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どうなっているの?この人たちのデザインアーカイブ

DESIGN ARCHIVE

北原 進

インテリアデザイナー

 

インタビュー:2020年7月6日 13:30〜15:00
取材場所:K.I.D.アソシエイツ
取材先:北原 進さん 畑中 弘さん(エイチ・ツー・オーデザインアソシエイツ)
インタビュアー:関 康子、石黒知子
ライティング:石黒知子

PROFILE

プロフィール

北原 進 きたはら すすむ

インテリアデザイナー

1937年 東京生まれ
1961年 東京藝術大学美術学部工芸科卒業
     東急百貨店入社、同東急白木屋家具設計課勤務
1964年 パフィフィックハウス入社
1966年 フォルムインターナショナル設立に参加、チーフデザイナーに就任
1970年 K.I.D.アソシエイツ(キタハラ インテリア デザインの意)設立、
     代表に就任
2020年 創業50周年を機に活動を停止する

北原 進

Description

概要

北原進は、戦後日本のインテリアデザイン史で忘れてはならない初期の時代の担い手である。1960年代の日本は、国際レベルのデザインを目指し、JETROの行政指導のもと、海外に売れるモノづくりのためのIDデザイナーの養成が急務とされた。当時、東京藝術大学で学んでいた北原の同窓生らの多くは自動車メーカーや家電メーカーに就職したが、北原はただ一人、まだインテリアデザインという言葉もなかった内部空間のデザインへの道に飛び込んだ。それが現在では特異と評される彼の経歴のスタートとなった。パシフィックハウスに勤務し、チーフデザインディレクターのアメリカ人建築家、デイル・ケラーに師事した。そこで近代国家を象徴するインターナショナルスタイルの機能的で美しいインテリアとは何かを徹底的に叩き込まれた。この素地により、通産省(当時)の指導と相まって、当時の空間デザインの主題であった一流ホテルや外資系企業のオフィスといった大きな空間プロジェクトに参加することとなる。こうして、若くして「霞が関ビル東京會舘」「赤坂東急ホテル」「銀座ソニービル」「帝国ホテル」といったビッグプロジェクトを次々任されるようになった。
K.I.Dアソシエイツ設立後も京王プラザホテル「ヤングバー」を皮切りとしたホテルをはじめ、オフィスビルやショップデザインなど120を超す空間デザインを世に送り出してきた。それは、まさに市井の人々が初めて経験するハイレベルな欧米志向のインテリアデザインなのだが、日本のインテリアデザイン史ではそれよりもドメスティックな作家の個性の発露としてのデザインが注視される傾向があり、公共性の高いデザインについては語られることは多くなかった。北原のデザインした空間は社会の主軸をなす仕事でありながら、当時、インテリアの流れのなかではむしろ特異な歩みとみなされてきたのである。
倉俣史朗は北原の著書で、独立に際してK.I.D.アソシエイツとして個人名をあえて付けなかったことを例に、「ミクロ的でなくマクロ的な視点を感じる」との分析を寄せた。しかしK.I.D.にはKitaharaの名が隠れている。その「心」は、公共性の高いデザインは、個性は隠れてそこにある、表現の顔はアノニマスであるべきという自負があるのではないかと推察される。作家性の追究ではなく、客観的に社会の要求にどう応えるかを軸にした視点なくして、日本のインテリアデザインが世界レベルに推し上げられることはなかったのではないだろうか。

Masterpiece

代表作

オフィス・ショールーム

日本IBM 箱根仙石ロッジ(厚生施設 、1965)、藤沢工場 全館 (1967)、
本社ビル オーディオルーム、エントランスホール (1970)、野洲工場 カフェテリアほか(1974)、
箱崎事務所 ロビー、カフェテリア(1989)ほか全国各事業
フジエテキスタイル ショールーム (1972)、フジエショップ ハートアート(1974)
リコーショールーム 銀座(1977)、大阪(1980)、OAポート東京 (1984)
トヨタ自動車 九州工場(レクサス主力工場)全館コンセプトワーク、主として内外装の工場内色彩計画(1993)

 

ホテル

東急電鉄ホテルグループ 東急ホテル 赤坂 全館(1969)、ソウル全館(1970)、銀座 部分担当(1971)、
白馬 全館(1971)、札幌 全館(1974)、東急エクセルホテル 成田 全館(1985)、札幌 全館(1996)、
渋谷 全館(2000)、東急イン 札幌・渋谷・梅田・神戸ほか 客室除く、東急リゾート 宮古島 全館(1984)、今井浜 全館(1987)、サロマ湖 全館(1985)
京王電鉄グループ 京王プラザホテル 新宿 部分担当(1971)、八王子 部分担当(1994)、
多摩 部分担当(1996) 小田急電鉄グループ 箱根ハイランドホテル 全館(2002)、
山のホテル 部分担当(2010)
その他 帝国ホテル 新本館コーヒーハウス(1969) 、京都ホテル 中華レストランほか(1994)

 

ショップ・レストラン

ソニープラザ(現・PLAZA)銀座本店 1号店(1966)ほか40ショップ
霞ヶ関ビル36階 東京會舘 クリスタルラウンジ(1968)
ボーリングセンターラパンボール (1972)
資生堂ザ・ギンザ本店(1974)ほか2店舗
花十番 麻布店(1984)

 

医療関係

初富保健病院 改装(2013)ほか6病院
リタイヤメントハウス サンシティ町田 改装(2015)ほか5施設

 

著書

『北原進のモダニズム』六耀社(1986)
『7人の商空間デザイン』共著 六耀社(1986)
『北原進のモダニズム 1960—2000年代/インテリア・デザイン半世紀の軌跡』パレード(2018)

北原進作品

Interview

インタビュー

企業が文化に興味をなくしている今だからこそ、
才気ある人たちの業績は遺産として伝えるべき

インテリアデザインの特殊構造

 北原さんは、1960年代から、日本のインテリアデザインの最前線に立ち、牽引されてきました。2018年に上梓された作品集『北原進のモダニズム 1960—2000年代/インテリア・デザイン半世紀の軌跡』(パレード)に3歳年上となる倉俣史朗さんからミクロではなくマクロ的視点、都市計画的視点でインテリアを捉えようとしているとの「北原考」が掲載されています。さらに一回り下の世代となると、内田繁さん、杉本貴志さんがいらっしゃいます。そのなかで、北原さんはホテルやオフィスなどを手がけ、独自の道を歩んでこられたように思います。

 

北原 日本では、倉俣さんや内田さん、杉本さんらの活躍によって、彼らのようなアトリエ派のインテリアデザイナーの仕事が主力な仕事と見られがちですが、そのほとんどが飲食店やブティックなど、いわば遊ぶ場所を中心としており、ターゲットも限られています。スターの彼らによって、インテリアデザインの世界は広がりました。でもインテリアデザインは、遊ぶ環境指向だけでありません。人間の働く、住む、遊ぶの三要素のほどよいバランスのうえで、快適な環境をつくることが大切だと考えます。そして実際に、空間プロジェクトの大多数であるオフィスやホテル、公共空間などの仕事は規模も大きく、複雑でアトリエ派のデザイナーに発注されることはそもそも多くなかったんです。
僕の場合は、早くからアメリカ人が多くいる事務所に所属していたこともあり、その世界でそうした大きなプロジェクトを30歳になるかならないかで任されてきた。だから僕だけ亜流になっていますが、インテリアデザインという仕事の本来の流れでいうと、こちらが本流かもしれません。
バブルで好景気になると、作家的に仕事をする人は自分のキャラクターに合った仕事があったもので、基幹産業のコンサバな仕事からさらに離れていってしまった。僕だけ一人残されたかたちになっているのです。構造的に、日本のインテリアデザインは特殊なんです。
これらのプロジェクトは、組織事務所のアノニマスなスタイルのデザインになっておりました。

 

 たしかに、戦後の復興期を起点とした基幹産業のインテリアデザインについては、メディアなどでもあまり取り上げてきませんでした。

 

北原 戦後、日本が復興し経済力が高まるにつれて、アメリカ企業が次々日本に上陸し、日本法人をつくったり、拠点を拡張しようとしたりしました。AIUコーポレーション(現・AIG損害保険)やNCR、IBMといった大企業です。NCRは日本にアメリカ式のスーパーマケットを持ち込んでキャッシュレジスターを開発し、IBMはオフィスオートメーションや大型コンピュータを日本に導入させました。アメリカの生活様式や形態をそのまま持ち込んで、どんどん、アメリカ文明と文化のライフスタイルが入ってきたのです。
丸の内のオフィス街には、外資系企業が続々と入ってきた。そういう大企業には、会計事務所や法律事務所も付帯していて、それが文明的なコミュニティとなっていたんです。その家族が住むマンションが、当然、必要になります。僕もAIUの社長に依頼されて湯沢にスキーロッジをデザインしたことがありますが、当時の日本には、彼らが求めるような近代的でハイセンスなマンションやホテルをつくれる人がいなかったんです。われわれのリーダーがアメリカ人だったというのもあるけれど、欧米のデザインや文化に感化された人だけができる設計が身についていたので、そうした外資系企業からの依頼が引きも切らない状態で続いたのです。コミュニケーションとして、語学が堪能な営業スタッフがいたことも強みとなりました。

 

 東京藝術大学を卒業後、東急日本橋設計室に勤務され、それからアメリカ人が働くインテリアデザインの会社であるパシフィックハウスに移られたのですね。

 

北原 東急日本橋店は百貨店ですからインテリア商品ありきでした。椅子やカーペットをいかに売るか、という視点で空間を考えなければなりません。デザインありきでなく、コーディネーターになってしまうんですね。そうではなく、トータルな居住のための空間構成の仕事をしたいと思い、パシフィックハウスに入りました。

 

 パシフィックハウスは1956年にトータルインテリアとグッズを提供する日本最初のデザインセンターとして設立されました。

 

北原 パシフィックハウスがインテリアの会社を設立した背景には、政府の意向がありました。というのは、戦後、荒廃した貧しい日本を復興させるために、アメリカは現在の価値で12兆円にものぼる膨大な資金援助を行っています。もちろんそれはあとで日本の発展による恩恵を期待したギブ・アンド・テイクでもあるのですが、ともかくその使節として要人が来日するのに、彼らを受け入れる五つ星ホテルが日本にはなかった。経済援助をしてやるけれど受け入れもなっていないのでは話にならないと、時の通産省(現・経産産業省)は強い危機感をもっていました。それなら、五つ星ホテルやそういうインテリアを早急につくれ、そのニーズに対応する組織をつくれ、ということになり、三井グループの支援のもとにできたのがこの会社なのです。
一時、東大の丹下研にもいたワシントン大学出身のデイル・ケラーというアメリカ人建築家をチーフに、若手のアメリカ人数名と日本人から成る15名ほどの組織でした。そこでアメリカ人が住み、働く場のデザインを一手に担いました。IBMは近代的な新しいアメリカ式のマネジメントを含めたオフィスデザインをすでに展開していましたが、それを応用して日本で設計できる人はいなかったので、それをパシフィックハウスが一手に担当しました。ほかに、モービル、NCR、シティバンクなど外資系企業のオフィスのほとんどと、丸の内、オークラ、パレス、ヒルトンなどのホテルも手がけました。私は日本にいながらにしてオフィスに英語が飛び交う、ほとんどアメリカに留学した気分でした。通産省の狙い通り、アメリカからの日本の需要に対応した、来日要人の事務所やマンションなど次々と実現させたのです。

 

 そこに入社されて、最先端のアメリカン・モダンを学ばれたのですね。

 

北原 入社した頃は若造でしたから、アメリカン・モダニズムのインテリアには、明るく、爽やかで、心洗われるような思いを抱きましたね。デザインはもとより、相手を説得するちょっとしたコメントやプレゼンテーションまで、まったく日本人が未知のことばかりで、ケラーさんからも多くを学びました。 ただ、マネジメントもアメリカ式ですから、出社したら隣席にいたはずの同僚が即日解雇されていたなんていうこともザラで、厳しかったです。そこは2年で辞め、建築と英語がわかるプロジェクトマネージャーだったパシフィックハウスの矢吹宏を中心に、5名でフォルムインターナショナル(以下、フォルム)という組織を立ち上げました。僕はそこに3年おり、東京會舘や帝国ホテルの仕事が終了した時点で独立しました。

 

デザインには手品が必要

 

 北原さんは芦原義信さん、林昌二さん、剣持勇さんら建築家やデザイナーと協働しての仕事も多いですよね。

 

北原 1968年に、霞が関ビルディングの36階に東京會舘のクリスタルラウンジをつくる共同プロジェクトをフォルムが受け、私は担当チーフとして参加しました。芦原義信先生からの依頼です。当時芦原先生が東大教授であり、丸の内のロータリークラブで建築に関する講演をされた折、たまたま東京會館の吉原政智会長が出席しておられたとのこと。芦原先生は、その吉原会長から直々に霞が関ビルの入居について相談を受け、設計統括を快諾されたとのことですが、大きな責任を感じているようでした。
設計構成は本業のプルニエ料理のメインダイニングを剣持事務所で、カジュアルなティーラウンジをわれわれが担当することになりましたが、初の超高層ビルの内装制限にかなり設計チームは苦しみました。完成後、吉原会長は大喜びで芦原先生も肩の荷が下りたようでした。スタッフはみな本当に疲れました。
こうして、革命的な動きとして超高層が空に向かって伸び、同時に地下街のように地下にあたらしい都市が生まれ、われわれの生活空間が上へ下へと延長していった、未来志向のダイナミックシティのスタートする高度経済成長の時代になっていったのです。
このプロジェクト終了後、剣持先生から京王プラザホテルのインテリアに参加することの打診があり、ありがたくお受けすることになり、ちょうど帝国ホテルのコーヒーハウスが竣工したこともあり、フォルムを退社して自分の事務所を立ち上げたのです。京王プラザホテルでは「ヤングバー」、中華の「南園」を担当しました。

 

 剣持さんは60歳を待たずに亡くなっています。もっと長く活動されていたら、その後のデザイン史の系譜も変化していたかもしれません。日建設計の林昌二さんとは、71年の日本IBM本社ビルでお仕事をご一緒されたのでしょうか。

 

北原 僕はそのIBM本社のロビー家具、オーディオルームと社員食堂などを担当することになりました。食堂は1,000席ほど必要なのですが、基本設計終了後に、ニューヨークから建築担当マネージャーが来日し、食堂を2層にすればエレベーターホールの混雑を軽減できると強く提案してきました。すでに日本IBMの承認を得た基本設計が終了していたので、私はこの提案に反発して、食堂エリアの担当を降りてしまったのです。
日建の林さんから「北原さんは若いね。これからの長い人生、もっと慎重に行動した方がいいですよ」と進言されました。曰く、このプロジェクトはすでに本社と日本のトップどうしで全工程と工事金額がきっちり決まっているので、絶対に変更はないから。林さんの言う通りで、その後は現状案に戻り、ほかのデザイナーが担当になり、私は数千万の設計料と1年あまりの設計時間を失いました。それ以来、感情的になる短気は損気だと常に肝に命じています。
林さんのことですが、代表作のひとつであるパレスサイドビルは、雨水が通る樋をカーテンウォールの中に隠すのではなく、意匠として表に出して視覚化させ、一世を風靡しました。まさに才気走った人です。コンサバな日建設計の組織のナンバーワンの人がデザインコンシャスであることはなかなかないこと。そのIBM以来、いろいろと付き合いがあったのですが、林さんからは「北原さん、デザインには手品がないとだめですよ」とよくアドバイスされたんですよ。

 

 手品、ですか。

 

北原 それはデザインのなかに持っているエスプリ、ウィットなのだと僕は解釈しています。72年にフジエテキスタイルのショールームを手がけた折に林さんが見に来て、「ちょっと手品があるね、ちょっとだよ」と言ってくださった。手品というのは自分で種をつくらなければいけません。このショールームでは、工場で荷物を運ぶために上から吊して動かす滑車のバランサーを応用したことで、自由に引っ張っていける、可動的なテキスタイルの展示に使用したんです。空間にも上下動の変化が生まれます。林さんは、「(バランサー自体は)あなたが考えたものじゃないけれど、使い方にちょっと手品がある」と言った(笑)。
ところが、インテリアデザイン界からの反応はまったくなかったんです。『芸術生活』と『芸術新潮』の2誌だけデザインとはアノニマスのものだと評価してくれましたが、インテリアデザインのジャーナリズムからは評価されませんでした。バランサーの力を使っただけというアノニマスだったからかもしれません。
反対に、銀座7丁目のボーリング場、「ラパンボール」は大反響でした。建築設計は竹中工務店でしたが、社長が竣工式に来て、「おもしろい、君たちも見に行け」と部下に言ったものだから、竹中の社員が列をなすように来た。インテリアデザイン界でも革命的デザインだと評価されました。それは床のガーターラインを同一天井面に吊り、そのほかをミラーとした光のイリュージョン効果を狙ったものでした。

 

 

北原進作品

フジエテキスタイル ショールーム (1972)
Photo by Yoshio Shiratori

 

 

 反応が対照的だったのですね。でもフジエテキスタイルは、ある意味、テキスタイルの展示のひとつのプロトタイプになったと言えます。後に『商店建築』で内田繁さんは杉本さんとの対談で、衝撃を受けたインテリアデザインとしてフジエテキスタイルのショールームを挙げていました。また、倉俣さんは74年の四季ファブリックのショールームで、磁石で布を付けて浮かせましたが、北原さんの仕事を意識したと思われます。倉俣さんはこれを見て、悔しがったんじゃないでしょうか。

 

北原 どうかな。倉俣さんたちは、僕のようなデザインビジネスとして大きな組織の中でやる仕事とは違うし、自分の世界をつくっていました。内田君たちのような後に続く者はもとより、小さいながら夢のあるクライアントも育てていたけれど、2〜3年でデザインのライフが消耗してどんどん短命になってしまう。倉俣さんは好きなことをやらせてくれる仕事しかやらないから、「でかい仕事なんかしたくない」と、自分から断っていましたね。あれだけの才気は、あとにも先にもいないでしょう。その金字塔は、歴史的にもインテリアデザインに今でも光輝いています。短命で残念でしたが、今でも偉大なデザインの遺産は色濃く残っています。

 

作家的には生きていない

 

 東京藝大の後輩に杉本貴志さん、川上元美さんがいらっしゃいますが、北原さんが在籍されていた当時はインテリアデザインを目指す人材は少なかったのでしょうか。

 

北原 当時はソニーのトランジスタラジオやホンダのカブなど、日本の工業製品を世界に輸出していこうとしていた時代です。けれども世界からは、日本製は性能はよくてもデザインはダサいと揶揄されていたのです。それに対応すべく、政府は工芸指導所から発展させた産業工芸試験所をつくり、工業デザインの育成に力を注いでいました。60年代でも藝大の教授は、業界の強い要望に積極的に学生を工業生産の仕事に就かせようと仕向けていましたね。発展途上のこの国は、旗を立ててこっちを向けと促していかないと、力が分散して強大になれません。だからみなそっちに行ったわけだけど、僕だけは違って、これからデザインの志向は空間なのではないかと思ったんです。まだインテリアという言葉もなくて、ダサい室内装飾と言っていました。

 

畑中 プロダクトに趨勢があったなかで、北原さんだけが空間に目を付けた理由は、何かあったのでしょうか?

 

北原 はっきり覚えていないけれど、工業デザインの、例えばテレビや洗濯機、冷蔵庫はただの四角い箱のパッケージのデザインになってしまいます。そこに魅力を感じなかったのでしょう。同級生に石山篤というデザイナーがいました。ひじょうに優秀で、GKダイナミックスの社長でヤマハのオートバイをデザインして、未来志向の試作品とか見せてもらったことがありますが、オートバイはおもしろいと思いましたね。エンジンをかけていなくても、いかにも走りそうな形態がなくちゃならないし、そこにはスピードに対する夢があります。
石山は教授から学校に残って先生の道を歩まないかと言われたけれど、まったく興味がないと断っていました。
日本は一番貧しいときに、ないものを補うことで発展し、支援したアメリカも日本の経済成長の恩恵にあずかりました。それ以来日本はアメリカにすっかり依存する国になりましたが、今度はかつてのアメリカと同じように、文化文明の新しい波を日本はアジアの国に対して送っています。相互依存のなかで、経済が発展していくんです。生活を豊かにしていくために、人は無骨な機械だけではなく、温かい夢のある道具やモノを求める。多様なデザインへのニーズはあるんです。人間らしい温かいデザインは、経済と密接に結びついて、相互に依存しながらますます発展していくのでしょう。

 

 30代で大きな仕事を任され、そのまま途切れることなく基幹産業の仕事を担われてきました。

 

北原 それはラッキーだったと思います。景気が後退したときに内田君、杉本君にも「俺たちが厳しいときに、北原さんはいいな」と言われたことがあります。でも彼らは、「なにくそ」と立ち向かっていったから才能が開いたのです。僕らの仕事には、作家的なビッグネームは必要ないし、僕も作家的には生きてきてはいません。
また、現在は、ホテルであれショッピングセンターであれ、大きな仕事は大組織に吸収されて、乃村工藝社とか丹青社とかが一手に引き受けているという現状があります。アトリエとして一匹狼のビッグネームが何か残すようなデザイン的な環境には、残念ながら今はないように見えます。どんどん保守化されて、大企業も大組織どうしの付き合いばかり優先しがち。一昔前のように、急成長した若手にゲリラ的に好きなことをやらせたりするようなスポンサーが出てくればいいですが、クリエイティブなことよりも、企業を守ることで精一杯のようになっているし、文化に対して興味がなく、そこに資金を使わなくなっています。またIT長者はミシュランばかり気にしています。そういう意味で、日本の建築デザイン文化は、今後死に絶える恐れがあると言えます。
だからこそますます、今までの人たちの業績を遺産として残さなければいけないし、その重要性が増すと考えます。彼らの業績の必要な情報をアーカイブできちんと伝えていけるかどうか、大切ですね。それには大変なエネルギーが必要ですが。

 

一冊の本がアーカイブ

 

 では、北原さんのアーカイブの状況について伺います。最近、事務所を移転されましたが、図面やスケッチなどの資料はどういう状態なのでしょうか。

 

北原 CAD化したデータは新住所にも持って来ましたが、CAD化していないトレーシングペーパーの図面は、すべて金沢工業大学 建築アーカイヴス研究所に寄贈しました。引っ越しに際し、すべて廃棄しなければならなくなっていたのですが、建築家の山下和正さんがそれはもったいないと言ってくれて、彼の口添えで金沢工業大学に尋ねたら、いくらでも引き受けますと言ってくれて、30年〜40年分の何百プロジェクトに及ぶトレペの図面を一式送ったのです。

 

 私たちもこれまでに2度インタビューに行かせていただいています。お一人で担当されているので、整理にはかなり時間を要するようですが、きちんと保管されていますね。

 

北原 例えば、ホテル、オフィス、ソニープラザ関係とかアイテムごとに分類でもしていれば、先方も助かったかもしれませんが、それすら日々に終われできない状態で、そのまま渡しています。私は自分の過去の仕事に、それほど文化的な価値も見い出していないし、後世に残すべきだといった意欲も持っていないんです。だから保管する気は、さらさらなかった。私はもはやデザイン活動を停止しておりますし、デザイナーとしての社会的な使命は終わっております。引っ越し作業に忙殺されていたので、倉庫で保管していた煉瓦やタイル、カーペットなどと、サンプルはすべて捨てました。その処理代はかなり嵩みました。でもプロジェクトのプロセスに使ったカラースキームなど、廃棄するにはちょっと残念なものもありましたね。

 

畑中 僕はK.I.D.アソシエイツに92年までの13年間チーフとして在籍したのですが、当時は10人ほどのスタッフがいて、常時10プロジェクトくらいを抱えて忙しくしていました。プロジェクトは同時進行していましたし、数も多かった。ファイルごとにプロジェクト名は書いてありましたが、あとでそれを分野ごとにまとめたりする余裕などはなかったのです。

 

 北原さんのお仕事は、今回の作品集に網羅されているのですね。

 

北原 これは、藝大の後輩でもあるグラフィックデザイナーの上條喬久さんがディレクションしてくれました。これ一冊に、私の50年近いライフワークであるインテリアデザインの主だったものはすべて入っています。写真はすべて白鳥美雄さんに撮っていただいています。また写真や絵だけではなく、できるだけ文章を載せることにこだわりました。 インテリアがどういうふうに発展し、クライアントとのどのようなやりとりから生まれたのか、読んで理解できるようになっています。倉俣さんをはじめ、第三者の方々にも書いていただいています。当時破竹の勢いだった『ジャパンインテリア』誌に掲載されたものを再収録したりもしています。

 

 86年にも『北原進のモダニズム』を出されています。

 

北原 それは英語版もつくりましたが、その英語版はアメリカのニューヨークを中心とした東海岸に4,000部売れたようです。日本では1,000部程度でした。バブルで日本が勢いに乗っていた時代ですから、アメリカも日本や東京に興味があったのでしょうね。

 

 80年代半ばのインテリアの活況が伝わります。

 

北原 その当時のことですが、リベラルな街場のデザインについてひとつ話しましょう。われわれのインテリアデザイン活動は、それぞれの空間によってその施設の使命を全うし、取り壊され、それ以後は当時の現況を示す写真の中で生き続けるわけです。私がデザインした中に、30年以上、内装などを一切変更せずに、今も経済活動をしている店があります。麻布十番にある焼肉店「花十番」で、1985年の開業ですから、もう35年になります。都心エリアのファショナブルな店の寿命は、一般に平均10年くらいで、その頃業態変更したりするものですが、この店はそのまま微動だにせず今日に至っています。私の50年以上のデザイン人生のなかで唯一の長寿デザインで、私としては珍しくカジュアルな業種です。ぜひ、焼肉を食べながら、デザインチェックをしていただければ幸いと思い、紹介させていただきました。こういうのは、生存保存のアーカイブなのではないかと思っています。
たしか、杉本貴志の「バー・ラジオ」はオープンしてから10年後に改装し、その後20年以上続いたと思いますが、よいバーでした。そういう店が本当に少なくなりました。シティホテルのコーヒーハウスは、ヘビィーデューティで、朝、昼、晩のオールデイダイニングと言われており、10年が寿命で必ず改装されます。文字通りインテリアデザインのソフトとハードは10年がひと昔の寿命なのです。

 

 さきほど、倉俣さんらアトリエ作家のアーカイブの重要性を語っていらっしゃいましたが、日本のインテリアデザインを担ったお一人として、その文化を次に引き継いでいきたいという思いはお持ちでしょうか。

 

北原 昔、倉俣さんは高度成長期の追い風に乗った、若々しいアパレルなどの実業家の応援団に囲まれていました。「クラマタ、ドンドンやりたいことをやれ、あとは俺たちにマカセロ!」と。私もその時代の追い風に乗り、60〜70年代には身に余る大きなプロジェクトに恵まれてきました。「これからは君たちの時代だよ」と、業界のベテランたちは自ら席を譲り、われわれの背中を押してくれたのです。よい時代でした。
現状で未来に対しての雑感ですが、もちろんデザイン創世記の60〜70年代を中心とした過去の優れた文化情報が数多くあり、今後はますますそれらを大切に保存する必要があります。心配なのは、今日この頃です。現代のクリエイティブな文化がまったく元気がなく、もしその情報があったとしても、『ジャパンインテリア』をはじめ『建築文化』や『SD』など、専門的な紙情報のメディアも廃刊になり、残っている雑誌もかつてのような勢いをなくしています。今われわれは文化的な情報をつくったとしても、それを配信するメディアを失ってしまっているのです。
ネット社会は原因と結果をスピーディに伝えることに長けたメディアですが、薄っぺらな情報になりがちです。2000年代からの荒廃たる文化の現状のなかで、われわれはいわば茹でガエル現象の緩い鈍感なプロセスのなかにおり、それにより感性・知性が退化していく未来が心配なのです。

 

 それも忌憚のないご意見と思います。率直なお話をいろいろ、うかがうことができました。貴重なインテリアデザイン史が語られていたと思います。ありがとうございました。

 

 

北原進作品 北原進作品

花十番 麻布店 (1984)
Photo by Yoshio Shiratori

 

 

 

北原進さんのアーカイブの所在

問い合わせ先
金沢工業大学 建築アーカイヴス研究所 http://wwwr.kanazawa-it.ac.jp/archi/
北原摩留/株式会社インフォーマル marukita@informal.jp

 

HEARING & REPORT

どうなっているの?
この人たちのデザインアーカイブ

What's the deal? Design archive of these people

調査対象については変更する可能性もあります。

調査対象(個人)は、2006年朝日新聞社刊『ニッポンをデザインしてきた巨匠たち』を参照し、すでに死去されている方などを含め選定しています。

*は死去されている方です。

 

FORMAT MAKING

作品や資料をどのようにアーカイブすればよいか?
共有することを目的とする

How do I archive my work and materials?

SPECIAL PROJECT

PASS the BATON

倉俣史朗を語ろう

シンポジウム開催

倉俣史朗(1934〜1991年)は、60年代から80年代にかけて活躍した伝説的なデザイナー。
その人物と仕事は世界中の人々を魅了し続けています。
没後30年を前に「倉俣史朗の入門編」として、過去から現在、未来へと若い世代に倉俣のデザインをつなぐシンポジウムを開催しました。

 

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