日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
河北秀也
アートディレクター
インタビュー:2018年5月30日14:00~16:00
場所:日本ベリエールアートセンター
取材先:河北秀也さん
インタビュアー:関康子、石黒知子
ライティング:関康子
PROFILE
プロフィール
河北秀也 かわきた ひでや
アートディレクター
1947年 福岡県生まれ
1971年 東京藝術大学美術学部工芸科ビジュアル・デザイン専攻卒業
1972年 東京地下鉄路線図デザイン
1974年 日本ベリエールアートセンター設立
1992~2003年 東北芸術工科大学デザイン工学部情報デザイン学科教授
2009~2013年 東京大学大学院都市工学科非常勤講師
2003~2015年 東京藝術大学美術学部デザイン科教授
東京藝術大学名誉教授
Description
説明
日本のデザインにとって、大阪万国博覧会が開催された1970年はひとつのピークだった。戦後の経済復興と、オリンピックや大阪万国博覧会といった国家プロジェクトに後押しされて発展してきた建築やデザインは、70年代になると60年代の熱狂は去り、それぞれ思考と模索の時代に入っていく。河北が大学を卒業してデザイナーとしての一歩を踏み出したのは、ちょうどそんな時期だった。
彼はまた、東京藝大というエリート校の出身ながら、電通・博報堂や資生堂の制作部といったグラフィックデザイナーの王道を行くことなく、いきなりフリーランスの活動に入る。以降、その歩みはアートディレクター、グラフィックデザイナーとしてはひじょうに特異である。それは河北のデザイナーとしての在り方、作品性にも現れているのでないだろうか。
デザインに対する姿勢には、デザイナー、アートディレクターとはこういうものだという決まりきった枠組みに対する本能的な反骨心を感じられる。一方、仕事では表現のスタイルや流儀にこだわることなく、デザインすべき対象にもっともふさわしいアイデアを創出し、それを実現する。それは、河北の代表作である営団地下鉄(現東京メトロ)の作品群と、1983年以降今日まで続く「いいちこ」の一連の仕事を見れば納得がいく。一般人では、マリリン・モンローが傘を抱くウィットに富んだポスターと、雑踏の中で一瞬の清涼感を与えてくれる「いいちこ」のポスターが、まさか同じアートディレクターの仕事であるとは想像もつかないだろう。
河北はデザインという仕事を美の追求、機能の視覚化、個性の表現といった枠組みでは捉えていない。彼にとってデザインとは、「人間の創造力・構想力をもって、生活、産業、環境に働きかけ、その改善を図る営みのことである。つまり、人間の幸せという大きな目的のもとに、創造力・構想力を駆使して、私達の周囲に働きかけ、様々な関係を調整する行為を総称してデザインという」(『元祖!日本のマナーポスター』グラフィック社刊、2008年)と語る「行動」そのものを意味している。この壮大な想念が河北の仕事の原動力になっているのだ。
Masterpiece
代表作
・東京地下鉄路線図(1972)
・地下鉄マナーポスターシリーズ企画デザイン(1974~82)
・焼酎「いいちこ」の商品企画、パッケージ、テレビCM、ポスター、
雑誌広告、出版などすべてを企画デザイン(1983~)
・横浜ビジネスパークアート計画(1991)
展覧会
・「地下鉄10年を走り抜けて、iichikoデザイン30年展」(2014)
・「iichiko design展」(2017)など
著書・出版
・作品集「河北秀也の東京グラフィティ」 平凡社 (1981)
・著書「河北秀也のデザイン原論」 新曜社 (1989)
・英文著書「ON DESIGN」 EHESC(1995)
・作品文集「風景の中の思想」「風景からの手紙」 ビジネス社 (1996)
・写真文集「透明な滲み」 ビジネス社 (1997)
・作品集「元祖!日本のマナーポスター」 グラフィック社 (2008)
・写真文集「デザインの場所」 東京藝術大学出版会 (2014)
Interview
インタビュー
デザインは鑑賞物ではないので、
美術と同じ条件でアーカイブすることは困難
デザインエリートの道は歩まず
― 河北さんは東京藝術大学を卒業されていますね。藝大というと、石岡瑛子さん、松永真さん、佐藤卓さんなど綺羅星のようにデザイナーを輩出し、多くの方々が資生堂宣伝部や電通制作部などを経て独立されていますが、河北さんはいきなりフリーランスというのは独特ですね。
河北 藝大のなかでは「デザイン」は決してエリートではありません。藝大では、本流は絵画、彫刻などの美術、あるいは漆や彫金といった伝統工芸です。デザインはあくまで「応用美術」で、美術から発生する二次的なものと位置付けられています。今はよく知りませんが、少なくても僕らの時代は、デザインを専攻した人の多くが「絵かき」に対して多少のコンプレックスを持っていました。たぶん、僕らの上の世代はその傾向がさらに強かったでしょう。彼らの仕事を見れば作品性と自己主張を強く感じます。
僕は美術第一の藝大という環境でデザインを学んだお蔭で、自分をエリートだなんて思ったことはなかったし、大きな野心があってフリーランスから始めたというわけでもありません。いい加減というか、成り行きに任せていました。
― フリーランスへのきっかけは?
河北 僕は在学中からデザインの仕事をしていました。当時はよほどの企業でないと社内に「デザイン部門」がなかったから、美術系の学生が頼まれてデザインをする機会が多くありました。藝大でも学生アルバイトが伝統のようになっていて、僕は先輩からサクマ製菓という会社の仕事を引き継ぐことになったのです。ちょうどその頃「いちごみるく」という商品が開発中で、僕はそのグラフィックを任されました。1968年くらいだったと思います。
― 「いちごみるく」は今も販売され続けているロングライフ商品です。白地に赤い苺のグラフィックデザインが印象的です。あれは河北さんのデザインだったのですね。どのようにあのデザインは誕生したのですか?
河北 まず、何が求められているのかを考えました。このプロジェクトでは主役は飴であり、グラフィックは脇役です。絵画で言えばパッケージデザインは額縁のようなもの。つまり僕の役割は画家ではなくて額縁屋ということです。
「いちごみるく」は、カリッと食べられるという触感を楽しむ画期的な飴を目指していて何度も試作を重ねていました。いよいよ発売という段階で、僕にデザインの話が舞い込んできたわけです。僕は学生の分際で、製造から販売までを統括する偉い方を相手に仕事を進めることになりました。
― どんなデザインを提案されたのですか?
河北 それ以前の飴の包装は伝統的で地味な印象でしたが、僕は噛める飴という新しさを表現したいと考えて、若い人を引き付けるような可愛らしいポップなデザインを提案しました。営業の人たちには反対されましたが、社長が「新商品には新しい装いが必要だ」と言ってくれたお蔭で、僕の提案は採用されました。
今までの飴にない食感とポップなパッケージデザインが子どもや若い女性に受け入れられてヒット商品になり、「キャンディ」という新しい市場の開発にもつながりました。発売以降50年近くがたちますが、ロングラン商品として今でも進化しているようです。
― デザイン料はいただけたのですか?
河北 最初はアルバイト料程度だったのですが、商品がヒットしたので大学を卒業する頃には結構なギャラ(50万円)をもらっていたと記憶しています。
― いちごみるくの成功がフリーランスの道を選ぶきっかけになったわけですね。
河北 理由は他にも幾つかあります。僕は学生時代、サクマ製菓以外にも日本デザインセンターでアルバイトをしたり、仲間とデザイン事務所のようなかたちで仕事をしていたので、このまま自分でやってみようと考えたことは確かです。しかし何といっても就職試験を避けたかった。藝大の入試で懲りていたので。
それから、会社に勤めると最初はアシスタントだから、版下制作といった作業から始めなければなりません。バイト時代に版下をさんざつくらされて、果たして自分がしたいことはこんなことなのかと疑問を感じました。そこでよく考えてみると、僕の興味は「グラフィックのデザイン」ではなくて「コミュニケーションのデザイン」だと気づいたわけです。別の見方をすれば、世の中や社会を自分なりに捉えつつ、そこで必要な何かを人に伝える仕事をしたいのだと。
グラフィックはコミュニケーションの手段
― 何かを伝える手段としてのグラフィックということで、次の仕事は営団地下鉄の「路線図」だったのですか?
河北 最初は卒業制作として取り組みました。僕は子どもの頃から鉄道マニアで西鹿児島から東京までのJRの駅名をそらんじていたし、時刻表を読み込むことが趣味でした。ところが藝大入試のために九州から上京してきたら、東京の鉄道網、特に地下鉄が複雑すぎて乗りこなせないし、頼りの路線図もわかりづらくて使えない。そこで誰でもわかる路線図をデザインしようと思いついたというわけです。卒業には間に合わなかったけれど、制作は続けて半年後に完成させました。
― あの路線図は自主プロジェクトだったのですね。完成後どうしたのですか?
河北 営団地下鉄の本社は藝大と同じ上野にあって、僕は「藝大鉄道デザイン研究会」という名刺を勝手につくって広報部に売り込みました。ところがどこの誰かもわからない若造の提案が簡単に受け入れられるわけもなく、最終的には「現物を持ってきたら、駅に置いてあげてもいいよ」ということになった。そこで僕はスポンサーを探してお金を集めて印刷して現物を持って行って、ようやく駅に置いてもらったというわけです。そしたら広報課長が「これは地下鉄の啓蒙につながる活動だ」と財団法人地下鉄互助会(現公益財団法人メトロ文化財団)に交渉してくれて、予算がつくようになったのです。
― その後、マナーポスターにつながっていくのですね。何かを人に伝えたいという河北さんにぴったりのお仕事ですね。
河北 70年代は、高度経済成長は終焉していましたが、東京などの都市はますます拡大して鉄道や通信などのインフラも発展し、都市文明が変貌しつつありました。そこに共通するのは「他者とのコミュニケーションを必要としない快適さ」が追求されていたことです。例えば自動改札、駅や道路のサイン、電話、マクドナルドやコンビニなど、他人と接触しないでも生活できるシステムがどんどん増えていった。僕は、確かに世の中は便利で合理的・能率的になるだろうけど、こうした時流に対して人の心や気持ちはどうなるのだろうかという疑問を常に感じていました。そうしたもやもやした思いが公共広告というか、マナーポスターへとつながったと思います。
― なるほど。他者へのマナーは、河北さんが興味を持っていた人と人のコミュニケーションの基本ですね。こちらも自ら提案されたのですか?
河北 路線図で実績があったし、藝大を卒業しているならポスターくらいできるだろう・・・という感じでした。当時、企業広告に比べて公共広告は注目されていない領域だったけれど、僕は面白いことができるだろうと直感していました。
― クライアントからは具体的な要望はあったのですか?
河北 特になかったのでアイデアから構成、キャラクター設定、コピーまで、全部ひっくるめてディレクションしました。初めてのことだったので、まずは広告の基本コンセプトを固めることから始めました。そこで、かなりぶっ飛んだ面白いA案、まあまあのB案、ごく普通のC案という3パターンでプレゼンして、相手の出方を見ることにしたのです。
― 結果は?
河北 予想通りと言いますか、C案で決まりました。
― 最初のポスターは何だったのですか?
河北 「席をゆずりましょう」というマナーポスターです。当時、親しみやすさから老若男女に人気のあった歌手の森昌子さんに登場していただきました。
― 人気アイドルを起用するなんて、大きな企画だったのですね。
河北 とんでもない。何から何まで全部僕が段取りしました。ホリプロへの交渉も僕がやったのですが、当時はまだ芸能人の肖像権といった意識は低くてあっさり了解をとりつけることができました。ところが喜びは束の間、「お車代はいただけるのですよね?」と言われて、その額が何と20万円。総予算が40万円程度だったから、その半分がお車代に消えました。そんなこんなでしばらくすると予算が尽きてしまって。
― そこで?
河北 結局またスポンサー探しです。サクマ製菓などの企業に営業に行って、今で言うタイアップ広告のようなポスターをつくったり、あの手この手で自ら資金調達していました。今から考えると、当時の僕は常識を知らなかったし、この仕事を続けたいという一心でがむしゃらにやっていたという感じですね。でもそうしたゼロから始まる仕事の進め方が自分には合っていたのだと思います。そのうちマナーポスターも注目されるようになって、その後10年くらい続きました。
― マリリン・モンローやチャップリン、寅さんや人気アニメのキャラクターが次から次へ登場して、独特のユーモアに溢れ気持ちを和ませてくれる、まさに河北ワールドなマナーポスターでした。今のようにスマホやSNSもない時代だったから、新しい広告を毎回楽しみにしていたことを思い出します。
ブランドは使う人の心に生まれる
― その後は、河北さんのライフワークとも言うべき「いいちこ」の仕事ですね。デザイナーとクライアントの関係が35年も続いている、ひじょうに稀有な仕事になりましたが、そのきっかけは?
河北 地下鉄の仕事はやりがいがありましたが資金や体制面で苦労しましたから、このお話をいただいたときには、企画やデザインの一切を任せてくれること、互いに対等な関係であることを条件にお引き受けしました。当時のデザイナーは一業種一社が鉄則ですから、僕としては「いいちこ」以外の他の飲酒メーカーの仕事はできなくなるし、じっくり腰を据えて取り組みたかったのです。
― 河北さんが手掛けられるようになって、三和酒類の売上額が3億から600億円弱、約200倍になったということですね。長い時間をかけてブランドイメージを構築してきたわけですが、実際に河北さんはポスターやテレビコマーシャルなどの広告宣伝以外にも、「いいちこ」に関わる全てのデザインを手掛けられているのですか?
河北 実際には広告媒体として、テレビコマーシャル、駅貼りポスター、雑誌や車内広告などの企画・デザイン、ブランディングに欠かせない企業文化活動として文化科学誌『季刊iichiko』の企画編集デザイン、他にボトルやパッケージなどのプロダクトデザインもやってます。
― 最初に「いいちこ」のブランドイメージをどのようにつくっていこうと考えたのですか?
河北 今でこそ焼酎はウィスキーやワインと同等に受け取られていますが、35年前は労働者が飲む安酒というイメージが一般的でした。ところがマーケティング調査をしてみたら、実際には日経新聞を読んで年収600万円くらいのサラリーマンというのが顧客の中心でした。そこで、当時の「いいちこ」は下町のナポレオンというコピーで認知されていたのですが、僕はこのイメージを一新するブランドとデザインを構築すべきだと考えました。
― 具体的には?
河北 一般的な商品広告では、商品の魅力や有用性を前面に押し出します。確かに、商品を売るという視点から見ればこうしたアプローチが正しいのかもしれません。でも僕は売ることよりも、「いいちこ」を飲むときの人の気持ちを大切にしたいし、それを伝えるためのデザインをしています。
― いわゆる、マーケティング発想ではないブランドづくりを目指したということですか?
河北 広告宣伝の軸を駅貼りポスターにしたのもそのためです。同じ予算ならば、インパクトの強いテレビコマーシャルを1回やるよりも、ポスターという弱い広告媒体を使って10年、20年という長い時間をかけてじっくりイメージを定着させる方が効果的であると考えました。
― 駅貼りポスターでは、世界中の美しい風景やどこか懐かしい日常の写真を使っていますね?
河北 ポスターなど広告媒体のモティーフは基本的に写真とワンセンテンスのコピーだけです。ビジュアルは自然、文化遺産、日常のワンシーンであり、コピーはその風景を見た人の心象を言語化しています。本来は日本の風景が望ましいのですが、僕らにとって懐かしく美しい風景はすでに日本には存在しておらず、実はヨーロッパの田舎などの海外で撮影しています。
なぜ美しい風景なのかというと、通勤や通学で毎日同じ景色を眺め、スマホや雑誌で世界中の風景を見ていてもその場限りで残らない。美しい物や風景は、目ではなく、脳で見て記憶しているのだと思うのです。
「いいちこ」のビジュアルは脳にしまわれている記憶に響く、そんな風景を探しているのです。
― その思想はボトルなどのプロダクトデザインにも通じているのですか?
河北 はい、パッケージやボトルデザインも同じです。「いいちこ・フラスコ」や「いいちこスペシャル」のボトルではジャパンパッケージコンペティションやGマークなどの賞もいただきました。特にフラスコの製造はいわゆる量産のボトルメーカーではなく、ハリオというガラス器メーカーにつくってもらってラベルも貼りませんでした。
そもそもラベルは売るためについているのであって、お酒を飲むときにはない方がいい。それに飲み終わった後でも普通の瓶として使ってもらうことを目標にしました。他にもいろいろなボトルをデザインしましたが、残念なことにたくさん真似されました。
― 河北さんにとって、ブランドをデザインするということはどういうことですか?
河北 何十億円もかけてブラントや商品を宣伝できる企業はごく一握りです。ブランドとは企業の論理ではなく、製品やサービス、企業の価値を認めてくれる「人の心のなかに生れるもの」です。つまりブランドは生活する側のものなので、企業は彼らがいいと認めてくれるものをつくって届け、それらが人々の記憶や生活に深く浸透していくことが大切なのではないでしょうか?
デザインは総括が難しい
― 今までお話を伺ってきて、河北さんは生活や文化性を大切にデザインされてきたと感じました。そこで10年近く藝大の教授としてデザイン教育にあたってこられた立場からも、日本のデザインアーカイブやデザインミュージアムについてどのように考えているかお聞きしたいと思います。確か、藝大の教授を退任されるときに、東京藝術大学大学美術館で「地下鉄10年を走り抜けて、iichikoデザイン30年展」を開催されましたが、藝大美術館の場合はどうなのですか?
河北 藝大美術館では絵画や工芸などの美術作品はすべて買い上げて収蔵していますが、ポスターなどのデザイン分野は寄贈です。藝大ではデザインは応用美術という位置付けなので、本格的にデザインアーカイブを手掛けることは期待できないでしょう。僕の場合、地下鉄関係の仕事は公益財団法人メトロ文化財団に収蔵されています。
― では、河北さんご自身は作品や資料の現状はどうなさっていますか?
河北 印刷物(作品)やテレビコマーシャルの映像、そのための写真や映像などは一通り保管していますが、スケッチやコンテのようなものはほとんど残していません。ちょうど今、このビルが地上げにあって引っ越しの最中なのですが、3フロア分の荷物をどうにかしなければならずに大変なことになっています。どちらにしても相当量を整理しなければなりません。
― 「いいちこ」のデザインはまさに三和酒類の企業文化そのものですがから、将来的に企業ミュージアムのようなかたちでアーカイブされるといいですね。
河北 僕もそうなればいいなあと思っています。
― 三和酒類のウェブを拝見したところ、工場見学なども行っているのですね。あの敷地にミュージアムを中心にカフェなども併設した施設をつくったらブランドという意味でも有効な気がします。
河北 三和酒類の近くには、年間150万人も来る宇佐神宮をはじめ日田のような観光地もありますし、ミュージアムのアイデアの現実性は高いと思います。実際、いろいろな方面から「いいちこ」のポスター展をやってほしいという要望をいただいくので、何度も展覧会を開催しています。ポスター展示は場所をとりますから全体像を見ていただくことは難しく、誰もがいつでも鑑賞できるミュージアムのような常設場所があったらありがたいですね。ただ、一デザイナーが実現できることではありません。
― とは言ってもデザイナー側から何らかのアプローチを行う必要性はありませんか?
河北 個人のデザイナーや建築家のアーカイブについて課題は多いですが、特定の分野に限ったデザインミュージアムはすでにありますよね。例えば化粧品関連だったら資生堂ミュージアムとか、車だったらトヨタ博物館とか、企業が主体となって特定のコレクションを行っているミュージアムはすでにあります。企業が文化活動の一環としてアーカイブやミュージアムにもっと積極的になってくれるといいですね。
― 国や公的機関はどうでしょうか?
河北 以前「文化資本のデザイン」という文章で、「日本ほど文化を軽視している先進国はない。昔はそうでもなかったのである。明治以降のことである。普通の日本人もさっぱり文化のことがわからなくなった。文部科学省が図工や音楽の時間を減らせと言っている、そればかりではない。文学部はいらないとまで言っている。経済にしっかりと結びつく学科に力を入れろ、力説している」と書きました。期待はできないでしょう。
― では、河北さんご自身はデザインアーカイブやミュージアムについてどうお考えですか?
河北 そもそもデザインの発表の場は美術館ではありませんしね。鑑賞されることが前提の美術と、社会や生活のなかで使用され有用性が求められるデザインとが同じ条件でアーカイブされ、展示されることに無理があるのかもしれません。デザイナーのなかには作品をつくりたいという作家性の強い人もいますが、そもそもデザインが目指すべきゴールはそこではないと思うんです。それにデザインの領域は広すぎるので、全てを総括することはひじょうに困難でしょう。そこがデザインアーカイブやミュージアムが難しいところなどのだと思います。
― 本日はありがとうございました。
文責:関 康子