秋田で育ち、雪に顔型をつくって遊んだ記憶がヒントになったそうです。家では畳の生活でしたが、畳の上に椅子を置き、正座することなく生活をしていました。父は着物が好きで、着物を着て畳の上の椅子に座っていました。
左/産工試で行った雪型を用いた測定。 右/座姿測定装置を開発し、機能実験を研究した。
ー 1955年の秋岡芳夫さんが“トヨさんの椅子”と名づけた半休息椅子や1962年の「スポークチェア」、1965年の「ラタンの休息椅子」などは、座面の高さは40センチ以下で、外国にはない椅子です。畳の上に置いても畳で座る人を見下ろすことなく、気を遣わずに話せます。和洋が混在する戦後の新しい日本の暮らしを見据えたデザインです。“トヨさんの椅子”は、まだ人間工学という言葉が定着する前から、そうやって何年もかけて実験し、人間の動作を観察し、座や背を測定するなどの積み重ねにより完成したのですね。西洋の椅子の理論に日本の良いところを組み合わせた椅子と言えます。
豊口 いずれもそこには日本人の「座」への考え方を残していて、「スポークチェア」など座面であぐらがかけるようになっています。体勢をどんなようにも変えられる。ふんぞり返ったり、深く沈み込んだり、肘木にもたれるような椅子では、座ってからすぐ次の行動には移せません。仕事にも使えるように、座の傾斜や背の角度を小さくしているのです。
「ラタンの休息椅子」のスケッチ。原稿用紙や使用済みの紙の裏などに描いていた。
ー 座面などに見られる三次曲線やサイズ、詰めものにいたるまで、研究による実験データが活かされているのですね。その後、研究は千葉大学の小原二郎研究室に引き継がれたそうですね。
豊口 商工省では生活必需品の標準化に取り組み、同時に、家具の規格化を進めていました。その成果は、JIS(現・日本産業規格)の制定にもつながっています。また、人間工学については、とにかく徹底して研究していました。でも父と晩年、議論したことがあります。父が実践している人間工学は、人間の寸法をとらえるものです。でもそれは、工学といえる領域ではないのではないか。道具と人間との関係において、どういう寸法がいいのか、そのときに人はどういう心理でどういう行動を起こすのか、人間行動学という視点でとらえるべきではないかと言ったのです。椅子に座ってふとウイスキーを飲みたくなり、取りに席を立つ。座ってから立つまでの気持ちの変化は、なぜ起きるのか。人間の心理と行動との研究をするべきだと、提言したのです。要するに、人間工学は古いと言っているのです。それに対して親父からは「おまえがやれよ」と返されました(笑)。
国策としての家具産業
ー さて、1952年に、工芸指導所は、通産省産業工芸試験所(産工試)に改称されます。そこでは意匠部長を務められました。
豊口 工芸指導所では、戦後、GHQの指令を受けてディペンデントハウス(進駐軍家族用住宅)のための家具の設計をしています。それは、一番大変だったと聞いています。代々木に在米軍施設のワシントンハイツが建設され、米軍の家族が住むようになるのですが、そのときに家具を新たに設計しなければならなかった。日本人とは体格が異なり、椅子の高さも違います。行政組織がデザインし、それをもとに日本で家具をつくっていきました。これが、日本の家具産業が成長していくきっかけとなりましたが、これも当時の通産省の政策のひとつでした。戦争中はデザインなんていう言葉もなかったのですから。戦後は、そういう生活文化の鍵として、デザインが導入されていきました。
ー 克平さんは責任者として秋岡芳夫さんにも声をかけ、任に当たられたのですね。
豊口 当時のアメリカの家具の水準は必ずしも高いものではなかったのですが、米軍の大佐による検認は厳しいもので、整然かつ統一された近代的な家具や設えが求められました。全国数百の工場で生産したと聞いています。戦争で途絶えたかに見えた工芸的な仕事が復活するような手応えを感じたようです。しかしあまりの激務から、肺結核を患ってしまいます。肋骨7本を切除し、片肺を失う大手術をします。3年の入院を経て、仕事に復帰しました。
ー そのような大病を経験しながら、その後は、大学でのデザイン教育のほか、日本航空のディレクターも務められました。
豊口 日本航空がダグラスDC−8機を購入するにあたり、アメリカのダグラス・エアクラフト社まで足を運んで、日本のインテリアはこういうものであると説明して機内をつくらせる、アートディレクターをしたのです。当時のアメリカではチャイナタウンで日本のものを売っていたりしましたから、日本人が思うのとは異なる「ジャポニカ」が浸透していて、とても苦労したようです。
ー 大きなプロジェクトが続いていました。日本産業巡航見本市船さくら丸の展示設計や大阪万国博覧会協会ディスプレイデザインの顧問もされています。また、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)の理事長や、日本室内設計家協会(現・日本インテリアデザイナー協会、JID)の設立・発足など、多方面で活躍されています。
豊口 母(冨美子夫人)はその様子から「この痩身、肋骨七本切除しての片肺飛行」と贈ったそうです。
賛否のあったモントリオール万博
ー 先ほどの『型而工房から』に収録されている克平さんの文章に、印象深いものがありました。それは「非常に早くデザインの研究や研究指導に目醒めた日本であるが、それがバウハウスのような野党的精神の集団の行動として発生したものではなく、いずれも国策として産業開発、輸出振興に結びついていたところに大きな相違があり、創造へつながらない宿命的なものを感ぜざるを得ないのである」というものです。秋岡芳夫さんは産工試を「月謝のいらないデザイン大学院」と形容されていますが、優れた人材が集まる最先端の実践の場でも、官庁指導のもとのデザイン政策に限界を感じておられたのだと思いました。
1959年に通産省を退職し、最初は秋岡芳夫さんの事務所の別室を借りて、その翌年より豊口デザイン研究所としてスタートされました。協さんが入所されるのは、1963年ですね。協さんの足跡については改めて伺いますが、まずは共通のプロジェクトなどをお教えください。
産工試退官後の1959年、独立を考えて公団アパートを購入。畳と共存する収納ユニット家具を設計した。
豊口 一緒にやったのは、万博の仕事が多いですね。巡航見本市さくら丸や中野サンプラザも一緒にやりました。僕が前職を辞したのはデザイン学校をつくるお手伝いをするためだったのですが、そのタイミングで所員として名を連ねながら、オリジナルなものをやりたいと思っていましたし、父からは後を継がせるつもりはない、とはっきり告げられていました。実際に一緒に働いてみると、仕事は厳しかったですね。海外出張から帰ってくるときも、家に戻らずに直接仕事場に行くことを強いられるぐらい、厳しかった。父からは「デザイナーは人に信頼されなければいけない。特にこれからの時代は、信頼が大切になる」と言われたのを覚えています。また、「絶対に約束の時間に遅れるな」と「人の悪口は言うな」。これも父がよく口にしていた教えです。
ー 万博のお話が出ましたので、1967年のモントリオール万国博覧会について伺います。日本館のディスプレイは賛否を呼び、仕事のうえでは病に倒れたことと、この日本館への批判が最も打撃の大きな出来事だったと振り返られています。
豊口 私たちは芦原義信建築設計研究所に協力するというかたちで、展示計画に参加しました。校倉造りの建築様式ながら近代的なデザインで、すばらしい設計でしたが、予算がそれで底をついてしまい、展示計画が白紙になってしまったのです。そこで私たちは追加の資金を捻出しながら、ささやかな予算で計画をまとめました。メーカーに頭を下げて各社が持っている機材を出してもらい展示に使ったのですが、「これでは見本市ではないか」「恥ずかしい」と批判されたのです。親父は一人で悩んでいました。
ー 『型而工房から』にはそのいきさつも包み隠さず収録されています。「モントリオール博・その後」と1章設け、当時の新聞や雑誌での評価なども含めています。克平さんは後述の結論を「このような国際的行事には政府の行政的態度、方針、目標を明確に打ち出すことである」と結んでおられましたが、それは今でも変わらずに抱えている課題で、関係したデザイナーらが追い詰められる事態は続いています。この本はアーカイブとしてもとても重要ですね。克平さんのアーカイブには、ほかにどのようなものがあるのでしょうか。
豊口 アーカイブで言うと、型而工房の椅子と図面、JISにつながった古い研究などは、千葉県の松戸市教育委員会に寄贈しています。
ー 椅子は貴重なオリジナルになりますね。“トヨさんの椅子”は天童木工が製造し、秋田県庁の応接間の椅子などに採用されました。その後、1983年に秋岡芳夫さんがモノ・モノで復刻し、今も販売されています。克平さんは、武蔵野美術大学を退職するにあたり、美術館・図書館から書誌をまとめてほしいと頼まれ、それを大学に提出されています。型而工房の椅子と"トヨさんの椅子"のリプロダクトが武蔵美の美術館・図書館に収蔵されています。 振り返ると、克平さんは型而工房時代から共感する人達とともにデザインに向きあわれてきました。克平さんのアーカイブもまた、共感する人の手で受け継がれているように感じます。本日はありがとうございました。
仕事は70歳を過ぎてから後人に託し、晩年は絵を描くことを楽しんだ。冨美子夫人の短歌とともに。
豊口克平さんのデザインアーカイブの所在
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