日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
葛西薫
グラフィックデザイナー、アートディレクター
インタビュー:2022年11月7日 14:00〜16:00
場所:サン・アド
取材先:葛西薫さん
インタビュアー:関 康子、石黒知子、久保田啓子
ライティング:石黒知子
PROFILE
プロフィール
葛西薫 かさい かおる
1949年 北海道札幌市生まれ
1968年 北海道立室蘭栄高等学校卒業後に上京し、文華印刷に入社
1970年 大谷デザイン研究所に入社
1973年 サン・アドに入社。現在、同社顧問
1977年〜 おもにソニー、サントリー樹氷、西武百貨店などの広告制作
1982年 サントリーウイスキーの贈りものの広告制作始まる
1983年 サントリーウーロン茶の広告制作始まる
1984年 サントリー「アイラブユー」でADC賞受賞
1986年 サントリーモルツでADC最高賞受賞
1997年 ユナイテッドアローズの広告制作始まる
1998年 サントリーウーロン茶、ユナイテッドアローズなどの「さわやかな情感をもつ広告表現」で毎日デザイン賞受賞
2003年 虎玄・虎屋のクリエイティブディレクション、パッケージデザイン始まる
2014年 平和希求活動「ヒロシマ・アピールズ」(2013年度版)ポスターでADC賞グランプリ、第16回亀倉雄策賞受賞
2022年 個展「葛西薫PODTERS since 1973」CCGA 現代グラフィックアートセンター
2023年 東京広告協会 白川忍賞 受賞
Description
概要
葛西薫は、奇をてらうのではなく、声高に叫ぶのでもなく、しかし深く記憶に刻まれる仕事をアドバタイジングとグラフィックの両面で重ねてきた。仲條正義はそのありさまを「しなやか」であると形容し、「今は美意識の累積が表現の力になる時代ではない。直感のみが説得できる方法であればこそ彼の時代といえる。その直感を繊細な手で仕上げる。目立った戦略がないわけではない、強がりもせず多方向からの柔らかな攻めがいつか強靱な姿をみせる」と解説し、さらに「優しさという人間の失われがちな資質をもう一度掘り起こしテーマとなし得たことは彼の人柄とはいえ、われわれの喜びとしたい」*と、大いなる賛辞を送った。そういう人物であるがゆえ、彼に憧れて、所属するサン・アドの門戸を叩くデザイナーがあとを絶たないのである。
その「しなやかさ」は、デザイナーとして世に出るまでの歩みからも見て取れる。北海道に生まれ、豊かな自然に囲まれて育った。子どもの頃から手を動かすのが好きで、高校時代には通信教育でレタリングを学び、将来はデザイナーになりたいと夢を描いた。家庭の事情で大学に進むことはなかった。しかし、デザインの仕事をするならば東京だと恩師に勧められ、19歳で東京の文華印刷に入社。デザイナーとして一日も早く羽ばたけるように、仕事場では虎視眈々と外を見ながらチラシ制作に臨んだ。役割は版下づくりである。葛西は「最短距離が好きなんです。いつも何をしないかを考えていた」と振り返る。最短で成果をあげるためにはどうすべきか、そのための考察や分析、発想する力を併せ持ち、技術や合理的プロセスの追求など、新たな解を見つけ出す。スケッチもデッサンも学校では学んでいない。働きながら、デザイン学校で学ぶよりも濃く、速く、デザインの技術を身に着けていったのである。1970年に大谷デザイン研究所に入社。そこでレタリングとグラフィックデザインの修練を積み、1973年に憧れていたサン・アドに入社。そこからは、サントリーウーロン茶やユナイテッドアローズなど長期にわたる広告制作をはじめ、虎屋のディレクション(CI計画、空間デザイン、パッケージデザイン)、セゾングループやサントリー、六本木のCI、『誰も知らない』など映画や演劇の広告美術、金原ひとみ『蛇にピアス』、藤井保写真集『ESUMI』をはじめとした書籍や作品集の装丁など、記憶に残る作品を多数、世に送り出してきた。
葛西は、自分のためにスケッチをアーカイブとして残してきたと語る。そのインタビューは、仲條が指摘した「やさしさ」のデザインにふれるものであった。
*『葛西薫』ギンザ・グラフィック・ギャラリー(1998)より。
Masterpiece
代表作
広告・CM
ソニーのオーディオ(1977〜1992)、サントリーウイスキーの贈りもの(1982 〜1990)、サントリーウーロン茶(1983〜
2007) 、サントリーモルツ(1986〜1992)、サントリー「酒は、なによりも、適量です。」(1986〜2022)、西武百貨店「日本一の市」(1986〜1992)、NTTデータ通信(1990 〜1991)、ユナイテッドアローズ(1997〜 )
CIサイン計画、パッケージデザイン、空間計画など
東京都立つばさ総合高校 ウォールグラフィック(2002)、サントリー・サントリー美術館 CIサイン計画(2005/2007)、虎屋・TORAYA CAFÉ・とらや工房・とらや東京ミッドタウン店のCIサイン計画・パッケージデザインなど(2003〜)、六本木商店街振興組合CI・ネオンサイン(2009)
演劇、映画タイトルワークおよびポスター、映像作品など
是枝裕和監督映画『幻の光』(1995)・『誰も知らない』(2004)・『歩いても 歩いても』 (2008)、越川道夫監督映画『海辺の生と死』(2017)、阪本順治監督映画『せかいのおきく』(2023)、岩松了演出舞台『浮雲』(1995)・『夏ホテル』(2001)、小池博史演出パフォーミングアーツ『島』(1997)・『完全版マハーバーラタ』(2021)、NHKみんなのうた『泣き虫ピエロ』の動画制作(2013)
装丁、エディトリアル
『詩集 妖精の詩』ザイロ(1997)、内田春菊『彼が泣いた夜』角川書店(1998)、村上春樹『村上ラヂオ』マガジンハウス(2001)、金原ひとみ『蛇にピアス』集英社(2004)、穂村弘『絶叫委員会』筑摩書房(2010)、西川美和『永い言い訳』文藝春秋(2015)、山口一郎『ことば—僕自身の訓練のためのノート』青土社(2023)
磯崎新『ARATA ISOZAKI』六耀社(1992)、ペーター・ツムトア『建築を考える』(2012) みすず書房、パウル・クレー『クレーの日記』みすず書房(2018)、『ミナ ペルホネン/皆川明 つづく』青幻舎(2020)、岩松了『岩松了戯曲集1986-1999』リトルモア(2022)
藤井保『ESUMI』リトルモア(1996)、操上和美『NORTHERN』『April』スイッチパブリッシング(2002/2020)・綾野剛×操上和美『Portrait』幻冬舎(2023)、上田義彦『at Home』リトルモア(2006)、奥山由之『As the Call, So the Echo』『flowers』赤々舎(2017/2021)、野口里佳『父のアルバム』赤々舎(2022)
書籍
『葛西薫』ギンザ・グラフィック・ギャラリー(1998)、『葛西薫の仕事と周辺』六耀社(2002)、『タイムトンネルシリーズVol.25 葛西薫 1968』リクルート(2007)、『図録—葛西薫1968』ADP(2010)
Interview
インタビュー
新しいものをつくるのではない。古くならないものがあるはずだ、と思っていた。
自分のためにアーカイブを残す
ー 2010年に出版された『図録—葛西薫1968』(ADP)を拝見しました。前半に1990年代以降のグラフィックの仕事、後半に葛西さんが北海道から上京して文華印刷に入社した1968年以降の広告の仕事が掲載され、これ一冊でアーカイブともいえるような内容になっていますね。
葛西 あの本が出版されて10年以上が過ぎましたが、おかげさまで今も買ってくれる方がいるようで、ありがたいですね。前半がグラフィック、後半がアドバタイジング、まさにその中間で言葉をしゃべろうとインタビューを挟む構成にしました。アーカイブは一般に古いものから紹介するけれど、現在から過去に向かってさかのぼるほうがおもしろいのではないかと思っていたら、ちょうど山本兼一の『利休にたずねよ』を読んでいた頃で、利休の切腹の日からさかのぼる構成になっていて、「これだ!」と確信したんですね。それと僕は広告の仕事が多かったけど、グラフィックデザインという大もとがあって広告があるわけで、今はこんなこともやっているという新作から見せたほうが現在進行感があると思って。
ー スケッチなどもふんだんに掲載されていて、目を引きました。デザイナーの中にはスケッチなどは捨ててしまう方もいらっしゃいますが、葛西さんは捨てずに保管されてきたと伺いました。
葛西 同じADPから2021年に刊行された『仲條NAKAJO』で、僕は服部一成さんとともに編集委員として携わりましたが、仲條正義さんはまさに過去のものには興味がないと言われていて、スケッチなども「捨てちゃえ」と、頓着されないところがあったようです。僕は踏ん切りが悪いものだから、自分の足跡というか、手の跡が残っているものは捨てがたくなってしまうんです。取っておくというよりも、捨てないで溜まってきたものが残ったという感じです。
ー それはアイデアスケッチのようなものですか?
葛西 広告でもほかの仕事でも、与えられた条件で発想して、白い紙にまず何かを描きます。図形や言葉、スケッチなどいろいろですが、そのとき描いたものが発想の源となってあるかたちに辿り着いたときに、あとから振り返るとその紙が「原型」だったと思い出されます。そういう原型が自分にとって大切になってくる。それを描いている時点で、残しておくべきもの、捨ててもいいものが自分のなかで二分されているので、ざっくりとそこで判断しているんです。手帳から必要なところだけ切り抜いて、残りは捨ててしまうときもあります。
ー 原型がストックされて、アーカイブとなっているのですね。描く際は特定のノートを使用しているのでしょうか。
葛西 アーカイブというほど立派なものではないんですが、20年、30年と重ねてきて、スケッチブックみたいなものが溜まっています。特定のノートを使っているのではないのですが、最初は写真家の上田義彦さんからいただいたスケッチブックを使っていました。当時、上田さんはアメリカで買った黒い大きなスケッチブックにポラロイドを貼っていたのですが、それが格好よくて「いいね」と言ったら、お土産に買ってきてくれたのです。そこから、アイデアスケッチなどは一冊のノートの上に描き始めるようになりました。そうすると散逸しないし、時々振り返ることもできますから。立派なスケッチブックだったから、最初は少し緊張して描き始めました。だいたい一冊終わるのに一年かかります。今は装丁の仕事の際に手元に溜まった束見本などを利用したりしています。
ウイスキーを一滴垂らしたような広告
ー サントリーウーロン茶の広告は1983年から30年近く制作しました。コピーライターの安藤隆さんがサントリーに自主プレゼンテーションをするかたちで始まったそうですね。イラストシリーズから実写シリーズとなり、中国で撮影したCMは話題となりました。
葛西 この撮影で初めて中国に行って、いろいろなことに感動したのを覚えています。広大な大地やそこで暮らす人々の営みに圧倒されました。そしてそこら辺にあるバケツとか蛇口とか、目に入ってくるものが日本と違うし、西洋とも違っていて、とにかくおもしろいんです。漢字の成り立ちも異なり、男性用トイレを「男界」、女性用トイレを「女界」と書くのを見て、格好いいな、とかね。モダンではないけれど、さまざまな原型をそこに見た気がしたんです。ロケ中の10日間くらいは「これは記録に残さなければ」と、どんどんスケッチしていました。それが意識してノートに描き始めたきっかけです。模写したり、思いついた形や言葉をメモしたり、何の脈略もなく、意味もなく、書いています。中国のホテルには古い便せんが置いてあって、シックで書き味がよくて、それもよく使っていました。海外ロケに行ったときは、貴重な時間を過ごしているという実感があったので、出張中は日記も書いていました。
ー アーカイブとして残そうと意識されてきたわけではないのですね。
葛西 誰かに見せるためというよりも、自分のためだけに残してきたという感覚ですね。サントリーウーロン茶や1997年からのユナイテッドアローズは、発想から定着までの資料をだいたい残しています。特にサントリーウーロン茶のときは、クライアントから渡された企画書から、オリエンテーションシート、没になってどんどん出していったアイデアまですべてが捨てられなくて、ほぼ取ってあります。これは見せてもいいかとも思い、ファイリングして閲覧できるようにまとめて、展覧会で展示したこともあります。
「UNUTED ARROWS」ポスター、ユナイテッドアローズ(1997)。イタリアの画家ジャンルイジ・トッカフォンドを企業イメージ広告に抜擢。日本人を描いたグラフィックやCMを展開し、98年ADC賞グランプリを受賞。2019年の同社30周年記念広告においても二人はタッグを組んでいる。
ー サントリーウーロン茶は、清々しい空気感と力強さを感じさせるCMでした。30年前の中国は現在とはまったく異なりますね。
葛西 あの頃、僕にとって中国にはすばらしい未来が待っているように見えていた。僕らが中国に期待していた、こうあってほしい、という気持ちまでそこにあった。あのシリーズはそういう記録になっていると思います。
ー 多くの人が、サントリーウーロン茶に見る世界観が葛西さんそのものの表現だと思っているのではないでしょうか。
葛西 中国と中国の人々に対することで、自分なりに表現することの芯のようなものを発見できたように思います。本当に、やってよかったですね。当時は、長く続けられるはずはない、だから今が貴重だ、と思いながら挑んでいました。気付いたら四半世紀が過ぎていたので、なおさら重みを感じます。
たしかに、代表作とされるのはありがたいけれど、サントリーの仕事をするからには、ウイスキーの広告とか、光と闇が共存するような、大人の世界に憧れていたんです。言ってみれば、ウイスキーを一滴垂らしたようなコマーシャルをつくりたいと考えていました。ウーロン茶は、女性中心の飲み物であるけれど、どこかに男の世界というのか、アルコールに酔う感じみたいなものを忍ばせたかった。クライアントが想定するリアルターゲット以外の人が見ても、ウーロン茶のコマーシャルを見て、心が動かされるようでいてほしいと願っていました。
ー 結果的に社会にインパクトを与えたCMとなりましたが、制作時にそうした驚きを与えたいといった意識はお持ちだったのでしょうか。
葛西 ないとは言えないけれど、世の中を驚かそうというよりも、いいものをつくろうという思いが強かったですね。あまり「美」という言葉は使いたくないけれど、基本的な原型みたいなものでありたいと思っていました。広告では周囲が驚かそうとばかりしているから、そういうことは逆に考えない。シーンと静かにしているほうが目立つのではないか、という計算はあったかもしれません。飲料や日用品など、「わー、おいしい」とか「ピカピカ!」などと声高に叫ぶ、決まりきったCMが多いじゃないですか。ああいうのは、昔から大っ嫌いなんで(笑)。そんなのでは心はのらない。そうじゃないだろうと思っていました。でも、プレゼントキャンペーンのときなどは漫画にしたり、おどけたりして、表現世界が一色にならないように、楽しんで考え、アイデアを出していました。
幸い中国には分厚い歴史がある。烏龍茶は凄い大地の上に生まれた飲み物だから、なんとか中国の姿を借りて、背後にあるものにも助けられながらできあがったと思います。撮影時は、都市ではなく山間部を訪ねたりもしたので、つらい経験もありました。でも、中国の長い歴史に対する尊敬の念というか、日本の歴史の奥のほうにも中国と向き合ってきた何かがあるはずで、そうした歴史を尊ぶ気持ちも根底にありました。
版下職人として歩み始める
ー さて、デザイナー葛西薫がどのようにして誕生したのか、その出発点について伺いたいと思います。高校を卒業し、北海道から上京して東京の印刷会社に入社されたのが始まりですね。
葛西 高校時代に通信教育でレタリングを学び始め、手製のアルバムをつくったりしていました。デザインに興味はありましたが、家庭の事情で大学進学は諦めて、札幌で就職しようとしていたのです。進路相談で担当の先生に、文字に関する仕事ならばできるような気がすると伝えたら、「デザインの仕事をするなら東京に行け」と即答された。そして東京の文華印刷という会社から求人が来ていると教えてくれました。新社屋を建設する予定で、たまたま募集したようです。北海道からわざわざ入社するならば、そう簡単には辞めないだろうと会社は考えたのでしょう。
入社後は印刷所の片隅で、版下製作の仕事をやっていました。四畳半二人の住み込みです。朝7時半からウエスで機械の油を拭き取ることから仕事が始まります。爪がインクで真っ黒になり、専用の石鹸で落ちるのに10分もかかります。デザイン作業はトレスコープ(拡大機)もコピー機もない時代ですから、素手で作業しましたが、楽しかったですね。どうすれば原稿の拡大・縮小が素早くできるか、トレーシングペーパーで対角線を引いて比率を合わせたりして、効率よく仕上げる技を身に付けました。だから、停電になっても僕はデザインできますよ。デッサンも勉強したことはないけれど、人の姿とかを観察して学びました。すると人間の身体は機械と同じで、骨を見ればよいのだとわかったのです。肝心なのは輪郭線ではなく骨なんですね。そんなことで、技術を身に付けたものだから、会社からはここに骨を埋めろと言われたけれど、ここはあくまで仮の場なのだと意識して、次に目指す場を求めて外を見るようにしていました。
映光家具センターのチラシ(1969)。文華印刷時代に行った最初の4色刷りチラシ。右は大谷デザイン研究所時代の知識産業研究所のパンフレット(1972)。
ー 現在の葛西さんからは想像もつかない状況です。
葛西 門限は11時なのですが、仕事が終わると遊びに行き、ライブハウスの新宿ピットインとか状況劇場の芝居とかを観に行ったりしました。東京は横尾忠則、宇野亞喜良、寺山修司、唐十郎…、アンチモダニズムのアングラの坩堝がそこにあり、影響も受けたと思います。
1968年にオープンした西武百貨店渋谷店の小印刷物を文華印刷が印刷していました。僕はその版下をつくりながら、そこにあるデザインを見て、これからは西武の時代だと思ったのです。あるとき、西武のデザインを大谷デザイン研究所が手がけていると聞き、その人材募集を見つけて、転職しました。しかもレタリングで高名な大谷四郎さんが社長でした。実際はそこで行っていたのは広告ではなく、売り場のディスプレイのレタリングや筆文字タイトルの仕事が主でしたが、ここでレタリングやデザインの仕事を本格的にするようになり、版下職人からグラフィックデザイナーへと変わることができました。文華印刷時代に知り合ったコピーライターの桑原圭男さんに誘われて朝日広告賞に応募することになったのが、広告を始めたきっかけです。彼から、アメリカの広告会社のDDBやヤング&ルビカムのつくるすばらしい広告の話を聞き、一転して、グラフィックデザイナーというよりアートディレクターに憧れるようになりました。朝日広告賞の初応募は落選しましたが、1971年に準朝日広告賞を受賞しました。桑原さんはその作品を持って、サン・アドに売り込みに行き、入社、僕は73年にサン・アドの募集を見て受験し、入社しました。振り返ると偶然が重なった半生ですが、いつもひとつ「上」を近くで見られたのが、よかったのだと思います。
ちゃんと伝える職人でありたい
ー 葛西さんの歩みはドラマのようですね。強運の持ち主でもあります。そのサン・アドは1964年にサントリーの宣伝部出身の開高健さん、山口瞳さん、柳原良平さんが創業した会社です。長い歴史がありますが、アーカイブはどのようになっているのでしょうか。
葛西 きちんとアーカイブとしてストックも整理し、社内の倉庫に保管しています。サン・アドは、創立50周年のときには記念した展覧会をGallary916で行いました。再来年は創業60周年になるので、また何か企画するのではないでしょうか。創立38年のとき、『SUN-AD at work』(宣伝会議、2002)という本をまとめましたが、それは僕が中心となって携わりました。そんなきっかっけでアーカイブの整理も進みます。また、社内に生き字引のように資料に詳しいスタッフがいるんです。最近はウェブサイトのほうも充実してきました。サントリーの仕事についてはサントリーからの依頼もあり、アーカイブとして整理し保管するのがサン・アドの役割の一部になっています。
サン・アドに入社した当時、大きなスクラップブックに大先輩たちの仕事が保管されていて、それはとても貴重なもので、今も残っています。でもポスターなどは丸まったまま保管されていたりしてバラバラでした。そこで僕が手を挙げて、棚をつくったり、動線を変えたりして少しずつ整えていきました。B倍の棚をつくってポスターをフラットに重ねて保管できるようにしたり、写真製版のフィルムの箱を利用して新聞広告のゲラを保管したり。そういうことを考えるのがもとから好きなんです。格好よくするんじゃなくて、流れをよくするんですね。
僕の主要なポスターなどは大日本印刷のCCGA現代グラフィックアートセンターに寄贈しています。
スクラップブックに保存されているサン・アドのアーカイブ
ー 1990年代より、アドバタイジングからグラフィックへと活動域が移行しますが、それは自然な成り行きだったのでしょうか。
葛西 グラフィックというフィールドは、気がついたらこっちにいたという感じで、今は本の装丁を10冊ぐらい併行してやっています。『ELLE DECOR』誌では、深澤直人さんの連載に挿絵を描く仕事も続いています。若いうちは広告で派手なことをやりたいという気持ちがあったのでしょう。一心不乱に広告をやって、その流れでサン・アドに入ったけれど、広告をやりながらも広告はグラフィックデザインのひとつなので、「あれ、こっちもおもしろいじゃないか」ということにあらためて気付かされ、広告だけがやりたかったわけではないことがしだいにわかってきたんです。もちろん今も広告もやりたいですよ、おもしろいし。でも、年を取ると広告の仕事はさせてもらえないですね。
ー 葛西さんがあるインタビューで「広告の仕事は整理すること」と語られていたのが印象に残っています。整理するとは、どういうことでしょうか。
葛西 広告だけでなく、自分の仕事は、誰かがしようとしていた仕事を誰かに伝えるためのパイプ役というか、間に立つ仕事だと考えています。だから「誰よりもちゃんと伝える」ということをやらないとだめ。いろいろな情報を整理整頓して、見る人が見やすい、理解しやすいことを探求したいのです。そういう意味での職人でありたい。そこでは個性はあとから加わっていくのかもしれません。
日常生活でも、とんでもないデザインとか、言葉とか、変なところを強調していたりするのとかを見かけると、ふつふつと怒りが沸いてきちゃうんです。「ラベルをここから剥がしてください」と書いてあるのに、ちゃんとその通りに剥がせたためしがないとか。そういう仕事に無性に腹が立ってしまう。お金をもらうならば、それなりの仕事をしないといけないでしょう。
子どものときからそういうところがあります。試験問題の出し方とか、学校の統計のグラフとかもわかりにくかった。「僕だったらこうするな」などと考えていました。何についても「工夫する」ことが楽しくて大好きでした。
ー 子どもの頃から、文章だけではなくデザイン的な配置についても伝える技術というものがあることをわかっていたのですね。
葛西 デザインの仕事をする前から、無意識のうちにそう思い、積み重ねてきたのかもしれません。1行文章を組むにもどうすれば読みやすく、うるさくなく、言葉がちゃんと伝わるのかに興味がいきます。個性を否定するのではなく、そういうスタートだったということでしょう。もともとは、エンジニアになりたかったんです。昔から、プラモデルだけでなく、ゼロから模型をつくることが大好きでした。プロペラ飛行機の解説図とか配線図とかは無駄がなく的確で、よくできていると思っていました。
エンジニアは、立体的に組み立てるわけで、空間、機構、機能、材料、耐久性など、あらゆることを総動員しなければなりません。そういうことを考えるのが好きなんです。
葛西流、判断の決め手
ー 葛西さんの感性がどのように育まれたのか、その一端を知ることができました。広告の仕事はチームで行い、選択の連続ですが、難しい局面での判断の決め手について伺いたいと思います。
葛西 本当に難しいですよね。分かれ道だらけです。でもだいたい決め手になるのは、時間をおいて見たときの印象です。できた瞬間に「いいぞ」と思っても、数時間後に見るともう飽きちゃうものが多い。一方で、そんなにすごいアイデアでなくても、「なんかいいなぁ」というのは、もう一回見たくなって、長持ちするものになる。長持ちするというのは、いつまでも古くならない、新鮮に感じられるということ。だから自分に「新しいものをつくるんじゃない。古くならないものがあるはずだ」と、言い聞かせたりして気持ちを落ち着かせます。あとは手をかければかけるほど、心を投入すればするほど、長持ちします。パパッとやったものは早く忘れがちです。
だからいつでも限界ギリギリまでやっていました。プレゼンテーションの直前まで、小さな紙にアイデアを考えて描いていて、そのまま通ったこともあります。そして、人を頼りにしないこと。自分が発想したものじゃないと、力が入らないんです。自分がやりたいことをなんとしてもやる、というのが原動力になっています。
ー 2002年の東京都立つばさ総合高校のウォールグラフィックは、直前まで3通りの案のうちのどれにするか決まっていなかったと、クリエイティブディレクターをされたアンドーギャラリーの安東孝一さんが語っていらっしゃいました。
葛西 提案するその日の道すがら、安東さんの事務所のスタッフに意見を求めたりして、高校に着く直前に決めました。いつも針はフラフラ動いているんです。
もうひとつの選択時の決め手としては、崖っぷちに追いやることです。安全なアイデアと危険なアイデアがあるとしたら、思い切って危険なアイデアを選ぶ。安全なほうを選びたくなるものだけど、スリルのあるアイデアを選んでおくと、現場にもスリルがもたらされて、突破口になるからです。そのアイデアのおかげで緊張感が生まれます。「これ、絶対、いいものにしないと恥をかくぞ」というぐらいの気合いが入る。
サントリーの場合は、無難なアイデアは通らなかったですね。「そんなものでいいんですか」と、けしかけられたりもしました。「まっとうを求めているんじゃなくて、ヒットを求めている」とよく言われました。長年やってきて、このチームに依頼したら「きれい・きれい」に仕上げるだろうから、ものすごく泥臭いものを要求するぐらいがちょうどいい、と読まれていたんでしょう。つばぜり合いもありました。ただ実感するのは、たとえオリエンテーションと違った内容になったとしても、立場を超えて緊張感をもってつくったもののほうがヒットするし、相手の気持ちを動かすコマーシャルにもなるということです。
ー その追い込む先、何かの境界線を行き来するなかに、おっしゃっている原型があるのかもしれません。つばさ高校のグラフィックにもそれを感じました。建築家からは出てこないアイデアです。
葛西 その通りだと思います。つばさ高校はフラットな壁のグラフィックワークという依頼でしたが、壁を平面ではなく塊で見ていました。下や横から見たらどうか、どこまでを壁と考えて色面の境界線とするか、横から見た設計図を描いたりもしました。
舞台で、台詞を言う人がどこに立っているかで観る人の気分は変わりますよね。人と人との距離感とそのときの台詞の交わし方、どうトリミングするかでイメージは変化します。無意識に、そういうところを見てしまうんです。
取り立てて思想はないんです。むしろ思想すら現象として見てしまう。例えば平和な瞬間も戦争が起きれば失われるわけで、何かが吹き出すと一瞬にして平和ではなくなります。人間は平均台の上に立っているようなもので、そこから踏み外したら違う世界に入ってしまうような、紙一重のなかで生活をしていると感じているんです。僕も美術大学に行っていないし、いつかデザインがだめになると思って続けてきました。恐怖心で生きてきたというところがあります。だから、やるからにはちゃんと効果があるものじゃないと、いつかだめになるという怖さを感じているのです。
東京都立つばさ総合高校 ウォールグラフィック「Wisdom on Wall」(2002)。水色の壁面にラテン語の格言「すべての物語の始まりは、小さい」(キケロ)が書かれている。文字と壁の色とのコントラストが鮮やか。校舎が建築やアートの生きた教材となるように、との思いが託されている。
一人ひとりの原型と結び付けていく
ー 量子力学の「シュレディンガーの猫」という思想実験を連想させます。これは観測するまではものごとの常態は確定しない、相反する事象と重なり合っているとする説ですが、そこにある現象をどう捉えるかが大事ですね。
葛西 今ここでしか起こっていないことを大事にして記録するんだという感覚でしょうか。明日がどうなるかは誰にもわからない。だから何もない風景を撮っても、貴重な一瞬として感じることができるし、受け止める人もそう感じてくれると思いながらデザインしています。普通のなかにそういう意味でのスリルが潜んでいる。デザインや広告は、スリルを前面に出したがるけれど、それよりも「モノゴト」が起こる直前のほうが怖くてハラハラする。大笑いしている人よりも、もうすぐ笑い出しそうな人のほうがおもしろいし、ガミガミ怒鳴っている人よりも、怒り出しそうな人のほうが静かな分、恐いですよね。人間はそういうものを察知できる。だからわかってくれるはずだから、あまり見せないようにしたい。感じる人は感じてくれると期待しているのです。
ー 抑制を効かせていくのですね。それには勇気がいります。今のお話で思い浮かんだのは、2003年のTORAYA CAFÉを皮切りに手がけられた虎屋のディレクションです。
葛西 虎屋は50歳を過ぎてからの仕事で、年齢を経てからの依頼でよかったと思いました。室町時代の後期に創業し500年の歴史を誇る和菓子屋です。何をするかよりも、何をしないかを考えざるを得ないですから。僕自身、和菓子には詳しくないし、「こういう虎屋でいてほしい」「これは虎屋としてどうなのか」という目で、グラフィックデザイナーの視線で判断するしかありませんでした。それまで虎屋が用いていたグラフィックの要素は長年の間に不統一になっていたので、まずは整理整頓することから始めました。そして立派な伝統があるので、それにふさわしく、装飾は極力抑えて、器用にならないほうがいいと考えたのです。
東京都現代美術館「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」ポスター(2019)。葛西さんは展覧会全般のグラフィックを手がけた。話題を呼んだ同展は、国内美術館3カ所で巡回されたのち台湾でも開催された。
ー 振り返ると、葛西さんの時代の広告は豊かでした。今では失われた豊かさだと感じます。
葛西 デザイナーはついデザインしたくなるものですが、それが禍となることも多いのです。現代は、自分が何を好きで何を嫌いなのかさえ分からなくなってきていて、「こんなにすごいんだ」と見せつけられるような広告が多いけれど、一人ひとりが持っている素の感覚に結び付けていくことを大事にしたいと思っています。
マスコミュニケーションというけれど、意識としては一人ひとり、なんですね。見る人も、つくる人も、クライアントも。
その「一人」に、より伝わるように、音、映像、言葉、時間、タイミング…、ひとつでも外したらすべてが崩れるぐらい最小限の要素だけで組み立てたい。喋りすぎないほうが伝えたいことが伝わると思うので。
ー 押しつけがましくない絶妙なバランスがあるからこそ、ときを経ても古くならないのかもしれません。そして今の時代こそ、そういう葛西さんのお仕事が求められている気がします。本日はありがとうございました。
葛西薫さんのデザインアーカイブの所在
問い合わせ先
サン・アド https://sun-ad.co.jp
CCGA現代グラフィックアートセンター https://www.dnpfcp.jp/gallery/ccga/