日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

川崎和男

デザインディレクター 医学博士

 

インタビュー:2018年7月9日 15:00~17:00
場所:川崎和男デザイン室
インタビュアー:関康子
   ライティング:関康子

PROFILE

プロフィール

川崎和男 かわさき かずお

デザインディレクター、医学博士

1949年 福井市生まれ
1972年 金沢美術工芸大学美術工芸学部卒業後、(株)東芝入社
1979年 川崎和男デザイン室設立
1996年 名古屋市立大学芸術工学部教授
     オーザックデザイン設立
1999年 名古屋市立大学にて医学博士号取得
2006年 大阪大学大学院教授就任(2018年退官)
2006年 名古屋市立大学名誉教授
2013年 大阪大学大名誉教授

川崎和男

Description

前文

川崎和男のデザインは常に時代の一歩も二歩も先を行っている。美術大学を卒業し、東芝のインハウスデザイナーだった頃から、その発想力、デザイン理論、表現力や構想力は発揮されていたに違ない。なぜなら新人の川崎が担当した音響製品のデザイン開発には、当時の東芝の技術開発やデザインの精鋭たちが当たっていたのだ。(詳細本文参照)ところが順風満帆な人生に大きな岐路が訪れる。交通事故で車椅子の生活を余儀なくされ、デザイナーとしての未来を再構しなければならなくなったのだ。しかしこの出来事がそれからの川崎ワールドを築くエンジンになった。
東芝を退社した川崎は地元の福井市に拠点を置き、デザインによる地場産業の復興プロジェクトに取りかかる。地元に密着し、まるで宣教師のように職人たちに「デザイン教」を伝道し、一過的な造型デザインではなく、デザインDNAとしてのマインドを現場に根付かせた。結果、武生市の刃物、鯖江市の眼鏡は、川崎の30年以上もおよぶ地道な取り組みによってグローバルブランドに育った。
一方、誰よりも早くITに着目し、コンピュータとデザインの可能性を探求した。今でこそ当たり前の3Dプリンターの前身である光造形システムを導入し、紫外線や半導体からのデザイン応用にも挑戦した。以降も医学博士という立場から、医学・保健、災害、放射線へと広がり、新しいデザイン領域を示唆、開拓し続けている。
川崎と親しい編集者の松岡正剛は「体に決定的な障害を負ったということが、川崎の新しいデザイン領域をつくったのではない。川崎の行く先に障害が待っていたことを川崎が乗り越えていったのである。このデザイン方位への意志があったからこそ、川崎はすばらしい車椅子をもプロダクトデザインした。いやこれはデザインというより“発明”や“発意”に、あるいはむしろ“決意”に近いものというべきだ(松岡正剛の千夜千冊0924夜より抜粋)」。川崎和男の鋭く、研ぎ澄まされたセンスは、常に自分を崖ぷちに立たせて、自ら「さあ、どうする!」と未踏の世界に一歩を進める、そんな決意が育んでいるのだ。

Masterpiece

代表作

タケフナイフシリーズ/タケフナイフビレッジ(1981)
車椅子「カーナ」(1990)
眼鏡「Kazuo Kawasaki」コレクション/増永眼鏡(1991~)
「Mind Top」,「JEEP」/APPLE(1991)
掛け時計「HOLA」/タカタレムノス(1994)
Flexシリーズ/EIZO(1996~)
ロボット「舞 MAI」「踊ODORI」/大阪大学(2004)
液晶TV EIZO FORIS.TV/EIZO(2005)
人工心臓 サードデベロップメントモデル「TAH」(2007)
テレグラスシリーズ ヘッドマウントディスプレイ/SCALAR(2007)
「Peace Keeping Design」活動(2007〜)
キーボード「COOL LEAFシリーズ」/ミネベア(2010)
デジタル血圧計シリーズ/NISSEI(2010)
深紫外線消毒器/大阪大学(2016)

 

主な受賞

1991年 毎日デザイン賞
1993年 国井喜太郎産業工芸賞
他、ICSID特別賞、BIO賞ゴールドメダル、ドイツ国際デザイン賞、iF賞ベストオブグループ賞、レッドドットデザイン賞、フランス政府アルビ州デザイン貢献賞、SILMO2000グランプリ、Design For Asia Award 2014 Bronze Award日本クリエイション大賞創造賞 など多数。

 

主な著書

『デジタルなパサージュ』(1994)アスキー
『プラトンのオルゴール』(1997)アスキー
『デザイナーは喧嘩師であれ』(1999)アスキー
『ドリームデザイナー』(2002)KTC中央出版
『デザイナーは言語道断!』(2003)アスキー
『デザイナーの極道論』(2004)アスキー
『プレゼンテーションの極意』(2005)ソフトバンククリエイティブ
『Design Anthology of Kazuo Kawasaki』(2006)アスキー
『デザインという先手—日常的なデザインガンビット』(2006)アスキー
『Artificial heart Kazuo Kawasaki展』作品集 (2006)アスキー
『Artificial heart Kazuo Kawasaki展』記録集(2006)金沢21世紀美術館
『倉俣史朗のデザイン:夢の形見に』(2011)ミネルヴァ書房
『川崎和男Design』(2014)ミネルヴァ書房
 

川崎和男作品

Interview

インタビュー

デザインアーカイブには「デザインの言語化」が不可欠

デザイナーへの道

 川崎さんはデザイン活動と並行して、2018年3月まで大阪大学大学院教授として医学・保健領域のイノベーションに取り組んでこられました。まずデザイナーを目指した経緯をお聞かせください。

 

川崎 私は、もともと医学部進学を目指していました。医大受験のために浪人までしていたときに、横尾忠則さんの作品に出逢って心が大きく揺らぎました。このまま医大を進むべきか迷っているときに、母親が「あなたは赤い血を見てすごすよりも、赤い絵の具を見て生きる方が向いている」と言ってくれたのです。小さいときからロケットやロボットなどの想像図を描き、工作などのモノづくりが好きだった私にとって、この母の一言が美術大学に行き、デザイナーを志すきっかけになりました。

 

 その後、金沢美術工芸大学に進まれたのですね?

 

川崎 何とか入学できたのはよかったのですが、他の学生と違ってスケッチの訓練などを十分にしていなかったので実技の成績が最悪でした。最初の夏休みに教授から「とにかく40枚絵を描いてくるように」と言われるほどでした。悔しかったので43枚描いて提出したことや写生の場所で頑張りすぎて倒れたことを憶えています。

 

 当時から、川崎さんらしい負けず嫌いな気質を発揮されていたのですね。授業はどうでしたか?

 

川崎 金沢美大の教育の特徴は、すべてを自分の手でつくるということです。金沢は優れた伝統工芸が継承されている都市であり、手でつくるという価値観が重視されていました。ところが大学3年くらいになると、私は他の学生と違うことをやっているなあと気付きました。みんなが作品を手づくりしているなかで、私はスケッチや設計図を考えて職人に発注していました。もちろんお金がないので、職人さんの手伝いや作業場の掃除をして、その代わりにつくってもらっていました。今から考えると、手を動かすことは好きでしたが何かを決めつけられることが好きではなかったのです。

 

 卒業後は東芝に入社して、インダストリアルデザイナーとしての一歩を踏み出したわけですね。

 

川崎 結局、少年時代から好きだった「想像図を描く」という職業を選んだのだと思います。東芝に入ったのは、学生時代からモーグのシンセサイザーや国内外のアンプに詳しかったので、主任教授から勧められたことがきっかけです。入社後は音響機器専門の総合研究所(現・中央研究所)と関わるようになりクラッシクばかり聴かされ、モーツアルトのピアノ協奏曲をスコアまで勉強させられるほど徹底していました。これが私にとって音響に関する知識の源となっています。
当時、東芝の製品として「オーケストロン」という電子オルガンがありましたが、マーケット的にはヤマハの「エレクトーン」に敗れたのでマニア向けの製品に方向転換しました。そのため外部から引き抜ぬいたデザイナーが私の上司となり、彼から回路図まで教えられたのです。ロゴタイプは私のデザインです。一方東芝EMIでは録音からレコード製造までを学びました。45回転のLP番は私の発想でしたが、「音が良すぎる」と当時のアーティストたちに叱られたことがいい思い出です。

 

 川崎さんというとコンピュータが外せませんが、出会いは東芝時代だったのですか?

 

川崎 入社直後にTOSBACというコンピュータを知って以降、音響機器にCPU4ビットのマイクロプロセッサーを搭載したらどんなふうになるのだろうかとか、コンピュータとデザインの関係に興味を持っていました。1980年代に入るとPCが爆発的に普及しましたが、私はすでにフリーランスで活動していたのでアメリカで、英国のシンクレア社やエイリアス社、シリコングラフィックス社といった最先端の3DグラフィックスやCAD/CAMのソフトを独学して、どんどんコンピュータの世界にのめり込んでいきました。1988年に、ニューヨークで開催されたコンピュータのカンファレンスに出席したのだけれど、日本人の参加者はたった3人だけ。これでは将来日本は負けるなと思って、アメリカから帰国後に「コンピュータ研究会」をつくりました。

 

 アップルへのデザイン提案も話題になりました。

 

川崎 「Mind Top」というノート型パソコンのコンセプトモデルですか? あれはMacの次世代機種として1991年にデザインしてプレゼンしました。当時のアップルは創業者のスティーブ・ジョブスが解雇されて、ジョン・スカリーがCEOだった時代です。私は彼にとって最初のコンサルタントでしたが、提案は社内的な駆け引きから製品化されることはありませんでした。その後ジョブスが復帰を果たし、「彼に会ったらどうか」と言ってくれる人もいましたが、二人の性格上、結局は喧嘩別れになったかもしれないな、と思います。

 

 川崎さんは他にも、地元である福井県の武生市の刃物、鯖江の眼鏡などの地場産業のプロジェクト、車椅子、時計や映像機器など数多くのデザインを手がけ、1990年には毎日デザイン賞を受賞、2001年から3年間はグッドデザイン賞の審査委員長をなさっています。そんな川崎さんが再び、医学の世界に興味を持つきっかけは何だったのですか?

 

デザイナーと医学博士と

川崎 28歳で交通事故に合い車椅子の生活を余儀なくされます。その後は交通事故の後遺症で心臓病も発病し、現在もICD(埋め込み式の除細動器)を入れていて数年ごとに電池交換をしています。間もなく3代目を埋め込まなければなりません。再び医学を志したのは、自分の身体のこともあって人工臓器に興味を持ったのです。当時招請を受けていた名古屋市立大学の学長からは「まず、生理学から勉強をして学位をとりなさい」と忠告をいただき、同校の芸術工学部教授に就任したことで新しい活動環境を得ることができたのです。
大学では最先端だった光造形システムの機材、今でいう3Dプリンターを導入して人工心臓の形態開発に取り組みました。当時はひじょうに高額な機材だったので大学という環境を得られたからこそ実現できました。研究過程でクラインボトルやトポロジー関連の概念を人工心臓の形態デザインに応用することを思いつき、『光造形システムによる全置換型人工心臓の基本的形態化デザイン』という論文をまとめて医学博士号を取得、国内の医学界の研究者たちとのネットワークがとても広がりました。

 

 その後2006年に名古屋市立大学から大阪大学大学院教授に就任され、どのような研究をなさったのですか?

 

川崎 阪大にはロボット工学で知られる石黒浩教授などユニークな人材が豊富で、私もいい刺激をたくさんもらいました。そこで人工心臓以外にも、ロボット基礎学の具現化モデルである「MAI」・「ODORI」の研究開発、原子力発電の超小型化を目指した「Smart Atomic Engine」の研究、放射能を利用した電池形式モデルの開発など、多岐にわたる研究とともに具体的なモデル制作も行いました。原子力や放射能に興味を持つきっかけは、東大との全置換型人工心臓の実験です。他に今日注目されている「再生医療」などにも絡んでいきました。

 

 阪大に行かれて、テーマが一気に広がったのですね。

 

川崎 そうですね。阪大では、人工臓器、ロボッティクス、エネルギー、フォトニクス、災害・安全・安心・予防医学などのデザイン研究を行いました。これらは一見すると何の脈絡もないテーマのように思われるかもしれませんが、私にとっては「命のデザイン」という分母でつながっているのです。

 

 川崎さんの理論は難解ですが、単に論文だけでなく具体的なモデルを制作されているところが、机上の理論にとどまらず、「想像図」を描き、具現化に結びつけるデザイナーとしての気概を感じます。

 

川崎 デザインとは、問題解決、価値創出、未来創成することだと考えていますので。

 

 2015年からは同大学院医学系研究科「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」の特任教授に就任されました。「コンシリエンスデザイン」とは何でしょうか?

 

川崎 コンシリエンスとは、「Silience(知恵<古語>)→Consilience(科学的知性と文科的知性の統合)→Resilience(回復力)」という文脈から発した造語です。私のデザイナーと研究者として得た知識や経験をフル動員して、文科系+科学系、学術系+芸術系の統合を目指す集大成の活動と言えます。デザインは学術+芸術、文科系+理科系にもっとも適している領域であることをメッセージしたいと考えたのです。
2015年からは大阪大学大学院・医学系研究科における寄附講座として、幾つかのプロジェクトを立ち上げてリーダーを務めました。大学内外からもメンバーとして、いろいろな分野の先生方を招聘しました。危機解決の第一人者である宇宙工学者の長谷川秀夫さんは、私のいとこで安全と信頼性の構築をサポート、プロジェクトは成果をあげています。

 

 具体的にはどのような活動を?

 

川崎 幾つかあります。長年取り組んでいる車椅子では、身体保持機能、リチウム軽量バッテリー搭載、シーティングエンジニアリングなどのイノベーションにより、小型のスーツケースサイズに折りたためる「超軽量電動車椅子」を開発しました。2020年を目標に製品化にこぎつけたいと考えています。
さらに2014年の広島の土砂災害に触発された「除染可能な新素材提案」では、土壌の凝固作用も期待できるセルロース素材を使ったペーパーパウダーを開発しました。広島県の土壌は花崗岩が風雨にさらされてできた脆い真砂土であるために、土砂崩れが起こりやすい。そこで災害時の土壌汚染を除去し、さらに土壌の凝固作用も期待できる新素材の必要性を痛感したのです。実際に広島市安在南区や福島県飯舘村(写真1)にも出かけて、土壌汚染だけでなくセシウムなどの放射性物質の除去にも効果がみられることを確認しています。他にも、新発想による「深紫外線での消毒機器」の開発なども行いました。

 

川崎和男画像 川崎和男画像

写真1 飯舘村の実験の様子

 

 

 研究以外の分野の活動もされているのですか?

 

川崎 コンシエンスデザインのさらなる可能性を探求することを目的に、2014年から私の名前の頭文字をとって「KK塾」を始めました。

 

 どのような塾なのでしょうか?

 

川崎 日本は資源に乏しい貿易立国であり、地震や台風などの災害がひじょうに多い国です。そのなかで、日本人は優れた「モノづくり」を実現することによってここまで来ることができました。ところが、近年のIoT、ビッグデータ、AIなどの最先端領域では未来を見出すことができないでいます。 KK塾ではまさにデザイン界と阪大だけでなく、文科系+科学系、学術系+芸術系の優秀な人材に参加いただくことで、日本の未来の基幹産業のかたちと政策の提言を行いたいと考えました。ロボット研究者の石黒浩さん、フラッシュメモリの開発者あるイノベーターの濱口秀司さん、大阪大学医学部教授で作家でもある久坂部羊さんらにレクチャーをしていただきました。

 

 2015年からは「KK適塾」と名前が変わっていますが、どうしてですか?

 

川崎 「適塾」とは、幕末に緒方洪庵が開いた塾名で、福井出身の橋本左内、福沢諭吉ら多くの人材を輩出し、さらに大阪大学の創設にもつながっています。橋本は26歳で斬首されていますが、子どものころから学問に優れ、彼の思想には現代にも多くの政策的ヒントがあります。そこで現代に「安政の大獄」や「安政の地震」、つまり「適塾の精神を!」という願いを込めて変更したのです。

 

岐路に立つデザイン

 ここからはデザインについて伺っていきたいと思います。川崎さんにとってデザインとは?

 

川崎 そもそも、デザインは美と切り離せないものです。しかし「美」は主観的であり、「デザイン」は客観的なものです。また別の視点から見れば問題解決、価値創出、未来創成です。とはいえ、基本は問題解決です。

 

 具体的には?

 

川崎 問題に対する答えには、話題+応答、課題+回答、問題+解答の三つがあります。デザイナーとして大切なことは、目前の問題を解くことはもちろん、答えのなかに何事かの企みを仕掛けていくことです。ところが最近のデザインは問題解決や企みではなく、単なる「デコレーション」になってきているようで危惧しています。

 

 例えばどんなことですか?

 

川崎 この春、3カ月ほど入院しました。ある病院で定期検診中に骨折させられてしまい、そのリハビリのために長期入院する羽目になったのです。そのリハビリテ―ション病院は有名アートディレクターがクリエティブディレクションしていて、「リハビリテーション・リゾート」を謳うホテルのような施設でした。確かにインテリアや空間はとても凝っていてリゾートホテルのようなつくりですが、「くり返し来訪したくなる」という本来のリゾートが目指すべき精神を置き去りにしていました。しかも患者さんがリハビリにも使うメインの階段には一階から三階までほとんど踊り場がなく、万が一転んでしまったら下まで落ちてしまうような危険な設計です。病院でこんなデザインはありなのか?と驚きました。まず患者の安全と安心、予防医学のリハビリ治療に最適な設計であるかどうかを目配りすべきだ、と思うわけです。見栄えだけならデコレーションにすぎず、本当の意味でのデザインではありません。こういう施設の設計は「障害」を持つ人間の視点がないとできない。私はクリエイティブデイレクター、設計者やテキスタイルデザイナーが方向を誤っていると感じました。

 

 川崎さんは、ある雑誌のインタビューで「デザインとは、人間の『いのち』と『きもち』に対して、『かたち』の意味を深く追求し心に目印をつけるものだと」とおっしゃっています。

 

川崎 私は車いすに乗って41年、いつ心臓発作が起こるかわからない日常を送っています。だから、私のデザインはどうしても「命」が起点になってしまいます。

 

 デザインに対して危機感を感じておられると・・・

 

川崎 私はデジタル技術に期待する一方で問題も感じています。ひとつは、デザインのアイデアそのものがデジタルから発想されるという点です。その結果、デザインが人間の気持ちや身体からどんどん離れているのではないか。もうひとつはインスタグラムやツイッターのようなSNSの普及です。確かに便利なことも多いですが、一方で人と人が対峙して闘うことがなくなってきたこと、事故や災害に対してバーチャルにしか受け止められなくなっている点です。こうした傾向によってデザインの本質が見失われつつあると。今、世の中のことを自分のこととして受けとめ、たくさん考え、たくさん文章を書き、たくさんスケッチを描くデザイナー、手を動かして物事を考えることができる人が少なくなっていることが気がかりなのです。

 

デザインアーカイブについて

 川崎さんのデザインアーカイブについて、話を進めたいと思います。まず、大学での研究成果や制作したモデルの現状はどうなっていますか?

 

川崎 学術的研究は今も続けていますが、これらは論文にまとめ発表することでアーカイブされていきます。また研究のために制作したモデルは京都の自宅と大阪のトランクルームで保管しています。デザイン開発の過程で制作したモデルなども同じです。

 

 公的ミュージアムなどのコレクションはいかがですか?

 

川崎 公的機関でも、例えばニューヨーク近代美術館、クーパー・ヒューイット国立デザイン美術館、スミソニアン国立博物館、モントリオール装飾美術館、モントリオール科学センター、シュツットガルトデザインセンター、リュブリアナ建築美術館、ソウルデザインセンター、フィラデルフィア美術館、サンディエゴ子供美術館など、海外のミュージアムでコレクションされています。日本では展覧会を行った金沢21世紀美術館、福井県県立こども歴史文化館などに作品の幾つかを寄贈しています。

 

 2006年に開催された「artificial heart:川崎和男展―いのち・きもち・かたち」(写真2)ですね。あれは、川崎さんの35年間の仕事を総括する展覧会でしたが、その展示品すべてが収蔵されているということですか?

 

川崎和男画像 川崎和男画像

写真2 金沢21世紀美術館での展覧会

 

 

川崎 全部ではなく、 「Platon’s Orgel」という展示の一部です。これは1994年に東京の「ギャラリー・間」で行った個展のために制作したものであり、私が選んだ12人の哲学者や芸術家へのオマージュとしてデザインした立体オルゴールによるインスタレーションです。展示品だけでなくペーパーモデルやスケッチなども保存してあったので、これをアレンジして金沢21世紀美術館でも展示し、そのまま寄贈しました。

 

 スケッチや写真などの資料についてはどうですか?

 

川崎 私はたくさんのスケッチを描きながら思考を深めていくのですが、製品化されると捨てていました。発想の試行錯誤の過程を残しておくことは必要ないと考えていたのです。しかし、大学に籍を置くようになって、こうした行為はすべてを克明に記録しアーカイブする「学問の世界」の発想ではなかったのだなと気づきました。実際、21世紀美術館から展示品として手書きのスケッチを求められたのですがほとんど残っていなくて、キュレイターから叱られました。

 

 以前、黒川紀章さんにインタビューしたときに、建築作品よりも思想の方が大切、なぜならギリシア建築はもはや廃墟だが、ギリシア哲学は現代も生き続けているから、とおっしゃっていたことを思い出しました。川崎さんは論文だけでなく、著作も多く発表されています。デザインアーカイブというと作品やスケッチといった「物」を重視しがちですが、川崎さんはどうお考えですか?

 

川崎 デザイナーは自分の仕事、作品を言語化して、思想として残していく作業を怠っていると思います。一方、建築家は言語による説明や表現を相当に持っています。私は以前『倉俣史朗のデザイン 夢の形見に』のなかでこのように書いています。「デザイナーとして、今なお、私がデザインに不足感と不満感があるのは、かたちとことばで『相対化』する作業があまりにも少ないという現実である。略 デザインは、形を見て触って使ってみれば、ことばなど無用という無知な言い逃れに辟易してきた」。デザイナーのかたちとことばの相対化力の不足が、デザインジャーナリズムが育たない背景であり、デザインやデザイナーが浅く見られてしまう原因のひとつだと考えています。私自身はすでに著作はありますが、もっともっと「ことば」と「スケッチ」によるアーカイブを増やしています。

 

 デザインの言語化は確かに難しいですね。

 

川崎 デザインで論文が書けないことは残念です。なぜなら緒言・手法・結果・考察・結論・展開という文体が論文にはありますが、これをデザインでも取り入れる価値があると考えています。特にデザインは最終形態があれば「ことば」はむしろ言い訳と受け取られていたので、ことばによる説明が不足していることは否めません。そのことで学術として論理性を確立できず、学術振興会からも認められない要因となっています。人工心臓のプロジェクトは論文によって学会から支援金(グラント)を受けることもできました。私はデザインには「ことば+かたち」が絶対に必要だと大学時代から考えています。

 

 川崎さんは、武生市の刃物、鯖江市の眼鏡など、地元福井県の地場産業との関係も深いですが、地元、あるいは公的なミュージアムやアーカイブについてはどうお考えですか?

 

川崎 タケフナイフビレッジの活動は私と10人の職人で始め、残念ながら一人が亡くなりましたが、現在でも20数名の跡継ぎがいて伝統と革新が続いています。この秋には施設も増設され、刃物の展示や工場見学に加えて、子どもから一般の方へのワークショップの開催、プロ向けのナイフスクール設立など目指しています。昨今は地方創生が言われているので、福井県や市でも地場産業や伝統工芸のためのミュージアム構想が持ち上がって相談を受けもしましたが、実現は難しいだろうと思います。インダストリアルデザインでは、日本インダストリアルデザイナー協会が「JIDAデザインミュージアム」をつくって頑張っていますが、やはり公的な機関できちんと取り組まなければならない課題だと思います。

 

 今回は、言語化とデザインアーカイブという視点をいただきました。長時間ありがとうござました。

 

 

文責:関康子

 

 

問い合わせ先
川崎和男 http://www.kazuokawasaki.jp/
オーザックデザイン http://www.ouzak.co.jp/