日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
剣持 勇+松本哲夫(剣持デザイン研究所)
インテリアデザイナー
インタビュー:2017年11月21日15:00〜17:00
場所:剣持デザイン研究所
取材先:松本哲夫さん(剣持デザイン研究所)
インタビュアー:関 康子、久保田啓子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
PROFILE
プロフィール
剣持 勇 けんもち いさむ
インテリアデザイナー
1912年 東京生まれ。
1929年 東京高等工芸学校木材工芸科入学(現・千葉大学工学部)。
1932年 商工省工芸指導所(現・経済産業省)に入所し、
建築家のブルーノ・タウトに師事。
1955年 剣持勇デザイン研究所設立。
1971年 逝去。
松本哲夫 まつもと てつお
1929年 東京生まれ。
1953年 千葉大学工学部建築学科卒業後、
通商産業省工業技術院産業工芸試験所に技官として勤める。
1957年 剣持勇デザイン研究所に入社。
1971年 剣持勇亡き後、剣持デザイン研究所代表取締役を務める。
Description
説明
剣持勇は戦後のデザイン黎明期に、渡辺力や柳宗理らとともにデザイン啓蒙と日本人の生活の向上に尽力した。
出発点となる商工省工芸指導所(現・経済産業省)では、建築家のブルーノ・タウトから「椅子の規範原型」について学び、1952年には日本人デザイナーとして初めてアメリカを視察し見聞を広め、なかでもチャールズ・イームズとの出会いには多大な影響を受けたという。帰国した年に、インダストリアルデザインの職能の確立と向上を目指した日本インダストリアルデザイナー協会の創設に携わり、1955年には「グッドデザインの啓蒙」運動を行う日本デザインコミッティーの立ち上げから関わり、活動を展開した。
プロダクトでは、世界的に知られるアノニマスな製品となった「ヤクルトの容器」が有名だ。家具では、建築空間のために製作した椅子がのちに製品化され、ロングセラーになっているものも多い。ホテルニュージャパンの籐の椅子「ラウンジチェア」は、日本の家具として初めて1964年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)のパーマネントコレクションに選定された。インテリアでは、建築家とのコラボレーションが多く、またデザイナーとしてだけでなく、ディレクターとしての手腕も発揮した。そのひとつが日本で最初の超高層ホテル「京王プラザホテル」である。家具、テキスタイル、美術、陶芸、造園など、名だたるデザイナーや作家が結集し、剣持は総括顧問を務め、指揮をとった。残念ながら、「京王プラザホテル」のオープニングの日に自ら命を絶ち、短い人生だったが、戦後のデザイン界を牽引し、日本のデザインを世界に発信した功績は歴史に残るものとなった。
剣持の亡き後は、松本哲夫が事務所を引き継ぎ、インテリアや家具のデザインに加え、木村一男、手銭正道、福田哲夫らと「TDO(トランスポ―トデザイン機構)」のメンバーとして、新幹線など鉄道車両の内外装など幅広く手がけ、現在も多彩なプロジェクトが進行している。その松本哲夫に剣持勇デザイン研究所時代と、現在の剣持デザイン研究所のアーカイブについて伺った。
Masterpiece
代表作
〈剣持勇デザイン研究所〉
インテリア
「香川県庁舎」(1958・丹下健三 設計)、
「ホテルニュージャパン」(1960・佐藤武夫設計事務所 設計)、
「国立京都国際会館」(1966・大谷幸夫 設計)、
「日本航空B-747」(1968)、
「京王プラザホテル」(1971・日本設計事務所 設計)
家具・プロダクト
「スタッキングスツール」(1958・秋田木工)、
「ラウンジチェア」(1960・山川ラタン)、
「柏戸イス」(1961・天童木工)、
「椅子T-3048M」(1961・天童木工)、
「スタッキング灰皿」(1963・佐藤商事)、
「ヤクルト容器」(1969・ヤクルト)
〈剣持デザイン研究所〉
インテリア
「ヤクルト本社及ホール」(1972)、
「名古屋観光ホテル」(1972)、
「リクルートG8ホール・会議室」(1981)、
「恵比寿ガーデンプレイス(サッポロビール本社棟役員階、ウェスティンホテル東京結婚式場・チャペル・和食レストラン)」(1994)、
「銀座日航ホテル全館改装」(2009)
家具・プロダクト・サイン
ダスキン商品各種(1972〜)、
リニアモーターカー用座席(1986・コトブキ)、
「スーパーひたち」(1989・JR東日本)、
クルーズ客船「飛鳥」(1991・日本郵船)、
「湘南ライナー」(1992・JR東日本)、
「新高松空港旅客ターミナルビル国際線家具サイン」(1992)、
「MAX E1系」(1994・JR東日本)、
700系新幹線電車「のぞみ」(1997・JR東海)、
秋篠宮邸公室家具(2004)、
書籍
『剣持勇の世界』(1975・河出書房新社)
『建築家の広がり 無名の公共デザイン』(2017・松本哲夫+松本哲夫の本をつくる会著、建築ジャーナル)
Interview
インタビュー
アーカイブについては、私の次の、次の世代にその問題を考えてもらうのが、一番いいと思っています。
50年代はインテリアデザインではなく、「室内装飾」と呼ばれていた
― 今、日本の建築家やデザイナーも世代交代が進んでいて、第一世代の方々が高齢になり、お亡くなりになるなかで、私たちはNPOの事業のひとつとしてその方々の作品や資料の保存、整備がどのようになっているのかということを伺って、文章化して残していく活動をしています。今、いろいろなところでデザインミュージアムの話が持ち上がっていますが、その前に現状を探っておこうという狙いです。
今日は大きくは2つのテーマでお伺いできればと思っております。ひとつは、日本の戦後のデザインを開拓された剣持さんの資料や図面の現状、それから個人の名前の事務所でその方が亡くなられたあと、どのように引き継いでいかれたかということ。いろいろな可能性があったと思うのですが、ご決断をされ、実際に運営をされるなかでの問題意識や方法などもお伺いできればと思っております。
松本 デザインミュージアムについての話はあちこちで言われていて、みないろいろなことを言っていますよね。世の中の景気が良くなってくると、そういう話が出てきて、景気が悪くなってくると消えますね。最近、こういう本(『建築家の広がり 無名の公共デザイン』建築ジャーナル・2017)を出版され、私のこともまとめてくれています。
― 年表もあって資料性も高いですね。それもひとつの貴重なアーカイブですね。インタビューの期間はどのくらいかかったのですか?
松本 4日間ほどです。編集者が事前にかなりいろいろ細かく調べてきてくれて、驚きました。年表は、うちのスタッフがつくりました。相当、時間がかかって、かなり苦労したようです。
この本には、私の子ども時代のことから紹介されています。私は、本当は建築家になりたかったんです。1949年に千葉大学工学部建築学科の一期生として入学して、建築を勉強しました。でも、どこもとってくれなかった。当時の日本はまだ占領下で、日本の建築事務所はアメリカ人のための家の設計をしていてたくさん仕事がありましたが、私たちが大学を卒業した頃は、そういう仕事はほとんどなくなってしまいました。
― 剣持さんも、千葉大学の前身である東京高等工芸学校のご出身でしたね。
松本 剣持は、私が3歳の頃、1932年に卒業しました。木材工芸科だったので、木工技術についてはかなり精通していました。その頃、デザインや設計をやりたいと思っていた人の多くは、百貨店の装飾部に入社したものですが、剣持は後に産業工芸試験所になる商工省の工芸指導所に入所しました。本当は絵描きになりたかったそうなんですけれど、退役陸軍少佐の父親が許してくれなかった。東京高等工芸学校へは、技術を学ぶのだったらということで入れたそうです。
― 早速、アーカイブについて伺いたいのですが、剣持さんの図面やスケッチについては、今、どのような状態になっていますか?
松本 剣持勇デザイン研究所時代に天童木工で手がけた製品の図面は、すべてデジタル化してあります。戦後の50年代当時のインテリアの仕事は今とはだいぶ違っていて、真っ白な空間に壁紙やカーテンを選ぶというような、いわゆる「装飾」だったんです。家具は、天童木工やコトブキといった家具メーカーにつくってもらい、その後、製品化されるものもありました。そういうわけで剣持の作品は、そういう家具メーカーのものが多いのです。
― 天童木工の図面をデジタル化された際は、どのように作業していかれたのですか?
松本 私たちの方で図面を整理して、それを天童木工に渡してデジタル化してもらいました。ほとんど原寸図に近い大きなものばかりです。剣持は1分の1の原寸図こそ、デザイン図だという考えをもっていました。10分の1や5分の1の図面も描きましたけれど、最終的に「1分の1の原寸図まで描かなかったら、デザインは終わっていない」と、よく言っていました。当時、ほとんどの事務所では、原寸図は描きませんでした。10分の1の図面で終わって、そのあとはメーカーや工場が描くんですよ。「国立京都国際会館」のときは、うちの事務所が原寸図まで描いてメーカーに渡したら、たいそう驚かれました。「われわれが描くものを、全部描いていただいて申し訳ありません」と言われました。
「技術の裏付けのないデザインなんて、デザインではない」
― 原寸図にこだわった理由というのは、何ですか?
松本 スケール感を把握するためです。メーカーや工場にディテールを伝えるのにも必要です。今、私が座っている椅子は、「戸塚カントリークラブ」のときにデザインしたものを発展させたものです。ビニール生地を単に貼り合わせているのではなくて、最初に中の合板に生地を張って釘で固定して、それを隠すためにさらにカバーをかけています。メーカーや工場にその構造のことを伝えるために、そういうディテールについても図面に描きます。建築の場合は、そこまでやらなくてもすむかもしれませんが、家具はディテールまですべて描かないと伝わりません。デザイナーのなかには、図面も描かない人もいるそうです。「こんな感じにつくって」と言うだけで、メーカー側が図面を描いてつくってくれる。剣持はそういうことは絶対にしなかった。剣持は、「どういうふうにつくるかがわからないで、家具なんかデザインするな」「技術の裏付けのないデザインなんて、デザインではない」とよく言っていました。うちの事務所では、今でも原寸図を描いています。
― そういう家具をリアライズしていくための技術的な研究や実験などもされていたのですね。
松本 剣持は、本当はモックアップのつくり込みまでやりたかったと思います。チャールズ・イームズのオフィスには工房があって、その作業も自社で行っていました。そのためには原寸図もきちんと描けないといけない。それを家具メーカーに買ってもらうという仕組みをつくっていました。日本では、スペース的にも事務所内に工房をもつことはなかなか難しいと思います。この建物は3フロア計90坪しかないので、そういうスペースはありません。1階は、最初のうちは作品を置いてショールームにしていたのですが、次第に所員が増えていったので、全フロアを事務所として使うようになりました。剣持の部屋は2階で、私は3階にいました。
― 椅子の場合、モックアップはメーカーでつくられていたのですか?
松本 そうですね。メーカーにつくってもらって、それを図面と一緒にチェックして調整しながら進めていきました。モックアップのために、工場では別の原寸図をつくります。
― 何が違うのですか?
松本 製作するために必要な情報が入っている図面で、使用する機械によっても変わります。私たちの方でもあの機械を使えば、こういうものができるだろうというのは、おおよそはわかってはいます。今はコンピュータでつくりますし、図面もデジタル化されるようになったので、製作のスピードは格段に速くなりましたね。
製作技術を遺していくことも、アーカイブのひとつ
― 剣持勇デザイン研究所時代は、丹下健三さんなど、建築家とコラボレーションすることが多かったと思います。その空間に合わせてインテリアや家具をデザインされていったと思いますが、建築家とはどのようにコミュニケーションされていたのですか?
松本 意外に建築家は、あまり具体的なことを言わないものなんですよね。丹下さんと間では、最初から確固たるイメージがあるというよりも話し合いながら決めていくことが多かったです。例えば、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」の礼拝堂の椅子は、部分的な原寸模型をつくって、それをもとにいろいろな提案をして検討しながら決めていきました。
― そういうプロジェクトのときに最初につくったオリジナルの家具は、天童木工などに残っているのですか?
松本 天童木工には、残っていないと思います。オリジナルの家具のいくつかは、私の自宅の3階に置いています。試作で終わって、実際に製品化されなかったものもあります。今は少し税制が変わってきていますけれども、販売できるもの、座れるものであれば、試作でもモックアップでもすべて税金がかかります。在庫のひとつと見なされてしまうわけです。ですから、天童木工のようなメーカーや工場では、製品として完成したら試作やモックアップなどは廃棄してしまいます。でも、一生懸命デザインを考えて、苦労してつくったものを燃やされてしまうなんて冗談じゃないと思ったので、天童木工には廃棄しないように連絡をもらうようにして、私の自宅で保管するようになりました。そんなにたくさんはないのですが、このビルの3階にもいくつか置いています。製品になった家具はまだいいですけれど、建物は突然壊されて、家具も一緒に廃棄されてしまいますからね。
― 日本には、ポスターのコレクションをしている美術館や大学や、椅子のコレクションをしている富山県美術館などもありますよね。そういうところに、剣持さんの椅子は収蔵されているのですか?
松本 市販品をコレクションしている美術館はあるかもしれませんけれど。家具などのプロダクトは、ポスターと違って立体物なので、スペースをとりますからね。家具を遺していくというのは、本当に大変なことです。他の事務所でも苦労されていると思います。
― 家具では、他に「ホテルニュージャパン」の「ラウンジチェア」なども広く知られていますね。
松本 あの籐の家具は、三次元の形をしているので図面化するのも、編むのも大変な作業なんです。ひとりで編むのですが、縦横の網目になっていて、縦目は上から下まで1本でつながっています。これをつくれる職人は、以前は日本に3人いたんですが、今はひとりになってしまいました。その技術をどうやって遺すかということを今、話し合っているところです。
自邸がひとつの小さなデザインミュージアム
― それも未来に遺していかなければいけないアーカイブですね。インテリアについてもお聞きしたいのですが、当時は装飾の仕事ということでしたが、その図面なども残っていますか?
松本 インテリアの図面も、私の自宅の1階に置いています。まだデジタル化していません。1階はほとんど物置き状態ですね。私が暮らしているのは2階で、3階はワークショップができるくらいの広いホールになっていて、そこにもオリジナルの椅子などを置いています。
― 図面は、紙の状態で丸まっていたりするのでしょうか?
松本 いえ、畳んで置いてありますが、トレーシングペーパーなので、ボロボロになってきています。ちょっと触っただけで、ピーッと裂けてしまうような状態です。
― それは今後、どうされるのですか?
松本 どうしようもないですね。デジタル化するには、かなり大きな機械で撮らないといけないですし、相当、お金がかかると思います。
当時のインテリアでいうと、例えば、1968年に日本で一番高いビルとして話題になった霞が関ビルができたときに、その36階に東京會舘のインテリアをデザインしました。火災が発生したらいけないということで、建物の柱には鉄板が用いられて、その上から塗装が施されました。内装の壁も燃えない素材を使用しないといけないということで、土とか泥とか、随分考えたんですけれど、最終的にブロンズの板にエッチングしてテクスチャーをつけて貼ることを考えました。ブロンズは最初に見積もりをとったときには安かったんですけれど、そのうちにベトナム戦争が始まったので、慌ててメーカーに電話して材料分すべて押さえました。案の定、すぐに値段が上がりました。冗談で、東京會舘の支配人に「万が一、売り上げが落ちてみんなの給料が払えなくなったら、このパネルを一枚ずつ剥がして支給したらいいよ」と言った記憶があります。
― 東京會舘は、今はどういう状態なのでしょう?
松本 今現在はわからないのですが、建物が建ってから20周年を迎えた記念パーティに行ったときには、ブロンズの壁は半分くらいなくなっていました。その空間には、当時、彫刻家の宮脇愛子さんのブロンズの角材を使った大きなスクリーンの作品もありました。反対側のビルの景色がその作品に写って綺麗でしたね。
― アーカイブのお話に戻りますが、剣持さんのアーカイブは、図面の他にスケッチやアイデアノートなども残っていますか?
松本 大半はどこかにいってしまいましたが、何冊かはあります。書庫に入っていると思うのですが、どれがどのプロジェクトかということがきちんと整理されていません。
― 仕事上の契約書や、メモのやり取りみたいなものは残っていますか?
松本 剣持デザイン研究所になってからの契約書は製本したのですが、それ以前のものは残っていないと思います。
― 現場の写真や、モックアップができたときの記録用の写真などはありますか?
松本 写真も、自宅の1階に置いています。整理はしていません。その部屋は半地下になっていて湿度も高いので、本当はあまりそこに置きたくないんですよね。
剣持が亡くなったあとのことですが、これまで写真家の石元泰博さんが撮影したインテリアなどの写真を、あるとき私にネガもポジもオリジナルのものを全部くださるということになったんです。そんな大切なものをと思ったのですが、彼にしてみれば、剣持との縁で撮影しただけであって、自分の作品とは思っていないのかもしれません。そうでなければ、そんな大事なものを私に預けるはずがないと思うのです。
その後、遺作集(『剣持勇の世界』(河出書房新社・1975 全1巻5分冊限定1000部)を制作したときには、まだほとんどの建物が現存していたので、これも石元さんに撮り下ろしていただいたのですが、その写真も私にということでいただきました。それも自宅に置いていますが、どうしたらいいかと悩んでいます。彼も奥様も亡くなられてしまって、高知に石元さんの美術館(「石元泰博フォトセンター」)がありますよね。そこが欲しいということであれば、差し上げたいと思っています。
色彩や素材、テクスチャーには強いこだわりがあった
― 松本さんのご自宅は、ひとつのデザインミュージアムになっているのですね。もうひとつの質問に移りたいと思います。剣持さんが突然、亡くなられて、その後、研究所は松本さんが引き継がれて運営されるようになりました。剣持という名前を継承されたということは、今も、松本さんは剣持さんのデザインの流儀や考え方などを継承されているということなのですか?
松本 それは難しい質問ですね。あるとき、長いお付き合いをしている施主にも言われたのですが、インテリアの仕事をしているときに、「松本さんは、色の使い方が先代とちょっと違いますね」と。私はその方に「剣持流の方がいいですか?」と訊ねたのですが、「いえいえ、そうではなくて、松本さんは、松本さん流の色の使い方でお願いします」と言われました。
剣持には独特の色使いがありました。私だったら選ばないなと思う色なのですが、嫌いではありませんでした。例えば、黄色を使う場合は、「苦い黄色」という言い方をするのです。ほんのわずかですけれど、グリーンが入っている。赤では、朱赤ではなく、ブルーが少し入っている色を選びました。剣持が選ぶ色はだんだんわかってきたので、紙を適当な大きさに切ってポスターカラーで塗って色見本をつくり、メーカーにも配って、「苦い黄色」と言われたら、それを出して色を決めていました。
― 「国立京都国際会館」では、絨毯の色も独特ですし、家具のファブリックの色の組み合わせもおもしろいですね。
松本 この「国立京都国際会館」では、3種類のグリーンを使っているのですが、草の色ではなく、苔の色をモチーフにしています。剣持曰く、「苔の色は、四季によって変わる」と。本当は四季なので4種類必要なのですが、冬になると枯れたような色になるのでそれは使わずに、春先、梅雨、夏の苔の色を3種類選びました。絨毯は川島織物さんにお願いして、色出しを何度もしました。この剣持独特の色がいいということで、後に杉浦康平さんがその色見本を入れるケースまでデザインしてくださって、販売したこともありました。当時、わりと売れたみたいです。
― 苦い黄色、苔の四季の移り変わりの色など、剣持さんはデザインの発想や表現に感覚的な要素を取り入れていたのでしょうか?
松本 そうだと思います。彼の頭の中には、いつもそういう色に対するイメージがありました。素材感やテクスチャーに関してもやはりうるさかったですよ。インテリアをやる以上、それは当然だったと思います。
― インテリアは建物と人をつなぐ役割をもっていますものね。
松本 そうですね。建築は内と外の素材が同じ場合がもあるので、例えば、無機質でクールなコンクリートの空間の場合は、人間が座るものには柔らかい生地で囲われた椅子をと考えてつくりました。
― 当時は、素材見本もたくさん事務所にあったのですか?
松本 たくさんありました。ある時期から剣持がいつも使うものは、だいたいわかってきたので、色見本のように整理しました。「あれもあります、これもあります、どれにいたしますか?」というのではなくて、「あれを」と言われたときに、「はい」と出すようにしました。
― プロダクトでは、「ヤクルトの容器」のデザインが世界的に有名ですね。あの容器の形を見れば、ヤクルトだとわかるほど認知されていますが、類似品も出たなかであれだけが残り続けているというのは、何か合理的な形態になっているのでしょうか?
松本 私たちは最初、牛乳瓶のようなものを目指したんです。牛乳瓶というのは、誰がデザインしたかわからないけれど、とても機能的にできていますよね。そんなふうに、誰がデザインしたかなんてわからないけれど、広く生活の中に溶け込んでいる物をデザインしたいと思いました。GKの榮久庵憲司さんがデザインしたキッコーマンの醤油瓶もそうですよね。誰が見ても、あの形とデザインからキッコーマンの醤油瓶だとわかる。
ヤクルトで難しかったのは、内容量が決まっていたことです。素材をガラスからプラスチックに変えることになったのですが、プラスチックにするとガラスの厚みの10分の1ほど薄く小さくなってしまう。生産ラインも今までのものを使用することになっていましたから、充填機の高さや幅に合わせて設計していくうちに、必然的にあの形が生まれました。その後、容器を回収してリサイクルすることになって、プラスチックを溶かしたもので何か使えるものがないか考えてほしいということで、いろいろ考えたんですけれど、容器を並べるラックをデザインしました。やはりデザインはアノニマスなものの方が永く残りますね。
剣持勇との初めての出会い
― 松本さんが剣持さんと初めて会われたのはいつですか?
松本 初めて出会ったのは、私が産業工芸試験所に入ったときでした。私は大学を出て建築事務所で働きたかったのですが、なかなか就職が決まらず、それを心配してくれた学科長の辻井静二さんが、デザインの本や雑誌がたくさんあって給料をくれるところがあると紹介してくれたのが、産業工芸試験所でした。見学に行ったら、その日が学科試験というから「入りたくてきたのではなく、見にきただけだ」とタンカをきったら、「午後に面接があるから、受けてみろ」と。あとでわかったのですが、実は当時、意匠部長だった剣持が建築学科出身の人を探していて、事前に私の図面や履歴書を取り寄せて見ていたそうなんです。つまり、最初から採用することが決まっていたんですね。
私は剣持に初めて会ったときに、こんなキザな野郎と一緒に仕事なんかしたくないと思ったのですが、剣持は私のことをひじょうに気に入ったらしいんです。初めてアメリカに視察に行って帰って来たばかりで、ヒラヒラしたナイロンのシャツに蝶ネクタイなんか締めていて、当時の日本にはいないタイプでした。実はイームズもジョージ・ネルソンもみな蝶ネクタイだったのですが、のちに剣持から「図面を描いているときに、ネクタイのように垂れ下がってこないからいいんだ」と言っていたので、なるほどと思いました。
― 産業工芸試験所では、松本さんはどのような仕事をされていたのですか?
松本 ノックダウンの家具をつくるのが、私の主な仕事でした。展示会や海外見本市のブースの設計など、次々と仕事が舞い込みました。一番大きな仕事は、1955年にスウェーデンで開かれたデザインの国際博覧会です。依頼がきたのは、1954年の12月の、とある夕暮れ時。開催までに7カ月しかありません。しかも、丹下さんに「翌日会うから、それまでにつくって来い」と言われて、一晩で考えて図面を描きました。その仕事を契機に、剣持は私の意見や考えることをいろいろと取り入れてくれるようになりました。
私は産業工芸試験所に4年間いましたが、剣持は2年目に、1955年6月に退職して自身の事務所を開設しました。「給料が払えるようになったら、呼んでやるから」と言われて、それまでは「夜だけ手伝ってくれ」と頼まれて行きました。私が夜だけ行くので、他の所員から「夜のチーフ」なんて言われていました。仕事の量はかなりあって、毎晩、終電でした。
研究所を引き継ぐときの想いと覚悟
― 相棒として見込まれたのですね。その後、剣持さんが亡くなられたときに、剣持勇デザイン研究所を継続させるという道と、松本哲夫デザイン研究所にするという道もあったと思います。なぜ前者を選んだのですか?
松本 剣持はある時期からうつ病をわずらってしまい、そのことは人には絶対に知られたくないことだと思ったので、剣持の奥様と、私と事務所で働いていた私のカミさんとで対応して、所員にも心配をかけたくなかったので黙っていました。できる限り、ひとりにさせないようにと目をかけていたのですが、1971年7月の「京王プラザホテル」のオープニングパーティの日に亡くなってしまいました。
長男の昤(りょう)は、当時33歳で建築家の内田祥哉研究室の出身で、自身の設計事務所も構えていました。しかし、剣持が亡くなった翌年、オーストリアで視察旅行をしていた最中に交通事故で亡くなってしまいました。研究所の今後に関しては、彼にも考えがあったと思います。
私は、研究所をたたんだ方がいいと考えていました。ところが、剣持勇デザイン研究所からお付き合いのある前川國男さんも、内田祥哉さんも、いろいろな建築家から「この研究所がなくなると困る」「続けてほしい」という声がたくさん寄せられて、それには「松本がやるしかない」と言われたのです。いろいろと悩み考えましたが、そこまで言われて「できません」とは言えません。自分の使命だと思って続けることにしました。でも、剣持勇デザイン研究所という名前のままでは、本人がいないのに良くないので、勇を取って、剣持デザイン研究所にしたわけです。
― それで続けることになったのですね。これまで剣持勇という個人の研究所から方向性を大きく変えていったなかで戦略のようなことはありましたか?
松本 動かせるところから動かしてみようと、当時は必死でした。みんな食べていかなければいけませんからね。そのことで頭がいっぱいでした。
― その後は、車両デザインなど、お仕事は多彩に広がっていきましたね。デザイナーの木村一男さんが新幹線のデザインをされているのは知っていましたが、剣持デザイン研究所でも本当にいろいろなことをされているんだなと改めて思いました。
松本 新幹線や車両デザインに携わるようになったきっかけは、私が『SD』(鹿島出版会)に「人間工学をテーマにしているのに、0系の新幹線の座り心地が悪い」とさんざん文句を書いたことでした。あるとき、その記事を読んだ千葉大学教授の小原二郎さんが研究所に訪ねてきました。当時は旧国鉄の時代で、小原さんは日本鉄道車両工業会の委員会の委員長でした。いろいろ話をするうちに、それが機縁となって研究委員会に誘われてメンバーに加わることになりました。また、車両設計事務所というのがあって、そこにいた日産自動車のデザイナーの木村一男さん、同じく日産自動車のデザイン部門出身で、東海大学名誉教授の手銭正道さんと3人で「TDO(トランスポートデザインオーガニゼーション)」というグループをつくって、チームで国鉄の車両デザインのプロジェクトにあたりました。
剣持デザイン研究所になってからのアーカイブ
― そういう剣持デザイン研究所になってからの資料や図面、模型などは、今、どのような状態になっていますか?
松本 その方が問題があるんですね。近年の図面や写真はデジタル化されているので、すべて残っていますけれど、あまり整理されていません。模型や試作なども整理されていなくて、ヤクルトのときにプレゼンした石膏模型もどこかにいってしまって見つからないんですよ。
― 今、日本のデザイナーや建築家が世代交代をしているなかで、アーカイブについてどのようなお考えをもっていますか? 建築はまだいいと思うのですが、問題なのはインダストリアルや、プロダクトの分野のものです。
松本 ひじょうに難しい問題だと思います。特にプロダクトデザインは、例えば、メーカーとの仕事の場合は、デザイン事務所がもっているわけにはいかなくなりますからね。
― 今は松本さんに聞けば、図面やスケッチがいつの時代のどういうものでというのがわかると思いますが、松本さんがいなくなったら、所員は困るのではないでしょうか。今、所員は何名くらいいるのですか?
松本 私やチーフを除くと、16名ほどいます。一時は20名近くいた時期もあります。剣持時代にはほとんどなかったんですけれども、私の時代になってからは、ある程度育ってくると「辞めたい」と言って独立する人が出てくるんです。その場合は会社と契約するときのノウハウやロイヤリティのことなど、生きていく術だけは教えてあげて、できる限り応援しています。そうやって私は死ぬまでいろいろなことを心配しているんだろうと思います。
でも、みんなよくやってくれているので、今はもう心配することもあまりないので、「もう私は辞める」と言っているんですけれど、みんなが「所長は松本じゃないとだめだ」と言うんです。本当はいつ辞めても、私などいなくたってやっていけると思うんですけれどね。
― 図面の資料などがご自宅にあるから、それもみなさん心配されているのではないですか?
松本 資料が私の自宅にあるのは、所員はみな知っています。みな毎日、忙しいので、今言ってもだめかなと思っているので、次の、次の世代にその問題を考えてもらおうかなと思っています。私はそれが一番いいと思っているんですよ。
― そうかもしれませんね。当時を経験したことのない世代が整理するほうが、実際に手に取って見ることで勉強になるかもしれませんね。本日はありがとうございました。
「戸塚カントリークラブ」でデザインしたものを発展させた椅子。天童木工で製品化された。(剣持デザイン研究所にて撮影)。
文責:浦川愛亜