日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
亀倉雄策
グラフィックデザイナー
インタビュー実施日:2016年10月26日 13:30~15:00
場所:NPO法人建築思考プラットフォーム オフィス
インタビュイー:水上寛さん(水上寛デザイン室主宰、亀倉雄策賞事務局、亀倉雄策資料室)
ライティング:関康子
PROFILE
プロフィール
亀倉雄策 かめくら ゆうさく
グラフィックデザイナー
1915年 4月6日 新潟県生まれ。
1935年 新建築工芸学院でデザインの基礎を学び、日本工房に入社。
雑誌「NIPPON」の制作に関わる。
1951年 終戦を経て、日本宣伝美術会を創設。
1960年 日本デザインセンター創設に参加。
1962年 亀倉デザイン研究室を設立。
1961年-1964年 東京オリンピック公式ポスター、コンペにより
大会エンブレムを制作。
1991年 文化功労者。
1997年 心不全のため死去。
Description
説明
1964年の東京オリンピックというと、誰もが思い浮かべる真っ赤な太陽のポスターと、アスリートの競技写真を大胆に取り入れたとオリンピック公式ポスター。そのデザインを手がけたのが亀倉雄策だ。
亀倉は、戦中から戦後、日本のグラフィックデザイン界の基礎を築いたパイオニアであり、その作風から行動、発言に至るまで首尾一貫、威風堂々とした風格を備え、誰からも尊敬される存在だった。
亀倉のデザイナーとしての一歩は、報道写真家の草分けである名取洋之助を中心に、1934年に設立された日本工房が制作していたグラフ誌「NIPPON」の編集現場に河野鷹思氏らと参加したことだった。戦後は、日本初のデサイナー職能団体「日本宣伝美術会」の創設に参加する。1960年には原弘、山城隆一らと広告制作会社「日本デサインセンター」を設立して専務に就任するも、1962年には独立して亀倉デザイン研究室を興し、生涯、一グラフィックデザイナーとして仕事に従事することにこだわり続けた。1978年には、公益社団法人日本グラフィックデザイナー協会設立の中心メンバーとしても活躍した。
代表作には、1964年東京オリンピックやヒロシマ・アピールズのポスターなど、メッセージ性の高い仕事、NTTやGマークのロゴマークなど、永続的に使用されるグラフィックデザイン、写真家や芸術家の作品集のエディトリアルデザインが知られている。それらはシンプルで骨太であり、時代を超える力強さが特徴だ。
一方で、物への洞察力や審美眼、古今東西の文化に対する教養や知識の深さ、そして何よりデザイナーとしての自負から、数多くのエッセイや論評も執筆し、デザインの社会的地位の向上にも努めた。晩年には5年という期間限定のデザイン誌「Creation」を自ら企画編集、デザインし、自身の選択眼を通して世界中のクリエイターの作品を紹介した。死後、1998年にはこれらの功績を称え、普遍性と革新性あるグラフィックデザインに授けられる「亀倉雄策賞」が創設されている。
Masterpiece
代表作
ニコンポスター(1957~1959)、グッドデザイン賞ロゴマーク(1957)、
東京オリンピック公式ポスター、大会エンブレム(1961-1964)、
ヒロシマ・アピールズ ポスター(1983)、
NTTロゴマーク(1985)他
<編集>
デザイン誌『Creation』全20巻(1989~1994 リクルート)
*参考 『Creation No.21―亀倉雄策追悼特別号』
<著書>
「離陸着陸」(1972 美術出版社)、
「曲線と直線の宇宙」(1983 講談社)、
「亀倉雄策の直言飛行」(1991 六耀社)
Interview
インタビュー
アーカイブは新潟県立近代美術館が所蔵
関 亀倉さんと水上寛さんの間柄についてお聞かせください。
水上 1967年から30年ほど、亀倉デザイン研究室にアシスタントデザイナーとして勤務しておりました。1997年に亀倉さんが急逝されて以降は、亀倉雄策賞事務局、亀倉雄策資料室の仕事に携わりながら、デザイナーとしても活動しています。
関 では、亀倉さんの貴重な資料や作品の整理にも携わったのですね。
水上 はい。亀倉さんの兄上でやはり広告関係の仕事をされていた亀倉英治さんと相談しながら作業を進めていきました。亀倉さんの遺品としては、1961年~1964年の東京オリンピックの公式ポスター、反原爆をメッセージするヒロシマ・アピ―ルズなど、数多くのグラフィック作品に加えて、絵画や彫刻などの美術品のコレクションもありました。その中にはフォンタナやマリノ・マリーニ、イサム・ノグチ、猪熊弦一郎さんなど、同時代の一流の美術家の作品も含まれていました。また、日本工房時代からお付き合いのあった土門拳さん、河野鷹思さんといった方々の写真なども多く保管されていました。
それらはどれも日本のデザインや亀倉さんの活動を知る貴重な資料なので、散逸させることなく残したいと考えました。ただ、私は一スタッフですから資料を整理することはできても、どのように保存すべきかの決定権はありません。そういう意味では実兄の英治さんの存在は大きかったと思います。最終的には、亀倉さんの出身地であり、生前から毎年ポスターを寄贈していた新潟県立近代美術館にお願いして、亀倉雄策資料室でまとめた作品や資料などを寄贈することになったのです。
関 具体的にはどのようなものを寄贈されたのでしょうか?
水上 ご遺族からは亀倉さんがコレクションされた絵画や彫刻などの美術品が280点余り、また資料室からはポスター以外のグラフィックワーク、写真といった、亀倉さんのデザインに係わる大量な資料ですが、具体的な数量までは把握していません。
関 それらは今、どのような状態あるのでしょうか?
水上 アーカイブとして整理の途中段階かと思います。ただ、2006年に中間報告として、「離陸着陸 亀倉雄策のデザイン」と題した展覧会が開催され、「亀倉とニコン」「亀倉とコレクション」などのテーマに沿って、作品や資料が展示されました。また一昨年2015年には、生誕100年を記念して新潟県立近代美術館と新潟県立万代島美術館の2カ所で回顧展も開催されています。
久保田 公立の美術館でこれだけしっかりアーカイブされているということは、とても幸福なことですね。新潟県立近代美術館以外にも保存されているところはありますか?
水上 代表的なポスターの幾つかは、美術館、デザイン関係の学校、企業などにコレクションされています。
関 建築家やプロダクトデザイナーのデザインアーカイブというと、アイデアスケッチや図面、模型、サンプルなど、彼らの思想やデザインプロセスを辿ることのできる資料が多く含まれます。ところが、すでに幾人かにヒヤリングをしているのですが、グラフィックデザイナーには図面や模型にあたるデザインプロセスに係わるものがなく、ほとんどがポスターやパッケージなどの印刷物(完成品)になってしまいます。グラフィックデザインもアイデアスケッチなどがあってしかるべきと予想していたのですが。
IT時代を迎え、グラフィックデザインのデジタル化はますます進行しています。このような状況では何をもってアーカイブというか、この辺りも探っていきたいと思っているのです。亀倉さんの場合、たとえば、版下などは残っていないのでしょうか?
水上 デジタル化によってグラフィックデザインの仕事場は大きく変わりました。昔のグラフィックデザインは、写真や文字の縮小拡大やトリミングには写真用の引き延ばし機を使い、トレースした図柄や写植(写真植字)をレイアウトし、DICの色見本で色指定して、すべて手作業で版下をつくっていました。でも、実際に版下を保存しているデザイナーはほとんどいないでしょうし、印刷会社も作業が終わってしまえば処分してしまいます。そういう意味では、グラフィックデザイナーにとって重要なのは印刷されたものであって、途中のプロセスはむしろ人に見せたくないものかもしれません。
ただ、時々ですが、僕は亀倉さんがごみ箱に捨ててしまったスケッチをこっそり拾っていました。そのまま捨ててしまうのは惜しいとい思えるようなものもありましたから。雑誌「草月」の表紙などのスケッチ数点はとってあります。
仕事の進め方、こだわり
関 亀倉さんは仕事をどのように進められたのですか?
水上 亀倉さんの仕事は大きくポスターデザイン、エディトリアルデザイン、パッケージデザイン、シンボルマークやロゴマークのデザインに分けられます。ポスターに関しては、小さいサムネイルのようなスケッチから、いきなり原寸大(B全)の版下をつくっていました。1950~60年代は、ポスターはシルク印刷が多かったです。版下をつくって刷ってみて、気に入らないからやり直すということができません。今のようにコンピュータで簡単に修正できませんから、事務所のスタッフはもちろんですが、印刷会社も大変でした。大変だったからこそ、線を一本引くのも、色指定するのも、印刷するのも、よしっという覚悟を決めて、集中して作業に取り組んでいたように思います。そうした胆力が完成したポスターなどの作品からも感じられます。
関 ロゴなどのデザインはどんな感じでしたか?
水上 たとえば、NTTのロゴマークは「惑星の軌跡」をイメージしてデザインされています。最終的に30案くらいデザインしたと記憶していますが、残念ながら完成に至るプロセスは一切残っていません。NTTのCI(コーポレイト・アイデンティティ)のプロジェクトは、当時マツダ、ブリヂストン、味の素など、数多くのCIを開発していた中西元男さんが率いるパオスが受けていました。亀倉さんは中西さんからロゴマークのデザインを依頼されたわけです。正式にロゴマークが決定してから、今度はパオスが中心となって膨大なデザインマニュアルを制作しました。
関 エディトリアルデザインはどうでしたか?
水上 亀倉さんは文学全集の装丁、作品集、雑誌など、さまざまな本のデザインを手がけました。中でも印象に残っているのは、1982年に講談社から出版された『李朝の民画』です。志和池昭一郎さんという方が李朝民画の膨大なカラーフィルムを持っていて、出版の可能性を探っておられたのです。亀倉さんはそれらを見ていくうちに、それこそ「宝の山に分け入るという気持ちになった」と言っています。それ以降は李朝民画にのめり込んでいき、構成編集して全三巻の本に仕上がりましたが、出版は一時中止になりました。そのとき突然志和池さんが突然の事故で亡くなってしまわれたのです。後に出版社が決まって、最終的には全二巻に再編集し直して出版されました。
関 他にも写真家、石元泰博さんの『桂 日本建築における伝統と創造』、それから土門拳さんの『筑豊の子どもたち』など子どもシリーズの写真集も、亀倉さんの代表的なエディトリアルデザインですね。
水上 それから意外なところでは、亀倉さんはネオンサインがとてもお好きでした。
関 それは初めて聞きました。
水上 高度成長期に重要な野外広告としてネオンが一世風靡していました。特に銀座通りはその花形で、有名作家が数多くのネオンのデザインを手がけていました。中でも「テイジン」「NEC」のネオンをデザインした伊藤憲治さん、「ミリオンテックス」「Nikon」「明治製菓」の亀倉さんが双璧でした。ただ残念ですが、ネオンサインに関する資料もほとんど残っていないと思います。
久保田 お話を伺っていると、仕事の進め方に、すでに亀倉さんらしさを感じます。人と対峙しながらも、自身の思考を重ね、しっかり構想を固めていかれるような・・・。
水上 確かに、印刷会社に何回も校正を出させることはありませんでした。版下を制作するまでにできる限りの可能性を探り、頭の中にはすでにデザインが完成していたのだと思います。だから、校正はその確認だったのかもしれません。
それから印象に残っているのは、たまに広告の仕事を受けるとコピーも自ら作っていました。たぶんコピーも含めて全体像が頭の中に浮かんでいたのでしょうね。亀倉さんはグラフィックデザインだけでなく、いろいろな才能に恵まれていたと思います。ただ、本人は、アートディレクターとは言われたくなくて、あくまでもグラフィックデザイナーであることにこだわっていました。
グラフィックデザイン界への貢献
関 亀倉さんのデザインアーカイブと言えば、グラフィックデザイナーに授与される「亀倉雄策賞」も、後進の育成、グラフィックデザイン界の進歩に繋がる活動として意義あるものと思います。亀倉賞ができる経緯をお話しいただけますか?
水上 亀倉雄策賞は1998年から20年を目処に、毎年『JAGDA年鑑』の応募作品から、審査された上位約10点の作品を、外部審査委員3名を含む計11名の亀倉雄策賞審査委員で審査し、選出されます。資金は遺族の寄付で賄われていて、運営はJAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)が行います。早いもので、今年2016年度が第19回目なので、来年2017年の第20回で一つの区切りとなります。
同賞の設立には、何といっても実兄の英治さんの存在が大きかったです。英治さんご自身が広告の仕事に携わっておられたので、亀倉さんの遺志をこのようなかたちで継承していきたいと考え、田中一光さん、永井一正さん、福田繁雄さんに相談して設立されたのです。
関 亀倉さんは偉大な作品を残しただけでなく、日本のグラフィックデザイン界の基礎もつくられたのですね。
水上 戦後、亀倉さんはデザイン界の発展を目指して、日本宣伝美術会の創設メンバーの一人として活躍されます。当時、グラフィックデザイン界は西と東で分かれていました。西には早川良雄さん、山城隆一さんたちが活躍されていましたが、亀倉さんは自ら関西に会いに行ったと聞いています。
久保田 どうしてそんなことをされたのでしょうか?
水上 1960年に開催された世界デザイン会議が関係していると思います。そのために東京に結集することでデザイン界をパワーアップさせたいということだと思います。
それからもう一つは、西と東のデザイナーの特質だったようです。亀倉さんは生前、関西出身のデザイナーは色使いが上手いと盛んに言っていました。関西は日本の伝統的な文化の土地ですから、色彩感覚が豊かで洗練されていたのでしょう。一方、東京のデザイナー、特に亀倉さんはバウハウスの流れをくむ理知的、構成主義的な作風が特徴です。亀倉さんご自身は、「どうしても自分が好きな色ばかりを使ってしまう」とおっしゃっていました。
関 それはとても興味深いお話ですね。亀倉さんはその後、日本宣伝美術会や日本デザインセンターを創設して、グラフィックデザイン界の地盤を築いていったのですね。
水上 1960年には東京で世界デザイン会議も開催されました。日本側は勝見勝、柳宗理、丹下健三、亀倉さんらが中心になり、海外からもハーバード・バイヤー、ポール・ランド、ソール・バス、ルイス・カーンなど、建築、プロダクト、グラフィックなど、さまざまな分野のデザイナーが集結しました。この会議はその後の日本のデザインに大きな影響を与えたわけですが、亀倉さんもこれを機にハーバード・バイヤーやポール・ランド、ソール・バスといった当代一流のデザイナーと交流することになったのです。
久保田 晩年の5年にわたって取り組まれたデザイン誌『Creation(クリエイション)』でも、世界中にアンテナを張って有名無名に限らず、亀倉さんのお眼鏡にかなった作家を紹介されていましたが、それができたのは、海外と長年にわたって交流があったからなのですね。
水上 クリエイションに対する亀倉さんの思いには並々ならぬものがありました。自身で作家を探し、選択し、一作家に20ページ以上も割いてしっかりと紹介する。レイアウトも自ら手掛け、編集会議は自分の頭の中ですとおっしゃっていました。今でもはっきり覚えているのは、イラスレイターのソール・スタインバーグです。亀倉さんはクリエイションNo.20はすべてスタインバークでやりたかったのです。3冊も見本誌をつくってスタインバーグに掲載許可を求めましたが、結局実現することはでききませんでした。それでも5年間で発行した20冊で、144人の作家を紹介したのです。
刊行中に、何度もなぜ亀倉さん自身を取り上げないのか聞かれましたが、最後まで編集者としての客観的立場や視点を崩したくないということで筋を通しました。そして、亡くなった後、田中一光さん、福田繁雄さん、永井一正さんらが中心になってクリエイションNo.21を亀倉雄策特別号として発行されました。
久保田 そういうお人柄だったからこそ、人望がおありだったのですね。
関 最後に。亀倉さんというと、どうしても1964年東京オリンピックのポスターを思い出してしまいます。2020年の東京オリンピックでは、新国立競技場をはじめ、エンブレム問題など、デザインに係わる不祥事がマスコミをにぎわしました。だからこそ、1964年のオリンピックのデザインがより一層輝いて見えるのですが、この差は何なのだと思われますか?
水上 64年のオリンピックには、勝見勝という名プロデューサーがいました。彼がデザイン専門委員会の委員長を務め、彼を中心にデザイナーたちが結集しました。亀倉さんのポスターは、あの当時、写真を全面に使うデザインはとても珍しく、写真家の早崎治さん、写真監督の村越襄さんという才能との出会いも大きかったのだと思います。オリンピック関連のデザインには、亀倉さんの以外にも、原弘、河野鷹思、田中一光さんらグラフィックデザイナーが一丸となって取り組みました。
関 その他、丹下健三さんを中心に競技施設などの建設、オリンピックトーチは柳宗理さんがデザインするなど、日本中のデザイナーが取り組みました。そういう時代だったのですね。
久保田 水上さんにとって、亀倉雄策というデザイナーはどういう人でしたか?
水上 現在のデザイン界を確立した人、デザインの力を引き出した人、海外のデザイナーと交流し、日本のデザイン界の視野を広げた人、ということです。
関 本日は貴重なお話をありがとうございました。
文責:関康子
亀倉雄策さんデザインアーカイブ
新潟県立近代美術館 http://kinbi.pref.niigata.lg.jp/
公益財団法人DNP文化振興財団 http://www.dnp.co.jp/foundation/archives/