日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
榮久庵憲司
インダストリアルデザイナー
インタビュー:2016年10月25日(火)15:00~16:30
取材場所:GKデザイン機構
取材先:小野寺純子さん
インタビュアー:関 康子、涌井彰子/ライティング:涌井彰子
PROFILE
プロフィール
榮久庵憲司 えくあん けんじ
インダストリアルデザイナー
1929年 東京生まれ
1955年 東京芸術大学美術学部図案科卒業
1957年 GKインダストリアルデザイン研究所設立 所長就任
1970年 公益社団法人日本インダストリアルデザイナー 理事長
1975年 国際インダストリアルデザイン団体協議会(ICSID)会長
1989年 GKデザイン機構 代表取締役会長
1995年 日本デザイン機構設立 会長就任
1996年 道具学会設立 会長就任
1989年 世界デザイン博覧会 総合プロデューサー
1998年 世界デザイン機構(Design for the World)会長
2015年 洞不全症候群のため逝去。享年85歳
Description
前書き
日本のデザイン界に多大な功績を残したインダストリアルデザイナー、榮久庵憲司が他界したのは、2015年2月のことである。デザインという言葉すら認知されていなかった戦後の日本において、いち早くデザインの重要性を説き普及させた先駆者であり、その影響力は世界に及んだ。榮久庵の遺した名作は、キッコーマンの醤油卓上瓶をはじめ、ヤマハのオートバイ、JRの鉄道車両など、日本人の生活と都市空間の近代化を支えた足跡が、いたるところに残されている。また、デザインという職能を社会に切り開くための組織づくりや、人とデザインのあり方を深く掘り下げる研究にも邁進した。
榮久庵のデザイン哲学の原点は、原爆で焦土と化した広島の街の光景にある。家が消え、自転車が焼け、電車が焼け、一望千里なにもなくなり瀬戸内海までに見渡せる「凄惨な無」の姿であった。寺の住職の長男として生まれ、一旦は父の跡を継ぐべく仏門に入るが、この壮絶な「無」の世界に「有」を取り戻したい、という強い思いがインダストリアルデザインに人生を捧げる道へ突き動かした。この時から榮久庵にとってのデザインは、生きることと同意になったのである。
東京芸術大学在学中の1952年、仲間とともに「美の民主化」「モノの民主化」をスローガンに掲げた「GK工業デザイン室」を結成し、5年後には「GKインダストリアルデザイン研究所」を設立。これまで企業内で行われていた製品デザインを、デザイン専門集団が受注するという、これまでにない新しい流れを生み出した。デザインに料金を払うという概念がなかった時代にスタートを切ってから60年、いまや工業デザインのみならず、すべてのデザイン領域を手がけるGKデザイングループとして、200人を超えるフリーランス・デザイン集団となるまでに成長している。
榮久庵の活動は、ひとりのデザイナーとしての範疇にとどまらず、身近な日用品から都市空間に至るまで、世の中の人工物すべてを「道具=道に具わるもの」という概念でとらえる「道具論」を提唱し、その普及に努めた。人が必要とするもの、すなわち人の意志によってつくられたものは、手や足の分身であり、欲望の化身でもある。その「道」を追求することで「人とは何か」をとらえ、そこに「美」という感性を加えることで、結果として万人にとっての快いデザインにつながる、という独自の哲学だ。1960年代には、大高正人、槇文彦、菊竹清訓、黒川紀章、川添登、粟津潔らとともに建築デザイン運動「メタボリズム運動」に参加し、インダストリアルデザインの立場から「道具」を出発点に生活空間の新しい形式を探る「道具論研究」を進めていった。そうした研究は「道具文化研究所」や「道具学会」において現在も続けられている。
人間と道具の正しい関係を築きあげる研究と啓蒙活動に力を注いだ榮久庵は2005年、その集大成として「人間づくり」につながる「ものづくり」を実現するために「道具寺道具村構想」を打ち上げた。「道具を創ることによって、人間自身が成長しなければ、道具を創る意味がない」とし、道具の意義を今一度見直そうというものだ。
こうしたものづくりにかける情熱は、85年の生涯を終えるまで続いた。ひとりのデザイナーであるとともに、日本にデザインという職能・事業を成り立たせるためにゼロから市場を開拓した功労者であり、人とデザインのあり方を説く教育者・運動家でもある、まさにデザインに生涯を捧げた人物であった。
Masterpiece
代表作
<プロダクト>
日本楽器製造(現ヤマハ) Hi-Fiチューナー「R3」(1954)
キッコーマン「卓上醤油瓶」(1960)
日本楽器製造(現ヤマハ)ステレオパワーアンプ「B-6」(1980)
日本航空 エグゼクティブクラスシート「JAL SHELL FLAT SEAT」(2002)
<鉄道・バイク>
ヤマハ発動機 DT-1(1968)
大阪万博モノレール(1970)
ヤマハ発動機 VMAX(1985)
成田エクスプレス 253系 NEX(1991)
秋田新幹線「こまち」(1997)
<ロゴタイプ>
日本中央競馬会ロゴマーク(1987)
東京都シンボルマーク(1989)
<その他>
道具論研究:核住居(カボチャハウス)(1964)
つくば万博インフォメーションセンター(1985)
道具寺・道具村構想(2001)
<著書>
『道具考』鹿島出版会(1969)
『幕の内弁当の美学』ごま書房(1980)
『道具の思想』PHP研究所(1980)
『道具論』鹿島出版会(2000)
Interview
インタビュー
GK内に現存する膨大なアーカイブ
関 榮久庵さんが亡くなられて、1年8ヵ月が経ちました。インダストリアルデザインの先駆者として多大な功績を残された方ですから、その実績をアーカイブしていくことも並大抵の作業ではないと思いますが、現時点ではどのようになっていますか。
小野寺 もちろん、予期せぬことでしたので、まずは何をどうして良いのかもわからず、最初の1年はほとんど手つかずで、そのままにしていました。というよりも、むしろあえてそうしていたということかもしれません。ですから、今後どう整理して保管していくかを、まさにこれから考えていくところなので、今はまだ前段階のお話しかできないと思います。
関 榮久庵さんが「GK工業デザイン室」を立ち上げてから60年以上になりますから、その間に手がけられたものといったら膨大な量ですよね。具体的には、どのようなものが残っているのでしょうか。
小野寺 あらためて、榮久庵が亡くなった後に足跡をたどってみると、GK創設当時からの60年以上の歩みが創り上げてきた、その蓄積と重さをしみじみと感じているところです。毎年、必ずと言っていいほど、榮久庵の発想によるデザインの新しい試みが創造されてきた半世紀だったように思います。1952年にGKインダストリアルデザイン研究所を設立し、所長に就任した当時から現在に至るまで諸々の記録が、いろいろな形でいまも保管されています。創設当時は、デザインコンペで多くの賞を受賞しておりましたので、その当時のコンペの資料、米国の「エドガー・J・カウフマン財団基金」から国際デザイン賞を受賞した「道具論」の自主研究に関する詳細な資料、米国のArt Center College of Designに留学していた頃のデッサンやその時期の記録。また、デザインの国際団体(ICSID)に所属し、ICSIDの会長に就いて以来、デザインの海外活動を続けた記録、とりわけ国際会議などにも長年にわたり全会に出席し、数々の講演も行なって来ましたので、それらに使った写真などの資料や講演録も、国内のものと同様に多く残されています。さらに榮久庵の発想に基づいての展覧会も1980年以降多々開催しましたので、それらのポスターや記録資料、そして、榮久庵自身が筆で描いた書やスケッチをはじめ、直筆原稿なども保管してあります。
特に、亡くなる10年ほど前からは、自身が仏門の出身でもありましたので、「道具寺道具村建立」という壮大な計画を実現すべく着手し始めました。これは長年にわたり手がけてきたデザインの数々、もの作りからの集大成的な発想を開陳し、展覧会もその意味合いのものが増えてきました。「地中蓮華展」などもそのプロセスでしたね。残念ながら自身の生前には夢は叶いませんでしたが、いつかGKメンバーが榮久庵の意志を継いで実現できる日がくることを願っております。
また、デザインの作品ということでしたら、1階のギャラリーにGKの代表的なプロダクトを展示しております。
■GKギャラリー/GKデザイン機構の1Fにあるギャラリー
関 出版物も多いですし、展覧会もたくさん手がけていらしたので、その資料だけでも大変な量ですよね。どれも貴重なものばかりですが、どのように整理される予定ですか。
小野寺 ちょうど、これからそれらをどう整理、保管していくかを考えなくてはならない時期に入ってきました。参考までにご紹介しますと、GKには『記事総覧』というものがあります。GK 創設期の1950年代からGKが分社化する1987年頃までの、榮久庵を中心にしたGKメンバー全体の活動の記録をまとめたものです。これは、それまでのデザインした製品の紹介や、その開発背景などについて、当時のメディアに掲載された誌面をくまなく記録したものです。当初は、数少なかった、「工芸ニュース」「デザイン」などのデザイン関連雑誌や、新聞等の記事のコピーや切り抜きなどを記録収集するところから始まりました。そして、時を経るごとに「年次ごとの分冊」も溜まり、当時の世相や時代背景などを見ることが出来る貴重な資料の一つとなっています。日本のデザイン史においても少しはお役に立つのではないかと思っております。したがって、榮久庵の掲載誌などはものすごい量になりますので、データ化して保管する方針を立てて、少しずつ作業を進め始めています。
また、社内的には1972年から機関誌「GKNEWS」を発刊していて、それには会長だった榮久庵が毎回、巻頭文に法話的な話を、そして当時のGKグループの諸活動に関しての記事を、担当したメンバー等が継続して執筆を続けてきました。各号は、それぞれに「特集テーマ」を持ち、その時代の捉え方やそこから生まれる新たなデザイン提案などが見事に描かれています。1989年より現在の「GK Report」にリニューアルされ、今日にいたるまで45年以上継続されています。このようなもので今までの記録として残されてきていますので、それらの手法も参考にしながら、同時に諸々のデジタル系のツールで解決できる方法もあるのではないかと模索しているところです。
関 『記事総覧』には「工芸ニュース」掲載に掲載された記事や、小池岩太郎さんや川添登さんのお話しなど、今では伝説になっているようなものまで載っているんですね。これはとても貴重だと思います。
小野寺 ありがとうございます。その頃は、デザインの全盛期的な時期で、どんどんデザインされた製品が世の中に出ていき、社会的にも高度成長期で話題も多い時代でしたね。当時、榮久庵が「道具」という言葉をデザインに取り入れた時期にも重なります。1968年には鹿島出版界から『道具考』を出版しました。それはGKの設立以来、自身が主張し続けてきた「道具論」を開陳した初めての書物です。そこでは「人の世界」と「道具世界」は、ともに同じ世界を共有しているという認識に立ち、独自の思想を展開していますが、この主張は一貫して榮久庵が語り継いでくれたおかげで、我々GKの思想となって次世代にもしっかりと受け継がれております。榮久庵がデザイナーを志す大きな原点には、「惨憺たる無」という広島の原爆の原風景が根底にありますから、そう思い返すと、ただデザインした製品の記録のみというよりも、時代を背景としたデザインの考え方や『記事総覧』の現代版のような記録も、デジタルで作れたらいいのかもしれませんね。
■1950年代〜1987年頃までのGKの活動が記された『記事総覧』
関 遺されたものを整理して、今後何かに役立てようというお話しはありますか。
小野寺 整理するということは私たちにとって、改めてすべてに目を通すことにもなりますし、そのプロセスで学ぶことが山ほどあることは確かです。それを次世代に継続して残すことが私たちの責任でもあると思っております。 今現在は、まずは整理して保管するところまでしか、考えが至っておりませんが、まずGKの中でアーカイブとしてきちんと整え、GKのみならず、いずれは一般の方々にもご覧いただけるようにと、話し合いをようやく始めているところです。ですから、今回の取材の話をいただいて、改めてやらなければいけないなと思っています。いい刺激をいただき、ありがとうございます。
関 そう言っていただけるとありがたいです。それにしても、これだけ長い歴史があると、GKだけでミュージアムがつくれるのではありませんか。
小野寺 たしかにGKは、日本のデザイン界のなかでは60年を超えての歴史があり、今日まで継続できているという意味では、確たる存在感があるとは思いますが、ありがたいことに、60年以上に渡ってお付き合いいただいているいくつかの企業をはじめ、そのほか多くの企業の方々のおかげだと思っております。GKは基本的にはチームデザインが基本なので、ずっと「アノニマス」という意識でやってきました。ですからアーカイブにしても、特に外に見せようとする意識をもたなかったかもしれませんね。特に榮久庵は、つねに前進、前進のリーダーでしたから、新しい発想でのものづくりを主体に動いてきましたので、創造したものの方が多くて、資料として保管する方がスピードとして追いついていくのが大変だったのかもしれません。
関 榮久庵さんという大黒柱をなくして、GKとしては今が再編のタイミングということでしょうか。
小野寺 そうですね。今がちょうどその時期ですね。もちろん領域別に分けたグループ各社が、これまで同様に経営することになるとは思いますが、榮久庵が残してくれたGKのデザイン思想なり、伝統として培われたGKならではの、大切な考え方や企業文化は確実に継続しつつ、新しい時代の変化に適応できるように、変革してくことも必要かと考えております。そのために、GKというひとつのグループとしてどう動いていくのか、方向性やビジョンを新しくつくらなければいけません。今まさにそれを、後を継いでいく幹部を中心に日々検討しているところです。
涌井 そういった意味でもアーカイブをつくる作業は、榮久庵さんのデザイン哲学を改めて認識するいい機会になりそうですね。
小野寺 まったくその通りだと思います。一つひとつ資料をひも解き、読み直していく過程の中で、その当時我々が気付いていなかったことが、あらためて理解できることが多々あると思われます。生前、榮久庵の近くで仕事をしていた我々が、空気のようにわかっていたと思っていたことが、存在がいなくなったことで、あらためて榮久庵の言葉一つひとつを思い出しながら、理解することになるそのプロセスが重要なのだと思います。また、他にはない貴重な財産を残してくれたことに、大変感謝もしております。今後も、次世代につなぐ意味でもアーカイブは最も重要なことだと思っております。
カタチだけでなく背景や思想を残し伝える意義
関 日本でも三宅一生さんを中心に、デザインミュージアムをつくろうという動きが出ていますが、それについてはどう思われますか。
小野寺 日本にデザインミュージアムがないのは不思議なくらいだと思っておりましたので、三宅先生が中心となってお考えいただいていることは本当にすばらしいと思っております。個人で所蔵されていても、保管するには場所も人手も必要ですから、やはりきちんとした公の機関なり施設を国内につくっていただけたらうれしいですね。昨今、デザインのアワードの種類も増えてきていて、各団体受賞作品なども一同に展示できる場所があるといいのではないでしょうか。そのことによって、日本の一般の人々にとっても、新たにデザインという仕事をご理解いただける場になるのではないかと思います。これまでの、すばらしい日本のデザイン製品が海外に流出してしまうのは心配ですし、もったいないですよね。我々も、GKの作品が社内に置いたままでは誰にも見てもらえないけれども、公のミュージアムにあれば恒久的に世界中の人に見ていただけるかもしれない、とも思いますし、なによりも東京にデザインミュージアムが実現したら、それにまさるものはございません。海外から来られる方々の、日本のものづくりの見方も、いい意味で違ってくるのではないかと強く感じました。
関 問題は、どう展示されるかですよね。今回の一連の取材で黒川雅之さんがおっしゃっていたのですが、プロダクトやインダストリアルデザインは、鑑賞物ではなく生活に密着したものなので、その背景やストーリーをきちんと見せることが重要で、ものを集めてただ置けばいいというものではないと。特に海外では、日本の文化的・社会的背景を汲み取った展示になるのかが難しいところだと思うのですが。
小野寺 背景や物語性がわからないと意味がないというのは、全くその通りだと思います。やはり工業デザインというのは、日常私たちが当たり前のように使っているプロダクト製品が多いので、道具として人間に対して深い意味をもっていることを理解してもらうことも重要だと思います。榮久庵の「道具論」にありますように、ものに心を入れるとは、ものの姿かたちを創造することであり、近代以後はこの創造をつかさどる職能がデザインだとも述べていました。そういう意味でも、人間と道具の関係という観点での展示もあるのかもしれませんね。そのことによって、日本の伝統と文化を背景にした、技術とデザインによる日本のモノづくりのすばらしさもご理解いただけるのではないでしょうか。そういう意味でも、日本にデザインミュージアムができるのは重要なことだと思います。
関 こちらのビルの近くに、榮久庵さんが使っていらしたお部屋がありましたよね。そちらは残される予定ですか。
小野寺 そうですね、そこは目白の閑静な住宅地にあるマンションの9階にあるのですが、歴史的にも貴重な会合が行われた場所でもありますからね。1973年にICSID(国際インダストリアルデザイン団体協議会)の国際会議を京都で開催することが決まったころに、亡くなられた丹下健三氏、小松左京氏、岡本太郎氏、川添登氏、等々のお歴々一同にお集まりいただき、会議を行った場所でもあり、歴史もあります。海外からの賓客もたくさん訪れてくださった記念の場所でもありますので、財団をつくったほうがいいという助言もいただいてはおります。榮久庵自身が、社会的影響力の大きい人物でしたし、国際的にも評価されてきましたから、財団をつくる価値はあると思っています。
涌井 半永久的に残すには、やはり財団をつくるのがいいかもしれないですね。
小野寺 ありがとうございます。あの場所には、榮久庵の仕事部屋と来客用の応接間、そして会議用のスペースがあります。今でもそのままにして管理している榮久庵の書斎は、自身でデザインした仏壇や、仏像、趣味だったヘラブナ釣りの竿類、曼荼羅の掛け軸、書の筆や硯、また机の下には仮眠できる畳と漆できた家具などが収納されています。応接間には榮久庵がデザインした珍しい作品を含め、世界各国のお客さまや友人からいただいたプレゼントや、海外で気に入って買い求めたものなど、記念になるものがたくさん並べてあります。いただいたものはすべて捨てずに取っておく人柄でしたから、飾りきれないものは箱にしまってすべて保管してあります。
晩年の5年間ぐらいは、毎年9月11日の榮久庵の誕生日にGKグループ各社から誕生日プレゼントを贈るということが習わしとなっていました。各社ともそれぞれに一生懸命考えて、会長に喜んでいただけるような創造的なプレゼントを用意するのですが、それが一つひとつ各社の特徴が表れていて、大変喜んで受け取っていました。そういったものも含めてすべて飾ってあります。また、ガラスの棚に並べてあるものについては、ただ置いてあるのではなくて、榮久庵が意図的に並べてあるものもあります。たまに見ると、動物の置物の位置が変わっていたりして。また、動物の置物などは「ひとつでは寂しそうだから、2つ並べることでかたちになる」と言って必ず複数で買っていました。このような配慮も、ものに対する榮久庵の優しさを感じるひとこまでもありましたね。
■栄久庵さんの部屋/目白にある榮久庵氏のアトリエ
涌井 お部屋を拝見させていただきましたが、デザインが人生そのものだった榮久庵さんの哲学が詰まっている空間でした。きっと、デザイナーの方が見たらもっと感動すると思います。
小野寺 まさしく、榮久庵の人生はデザイン哲学そのものだったと思います。晩年に集めたものは、自分のためというよりも、ものづくりのヒントになるように社員のために用意したという部分もあります。一つひとつのものを大切にし続ける根底には、それぞれに背景や意味があります。「人間ともの」との関係に対して、つねに心を配ることが信念としてあったのだと思います。だからこそ、集大成としての「道具寺道具村構想」の壮大な構想の実現に向けて取り組んだ晩年だったとも思います。特に2006年に和歌山の白浜の山中で実施した1週間の山籠修行は、日中過ごす書斎の部屋、椅子、机、照明、宿泊する寝室などは、すべてオリジナルでデザインしたものでした。この時に着用した作務衣だけは、三宅先生にデザインしていただいたものです。裏面にはあらゆる道具の数々が織り込まれているすばらしい作品でした。
■山籠修行を行う榮久庵氏
涌井 私どもPLATでは、来年度からデザインアーカイブにまつわるワークショップをやろうと思っています。デザイナーの方々にとって、他のデザイナーの仕事場はとてもよい刺激になりますから、そうした場をお借りしてデザインアーカイブの意義や可能性を話し合えたらと考えています。その会場に榮久庵さんの世界観が体現された目白のお部屋を使わせていただけたら、大変ありがたいのですが。
小野寺 もちろん、そういう機会にぜひ使っていただければと、大変うれしく思います。きっと同じクリエイティブな方々には、来ていただくだけで感じていただけるものがあるかもしれませんね。
関 ありがとうございます。今後のアーカイブに関する進捗などについても、また改めてお話をうかがいたいと思いますので、その際はよろしくお願いいたします。本日は、ありがとうございました。
文責:涌井彰子
榮久庵憲司さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
株式会社GKデザイン機構 http://www.gk-design.co.jp