日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
飯島直樹
インテリアデザイナー
インタビュー: 2019年7月4日 13:30〜15:30
取材場所:飯島直樹デザイン室
取材先:飯島直樹さん
インタビュアー:関康子、石黒知子
ライティング:石黒知子
PROFILE
プロフィール
飯島直樹 いいじま なおき
1949年 埼玉県生まれ
1973年 武蔵野美術大学造形学部産業デザイン科工芸工業デザイン専攻卒業
1976〜1985年 スーパーポテト
1985年 飯島直樹デザイン室設立
2004〜2014年 社団法人日本商環境設計家協会
(現・一般社団法人日本商環境デザイン協会(JCD))理事長
2008〜2014年 KU/KANデザイン機構理事長
2011〜2016年 工学院大学建築学部教授
Description
概要
戦後日本のインテリアデザインが、建築の室内装飾から独立したデザインの世界へと舵を切ったのは1960年代である。飯島直樹はその時代を追いかけるようにしてインテリアデザインを学び、さまざまな商業空間を世に送り出してきたデザイナーの一人である。
1968年は20世紀の屈折点といわれる。日本では全共闘と機動隊による東大安田講堂事件があり、フランスではパリ五月革命があった。その翌年に武蔵野美術大学に入学した飯島は、そうした時代の激しいうねりとインテリアデザインを切り離すことはなかった。
1972年に杉本貴志が手がけた「バー・ラジオ」は、まさしく時代が生んだ作品であると評する。その杉本に共感し、大学卒業後は杉本が立ち上げたスーパーポテトに入社。10年在籍し、インテリアデザインの最前線に立った。杉本の片腕として西武百貨店の店舗デザインや無印良品など数々のプロジェクトを担当。1985年飯島直樹デザイン室を設立後はソニアリキエルのブティック、資生堂 5SNew York、東京糸井重里事務所、野村不動産のオフィスシリーズ「PMO」など、商空間からオフィスビルまで、幅広い空間デザインを手がけている。
華やかな商空間が次々つくられていた80年代と異なり、バブル崩壊後の90年代以降はマーケット志向のデザインが求められた。飯島はデザインによって、コミュニケーションや人の振る舞いが変わることを信条に、サービスを空間で表現したいと考えている。
Masterpiece
代表作
EX(JUN)ニューヨーク(1985)
ARAI(1986)
ソニア リキエル六本木(1987)
CIBREO(1990)
内儀屋(1991)
5S ニューヨーク(1998)
新文芸坐(建築設計IIJIMA DESIGN+バゲラッタ、2000)
BACCARI DI NATURA (SHU/NKAN、2002)
blupond ソウル(2003)
妻家房コレド日本橋(2004)
東京糸井重里事務所(2005)
新宿高島屋(環境リノベーション、2007)
Aoビル(商環境計画、2009)
PMO(オフィスビルデザイン、2008〜)
トータル・ワークアウト 渋谷、六本木、福岡、(2014〜)
スタジオE139(2017)
工学院大学ラーニングコモンズ 新宿・八王子、(2017)
Dolls(展覧会、2018)
著書
『インテリアデザイン 空間の関係・イメージ・要素』(共著)六耀社(2003)
『飯島直樹のデザイン「カズイスチカ」臨床記録1985-2010』平凡社(2010)
『ゼロ年代 11人のデザイン作法 』(共著)六耀社(2012)
Interview
インタビュー
インテリアデザインはひとつのジャンルとして位置づけられていない。伝えるツールがあまりにも少ないのが問題となっています。
インテリアデザインの二つの流れと革命
— これまでアーカイブに関する聞き取り調査を重ねてきましたが、残念ながらインテリアデザインのアーカイブは、グラフィックやプロダクトに比べると弱いと言わざるをえません。その実情を伺いたく、参りました。
飯島 みなさんのアーカイブ調査の報告は拝見していますし、こうした調査報告がなされているのは、大変にうれしいことだと思います。インテリアデザインにおいてもアーカイブ化が必要であることは誰もがわかっていますが、個人ではなかなかできることではなく、みな手を出せずにここまで来てしまったというのが実情です。
— 飯島さんはJDC(日本商環境デザイン協会)の理事長を務められ、また、工学院大学で教鞭を執っていらっしゃいました。学校やデザイン団体などでアーカイブに関する動きにはどのようなものがあるのでしょうか。
飯島 まずインテリアデザインの概念を定義づけるのが難しいのです。建築の一部であり「室内装飾」でありますが、日本では1960年代以降にデザインとして自覚されるようになりました。そうした歴史自体、あまり研究されていません。ひとつのジャンルとして、きちんと位置づけされていないのです。インテリアデザインとしての行政の受け皿も曖昧で、一本化されていません。インテリアデザインは関係団体も多く、JCD のほか、日本インテリアデザイナー協会(JID)、日本空間デザイン協会(DSA)、日本インテリアプランナー協会(JIPA)、日本インテリアコーディネーター協会など各種雑多で100ぐらいあります。 2019年より、DSAとJCDはアワードを統合して「空間デザイン賞」を創設しましたが、お互いがまったく違うことをあらためて認識しました。それぞれ住み分けしバラバラなのです。
大学も同様で、僕は武蔵野美術大学で学びましたが、豊口克平さんがいてバウハウスの流れを汲むということぐらいしか教わっていませんでした。でもさすがに、このままではよくないという危機感を僕たちも抱くようになり、近年、そうした歴史を調べ始めてまとめたり、細々と発信したりしているのです。
最近もそのきっかけとなる展覧会がありました。今年の2月の埼玉県立近代美術館を皮切りに巡回している『インポッシブル・アーキテクチャー』展です。実現できなかったアンビルドの建築に焦点をあてたもので、ウラジミール・タトリンの「第3インターナショナル記念塔」やミースのガラスの摩天楼、ザハ・ハディッドの新国立競技場案の模型などが展示され、建築家の気迫を伝えていました。そこに、川喜多煉七郎の「ウクライナ劇場設計競技応募案」(1930)が展示されていたのです。これは日本人が世界の国際コンペで賞をとった最初の作品で、4等になっています。その時の8位がヴァルター・グロピウスで、1位はロシアのヴェスニン兄弟でした。川喜多は、建築畑でもほとんどその名を知られていませんが、1961年に設立されたJCDの初代会長で、僕はかろうじて名前を知っていました。同展監修の五十嵐太郎さんは「近代建築を学んだ日本の建築家が、当時すでに世界の基準に達していた証左」と評していました。この劇場の内部構成がすごいのです。歌舞伎の影響を感じさせるどんでん返しが組み込まれており、独自性がありました。
JCDは、川喜多のように、個人で自由にやっていくような人が集まっている団体です。初期の理事長の渡辺一男=安西水丸さんのお兄さんはレストラン・クラブの「瀬利奈」を手がけるのですが、公的な立ち位置とは異なる在野という感じでした。
一方、JIDは商工省(現・経産省)が日本に西洋の近代的なスタイルを広めようとして仙台に創設した工芸指導所が母胎です(1940年に東京本所開設)。ブルーノ・タウトが指導し、剣持勇、豊口克平、渡辺力さんらを輩出しました。まず、そういう大きな流れがあります。
— 行政の流れを汲むJIDと個人で活動するJCDをベースに、さらに高度経済成長の後押しを受けてインテリアデザインは活躍の場を広げていきました。
飯島 でもその二つとはまったく異なるところから、1960年代末以降、インテリアデザインの革命が起きました。それは倉俣史朗さんから始まり、内田繁、杉本貴志さんらが続いていきました。背景にはイタリアデザインの影響があり、特に若くして亡くなったジョエ・コロンボに憧れるデザイナーは多く、杉本さんは会いに行ったほどでした。
60年代後半から70年代にかけて、アメリカのミニマル・アート、カウンターカルチャー、ヒッピームーブメント、『ホール・アース・カタログ』などが団子状態で起こり、日本に入ってきました。全共闘(全学共闘会議)があり、70年代には『宝島』(1973)や『POPEYE』(1976)が創刊されました。僕らはそういう影響下にいた。60年代から70年代の強烈な刺激は、いろいろなものが混じり合ったもので、そこからデザインが生まれたのです。杉本さんの「バー・ラジオ」(※)もこういう影響下で生まれました。
これはJIDやJCDの流れとは離れたものです。まさに時代の影響としか言いようがない。そんなこともあり、僕らは当初、こうした団体のことを見向きもしていなかったんです。でもバブルがはじけた90年代初め、当時の理事長だった高村英也さんが「このままインテリアデザインがバラバラなままではよくない。業界を考えていくべき」と声をあげ、内田・杉本を含め50名ぐらいのデザイナーが一斉にJCDに所属したのです。
※ 杉本貴志がデザインした「バー・ラジオ」。
あえて敷居を高くし、デザイナーや文化人で賑わった、伝説のバーであった。
Photo by Yoshio Shiratori
教科書となる文献が少なく、アカデミズムも弱い
— 商業施設におけるインテリアなどはそもそも恒久的なものではなく、役目を終えると跡形もなくなってしまうこともアーカイブ化を困難にさせています。
飯島 もうひとつ、アカデミズムの弱さもあります。インテリアデザイン学会はありますが、デザイン界での力を押し出すような場面をつくれているとは言いがたい。デザイナーは美大出身者が多く、大学では作品をつくり、論文は書きません。講義も一般的な歴史を述べるに留まり、今日語っているような生々しい現場の話などは出てこない。デザインのありかたや理論的な分析も、建築に比べるとまったくないといえるほど少ない。まず教科書となる文献がないのです。
鈴木紀慶さんと今村創平さんが『日本インテリアデザイン史』オーム社(2013)を書かれましたが、教科書となる本はここ5年ぐらいでやっと出てきたぐらいです。アカデミズムの動きでは、工学院大学や早稲田大学 芸術学校など建築がインテリアデザインを吸収しようとしているのもあります。インテリアは人気があるのです。
— そういう意味での需要はあるということですよね。
飯島 需要はあるけれど、受け皿と押し出し方が曖昧になってしまうので、宙ぶらりんになってしまうのです。例えば武蔵美でも、インテリアデザインは建築学科、工芸工業デザイン学科、空間演出デザイン学科の3つで教えています。バラバラでジリ貧になるぐらいならば合併しようという案も出ましたが、立ち消えました。伝えるツールがあまりにも少ないのも問題です。書籍がないのです。ネットでもいいからアーカイブ化すればいいけれど、手間とお金がかかるから、誰もやらない。
— インテリアの本は綺麗な写真は掲載されますが、語りが少ないですよね。
飯島 語りを発表し伝える場がない。グラフィックではアーカイブをもとに展覧会を行い、そのスペースも多々ありますが、インテリアとなると難しい。語れる批評家がいないのも致命的な状況にしています。批評と発表が創造活動を活性化させるからです。JDCも少しずつ機会を設けて講演会を行ったりしていますが、なかなか実現できていません。作家の代わりに書いてくれる批評家がいて、記録に残すことが大切です。 東京デザインセンターは、インバウンド促進のためにインターネットで「スペースデザイン・コンシェルジュ」というアーカイブを始めました(https://space-design.jp/about/)。代表の船曳鴻紅さんに頼まれて、そのサイトにJCDの担当として僕は30物件のレビューを書きましたが、短文ながら大変でした。また『ゼロ年代 11人のデザイン作法』六耀社(2012)にも論評を書いています。
杉本貴志に学んだのは「コンセプチュアルであれ」
— ところで大学卒業後、なぜ杉本さんのスーパーポテトに入社しようと思われたのですか。
飯島 卒業後は西武百貨店の家具装飾部に1年半ほど勤めていたのですが、その当時、杉本さんがデザインしたバーに入り浸って、兄貴みたいな存在になっていたんです。杉本さんは東京藝術大学を卒業後、就職せずにいろいろなことをしていたんですね。1972年に「バー・ラジオ」をつくると、田中一光さんが来て、西武流通グループの堤清二さんが来た。その翌年に杉本さんはスーパーポテトを設立しますが、それで仕事が漏斗のようにわーっと入ってきていたのです。すべて「バー・ラジオ」から生まれました。
一光さんは西武のクリエイティブディレクターに就任しており、西武は一介の百貨店から特別な百貨店へと変わろうとしていました。僕は1976年に入社し、西武の仕事をたくさん担当しました。半年でつぶれても文句を言わさないようなデザインをしたりして、おもしろかったですよ。
会社には10年在籍しました。実験的なデザインが許されていて、例えばグリッドからはみ出さない形式的なフォルマリズムの手法をやってみたり、ルーバーやストライプを導入したりしました。ルーバーは、空間と空間のあいだに何かを生む、存在するようで存在しない価値観であり、気配の装置です。これは隈研吾さんに引き継がれたと思っています。一光さんは杉本さんのコンセプトの源は1920〜30年代のロシアのフォルマリズムで生まれたものに触発されたと見抜いていて、「杉本たちのは、ノイエザッハリヒカイト(新即物主義)だな」と言われたことがあります。
「バー・ラジオ」の改修が1982年で、そのあたりから杉本さんは物質や官能、モノのエロティシズムなどを追求していきました。1983年の無印良品の直営1号店(青山)を担当しましたが、古い材料などで空間を再構築して素材を意識する流れに変わっていきました。
— 杉本さんとはどのような仕事の進め方をされたのでしょうか。
飯島 僕は番頭みたいな立場だったので、幸運なことに任せてくれてやりたいことはかなりできた。僕が退社したあとは細部まで指示するようになったと聞いています。「コンセプチュアルであれ」というのが、杉本さんから学んだことです。
インテリアデザインには、世界的に特異とでも言うべきジャンルがあるんです。欧米でインテリアデコレーターというとほとんどがゲイですが、審美的な傾向はセレブリティなどから支持され一定の需要があります。杉本さんはそういう世界に反発し、「指輪をデザインするんじゃない。コンセプトをデザインするんだ」と言っていました。最終的にはきれいな形などに置き換えるわけですが、その手前にある概念こそ新しく置き換えるべきだという考えです。
— その後、インテリアデザインの潮目が変わったのはいつでしょうか。
飯島 90年代ですね。大阪方面から新しい世代が出てきました。森田恭通、文田昭仁、間宮吉彦さんらです。東京では片山正通さんがいますね。彼らはどちらかというと審美的なタッチを含んでいて、装飾も過剰です。この審美的なタッチというのは、日本でも時折台頭します。杉本さんは否定していましたが、僕は建築の理論と妖しい審美の世界を重ね合わせるのもおもしろいと思っています。
2000年代になると、また流れが変わり、若手の建築家がアフォーダンスの概念を投じる醒めたデザインが席巻します。青木淳を筆頭に隈研吾、妋島和世さんらに学んだ建築家がほとんどで、何年もの間、表彰も受賞者はインテリアデザイナーではなく建築家に独占されました。
今はまた流れが変わり、新しい素材派ともいうべき審美的な時代に入っています。同時に、組織だった事務所が新しい傾向を生み出しています。nendoは2016年に乃村工藝社とonndoという空間デザインの会社をつくりました。業界の地図も変わりつつあります。日建スペースやイリアなどの大手企業も、欧米のデザイン事務所との競争力を高めるために、インディペンデントのデザイナーたちと共働する道を探っています。
理想のアーカイブとは
— 世界的に日本のインテリアデザインはどう評価されているのでしょうか。
飯島 アジア圏では日本のインテリアデザインは依然としてお手本であり鑑です。ソウル、台北、香港でもデザイナーは日本のインテリアデザインの影響を受けていて、勉強をしています。でもデザインのレベルだけみると、10年前とではガラっと変わっていて、インターナショナルスタイルでベーシックな感度の高いものが急激に増えている。相当レベルが高くなっているので、やがて追い抜かれるのは間違いないでしょう。
— 欧米とのつながりは、どうなっているのでしょうか。
飯島 90年代までは日本を取材する雑誌がありましたが、今はもうつながりは切れていますね。一方で、日本の若手は日本のアワードではなく、欧米のアワードを狙いに行っています。ラインナップがズラズラあり、数打ちゃあたる状況にもなっている。海外の賞を授賞すると、日本に帰ってきたときにプライオリティが高くなるんですね。
— 飯島さんは工学院大学ではラーニング・コモンズ(学習支援を意図した施設)の場をデザインし、またワーキング・コモンズ(意欲的な仕事場を誘発する創造的な環境)の施設も手がけています。インテリアデザインの範疇が広がっているように見受けられます。
飯島 パブリックな空間に興味があるのです。オフィスビルや大学のコモンスペース、ショールームの仕事が増えています。日本のパブリックスペースはまだまだ世界からみたら置いてきぼりを食らった状態で、これをきれいにできればみなが喜ぶと感じています。仕組みをちょっと変えることで、人間の態度やありさまも変えることができるのです。
オフィスもそう。かつてはオフィスメーカーに発注し、椅子とテーブルを並べるだけというのがほとんどでした。それが今は激変し、デザインの対象になってきています。会社の人間関係をシャッフルして、新しい関係をつくることがオフィスデザインの常識になってきています。オフィス以外にも学校や病院、養護施設などでの導入が期待されています。
昨年「Dolls」という展覧会を行いました。着せ替えドールのように生成変化するオフィスビルの模型を展示し、ワーキング・コモンズのあり方を探りました。ヒト、モノ、コトのネットワークをつくる道具のようなオフィスです。
自分も年齢を重ねてきていますから、いつまでデザイン事務所を続けるかはわかりません。それで今年、以前からの事務所を引き払い、仲間と空間をシェアするかたちの新しい拠点で活動を始めたのです。ここには西武時代の仲間がいたり、デザイナーと事業者をマッチングさせる「SKY DESIGN AWARD」を新たに立ち上げた香港からの若い人材もいます。プレイルームもあり、共働で新しいことを探っています。
— まさに次世代のワークスタイルですね。さて飯島さん個人は、アーカイブをどうされているのか教えてください。
飯島 スーパーポテトの伝統が、ざっくばらんだからなのか、図面を残さないんです。「バー・ラジオ」の図面も残っていません。その伝統に従って、僕もデジタル化したものは残っていますが、手描きの図面も模型もほとんど捨ててしまいました。手描きの図面1枚とニューヨークでのスケッチがあるだけ。インテリアデザイナーはほとんどそうなのではないでしょうか。でも写真は撮っています。その写真をもとに作品集『飯島直樹のデザイン カズイスチカ 臨床記録 1985-2010』平凡社 (2010)を上梓しました。
目下、自分の体験に即したことを書きまとめています。70年代より前の審美的な世界の人たちはまったく知られていないこともあり、僕が経験したことやその横にいろいろあったことを並列に書けたらおもしろいのでないかと考えています。
工学院で教えていた時に、学生が文化や社会事象まで含めた壮大な手描きの年表をつくりました。インテリアは社会や文化とつながっています。その年表を参照しつつ進めています。
『JAPAN INTERIOR DESIGN』の編集長だった森山和彦さんがイタリアのデザインをみなに見せて革命に引っ張り出しました。そういう話も森山さん亡き今となっては、新しいことが生まれた素地や背景が見えなくなってきています。せめて共に働いた川床優さんから話を聞いておかないと、わからなくなってしまうでしょう。
— ミケランジェロの弟子のジョルジョ・ヴァザーリが芸術家列伝を書き残したことが、後世の大きな情報源になったように、現場に近い人材による記録は貴重です。飯島さんのこれからのアーカイブの活動に期待します。ありがとうございました。
飯島直樹さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
飯島直樹デザイン室 http://www.iijima-design.com/index.html