日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
深澤直人
プロダクトデザイナー
インタビュー:2026年1月21日 11:00~12:30
場所:NAOTO FUKASAWA DESIGN
取材先:深澤直人
インタビュアー:久保田啓子 関 康子
ライティング:関 康子
PROFILE
プロフィール
深澤直人 ふかざわ なおと
プロダクトデザイナー
1956年 山梨県生まれ
1980年 多摩美術大学プロダクトデザイン科卒業後、
諏訪精工舎(現セイコーエプソン)入社
1989年 渡米、ID Two(現IDEO)入社
1996年 帰国、IDEO Tokyo設立
1999年 「WITHOUT THOUGHT」開始
2003年 NAOTO FUKASAWA DESIGN設立
2006年 Jasper Morrisonと共に「Super Normal」設立
2006年 21_21 DESIGN SIGHTディレクター就任
2007年 ロイヤルデザイナー・フォー・インダストリー(英国王室芸術家協会)
の称号を授与される
2012年 日本民藝館館長に就任
2014年 多摩美術大学統合デザイン学科教授に就任
2018年 イサム・ノグチ賞受賞
2022年 一般財団法人THE DESIGN SCIENCE FOUNDATION設立
2024年 多摩美術大学副学長に就任
2024年 Collab Design Excellence Awards受賞 フィラデルフィア美術館
2026年 文化庁 芸術選奨文部科学大臣賞(美術B部門)受賞
2026年 German Design Award as Personality of the Year 2026
Description
概要
AIで自動的に取材時のテープ起こしができるようになったが、今でも時間をかけてテープを聞き直し、音声の文字化を行っている。音声だけという聴覚の世界に没頭すると、取材時には聞き流していた、その人独特の言葉や言い回し、論の進め方に気づくことがあって、それがテキストをまとめるプロセスに大きく影響するからだ。
深澤直人のインタビューはそんな思いを強めてくれる。深澤の言葉、語りはしみじみと包み込むような広がりと深さがあり、その奥に「僕はそう思うんだけど、あなたはどうですか?」と、こちら側にさらに一歩深く考える「間」を与えているように感じられるのだ。そこには深澤の、自身のデザインや思想、行動に対する「静かな確信」と、多くの経験や出会いによって築かれた「直観への信頼」があるのではないだろうか。
深澤の世代、1950年代生まれのデザイナーが本格的に活動を開始する1980から90年代の日本は、バブル経済に至る高揚期からそれが弾け、デジタル化が進行し、資源や環境への意識が広がり、それまでのようにイケイケドンドンではすまされないという沈静期に移行しつつあった。社会や経済と密接に関係するデザインも、その意味を根本から問い直さなければならないパラダイムシフトに直面していたと言えるだろう。深澤はちょうどその時期に日本から遠く離れたシリコンバレーのエッジな環境に身を置き、次なるデザインを探っていた。
そして1990年代半ばに帰国してからは、それまでに蓄積したものを着実にかたちにしてきた。それは深澤が本インタビューで語っていた「小さなダイヤルを少しずつ回しながらゆっくりタンカーが向きを変えるように社会を変えていく。分かっている人が先行して小さなダイヤルを少しずつ回して、それに共感した人たちが後に続く。そうして社会が少しずつ変わり、デザインも変わっていくというイメージ」の実践に他ならない。
そのひとつは、デザインシンキングや『WITHOUT THOUGHT』に代表される、デザイナーの姿勢やアプローチを問い直す「行為としてのデザイン」である。もうひとつが、アフォーダンスといった科学的知見と深澤の直感が融合することで生まれた、普通やスーパーノーマル、普遍性を探求する「形としてのデザイン」である。深澤の実践は、まさに船がゆっくりと針路を変えるように、日本のデザインを新たな方向へと確実に導いてきた。そして今、この二つを統合する段階に差しかかっている。
今回のインタビューは、桜並木に面した、陽光が降りそそぐNAOTO FUKASAWA DESIGNの2階リビング──深澤の世界に全身で浸るような空間──で行われた。そこで私たちは、彼の言う「目的なき合目的性」を体感しながら、「統合の先に何があるのか」を語っていただいた。
Masterpiece
代表作
壁掛式CDプレイヤー 無印良品(2000)、携帯電話「INFOBAR」au/KDDI(2003)、 加湿器 プラスマイナスゼロ(2003)、スツール「Déjà-vu」MAGIS(2005)、シェルフ「Shelf X」B&B Italia(2005)、間接照明「wan」ヤマギワ(2005)、腕時計「TWELVE」ISSEY MIYAKE / Seiko Watch(2005)、トイレ「A・La・Uno」パナソニック(2006)、和紙製品「SIWA | 紙和」大直(2008)、アームチェア「HIROSHIMA Armchair」マルニ木工(2008)、 バスタブ「Sabbia」 Boffi(2008)、ボールペン「noto」LAMY(2008)、照明「MODIFY」 パナソニック(2009)、ラウンジチェア「Grande Papilio」B&B Italia(2009)、サイドテーブル「Marbelous」Marsotto edizioni(2010)、腕時計「ELLIPSE」ISSEY MIYAKE / Seiko Watch(2011)、ハードキャリーケース 無印良品(2011)、キッチン家電シリーズ 無印良品(2014)、 ケトル「Cha」 ALESSI(2014)、エレベーター「HF-1」 日立ビルシステム(2015)、ガラス食器シリーズ TG(2018)、アームチェア「KOTAN」カンディハウス(2022)、チェア「Asari」Herman Miller(2023)、シェーズロング「Tuscany」/アームチェア「Cinnamon」 Molteni&C(2023)、シャンデリア「Mokuren」Lladró (2023)、ドアハンドル「Dolmen」 OLIVARI (2025)
著書
『デザインの原形』六耀社(2002)
『デザインの生態学—新しいデザインの教科書』東京書籍(2004)
『デザインの輪郭』TOTO出版(2005)
『Super Normal: Sensations of the Ordinary』Lars Mueller(2007)
作品集『Naoto Fukasawa EMBODIMENT』PHAIDON(2018)
『ふつう』D&Department Project(2020)
『DESIGN SCIENCE_01』『DESIGN SCIENCE_02』『DESIGN SCIENCE_03』学芸みらい社(2023-2025)
『深澤直人のアトリエ』平凡社(2023)
Interview
インタビュー
僕らの世代がやるべきことは、
未来に向けて正しい絵を示すこと
山梨から世界へ
ー 世界を舞台に活躍されている深澤直人さんですが、デザイナーを目指すようになった背景について、伺いたく。
深澤 子どもの頃、小児喘息だったせいで学校を休みがちで家で絵を描いたり、工作をしたりしてすごしていました。父が電気関係の会社をやっていて2階が自宅だったので、身近にあった工事用の材料や工具をおもちゃ代わりにして遊んでいたんです。両親もそんな僕を見てガリ勉して進学するよりも家業を継いでくれればよいと考えていたようです。ところが、成長とともに元気になって中学生の頃はスポーツ少年に一変、特にバスケットボールにはまって部活に励みました。高校はバスケットボールの強豪校で、家業のことを考えて電気学科でトップクラスだった工業高校に入りました。そこでも部活に熱中していたのだけど、高校最後の試合が終わっていよいよ将来について考え始めた3年生の春、図書館で受験雑誌の『蛍雪時代』を手に取ったら「デザイナー」という文字が目に飛び込んできました。小さい頃から工作や絵描きが好きだったし漠然とアーティストに憧れていたのだけど、もちろん両親には反対されたし僕もアーティストとして生きていくことには難しさを感じていました。ところがデザイナーなら好きなモノづくりをしてお金も得られることを知って、「これだ!」と直感したわけです。さっそく親を説得して勉強にとりかかったけれど準備不足で1年浪人することになり、東京に来て御茶ノ水美術学院(お茶美)で本格的な勉強を始めました。お茶美と言えば、佐藤卓さんなど今活躍している多くのデザイナーが通っていた美術系予備校で、そこでいろんな人と出会ってデザイン界やデザイナーのことが見えてきたわけです。
ー そして多摩美術大学に入学されたわけですが、プロダクトデザインを専攻したのはなぜだったのですか。
深澤 デザインは大きくグラフィックかプロダクトかの二者択一だけど、産業という視点で見ると、あるいは造形に興味があったから、プロダクトデザインがより包括的かなあと判断しました。でもこれが僕のデザイナー人生の大きな分かれ道になった。実際、プロダクトデザインはグラフィックやメディア、空間まで含んでいるし、よい決断だったと思います。
ー 大学時代はどんな学生だったのですか。
深澤 親元を離れて思いっきりはじけたという感じ。(笑)山梨県は東京に隣接しているけど山に囲まれているから「山を越えて行くんだ」という意識が強くて、一度越えてしまうと戻ってこない人がほとんどです。当時の山梨県はデザインのデの字もないようなところだったし。
ー とは言え、大学卒業後は長野県の諏訪精工舎(現セイコーエプソン)という山に囲まれた企業に就職されました。
深澤 それは、僕が精巧で緻密なプロダクトに興味があったことと、たまたま諏訪精工舎(以下セイコー)でインターンをしたことが理由です。インターンには全国から60人くらいの学生が集まってきて1週間籠って課題に取り組むのだけど、参加者同士で競争心が芽生えてきて僕も負けまいと頑張ったらベスト3のひとりに選ばれた。その後はいわゆる青田買いというのかな、毎週有給の課題を出されるので真面目に取り組んでいたら、入社前にもかかわらず優秀な新人が入るらしいって噂になっていたようです。そんな経緯でセイコーに入社しました。長野県は八ヶ岳や諏訪湖、アルプス山系の雄大な自然に恵まれていたのでアウトドアライフを満喫できたし、今も自然から大きな影響を受けています。
ー セイコーでは時計のデザインをなさっていたのですか。
深澤 そうです。その頃、時計はアナログの時代でインダストリアルデザインというよりも工芸品に近かった。そんな状況を変えたのが当時の社長だった中村恒也さんでした。彼は1964年東京オリンピックで使われたクォ
ーツ時計の開発を率い、その後、世界初のクォーツ腕時計を実現した技術者で、めちゃくちゃデザインがお好きで社用車は黒塗りではなく白のクラウンだったし、ご自宅の設計や庭木にもこだわっておられるような人だった。
中村さんの発明以降、時計の主流は機械式からクォーツに変わり、セイコーも時計中心の精密機器メーカーから、腕時計という精密機器の技術を活かしたプリンターのヘッドを開発し、子会社のエプソン(旧信州精機)との合併を経て、現在はセイコーエプソンという総合デジタル精密機器メーカーに変貌しました。僕は80年代半ばに配置転換でデジタル技術を使った新製品や事業の開発をしていました。当時のデジタル分野は売り上げの10パーセントほどだったけれど、マイクロ技術とデジタル技術を融合した新しい産業をつくっていくのだという明快なヴィジョンがありました。
ー そこで、深澤さんはどんな仕事をなさっていたのですか。
深澤 セイコーはデジタルに大きくシフトしたのだけど、ではどんな製品をつくるの?となったときに社内に具体的なイメージをビジュアライズできて、ユーザーインターフェイスのような新しい領域のデザインを発想できる人材が少なかった。僕は新人だったこともあってセイコーの社員としてソニーなどのエレクトロニクスの先端メーカーから独自に学びながら、デジタルやインターフェイスデザインを自然に習得していきました。そのうえデザイン好きな中村社長が僕に目をかけてくださって、部長や課長を飛ばして直接いろいろなアイデアをぶつけてこられた。例えばテレビが見られる腕時計とか‥‥‥今まさにApple Watchで実現されたわけだけど、中村さんのこうしたユニークなアイデアを僕がビジュアライズしていました。時にはご自宅に呼んでくださりフランクなコミュニケーションをさせていただきました。中村さんは僕の人生に大きな影響を与えてくださったお一人です。
ー 社長からも一目置かれて順風満帆だった深澤さんが海外を目指された理由は何だったのですか。フロッグデザインやペンタグラムといった力のあるデザイン会社が日本に進出していたときに、ビル・モグリッジさんが率いるID Twoを選ばれた背景は?
深澤 そこには幾つかの要因があるのだけど、きっかけのひとつはAXIS誌でした。
ー 本当ですか?
深澤 そう。AXIS誌に出ているような海外の事務所やデザイナーの記事を読んで、国外で武者修行したいなあと考えるようになった。そこで僕は東京進出の準備中だったドイツのフロッグデザイン(以下フロッグ)という会社に面談に行こうとポートフォリオをつくって、AXIS編集長だった林英次さんに相談に行ったのです。そしたら彼は面談をしてくれて、「僕から推薦はできませんよ」と釘を刺されたけれどいろいろ助言をくださって、帰り際に「あんただったら行けるかもしれないよ」と一言、背中を押してくださったと感じました。
そして、東京事務所開設の準備に来ていたフロッグのボスのヘルトムット・エスリンガーさんと面接しました。僕のポートフォリオを見ながら「この模型はどうやってつくるんだ?」とか、面接というよりも日本のデザイン状況のリサーチという感じで、結局一人では決められないからポートフォリオを預からせてほしいと。彼はその後ドイツとカリフォルニアのスタッフと検討してくれて、そのときは「採用できないけど関係は保ちましょう」ということに落ち着きました。戻ってきたポートフォリオはボロボロになっていて、真剣に見てくれたのだなあと納得しました。それが海外でもやっていけるという自信になりました。
ー そしてID Twoに行かれたわけですが、その経緯は?
深澤 イギリスのデザイン会社ID Twoがカリフォルニアにオフィスを開設して、そこではシリコンバレーの地域性に対応してインターフェイスやインタラクションに特化したデザインを行うこと、さらにソフトウェアやエンジニアリングも取り込んだマルチディシプリナリーに業務を展開することを知って興味をもちました。さっそくポートフォリオをつくり直してボスのモグリッジさんに会いに行きました。彼はイギリス人らしい紳士的な人柄で、世界でいち早くインタラクションデザインに注目した人でした。
僕が世界の先端的な動向をキャッチして行動に移せたことは、セイコーエプソンで先端技術をビジュアライズしたことや中村社長との経験、それにAXIS誌からの影響が大きかったと思います。1990年代以降、僕がアメリカにいた1989年から7年間でこの分野は急発展を遂げました。これは時計のデザインが工芸からデジタルに置き換わったように、インダストリアルデザインが造形からGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)などのソフトへの変換期とピッタリと重なっていたのです。
ー 深澤さんはID TwoからIDEOへ、アメリカでデザインを続けられたわけですがどんな役割を担っていらしたのですか。
深澤 僕が幸運だったのは、親父が電気関係の仕事をしていたお陰で電気/電子系の知識があったこと、工業高校で既に図面が描け、構造、電子的な知識や原理を理解していたことです。その下地があったので、デザインプロセスやツールがコンピュータに変わってもスムースに移行できた。また、セイコーで時計をやっていたのでID Twoでは細部のデザインに長けていて、「ディテール・キング」と呼ばれていたんです。(笑)未発表だったけれどアップルのジョナサン・アイブさんと一緒にプロジェクトも手がけたし、当時のシリコンバレーは日本人が少なかったので現地では名の知れた存在でした。もちろん日本とのコミュニケーションも担当していて、AXISの取材で関さんたちが来てくれたときもご一緒しましたね。
ー そうですね。当時は日本企業も元気で海外のデザイン事務所とのプロジェクトに積極的でしたね。私はIDEOのオフィスに伺いましたが街もオフィスもすばらしく、みなさんが生き生きと楽しそうに仕事をしていて羨ましかったです。
深澤 そうですねえ。フロッグやIDEOといったデザイン会社は世界中に拠点を展開していて、グローバルかつ最先端のプロジェクトに携わっていました。日本にいた頃、雑誌などで彼らの記事を見るにつけ、広々としたオフィスや湖畔のリゾートホテルのような自宅での仕事や暮らしぶりが羨ましかった。時間的にも空間的にもそうした恵まれた環境に身を置きたいという気持ちになった。
ー IDEOで学ばれたことは?
深澤 僕がID Twoに入って2年目くらいかな、デザインを軸としたID Twoとデヴィッド・ケリーさんが率いるエンジニアリング事務所を中心に、いくつかの組織がひとつにまとまってIDEOになりました。ケリーさんはスタンフォード大学ハッソ・プラットナー・デザイン研究所(d.school)を創立し、今もIDEOの経営パートナーです。モグリッジさんは早く亡くなって残念だったけど、ケリーさんはd.schoolやデザインシンキング(デザイン思考)の考案者として、今やスタンフォード大学のスーパースターであり尊敬を集めています。僕はIDEOでいち早くデザインシンキングを経験できたことが本当に幸運で、帰国して最初にしたことはデザインシンキングを日本に馴染むようにかたちを変えて実践したことです。それは現在の流行語的なデザインシンキングとは異なりますけれど。

ID Two (現 IDEO) team 1989 : (後列 左から) Tim Brown, Chris Loew, Naoto Fukasawa (前列) Bill Moggridge, Jane Fulton Suri. Photo : Courtesy of IDEO
ー そんな恵まれた現場にいながら帰国を決意されたのですね。
深澤 やっぱり僕は日本人デザイナーだから。デヴィッド・ケリーさんが言っていた「アメリカではエンジニアがヒーロー、ヨーロッパはデザイナーがヒーロー」という言葉は印象的だった。彼はバリバリのエンジニアだったからそういう思いがあったのでしょう。でもデザインも愛していてヨーロッパのデザイナーたちとネットワークをもっていました。僕が日本に帰ると言ったら、エットレ・ソットサス、ミケーレ・デ・ルッキ、アントニオ・チッテリオといった重鎮に会うといいよと紹介しくれたほどでした。
ー それが、深澤さんがヨーロッパに進出につながったのですか。
深澤 名刺代わりにIDEOでの仕事をまとめてプレゼンしたら、彼らは「Wow!」という反応を示してくれて、独立したらヨーロッパでもやっていけるという実感を得られました。振り返ると、セイコー、ID Two/IDEOを経て、ようやくデザイナーとして世界が視野に入ってきたなあと感じました。
WITHOUT THOUGHTで扉を開く
ー けれど日本に帰国してしばらくIDEO Tokyoの代表を務めておられましたね。
深澤 日本に帰るならIDEOの東京オフィスを開設したらどうだい?とデヴィッドに言われ、僕もIDEOには7年半勤めて不満があったわけではなかったし、AXISビルにオフィスを借りてくれるというのでオファーを受けました。
ー それから6年間はIDEO Tokyoを率いられました。
深澤 アメリカから帰国して最初に感じたことは、インハウスデザイナー中心の日本企業は、外部のコンサルタントを使いこなすことが不得意だなあということでした。アメリカでは大企業がIDEOなどと専属契約してプロジェクトをアウトソーシングすることが当たり前だったけど、日本では予算規模がアメリカと違いすぎて受け入れられなかったのです。日本で事業展開していくためには日本流のやり方を確立する必要がありました。
そこで考えたのが、僕自身が企業内に入ってインハウスのデザイナーたちと一緒にやりましょうという方法です。毎回新鮮なコンセプトとメソッドを準備しようと試行錯誤を重ねた結果が「WITHOUT THOUGHT」でした。その後ダイヤモンド社と組んで DMN DESIGN WORKSHOPという枠組みで不特定多数の人を対象とした活動に発展しました。つまり僕が企業内に入り込んでIDEOで得た知見を活かしつつワークショップを行ってインハウスデザイナーのマインドセットのリセットを試みる‥‥‥いわばIDEO流のデザインシンキングを僕流にアレンジしたわけです。相手のマインドが変化すると、次は何かに活かしたい、さらに具体的なプロジェクトをやりたくなるだろうと予測していました。ただこのプロセスには一定の費用と時間が必要なのでデザイン部門だけで成立させることが困難です。結果的に事業部を巻き込むことになり、僕らにとってはプロジェクトの継続性や予算規模が改善されるという効果がありました。それ以前の企業と外部との付き合いは製品開発の最終段階で「絵を描いてください」という作業であり、ほとんどが単発の仕事だったので、IDEO流に仕事をするためにはこの関係性を変える必要もあったのです。
ー この時代、深澤さんからNECとIDEO Tokyoによるコンピュータ機器のデザイン言語開発のデザインについてプレゼンを受けたことがありました。
深澤 あれはNECデザインのアイデンティティを表象するデザインランゲージを創造するという大きなプロジェクトで、まさにWITHOUT THOUGHTの実例でした。ただ日本でプロジェクトを成功させるためには社内のキーパーソンの存在が重要で、NECではデザイントップだった榊原晏さんの存在が大きかった。
ー WITHOUT THOUGHTの影響は大きく、まさに日本のデザインにパラダイムシフトをもたらしたと思います。
深澤 僕にとっても大きな意義がありました。その言葉通り、人の意識下に潜む心理や行動に基づいてデザインを構想するという、まさに発想の転換をもたらしたと思います。もっと言うとIDEO流の論理的なデザインシンキングを超えて、何かを感じる/気づく力、つまりデザインセンシビリティーやデザインセンスという感性に注目したもので、今流行りのデザインシンキングとはちょっと違う気がしています。
ちょうどいい、普通、普遍性
ー IDEO Tokyoでこうした実績を重ねて、いよいよ2003年にNAOTO FUKASAWA DESIGNを設立し、世界に進出されました。
深澤 ちょうどその頃、日本の家電製品を変えようと「±0(プラスマイナスゼロ)」というブランドをおもちゃメーカーのタカラと一緒に立ち上げました。「±0」というネーミングは「ちょうどいい」、つまり目立ちもせず、大きくも小さすぎることもなく、生活空間のなかに「道具としてちょうどいい感じ」であってほしいという気持ちを込めています。最初は細々とやっていく予定でしたが、思いのほか評判を呼んでメディアにも取り上げられ、その後のデザイン家電ブームのきっかけとなりました。
この時期にミラノサローネに行ったら、『DOMUS』誌が「±0」を特集してくれたお陰で「これはおまえのデザインなのか?」って、すでに面が割れていました。(笑)ミラノサローネでは実に多様なデザインを一望できたのだけれど、当時のイタリアはブリンベガやオリベッティといった電機メーカーが勢いを失っていて、いわゆるインダストリアルデザインが衰退していたので、僕のような家電から家具まで幅広いデザインができる人が少なかった。「±0」のデザイナーということも手伝って、ダネーゼやB&Bイタリアといった欧州メーカーからいきなり仕事の依頼をいただきました。
ー 田中一光さんから無印良品(以下MUJI)のクリエイティブを引き継がれたのもその頃ですね。
深澤 僕が田中さんにお会いしたのは亡くなる1週間前に一回だけでしたので、なぜ僕を推薦してくれたのかの詳細は分かりません。田中さんはデザイナーとして優れているだけでなく影響力も実行力もあって、人を束ねてさまざまなプロジェクトやデザイン運動を仕掛けておられた。MUJIもそのひとつでした。
ー MUJIに関して深澤さんの「で」のデザインという言葉がとても印象に残っています。現在の深澤さんは「が」のデザインの世界で勝負されているように見受けられるのですが、詳しくお聞かせいただきたく。
深澤 「で」のデザインというのは、MUJIのコンセプトである「MUJI is enough」つまり「MUJIでいい」と言うことです。ある人が百貨店では気に入ったものが見つからなくてMUJIに来たら適正価格で「これでいい」というモノに出合える、そういうプロダクトを目指せばいいんじゃないかと。ただ、最近のMUJIは「これがいい」という風に変化していると感じています。実際にお客様からもそうした意見をいただいて、クリエイティブメンバーで議論を交わしている最中です。特に化粧品は老舗と競合しながらも実績を伸ばしていて、感性や美的な領域に広がりつつあると感じています。
ー そして2006年にジャスパー・モリソンさんと共同で「スーパーノーマル」というコンセプトを展覧会や書籍を通してメッセージされ、これがまたデザイン界に大きなインパクトを与えました。
深澤 スーパーノーマルとは時代を超えた「普通」で、あまりに普通すぎて意識すらされないけれど何だか愛着が持てて手放せないもの。人の根源にある普遍性のデザインということです。
デザインの出汁あるいは
「目的なき合目的性」
ー つまるところ、深澤さんが目指しているデザインの根本って何なのでしょうか。
深澤 僕なりの表現をするならば、あらゆる料理の素になる「出汁」をつくるという感じ。おいしい出汁さえあれば料理人は塩や調味料を足して独自の味つけをすればよくて、デザインも同じだと考えています。僕は自分を出汁デザイナーと称していますが、メーカーの多くは味付けを求めてきます。(笑)それでも僕は「いや、出汁だけで十分おいしいですよ」と言っているので、ヨーロッパでは「深澤はアイコン=出汁をデザインする」と認知されているようです。
ー 振り返ってみると、深澤さんは一貫して出汁づくりを実践しておられます。WITHOUT THOUGHT、デザインの輪郭、デザインの原形、スーパーノーマル、optimum、original、普通、「で」のデザイン、民藝、統合デザインまで。

『デザインの輪郭』TOTO出版(2005)(左)、「SUPER NORMAL」展 AXISギャラリー(2006 )Photo : 中道淳、Nacása & Partners Inc.
深澤 そうです。みんながおいしいと思うスープの出汁をデザインしておけば、後はどんな風にでも味付けできますから。
ー 深澤さんの取り組みは、デザイン概念を形から意識や行為へ向かわせる原動力になっています。
深澤 日本の経済成長は新しさの追求で実現してきたけれど、僕が最近感じているのは哲学者のイマヌエル・カント(1724-1804プロイセン)が言った「目的なき合目的性」*です。これは彼の著作『判断力批判』のなかで「美の定義」として提唱された概念です。
僕はこの言葉に出合う以前、自然界は秩序ある世界だと捉えていました。ところがカントに言わせると自然は混沌だそうです。無秩序で混沌とした自然界において、例えば、夕空が美しい紫色に染まる瞬間、その夕焼けを背景にムクドリの大群が飛翔する様‥‥‥人はこうした圧倒的な光景を美しいと感じ、心が動かされます。けれど自然界は人を感動させるという目的のためにこうした現象を起しているわけではありません。自然の偶発的な現象はコンピュータで解析したり人工的に再現はできないけれど、人間は自然の複雑性に美を感じとるわけです。
僕らは今、混沌とした世界に生きています。格差や差別、戦争も身近になっています。そんな混沌とした世の中だからこそ、自然界の現象のように、まるで偶然に現れたかような美しいデザインに出合ったときに、人々の心は動き、すてきだねと納得してくれるのだと思うのです。もちろんデザインは人間が意図してつくるものだけど、それがあたかも人間の意図を超えた何か、意識下に潜んでいる何かに触れたときに、そのデザインは誰からも受け入れられることができる‥‥‥と、僕はカントの哲学に行き着いたわけです。
* 特定の目的や実用性をもたない(目的なき)にもかかわらず、形態や構造がまるで何らかの目的があるかのように感じられる(合目的性)美のあり方、つまり「美の形式性」や「自由さ」を指す
ー なんか問答のようになっていますが‥‥‥(笑)
深澤 (笑)毎日おいしい味噌汁を食べていると、そのおいしさの理由をいちいち意識しないでしょう。デザインもそのレベルまでいかないといけないと思うわけ。換言すれば、毎日おいしい味噌汁を食べることが秩序(オーダー)だとすると、それに気づくためには不味い味噌汁を食べるという混沌(カオス)を体験することも必要です。デザインに置き換えると、実際は人がデザインしているんだけど、あたかもデザインしていないように思わせるもの。
ー 深澤さんはこのようなことを考えながらデザインしているのですね。
深澤 僕は子どもの頃から天邪鬼というのか、「それ本当なの?」みたいな感覚がとても強かった。今思い返すと、そもそも混沌こそが自然な状態なのに、妙に整然として秩序だっている感じに違和感を覚えていたのだと思います。
もっと言うと、混沌から自然発生的に発せられた言葉ではなくて、何となくその場の空気を読んだ発言が当たり前になっている世の中ってどうなのかなあ?と思っていた。たしかに現代社会は情報や問題が多すぎて一つひとつ誠実に向き合うことは無理なのだけど、それにしても積極的無頓着がはびこりすぎていて、このまま行くと危険だなあと思うのです。積極的無頓着とは意図的に見ないようにすることで、そうしている限り根本的な解決にはならないでしょう。
加えて、小さい頃から生活用品や道具に対して「何か変だなあ」「何でこうなんだ?」という疑問がいっぱいありました。今、デザイナーになってあらためてデザインの名品/名作を見ると、そこには納得できる答えがしっかりあります。それは僕だけなくて誰もがわかります。突き詰めていくと、それら名品たちはデザイナーの意図を超えて今ここに存在しているのです。最近21_21DESIGN SIGHT(以下2121)で『デザインの先生』という展覧会を企画して、B・ムナリ、A・カスティリオーニ、E・マリなどといった巨匠のデザインのすばらしさを再確認しました。今の僕のテーマは、デザインを僕がやったことではないように表現すること。つまり僕自身が自分を自然化したいのだと思うのです。人間は自然の一部なのだから。
ー あのミケランジェロは「彫刻家の仕事とは石材にすでに内包されている彫像を発見し掘り出すこと」と言っていますが、深澤さんの「自身の自然化」とはそういうことでしょうか?
深澤 彼は天才だから、巨大な大理石を前に足の指から彫り進めたという逸話も残っていますよね。それって自分を超えた自然の力が働いているという境地なのでしょう。イサム・ノグチも同じような話をしていました。あるとき石を掘っていたらパーンと欠けてしまったけれど、自分の意図を超えたすばらしい造形だったのでそのまま作品にしたという。つまり己の力だけでは出し得ない何かが、その瞬間に統合(インテグレート)されたということです。
ー 人智を超えた何かが起きたとしても、その瞬間を見極めるのはデザイナーであると。
深澤 デザイナーは自分という媒体を介してデザインするわけだけど、目的はそこではない。なぜならデザインは他人が使う道具をつくることだから‥‥‥。デザイナーのなかにはアーティスティックに自己表現にこだわる人もいるけれど、僕ら、特にプロダクトデザイナーは、そのあたりに漂っているようなもの、当たり前に存在するものをつくっているわけです。
民藝、可愛らしさ、自然な感じ
ー 深澤さんは日本民藝館の館長も勤めておられますが、今の話は民藝にも通じますか。
深澤 民藝の心も今の話と基本は同じです。まず、「民藝」には名前がない、作者もいない、どこでどう生まれたかも分からない。民藝とは柳宗悦が客観的に発見し、収集した民具たちです。金箔が輝く美しい工芸品が評価されていた時代に、柳が「いや違うぞ、素朴なありのままの造詣こそが美しいのだ」と言ったら、「たしかにそうだね」と共感する人がたくさん集まった。柳はその人たちと同人会をつくって、彼らとともに生涯で1万7千点という驚異的な収集を成し得ました。民藝はその土地の素材と手法を前提にその地の手作業から生まれる道具で、無名性が基本です。熊本県の小鹿田焼きはまさにそういうかたちで繋がっています。一方の工芸は師弟関係を前提に技が伝承され、専門性、作家性が確立されたきわめて人為的な世界です。
ー プロダクトデザイナーの視点から、民藝の魅力とは何でしょう。
深澤 僕は「阿吽の狛犬」をコレクションしていますが、これらは普通の人が身近な人たちのために制作した物です。個々の完成度は高くないけど、一つひとつに個性があってめちゃくちゃかわいいし魅力的です。日本民藝館で70個ほど収蔵している沖縄の「厨子甕」も気に入っています。厨子甕とは風葬で白骨化した遺体を女性たちが洗骨して納める骨壺です。ちょっと怖いけど、家の形が可愛らしく愛があるんです。
日本民藝館の館長になって収蔵品を一望してみると、柳が収集した物はかっこ良くないけど愛らしく、ザクザクと触りたくなるような愛着を感じます。これを出汁の話に寄せると、もともとある原型にぽっぽっと魔法の粉を振りかけると可愛らしさが生まれるということ。つまり完璧でないことで人間性が表出しているわけで、自然な感覚というものに通じるのではないか。
ー 深澤さんは世界中で仕事をされています。出汁のデザイン、自然な感じという発想は、グローバルに仕事をするときにどう影響しますか。
深澤 多くのデザイナーは、現地化=ローカライゼーション、つまり「味付け」を意識するけど、僕はWITHOUT THOUGHT、つまり人間の身体性や思考は無意識レベルでは共通しているという前提に立っています。人類がおいしいと感じる出汁さえあれば、そこにカレーやクリームを足せば勝手においしい味になってくれると信じています。
グローバライゼーションの拡大と共にその土地の歴史や文化が見直されるようになった。もちろん大切なことだけど、僕は人間が使う道具をデザインしているので、突き詰めていくと人類共通の出汁のような形になっていきます。例えば、誰もが認める美しいドアノブはヨーロッパだ、アジアだといった地域性に関係なく、その建築や空間の質を高めてくれるでしょう。
統合デザインへ
ー 今、私たちはNAOTO FUKASAWA DESIGNの2階のリビングでインタビューをしています。この建物、空間はまさに深澤さんの出汁デザインの集大成ですね。
深澤 そうです。この建物は僕のデザインコンセプトを統合したもので、性能とコスパ至上の商品住宅とは根本的に違います。ここで暮らしていると静謐な気持ちになり余計な物は置きたくないし、センスが磨かれてより上質な体験を望むようになると思うのです。そして美しく整えられた空間でおいしいお茶を飲みながら会話を交わせば、上質なデザインについて「ああ、なるほど」と共感してもらいやすくなります。つまり、先述の「目的なき合目的性」に通じるのだけど、ここでの体験が人にそう思わせるわけです。ところが現在の日本はそうなっていない、そこが大きな課題です。

深澤が自ら建築デザインも行ったNAOTO FUKASAWA DESIGNの建物。室内には深澤が手掛けた家具や道具が配され、まさに深澤風に統合された環境だ。 Photos: 小川真輝 (Pen2022年4月号掲載)
ー 例えば、高度成長期やバブル期の日本人はより良い物への欲求があって、それがデザインを発展させる原動力になっていたと思います。が、今のように人々の欲望が小さくなってくるとどうなのでしょうか。
深澤 とは言え、バブル時代と比べて現在のデザイン水準は向上しています。だから、若い人のなかにはいきなり僕が話しているような世界を理解できる人も多い。またバブル期よりも世の中が混沌していて明るい未来を描きづらいから、なおさら身近なところで完結されかつ統合された生き方を求める人が増えているように感じます。高度成長期やバブル時代を生きた若者たちとはまったく方向性が違うのです。
これは、デザインにとって大切なことです。彼らは大きなハンドルでドラスチックに社会の舵をきるのではなく、小さなダイヤルを少しずつ回しながらゆっくりタンカーが向きを変えるように社会を変えていく。昔のようにみんなが一斉に行うのではなくて、分かっている人が先行してダイヤルを回して、そうだねと共感した人たちが後に続く。そうして社会が少しずつ変わり、デザインも変わっていくというイメージです。
ー デザインは、つくり手であるデザイナーと受け手である使用者によって成立します。つくり手は深澤さんの影響を受けていますが、使用者側はどうなのでしょう。
深澤 日本では社会の豊かさを測る際、GDP(国内総生産)のような経済指標が重視されがちですが、これはあくまで「経済活動の規模」を示すものであり、「生活の満足度」や「幸福」を直接表すものではありません。そのため近年では、ウェルビーイングや生活の質(Quality of Life)といった指標の重要性が指摘されています。ブータンのGNH(国民総幸福量)や、デンマークを含む北欧諸国で重視されている生活満足度指標など、GDP以外の尺度も世界的に広がっています。実際、国連の「世界幸福度報告」ではデンマークは常に上位に位置しています。
しかし、「生活の満足度」を完全に表す単一の指標は存在せず、複数の視点から総合的に捉える必要があります。こうした状況のなかで、これからのデザイナーに求められる資質は、ウェルビーイングやESG(Environment:環境、Social:社会、Governance:ガバナンス)といった抽象的な概念を、具体的な生活やデザインへと翻訳していく力だと考えられます。
一方、使い手にとって大切な点は、自分が良い生活やデザインにしっかり対価を払っているのかということ。言い換えると「一生ものと一生付き合うのだという心構え」です。日本人の場合、20代はアパート、30代で賃貸マンション、40代で土地を買って家を建てて、生活場面が変わるたびに新しい家具や家電を新調することが当たり前でした。けれど学生だって気に入ったならば高価な物でも買うべきで、それを一生使えば決して高くはないのです。イタリアでは子どもの頃から一生もののスプーンで食事し、先祖が伝えてきた建物や家具に囲まれて生活します。日本の建物は安全性や快適性が担保されているけれど、古くなったらすぐに新しくすることの繰り返し。だけどこんな短期的な発想からは真の安全や持続可能性は実現できません。
ー そう考えている深澤さんにとって、あらためてMUJIはどんな存在でしょうか。
深澤 そうですね。最近、一生ものということを意識し始めています。一生ものであればシーズンごとのデザイン戦略は必要なくなる。栓抜きだって昔の三ツ矢サイダーの栓抜き、つまりスーパーノーマルな道具で十分なわけです。残念ながら今の日本はここに至っていないので、コピー&ペーストした薄っぺらな物や空間がどんどん増殖している。それが現代日本の実相です。
ー そんなかで深澤さんが多摩美術大学に創設した統合デザイン学科ではどのような人材や教育を目指しているのですか。
深澤 何と言っても「気づき」。出汁でもデザインでもいいんだけど、アッと気付く瞬間は誰にでもある。それをひとつでも多く見つけられる「目」と「感覚」を4から6年間で育ててほしいと考えています。
ー 「美しい社会を構想し具体化できるデザイナーを育てるため、従来の領域の区分を取り払い、統合されたデザインを起点としながら、社会や産業を構成する複雑な問題に取り組むための新しいデザイン教育の場」とありますね。
深澤 美しい社会、美しいデザインとか、ちょっと高尚なことを目指しているんだけど、授業は抽象的になりすぎずにプロジェクト形式を採用してかなり具体的に進めています。ただ問題なのは、彼らを受け入れる産業側がそんなに高尚なことは求めていないので、就職というシステムにおいて彼らの学びが活かしきれないことです。興味深いのは、シンクタンク系企業が統合デザイン学科の卒業生を欲しがっているということ。彼らは自分たちがその部分が弱いと気付いていて、自分にないものはできる人に任せよう、一緒にやって行こうと行動しつつあります。これはデヴィッド・ケリーさんのIDEOやd-schoolがいち早く実践していたことで、そこに明るい兆しを感じています。また、高度なテクノロジーやリソースを持っている企業のリーダーたちもそのあたりのことを理解しています。けれど、僕の考えを実装させる社会構造が未熟なので、僕の世代でパラダイムシフトが果たせるかは分かりません。
ー その兆しは深澤さんの仕事にも影響を与えていますか。
深澤 そうですね。僕は最近いわゆるメーカーではないところ、県とか市といった行政からも相談を持ち掛けられているのだけど、実際に仕事とするとなかなか大変です。
ー 地元の山梨県でいろいろ動かれているようですね。
深澤 山梨県で今一番大きなプロジェクトといえばリニアモーターカー関連で、甲府駅前開発などの提案を行いました。一般的に駅前開発というとコンサルタントやディベロッパーが主導権を握ってオフィスや商業施設、集合住宅が入る高層ビルを建てますが、そのせいで日本中が同じ街並みになりつつあります。僕は航空写真で甲府市街地に緑がないことに気づき、駅前だけでなくリニアの橋脚などの構造物も森で覆ってしまおうと提案しました。僕らの世代がやるべきことは未来に向けて正しい絵を示すことだと考えています。
デザインアーカイブについて
ー 深澤さんは今、多摩美の副学長や日本民藝館の館長に加え、2022年には自らの一般財団法人THE DESIGN SCIENCE FOUNDATIONを立ち上げ、全デザイン界を視野に入れた活動を実践しておられます。そんななかでご自身のアーカイブについてはどうお考えですか?
深澤 アーカイブはここと倉庫に保管しています。倉庫にはプロトタイプもあります。僕の場合、家具のような大きなプロダクトも多くて自分ですべては保管できません。だから大きなプロダクトはメーカー側にあればいい、つまりどこに何が保管されているかを把握していれば必要なときに集めればいいと考えています。
2024年、僕はフィラデルフィア美術館が主催するCollab Design Excellence Awardsの受賞を機に、同館で「Naoto Fukasawa Things in Themselves」展を開催しました。そのために展示物の幾つかはメーカーのアメリカ支店に手配してもらいました。でもこの方法が可能だったのは現在販売されているプロダクトだったからで、模型やプロトタイプはこのやり方はできません。結局、デザイナー自身、メーカー、美術館や大学などに分散しているアーカイブをその都度集めてくることになるので、情報やデータは自分で整理しておくことが前提だと思います。僕はまだ「死んだ後はなくなってもかまわない」という心境に至っていませんから。(笑)

2024年のCollab Design Excellence Awardsの受賞を記念して、フィラデルフィア美術館で開催された「Naoto Fukasawa: Things in Themselves」展。Photos : NAOTO FUKASAWA DESIGN
ー プロダクト以外の図面やスケッチ、模型などはいかがですか。
深澤 スケッチや図面、写真、メモはあります。僕はあまりスケッチを描かないけど、フィラデルフィア美術館の個展のときに久しぶりにスケッチを引っ張り出して見直しました。一筆書きのようなスケッチなのにコンセプトがきちんと表現できていたことに感心し、こんなシンプルなスケッチでメーカーや職人さんとやり取りしながらプロダクトをつくってきたのだなあと感慨深かったですね。
ー 図面はどうですか? 深澤さんの世代はまさに手描きからデジタルの移行期とパラレルだったわけですが。
深澤 僕はアナログ図面をわざわざデジタル化していないけど、その傾向はますます加速するでしょうね。アーカイブは使われなければ意味ないけど、結局インターネットで検索するわけだからデジタル化しておかないと活かされないかもしれない。
ー デジタル、AIはデザインにどのような影響を与えるとお考えですか。
深澤 デジタルの登場でデザインは飛躍的に変わりました。どんなに優れたデザインでも手描きの図面では製造できない。今や現場では図面を読める人がほとんどいませんから。一方で、コンピュータやデジタルのスキルに長けていて一見きれいなサーフェイスを描けるデザイナーが増えるとしたら、それは憂慮すべきことだと思います。
AIもデザインツールとしては既に入り込んでいますし、何かを選択する段階においてAIの意見を聞くことは当たり前になりつつあります。僕のようにメディアに出ていると、AIにとって「深澤直人風のデザイン」をすることはたやすいことで、その程度なら今でも簡単にやられてしまいます。そうなったら嫌だけど、AIに対抗して違うことをするしかないですね。ただ、AI に「深澤直人ってどんな人?」と尋ねると、「素性はわからない」と出てくるので、今のところ上手に隠れているのかな?と思う。(笑)なぜかと考えると、僕のデザインはスタイルではなくて出汁を求めているから類型化することが難しく、AIには認識しづらいのかもしれません。
ー 日本のデザインミュージアムについてどうお考えですか。
深澤 僕にとってデザインは日常使い、使われることが前提なので単なる展示では面白くないと考えます。そういう意味で今のミラノサローネにデザインミュージアム的要素を見出せると思います。なぜなら、最新のデザインの数々が工夫を凝らして展示/発表されていて、商用ではなくデザインを楽しみに来ている一般人が多い。実際ファミリービジネスだった名門家具メーカーの多くが買収されてしまい、ミラノサローネの在り方は以前と大きく変わってしまいました。けれど僕が付き合っている30社ほどのクライアントは今も頑張っているし、彼らとの仕事は優れたデザインのプロパガンダとプロモーションになっていると思います。
一方で、さっきのカントの「目的なき合目的性」ではいないけれど、人間にとっては選択肢がたくさんあることはかならずしも幸せではなくて、必然的に現れた物はひとつあれば十分なわけです。そう考えるとデザインミュージアムが人々に対して何を示していくべきか、おのずと道筋が見えてくるかもしれません。
ー さて、深澤さんが立ち上げた「THE DESIGN SCIENCE FOUNDATION」について伺いたく。設立されて4年がたちましたがいかがですか。
深澤 クリエイティブを探求するデザインとサイエンスの専門家が、世の中を美しい方向に導く状況を生み出したいと考えるようになったのが設立の由縁です。財団なので営利活動ができず、運営資金は僕の会社と僕自身が賄っています。活動としては、科学、芸術、文学、デザインなどさまざまな分野で活躍している方々を招聘し、フィジカルとオンラインの両輪でDESIGN SCIENCE ACADEMY というフォーラムを開催し、その場でPRIZE for LEADING CHARACTER を授与しています。またフォーラムに参加いただいた作家の平野啓一郎さんや解剖学者の養老孟司さんとの対談、各界の方々に寄稿いただいた論文を編集して『DESIGN SCIENCE』という書籍シリーズを出版していて、昨年で3冊目となりました。
養老孟司さんは多忙ななかでフォーラムに参加してくださり、あらめて養老さんの思考のすばらしさを身近で垣間見、その時間と空間をご一緒できたことだけでとても満たされました。それが僕にとっての真実で、本物の残し方です。今、世界中がフェイクだらけだから、本物がすごく重要な時代だと思っています。本来はもっと多様な活動ができそうなのですが、僕自身が群れることが苦手で‥‥‥そこを何とかしなければなりません。


THE DESIGN SCIENCE FOUNDATIONのウェブサイト(左上)、 第一回DESIGN SCIENCE ACADEMYの様子(右上)、 『DESIGN SCIENCE 3号』(2025 学芸みらい社刊)の特集は「混沌を編む」。(左下)
ー 将来、同財団が深澤さんのアーカイブを保管、管理していく可能性はあるのでしょうか。
深澤 可能性はありますが、そのために財団を設立したわけではありません。それでは財団としての公益性を見いだせないし、現在は深く考えていません。実際、アーカイブ整備には大変な労力と時間がかかり、それを継承していかなければなりません。僕は財団として、デザインの「知」「思想」のアーカイブを残すことに興味があります。
ー 最後の質問です。深澤さんの足跡を伺っていると何ひとつ無駄、失敗がない、すべてが今の深澤さんにつながっていると感じました。それって戦略的だったのかそれとも結果だったのか。
深澤 僕は戦略家ではないです。(笑)物事の選択は感覚的です。ただ後で、それがどうして正しかったのか、そうではなかったのかをとても細やかに分析します。でも、勘でいった方がいいというのは間違いないと思います。人間の生きるうえでの行為には、生きるか死ぬかという二択しかない。だから通常の人間の行為は生きるための選択しかないと、生体心理学でも言われています。例えば、人って苦しくなったら無意識に空気を吸おうとするでしょう。頭で考える前に身体がそうする。人生の選択もそれに近いんじゃないかと思うのです。だから、本当に最後まで人間は生きる方向の選択をしている。そういう意味で、根本的には間違った答えは選ばないんじゃないかと僕は思っています。だから考えるべきことが出てきたら、自分がいいなあ、しっくりくるなあと感じられるか否かで判断してきました。
ー その判断には人との出会い、物との出合いも関係ありますか。
深澤 良い選択ができた背景には、そこに至るまでにじれったさやそろそろ次だなあという迷いがあって、それが次に進むタイミングだったと言えます。「目的なき合目的性」に置き換えると、自分で選択できたのは目前にビル・モグリッジさんやデヴィッド・ケリーさんがいて、田中一光さんからMUJIを、三宅一生さんから2121 を頼まれたという、必然性があったのかもしれません。そう思うと、誰かがどこからか僕を見ていて、繋がったり引き寄せ合ったりするのだと思います。結局は人なのかもしれませんね。
ー 本日はNAOTO FUKASAWA DESIGNの日差しが温かいお部屋で、おいしいカフェをいただきながらの長時間のインタビューありがとうございました。深澤さんからは発せられる言葉がとても素敵でした。これからのご活躍を楽しみにしております。
深澤直人さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
NAOTO FUKASAWA DESIGN
https://naotofukasawa.com