日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
秋岡芳夫
工業デザイナー、生活デザイナー
インタビュー:2018年7月27日 10:30〜12:00
場所:目黒区美術館
取材先:降旗千賀子(目黒区美術館 学芸員)
インタビュアー:関康子、石黒知子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
PROFILE
プロフィール
秋岡芳夫 あきおか よしお
工業デザイナー、生活デザイナー
1920年 熊本県生まれ
1953年 河潤之介、金子至とともにデザイン事務所 KAK(カック)を設立
1969年 KAKを独立し、個人事務所「104会議室」を開設
1970年 工芸デザイン運動の拠点として、
東京・中野に「モノ・モノ」を創設
1981年 自宅内にドマ工房を新設
1997年 逝去
Description
概要
秋岡芳夫は、工業デザイナーや生活デザイナーのほかに、童画家、木工家、著述家、教育者、プロデューサー、道具の収集家など、さまざまな肩書きをもち、戦後のデザイン黎明期から多彩な活動を展開した。「消費者をやめて、愛用者になろう」と社会に投げかけ、つくり手と使い手の本来の関係性を取り戻すべく、人の手から生まれる永く愛用でき生活を豊かにするものづくりを追求した。そうした秋岡の姿勢や考えに賛同する信奉者は多いが、実はデザイン界でも一般世間にもその名が十分知られているとはいえない。おそらくその理由には、50年代から60年代には主にメーカーの工業デザインを手がけ、70年代以降は地場産業とのものづくりや地域活動に尽力するなど、常に個人名を前面に出さず匿名性を大事にしたことが挙げられるかもしれない。
戦後のデザインに大きな足跡を残した秋岡とKAKのアーカイブの調査については、それまで誰も手を入れたことがなかった。2000年代に入ってから目黒区美術館が初めて着手し、2009年からご遺族の協力を受けて自宅に残っていた膨大な資料の整理を開始し、2011年に同館で開催した展覧会「DOMA 秋岡芳夫展−モノへの思考と関係のデザイン」を通じて、実に幅広い活動を行い、あるべきデザインと生活の関係の指標を唱えてきた秋岡の全体像が明らかになった。
戦後の進駐軍の家具についての仕事や、童画や玩具、版画など、工業デザイン以前、または同時に行っていた知られざる仕事が数多く残っていたため、調査も多岐にわたった。童画、工業デザイン、家具デザイン、木工作品、収集した大工道具や生活道具、雑誌の付録教材、ライフワークとして3000から5000個も制作したという竹とんぼ。自身のものづくりに対する考えを記した著書も多数ある。これから着手する資料もまだあるとのことで、目黒区美術館では今後も調査を続けていく予定だという。秋岡のアーカイブの整理に携わった同美術館学芸員で調査の中心人物である降旗千賀子氏にお話を伺った。
Masterpiece
代表作
<プロダクト>
「クライスラーラジオキャビネット」KAK+佐藤電気産業(1950〜1960)、
「ライラック」KAK+丸正自動車製造(1950)、
「ミノルタ」KAK+千代田光学精工(現・コニカミノルタホールディングス)(1958頃〜)、
露出計 KAK+成光電機工業(現・セコニックホールディングス)(1955頃〜)、
『科学』の教材 KAK+学習研究社(現・学研ホールディングス)(1964〜)
<家具>
「あぐらのかける男の椅子」(1980)、
「組み合わせて使える親子の椅子」(1981)
<著書>
『ABCの歴史』文:勝見勝、装丁・挿絵:秋岡芳夫 さ・え・ら書房(1953)
『割りばしから車(カー)まで 消費者をやめて、愛用者になろう!』柏樹社(1971)、
復刊ドットコム(2011)
『暮しのリ・デザイン』玉川大学出版部(1980)
『竹とんぼからの発想―手が考えて作る』講談社・ブルーバックス(1986)、
復刊ドットコム(2011)
『木工―指物技法―木工のおもしろさを知るための高級技法入門』美術出版社(1993)
他多数
<関連書籍>
『DOMA 秋岡芳夫−モノへの思想と関係のデザイン』目黒区美術館編、美術出版社(2011)
Interview
インタビュー
時間をかけて、根気よく地道に整理していくことが大事
関わった方にとにかくインタビューしました
降旗 最近、アーカイブ活動の話をあちこちで聞きますが、増えているようですね。東京造形大学の沢良子先生が、桑澤洋子さん(東京造形大学や桑沢デザイン研究所の創立者で服飾デザイナー)の資料を調べられて、年初に書籍(『ふつうをつくる 暮らしのデザイナー 桑澤洋子の物語』美術出版社、2018)を出版されたり、慶應義塾大学アート・センターでは、土方巽さんや瀧口修造さんなどの資料を収蔵していて、その整理も本格的に行われています。ちょうど今、アーカイブについてみな考える時期なのでしょうか。こちらのNPOの団体では、アーカイブに対する考え方の指針のようなものはあるのですか。
― とにかくご存命のうちにお話だけ聞いておこうというのが、この活動を始めたそもそもの発端でした。どのような資料をお持ちか、保管方法や収蔵先、日本にデザインミュージアムがないことに対するご意見やお考えなどもヒアリングしています。そういう声がある程度、まとまった段階で何かにつなげられればと思っています。
降旗 そうなったらすばらしいですね。私もじつは秋岡芳夫さんのことを調べるにあたってヒアリングは大事だと思い、いろいろな伝手をたどって関わった方にお目にかかり、とにかくインタビューしました。
― ヒアリングもひとつの貴重なアーカイブになると思います。降旗さんはかなり以前から秋岡さんの資料を調べられていましたが、そのきっかけは何だったのですか。
降旗 秋岡さんは目黒区、そして目黒区美術館にゆかりのある工業デザイナーだったということが大きいですね。目黒区美術館は、1987年に開館しました。財団法人として運営することになって、その評議委員を秋岡さんにお願いしたり、開館以前から計画していた教育活動に役立てるための教材コレクション「素材の引き出し博物館―木」の制作にご協力いただきました。
この引き出し博物館は、画材、金属、紙、木という4つのカテゴリーを引き出しというシステムに構成して見せるという内容で、素材別に専門家に監修していただくなかで、木の引き出しの構成などで秋岡さんにアドバイスをいただきました。秋岡さんは80年代には特に木に関する仕事が知られていて、各地のつくり手による木製の生活道具の紹介や竹とんぼの制作を始めたのもこの頃でした。
― その後、秋岡さんのアーカイブを整備しようと思われたのはなぜですか。
降旗 「画材と素材の引き出し博物館」展の準備中に、木の素材について秋岡さんにお話を伺うために自宅内のドマ工房に何度も足を運んだのですが、部屋に色のきれいな童画が飾ってあるのを見たのです。どなたかからお聞きして、秋岡さんが以前、童画を描いていたことや戦後に進駐軍の家具をデザインしていたこと、KAKというデザイングループでミノルタのカメラや三菱鉛筆の「uni(ユニ)」のデザインに関わったことなどを知りました。過去のことをあまり語らない方だったので、昔と今がどういうふうにつながっているのか、その間にどういうことがあったのかということにとても興味が湧きました。ある意味、学芸員の直感みたいなものですね。
90年代には、柳宗理さんや剣持勇さんの展覧会が開催されて調査も進められていましたが、秋岡さんについては誰も本格的な調査をしていませんでした。最初は誰に聞いたらいいのかまったくわからず戸惑いましたが、第一段階から調査ができるというのは、なかなかないことなので学芸員冥利につきます。
手探りの状態で調べていくなかで次第にわかっていった
― アーカイブの調査を始められたのは、いつ頃ですか。
降旗 アーカイブの調査をするには時期尚早ではないかという意見もあり、すぐには着手できませんでした。その後、何年も経ってから機が熟したといいますか、ようやく数名の方がそろそろ始めたほうがいいのではと言ってくださり、2009年に正式に秋岡家に調査に入ることができました。
― 資料は一カ所に集約されていたのですか。それともいろいろな場所に散逸していたのですか。
降旗 最初は、さまざまな人が出入りしていたドマにあるものや裏手にある書庫の資料を調べさせていただきましたが、何があるのかわからず手探りの状態で調べていくなかで次第にわかっていったという感じです。その後、秋岡さんの奥様が大事にしまわれていた数個の衣装箱がご自宅の奥から見つかったと、ご長男の陽さんが見せてくださったのですが、その中には紙の資料がぎっしり詰まっていました。初期の頃の童画や進駐軍のためにデザインした家具の資料など、本当に貴重ないろいろなものが入っていました。ドマ工房にはいろいろな方が出入りしていましたから、人に触れられないように奥様がきちんと保管されていたようです。奥様がご存命のうちにその資料についてお伺いできていたら、もっといろいろなことがわかっただろうと思うことがたくさんあり、それが残念です。
― 収集されていた大工道具は約6500点もあったそうですが、どこに保管されていたのでしょうか。
降旗 もともとはドマ工房に置いていたのではないかと思いますが、生前に秋岡さんが「モノの図書館」をつくりたいと考えて北海道の置戸町に提案され、「オケクラフトセンター森林工芸館」に少しずつ道具を移していたそうです。1997年の逝去後、ご遺族が残りの道具類をはじめ、竹とんぼやアイヌ民族の工法でつくられたニマの器、執筆記事や映像資料など、約18,000点を寄贈されました。同館では、資料をアーカイブ化して、『日本の手仕事道具−秋岡芳夫コレクション-』(オケクラフトセンター森林工芸館、2007〜2018)という本をシリーズで刊行しています。秋岡さんのアシスタントをされていた増田倫子さんが置戸町に移り住んで1998年から2009年まで11年間ほど、同館の研究員としてその資料の整理をされました。
― それでは秋岡さんの資料は、現在は置戸町の工芸館と目黒区美術館と、自宅兼ドマ工房の3カ所にあるということでしょうか。
降旗 秋岡さん関連の資料としては、1982年開館した出身地である熊本県の熊本伝統工芸館にも収蔵されています。秋岡さんがデザインしたものというよりも、70年代後半に自身の目で各地から選び集めた木工品や生活道具などです。この建物は菊竹清訓さんの設計で、秋岡さんがソフトの部分の展示方法や、実際に物に触れられる引き出し収納などの展示計画のコンセプトを考えました。開館の翌年から続いている「くらしの工芸展」では、秋岡さんが審査員を務めていました。この企画も今年で35回を迎えます。
― 教えられていた大学にも何か保管されているでしょうか。
降旗 1978年から教職に就いた東北工業大学には、秋岡さんが「裏作工芸」の実践的研究として、80年代に岩手県大野村や北海道の置戸町などで、地域における工芸活動を展開していたときの重要な試作品がありますが、今現在の状態はわかりません。共立女子大学でも教えられていましたが、そこに資料が保管されているかどうかは、今のところ把握していません。
助成金を活用してアーカイブの整理を行った
― ポーラ美術振興財団の調査研究助成を受けられたとのことですが、それは秋岡さんのアーカイブ調査をするためですか。
降旗 秋岡さんのご自宅から見つかった作品や資料類などをとにかく整理していくための資金として、またその後の目黒区美術館で展覧会を開催することを考えて申請したのですが、幸いにも2010年度と2011年度の2回にわたって受けることができました。2009年から3年間かけて資料類をまとめて、2011年に目黒区美術館で「DOMA 秋岡芳夫展―モノへの思想と関係のデザイン」を開催しました。助成金は、資料撮影費や資料を解読したりデータを取ったり寸法をとったりする整理のための人件費にあてました。膨大な資料があったので、スタッフを集めて一緒に番号を振って仕分けして、ファイルに入れて袋にしまうという作業を行いました。置戸町の資料を整理された増田倫子さんにも多大なるご協力をいただきました。秋岡さんのことをよく理解されていらしたので、大変力になってくださいました。
2011年に目黒区美術館で開催された「DOMA 秋岡芳夫−モノへの思想と関係のデザイン」展の会場風景。
下は、今も自宅に残る秋岡の仕事場を再現した展示。 写真提供:目黒区美術館
。Photo by Tadahisa Sakurai
― 秋岡さんの資料は、どのように分類してアーカイブ化されたのですか。その際に何か指針にされたものはありますか。
降旗 特にまだ、はっきりとしたアーカイブ化には至っていません。少しずつ当館に受け入れながら、写真、童画、書籍、原稿類というカテゴリーに分類して整理し、箱に収納しているのですが、まだ時間はかかると思います。
ところで、こうした資料の整理にあたっては、上野の東京都美術館の美術図書室を立ち上げた美術司書の方々にもご助言いただきました。日本の美術館図書室の司書の草分け的存在の方々です。同館は、前川國男さんの設計によって1975年にリニューアルオープンして、戦後の美術を扱うことを目的に日本で初めて戦後美術を扱った美術図書室が創設されました。主に美術館のカタログや画廊のパンフレット、手紙類や書籍といった作家の二次資料を図書室で収集し、美術司書の方々がそれらを整理しました。私も含めて80年代後半に開館した美術館の若い学芸員は、図書室で本当にお世話になりました。この図書室の機能は、その後、東京都美術館の企画学芸部門が東京都現代美術館に移行した際に一緒に移っています。
― 当時、美術司書の方からどのようなことを教わったのですか。
降旗 私が今までお世話になったのは、中島理壽さん、野崎たみ子さん、加治幸子さんの3名の方々です。美術図書資料の扱い方から資料のデータの採取の仕方など、懇切丁寧に教えていただきました。80年代の東京都美術館の展覧会図録では、特に作家の年譜や文献リストなどは、この司書の方々が作成していたので正確で充実していて、現在の展覧会図録の規範になっているといえます。日本の美術館の資料のアーカイブ化を行った第一世代だと思いますし、そういう方々の話もぜひヒアリングしていただきたいですね。資料というものをどういうふうに捉え、どのように後世に継承していくかという方法論などをお聞きになると、参考になるのではないかと思います。
時間を決めて集中して行い、習慣的に続けていくこと
― ぜひお話を伺ってみたいです。私たちのデザインアーカイブの活動は、来年で3年目を迎えるのですが、次のステップとしてまさにアーカイブの整理の仕方について考えていきたいと思っています。ヒアリングを行うなかで、みなさんやはり自身の足跡を没後に散逸させたくないと思われているようで、アーカイブ化することに興味をもっていらっしゃいます。ですが、資料をとりあえずとっているけれど、その整理の仕方がわからなくて、無造作にダンボールに入れたままになっていることが多いようですが、それでは後の人が困るだけです。美術館や大学に資料を寄贈する場合にも、デザイナー側の方である程度、整理してまとめてあるといいというような声もあります。ただ、日本には指針となるアーカイブの整理の仕方がないので、それを今後みなで考える場をつくれればと考えています。
降旗 秋岡さんの資料を整理したときには、先の美術司書の方々に資料やデータはどういうふうにとっておけばいいか、どういう情報を拾っておいた方がいいかなど、いろいろアドバイスをいただきながらまとめていきました。デザイナーさんたちが自力で整理するのは限界があるかもしれませんね。
― そうですね。アーカイブの整理の仕方をどなたかに教わる勉強会のようなものを開ければとも考えています。
降旗 秋岡さんの父親、秋岡梧郎さんも立派な方で、日本の図書館史を語るには欠かせない重要な人物です。今回、みなさんがおっしゃっているアーカイブという意味では先駆けだったのではないかと思います。小学校から大学における図書館、公立の図書館はどうあるべきか、資料の見せ方や整理の仕方、利用料の無料化、閉架から開架式にするなど、さまざまな提案をされました。戦時中は図書館の本を守るために学生たちに持たせて田舎の蔵に避難させる「稀覯本の疎開事業」に大きく関わった中心人物でした。
秋岡家には梧郎さんの資料がたくさんありました。梧郎さんの研究をされ、仲間の方々と書籍も出版された元日本図書館協会の事務局長をされていて、目黒区の図書館にも長く関わられた松岡要さんがあらためて調査され、梧郎さんの資料はとても重要な資料だということがわかり、日本図書館協会に寄贈されることになりました。日本の図書館史を語るうえで、これは大変貴重な資料になると思います。
― その資料も興味深いですね。目黒区美術館では、ほかにどなたの資料をアーカイブ化されていますか。
降旗 秋岡さんの資料を整理する前に、画家の伊原宇三郎さんの資料を整理しました。1925年に農商務省の海外実習練習生として渡仏して、約4年半のパリ滞在期間中に自分の前を通過した紙類、つまり切符やレシート、地図といった紙類をすべて捨てずに取っておかれて、それをご子息の伊原乙彰さんが保管されていました。そのすべての資料を目黒区美術館が受け入れさせていただきました。1997年に「画家たちのグランドツアー」という展覧会を開催して、その資料類を大きな額にカテゴリーごとにレイアウトして並べて、こちらをメインにし、フランスで描かれた当館所蔵の作品を資料的に壁に展示しました。会期終了後に、その紙類を暮らしや交通、地図、娯楽に分類して箱に入れて、番号を振って整理しました。
そのときはそこまでで終わっていましたが、2017年に花王芸術・科学財団の助成金を受けることができたので、スタッフを雇って20年振りに資料の整理の続きをしました。ひとつずつきちんと撮影し直して、データの表記の仕方も再確認しました。伊原さんの資料は一応、整ったので、要請があれば画像でお見せすることができるようになりました。
20年前に一度資料の整理をしていたので、それをもとに2回目ができたと思います。その間、20年の時間が経ちましたが、一度に全部やろうと思ってもできないので、時間をかけて、根気よく地道に整理していくことが大事だと思いました。こういうアーカイブの作業は時間を決めて集中して行った方がいいですし、習慣的に続けていくことも必要です。
秋岡芳夫の魅力とは
― デザインミュージアムが日本になく、アーカイブの受け入れ先がないという状態があることについては、どのように思われますか。
降旗 どこからどこまで受け入れるかですよね。すべて受け入れていたら大変なことになりますしね。美術館はどこも余裕はないと思うのですが、魅力的な資料だったら取り組むのではないでしょうか。
― 降旗さんにとっての秋岡さんの資料のようなことですね。秋岡さんはどのように魅力的でしたか。
降旗 私は、秋岡さんの資料を整理して、展覧会を企画し全体を見たときに、アメリカのミッドセンチュリーに活躍したチャールズ・イームズやジョージ・ネルソンの考え方や生き方に大変近いと感じました。イームズは映画やおもちゃをつくり、展覧会を構成したり、モノを視ることにとてもこだわったデザイナーです。ジョージ・ネルソンは、建築もデザインも手がけ、書籍を執筆し、デザインのシステムを考えた思考派のデザインディレクターといえる人ですが、どちらも活動の幅が広く多才なところに共通点を感じています。秋岡さんは、どちらかといえば、思考的なジョージ・ネルソンに近いように思います。
― たくさん出版された秋岡さんの著書からも深く思考されていたことが見えてきますね。
降旗 常に「今」という時代性をきちんと把握されていた方だと思います。秋岡さんは戦争を経験し、戦後の日本の復興期の工業化も嫌というほど見てきて、日本中が沸いた大阪万博(日本万国博覧会)が開催された頃に工業デザインをやめてしまいました。高度成長期の日本、その時代の工業デザインに、デザイナーが本来やるべきことができない限界を感じられたようです。この時期、「たちどまった工業デザイナー」という肩書きで、『割りばしから車(カー)まで』(柏樹社、1971)という本も書いています。インハウスデザイナーが急増し、世の中は大量生産大量消費にまっしぐら、デザイナーが社会に対して本来するべき提案ができにくくなってしまった時代です。
― 著書と同じくらい、写真も膨大な量があるそうですね。
降旗 1953年から始めた工業デザイン事務所、KAKのメンバーがそれぞれ撮影した写真がたくさんあります。撮影者や年号の記載がありませんが、おおよそこのあたりの時期だろうというのは、調べていくうちにだんだんわかってきました。その写真からも伺えるのですが、KAKというデザイン事務所の仕事の仕方そのものがおもしろいんですよね。みな楽しそうに遊びながら仕事をしています。ものすごく忙しかったと思いますけれど、本当によく遊んでいます。KAK創立者の一人、河潤之介さんは、帆船をつくっていたような写真が数多くあるのですが、一方でじつに緻密なデザインの仕事もたくさんされていました。常に企業に新しい提案をして、コミュニケーションを通して考えるやり方も興味深いものがあります。これらの写真から、50年代から60年代の戦後の日本の工業デザインの現場がわかる貴重な写真だと思います。
展覧会は、資料の整理をするにはいい機会になる
― KAK時代の工業製品の図面はあるのですか。
降旗 それはまだ見つかっていません。図面を描いている写真はありますけれど、もしどこかにあればぜひ見てみたいですね。ところで、秋岡さんは民藝をどのように見ていたかということについても興味深いところです。
― それは降旗さんにぜひお聞きしたかったことでもあります。戦後の日本の復興期から高度経済成長期にかけて、手仕事に変わって機械化が進み、つくり手と使い手の関係性や人々の生活技術が失われていくなかで、「消費をやめて、愛用者になろう」と唱えて、手から生まれるものづくりを大切に考えられていたことが、民藝の思想と重なるようにも感じます。
降旗 秋岡さんといえば、手仕事を大事にしたものづくりと言われますけれど、じつは手仕事と工業化の両方のバランスを保つことが大切だと考えていました。すべて手仕事でするのではなく、できるところは工業化してもいい、ただ、最後はちゃんと手が関わることが大事だとおっしゃっていました。
それから今、秋岡さんが生きていたら、と考えたりもします。こういう今のネット社会についてどういうふうに考えるだろうかとか、彼なりに上手く利用するのではないかとかね。
― お聞きしてみたいですね。秋岡さんの資料の調査や整理は、今も続けていらっしゃるのですか。
降旗 展覧会の開催から8年経ってしまいましたが、その後はなかなか時間が取れないのですが、少しずつ進めています。
― 秋岡さんの資料を整理されて、今後のアーカイブについてはどのように考えていますか。
降旗 これからも資料整理と同時に関係者へのインタビューを続けていきたいと思っています。展覧会は資料を整理するには、やはり集中してできるとてもいい機会になりますし、秋岡さんの展覧会は何年後にまた開催できればと考えています。
― ぜひまたお話をお聞かせいただけたらと思っております。本日はありがとうございました。
文責:浦川愛亜
問い合わせ先
目黒区美術館 http://mmat.jp
〒153-0063 東京都目黒区目黒2-4-36
Tel:03-3711-9558
オケクラフトセンター森林工芸館 http://okecraft.or.jp
〒099-1100 北海道常呂郡置戸町字置戸439-4
Tel:0157-52-3170
モノ・モノ https://monomono.jp
〒164-0001 東京都中野区中野2-12-5 メゾンリラ104
Tel:03-3384-2652
熊本伝統工芸館 http://kumamoto-kougeikan.jp
〒860-0001 熊本県熊本市中央区千葉城町3-35
Tel:096-324-4930