日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

和田 誠

イラストレーター、グラフィックデザイナー

 

インタビュー:2023年7月3日 13:30〜15:30
取材場所:888ブックス
取材先:吉田宏子さん
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜

PROFILE

プロフィール

和田 誠 わだ まこと

イラストレーター、グラフィックデザイナー

1936年 大阪市東住吉区生まれ
1957年 第7回日宣美展日宣美賞受賞「夜のマルグリット」
1959年 多摩美術大学図案科(現・グラフィックデザイン科)卒業、
    ライトパブリシティ入社(〜1968年)
1961年 NHK「みんなのうた」の初回「誰も知らない」アニメーション
1964年 短編アニメーション『MURDER!(殺人!)』制作、
    翌年第19回毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞
    横尾忠則、宇野亜喜良とともに東京イラストレーターズ・クラブ設立
1968年 和田誠事務所設立
1977年 『週刊文春』表紙開始(〜アンコール企画として継続中)
1984年 映画『麻雀放浪記』初監督、第9回報知映画賞新人賞受賞
1997年 絵本『ねこのシジミ』日本絵本賞受賞
    個展「時間旅行」クリエイションギャラリーG8/
    ガーディアン・ガーデン開催、毎日デザイン賞受賞
2011年 東日本大震災チャリティーイラストレーションを1060点制作(〜2014年)
2019年 逝去

毎日出版文化賞、ADC賞、文藝春秋漫画賞、講談社出版文化賞ブックデザイン賞、講談社出版文化賞さしえ賞、山路ふみ子文化財団特別賞、ブルーリボン賞、講談社エッセイ賞、菊池寛賞、産経児童出版文化賞、日本宣伝賞山名賞、淀川長治賞、造本装幀コンクール展日本書籍出版協会理事長賞、日本漫画協会賞ほか、受賞多数

和田誠

Description

概要

和田誠をひと言で表すと、「多才」という言葉に尽きるだろう。イラストレーション、グラフィックデザイン、アートディレクション、装丁、映画(監督、脚本)、絵本、アニメーション、作詞・作曲、俳句、落語など、83歳の生涯のなかで幅広い分野に取り組み、どの分野も一級との定評がある。本人曰く仕事は「芋づる式」につながっていったというように、探究心や好奇心のおもむくままに、自分の好きなことに邁進していった幸せな人生を送ったのではないかと思う。しかも、雑誌『話の特集』(アートディレクション)はADC賞、映画『快盗ルビイ』(監督・脚本)はブルーリボン賞、絵本『ねこのシジミ』(作・絵)は日本絵本賞、幅広い活躍に対して菊池寛賞など、名誉ある賞を数々受賞し、その幅広い活躍ぶりは目を見張るものがある。そのなかで和田が軸足を置いて展開してきたクリエイションは、イラストレーションであり、デザイン史において特筆すべき点は、イラストレーターの地位の確立と活躍の場を広げることに尽力した一人ということだ。
和田は、すでに4歳のときに絵と文字で構成された物語を描いていた。多摩美術大学図案科(現・グラフィックデザイン科)在学中には、描いたポスター「夜のマルグリット」が日宣美(日本宣伝美術会)展で受賞し、雑誌やテレビコマーシャルの仕事が舞い込んだ。卒業後は、日本初の広告制作専門会社ライトパブリシティに入社。同じ銀座にある日本デザインセンターにいた同世代の横尾忠則と宇野亞喜良とは、互いにイラストレーターとして夢をよく語り合った。60年代当時、イラストレーションの仕事は広告業界では認知されていたが、出版業界でのイラストレーターの起用はほとんどなく、本や雑誌の装丁や挿絵は、挿絵画家や装丁家が手がけるものだったという。
そこで和田と横尾、宇野は先達や同志に声をかけ、1964年に「東京イラストレーターズ・クラブ」を発足。そのメンバーには、大橋正、早川良雄、灘本唯人、伊坂芳太良、粟津潔、柳原良平、毛利彰、山口はるみ、原田維夫らがいた。「年鑑や展覧会が目に見える活動ではあったが、それらを通じてイラストレーターという存在を多くの人に認識してもらえたことがより大きい事柄だろう」と、和田は著書『銀座界隈ドキドキの日々』(文藝春秋、1993)で語っている。現に、和田は雑誌『週刊文春』などの表紙に長年携わり、単行本、文庫、新書の装丁は2000冊以上手がけた。
和田のアーカイブ資料は、和田誠事務所にほぼすべて保管・管理されていた。原画、版下、版画、絵画、ポスター、デザイン制作物、資料、書籍などがあり、2020年3月に多摩美術大学アートアーカイヴセンター(AAC)と寄贈契約が結ばれ、総数50,000点以上が寄贈された。このAACの資料を含む約2,800点の作品をもとに、2021年の東京オペラシティ アートギャラリーを皮切りに、「和田誠展」の巡回展が開催されている。この展覧会の企画監修、図録の編集を行った生前の和田誠をよく知る888ブックスの吉田宏子さんに話を伺った。

Masterpiece

代表作

ポスター

「夜のマルグリット」(1957)
新宿 日活名画座(1959〜1968)
草月アートセンター(1960〜)
国際科学技術博覧会 つくば'85(1985)
シアターアプル(1982〜1998)
かつしかシンフォニーホール(1992〜2002)

 

ロゴ・マーク

ライトパブリシティ(1960)
毎日デザイン賞(1963)
東京イラストレーターズ・クラブ(1966)
DUG(1968)
ホクレン農業共同組合連合会(1973)
東京国際映画祭(1984)
松竹歌劇団(1991)
日本アニメーション協会(1997)
日本新薬(2007)
東京イラストレーターズ・ソサエティ(2013)

 

雑誌

『話の特集』アートディレクション(日本社など、1965〜1995)
『スイングジャーナル』表紙(スイングジャーナル、1966〜)
『週刊サンケイ』表紙(産業経済新聞社、1968〜1973)
『週刊文春』表紙+デザイン(文藝春秋、1977〜)

 

書籍(装丁、挿絵)

『ジャズをたのしむ本』(編・寺山修司・湯川れい子、久保書店、1961)
『気まぐれロボット』(文・星新一、理論社、1966)
『ぐうたら人間学』(著・遠藤周作、講談社、1972)
『窓ぎわのトットちゃん』(著・黒柳徹子、装画・いわさきちひろ、講談社、1981)
『マザー・グース 1〜4』(訳・谷川俊太郎、講談社、1981〜1985)
『村上春樹全作品1990〜2000』(講談社、2004)
『闊歩する漱石』(著・丸谷才一、講談社、2000)

 

絵本

『ぬすまれた月』(岩崎書店、1963) 『密林一きれいなひょうの話』(文・工藤直子、銀河社、1975)
『あな』(文・谷川俊太郎、福音館書店、1976)
『ねこのシジミ』(ほるぷ出版、1996)
『どんなかんじかなあ』(文・中山千夏、自由国民社、2005)

 

新聞

「今週の本棚」(毎日新聞社、1992〜2018)
「三谷幸喜のありふれた生活」(朝日新聞社、2000〜)

 

広告

ピース(1961-64)
キヤノン(1965)
カゴメ(1973)
日本新薬(1971〜1996)
NTTトークの日(1986-1994)
富士通(1991〜1992)

 

アニメーション

『誰も知らない』(NHK みんなのうた、1961)
『MURDER!(殺人!)』(草月アートセンター、1964)
『ゴールデン洋画劇場』(フジテレビ、1981)
『怪盗ジゴマ  音楽篇』(東宝、1987)

 

映画監督

『麻雀放浪記』(東映、1984)
『快盗ルビイ』(東宝、1988)
『怖がる人々』(松竹、1994)
『真夜中まで』(東北新社、2001)

 

著書

『和田誠肖像画集 PEOPLE』(美術出版社、1973) 『お楽しみはこれからだ』1〜7(文藝春秋、1975〜1997/国書刊行会、愛蔵版2022) 『銀座界隈ドキドキの日々』(文藝春秋、1997) 『白い嘘』(梧葉出版、2002) 『和田誠 時間旅行』(メディアファクトリー、2000/玄光社、改訂版2018) など200冊以上

和田誠作品

Interview

インタビュー

「記念館ができるといい」、「僕がいなくなったら、もういいよ」とも。
そのときどきで気持ちが変わられたかもしれません

和田誠との出会い、人物像について

 先日は京都の美術館「えき」KYOTOでの「和田誠展」巡回展をご案内いただき、ありがとうございました。和田さんは幅広いお仕事をされているので、展示作品がバラエティに富んでいて見応えがありました。吉田宏子さんは、この展覧会の企画に携わられたそうですが、以前は玄光社の『イラストレーション』の編集者だったそうですね。

 

吉田 そうです。和田さんと初めて仕事をしたのは、編集部に入ってすぐのことでした。新人はイラストレーターの登竜門である誌上コンペ「ザ・チョイス」を担当するのですが、その審査員を和田さんが務めてくださったんです。それが1994年なので、長いお付き合いになります。お忙しい和田さんがとても熱心に審査してくださったのが印象的でした。和田さんは、複数の審査員が多数決で決めるような審査は引き受けなかったそうなのですが、チョイスは「一人で審査する」ものだったので引き受けてくださったとのことでした。
その後、和田さんからイラストレーターの仕事場に行って対談するという連載企画を提案いただき(「仕事場対談」)、2カ月に1回、取材に同行し、連載4年のあいだに、山本容子さん、ひびのこづえさん、南伸坊さん、湯村輝彦さんなど、計24名の仕事場に伺いました。その間にも和田さんのお仕事を取材したり、イベントに行ったり、いろいろなイラストレーターの展覧会のオープニングパーティでご一緒したり。

 

 吉田さんから見て、和田さんはどのような方でしたか。

 

吉田 初めてお会いしたとき、和田さんは60歳前でした。和田さんは愛想を振りまくという感じではないので、私が緊張していることもあって、最初はちょっと怖かったです。でも実際にお仕事をすると、やさしいし、疑問にはなんでも答えてくださってとても親切でした。駆け出し編集者の私は和田さんに育てていただいたと言っていいくらいで。人に対する態度が肩書きで変わるようなことがまったくないので、現場でがんばって仕事をしていれば、新人、ベテラン関係なく接してくださいます。晩年になるにつれて、どんどん穏和な様子になられて、晩年の和田さんに初めて会われた方は、「にこやかで柔らかくてやさしい」とおっしゃいます。若いイラストレーターに対しても同じで、彼らにとっては雲の上のような人ですが、とても気さくに対応されていましたし、表参道界隈のギャラリーで若い方の作品もよくご覧になっていました。
スポーツ以外のことは何でも知っている博識で多才で、頭の回転もすごく速い。そして、とても世話好きな方でした。イラストレーターの灘本唯人さんが紫綬褒章を受章されたときのパーティでは、構成を考えて司会をされるなど、その人のために、人を楽しませるために労を惜しみませんでした。和田さんが『白い嘘』という句集を出されたとき、出版記念パーティが東京・青山の中国風家庭料理店「ふーみん」で開かれました。50人くらい出席者がいらしたと思うのですが、和田さんは本の扉に参加者一人ひとりに宛てた句を書かれ、当日、来られなかった方にも後日、郵送されていたのには驚きました。
東日本大震災のときには毎週10枚ハガキ大の絵を描いて販売し、1060枚すべての売り上げを寄付されたこともありました。

 

 ブランドの服に身を包むデザイナーの方も多いですが、和田さんはいかがでしたか。

 

吉田 服装は無頓着と言いますか、ジーンズにTシャツ、ニューバランスのスニーカー。キャップを被って、ゲラ(校正刷り)などを入れた文藝春秋の手提げ袋だけを持っているのが定番でした。還暦のときにプレゼントされたスタジアムジャンパーも愛用されていましたね。どこに行くにもジーンズでしたが、「仕事場対談」の連載記事で、尊敬する大橋正さんの仕事場にお邪魔する際には、ネクタイをしてジャケットを羽織られていました。

 

 吉田さんはほかにもさまざまなイラストレーターの方と会われたと思いますが、そのなかでも特に和田さんとお親しかったのですか。

 

吉田 そうですね。玄光社を退職した後も和田さんと一緒に本をつくらせていただいたりして、お付き合いが続きました。退職後、編集者たちと3人で小さな出版社をつくったのですが、その会社のロゴを和田さんにデザインしていただきました。デザイン料はビアガーデンでビールをごちそうしただけ。その後、2015年に一人でアート系出版社を立ち上げてギャラリースペースを持ったので、今度はギャラリーのロゴを和田さんに無償でデザインしていただきました。ロゴに限らず、和田さんは無償のお仕事もかなり多かったようです。

 

 

仕事に対する姿勢、取り組み方

 

 和田さんの事務所に何度も足を運ばれていたと思いますが、スタッフは何名くらいいらっしゃったのでしょう。

 

吉田 3人のときもありましたが、2人のときが多かったと思います。ライトパブリシティ時代からアシスタントをされていた方や、20年以上アシスタントをされていた方もいます。和田さん自身はすべて手作業でしたが、最晩年はアシスタントの方がデジタル入稿のための作業をされていました。

 

 事務所ではどのような体制で、どのように働かれていたのでしょうか。例えば、ボスである和田さんが陣頭指揮を執って、アシスタントが清書するという感じだったのでしょうか。

 

吉田 基本的にはすべて和田さんが制作されています。デザインもイラストレーションも。版下(製版用原稿)にCMYK(印刷で使用する色)の色指定をするのも和田さんです。詳細まではわかりませんが、版下にトンボ(断裁位置を記すマーク)を引くとか、版下をリサイズするとか、紙焼き(線画や手描き文字を印画紙に焼き付けたもの)をつくったりする作業は、アシスタントの方がやられていたと思います。打ち合わせも和田さんだけでした。
アシスタントの方のパソコンに仕事の内容と締切日が書かれた、短冊のような細長い紙がたくさん貼ってあったのですが、仕事が終わったらはがして、下の短冊が繰り上がる、まるでラーメン屋さんの注文のような感じで、ものすごい数が貼ってあるのを見て驚いた記憶があります。雑誌『デザインの現場』で1991年から2年間連載していた「仕事場日記」で仕事の様子がうかがえるのですが、2日間で『週刊文春』の表紙を描き、色校正を3点、装丁を1冊、挿絵10数点を描くこともあったくらいです。あまりにも仕事の量が多くて早いので、和田さんはじつは複数人いるのでは? と、編集者仲間で冗談を言っていたくらいです。
事務所には自宅から40分くらいかけて歩いて行かれていました。11時ぐらいに到着して、夕方くらいには終えて、そのあとは展覧会のオープニングパーティに行ったり、友人知人に会ったり、夜から始まる対談取材があったり、コンサートに行かれたり。土日や祝日も出社されていて、電話が鳴らないし一人なので集中して描けるとおっしゃっていました。ご自宅ではゲラを読んだりすることはありますが、イラストレーションを描くことはなかったようです。

 

 吉田さんは事務所の内情をよくご存知ですね。頻繁に行かれていたのですか。

 

吉田 仕事の状況によっては毎日のように通っていた時期もありました。打ち合わせや色校正をお持ちしたり。和田さんは電話だけですませたり、宅急便やバイク便のみのやり取りをよしとせず、直接対面で打ち合わせをしてイラストレーションやゲラを手渡しされていました。仕事がとにかく早くて、締め切り日よりも前に「もうできているから、取りに来て」と和田さん本人から直接電話がくることも度々でした。
打ち合わせ自体は、ほんの数分。そのあとは他愛もない雑談をしたり。私の場合はイラストレーターの誰々の仕事がよかったとか、あの展覧会見た? とか、和田さんがお好きだったベン・シャーンやソウル・スタインバーグの画集を見せてもらったり。映画や音楽のお仕事の方々とはまた違ったお話をされていたのだと思いますが、マニアックな話ができる方とは、打ち合わせ3分、雑談2時間なんていうこともあったようです。

 

 和田さんはイラストレーションを描くときに、下絵やアイデアスケッチのようなものを描かれていたのでしょうか。

 

吉田 下描きはされていました。2010年にたばこと塩の博物館で開催された「和田誠の仕事」展のために制作風景の撮影をしたときは、本番の用紙に鉛筆で下絵を描き、上からロットリングや絵具で描画されていました。ですから本画のほかに下絵が残っていることはほとんどないのですが、カラーインクの作品は別です。鉛筆の下絵の上からカラーインクで直に塗ると色が濁ってしまうので、下絵を透過させて描いていました。そのため下描きが残っています。
事前にラフを何種か出す、というような仕事のやり方はされていませんでしたから、広告の仕事は少なかったですね。自分のイラストレーションは自分でデザインするということを徹底されていました。例外的にライトパブリシティ時代からの友人、アートディレクターでデザイナーの細谷巖さんのように、信頼している人の場合は広告の仕事は引き受けていました。

 

和田誠 資料 和田誠 資料

和田誠の事務所の仕事机(左)、グワッシュを使った作画風景。動画「ただいま制作中」(2010)より。
提供:たばこと塩の博物館、Photos by Hiroko Yoshida

 

 

 たしかに、和田さんはコマーシャル関連のお仕事は少ないですね。最初の頃は、タバコの「ハイライト」のパッケージやキヤノンのカメラの新聞広告などをされていましたけれど。

 

吉田 ライトパブリシティ時代は、広告の仕事が中心でしたから。ただ、入社当初は色校正の段階でクライアントに見せて、文字の間違いだけをチェックされるというぐらいだったのが、時代が変わってクライアントが途中段階でチェックを求めたり、ラフも何案か出してほしいと要望が出るようになって、広告の制作環境が変わった。そういうやり方は向いてないとおっしゃってますね。

 

 その当時、会社を辞めてフリーになった人のなかには、人の言いなりになってつくるのは嫌という人も多かったかもしれないですね。その一方で、和田さんは自分がやりたいと思っている仕事を引き寄せる才能のようなものもあったと思います。映画やジャズのポスター、レコードジャケット、本の装丁と、自分が好きな分野の仕事を数多く手がけられていますね。

 

吉田 ひとつの仕事が次の仕事につながって、それが呼び水となって、ほかの分野の仕事を引き寄せる。和田さん曰く「芋づる式」に広がっていったんですね。絵本の絵を描くうち、文章も書きたくなり、童話を創作した延長で童謡の作曲を行い、ミュージシャンとの関わりから、コンサートのポスターを制作、さらに舞台構成に演出、映画監督まで。
和田さんが映画プロデューサーの角川春樹さんとバーで飲んでいたときに、次に何をやりたいかと聞かれて、「映画のシナリオを書きたい」と言ったら、映画監督をすることになったというのは際たる例ですよね。合計で映画4本、短編1本の監督と脚本を手がけられて、『麻雀放浪記』は報知映画賞新人賞、『快盗ルビイ』はブルーリボン賞を受賞されました。

 

 編集者のお立場から、吉田さんから見て、和田さんの仕事のどういうところに魅力を感じますか。

 

吉田 こちらが提示した内容に則して誠実に向き合って考えてくださいます。かといって依頼側の想像の範囲に収まるようなものではなく、アイデアが盛り込まれたものをあげてくださるのがすごいところです。派手さはないけれど、しっかり浸透する作品。装丁でも劇場のポスターでも、内容に即して考えて、画材もアクリル絵具、グワッシュ、カラーインク、色指定、版画と使い分けてタッチもさまざまでした。それに時代を経ても古臭くならないモダンさ、普遍性があると思います。『週刊文春』の表紙1号目は40年以上前のイラストレーションですが、今見てもまったく古さを感じさせません。

 

 

「和田誠展」プロジェクトの生まれた経緯

 

 「和田誠展」の展覧会のプロジェクトが生まれた経緯を教えていただけますか。

 

吉田 2019年10月に和田さんが亡くなられたあと、2020年3月に「和田さんを囲む会」という、お別れ会的なものをすることになり、お手伝いをしていました。新型コロナウイルスのパンデミックが起こって流れてしまったのですが、その間、ご遺族や事務所とも頻繁にやり取りをしているなかで、私から提案しました。展覧会の企画制作をしているブルーシープとよく仕事をしていたこともあり、ブルーシープが協力してくれたら「展覧会をつくる」こともできるのではないかと。幸いご遺族や事務所にご快諾いただき、展覧会実施に向けて歩み出すことができました。
和田さんはこれまで多数の展覧会を開催されていますが、グラフィックデザイン、絵本、映画など、限られたジャンルに特化した展覧会が多く、全貌をまとめたものはほとんどありませんでした。亡くなられてからいろいろな方にお話を伺っていると、映画関係の方は、絵本の仕事についてはあまり知らないなど、親しく交流されていた方々でも、仕事の一側面しかご存知なかった。そこで和田さんの多彩な面をまとめて見せることを軸にしました。展覧会の副題を「あれもこれもそれも」としているのは、生活のいろいろな場面で知らない間に和田さんの仕事に接しているということを伝えたかったからです。
最初の会場は東京オペラシティ アートギャラリー。主に現代美術の展示ですが、谷川俊太郎展も開催されていましたし、武満徹さんと和田さんが親しいなど、意外に接点も多い場所でした。

 

和田誠 資料 和田誠 資料

「和田誠展」東京オペラシティ アートギャラリーの展覧会風景(2021)
Photos by Nao Shimizu

 

 

 展覧会準備にはどれくらいの期間がかかりましたか。

 

吉田 2020年初頭に正式にご遺族、事務所からご了承いただき、企画書を美術館に提出、2021年10月に開催されたので、準備は1年半くらいです。

 

 展覧会と図録制作をしていく際に、実行委員会のようなものをつくられたのですか。

 

吉田 東京オペラシティ アートギャラリーの学芸員の福島直さん、ブルーシープの草刈大介さん、佐藤万記さんを中心にクリエイションギャラリーG8に勤めていた伊藤奈津子さんにも参加いただき、準備が始まりました。週2、3日くらいのペースで事務所に通って作品や資料のスナップを撮って調査しましたが、あまりにも膨大なため、その作業に1年くらい費やしたかもしれません。同時期に多摩美術大学アートアーカイヴセンターへの寄贈も始まっていました。

 

 図録『和田誠展』に掲載した作品は、アーカイブ資料全体の1/10程度だそうですね。展覧会もそうですが、膨大な数の中からどの作品を選ぶかというのは、吉田さんが中心になって決められたのですか。

 

吉田 展覧会は30のトピックを軸に作品をセレクトしていて、トピックと主要作品は私が決めていますが、制作メンバーで最終的にまとめています。選出で参考にしたのはこれまで出版されていた作品集ですが、なかでも私が編集した『時間旅行』(メディアファクトリー、2000)によるところが大きいです。
1997年にクリエイションギャラリーG8とガーディアン•ガーデンのタイムトンネルシリーズ「和田誠 時間旅行」という、和田さんの幼少期の絵から最近の仕事まで、年代順に作品を並べた展覧会がありました。その展示がすごくおもしろかったので、書籍にしましょうと和田さんに提案してできたのが『時間旅行』です。展示作品よりもボリュームアップし、ジャンル別に時系列で子ども時代の作品や代表作を紹介しています。その後、2018年に装丁やロゴマークなどのジャンルを追加した改訂版『定本 時間旅行』(玄光社)を編集しました。この本の制作過程で、和田さんの代表的な仕事をまとめているので、それが大きな助けになっています。

 

 『時間旅行』の制作のなかで、和田さんからこの作品の画像を誌面で大きくしたいというようなご希望もあったのですか。

 

吉田 私が提案するより先に和田さんが作品セレクトやレイアウト案をつくってくださいました。私の役割は掲載作品の追加希望を出したり、原稿を整えるくらいで。「和田誠展」では『時間旅行』にはなかった作曲やエッセイなど、新たなジャンルを追加し、また幅広い年齢層の来場者に楽しんでもらえるよう意識した部分もあります。例えば似顔絵の人選は最年少メンバーに率先して選んでもらったり。『時間旅行』に載っていたものはすべて和田さんが気に入っていた作品なので、「和田誠展」の図録をつくるときには、全作品ではないですけれど、それらを外さないように心がけました。 準備の過程では、あらためて、仕事量の多さ、クオリティの高さ、幅広さに驚かされてばかりでした。中学1年生で雑誌に漫画の連載をもつとか、タバコ「ハイライト」のパッケージデザインをしたのが23歳という若さだった、「みんなのうた」の初回のアニメーションを和田さんが担当した、20代で『話の特集』のアートディレクターを始め、後のクリエイターに多大な影響を与えたとか。そこで年齢と仕事の関係をわかりやすく提示しようと4歳から83歳まで1年ごとのビジュアル年表柱をつくりました。

 

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図録『和田誠展』ブルーシープ(2021)
Photos by Nao Shimizu

 

 

 

資料は多摩美術大学アートアーカイヴセンターに寄贈された

 

 ここからアーカイブの話に移りたいと思います。和田さんの原画、版下、デザイン制作物、一次資料類といった約50,000点以上の作品やアーカイブ資料が多摩美術大学アートアーカイヴセンターに寄贈されたそうですね。2023年4月3日から5月13日まで同大学内の竹尾ポスターコレクションギャラリーで開催された和田さんのアーカイブ資料の第1回目の展示「和田誠の世界Ⅰ」を拝見しました。「映画」をテーマに、完成品に至るまでのプロセスがわかる資料がさまざま展示されて、とても興味深かったです。小さな文字で書かれたインデックスがたくさんつけられたファイルや、プロジェクトごとにまとめているのか、A4サイズくらいの箱があり、その中に封筒が何枚か入っていて資料が小分けされていました。また、チャールズ・チャップリンのイラストレーションを描くために集めたと思うのですが、雑誌記事からチャップリンの写真だけを切り抜いたものがたくさんあったり、自分が観た映画の内容や俳優の名前などを詳細に書いたノートがあったり。版下にかけられたトレーシングペーパーに赤ペンで色指定を書き入れられていましたが、デザイナーはみなさんお忙しいので書きなぐったような文字だったり、古いものですとトレペが折れたり破れたりしていることも多いですが、とても丁寧に書かれていて、状態もとてもきれいでした。保管をきちんとされていたのでしょうね。

 

吉田 和田さんの事務所では、資料の整理をとてもきちんとされていました。事務所は3階建ての自社ビルで、1991年くらいに建てられたものです。1階には原画やポスターの完成品、仕事の参考資料、ご自身の著書や献本された本などが置かれていました。例えば、似顔絵の参考資料は、あいうえお順でタレントや俳優ごとに資料がファイリングされていました。2階は打ち合わせスペースで、壁一面に和田さんが装丁した2000冊以上の本があり、反対の面には著書やベン・シャーンなどの画集が並んでいて、海外のミュージカル映画のポスターコレクションや映画のリール(ロール状の映像フィルム)などがありました。3階は制作場所で、限られた人しか入れない聖域のような場所。和田さんとスタッフの机、コピー機やタイポグラフィの資料、仕事のアーカイブファイルやフランク・シナトラなど仕事中にかけるCDなどもありました。和田さんの机は学習机のような、別段、大きくもないシンプルな机でした。

 

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和田誠事務所内に保管されていた資料。(左から)原画、版下ファイル、フィルム。
Photos by Hiroko Yoshida

 

 

 資料はすべて事務所の中で保管されていたということですね。スタッフの方が整理されていたのでしょうか。

 

吉田 整理作業はスタッフですが、最初に資料整理を指示されたのは和田さんだと思います。新聞や雑誌の連載記事を切り抜いてまとめた仕事ファイルは500冊以上、そのほかにも取材された新聞記事などのファイルなどもありました。仕事の管理簿があり、いつ、誰からの依頼か、どんな仕事か、いつ上がったかということがデータベース化されていました。作品整理にも、「和田誠展」準備過程でも、大変役に立ちました。

 

 「和田誠展」では、和田さんが幼少期に描いた絵や絵日記、絵物語仕立てのもの、マンガ風のコマ割りをしているもの、本を意識して奥付けまで書いたものなども展示されていましたが、これらはどこで保管されていたのでしょう。

 

吉田 すべて事務所で保管されていました。4歳のときに描いた絵物語はお母様が綴じられたようです。築地小劇場の創設メンバーの一人で、和田さんが子どもの頃は日本放送協会大阪中央放送局のラジオのディレクターをされていたお父様が持ち帰っていた番組表のプリントの裏に描かれていました。幼少期からの作品がきちんと残っていますし、友人が大事に保管されていたものもありました。先生や同級生の似顔絵や漫画を描いていた授業用のノートや、映画日記が何冊もあり、それらを見ると、本当に子どもの頃から好きだったものが、ずっとつながっていたということがよくわかります。

 

和田誠 資料 和田誠 資料

4歳頃に描いた絵を母親が綴じてくれた「サムライトヘビトオバケ」(1940、左)、高校2年生のときに描いた「先生たちの似顔による時間割」(1953)。所蔵: 多摩美術大学アートアーカイヴセンター

 

 

 先日、東京・渋谷区の渋谷区立中央図書館4階の「和田誠記念文庫」も拝見してきました。事務所で実際に使用されていた本棚や打ち合わせ用のテーブルが置かれていましたが、それらは和田さんが特注されたものだそうですね。映写機などの愛用物もありました。約400冊の自著本、約2000冊の装丁本、約1200冊の資料の計3700冊という、そこにも相当な数の本が入っています。どういう経緯で寄贈されることになったのかご存知ですか。

 

吉田 寄贈先をリサーチしていた事務所の方が、公立図書館にある池波正太郎記念文庫のように和田さんの記念文庫ができないかと、相談したのがきっかけです。事務所がこの図書館の近くにあった縁もあり、実現にいたりました。書籍のほかにもポスターやグッズ、愛用品の一部も寄贈されていて、ガラスケースや壁面のミニ展示は定期的に変わります。和田さんの仕事やコレクションの一部をまとめて見られる場所が、一般の方がいつでも簡単にアクセスしやすいところにできて本当によかったです。椅子も机も実際に使用されていたものなので、和田さんと直接お付き合いのあった方は特に感慨無量だと思います。

 

 

和田誠 資料 和田誠 資料

東京の渋谷区立中央図書館4階「和田誠記念文庫」には、事務所で使用していたテーブルや椅子が置かれている。

 

 

 それでは、和田さんのアーカイブ資料は、多摩美術大学アートアーカイヴセンターと渋谷区立中央図書館、それから和田誠事務所やご自宅にもあるのでしょうか。

 

吉田 事務所はもう引き払ってしまいましたが、ご自宅に著書や一部のポスターが保管されています。

 

 ポスターなどは、DNP文化振興財団にも所蔵されているでしょうか。

 

吉田 おそらくそうだと思います。また和田さんがこれまで展示をしたことのある美術館や今回の「和田誠展」の巡回先にも所蔵館があります。欧米の映画のポスターやリールのコレクションは国立映画アーカイブに、レコードコレクションの一部は村上春樹ライブラリーに寄贈されています。国立映画アーカイブでは2023年12月12日から2024年3月24日まで「和田誠 映画の仕事(仮題)」が開催される予定です。また寄贈が一通り終わったあとに残されたものはお付き合いのあった方々に事務所に来ていただいて、形見分けのようなかたちでお持ち帰りいただいていました。

 

 お話を伺っていると、アーカイブ資料の寄贈に関してとてもスムーズに進んでいるような印象を受けるのですが、実際にはどなたが中心になって動かれたのですか。

 

吉田 主に事務所の方です。とにかく膨大な量でしたから、大変だったと思います。形見分けの段階では、お付き合いのあった編集者などがお手伝いしています。お別れ会はできませんでしたが、親しい方々が事務所に再訪して和田さんの思い出を語り合うことができてよかったですね。

 

 アーカイブについて、日本では近年、議論されるようになりましたが、和田さんご自身はご存命のときに資料を残して、アーカイブ化するという意識をおもちだったのかどうか、吉田さんはご存知ですか。

 

吉田 事務所の様子を見ると自分の仕事をきちんと整理してまとめておく、ということにはかなり意識的でいらしたと思います。
晩年には「記念館のようなものができるといい」と聞いたこともありますし、「もう、僕がいなくなったら、いいんだよ」とおっしゃっていたのを聞いたことがあるという方もいます。その時々で気持ちが変わられたかもしれませんが。
「和田誠展」の来場者がとても多く、みなさん楽しんでくださっている様子を見ると、記念館があったらいいなという気持ちはありますが、継続するのはとても大変なことなので、行政の協力が必要だと個人的に感じています。和田さんを身近に感じられる場所として、図書館があるのは本当によかったです。

 

 最後にお伺いしたいのですが、吉田さんは『イラストレーション』の雑誌で、和田さん以外にも多くのクリエイターともお付き合いをされてきたと思うのですが、そのなかで編集者としての視点で、その時代のなかでの和田作品の位置付けについて、どのようにお考えですか。

 

吉田 和田さんが仕事を始めた頃はイラストレーションの黎明期でしたし、注目されやすくいろいろな仕事にチャレンジしやすい恵まれた時代だったと思いますが、和田さんほど多方面で活躍しながら、いずれも第一級の仕事を残し、それが生涯続いていたという方はほかにはいないと思います。日常生活のなかに普通にあって、日本に住んでいるほとんどの人が人生のどこかで和田作品に巡り合っている。これは本当にすごいことだと思います。活動初期は先駆者であったし、その後は時代を超えた作品を生み続けました。
和田さんの仕事を知れば知るほど、その偉大さがわかるのですが、生前もっとお話を聞いておけばよかったなと思いますし、雑談レベルで相談していた仕事も形にできればよかったと悔やまれます。

 

 亡くなられた方の回顧展を企画する場合は、身内やスタッフの方がされる場合が多いですけれど、吉田さんのような外部の方でここまで尽力されるケースはあまりないと思います。逆に客観的なお立場だから、いいのかもしれませんね。また、ここまで深く関わられる人に巡り会うこともなかなかないと思いますので、吉田さんにとっても幸せな出会いだったのではないでしょうか。

 

吉田 本当にありがたいことだと思っています。

 

 「和田誠展」は今後も巡回される予定なのでしょうか。

 

吉田 「和田誠展」の巡回は、9月16日から11月5日まで開催される愛知県の刈谷市美術館で終了しますが、多摩美術大学アートアーカイヴセンターでは定期的にアーカイブ資料の企画展を開催されると聞いています。
和田さんのお仕事はイラストレーションやデザインという、生活のなかにあるアートなので、これからも多くの人の目に触れて、楽しんでもらえる機会ができるだけあるといいなと思います。今後も微力ながらお手伝いできればと思います。

 

 本日は貴重なお話をありがとうございました。

 

 

 

和田誠さんのアーカイブの所在

問い合わせ先

多摩美術大学アートアーカイヴセンター https://aac.tamabi.ac.jp

和田誠公式Webサイト https://wadamakoto.jp