日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

石井幹子

照明デザイナー

 

インタビュー:2022年6月22日13:30〜15:30
場所:石井幹子デザイン事務所
取材先:石井幹子さん、蟹井容子さん(総務室長)
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜

PROFILE

プロフィール

石井幹子 いしい もとこ

照明デザイナー

1938年 東京生まれ
1962年 東京藝術大学美術学部卒業
1965〜1966年 渡欧、フィンランドの照明メーカーとドイツの照明設計会社に勤務
1968年 帰国後、石井幹子デザイン事務所設立

照明学会名誉会員、日本照明工業会会員、国際照明デザイナー協会特別会員(Fellow)、北米照明学会会員、アジア照明デザイナー協会名誉会員、日本国際照明デザイナーズ協会名誉理事、光文化フォーラム代表

石井幹子

Description

概要

石井幹子は、日本で照明デザインの分野を切り拓いたパイオニアである。 東京藝術大学でプロダクトデザインを学び、卒業後、渡辺力主宰のQデザイナーズに就職。その間に照明デザインに興味を抱き、その後、フィンランドの照明メーカーで照明器具のデザインを、ドイツの照明設計会社で建築空間の照明デザインを学んだ経験が、のちの仕事の基盤になった。
日本にまだ照明デザインの分野がなかった1968年に帰国し、菊竹清訓の「萩市民館」と黒川紀章の「スペースカプセル」の建築空間に初めて石井の照明デザインが取り入れられ、大型新人と言われ注目される。また、日本には建物を照らすライトアップの文化もなかったため、1978年から「ライトアップ・キャラバン」という自主プロジェクトによって地道に広めていった。
その後、さまざまな建物や文化財、橋のライトアップの仕事を手がけるようになるが、石井はただ建物を照らすだけでなく、新しい技術の採用や独自の発想を盛り込み、光によって日本の夜の風景を変えていった。夜の暗闇に埋もれていた東京タワーを光で鮮やかに浮かび上がらせ、夏に冷白色、冬に暖白色と光の色を季節によって使い分けるという世界に類を見ない演出を考えた。その美しい光は人々に感動をもたらし、東京タワーは、東京を象徴するランドマークになった。
80代になった現在も精力的に活動し、仕事の範囲は多岐にわたる。大きな都市ぐるみのライトアップ計画、橋などの土木建造物の照明デザイン、文化財のライトアップ、照明器具のデザイン、光のオブジェやパフォーマンスのほか、近年は、長女であり、照明デザイナーの石井リーサ明理と、海外のプロジェクトでのコラボレーション、また、「光文化フォーラム」を主催し、国内外の光文化の継承・発展にも力を注いでいる。長年の功績が讃えられ、2019年に文化功労者顕彰、2000年には紫綬褒章受章など、さまざまな賞を受賞している。
そんな石井に照明デザインの仕事について、アーカイブを後世に残すことやデザインミュージアムに対する考えなど、事務所を訪ねて伺った。

Masterpiece

代表作

(国内)

「東京タワー」(1989)、「横浜ベイブリッジ」(1989)、「レインボーブリッジ」(1993)、「白川郷合掌集落」(1998)、「明石海峡大橋」(1998)、「善光寺五色のライトアップ」(2004-)、倉敷市、鹿児島市の景観照明(2006~2008)、「平城宮跡大極殿」(2010)、「よみうりランド ジュエルミネーション」(2010-)、「東京ゲートブリッジ」(2012)、「創エネ・あかりパーク」(2012-)、「GINZA KABUKIZA」(2013)、「皇居外苑」(2018/2020)、「隅田川橋梁群」(2020)、「日本武道館」(2020)

 

(海外)

「ジェッダ迎賓館」(サウジアラビア王国、1981)、「上海ワールドフィナンシャルセンター」(中国、2008)、日仏交流150周年記念プロジェクト パリ「ラ・セーヌ」(フランス、2008)※、日独交流150周年記念イベント ベルリン「平和の光のメッセージ」(ドイツ、2011)※、日伊国交150周年記念光イベント「コロッセオ・光のメッセージ」(イタリア、2016)※、ジャポニスム2018特別ライトアップ「エッフェル塔 日本の光を纏う」(フランス、2018)

 

プロダクト

「スペース・クリスタル シリーズ」YAMAGIWA (1970)、「スペース・ジュエリー シリーズ」YAMAGIWA(1973)、「次・オフィス ライティングシステム(THE Office Lighting System)」岡村製作所(2009)など。
※石井リーサ明理とのコラボレーション

 

書籍

『光のデザイン』リブロポート(1985)、『光無限』リブロポート(1991)、『光の創景』リブロポート(1997)、『光未来』六耀社(2001)、『美しい「あかり」を求めて-新・陰影礼賛』祥伝社(2008)、『光時空』求龍堂(2009)、『LOVE THE LIGHT, LOVE THE LIFE 時空を超える光を創る』東京新聞(2011)、『MOTOKO∞LIGHTOPIA 石井幹子 光の軌跡』(2020年・求龍堂)など。

石井幹子作品

Interview

インタビュー

私のアーカイブが後世に残り、若い人たちに参考になることがあれば
大変幸せなことだと思います

照明デザインとの出合いと学び

 

石井 このPLAT(NPO法人建築思考プラットフォーム)のデザインアーカイブの活動に大変興味をもち、賛同もいたしまして、私がお役に立てることがあればと思っています。じつはこの頃、亡くなられた方々のものはどうなっているのか、気になっていました。渡辺力先生のものは、今、どのようになっているのでしょうか。

 

 ご本人が愛着のあったものはご遺族がお持ちになられて、図面や家具、写真などは、メトロクスさんが保管されています。また、Qデザイナーズの元スタッフで、晩年の仕事をサポートされた山本章さんは、ご自宅で使われていた家具や蔵書を譲り受けたそうです(2017年7月取材、渡辺力さんのページ参照)。
 石井さんは、Qデザイナーズに東京藝術大学在学中からアルバイトをされて、卒業後に就職され、そのときに照明デザインと出合われたのですよね。

 

石井 Qデザイナーズには、3年間ほどおりました。その当時はデザインの勃興期でしたから、本当にいろいろな仕事をしました。インク瓶のような小さなものから、冷蔵庫のような大きな家電製品まで、ロゴマークのようなグラフィックもデザインしましたし、石膏模型や試作、線図の描き方まで、プロダクトデザインの基礎のすべてを教わりました。
あるとき照明器具のデザインをする機会をいただいたことが、きっかけでした。試作品ができあがって、光が灯ったときにとても感動しました。机上にあった本やカップが光に照らされて、色や形がはっきりと浮かび上がって見えてきたのです。ということは、光がなければ何も見えない、何もわからない。光というのは、何と偉大だろうと思いました。そこから光、照明デザインに興味を抱くようになり、もっと知りたい、学びたいと思っていました。
『スカンディナビアン・ドメスティック・デザイン』(メシュエン、1963)というデザイン書を見て、そこに掲載されているフィンランドのストックマン・オルノ社に手紙を送ったところ、デザイン室長のリーサ・ヨハンソン・パッペ先生からアシスタントとして受け入れるというお返事をいただきました。そこでさまざまなことを学びました。パッペ先生がおっしゃった「光は見るものではなく、浴びるもの、感じるもの」という言葉は、私の座右の銘になりました。

 

 当時のフィンランドでの生活は、いかがでしたか。

 

石井 フィンランドの街は、とにかく綺麗で清潔で、すべてのものが美しく、感動しました。
食器を買おうと思って、お店に入ったら、どれもニューヨークの近代美術館のコレクションに入っている洗練されたものばかり。当時の日本とは、まったく違いました。日本は、ようやくモダンデザインが市場に出るようになりましたが、花柄や模様がついたものがいいとされて、真っ白な無地の食器はおかしいと思われていた時代でした。
日本がそういう状況にあったなかで、フィンランドに行ったことは自分にとってよかったと思います。それに当時の日本では、女性は独身で一生仕事をするか、結婚して仕事をやめて専業主婦になるか、その2つの選択肢しかありませんでした。女性の一人暮らしなど、考えられませんでしたし、ご主人が転勤になったら、奥さんや子どもは赴任先に一緒について行くことが当たり前でした。
その当時、1965年ですが、フィンランドでは、内閣の閣僚に女性がいました。ストックマン社(オルノ社の親会社)も、役員に女性が何人もいて、子どもをもつ人のために保育園も完備されていました。独身の人も、結婚している人も、みな自然体で当たり前のように働いていて、こういう進んだ国もあるんだなと思いましたね。
翌年、私は縁があって、建築空間の照明デザインを行うドイツのリヒト・イム・ラウム社で働くことになったのですが、ドイツでは女性は専業主婦の人が多く、日本の状況と近いものがありました。ストックマン・オルノ社では、美しい照明器具を年にいくつかつくるというペースでしたが、リヒト・イム・ラウム社では、プロジェクトの規模も大きく仕事の量も膨大だったので、毎日、朝から晩までよく働きました。

 

女性デザイナーとして働くこと

 

 ヨーロッパから帰国後、事務所を設立されたのが1968年。女性デザイナーも、フリーランスとして活動する人もあまりいなかったと思います。石井さんは日本で照明デザインという新しいジャンルを築かれ、これだけお仕事を成功されるまでには相当、ご苦労があったのではないかと思います。

 

石井 当時、日本には照明デザインという分野はなく、いろいろな人に話をしてみても、どこから設計料をもらうのかとか、そんな職種はあり得ないんじゃないかとか、日本では無理でしょうと言われたりもしました。
けれども、私はこれまで自分が女性でがんばっていると思ったこともないですし、苦労したとも思っていないんですね。女性だから仕事がやりにくいとか、女性だから損をしている、得をしているとか、男性だから、女性だからと思ったことはまったくないんです。それは仕事をするうえで、腹の立つこともいろいろありますけれど、男性も同じだと思いますよ。
仕事を受けたら、誠実にきちんとやる。そして、それがよければ、次の仕事がきて、それをまたきちんと成功させるというふうに、プロジェクトごとに信用を積み重ねていくしかないという思いでこれまでやってきました。人から信用を得るために大事なことは、時間を守る、約束を守る、予算の中で最大限よい結果を出す、この3つだと思います。建築のプロジェクトは扱うお金が大きいですから、とても気をつけています。

 

 日本で照明デザインの仕事をする第一歩となったのが、建築雑誌の紹介で、5名の著名建築家に会われたことがきっかけだったとのこと。その一人である、菊竹清訓さんにお会いしたときに「萩市民会館」の模型を見せられて、「この空間にどんな照明ができますか?」と聞かれて、即答で3つデザイン案を出されたそうですね。その後、「東京駅レンガ駅舎」では、「往年の名女優を照らすように、優しくそっと包み込むような光」を発想され、岐阜県の「白川郷合掌集落」では、「優しくほのかな月明かりのような光」を考えられました。光というのは、概念的で抽象的なものなので、とても難しいものだと思います。そういう光を、いつもどのように発想されるのでしょうか。

 

石井 私の場合、大体、いつも直感です。現場を見て、すぐにここはこうしたいというアイデアが頭の中にポンと浮かびます。忘れないように、スケッチに描いておくこともありますけれど、アイデアはすべて頭のなかにあります。
私は仕事も早いです。建築空間のプロジェクトでは、スタートすると同時に陣取り合戦が始まるんですね。天井の真ん中にシャンデリアをつけたいと思っても、そこには空調の吹き出し口があるとか、スプリンクラーがあると言われてしまうので、私はいつもいち早くデザインを決めて、光が一番美しく見える場所を押さえるのです。

 

 アイデアは頭の中にあるということですが、「レインボーブリッジ」やジャポニスム2018特別ライトアップ「エッフェル塔 日本の光を纏う」といった、多くの人が関わる大規模なプロジェクトでは、協力者の方々とどのようにアイデアを説明して進めていくのですか。

 

石井 大きなプロジェクトの場合は、説明するためにも図面はもちろん、模型や試作をたくさんつくって検討を重ねます。けれども、光は現物を見ないとわからないものなので、照度計算はあくまでも目安として、事前に実験することが必須です。事務所とは別の場所にあるスタジオや、現地でも実験を行います。橋のプロジェクトでは、船に乗って現場を見るなど、いろいろなことをします。 いつもプロジェクトのお話をいただくと、私はいつも「何か新しい試み(Something New)をしたい」と考えて臨みます。「横浜ベイブリッジ」では、ただ白い橋を光で浮き上がらせるだけでなく、横浜の街を象徴する色をイメージして30分に1回の10分間、主塔の上方を青色に染めることを試み、「レインボーブリッジ」では、当時、世界で初めて橋の照明デザインに太陽光発電を一部取り入れました。
ですから、新しい技術の情報には、いつもアンテナを張っています。新聞やテレビなどで見聞きしたら、すぐにメーカーに連絡して見せていただいたり、彼らから売り込みがあったりもします。ヨーロッパなどでは大規模の照明の見本市がたくさんありますから、そこで知ることもあります。
新しい技術をプロジェクトで試すこともあれば、こういう光をつくりたいと思ったら、それを生み出すための技術を新たに開発することもあります。「エッフェル塔」のプロジェクトでは、茶色の塔を金屏風のように金色に染めたいと思い、日本のメーカーに相談して金色の光を放つ投光器を一緒に開発して、黄金に染まった塔に尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」を映し出しました。投光器の数は約120台、すべて日本からパリへ運びました。

 

光によって新しい価値を生み出す

 

 それまで日本には建物を照明で照らすという文化も、ライトアップという言葉もまだなかったなかで、1978年から各地の建物を照らす自主プロジェクト「ライトアップ・キャラバン」を手弁当で始められました。照明デザインを広く知ってもらうために尽力された、すばらしい活動ですね。

 

石井 「ライトアップ・キャラバン」の最初のきっかけは、1978年に国際照明学会の京都での開催が決まったことでした。その前の開催地のロンドンでのすばらしい都市景観照明を見ていたので、京都の夜の街を見て愕然としました。当時、日本の都市は、道路照明、商店街の街灯、パチンコ屋やバーの看板のネオンサインという3通りしかなく、京都の夜の街も同じで、貴重な文化財はすべて暗闇に包まれていました。
そこで京都市の照明計画を自分一人で勝手につくって、京都の市役所にかけ合ったのです。私もまだ若くて、所員も一人か二人ぐらいしかいないときでした。合計72カ所をライトアップすることを計画して、電気代は一晩で7000円、総工費は約2億と試算した資料を持って、誰の紹介もなく市役所を訪ねて、「東京から来ました、京都景観照明計画をつくったので、これを見てください、これをやるべきですよ」と言って、一生懸命説明しました。相手も困ってしまいますよね。結局、取り合ってもらえなかったので、二条城と平安神宮を選んで、身銭を切って電源車を借りて機材を調達して、自主プロジェクトとして行うことにしました。

 

 その後、札幌、仙台、名古屋、大阪、神戸、広島、熊本と、日本各地の代表的な建物や文化財をライトアップしていかれました。横浜市からイベントのためのライトアップの依頼を受けて、実際のプロジェクトに結びついたのは、1986年の8年後でした。途中であきらめることはなかったのでしょうか。

 

石井 いえ、自分自身がおもしろかったし、楽しかったんですね。照明で建物を照らして、「ああ、綺麗!」と自分で感動して、次は何を照らそうかと、いつもワクワクしながら考えていました。そのときに、東京藝大に行ってよかったなと思いましたね。彫刻科の人は、材料費はもちろん、展覧会に作品を運搬するにも、落選して作品を戻すのにもお金がかかりましたし、油絵科の人は、綺麗な色の絵の具は高いので、安い茶色系統をなるべく買ったりして。お金がなくて、学食で白いご飯にソースをかけて食べている人もいました。そういう人たちを見ていたので、自分がやりたいのだったら、自分でお金を出すのは当然だと思いましたし、「あの建物を照らさせてください」と、管理事務所に許可をもらいに行ったり、消防署や警察署、交番に行ってあいさつに行ったりすることは喜んでやりました。

 

 建築家がすばらしい建物を都市につくっても、夜になると、暗闇の中に埋もれていました。それを石井さんは、照明によって照らして浮かび上がらせて、光によって感動をもたらし、新しい建築、都市デザインの可能性を示されたと思います。

 

石井 日中の太陽光線は、上から照らす光ですが、景観照明は、下から照らすものですから、昼間見えないものが見えてきて、そこに新しい価値が生まれるというのが持論です。講演のときによく言うのですが、私たちが暮らしている地球は一日24時間。地球の半分の12時間は昼で、後の12時間は夜です。その夜の時間を、今まで私たちはデザインの対象にしてきませんでした。それをこれから開拓する時間なのです、と。
 「日本武道館」も、あれだけロックのコンサートをしているのに、それまで夜は真っ暗でした。増改築をきっかけに外観をライトアップする計画がもち上がって、お話をいただき、この建物が富士山のような大屋根をもつ荘厳な建築だったことと、武道の殿堂として、また、文化発信の聖地として「霊峰富士に満月の光が当たったような、静かで浄らかな光」を発想しました。屋根の瓦棒(心木)の間に一つひとつ小さなLED投光機を仕込んで、大屋根全体を山と見立てて発光させました。このような小さい照明器具で、これだけ発光させるのは、じつはすごい技術なのです。このときの技術も新たに開発したもので、投光器の数や配置の検討を重ね、事前に一部で実験を行いました。

 

月明かりのようなやさしい光

 

 海外のライトアップは、ドラマチックにメリハリを強くつけることが多いそうですが、石井さんの場合は、静かでやさしい光が特徴ですね。

 

石井 明暗のコントラストをはっきりさせるというのは、私はあまり好きではなくて、やはり満月の明かりのような、やさしい光の夜景が好きなんです。それが私の目指しているところでもあります。満月の明かりというのは、日本人が古来から愛でた光の環境だと思います。
「皇居外苑」も、月明かりをテーマに考えました。都心でありながら、ここだけ夜は闇に包まれていたので、以前からライトアップをしたいと思っていた場所でした。芝生柵の中に特殊レンズ付きで2種類のLED光源を組み込んだ柵照明という、世界初の試みを取り入れて、その光が静かに足元を照らし、頭上から降り注ぐ月明かりを楽しめるという、和の灯りを考えました。

 

 桂離宮や銀閣寺などで行われていたように、日本には月を愛でる文化が昔からありますね。そうした日本文化が、石井さんの光の発想の原点にあるのでしょうか。

 

石井 じつは、私は日本のことは、あまり興味がなかったのですね。物心がついたのが戦後、アメリカの文化が入ってきた時代でしたので、日本のものに身を置きたくないという気持ちがあるのです。
ところが、あるとき娘が突然、照明デザインをやりたいと言って、パリに行った後に、「ママのデザインは日本的ね」と言うんです。驚きました。「明暗をはっきり分けない、全体に月明かりが当たっているのがいいと思っているんでしょう?」と。そんなこと、自分で思ったことは一度もありませんでしたが、言われてその通りだと思いました。それは、60代のときでした。

 

 ご長女の石井リーサ明理さんとは、日伊国交150周年記念光イベント「コロッセオ・光のメッセージ」や、ジャポニスム2018特別ライトアップ「エッフェル塔 日本の光を纏う」など、数々コラボレーションされていますね。明理さんは、石井さんの事務所のパリ支局のようなかたちでお仕事をされているのですか。

 

石井 いえ、自分の会社をもっていて、私が海外で仕事をするときにプロジェクトごとに協力しています。娘は私と同じ東京藝術大学を卒業後、東大の大学院に進んで、その間にパリのデザイン学校で学びました。帰国後はうちの事務所でスタッフとして入社して、3年経ったときに「私もそろそろ武者修行に」と言って、パリの照明デザイン事務所に入り、2年目くらいにチーフに抜擢されました。そして、2004年に独立してパリにI.C.O.N.という会社を構えました。
地縁も血縁もないパリで、どうやって仕事を探すのか心配でしたが、今ではフランスを代表する中堅照明デザイナーの5人に入り、フランスの照明デザイナー協会の理事にも選ばれました。ヨーロッパはもちろん、アメリカや中近東、日本でも仕事をしています。本当は娘が日本にいてくれたら、私はどんなに楽なのにと思うんですけれど、がんばって楽しくやっているので、よかったなと思います。娘とはすごく仲よしで、今までケンカしたことがないんです。遠慮しているのか、ママを怒らせると怖いと思っているのかもしれませんけれど。

 

 これまで世界各地のプロジェクトをされてきたなかで、人生で思い出に残っている光や照明デザインはございますか。

 

石井 綺麗な美しい光というのは、何といっても自然の光につきますね。グアム島から飛行機で帰ってくる途中に見た、満月に照らされた雲海、ラップランドでは、現地の人もあまり見られないというぐらいすばらしいオーロラ、ハワイ島で見た大きな夕日、冬の軽井沢の別荘の庭にこもれびのように差し込む満月の光。それから、何かの撮影で琵琶湖に行ったときに、夕焼けで湖面がピンク色に染まっている光景を目にしました。どういう現象であんなふうにピンク色に染まるのか。そういう自然の光は、たとえようもなく美しいものです。それが直接、仕事の発想の源になるわけではありませんが、いろいろな美しい光を見ることは、自分にとっていい体験になります。
照明デザインは、未開拓の部分がまだまだたくさんあると思っています。今年の9月のメゾン・エ・オブジェでは、娘と一緒につくった太陽光発電を使ったドレスのようなものを発表する予定です。太陽光で発電して、その蓄電で携帯を充電できるというものです。

 

ドイツの会社を参考に資料をまとめている

 

 ここからアーカイブについて、お話を伺いたいと思います。以前、働かれていたドイツのリヒト・イム・ラウム社で行われていたことを参考にして、プロジェクトには通し番号をつけていらっしゃるそうですね。

 

石井 リヒト・イム・ラウム社では、図面やプロジェクトに通し番号をつけて、日付や書いた人の名前を記載し、関連の資料なども一緒にまとめてファイリングして、棚に整然と並べていました。誰かが休暇をとっている間や辞めたりした後に、別の人がスムーズに仕事を引き継ぐことができるようにしていたのです。とてもよいシステムだと思い、私も事務所を設立した1968年から同じように図面や資料などをファイルにまとめています。プロジェクトナンバーもつけていて、今、2000番ぐらいになっています。それから打ち合わせの内容も記録して残しています。これは私が70年代にアメリカの建築家ミノル・ヤマサキの建築空間の照明デザインの仕事をよくしていたときに、ヤマサキの事務所で行っていたことを参考にして取り入れました。それらの資料の整理と管理を総務のスタッフたちが一生懸命してくれていて、とても助かっています。

 

 そういうプロジェクトファイルや台帳、打ち合わせの記録のほかに、資料として保管されているものはありますか。

 

石井 図面、掲載誌、写真、最近では動画なども増えていますね。大変残念なのですが、場所をとるので試作品は大体、処分してしまっています。模型も、原寸や1/100など、たくさんつくるのですが、今、思うともったいないけれど、それもほとんど捨ててしまっています。気に入った模型などはとってありますけれどね。

 

 手描きのスケッチは保管されていますか。

 

石井 ほとんど、とっていないですね。これはとっておいた方がいいというものは、特に日付も書かず、箱にどんどん入れています。そういうスケッチなど、途中経過のものはとっておく価値はないと思っていて、プロジェクトが終わったら、残るのは写真しかないと思っているところがあります。

 

蟹井 ほかには、石井がテレビ出演したときの動画やラジオの音声データなども保管しています。写真をデータ化したり、ビデオはVHSをDVDに落とし込んでもらったりするのですが、そういう作業は、いつも予算を組んで期間を決めて行うようにしています。資料類は、この事務所の1階の2部屋と4階に保管していて、ほかに石井の軽井沢の別荘と外部の倉庫に預けているものもあります。

 

 石井さんは、定期的に作品集を出されていて、ご著書もたくさん書かれています。2020年には、50年の軌跡をまとめられた作品集『MOTOKO ∞ LIGHTOPIA 石井幹子 光の軌跡』を出版されました。そうした作品集や著書もひとつのアーカイブと言えるのではないかと思います。それらをアーカイブ資料として、後世に残していこうという思いがあるのでしょうか。

 

石井 私どもでは2年ごとにプロジェクトを冊子『LIGHTING SENSOR』(ライティング・センサー発行)にまとめていて、それがある程度、溜まったときに作品集にしています。もちろん、引き受けてくださる出版社があるので、出させていただいているのですが、ありがたいことに『MOTOKO ∞ LIGHTOPIA 石井幹子 光の軌跡』は、もう出版社にほとんど在庫がないほど、売れ行きがいいようです。
それらはアーカイブとして残そうというよりも、照明デザイナーを目指す若い人たちに、私が以前、どういうことをやったのかをわかるようにしておきたいという思いがあります。照明デザインが今後どうなっていくのかわからない面もありますが、もしも後世に残していくことができるならば、こんなにありがたいことはないですし、若い人たちに何か参考になることがあれば、大変幸せなことだと思います。そういう運動をなさる方がいたら、私は応援したいですし、ぜひやっていただきたいと思っています。

 

 たいていのデザイン事務所では、日々の仕事に追われてしまうと思うのですが、石井さんは、プロジェクトを行う以外にも、資料などもきちんと整理して保管され、照明デザイン文化を盛り立てていこうと啓蒙活動のようなことも主体的に行って、未来につながる活動もされているというのがすばらしいと思います。

 

石井 ありがとうございます。そう言っていただけると、とても嬉しい。

 

 最後の質問ですが、日本ではデザイナーの資料をアーカイブするデザインミュージアムがほとんどないという現状について、どのようにお考えでしょうか。

 

石井 PLATのみなさんの活動は、すばらしいと思います。でも、本来、国が行う事業だと私は思うのです。私が「ライトアップ・キャラバン」を行うときに「景観照明研究会」という名称を用いて行動したように、例えば、「日本デザインミュージアム設立準備会事務局」というのをつくられて、日本のデザインはどれだけすばらしいか、今、こういうことをやらなかったらどうするんですかと、国に働きかけてみてはいかがですか。まずは日本のデザインアーカイブの定義や目的を明確にして、必要な経費を試算することが必要ですね。みなさん、お若いので、ぜひがんばってください。60代、70代はまだまだ働き盛りですよ。私も喜んでお手伝いしますから。

 

 私たちのプロジェクトの充実と継続について、とても有意義なアドバイスをいただき、ありがとうございます。参考にしてがんばってまいりたいと存じます。本日はありがとうございました。

 

 

石井幹子さんのアーカイブの所在

問い合わせ先

石井幹子デザイン事務所 https://www.motoko-ishii.co.jp