日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

廣村正彰

グラフィックデザイナー

 

インタビュー:2024年9月18日 14:00〜15:30
場所:Hiromura Design Office
取材先:廣村正彰さん
インタビュアー:久保田啓子、関康子
ライティング:関康子

PROFILE

プロフィール

廣村正彰 ひろむら まさあき

グラフィックデザイナー

1954年 愛知県生まれ
1977年 武蔵野美術短期大学商業デザイン専攻科卒業
     田中一光デザイン室 入社
1987年 JAGDA新人賞
1988年 廣村デザイン事務所設立
2009年 毎日デザイン賞
2010年 東京工芸大学芸術学部デザイン学科教授(~2018)
     グッドデザイン賞金賞
2011年 一般社団法人ジャパンクリエイティブ代表理事・クリエイティブディレクター     (~2021)
2016年 多摩美術大学デザイン学科客員教授
2019年 名古屋造形大学 客員教授

廣村正彰

Description

概要

廣村正彰の仕事について、グラフィックデザイナーの葛西薫は次のように述べている。 「(廣村の)多くの仕事に見せる絵文字やピクトグラムはのどかで温かい。どれも明朗で知 的でカラフルだ。略 廣村のデザインはいつも誰かを応援している。今、廣村は、人やモ ノと一緒になってはじめて完結するという、デザインの幸福を味わっているに違いない」(ggg books-81より)。17年前に寄せられたメッセージのままに、廣村のデザインはその 本質を維持しながら飛躍を遂げている。
廣村が得意とするグラフィックは「感覚的というよりも理論的、数学的要素をもった領 域」であり、「目的が明確で、理論で割り切れる根拠を探ることのできるデザイン」であ り、それを象徴するのがサインデザインの領域だ。廣村は「サインデザイン」をグラフィ ックデザインの主要な分野に定着させた。
そのデザインの特長は「ザッハリッヒな佇まい」、つまり即物的であること。グラフィ ックの素材といえば文字や図形、色彩、イラストなどだが、廣村はそれらをこねくり回す ことなく、びっくりするほどシンプルに組み合わせ、そのうえで自由に遊びながら環境に なじませる。その絶妙な匙加減! この廣村の表現体質が空間至上の建築家や、ハイセン スな空間を求める事業主たちに受け入れられる要因であり、彼の仕事は公共建築から商業 施設、テンポラリーな場所に至るまで浸透してきている。
その廣村はサインデザインの新たな境地を開拓し始めている。それは「こちら側から必要なもの(情報)を取りに行かなければならない」デザインらしい。これはひょっとすると佐々木正人が言う「アフォーダンス理論」を取り入れた、文字や図形や色に頼らない新しいサインデザインになるかもしれないし、今日の情報洪水の一翼を担ってきたグラフィックデザインの在り方に一石を投じることになるかもしれない。廣村正彰のこれからの仕事を期待せずにはいられない。

Masterpiece

代表作

1989 イッセイ・ミヤケ im VI計画
1996 岩出山町立岩出山中学校 サイン計画 (2006年市町合併により大崎市立岩出山中学校に改称)
2000 竹尾見本帖本店総合AD、VI、サイン計画
   公立はこだて未来大学UI、サイン計画
2001 日本科学未来館 CI、サイン計画
2006 奈良平城遷都1300年記念事業マーク
2007 横須賀美術館VI、サイン計画
2009~ 9hナインアワーズ京都寺町VI、サイン計画
2011~ 有楽町ロフト 総合AD、サイン計画
2012 すみだ水族館VI、サイン計画
   Japan Creative エキシビジョン CD、AD(~2021)
2015 西武渋谷店リニューアル総合AD、サイン計画
2016 台中国家歌劇院サイン計画
2019 東京2020スポーツピクトグラム開発
2020 アーティゾン美術館 サイン計画
2022 石川県立図書館、サイン計画
2024 大阪市立東洋陶磁美術館 VI、サイン計画、展覧会グラフィック
   TODA BUILDING VI、サイン計画

 

著書

『新世代平面設計家―廣村正彰的設計世界』廣西美術出版社/中国(2000)
『空間のグラフィズム』六耀社(2002)
『デザインのできること。デザインのすべきこと。』ADP(2007)
gggブックス36『廣村正彰』ギンザ・グラフィック・ギャラリー(2007)
『字本 JI BORN』ADP(2009)
『デザインからデザインまで』ADP (2015)

 

廣村正彰 作品

Interview

インタビュー

 

グラフィックでも感覚的というよりも
理論的、数学的要素をもった領域が好きだった。

デザイナーへの道

 廣村さんがデザイナーを目指した背景をお聞かせください。

 

廣村 僕の場合、絵が上手だったとか、家が芸術的だったということではないんです。高校3年生のときに、推薦で某大学の経済学部への入学が決まっていたのですが、本当にこれでよいのかという葛藤があり人生を転換できるきっかけを探していたのです。そんなときにふと「デザイン」がいいのではないか……と。とは言ってもデザインとは何か、どんな領域があるのかも知らなかった、漠然と家具をつくる人がデザイナーだと思っていたくらいだから、知らないことの強みかもしれません。それからなんとか親を説得し、1年浪人させてもらい美術系の予備校に入りました。ところがそこは美術大学を目指して何年も実技を勉強している人ばかりで、彼らの能力の高さに驚き自分の甘さを知ることになったのです。

 

 普通はそこで諦めるところですが。

 

廣村 大学の推薦入学を反故にして親に談判して進路を変えてしまったので、そこでまた気が変わったとは絶対に言えないでしょう。結局、1年予備校に通い東京に出て武蔵野美術短期大学のグラフィック科に入学した。そのときは卒業するときに4年制に編入すればいいやくらいに考えていたけど、武蔵美の短大は東京藝術大学を諦めてくる人が多く、年上の人が大半でデッサンの授業をボイコットする学生も結構いて、そのことにも驚きました。

 

 どうしてグラフィックデザインを選んだのですか?

 

廣村 グラフィックは門戸が広かったということが理由です。でも勉強するようになってグラフィックのおもしろさを知りました。なかでも平面構成や色彩構成、タイポグラフィ、それからオプティカルアート・デザイン。オプティカルデザインは永井一正さんが先駆者で、当時盛んでした。そういうものに憧れていたので、グラフィックでも感覚的というよりも理論的、数学的要素をもった領域が好きだった。

 

 

田中一光との出会い

 

 現在の廣村さんにつながる萌芽はすでに大学時代にあったのですね。その後は?

 

廣村 2年間は僕なりに頑張ったつもりでしたが、4年制への編入が叶わず、専攻科に入りました。そのときに転機が訪れたのです。僕の1年先輩で学生時代からいろいろな賞を受賞していたスター的な存在の木下勝弘さんが既に田中一光デザイン室(以下、田中事務所)に所員として入社していました。木下さんの誘いで武蔵美の後輩たちが田中事務所のアルバイトに行くのですが、長続きしないで辞めてしまう。そこで木下さんが僕に声をかけてくれてアルバイトをすることになったのが1975年のことです。そのとき、初めて田中先生にお会いしました。
当時は雑誌の創刊、商業施設のオープンなどデザインの需要は急増しており、田中事務所も仕事を抱え多忙を極めていました。ところが僕の仕事はデザインではなく田中先生の趣味のお手伝いのようなことでした。偶然にも趣味が近かったこともありアルバイトを続けることができました。

 

 廣村さんらしいエピソードですね。共通の趣味とは?

 

廣村 田中先生は音楽が趣味で『ステレオ・サウンド』という雑誌の愛読者でした。同誌は音楽愛好家の原田勲氏が1966年に創刊した日本初のオーディオ・AV機器の専門雑誌です。田中先生は雑誌を見ては掲載されていた最新のオーディオ機器を購入するのですが、それらの機器の調整が僕の仕事でした。真空管を交換したり、石丸電気にレコードを買いに行ったり、そんな日々でした。因みに石丸電気の社章デザインは田中先生、包装紙などのグラフィックは和田誠さんです。
そこからしばらくして田中先生から車の運転免許を取りなさいと言われ、取った直後にいきなり田中先生を乗せて完成したばかりの山中湖の別荘に行くことに。運転初心者の僕は慣れない道にてんてこ舞の末ようやく別荘に到着。今でも冷や汗の出る思い出です。こんなエピソードには事欠かない4,5年を事務所で過ごしていました。

 

 今までのお話を伺っていると、大変失礼な言い方なんですが現在の廣村さんからは想像もできないけどなり行き任せというか、主体性のない人のような印象を受けますが。

 

廣村 田中事務所の所員は入社試験を受けて正式採用になるのですが、僕は卒業後も正式採用されることなくバイトを続け、デザインワークを任されるまでに相当の時間を要しました。アルバイトから数えると田中事務所には13年ほどいたことになります。
僕が学生だった当時、田中一光、永井一正、福田繁雄、横尾忠則の4人が新世代の代表として「グラフィック4」と呼ばれていました。その頃から田中先生は特別で、日本デザインセンター時代には田中先生の部屋からは特別なオーラが漏れ出していて、みんなその前は通らないという逸話があるくらい。田中事務所にきたバイトの中にも緊張の余り卒倒してしまう人もいたと聞いたこともあります。ところが僕はそんな状況をよく知らなかったので、逆に気楽に振る舞えたのでしょう。

 

 その緊張感のなさがかえって田中さんに愛されたのではないですか? でも、最終的にはグラフィックワークも任されたのですよね?

 

廣村 70年代、田中事務所は本当に充実した時代でした。そんな状況で田中先生は「企業の仕事」と「文化の仕事」を分けていて僕は企業担当でした。田中先生がセゾングループの堤清二さんから頼まれた西武百貨店や西友ストア、ファミリーマート、後半には無印良品のデザインを担当して、全国の売り場や現場を回って梱包材から店舗のディスプレイやポップまであらゆるものをデザインしました。デザインアイテムは膨大だし、スケジュールも予算も厳しくて、相当鍛えられました。田中先生はどちらかというと「文化の仕事」に重心を置かれていて、「企業の仕事」の方は大きな方向性を決めて後は僕ら現場に任せるという方法でした。1988年には西武百貨店の売上高が日本一になったこともあり、デザインもルーティンでこなしていれば取り立てて問題はなかったのです。当時セゾングループの事業も成長していたし、新しいことにチャレンジできたことは幸せでした。ただ僕は「文化の仕事」はしていなかったので、田中事務所では文化の香りがないデザイナーでした。

 

 でも、そうした経験が今の廣村さんの仕事につながっていますね。

 

廣村 たしかに。企業の仕事ではグラフィックだけでなく売り場のデザインも含まれていましたから。田中先生が売り場のデザインをほとんど任せてくれたので、その経験が現在の僕の仕事の基礎になっています。その他の仕事でも菊竹清訓さんのような建築家の案件を担当させてもらえる機会もあり、充実していましたね。

 

 当時の田中事務所はやはりセゾン系の仕事が多かったのですか?

 

廣村 当時のセゾングループは基幹会社が8社あったので、仕事の7割がセゾン系だったと思います。文化の仕事では『流行通信』や西武美術館、イッセイ・ミヤケ、JAGDAなどがクライアントでした。僕は田中先生の趣味担当から始めてようやくデザインワークを任されて、6、7年目にやっとチーフになれました。田中事務所の出身者は多いけど、勤め上げた人は意外に少ない。太田徹也さん、佐村憲一さん、坪内祝儀さん、木下勝弘さん、そして僕、後に亡くなった秋田寛さんと続きます。田中事務所出身と言える人は11人。

 

 デザインについて、田中一光さんから学んだこと、影響を受けたことがありますか?

 

廣村 田中先生は、企業のディレクションとグラフィックアーティストの二刀流を絶妙に使い分けていたと思います。デザインは感覚的に進められますが、ミリ単位の造形的な差異や色へのこだわりは半端ではありません。包装紙などから集められた色紙の収集は有名でした。僕たちスタッフは、グラフィックアートで鍛えられた精緻で感覚的なデザインから、企業広告などの商業デザインまで多面的に経験を積むことができたと思います。
田中先生は、時間があれば料理をつくり、本棚の整理をして、いただいた本のお礼状を書いていました。仕事でも立ち居振る舞いでも気に触ることがあれば猛烈に怒られて緊張の日々でもありましたが、物事の本質を探ること、そのためには弛まぬ勉強と経験を積むことが大切なことも教えていただきました。毎週月曜の朝は、週末に何をしたのか報告しなくてはなりません。映画、演劇、コンサート、テレビの番組でもなんでも良いのです。そのおもしろさが伝わると大変喜んでくれました。

 

 

一本立ちしてから

 

 苦節を乗り超え、セゾン系のデザインを一手に引き受けていた廣村さんが独立された背景は?

 

廣村 田中事務所に入って12年目の1988年、その頃はバブル経済の絶頂期で忙しさは尋常ではなかった。そこで子会社を設立することになりました。ただ田中先生の性格上知らない人には任せられず、まずは木下さんに打診したのだけれど「一国一城の主になりたい」と辞退され、僕にお鉢が回ってきたわけです。新会社の社名はIKKS(イックス)で僕が全体を任されました。けれど田中先生のデザインチェックは当然ながら受けなければなりません。ところがあまりにも忙しくてときどき見せられないこともあって、それがあるとき田中先生にばれてしまった。
それは、仲條正義さんの毎日デザイン賞の受賞パーティでした。銀座にあったキュイジーヌ シセイドーで和やかな祝宴のさなかに真っ赤な顔をした田中先生が会場に現れて一直線に僕のところに来て「今すぐ、仕事を全部やめなさい」とゲストの方々の面前で一言。僕は理由を察して「分かりました」と言って会場を後にし、翌日からクライアントへ挨拶に回りました。田中先生の会社だから僕が辞めても問題はなかったんだけど、良品計画の木内政雄社長だけは「仕事を出しているのは俺なんだから、勝手に辞められないだろう」と仰って、そこだけは継続したのですが、僕としては何かモヤモヤしていました。そんなときに無印良品からパッケージの4社コンペに声を掛けていただいて、パッケージと広告の一部を自力で担当することになったのです。
当時の無印良品は、田中先生と、杉本貴志さん、麹谷宏さん、小池一子さんがディレクターでクリエイティブ全体のコンセプトを決めていました。ところが2000年に田中先生が突然「普通は1社10年と決めていたが、無印良品は20年も続けたから辞める」と仰って、後任を原研哉さんに託すことになり僕も辞めることに。ところがその直後に田中先生が逝去され……今から思うと何か予感があったのかなと思います。

 

 田中さんの怒りを買って独立された直後、無印良品以外の仕事をどうのように開拓されたのですか?

 

廣村 独立当初は無印良品の仕事が多くて全体の8割を占めていた時期もあったと思います。そこから少しずつ自力で開拓していって、色んなご縁もあって徐々に他の依頼も入ってくるようになったと思います。

 

 

建築家とのコラボレーション

 

 廣村さんの仕事というと建築家とのコラボレーションによるサインデザインを思い浮かべます。そのきっかけは?

 

廣村 1995年、山本理顕さん設計の「岩出山町立岩出山中学校(2006年大崎市立岩出山中学校に改称)」というプロジェクトです。山本さんは集合住宅などの設計で知られ、1987年には日本建築学会賞も受賞されている建築家ですが、教育施設の設計は初めてだったそうで、家具や照明、サインについてはデザイナーとコラボレーションしたいという意向でした。僕はその頃すでにセゾン系列のサインの仕事も多く、最初はその延長線上でいいと考えていました。ところが、山本さんは「建築にインパクトを与えるような新しいアイデアが欲しい。建築にデザインで風穴を開けてほしい」と。
山本さんの設計は教室の廊下側の壁面が可動式の建具で間仕切られ、建具を開閉することで自由度の高い開放的な空間になるプランでした。僕はその構想を見て2つのアイデアを思いつきました。ひとつは設計意図をサインデザインにも取り入れて体験してもらいたい、もうひとつは学校全体を通底するシステムとしてのサインをデザインすること。このアイデアに山本さんは乗ってくださって、教室番号、誘導案内、ロッカー番号などのサインは建具に開けたドットで表現しました。壁にサインパネルを張り付ける方法ではなく、建具がそのままサインでもあるという、建築との一体化を試みたわけです。ドットは各室の内部と外部という境界を曖昧にし、山本さんが目指していた空間の開放感を強調することになりました。
このプロジェクトで、僕はサインをシステムとしてデザインすることによる建築との相互作用を実感し、これが大きな刺激となりました。それまでサインはニッチなデザイン領域と思っていたけれど、自分のテーマとして掘り下げてみたい、グラフィックデザインの可能性を見出したように感じ、これをきっかけに山本さんをはじめ多くの建築家と協働するようになりました。

 

廣村正彰 資料 廣村正彰 資料

「岩出山町立岩出山中学校(2006年大崎市立岩出山中学校に改称)」、建具とドットが一体化した新しいサインシステム
Photo by Mitsumasa Fujitsuka

 

 

 大学時代は「グラフィックデザインでも感覚的というより理論的、数学的要素をもった領域が好きだった」とおっしゃっていましたが、山本さんとの出会いでそれがよりクリアになったわけですね?

 

廣村 そうですね。1991年にバブルがはじけてから日本のデザイン界は自省的な雰囲気で欧米と比べて不思議な状況にありました。ガラパゴス化というのかな、広告業界ではサイトウマコトさんに代表されるような豊かな感性や感覚がストレートに表現されたアーティスティックなデザインが注目されていました。僕は「青い骨だけ?」と驚嘆したもののそうした資質はないし、自分のデザインを模索しているときに山本さんと出会い、リアルな体験を通してサインデザインに本格的に取り組むようになった。グラフィックは二次元という制約はあるけど、そのなかで表現できることは無限大だなと。サインデザインは、機能性という足枷が二次元と三次元を行き来しておもしろいと考えるようになった。

 

 その後、サインデザインは廣村さんの仕事の核となりましたね。

 

廣村 建築と融合したサインシステムというアプローチは、それ以前にはなかったので依頼は増えました。もちろん順風満帆だけでなく試行錯誤も多々あります。シーラカンスの小嶋一浩さんと協働した島根県出雲市の「ビッグハート出雲」は、スタジオや会議室、文化サロンやアートギャラリー、レストランなどで構成された地域の文化・交流センターでした。ここで僕が考えたのは施設の室名を、例えば「会」=会議室、「食」=レストラン、「文」=文化サロンのように漢字一文字で表現するというもの。出雲市は出雲大社があり神事や神話で知られる信仰の原点の地です。そんな地域の特色を表現するために表意文字である漢字を使うことがふさわしいのではないかと考えたのです。けれども筆文字や明朝体では当たり前すぎる。そこで現代建築に沿うように直線を使ったソリッドな文字をデザインして空間に配置しました。僕としては満足できる仕上がりだったのだけど、見学にいらした伊東豊雄さんの空間とグラフィックの関係性に関するご意見を後から知り、建築との調和の大切さに気付かされました。サインデザインは美しさを追及したり、オーセンティックさを求めたり、そのアプローチは多様でいいけど、僕は温かみがあって、人の心に語りかけてくるようなサインを実現したいと考えるようになりました。

 

廣村正彰 資料 廣村正彰 資料

「ビッグハート出雲」のサイン計画は、印象的な大きな「漢字」のサインが空間に即物的に配された。
Photo by Hiroyuki Hirai

 

 

 廣村さんは、伊東さんとも台中国家歌劇院や大阪府茨木市の複合施設「おにクル」などのサインをデザインされていますが、建築家ではやはり山本さんとのコラボが多いですか?

 

廣村 そうですね。埼玉県立大学、公立はこだて未来大学、東雲キャナルコート1街区、横須賀美術館、天津図書館、名古屋造形大学など、山本さんとの仕事は多いです。直接お聞きしたことはないのですが、これだけご一緒させていただけるのは山本さんの建築と僕のグラフィックの相性のよさもあるのかな、と。山本さんの理論に基づく簡潔で凛とした建築に呼応したグラフィックの要素を加えることができればうれしいです。

 

 廣村さんは理論的アプローチをとる人で、そこが山本さんと息が合う原点なのですね。

 

廣村 僕は学生時代から理論で割り切れる根拠を探りながらデザインしているので、目的が明確なサインデザインは向いているし、機能を果たしたうえで自由に遊べばいいと考えています。

 

 建築以外で印象に残っている仕事は何ですか?

 

廣村 新しい業態の開発に深く関われたという意味では、2009年から携わっているカプセルホテルの「9hナインアワーズ」はおもしろい仕事です。「9h」というネーミングは「汗を流す~睡眠~身支度」というホテル内のミニマムな行為に必要な時間がだいたい9時間ということを根拠にしています。運営はほぼ無人。普通ならスタッフが説明すべき情報、例えば居室(カプセル)の使い方、アメニティ、ホテル内のルールをほぼすべてをサインで案内しなければならない。さらに9hという新業態の思想や革新性も表現したい。そういう意味で空間、機能、グラフィックがうまく融合し、相乗効果をあげたプロジェクトだと思います。

 

廣村正彰 資料 廣村正彰 資料

「9h」のコンセプトをそのままビジュアルに置き換えた。
Photo by Nacása & Partners

 

 

 どんな部分にこだわってデザインしたんですか?

 

廣村 年代や言語を問わずさまざまな人がスピーディに理解して移動できる駅や空港などのサインデザインです。シンプルで図や色、設置する場所などから直感的に理解できるようなサインやピクトグラムを目指しました。

 

 

ルーティンワーク以外で

 

 廣村さんは『空間のグラフィズム』『デザインのできること。デザインのすべきこと。』『字本 JI BORN』『デザインからデザインまで』と、定期的に著書を出されています。ご自身のデザインテーマを整理できたと思ったタイミングで出版されるのですか?

 

廣村 最初はそんな大それた話ではなかったんです。田中先生とは激怒事件以来少し距離があったのですが、独立して10年目くらいに田中事務所を訪ねて仕事を見ていただいたら、デザインについては何のコメントもなかったのだけれど、本にしたらいいと言ってくださった。田中先生流に僕のデザインを認めてくれたのかなと思い、すぐにADPの久保田啓子さんに相談に行きました。

 

久保田 廣村さんとの最初の出会いは、杉本貴志さんが2004年に『春秋』という本をつくるときに、デザイン担当として廣村さんを紹介されたときでした。杉本さんはセゾンの仕事を通して廣村さんをご存じだったのでしょうね。

 

廣村 久保田さんが快諾してくれて、2002年10月の松屋銀座のデザインギャラリー1953で展覧会の予定もあり、同時期に発行しようと準備を進めました。ところが一番見ていただきたかった田中先生が1月に急逝された。それ以来、僕は「自分の仕事を記録しておこう」と考えるようになったのです。

 

 『空間のグラフィズム』は空間におけるグラフィックデザインの可能性を「システム」「グラフィズム」「プレゼンテーション」「ビジュアルアイデンティティ」の4つのコンセプトから、廣村さんの仕事を通して解析したもので、新しいサインデザインが示唆されていました。3冊目の『字本 JI BORN』は文字の歴史を踏まえ、字と脳、字と目、字と手など人間の五感や本能の文字の関係性に迫ったもので、デザイナー以外の人でも楽しめる書籍に仕上がっていて感心しました。

 

廣村 『字本 JI BORN』の巻頭にも書きましたが、グラフィックデザインは「字=文字」と「図=絵柄」という視覚要素を組み合わせて、新しい表現やメッセージを生み出すことで進化してきました。デザイナーとして「字」と関わり合うなかで、「字」を科学的な角度から見直してみたいと、エディターの加藤國康さんと協働でまとめました。

 

 サインに限らず、廣村さんの仕事は文字、矢印、線、図形などを組み合わせたシンプルで即物的なものが多くて、『字本』の研究成果が発揮されているのだと思います。本をまとめるというのはデザインワークにももちろんいい影響があるのですね。

 

廣村 そうですね。最初は深く考えていなかったけど、『空間のグラフィズム』『デザインのできること。デザインのすべきこと。』『字本 JI BORN』などを手がける過程で思考の整理や研究したいテーマを発見すると、出版や展覧会をゴールに勉強するようになっていきました。

 

 そのひとつが「ジュングリン」ですね?

 

廣村 そうです。ジュングリンは、展覧会という手法で「日常からデザインを発見する」というテーマに取り組んだものです。「ジュングリン」は「順繰り」に「ing」をつなげた造語で、2011年から2018年にかけて、「意識が動く」「無意識の中の意識」「時報ジュングリン」と展覧会を3回開きました。サインデザインとは、人に何かを伝えるのか、どうしたら人はそれに気づくか、人は何に従うのか。人の行動の起点を見極めることが重要だと考えて実験もしました。人が日常生活のなかで意識や心が動く瞬間を見つめると、新しいアイデアやデザインが生まれるだろうと考えたわけです。つまり「きっかけ」を探す。

 

廣村正彰 資料

Photo by Nacása & Partners

 

廣村正彰 資料

Private Exhibition「ジュングリン」展から「Color-batons」(2011)、Slice(2014)
Shot by Akihiro Yoshida VP amana inc.

 

 

 「ジャパンクリエイティブ」(以下JC)は日本各地のまさに「日本の創造」の原点を探り、未来につなぐプロジェクト。ちょうど2011年、東日本大震災の年から始まって、廣村さんと内藤廣さんを中心に進められましたね。

 

廣村 JCは、西武百貨店の事業として始まり、2011年に一般社団法人として新たに出発しました。東日本大震災のこともあって、みんな真剣だった。その活動は、「日本のものづくりの新しい価値」を広く発信することが目的で、日本のつくり手と、国内外のクリエイターが協同するプロダクトの開発、展覧会やトークイベントの開催、その記録と出版です。僕が参加した10年間で24プロジェクトの開発、7カ国10回の展覧会、日本のものづくりの未来を考えるトークセッションも7年続けました。僕がこだわりたかったのは、デザインというよりも「クリエイティビティ」の本質を探ること。世代、国籍問わずいろんな人が集まって活動するエネルギーには力をもらったし、プロジェクトも楽しかった。

 

廣村正彰 資料 廣村正彰 資料

「ジャパンクリエイティブ」展 クリエイティブディレクション、会場展示グラフィックデザイン(2011〜2021年)を担当した。
Photo by Nacása & Partners

 

 

 内藤さんはJC10年史のなかで「世界的に活躍する気鋭のデザイナーが、ジャパンのなかに息づくプロダクトとコラボレーションできた喜びが形になっています。言葉を越えた真のコミュニケーションが形になっています」と述べています。JCがもたらした国際的なつながりは日本の新しいクリエイティビティの発見につながったでしょう。ルーティンワークとパラレルに、こうしたプロジェクトや研究活動、展覧会を開催されることはすばらしいなあと思います。

 

廣村 実は今、「仮説と仮設」というテーマを研究中で、竹中工務店東京本店にあるギャラリーエークワッドでの展覧会と出版を予定しています。「仮説と仮設」というテーマはジュングリンの延長線上にあるコンセプトで、人の行動は何を感じ、どう認知して、どのように行動に移していくのかという行為の流れについて仮説を立てて、それを映像や写真で分析、検証して、展覧会として構築し、本にしたいと考えています。

 

 仮説と仮設、タイトルだけでもワクワクしますね。

 

廣村 例えば、サイン計画は常に強度や耐久性を求められるけど、本当にそうなのかな?と仮説を立てる。するとサインと言っても、例えば「世界デザイン会議2023」の会場サインは開催期間の数日だけあればいいので、軽くて取り外しがしやすいデザインの方がいい。つまり丈夫であることよりも仮設的あることが求められる。そうすると「仮説と仮設」がどんどんつながっていって、研究するに値するテーマではないかと考えたわけです。サインデザインは文字のサイズや色、JISなど決まりごとが多く窮屈な部分が多い。だけど実際にサインが設置される場所は、壁の色や材質、設置位置、人の導線や視線など実に多様なので、もっと自由で感覚的であってもいいのではないか。

 

 お話を伺っていて、先ほどの「ジュングリン」から始まって、深澤直人さんの「WITHOUT THOUGHT」に共通するもの感じるのですが。

 

廣村 まさにそれで、僕は深澤さんの「WITHOUT THOUGHT」にはとても感動し、インスパイヤーされました。もちろん同じことはできないけど、深澤さんが目指した人間の日常に潜む本質的な心理や行動を分析して、それを根拠にデザインをしていこうというアプローチは共通していると思います。サインは理屈抜きで理解してもらうことが重要です。例えば人間はいろいろな環境のなかで無意識に「人の顔」を探しているという仮説があるし、矢印や1本の線にふっと注視してしまう理由は何なのか、サインデザインという切り口でその根源について考えてみたいのです。

 

 そういえば赤ちゃんは「顔」に反応すると言われていて、だから「アンパンマン」とか「ドラえもん」とか目鼻立ちがくっきりしているキャラクターが人気だという話を聞いたことがありますね。

 

廣村 たしかに。今あげたようなことって、人間に根源的に刷り込まれたことではないか、もしそうならサインデザインはもっとシンプルに、違ったアプローチがあるかもしれない。最近はサインの予算の半分以上をデジタルサイネージが占めることも多いのですが、モニターは何年も持たないし、そもそも駅や商業施設は情報が氾濫していてデジタルサイネージすら以前のようなインパクトがなくってきている。情報がこちらに来い、こっちは楽しいよと手を伸ばしてきて僕らを囲い込もうとすることに対して、自分が必要なものをこちらから取りに行くくらいがちょうどよいのではないか。そんな仮説を展覧会で構想します。

 

 展覧会や出版は理論武装が必要でデザインワークの片手間でできることでではないので、そこには廣村さんの強いこだわりを感じます。日常的に心がけていることは?

 

廣村 いつも本を読んで気になる部分をまとめておいて、その部分を僕なりに実証実験して整理し文章化、視覚化するようにしています。5年、10年単位で本を出すことによって、それまで考えていたことが頭のなかに定着するし、いろいろな矛盾を突き詰めていくとある瞬間に止揚が起こって次の段階に進むことができる。特に出版という形式は僕にとってはとても大切なことで、何かしらの痕跡を残したいという人間らしい欲望かもしれないですね。

 

 廣村さんはショップや展覧会もデザインしていますが、二次元のグラフィックと三次元の空間デザインには何か違いがありますか?

 

廣村 空間デザインといっても僕が手がけるのは展覧会やイベントといった時間が限られたもので「仮設」です。だから空間的・時間的制限のなかでどれだけおもしろいことができるかが勝負で、永続性を求められる建築とは違う。僕はサインデザイン、展覧会、より短期的なイベントと、空間をデザインするうえで時間のスパンを3段階で考えています。

 

 廣村さんというと2021年の開催となった東京2020スポーツピクトグラムも話題になりました。ピクトグラムは何を目標にデザインしたのですか?

 

廣村 このプロジェクトはチーム制作で、約2年の開発期間を要しました。今の「東京」を表現するものは何か—鳥獣戯画やアニメなど文化・歴史から着想した10数種類のテーマでデザイン検証を行い、最終的に1964年の東京大会で初めて公式採用されたスポーツピクトグラムを、先人へのリスペクトとともに継承・進化させる案になりました。64年の大会から競技数も格段に増えているので、誰もが言語を介さず理解できる簡潔さを実現しつつ、現代の競技の見どころの一瞬をどう描くか、躍動するアスリートの魅力を最大限に引き出すことが目標でした。開会式のパフォーマンスも話題になって「ピクトグラム」という言葉自体が認知されたのも嬉しかったですね。

 

 

デジタル以前とデジタル以降

 

 廣村さんの世代はデジタル以前と以後のデザインをご存知ですが、どうお考えですか?

 

廣村 デジタル化が本格的になったのは2000年前後だと思うけど、その影響は自身のデザインにも現れていると思う。以前毛筆のタッチでイメージしていたデザインをスタッフがデジタルで書き起こしてくれたんだけど、どうにもしっくりこなくて筆で書き直してもらったことがあります。完成イメージを実現する手段の選択と検証のプロセスが重要で、デジタルの留意点はそれらしくはできるけどどこかに違和感があったり、奥行きが感じられなかったり……良くも悪くも質感に現れてしまうことです。デザイナー自身が幅をもっていて、これはデジタルでいい、これは手でつくろうということが判断できればいいよね。技術が進化しても常にその視点で考えなければならない。アートも同じだと思います。

 

 早川良雄さんについてまとめたんですが、著書のなかで「僕が作ってきたものは、本来的な肉体性のある個性から出てきたのかもしれません。しかしコンピュータでデザインをする時代になりますと、ある形を瞬時にして別のものに変えていくことが可能になり、その瞬間のどこをどう切り取るかがデザイナーの感性にかかってくるだろうと思っているわけですね。中略 デザイナーの人間性から滲み出てくる本来的な個性とか、本来的な温もりというものが必要でなくなったとき、一体デザインの世界がどうなるのかという心配があります」とおっしゃっています。デジタルはなんでもできるようで、実は線とか色彩とか動きとかすべてがあらかじめプログラミングされていいます。つまるところ、デザイナーの仕事は「選択」になってしまうと、手技とは違ってくるのかなあとも思うんですが。

 

廣村 最初にある程度イメージができているかどうかが重要だと思う。学生や新人デザイナーはあらゆる方法を試して経験を積むしかない。これはデジタルでもアナログでも同じです。ある程度分かってきたら、アナログ/デジタル(もしくはハイブリッド)のいずれでも思い通りのイメージを表現できるようになる。ただ、おっしゃる通りデジタルの場合ひとつの色を決めるのに万単位の選択肢があるために、スタッフが選択に悩んで何十色もアウトプットを持ってくるときがある。それは最初にイメージができていないからです。

 

 一方で、廣村さんもイメージを言葉できちんと伝えていくことが大切ですよね。そこがあいまいだと先に進まない。

 

廣村 もちろん。言葉の選択と文脈は重要だから、僕もいろいろ勉強しています。

 

 言葉もですが、体験の共有化はどうですか? 現在は忙しすぎて難しいかもしれないけど、同じ場や時間、体験の共有の積み重ねがデザインに影響することはありますか? 最近のワークショップブームの背景はこの辺りにあるのかな、と。

 

廣村 すごくある。それ以前にもっと大切だと思うことは、幼い頃にどんな体験をしているかです。できれば小学校卒業くらいまでにいろんな体験を通して五感を磨くこと。自然や芸術に触れた体験や記憶が他者への理解の深まりや対話のきっかけになり、デザインはそうしたことをベースに成立していると思います。

 

 デジタル時代以前、田中一光さんが尽力された東京デザイナーズスペースとかギャラリー間とかの「場」は、デザイナーや異分野の人々の交流の場であり、共感や会話を生むきっかけになっていました。それらがデザインを豊かにするという側面があった。ところが、今はデザイナー一人一人が「個」として分断されています。SNSなどのネットワークでつながっているといっても身体的な共有とはぜんぜん違います。デザインの共有の場の喪失がデザイン界に影響しているか?

 

廣村 公私や世代、業種を超えた語らいや交流から生まれたデザインと、「個」が尊重される今とは良し悪しではなく、質が異なると感じています。一人ひとりがつながって経験・共有したことを手がかりに考える活動や交流となっていくのではないでしょうか。

 

 

アーカイブについて

 

 廣村さんご自身のアーカイブについて伺いたく。

 

廣村 以前外部倉庫に保管していたポスター類を、2021年の事務所の引っ越しを機に整理をして、事務所内でアーカイブしています。とは言っても、デザインのデジタル化も進んで昔ほど物がいらなくなった。現在ポスターのストックは1枚と決めていて、サインデザインの意匠図や資料はデジタルデータで保管しているのでほとんどスペースは要りません。過去の仕事は年代別のプロジェクトごとにまとめ、現役スタッフの案件は担当者それぞれが整理保管しています。パッケージ類も印刷物でも劣化や退色が激しいものは引っ越しの際に処分しました。ここ10年ほどは、専任スタッフがデジタル化を進めています。

 

 計画的に整理されいているようですが、将来的にはどうお考えですか?

 

廣村 大学や美術館への寄贈はそう簡単な話ではないでしょう。データはともかく、現物は難しいと思います。僕が生きているうちはできる限りまとめておきますが、その後はどうなるかわからない。ただ僕はデザイナーのなかでは整理している方だと思います。

 

 デザイン界として、作品のコレクションやデザインアーカイブの取り組みについてご意見ありますか?

 

廣村 必要だと思います。海外に行くとデザインミュージアムが充実していて羨ましい。僕らも来る日に備えて作品の整理とデータ化はしておくことが理想ですよね。ただ僕のように現役中に始めても何年もかかっているし、個人では難しい場合もあるので、まずはJAGDAやJIDAのようなデザイン団体が主導して、貴重な作品を保管していくべきだと考えます。どの時代になっても過去のデザインやそれらを生み出したデザイナーの思考や活動を知ることはとても大切なことです。そのためにアーカイブの取り組みは重要だと思います。

 

 この調査でDNP文化振興財団の田中一光アーカイブを取材しましたが、量が膨大すぎて作業は進んでいない状況でした。アーカイブの専門家であるデザイン史家や学芸員は将来のためにすべてを残すべきだと主張しますが実際には難しい。そう考えると、ある程度デザイナー本人の取捨選択が不可欠かなと思うのですが、廣村さんはその基準をどうお考えですか?

 

廣村 理想的にはデザイナー自身と専門的な知識のある第三者が共同で決めるのがいいですよね。田中先生は突然に逝去されたのですべてが他人に託された。残された資料のなかには僕の給料明細まであったと言うんだから驚きです‥‥‥。

 

 スケッチとか、プロトタイプとかはどうですか?

 

廣村 僕の場合はサイン、CIやVIに関わるデザイン、展覧会などの空間デザインが多いので、最終的には撮影したデジタルデータで残せます。スケッチや模型がたくさんある人もいるだろうし、最終的にはその人が「デザインアーカイブ」をどう判断するかにかかっている。

 

 デザインアーカイブについてはいろいろな意見があって、これからの課題です。

 

廣村 デザインアーカイブということでは、先日東京ミッドタウン・デザインハブが、日本デザイン団体協議会(DOO)と共催で「ROOTS OF FUTURE 過去を探って、未来を見つける」という展覧会を開催しました。DOOは、日本の7つのデザイン団体(空間、インテリア、インダストリアル、グラフィック、パッケージ、サイン、ジュエリー)で構成する協議会でさまざまな活動をしています。今回の展覧会は同協議会の「ジャパン デザイン ミュージアム設立研究委員会」が取り組んできたデザインアーカイブ事業から、1950年から2020年代までのデザインを総観する「クロニクル」と、テーマに沿ってピックアップした約90点からデザインの未来を探る「発見」パートで構成されました。僕はJAGDAの依頼でDOOがまとめたデータ表をリデザインしたのですが、大変な情報量で見応えがありました。日本のデザインを多面的な視点で探ることで、さまざまな時代のデザインの魅力を改めて発見し、これからの生活や社会とデザインを考える機会となったのではと思います。

 

廣村正彰 資料

東京ミッドタウン・デザインハブ第110回企画展「ROOTS OF FUTURER 過去を探って、未来を見つける」展、
廣村はメインビジュアルと会場展示グラフィックを担当

 

 

 DOOさんは、以前はクラフトも含めた8団体で構成されていて、「D8」と言われていましたね。私たちPLATも親しくさせていただいています。みなさん手弁当で真面目に取り組んでいらっしゃる。

 

廣村 DOOは1966年に創設されて、1993年にはデザインミュージアム設立を目標に30年近く勉強会を重ねきて、貴重なデータを保持していた。そこで、展覧会というかたちで発表されてはということになりました。こうした事業は本来国レベルのサポートで1本化していくことが大切だと思います。先ほど、まずはデータ化から始めればいいと言ったけど、実際にはデザインは企業や業界が持っているし、個人のコレクターも多い。だから、ミュージアムのようなハコをつくる前にそれらを連携させて、データだけでも1本化をしていくのが理想的だと思います。

 

 DOOに限らずデザインミュージアムはデザインアーカイブの活動が活発化してきています。そんななかでデザイナー自身による作品集や著作集の出版も後世のための大切なアーカイブです。これからの廣村さんの活動を楽しみしています。ありがとうございました。

 

 

 

廣村正彰さんのアーカイブの所在

廣村デザイン事務所
http://www.hiromuradesign.com/