日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

早川良雄

グラフィックデザイナー

 

インタビュー01:2024年3月6日
インタビュー02:2024年4月3日

PROFILE

プロフィール

早川良雄 はやかわ よしお

グラフィックデザイナー

1917年 大阪生まれ
1936年 大阪市立工芸学校工芸図案科卒業
1937年 三越百貨店入社、大阪支店装飾部配属
1938年 兵役
1943年 中国より復員、三越百貨店復職
1944年 大阪市役所文化課転職
1945年 再召集、終戦後大阪市役所復職
1948年 近鉄百貨店宣伝部入社
1952年 近鉄百貨店退職、フリーランスへ
1954年 早川良雄デザイン事務所設立
    大阪府芸術賞受賞
1955年 第一回毎日産業デザイン賞受賞
1961年 東京事務所を銀座に開設
1964年 浪速芸術大学(現大阪芸術大学)教授就任
1971年 大阪事務所を閉鎖
1982年 紫綬褒章受章
1984年 第五回山名賞受賞
1988年 勲四等旭日小綬章受章
1998年 事務所を鎌倉の自宅に移転
2009年 逝去

早川良雄

Description

概要

早川良雄は戦後のグラフィックデザイン界を牽引したマエストロの一人である。終戦後1950年代、日本は朝鮮特需を契機に戦後の不況、混乱からようやく脱出し、産業経済の復興が本格的に始まった。産業デザインにおいてはメーカーが社内デザイン部門の相次ぎ設立し、ビジュアルデザインの世界では1951年に日本宣伝美術界会が設立され社会的な認知を得る。グラフィックデザイン界でも戦前から活動していた人々に加えて戦中派世代が台頭し新しい表現が模索されるようなる。その中心にいたのが、評論家の勝見勝が「東の亀倉雄策、西の早川良雄」と語ったと言われる二人だ。
1915年生まれの亀倉と1917年生まれの早川はほぼ同時代に生きたが、デザイナーとしては好対照だった。亀倉は、戦時中は名取洋之助らが立ち上げたプロパガンダ誌「NIPPON」のデザインメンバーとして活動、戦後も国家プロジェクトや大手企業のCIデザインなどを手がけデザイン界の王道を歩んだ。一方の早川は、戦中は2度徴兵され最初は中国に5年ほど駐屯し、その間デザインの仕事から離れざるを得なかった。戦後は大阪を拠点にグラフィックデザイナーとして頭角を現し後に東京に拠点を移すも、国家プロジェクトとは一線を画した独自の活動を展開した。
作風においても対照的で「構成の亀倉、色彩の早川」と評され、実際に二人が残した文章や談話からは互いにそのことを自覚し、意識していたことが読み取れる。亀倉の正攻法なデザインに対して、早川の美しい色彩と誌的で繊細な表現は、メッセージを直截せずに観る側、受ける側の託す重層的なニュアンスが特長である。
同時代の亀倉や田中一光らが客観的な立ち位置からデザインの近現代化を推し進めたとするならば、早川はその渦中からあえて距離を置き、主観的に自身の美意識をデザインという手法を用いて探求したと言えるだろう。だからこそ、わかりやすさ、シンプルさ、透明性が求められる現在、早川の一筋縄ではいかない複雑さ、本人が言うところの「虚と実のはざま」にあるデザインが新鮮に映るのである。
今回は、その早川コレクションを有する大阪中之島美術館、菅谷富夫館長と早川事務所に10年在籍したTCD会長の山田崇雄さんに、早川のコレクションとアーカイブ、その人物像と仕事について伺った。

Masterpiece

代表作

ポスター「カロン洋裁研究所」カロン洋裁研究所(1951~)
ポスター「秀彩会」近鉄百貨店(1951~)
雑誌表紙『デザイン』美術出版社(1963)
ロゴ「関西テレビ」関西テレビ(1963)
モニュメント 現東洋紡績敦賀第二事業所 (1964)
ポスター「第五回東京国際版画ビエンナーレ」(1966)
雑誌表紙『文学界』文藝春秋社(1971~1972)
書籍装丁『画集・泉茂』講談社(1978)
タピストリー 大阪芸術大学塚本記念館(1981)
ポスター「西武のきもの」西武百貨店(1982)
陶壁 アクティ大阪 (1983)
ポスター「第一回東京国際映画祭」東京国際映画祭実行委員会(1984)
ポスター 「文化を知る」伊奈製陶(1984)
書籍装丁『画業・泉茂』講談社(1989)
壁画 南海サウスタワーホテルロビー (1990)
ポスター「ゼロ」モリサワ(1991)
ポスター「日本のイラストレーション50年展」ギンザ・グラフィック・ギャラリー(1995)
雑誌表紙『日経デザイン』日経BP社(1995)

 

アートワーク

アートワーク「形状」シリーズ (1968~)
アーロワーク「顔たち」シリーズ (1968~)

 

著書

『早川良雄の世界』竹尾(1983)
『早川良雄の世界 その情感と形状』講談社(1985)
『徒然感覚』用美社(1986)
ggg books 4 『早川良雄』ギンザ・グラフィック・ギャラリー(1993)
『早川良雄の仕事と周辺』六耀社(1999)
なにわ塾叢書、第73巻 『虚と実のはざまで』ブレーンセンター(2000)

 

早川良雄 作品

Interview 1

インタビュー01:菅谷富夫

インタビュー01:2024年3月6日 15:00~16:30
取材場所:大阪中之島美術館
取材先:菅谷富夫さん(大阪中之島美術館館長)
インタビュー:久保田啓子、関康子
ライティング:関康子

早川さんのなかでは、後世に残したいデザインと
残したくないデザインがはっきり線引きされていたのです

早川良雄との出会い

 

 この度、菅谷さんには、早川良雄コレクションを有する大阪中之島美術館の館長、また2012年開催の「早川良雄の時代―デザイン都市・大阪の軌跡」展の企画者として、早川さんの仕事やそのアーカイブついてお話を伺いたく。最初に、お二人の出会いは?

 

菅谷 私は早川さんの晩年、お亡くなりになる10数年前からのお付き合いです。出会いは、90年代半ばだったと思います。早川さんは1961年に拠点を東京に移された以降も大阪で活動されていて、グラフィックデザイン以外にもタペストリーやオブジェなどの制作を手がけていらっしゃいました。
特筆すべきは、今橋画廊や、そこを出た松原光江さんが主宰する番画廊などで精力的に個展を開催し、ライフワークとも言える「形状」や「顔」シリーズを発表していたことです。そこは早川さんの関係者や大阪のデザイナーたちの交流の場にもなっていて、私もそんな機会に早川さんとお会いしたのだと思います。

 

 早川さんは2009年に92歳で逝去されていますが、その10年前に『虚と実のはざまで』という本を出版されています。これは「なにわ塾」という講座での話をまとめたもので、この本のあとがきを菅谷さんがまとめられていますね。

 

菅谷 なにわ塾は、江戸時代に大阪にあった適塾や懐徳堂といった学問所の伝統を踏まえ、大阪で活躍する方々のお話を車座で聞こうという講座で、後にその内容は「なにわ塾叢書」として書籍化されました。『虚と実のはざまで』はそのシリーズの一冊です。早川さんの講座は26人の塾生が参加して4回行われ、ご自身によるスライドを使ったレクチャーの後に質疑応答形式で進められたのです。参加者は学生やデザイナーのほかに会社員や画廊経営者、公務員や会社員など多彩でした。

 

 本を拝読しましたが、当時80歳を超えていた早川さんの60年に及ぶデザイナー人生の集大成のような内容で感銘いたしました。本書の巻頭で早川さんは「講座というよりもミーティングという感覚で」とおっしゃっていますが、リラックスした雰囲気で本音が語られていますね。このような会を通じて、お二人は関係を深められたのですか?

 

菅谷 そうですね。早川さんが関西方面にいらっしゃるときにお声がけをいただいていました。あるとき早川さんが私に「「デザイン」の日本語って何だと思う?」と聞かれたので、「設計とか計画とかではないですか」と答えると不納得のご様子。しばらく考えて「意図する、意志を表現するというニュアンスでしょうか」と言うと「そうかなあ」と否定的な反応でした。晩年でも「デザインとは?」を思考されていたのかなあと記憶に残っています。

 

 そんなコミュニケーションを通して、2002年に「早川良雄の時代―デザイン都市・大阪の軌跡」を企画されたのですね。

 

 

大阪中之島美術館の早川良雄コレクション

 

菅谷 2000年に大阪市は早川さんから中之島に建設を予定していた近代美術館(現大阪中之島美術館)に60種類以上のポスターを寄贈いただき、これを機に展覧会を企画しました。内容は早川さんの創作活動を通してデザイン都市・大阪の軌跡を振り返えるもので、南港エリアにあるATCミュージアムで2002年6月1日から1か月ほど開催しました。ところが会場は1000平米もあり天井も高かったので、普通にポスターなどのグラフィック作品だけを展示するのではとてももたいないと、早川さんの代表作のポスター2点を縦5メートルほどに拡大して展示しました。その頃エプソンがヒエゾグラフ(超精密な複製画法により、版画のように販売したもの)に力を入れていて、制作に協力してくれたのです。早川さんはこれをとても気に入って展覧会終了後に持って帰りたいとおっしゃったんですが、当然、巨大すぎて無理でした。最初はこんなに拡大して早川さんは怒らないだろうかと心配でしたが「デザイナーは大きな判にあこがれているのですよ」とのことで胸をなでおろしたことを覚えています。早川さんご自身はコンピュータを使いませんでしたし、当時の使われ方に否定的でしたが、デジタル技術によって過去の作品の色調を変えたり、サイズを引き延ばすなどの二次加工は楽しんでおられたのです。

 

 寄贈された60種類のポスターは早川さんが選んだものですか?

 

菅谷 そうです。1998年に仕事場を赤坂の事務所から鎌倉のご自宅に移した際に、自ら選んだ作品を何セットかにまとめて大阪市や武蔵野美術大学などに寄贈されたと聞いています。武蔵野美術大学美術館では2000年に「早川良雄展、グラフィックデザインの夜明けから…」という展覧会が、2010年には東京国立近代美術館でも「早川良雄:“顔”と“形状”」展が企画されています。寄贈されたポスターの中身は近鉄百貨店や京阪百貨店、カロン洋裁学校など初期の仕事やデザイン誌『プレスアルト』に掲載されたものが多数含まれていました。

 

 『プレスアルト』はどんな雑誌だったのですか?

 

菅谷 1937年に京都で誕生したグラフィック誌で当時の関西の広告美術やグラフィックデザインの現物を添付した出版物です。今では関西のデザイン状況だけでなく、日本の広告デザインの萌芽期を知る貴重な資料となっています。当館では『プレスアルト』をコレクションしており、資料としても役立てています。

 

 早川さんは美術館にご自身の作品が収蔵されて安心したことでしょう。

 

菅谷 ところが、プレスアルトのなかにあったポスターのひとつが気に入らないから破棄してほしいと連絡がありまして。確かに、大阪時代、早川さんはいわゆる百貨店のインハウスデザイナーの立場で、新聞広告やポスター、チラシからウインドウディスプレイや催事の展示まで、週単位で時間に追われながらデザインしていたのだから、今となっては気に入らないものがあったのかもしれません。
とはいえ、美術館としては破棄することはできないとお伝えすると、それなら大きなバツをつけてくれとおっしゃる(笑)。早川さんのなかでは後世に残したいものと残したくないものがはっきり線引きされていたのです。けれど未来のためにはなるべく多くを残すべきで、収蔵作品や資料を破棄することはできません。

 

 『虚と実のはざまに』のなかで、多分、早川さんと菅谷さんのやり取りだろうと思われる一節があります。早川さんはポスターなどのグラフィックデザインは役目を果たした後は社会的にはもう無価値である。美術館や個人がコレクションすることがあるが、それはアフターユーズで本来の使命は終わっている。だから自分としては整理して破棄しようと思っていたが、ある美術館の方から日本のグラフィックデザインを歴史的な視点で見る場合、早川さんの作品はその重要な一部なのだからきちんと残さなければならないと言われた。そうした意見も無視できないし……、難しい問題だとおっしゃっています。そんな経緯から早川さんは大阪市(現・大阪中之島美術館)に多くの作品や資料を寄贈されたわけですが、それらの現状はどうなっているのですか?

 

菅谷 寄贈されたものはポスターなどの印刷物と直筆の原画が中心で、資料的なものは少ないです。蔵書は早川さんが存命のうちに大半を処分されていました。2002年の展覧会でお借りした写真や手紙、アルバムは返却しましたし、はっきりしたことは把握していません。
当館における現状はウェブサイトからポスター258点が検索いただけます。他には早川さんの自宅兼アトリエで保管されていたものを中心に、原画が約1,100点、版画が約200点、早川さんが装丁した書籍などが約150冊、作品のポジフィルムはファイルで16冊分、未使用ポスターが約700点、校正原稿、その他若干の包装紙、カレンダー、紙袋、傘などが調査中です。

 

 早川さんはタペストリーや壁画なども手がけていたとのことでしたが、アートピースはどうですか?

 

菅谷 所蔵したかったのですが、タペストリーなどは状態が良くなく、サイズも大きすぎるのであきらめざるを得ませんでした。

 

 早川さんがこちらの美術館に寄贈、収蔵された理由は、早川さんが大阪出身だったからだと思いますが、寄贈の際は事前に調査を行うのですか?

 

菅谷 私自身は展覧会や寄贈の打ち合わせで鎌倉のお宅に何度か伺いました。その後、学芸課長の植木啓子を中心に数名の職員が立ち会っています。

 

 

グラフィックデザイナー、早川良雄

 

 さて、菅谷さんから見た、グラフィックデザイナー早川良雄について伺いたいと思います。早川さんは最初の20年ほどは大阪を拠点にしていらしたのですよね?

 

菅谷 早川さんは1917年生まれ。小さいときから絵が上手で、担任の勧めで開校間もない大阪市立工芸学校に入学して図案の勉強をしました。2年後輩には山城隆一さんがいます。そこで東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)を卒業したばかりの山口正城先生に出会い、早川さんの言葉を借りれば、ドイツ語や英語も混ざったバウハウス流のデザイン教育で、授業は難解だったけれど大きな影響を受けたそうです。

 

 資料によると、学校卒業後は三越百貨店大阪支店の装飾部に入社しディスプレイデザインに携わるも戦争中は二度も徴集されて中国大陸に5年、終戦6カ月前には朝鮮出征など大変な経験をなさったようです。そして戦後、30歳のときに近鉄百貨店宣伝部に就職し、グラフィックだけでなくウインドウディスプレイやファッションショーの装置など、あらゆるクリエイティブワークに関わり、1952年35歳のときに独立された。

 

菅谷 フリーランスになって、御堂筋本町、そして以前から懇意であったカロン洋裁研究所の一室を提供してもらい心斎橋に事務所をもちました。その後、曽根崎新地に移ります。新地は大阪を代表する繁華街ですが電通や博報堂といった広告会社にも近くて、早川さんにとっては仕事と遊びのバランスが取れた好都合な場所だったと思います。
この時期に特筆すべきは、1952年に神戸にオープンした「G線」という喫茶店のインテリアからロゴやシンボルマーク、包装紙、マッチやメニューまで、トータルなデザインに長年携わったことです。今でいうCIやBIの先駆けですね。そして満を持して1961年、東京銀座に東京事務所を開設しました。

 

 当時の大阪はどのような街だったのでしょうか? そこで早川さんはどのような存在だったのでしょうか?

 

菅谷 当時の大阪は、戦後の日本の主要産業は繊維だったこともあり、今よりもずっとパワフルでした。繊維業以外にも松下(現パナソニック)や三洋電機などの電機メーカー、サントリーやワコール、阪急、阪神、近鉄、京阪、南海といった電鉄と系列百貨店、製薬会社などがあり活気に満ちていたのです。こうした関西企業が一斉にデザインを求めたのだから、早川さんの仕事も順調で40代ですでに大御所的な存在だったと思います。実際、1954年37歳のときに「大阪府芸術賞」を受賞しています。早川さんから伺った話ですが、当時は企業トップが「早川さんにお願いしよう」と言うとそれで仕事が決まり、デザインはすべてお任せだったとのこと。

 

 ところが早川さんは東京に移動されるのですね?

 

菅谷 戦後の大阪では、今竹七郎さん、山城隆一さん、粟辻博さん、田中一光さん、木村恒久さん、片山利弘さん、麹谷宏さん、横尾忠則さんら、有望な方々が活躍していた。ところが1960年前後から早川さんをはじめ多くの人が東京に移りました。

 

 1959年に原弘、亀倉雄策さんや田中一光さん、山城隆一さんが中心になって日本デザインセンターが創設されて、木村恒久さん、永井一正さん、横尾忠則さんたちも加わった。 1960年には「世界デザイン会議」も開催され、東京にデザインの重心が移っていた時期でもありました。そんななかで、早川さんのもとから独立したデザイナーも多いですね。

 

菅谷 山田崇雄さん、灘本唯人さん、麹谷宏さん、それからK2の黒田征太郎さん、平松尚樹さんなどたくさんいらっしゃいます。

 

 みなさん個性豊かな方ばかりです。

 

菅谷 そうですね。灘本さんは早川さんの東京事務所のチーフを務めてから独立して、イラストレーターとして一時代築かれました。何かの本で読んだのですが、面白いエピソードがあって、灘本さんは高島屋に就職が決まっていたのに早川さんが「自分のところに来い」と高島屋に勝手に掛け合ってしまい、結局早川事務所に入ることになったそうです。山田さんは逆に大阪事務所を任されて、その後独立してTCDというデザイン会社を設立してCIやブランディングなどの大きな仕事を手がけておられます。黒田さんはデザイナーというよりも画家として、平松さんもイラストを中心に活躍されています。
黒田さんにはエピソードがあるんです。私は「早川良雄の時代」展のポスターデザインのひとつをK2に依頼したんですが、展覧会が終了した後に早川さんから一通の黒田さんの手紙を見せていただきました。そこには「長友からの電話でポスターの話を聞きながら、僕(黒田)は早川さんの『形状』シリーズの代表的な図案をボールペンでいたずら描きをしていました。電話を切ってすぐにそれを東京の長友に送ったのです。すぐに送らないと判断がつかなくなると思ったからです。それを長友がポスターに仕上げてくれました。」とありました。そのとき、早川さんは「困った弟子なんです」と嬉しそうに話していました。

 

 含みの多い文章ですが、黒田さんの早川さんに対する特別な思いが受け取れますね。多彩なお弟子さんの顔ぶれを見ると、早川さんご自身が懐の深い方だったのかなあと推測します。

 

菅谷 私の知る晩年の早川さんは温和でしたが、若いときは怖かったそうです。TCDの山田さんも何度も「やめろ!」と言われていたそうです。私も早川さんと話していてときどきドキッとするときがありました。決して怒ってはいないのだけど、ハッとする瞬間が。

 

 例えば?

 

菅谷 上手く言えないのですが、早川さんは大阪人でありながら関西弁ではなく標準語で話していました。大阪にいた時分からそうだったそうです。ですから、息子のように年の離れた私に対しても「くん」ではなく「さん」付けで呼んでくれました。早川さんの世代ではそんな人は少なかったのではないでしょうか。何といいますか、関西的な親し気な人間関係やいわゆる業界人的な慣れ合いのようなものを嫌っておられたのではないでしょうか。服装もそうですが、モダンなライフスタイルというのが念頭にあったのだと思います。だから、なれなれしい人、わきまえのない人には厳しい面がおありだったのでしょう。

 

 そうですね。早川さんは読書家であり、映画も大好きで、視野や人間関係も広く、文章も上手でとても知的な方だったという印象がありますが、それをひけらかすことはありませんでした。

 

菅谷 東京に移った理由は、本の仕事をやりたかったからだそうです。それも表紙だけとかではなく、本づくり全体のデザインに興味があったのでしょう。早川さんの本好きは有名でしたから。

 

 今の話に通じるかもしれませんが、『虚と実のはざまで』では、デザイナーは大学で一般教養を身に着けてからデザインの勉強をしたほうがよい、と言うことをおっしゃっていますね。

 

「デザインの勉強をする場合には、若いときから特殊な専門的教育を受けるより、普通の過程で学び、できれば普通の大学を出てから、また芸大に入ってほしいと思います、あるいは、デザイン専門的な教育機関でもう一度学ぶことが理想だと思うんです。略 デザイニングという作業には、どうしても社会的な意味での客観性が必要なんですね。自分の主観だけでは通らない世界です。略 デザインをやる人は、ほどよい良識があり、できれば本当の常識を身につけた上で、造形的な才能を磨いてほしいと思っています」。

 

 

デザイナーにとっての個性とは?

 

 早川さんは「僕がこの世界に踏み入れたのは、終戦直後の、まだ産業界もよたよたしていた時代で、デザイナーという職業がまだ確立していない状態でしたので、ほとんど本能的に感性に頼ってやった仕事が認められた」「たまたま運がよかったというほかありません」というようなことをよくおっしゃっています。とはいえ、その作風はとても多彩です。亀倉さんも認めた色彩感覚、田中一光さんも魅了されたろうたけた美女とカストリ明朝の文字をあしらったポスター、ライフワークとなった「形状」や「顔」シリーズなどはまさに早川さんの真骨頂です。

 

菅谷 色彩に関しては、早川さんはナビ派の絵画が好きでした。見てきたばかりのボナール展の話を熱心にされているのを覚えています。またカストリ明朝については、当時はすべて手書きで写植がなくてレタリングが多かったけれど、大きな文字は活字がなくて明朝体を自分流にアレンジしたのだとおっしゃっていました。カストリとは「かすとり焼酎」からきているとか。

 

 「女の顔」については、特にモデルはいないけど、いろいろな表情を描きたい。それと広い意味のエロティシズムのない絵は描きたくない。ただし、格調と内面的な品を表現することにはこだわっていると「なにわ塾」で述べておられます。

 

菅谷 実に早川さんらしいですね。早川さんは新地や銀座によく足を運ばれたと聞いていますが、「顔」シリーズを見るとそうした遊びも創作の栄養になっていたんだなあと感じますね。「格調」については、「早川良雄の時代」展の図録の冒頭に掲載した早川さんの文章「表現の格調について」の一説をご紹介したいと思います。

 

「例え一枚のポスターもこの園に併びさく一径の花に違ひありません。
花はその美しさの中に必ず不犯の高雅をもってゐるでせう。
それは美しさの生命かもしれません。
宣伝美術の表現にも同じことがいえるのでないでせうか」

 

 『早川良雄の仕事と周辺』(六耀社 1999)では、以下のような一説がありました「ボナールの甘美でとろけるような色彩の交響と、典雅でアンチームな画面に共鳴していた」。「ぼくがピカソにひかれるのは、その『かたち』だ。略 画面にすき間なく充満する的確な造形そのものである」。「マチスの絵を見ると、なぜか血を分けたような親しみを感じる。それは、ぼくたちの仕事の世界に通じるなにか……共通の感性を発見するからではないか」。
早川さんはやはり手描きで、表現者の個性が素直に表れているものに惹かれていたのかもしれません。早川さんのグラフィックも手描きだからこそ、それと一目でわかる個性が表現できたのかもしれないと思います。

 

菅谷 早川さんは原画を描かれるときには、ガッシュ、墨、絵具、水彩などいろいろな画材や道具を自由に使いこなし、紙もキャンバス、水張りしたケント紙、ボール紙と実に多彩でした。それらは印刷原稿だったので原画の上にトレーシングペーパーがかけられて、手書きで指示が書き込まれています。その一つひとつに早川さんの個性や人柄をしのぶことができます。ただ、それらは中性紙保存箱に入れるなど保管には気を使わなければなりません。

 

 個性についても『虚と実のはざまで』の中で、コンピュータの出現によってデザインの在り様が大きく変わる現実を受け入れながらも以下のような一節があり、まさに現代を予言されていると感じました。

 

「その個性ですけれど、僕が作ってきたものは、本来的な肉体性のある個性から出てきたのかもしれません。しかしコンピュータでデザインをする時代になりますと、ある形を瞬時にして別のものに変えていくことが可能になり、その瞬間のどこをどう切り取るかがデザイナーの感性にかかってくるだろうと思っているわけですね。それはむしろ選択眼というようなものです。それが果たしてグラフィックデザイナーなのかということになりますね」。
「デザイナーの人間性から滲み出てくる本来的な個性とか、本来的な温もりというものが必要でなくなったとき、一体デザインの世界がどうなるのかという心配があります。そんな心配をしなくても、やがて個性とか温もりというものすら人間の価値観から薄れていくかもしれないし、創作はコンピュータに任せて、人間はコンピュータが作ったものから適当に選択するだけでいい時代が来るかもしれません」。

 

菅谷 実は私たちも早川さんに関するヒヤリングを進めており、つい先日TCDの山田崇雄さんのお話を伺ってきました。最初にも言いましたように、私は早川さんの晩年10年ほどの付き合いなので、現場のことや仕事ぶりについては山田さんのような方にヒヤリングしていただきたいと思います。

 

 私たちもぜひそうしたいと考えています。最後に『虚と実のはざまで』の菅谷さんのあとがきの一部をご紹介させていただきたいと思います。今日はありがとうございました。

 

「デザイン手法が大きく変化しようとしている今日、先生はデザイン活動の中にそのシステムとは同化できない『個性』をもって活動されてきたこと。それは時としてデザインというものの本流とは相容れないもので、デザイナー自身の『人間性』と同義であり、また現れ方の一つとして「フィジカルな感性」として作品に盛り込まれたものだったということです。ここには、現代デザインが切り捨てようとしているもう一つの可能性が提示されていると思えて興味深いものでした」。(1999年1月)

 

 

早川良雄コレクションの所在

大阪中之島美術館 https://nakka-art.jp/

 

 

 

Interview 2

インタビュー02:山田崇雄

インタビュー02:2024年4月3日 11:00~12:30
場所:TCD本社(芦屋)
取材先:山田崇雄
インタビューア:関康子
ライティング:関康子

 

 

概要

春雨のなか芦屋の住宅地にあるTCD本社に山田崇雄さんを訪ねた。山田さんはブランディング会社TCDを創業し現在は会長職にあり、部屋には早川良雄さんの「顔」シリーズのドローイングが掲げられていた。山田さんは1961年から早川の大阪事務所に勤務、在籍後半には番頭役を担い、スタッフを教育し、プロジェクトのマネジメントという大役を果たし、1971年に独立した。以降、早川とは違った立ち位置からデザインに向き合っている。ここでは、そんな山田さんに早川良雄の人間像、仕事、そして学んだことを語っていただいた。

 

 

山田崇雄さんが語る早川良雄

早川良雄との出会い

 

 本日は早川良雄さんについてインタビューをお引き受けいただきありがとうございます。最初に山田さんが早川デザイン事務所(以下早川事務所)に勤めたきっかけについてお話しください。

 

山田 山田 早川先生とは、事務所でお世話になって以来お亡くなりになるまでご昵懇にさせていただきました。今回の口述は私の遠い記憶であり、私見ですので認識の違いもあろうかと思いますがご寛容に願います。
早川事務所入社のきっかけは、私が大阪市立工芸高校を卒業して大阪の阪急百貨店の宣伝課でデザイナー見習いとしてキャリアを歩き始めて5年ほどたった頃でした。神戸宣伝美術協会で知己をいただいていた先輩で、既に早川事務所のスタッフであった灘本唯人さんから、早川さんが東京事務所を開設するので若いスタッフを探しているがどうだろうか、というお話をいただいたのです。早川事務所には工芸高校のクラスメイトであった麹谷宏君が卒業後しばらく在籍していて多少様子も分かっていたので思い切ってお世話になることにしました。大阪を代表するデザイナーの下で仕事ができると天にも昇る気持ちでした。先生には山田翠のことについても知っていただいており、晴れて早川事務所の一員に加えていただきました。

 

現大阪府立工芸高校。在阪の実業家の発案で技能習得を目的として、1923年開校。金属工芸、木材工芸、図案のカテゴリーでスタートし、後に建築、洋画、日本画が追加された専門学校。多くの工芸家、美術家を輩出している。早川良雄氏もその一人。

山田翠(1903〜1948)昭和初期から終戦まで大阪を中心に活躍した図案家。山田崇雄は嫡男。東京の川端画学校で日本画を学び、後に拠点を大阪に移し商業美術興隆期の草分け的存在となる。大正から昭和にわたる大阪では商業図案(現在のグラフィックデザイン)のニーズが高まり、山名文夫をはじめ多くの図案家を輩出した。メンソレータムで知られる今竹七郎、阪神タイガースのロゴマークのデザインを手がけた早川源一などがいる。

 

 早川さんは1961年に東京事務所を開設したので、山田さんも移ったのですね。

 

山田 いや、東京事務所には灘本さんと他の人が着任することになり、私の立場は微妙なものになりましたが、なんとか大阪事務所においていただけることに。その頃の先生はすでに有名な存在で、事務所にはデザイナーを志願する若者たちが押しかけていて、多少とも経験のある私が起用されたのではないかと思っています。一方、灘本さんは他社に就職が決まっていましたが、先生のたっての希望で早川事務所に来られたそうです。仕事にもビジネスにも卓越した人でした。時折、先生が「灘本事務所の早川です」とおもしろく自己紹介されていたことを覚えています。灘本さんには信頼も厚く、東京事務所を任されていました。ちょうど先生が40代、灘本さんが30代、私は20代でした。

 

 そもそも、早川さんはどうして東京に進出されたのでしょうか?

 

山田 具体的な理由は存じませんが、私の理解では当時大阪のデザイン界が抱えていたさまざまな問題が起因しているのではないかと思っています。例えば、不毛なデザインジャーナリズム、不遇なデザイン市場、デザインを育む知的環境の欠如などが考えられます。また、東京と大阪のデザイン文化の違い、都市のもつ先進性や多様性の差にも、大阪を離れる気持ちを強く後押ししたのではないかと思っています。でも慣れ親しんだ大阪の味は捨てがたいところがあったのでしょう。晩年まで「江戸前の蕎麦」より「浪花のけつねうどん」派でいらっしゃいました。(笑)

 

 関東から見ていると大阪文化や大阪独特のコミュニケーションは魅力的に映ります。

 

山田 少なくなりましたが典型的な大阪人の会話に「いい天気でんな」「そうでんな」「どこへ行きはりまんねん」「ちょっとそこまででんねん」「そうでっか、ではまた。」という感じのものがあります。これは他人に立ち入らず、かと言って無関心ではない感情の表現で人間関係をスムーズに保つ大阪文化の一つと言えます。大阪弁には、ちょっとした挨拶や会話にも角を立てない「間」が工夫されていて、大阪独特のコミュニケーションをかたちづくっているように思います。しかし先生はあまり大阪弁で話されませんでした。引きずる感のある大阪弁は苦手のようで、この感覚は先生の作品にはよく見受けられます。自己主張のなかにも見る人の心を気にするところなどは大阪人気質は隠せなかったなかったようですね。

 

 当時は早川さん以外にも東京に移った方が多かったそうですね。

 

山田 1959年に東京に日本デザインデザインセンターが設立されたことが大きな刺激でした。日本を代表するデザイナーと大企業がつくった会社でしたから、キラキラして見えました。先生以外にもセンター設立に参加された親友の山城隆一さんをはじめ、片山利弘さん、永井一正さん、木村恒久さん、ライトパブリシティから日本デザインセンターに移られたた田中一光さんらがおられます。大阪が寂しくなりました。

 

 けれども早川さんは東京に移った後も関西によく来ていたそうですね。

 

山田 事務所のあるうちは仕事も残っていましたのでよく来ていました。カロン洋裁学校や神戸のG線のなど、往年のクライアントの対応、個展作品の制作もありました。特に作品づくりは大阪事務所の大きな仕事で、ドローウイング以外の作品はすべてスタッフを使って制作していました。大阪事務所のスタッフのほうが取り組みやすかったのか、弟子感覚のあるスタッフに安心できたのか、先生の滞在は大阪事務所のスタッフにとっても貴重な時間でした。この頃、1970年万博のシンボルマークデザインの指名コンペがあり大阪事務所でやらせていただきました。総力あげてのチャレンジでした。今、思い返すと私の仕事は常に「先生ならどうされるか」が出発点でした。実務経験の少ないスタッフと一緒に悪戦苦闘の連続でした。日々の始まりは、先生の黒いデスク、その天板を顔が写るくらい拭き上げ、少し石鹸の香りお残したおしぼりと郵便物を添える。そしてヤコブセンの三本足のアリンコチェアーを歪みなくセットしてご出社を持つ。日課でありました。

 

 

西の早川、東の亀倉

 

 「西の早川、東の亀倉」あるいは「色彩の早川、構成の亀倉」と言われ、当時のお二人はグラフィックデザイン界の双璧だったと聞きました。

 

山田 亀倉先生は論理的、構造的かつ説得力のあるデザインが特徴で、オリンピックや万博といった国家プロジェクト、あるいはニコンやNTTといった大企業の仕事に携わっておられました。対照的に早川先生には大規模なプロジェクトや大企業からのお声がけは少なく、その作風に惹かれた市井の企業や親しい方々からの依頼が多くを占めていたように思います。「色彩の早川、構成の亀倉」という比喩は「感性の早川、理性の亀倉」に置き換えることもでき、そういう意味で二人は双璧で、両先生のデザインからうかがえる「理性」と「感性」は良い勉強になりました。

 

 今のお話はとても興味深いですね。

 

山田 商業美術と言われていたデザインは戦後大きく変わりました。駐留する軍人やその家族たちが持ち込んだ『LIFE』や『good house keeping』 といった雑誌に紹介されるアメリカの生活文化や広告デザインに、当時の商業図案家たちは大変な刺激と大きな影響を受けたのです。レーモンド・ローウィによるピースのパッケージデザインや、ソール・バスの映画タイトルデザインなど、それらは一様に合理的でセンシティブなデザインで分かりやすくストレートな表現で、亀倉先生のデザインと重なります。一方早川先生の作品は詩的で絵画的な趣が強く、外来のグラフィックデザインのアプローチには無い特別な印象でした。ご自身のなかにある文学的な感性がそうさせていたのでしょうか。先生が読書家であったこと、画家で親友の泉茂さん、具体美術の吉原治良さん、そして作家の有吉佐和子さんらとの交流も大きく影響したと思います。

 

 山田さんは早川デザインをどうとらえていたのですか?

 

山田 私は、先生のグラフィックデザインは俳句の世界に近いなと思っています。表現する対象を極限までに抽象化することにとても長けておられました。その代表作は1963 年に日宣美展で会員賞を受けられた「Japan」です。俳句が研ぎ澄まされた言葉で人の心を打つように、先生のデザインにはシンプルでありながら広がりと深さがありました。それらは理解するうえで相応のインテリジェンスが求められ、浅学の我が身を悔やんだものです。

 

 一方で早川さんは大阪の画廊で積極的に個展も開かれていました。

 

山田 今だからこそ言えますが、精力的な個展の開催は事務所の資金づくりという一面がありました。今はもう存在していませんが今橋画廊や番画廊などがグラフィックデザイナーに好意的で個展を後押ししてくれて、「形状」シリーズはその流れで生まれた作品のひとつです。事務所のスタッフが分担して制作できるように幾何学的な造形表現が試みられ、その後も続きました。先生のディレクションの下で取り組んだ個展の作品づくりは楽しく勉強になりました。

 

 作品はシルク印刷だったのですか?

 

山田 はい、そうです。当時、印刷量の少ない個展の作品などはシルクスクリーン印刷が定番でした。不透明なポスターカラーの質感は、シルクスクリーン用印刷インクの粘りとスキージの手加減でリアルに再現できたのです。刷り上がる一枚一枚が微妙に違うことも作品感を充してくれ、グラフィックデザイナーには安心して付き合える心強い印刷方式だったのです。
個展作品の制作は何時もそうでしたが、私は原画と指示原稿をもって現場に入り、先生と電話でやりとりしながら作業の一部始終に立ち会いました。あるとき、配色のコントラストが強すぎたことがあって、それを抑えるためにインクの増量材であるメデユームに微量の濁りを加えて即席の透明インクをつくって全面にかけてトーンを落ち着かせる、まるで綱渡りのような芸当で事なきを得た思い出もあります。先生の「よし、それで行こう」との一言に安堵したほろ苦い思い出は忘れることができません。

 

 

早川デザインが生まれるまで

 

 早川さんのデザインはどのように生まれるのでしょうか? そこでは、山田さんはどのような仕事をされていたのですか?

 

山田 当時の仕事は、ケント紙の水張りに美濃紙をふのりで貼り合わせたパネルに、先生がドローイングすることから始まります。そのドローイングは鉛筆描きで、それをなぞるようにスタッフがカッターナイフで美濃紙だけを切り剥がし、そこにポスターカラーを塗り込むという方法でした。美濃紙に描かれた柔らかい鉛筆の線がエッジの効いた力強いシャープな線に変わる、新鮮な驚きでした。先生のドローイングにはアイデアスケッチやラフスケッチなどはなく、常に直接描かれていました。マテリアルにも強いこだわりがありました。塗り終えたポスターカラーを天日で乾かしていたときに雨が降り始め、画面にできたシミが面白いとそのままにされた逸話も残っています。

 

 まさに「感性の早川」ですね。

 

山田 特に作品の発想については、その源泉は先生の眼中にあるので私たちには窺い知れません。生来のご性格と青年期の文学への傾倒が大きく作用し、稀代のロマンチストであったと言うことも大きかったと思います。

 

 デザインは職人的な手業、身体的な感性も大切な要素だったのですね。

 

山田 当時はコンピュータのような便利な道具は無く、デザインはすべて手描きでした。水張りで紙の癖を取り、下図を整えそれをベースに絵や文字をポスターカラーで描き込んでいきます。道具はデバイダーやコンパスにカラスグチなどの製図機と定規、彩色には面相筆や平筆、溝さしなど。グラフィックデザイナーにとって表現技術は職能として必須条件でした。ところが早川先生は溝差しを使って細い線を引くような職人技はあまり得意ではなく、精度が求められる表現にはカラスグチやカーブ定規などのツールを重宝されていました。多くのデザイナーが精緻な表現を是とするなか、先生はフリーハンドの強さや動感を楽しんでおられたのです。またその絵画的な表現も大切にされていて、サントリーのPR誌「洋酒天国」のタイトル書体は好例です。

 

 今のお話を伺っていて「カストリ明朝」や「顔」シリーズのことを思い出しました。

 

山田 「カストリ明朝」と言われる書体は先生独特のもの。明朝体を基本に「横棒」はカラスグチで、「縦棒、とめ、はね、はらい」はフリーハンドで描かれることによって、文字に動感と個性を与えていました。失礼を顧みず申しますが、先生のある種不器用さが生み出した傑作で、多くのデザイナーを惹きつけたのです。お酒を愛した先生の千鳥足を模した命名と言われていますが、確かなところは定かではありせん。

 

 あでやかな女性の「顔」シリーズも早川さんの代表作ですね。

 

山田 あれこそ先生しかできない仕事だと思います。情感のこもった繊細な表情、美しい色彩は恋多き先生の世界です。不思議なことですが描かれる女性はすべてお梅さん(早川夫人)の面影が偲ばれます。私だけが感じることかもしれませんが。

 

 

早川良雄から学んだこと

 

 さて、山田さんにご自身ついても伺いたいと思います。山田さんはTCDというデザイン会社を興し企業のブランディングやデザイン開発のような大きなプロジェクトを手がけています。

 

山田 TCDを始めて50年、何とかやっております。コマーシャルベースに流されることなく今日に至りますのも、先生から引き継いだアマチュアイズムのお陰です。

 

 早川事務所を辞めたきっかけは?

 

山田 事務所は私の巣穴でした。やり甲斐も生き甲斐にも感じていましたが、先生あっての大阪事務所だったので先生の活動が東京中心になるにつれて、その不在がダメージとなって事務所の維持も困難になっていきました。若輩の我が身では力およばず、先生の長年の知己でおられた小林葉三先生に相談して進退を決めさせていただきました。早川事務所に入社して10年がたち30歳を超えていました。私の退職が大阪事務所閉鎖の引き金となり、同僚たちを困惑させてしまって申し訳なく思っています。

 

 それからすぐにフリーランスで活動を始めたのですか?

 

山田 フリーランスと言えば聞こえがいいですが浪人生活の始まりで、とりあえず仕事場を探して「山田崇雄デザイン事務所」の表札をあげました。しばらくして、工芸高校の同級生が紹介してくれた竹中工務店の小さな記事中広告や社報のデザインを任されました。転機は、1977年、同社が建設した建物をモティーフにデザインした企業ポスターが、ニューヨーク・アートディレクターズ・クラブが催した「ジャパン・グラフィックアイデア」展で取り上げられ、出品した2作品が金賞と銀賞を受けたことです。これらは後日ニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションにもなりました。以降、竹中のブランドデザインの仕事をはじめ、アシックス、松下電工、小林製薬、南海電鉄、白鶴といった企業や行政から相談を受けるようになり、友人の協力を得て組織を拡大し、社名も「TCD」と改めました。

 

早川良雄 竹中工務店の企業ポスター  早川良雄 竹中工務店の企業ポスター

竹中工務店の企業ポスター、現在MoMAの永久コレクション

 

 

 

 会社名「TCD = Total Cultural Dynamism」はとても斬新ですね。

 

山田 これは現在の「TCD」 のコンセプトです。人の成長と同様に会社も変わります。同じ名であっても自ら変化し成長すべきであることは、人も会社も同じです。そんな実態を社員と共有するために、「TCD」の意味とコンセプトを何度か見直してきました。同じ「TCD」であっても、スタート時は「Total Creative Development 」、その後は「Think Creative Design 」、さらに「Total Communication Design 」と変化してきました。現在のコンセプトは「Total Cultural Dynamism 」で、自分たちの活動すべてが文化的で力強くという願いを入れています。最近TCDを前後並び替えDCTとして「Dream Come True」だと、社員の皆さんと話題にしています。

 

 そうした開かれたお考えも早川事務所の影響ですか?

 

山田 発想は早川デザイン事務所での体験が原点であると思います。先生のもとで稀有な経験をしました。ポスターや包装紙からロゴやマーク、書籍の装丁、新聞広告に至るまでのグラフィックデザイン、その他にも記念モニュメントの造形、ビルのオブジェ、ファッションショーステージの装置、TV番組のセット、展示会の会場デザイン、飲食店舗のロゴマークにインテリアとツール類など多彩なデザインです。なかでもクレハ紡績敦賀工場の竣工時に建立した高さ10メートルを超える鉄のモニュメント、大阪備後町の池上ビルに設置したシンボルオブジェ「交差する階段」は特別な思いがあります。

 

 最後に山田さんにとって早川さんはどんな方で、何を学ばれましたか?

 

山田 先生はスーパースターであり、社会的にも認知されていたので実に多様な仕事に恵まれました。またデザイナーとしての資質では感性の幅が広く応用にも長けていて、一方で理性的でもありました。感性と理性のバランスという難題は先生のもとでしか解けなかったと思います。私にとって先生の身近にいて仕事を手伝えたことは何事にも変えられない経験となりました。先生は私が70歳のときに92歳で逝去されました。亡くなる少し前に食事をご一緒したときに、先生に「君はよくやるねえ」と言われて、私は「先生の真似だけはできません」と失礼な答え方をしたことを覚えています。
私は先生をとても尊敬し、愛していました。先生のレアーな人柄は人の心をとらえて離さない魔物でした。唐突を否めませんが、戦争と敗戦という過酷で非人間的な世界を背景に青年期をすごされたことが「デザイナー早川良雄」の「人」と「デザイン」を形成し、魅力をもたらしたのではないか?私はそう思い続けています。

 

 本日は貴重なお話をありがとうございました。