日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
青葉益輝
グラフィックデザイナー
インタビュー:2020年7月1日 14:00~16:00
場所:青葉デザイン室
取材先:青葉孝子さん、前田淑美さん
インタビュアー:久保田弘子 関 康子
ライティング:関 康子
PROFILE
プロフィール
青葉益輝 あおば ますてる
グラフィックデザイナー、アートディレクター
1939年 東京生まれ
1962年 桑沢デザイン研究所卒業
1968年 日本宣伝美術会会員
1969年 A&A青葉益輝広告制作室設立
1977年 東京ADC会員
1980-2011年 日本グラフィックデザイナー協会理事(02-09 同副会長)
1988年 国際グラフィック連盟会員
1993年 長野冬季オリンピック第一回公式ポスター制作
1998-2002年 財団法人日本産業デザイン振興会理事
2006年 紫綬褒章受章
2011年 死去
Description
概要
1960年代の日本は「所得倍増計画」のもと、64年の東京オリンピック、70年の大阪万国博覧会という国家イベントの実現を目指して高度成長まっしぐらだった。しかし60年代後半になると大気汚染や水質汚濁、光化学スモッグ、水俣病に代表される公害病などが社会問題として大きくクローズアップされるようになった。このような時代、デザイン界はもっぱら明るい未来を表現していたのだが、青葉はある仕事をきっかけに環境や世界平和といった社会的なテーマに取り組むことになる。もともとそうしたマインドをも持った人だったのだ。そんな真面目な姿勢は作品だけでなく、デザイナーとしての振る舞いにも現れていた。デザイン界の発展のためにさまざまなデザイン団体の活動に参加し、役員も引き受けた。また、世界中のポスター展やデザイン展に出展して環境や平和の大切さを訴え、その結果として日本のグラフィックデザインの地位向上に貢献したのだ。
そんな真面目は性格を表す一文を発見した。同世代の浅葉克己、長友啓典との座談会のなかでの発言だ。後進に対していかにデザインを伝えるかという質問に対する回答である。「その仕事の瞬間、瞬間は教えられるけどね。それはその仕事だけだから。結局勉強になるっていうのは人の感性だからさ。略 事務所でよく言うんだよ。土日で決まるんだぞって。略 映画を見ようと散歩しようと、デザイナーとして歩いてるか、ただの普通のおじさんとして歩いているかで、どんどん差がついちゃう」(『TIME TUNNNEL Vol.11』より抜粋)。実娘の前田淑子さんの言葉「どんなことも見逃さない、忘れないためにメモしていたのですが、晩年までその姿勢は変わらず勉強熱心あったことは立派だったなと思います」をほうふつとさせる。
Masterpiece
代表作
ポスター 東京都「灰皿ではありません」(1971)
ポスター 「THE END」 (1981)
ポスター 「君の手に平和がいる」(1981)
ポスター 戦争に使うパンはない(1981)
ポスター ALL FLESH IS GRASS(1992)
ポスター 長野オリンピック公式ポスター(1998)
ポスター 愛知万博「愛・地球博」(2005)
ポスター ヒロシマアピールズ(2008)
ポスター 地球を捨てていませんか?(2008)
ポスター Fish it is Fed by Forest. (2011)
主な受賞
日宣美展準入賞(1960)、朝日広告賞・準朝日広告賞(1963-64)、
ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレグランプリ(1983)、
ソ連平和ポスター展奨励賞(1986)ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞(1989)、
ニューヨークADC国際展金賞(1992)、
日本宣伝賞山名賞(1995)、メキシコ国債ポスタートリエンナーレ銅賞(1998)
主な展覧会
個展「オリジナルポスター展」東京デザイナーズスペース/東京(1979) 、
個展「オリジナルポスター展」ニューヨーク・ニッポンクラブ・ギャラリー/アメリカ)(1980)、
個展「平和ポスター展」松屋銀座/東京(1982)、
3人展「アートディレクター展」(浅葉克己、長友啓典と)G7ギャラリー/東京(1985) 、
個展「Graphically」(ギンザグラフィックギャラリー/東京(1987)、
展覧会「ヘンリク・トマチェフスキー、松永真との3人展」ワルシャワポスター美術館/ポーランド(1990)、
展覧会「青葉益輝環境ポスター展」ショーモン/フランス(1992)、
個展「AOBA SHOW」ギンザグラフィックギャラリー/東京(2007) 、
個展「青葉益輝・平和ポスター展」調布市文化会館たづくり/東京(2011)
主な著書
『サンドイッチサイレンサー』共著、王立出版社(1974)、
『アートディレクター』浅葉克己、長友啓典と共著 東洋経済新報社(1987)、
『アートディレクターの発想・現場・定着』
浅葉克己、長友啓典と共著 メディアファクトリー(1993)、
『青葉益輝/世界のグラフィックデザイン』作品集 gggブックス/トランスアート(1995) 、
『心に「エコ」の木を植えよう』求龍堂(2008)
Interview
インタビュー
全体を俯瞰してアドバイスしてくれる相談者がほしい
アーカイブの現状
― 青葉益輝さんのデザインアーカイブについて、本日は奥様の孝子さんと娘の前田さんからお話しいただきたく。まず現状についてお聞かせください。
前田 父は物を捨てない人でしたので、莫大な量の作品や資料はここ(自宅兼事務所)にほぼ手付かずの状態で保管しています。具体的にはポスターを中心とした作品、版下や校正紙、ネガ・ポジを含む写真類、個人的に制作していたオブジェ、メモ帳やスケッチブック、またデザインの参考にするためのサンプル類、道具などです。
実は昨年、父の七回忌にあわせて光村グラフィックギャラリーで「7年目の青葉益輝展」を開催していただきました。その準備のために、元スタッフの方々にも手伝ってもらってポスター類はざっくりですが整理して全貌を把握できましたが、リスト化まではできていません。そのほかのものも整理しなければという気持ちはありますがどこから手を付ければいいのか、ただ時間がすぎていってしまっているという状況です。
― この建物のどこに保管されているのですか?
前田 ここはインテリアデザイナーの内田繁さんに設計をお願いして、以前は1階と地階を事務所として、2階以上を自宅として使用していました。現在は地下を収蔵庫として作品などが足の踏み場もないほどぎっしり収まっています。1階は事務所をほぼそのままの状態で残してあります。
― 膨大な作品や資料はどのような状態にあるのでしょうか? 例えば、プロジェクトごとに箱に入っているとか、ファイルされているとか。
前田 いえ、年代順、プロジェクトごとに仕分けされておらず、とにかく手がけた仕事はすべて残しておくという感じで残されていました。父の死後は展覧会のお話をいただくたびに必要なものを探し出して何とか間に合わせている状況です。ただポスターは、父がライフワーク的に取り組んでいたシリーズや国際的な賞をとった代表作をピックアップして最低10セット保管すると決め、データ化も終えています。それに武蔵野美術大学美術館、大日本印刷のCCGA現代グラフィックアートセンター、富山県美術館などポスターコレクションを持っている国内の主な施設には収蔵されています。
― 青葉さんは海外のビエンナーレなどで多く受賞されているので、海外の美術館にも収まっているのですか?
前田 はい、ニューヨーク近代美術館をはじめ、ワルシャワポスター美術館などに所蔵されています。
― これからアーカイブを整理するうえで、何をどのようなかたちで残すか、選定の基準が大切ですね。
前田 その通りです。私も父の重要作品は把握しているつもりですが、なにぶん身内なので冷静に判断することが難しい部分もあって悩ましいです。こうした作業を進めるには客観的かつ公平な視点が重要だと思うので、全体を俯瞰してアドバイスしてくれる相談者がいてくれると助かるなあと思っています。
― 本当にそうですね。青葉さんだったら、JAGDAの大迫修三さんは適任ではありませんか? 生前の青葉さんともお親しかったし、グラフィックデザインの知識も豊富です。
前田 はい、大迫さんには何度か相談に乗っていただいていますが、だからと言って「これは処分していいのでは?」とは言いづらいと思います。そういう意味ではやはり私たち家族が最終的な判断を下して、取捨選択をしないといけないのでしょうね。そういえば父が元気だった頃「俺が死んだら、お前たちは全部捨てるんだろうなあ」なんて、冗談めかして言っていたのを思い出します。そんなことを言われると絶対捨てられないですよね。
― 青葉さん自身がアーカイブについてご希望や方向性を示されなかったのですか?
前田 とにかく何でも残しておきたい人でしたので……。病気になったときもそこまで思いがおよんでいなかったようです。
青葉 本当は誰かに託してしまったら、どれほど楽だろうかと思います。実際には難しいと思いますが。
前田 引っ越しのようなどうしようもない事情があればやるしかないわけですが、今は地下室に何とか収まっていることも言い訳になっています。けれども「物」は劣化する一方で保管状況も完ぺきではないので気がかりです。
青葉 私は、すべてを残しておくことは無理なので、彼のライフワークであった環境や平和ポスターだけでよいと考えています。広告作品などはその時代固有のものだし、依頼されてデザインしているわけですから。
― 先ほどのお話ですと、版下やスケッチ、写真や蔵書も大量にあるようですね。
前田 地下1階から3階まで続く階段室の壁面がすべて書棚ですが、ご覧の通り4層分の壁面はびっしり蔵書に埋め尽くされています。銀座の事務所にあったものをそのまま移したのですがこれだけの量がありました。処分してしまうのは簡単ですが、中にはアートやデザインに関する貴重な本も含まれているだろうし、その価値がわかる方々にお譲りしたり、図書館や資料館に寄贈できればよいのですが。ポジやネガのシート、紙焼きなどの大量な写真類は1階の棚にあり、版下や校正紙は地下室で見かけた記憶があります。
地下室を埋める青葉さんの作品や資料
― ポスターはお2人がおっしゃるようにアーカイブとして整理しやすいですよね。
前田 実はこのインタビューのお話をいただいたとき、私はポスターだけしかイメージしておらず、スケッチや蔵書などもアーカイブなのだとは思っていませんでした。ポスター以外も重要だということになると、本当にどこから始めればいいのか途方に暮れています。
― 先日、小島良平さんのデザインアーカイブについて伺ってきたのですが、小島さんのところでは引っ越しをされるたびに奥様と息子の良太さんで少しずつ整理を進めたそうです。そして最終的にはグラフィックデザイナーである良太さんの判断で選定し、減量し、分類し、現在はポスター類、他の作品、スケッチや写真、蔵書、道具などのカテゴリーによって何カ所かに分けて保管されているそうです。
デザイナー、青葉益輝から継いだこと
― さて、ここからはグラフィックデザイナー、青葉益輝さんについて伺っていきたいと思います。ご存じの範囲以内で青葉さんの仕事ぶりについてお聞かせください。事務所はこちらの前は銀座にあったのですよね?
前田 そうです。銀座時代は4、5人のスタッフがいて多忙な毎日を送っていたと思います。東海銀行、東京都、コーセーなどのクライアントのために、ロゴなどのCIやブランドデザインに携わっており、エディトリアルやパッケージなどのデザインも手がけていました。その後、代官山に土地を見つけて内田繁さんに設計をお願いして、この建物に引っ越してきました。その頃はスタッフの数も1人か2人になっていたと思います。
― 前田さんが知る青葉さんの仕事ぶりは?
前田 父は途中に代理店が入ってコントロールされるのは好まず、デザインの決定権を持つ人と直接話ができる仕事を選んでいたようです。そうしたコミュニケーションが納得できる仕事に結びつくと考えていたのでしょう。一方、スタッフには理不尽な態度をとることはほとんどなかったと思いますし、仕事もそれほど遅くならないように心がけていたようです。但し、本人は仕事の後はほぼ毎日銀座で飲んでいて、帰宅は午前様でしたが……。
― コンピュータは使われましたか?
前田 晩年はデザインには使っていたと思いますが、作業はアシスタントに頼んでいましたね。けれどもデジタルの可能性みたいなことには興味を持っていたと思います。
― 青葉さんというと、長野オリンピックの仕事が思い浮かびますが。
前田 あれは確かコンペで決まったものでした。ただ、母によると「東京オリンピックの亀倉雄策さんのポスターがすばらしすぎて、あれを超えることは難しい」と語っていたそうです。真面目な性格だったので、そういう緊張感を持って臨んだのではないでしょうか。
― 前田さんは青葉さんと同業ですが、一デザイナーとしてお父上をどのようにご覧になっていますか?
前田 作品がどうかということ以前に、父の仕事に対する取り組み方は尊敬しています。常に手帳を持ち歩いて何かを書き留めていて、特に無印良品の手帳はお気に入りで思いついたことをしたためていました。どんなことも見逃さない、忘れないためにメモしていたのですが、晩年までその姿勢は変わらず勉強熱心あったことは立派だったなと思います。
今その手帳を開いてみると、ロゴマークやポスターの構想など、デザインに関するあらゆるアイデアを何十パターンも書き留めていますね。コンピュータの操作でバリエーションが幾つでも出せる現代と違って、一つひとつ手書きで頭の中から絞りだしているプロセスがそのまま記されています。このプロセスを見せつけられると、コピーだとか、アイデアの横取りなどは考えられない時代だったのだなあと思います。
メモに記されたおびただしいアイデアスケッチ
― 前田さんがデザイナーになったのはやはり青葉さんの影響があるのですか?
前田 子どもの頃は父の仕事がよくわからなかったし、学校の美術の授業は好きではありませんでした。ただ私はいわゆる雑誌「Olive」世代だったので身の回りをすてきにかわいくしていくことには興味があって、学校で使う透明下敷きの間にお気に入りの写真やイラストをコラージュしたり、ノートの表紙や便箋を自分でつくったりしていたのです。それを見た父が「それがグラフィックデザイナーの仕事だよ」ということで、父の友人たちの展覧会やイベントに毎週末連れて行ってくれて、そのうちデザインって楽しいなあと美術大学を受ける気になったのです。大学時代にはニューヨークにも連れて行ってくれて、MoMAなどの美術館やギャラリーに行きました。今となってはかけがえのない経験をさせてもらったと感謝の気持ちでいっぱいです。
― 卒業後はどうされたのですか?
前田 父の事務所に入るという選択肢は親子ともに持っていませんでした。私の学生時代はバブルの最後の頃で、広告業界も面白く、グラフィックデザイナーもサイトウマコトさんや井上嗣也さんなどが活躍されていて、その世代のデザイナーに憧れていました。特に学生時代から尊敬していた葛西薫さんの仕事を間近でみたくてサン・アドに入社しました。サン・アドは毎年デザイナーを募集していなかったので就職浪人を経て入社しました。
― そんな娘さんを見て、青葉さんの反応はどうだったのでしょうか?
前田 私がその世代のデザイナーや作品のことばかりを話しているときは複雑そうでした。態度には表さなかったけど、やっぱりどこかで悔しかったのかなあと思います。ただ、サン・アドに入ったことで、父のよさもわかりました。父はセンスがあるデザイナーと言うよりは伝えたいことをいかにシンプルに表現するかを徹底するデザイナーで、そのことはすべてにおいて大事だなと。その真摯な姿勢をそばにいて学ぶこと多かったと思います。
― もう少し具体的に、どういう部分でしょうか?
前田 愚直なまでにアイデアを出し尽くして、そこから文字が読めない子どもや海外の人にも伝わるように明快な表現を目指すということを生涯続けたということです。
― 青葉さんということ、環境や平和をテーマとした作品をたくさん発表されています。社会的メッセージの強い作品に取り組まれるきっけかは何だったのでしょうか?
青葉 青葉は桑沢デザイン研究所を卒業してすぐに、田中一光さんの勧めもあってオリコミという広告制作会社に勤めました。ちょうどその頃、東京オリンピック開催の準備が急ピッチで進んでいて、東京都で「東京をきれいにしよう」というキャンペーンがあり、オリコミがそのデザインを行うことになったそうです。1960年代といえば高度成長期の真っただ中で、広告業界は元気で明るくて華やかな仕事がたくさんあった頃です。そんなときに「ゴミ問題」なんて誰もやりたがらなかったのを、青葉は率先して引き受けたそうです。お陰でめざましい発展の陰にあるゴミや環境といった社会的テーマに興味を持つようになったのでしょう。
前田 継続的に取り組むところが父らしいし、生涯のテーマになったのだと思います。
― 青葉さんは桑沢を卒業後は誰かに師事することなく、直接オリコミに入社されたのですか?
青葉 そうです。ただ、当時桑沢で教鞭をとっていらした田中一光さんを心から尊敬し、生涯の師と仰いでいたし、田中さんのお勧めでオリコミに入社したと聞いています。
― 前田さんはデザインについて青葉さんに相談されましたか?
前田 色や形といったデザインそのものについて相談した記憶はありませんが、コンペに応募したりグループ展に参加するなど、大学の課題以外で自分の作品をつくることの大切さを伝えてくれました。父自身は世界中のポスターコンペに応募してメッセージを発信し、たくさんの人に見てもらうことの大切さを実感していたのだと思います。それ以外にはさまざまな職種の優れた人の話をたくさん聞きなさい、グラフィックだけでなく建築、舞台、アートなどよいものは進んで見なさいと言われ、学生時代はいろいろな講演会や舞台を観たり、広告学校に通ったりました。
― 青葉さんはJAGDAや日本産業デザイン振興会などの役職に就かれたり、浅葉克己さん、長友啓典さんと3人で「」展を開いたり、デザイン界を盛り上げること、後進の育成にも高い意識をお持ちでした。公正でニュートラルでご自身の軸をしっかりお持ちで、相談しやすい親分みたいな方という印象があります。
前田 父の世代の人は、その上に亀倉雄策さんや田中一光さんという巨星が輝いていて、心から尊敬していました。浅葉さんも青葉も桑沢デザイン研究所で田中一光さんから教えていただいた世代であり、先人たちの偉業や歴史を後世につなげなければならないという意識がとても強かったと思います。
青葉 田中一光さんから電話がかかってくると直立不動でお辞儀をしていましたからね。そのくらい尊敬していました。また若い人を育てる使命感のようなものもあったと思います。
― 当時の桑沢デザイン研究所は、青葉の他にも、浅葉克己さん、遠藤亨さん、倉俣史朗さん、内田繁さんと偉大なデザイナーを多く輩出していますが、彼らのデザインアーカイブに取り組んでほしいですね。
―― さて、棚にユニークなオブジェがたくさんありますが、何ですか?
前田 父が仕事以外に創作していたオブジェです。私が大学生の頃、父は自宅以外に葉山に小さな家を所有していて、週末に行っては絵を描いたり、オブジェを創ったりしてすごしていました。
青葉 イメージトレーニングだと言っていましたね。今思えば、何にもとらわれることなく自由な創作活動を通して日頃のストレスを発散し、リフレッシュしていたのだろうと思います。
前田 作風もどんどん変わって、最初の頃は何だかドロドロした気持ちの悪いオブジェをつくっていて(笑)、それを見た浅葉克己さんから「気持ち悪いなあー」と言われても、めげることなくつくり続けていましたね。それらは父のデザインの作風とはずいぶん違っていて、私たち家族も父の知らない一面を垣間見たような気分でした。その後は少しずつ作風も変わって、紙を使った幾何的なモダンなオブジェになりました。
土日に制作していた紙製のモダンなオブジェ
― この紙製のオブジェは青葉さんのデザインに通じるものを感じますね。
前田 この紙製のオブジェは段ボール箱で3個分くらいはありますね。どちらにしても葉山での創作活動は父にとってかけがえのない時間だったのだと思います。
青葉 病気にかかって入院した病室でも創作を続けていましたね。今、仏壇に飾ってあるこの木製オブジェに描かれているたくさんのドットは、点滴の薬が一滴ずつ落ちるたびに本人が点を打っていたものです。入院中もくよくよしないで意欲を保ち続けていたことを思い出します。
アーカイブへの希望
― 最後に青葉さんのデザインアーカイブのこれからについて伺いたいのですが、整理された後のことについてはどうお考えでしょうか?
前田 まずは家族としてやるべきことがあるので、その先のことは考えることができません。けれども私たちのように困っている人は多いと思います。理想的にはミュージアムやアーカイブの研究機関で保管や管理をしていただくのが一番ですが、では具体的にどこの誰がやるべきなのかまでは思い至りません。ただ、自宅や一般の倉庫は保管場所としては不十分で、作品は劣化するばかりです。専用のレンタルスペースがあればとりあえず預けたいです。
― 私たちは作品を預かる美術館や大学にもヒヤリングを行っていますが、彼らも人材や予算、保管場所などで苦労があるようです。
前田 そうだと思います。グラフィックデザインではポスターをコレクションしている組織や大学があるのは、保存のしやすさやメッセージ性の高さからなのでしょうね。父の作品もポスターは多くのところでコレクションしていただいています。
― 青葉さんの場合は、先ほど見せていただいたスケッチやメモ帳、自己表現としてつくっていらしたオブジェなどは貴重なアーカイブだと思います。
前田 アーカイブとしては貴重なのかもしれませんが、はたして未来に対して価値があるのか、残すべきなのか。家族でさえ悩んでいるので、預かってほしいとは言いづらいです。
― アーカイブといえば、生前のままに残されている仕事場も貴重ですね。
前田 本当に。建物は内田繁さんの設計で、家具は倉俣史朗さんのデザインです。
― えっ、どれが倉俣デザインなのですか?
前田 ライトボックス、ワークデスク、棚などが倉俣さんにデザインしていただいたもので、銀座のオフィスから持ってきました。
― 倉俣さんというと家具や商業空間のデザインが知られていますが、友人知人の事務所や自宅の家具なども多くデザインされているのですね。まさに、アナザークラマタデザインです。
前田 私たちもこの空間を生かしたいと考えています。ここは代官山蔦屋からも近いですし、小さいギャラリーでもできるといいねと母と話しています。父のものも整理すれば、地下室を使えますし。
― ギャラリーというと青葉さんの作品を展示されるのですか?
前田 いや、まだ何も具体的に計画しているわけでもないので……。もしそうなったときはそういう展示もできると父は喜んでくれかもしれないですね。
―― お願いします。そうした活動もデザインアーカイブの重要な要素だと思いますので。本日はありがとうございました。