日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

小池一子

クリエイティブディレクター

 

インタビュー:2021年8月4日 16:30〜17:40
場所:リモート取材
取材先:小池一子さん
インタビュアー:関 康子、石黒知子
ライティング:石黒知子

Profile

プロフィール

小池一子 こいけ かづこ

クリエイティブディレクター

1936年 東京都生まれ。
1959年 早稲田大学文学部英文科卒業、アド・センターに入社、編集・執筆を担う。
1961年 同社退職しフリーランスに。高野勇、江島任(たもつ)とコマートハウスを設立。
1962年 『PRINTING INK』誌発刊。ADに田中一光を迎える。三宅一生を取材。
1969年 池袋パルコ立ち上げに参画、以降、西武グループの広告広報活動、催事企画に携わる。
1975年 京都国立近代美術館で「現代衣服の源流」展開催 企画、実施、図録制作を担う。コマートハウス退職。ハワイ大学の研究機関より招かれ、キュレーションを研修(75年9月〜76年3月)。
1976年 株式会社キチン設立。田中一光の呼びかけに応じ東京デザイナーズ・スペース発起人の一人として参加。
1979年 西武美術館アソシエイト・キュレーター就任。無印良品の企画・監修に参画(発売開始は1980年より)。
1983〜2000年 佐賀町エキジビット・スペース設立・主宰。
1986年 『交感スルデザイン』(六耀社)執筆。同書に掲載の「集まった5名のデザイナーの活動と小池一子」として毎日デザイン賞を受賞。
1987〜2006年 武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科教授。
1989年 西武美術館「フリーダ・カーロ展 愛と生、性と死の身体風景」キュレーション、図録編集。
1995年 日本現代藝術振興賞。
1998年 宇都宮美術館「日本のライフ・スタイル50年」展キュレーション協力、図録編集(99年、広島市現代美術館に巡回)。
2000年 ヴェネツィア・ビエンナーレ第7回国際建築展 日本館「少女都市」キュレーション。
2008年 ロンドンで改めてコンテンポラリーアートを研修。
2011年 3331 Arts Chiyodaに「佐賀町アーカイブ」を設立。
2012年 21_21 DESIGN SIGHT「田中一光とデザインの前後左右」展キュレーション。
2016〜2020年 十和田市現代美術館館長。
2017年 エイボン女性年度賞 大賞受賞。
2019年 第22回文化庁メディア芸術祭 功労賞受賞。
2020年 群馬県立近代美術館 「佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000 現代美術の定点観測」企画、キュレーション。文化庁長官表彰。
2021年 東京ビエンナーレ2020/2021総合ディレクター。
2022年 3331 Arts Chiyoda「オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな運動」。

 

小池一子

Description

概要

次代に受け継ぐアーカイブには、作品という物質のみならず、作品や企画が完成するまでのプロセスも不可欠で、その痕跡が次なる創造の種にもなる。小池一子はデザインとアートの最前線に立ち、長きにわたり、才ある人材をいち早く見出し、場をつくり、時代に新風をもたらしてきた。クリエイティブ・ディレクターであある。「無印良品」の発足に携わり、現在も、同社アドバイザリー・ボードを務める。コピーライター、翻訳家、著述家、プロデューサー、キュレーター、教育者としても活動してきた。その仕事の神髄は、人と人をつないで「今」しか生まれえない創造性を世に送り出すことであり、作品単体では掴みにくい。小池自身が生きるアーカイブとも呼べる存在となっている所以である。近年は半生を振り返る書籍を相次いで刊行したり、主宰した佐賀町エキジビット・スペースのアーカイブ化を行うなど、クリエイターと紡いできた有形無形の創造の痕跡を表出させることにも力を注ぐ。
教育学者・矢川徳光を父に5人姉妹の4番目として生を受け、母の姉・元子と小池四郎夫妻の養女として育った。四郎はクララ社という出版社を興した社会運動家で、両家を行き来した幼少期が型にはまらない生き方の原点となった。
グラフィックデザイナーの堀内誠一に師事し、アド・センターでコピーライターとして始動。1960年代に入ると独立し、田中一光、三宅一生、石岡瑛子らの才能をいち早く感知し協働、セゾングループやパルコの広報活動、西武美術館などでの展覧会企画、無印良品の創設と運営など、社会にインパクトを与える仕事を続けてきた。
1975年に京都国立近代美術館で開催した「現代衣服の源流」展は、三宅に「見るべき展覧会がある」と誘われて皆川魔鬼子とニューヨークのメトロポリタン美術館の「インヴェンティヴ・クローズ」展を訪れたことから生まれた伝説的な衣服の展覧会で、小池はそのプロデューサーを務め、日本で初めて文化としてのファッションを紹介したとして大きな話題を呼んだ。これを機に展覧会の企画に興味をもち、ハワイ大学の研究機関「イースト・ウエスト・センター」でキュレーションを学んだ後の1983年、美術館や画廊とは異なる日本初の非営利のオルタナティブスペース、佐賀町エキジビット・スペースを設立・主宰する。まだ評価の定着しない新しい才能を見出す天賦の才があり、ここから森村泰昌、大竹伸朗、内藤礼、杉本博司ら、世界で活躍するアーティストが巣立った。2000年に建物の老朽化などを理由に閉廊となったが、2011年3331 Arts Chiyoda(アーツ千代田3331)内に「佐賀町アーカイブ」を設立、2020年には群馬県立近代美術館で「佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000」展を企画、キュレーションしている。
70歳を越えてロンドンに渡り、改めてコンテンポラリーアートを学ぶなど、齢を重ねても未知なるものへの好奇心は衰えない。2016年には十和田市現代美術館の館長に就任(〜2000年)、21年には東京ビエンナーレ2020/2021総合ディレクターを務めている。子どもの創造力を伸ばすためのフリースクールの構想も温めているという。前述した近年見られる「アーカイブ活動」は、そのための貴重な資料にもなるのではないだろうか。

Masterpiece

代表作

書籍

『現代衣服の源流』小池一子編、京都商工会議所(1975)/『三宅一生の発想と展開』三宅一生著、小池一子編、田中一光構成、 平凡社(1978)/『マッキントッシュのデザイン展 現代に問う先駆者の造型—家具・建築・装飾』小池一子・武部圭男編、西武美術館(1979)/『日本の色彩』 田中一光・小池一子構成、リブロポート(1982)/『アンダーカバー・ストーリー』小池一子・小柳敦子・渡部光子編、日本ボディファッション協会・京都服飾文化研究財団(1983)/『Péro 伊坂芳太良作品集成』田中一光・小池一子編、PARCO出版(1983)/『スヌーピーインファッション』小池一子構成、リブロポート(1984)/『交感スルデザイン』小池一子編集・執筆、安藤忠雄ほか著、六耀社(1985)/『ファッション・ワード・コレクション』 小池一子・深井晃子著、講談社(1985)/『無印の本』小池一子企画・編集、田中一光デザイン、リブロポート(1988)/『空間のアウラ』 小池一子著、白水社(1992)/『日本のライフ・スタイル50年 生活とファッションの出会いから 企画展』小池一子監修、宇都宮美術館(1998)/『Fashion 多面体としてのファッション』小池一子編著、武蔵野美術大学出版局(2002)/『衣服の領域』小池一子企画・監修・編集、武蔵野美術大学美術資料図書館(2005)/『田中一光とデザインの前後左右』小池一子企画・編集、FOIL(2012)/『イッセイさんはどこから来たの? 三宅一生の人と仕事』小池一子著、北村みどり企画、HeHe(2017)/『MUJI IS 無印良品アーアイブ』小池一子編、良品計画 くらしの良品研究所(2020)/『美術/中間子 小池一子の現場』小池一子著、保田園佳執筆、平凡社、(2020)/『のこす言葉 小池一子 はじまりの種をみつける』小池一子著、平凡社(2021)

 

翻訳

『花もつ女 ウエストコーストに花開いたフェミニズム・アートの旗手、ジュディ・シカゴ自伝』 ジュディ・シカゴ著、パルコ出版局(1980)/『アルール 美しく生きて』 ダイアナ・ヴリーランド著、パルコ出版(1981)/ミュージカル「キャバレー」訳詞(1982)、博品館劇場ほか/『アイリーン・グレイ 建築家デザイナー』 ピーター・アダム著、リブロポート(1991、新版はみすず書房より2017年発行)

 

広告

「PARCO感覚。」パルコ(1972)アートディレクション、デザイン:石岡瑛子、イラストレーション:山口はるみ、コピーライト:小池一子、写真:操上和美/「わけあって、安い」無印良品(1980)アートディレクション:田中一光、イラストレーション:山下勇三、コピーライト:小池一子/「自然、当然、無印。」無印良品(1983)アートディレクション:田中一光、イラストレーション:和田誠、コピーライト:小池一子

 

展覧会・企画

「現代衣服の源流」展 京都国立近代美術館(1975)企画、実施、図録編集:小池一子、アートディレクション:田中一光、空間:杉本貴志、マネキン製作:向井良吉/「三宅一生。一枚の布」展 西武美術館(1977)キュレーション:小池一子/「マッキントッシュのデザイン展:現代に問う先駆者の造形 家具・建築・装飾」展 西武美術館(1979)キュレーション:小池一子/大阪国際デザイン・フェスティバル(1983)「モダンデザイン」担当/「マグリットと広告」佐賀町エキジビット・スペース(1983)キュレーション:小池一子/「アンダーカバー・ストーリー」ラフォーレミュージアム原宿(1983、巡回展)、主宰:日本ボディファッション協会、企画、図録編集:小池一子/「日本のデザイン 伝統と現代」展 ソ連邦美術家同盟中央作家会館(1984)、企画・実施:小池一子/北海道東川町 写真賞「東川賞」創設に参画(1985)/マドレーヌ・ヴィオネ、クリア・マッカーデル、川久保玲「THREE WOMEN 20世紀の女性デザイナー3人展」ニューヨークファッション工科大学(1987)/「Earth & Sky ナガの民族芸術」有楽町アート・フォーラム(1988)企画・監修:小池一子/「フリーダ・カーロ展 愛と生、性と死の身体風景」西武美術館(1989)キュレーション・図録編集:小池一子/「イヴ・サンローラン展 モードの核心と栄光」セゾン美術館(1990)キュレーション:小池一子/「田中一光とデザインの前後左右」展 21_21 DESIGN SIGHT(2012)キュレーション:小池一子/「佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000 現代美術の定点観測」群馬県立近代美術館(2020)、企画・キュレーション:小池一子/「東京ビエンナーレ2020/2021」総合ディレクター:小池一子

 

小池一子 作品

Interview

インタビュー

アーカイブに対する予算は
文化施策として国がつくるべき

オーラルヒストリーが大切

 小池さんは2020年に『美術/中間子 小池一子の現場』(平凡社、執筆:保田園佳)、21年に『のこす言葉 小池一子 はじまりの種をみつける』(平凡社)という著書を上梓されています。前者のタイトルにある「中間子」とは、クリエイティブ・ディレクターとして田中一光、三宅一生両氏と長く活動してきたなかで、ご自身の立場を考えた際に出てきた言葉であり、物理学の物質同士をつなぎ止める役割から引用されています。そうした中間子的な活動をされた小池さんのアーカイブとしては、やはり著作本をはじめとした書籍も含まれるのではないかと考えます。本日は、実際に小池さんのアーカイブとしてどのようなものがあるのか、伺いたいと思います。また小池さんから、デザインアーカイブをどうとらえていらっしゃるのか、ご意見もいただけたらと思います。

 

小池 東京ビエンナーレ2020/2021の総合ディレクターを務めているので、このところは85年の人生のなかでも一、二を争う忙しさだったのですが、その準備中にその『のこす言葉 小池一子 はじまりの種をみつける』を刊行しました。アーカイブを残していくというのは、大変難しい問題を含んでいると思います。基本的に私の場合は、オーラルヒストリーや映像がアーカイブになるのではないでしょうか。
私はクリエイティブ・ディレクターとして、ものづくりの現場でプロフェッショナル同士を集め、私を媒介として人と人をつなげることを大切にしてきました。グラフィカルなビジュアル表現の仕事でしたら、最終的にはそれはデザイナーの仕事として世に出ていきます。私の仕事の場合は、デザイナーをはじめ、さまざまなプロフェッショナルと共同制作していくものなので、私だけの仕事ではないし、またその比重の違いもあり、作品として出すには微妙な問題も含んでいるのです。デザイナーのアーカイブでビジュアル表現が先に立つのとは異なるので、私の場合は、参考資料としていただくのがいいのではないかと思います。 最終的には、ビジュアル表現になるものであっても、私はデザインとの関わりは言葉の領域から入った人間なので、どうやってその言葉が生まれたのかなど、なかなか形に残りにくいところが重要となってきます。今まだ記憶があるあいだに、それらがどうやって生まれたのか、オーラルヒストリーとして残すことが大事であると痛感しているところなのです。

 

 田中一光さんとの無印良品の立ち上げと活動、石岡瑛子さんとのパルコにおけるコピーライティングに始まり、京都国立近代美術館「現代衣服の源流」展や、西武美術館の「フリーダ・カーロ展 愛と生、性と死の身体風景」などの大きな話題を呼んだ企画展や、ヴェネツィア・ビエンナーレ第7回国際建築展の日本館「少女都市」のキュレーションのように世界規模のイベントを手がけてこられました。また、日本で初めてのオルタナティブスペースである佐賀町エキジビット・スペースでのキュレーション活動があり、小池さんの仕事領域は実に多彩で広範です。そのほか、翻訳や教育にも携わり、著書も多い。肩書きはクリエイティブ・ディレクターとなりますが、そのお仕事は、まず企画書を書くことが多いと思います。企画書やプランニングのためのマッピングや図版資料などが小池さんの直接的なアーカイブになるのでしょうか。それらはプロジェクトごとに記録されていたりするのですか?

 

小池 それが、全然だめなんです。走りながらつくり続けてきたので、それらをきちんとプロジェクトごとに保管したり整理したりするところまで力を使ってこなかったので、今になって慌てているのです。やってきた仕事が何だったのかをまとめてみたいと思い、2019年ぐらいから、そうした振り返る活動は始めているのです。
2020年には群馬県立近代美術館で「佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000 現代美術の定点観測」を企画し、その図録の編集と執筆を行いました。先の2冊のほか、『MUJI IS 無印良品アーアイブ』(良品計画 くらしの良品研究所)を編集・執筆し、朝日新聞で「人生の贈りもの」というコラムの連載も行われました。
その振り返る作業のなかで、企画書やチラシなどさまざまなエフェメラをかき集めたりしたのですが、少しずつ欠けていたりすることに気付いて、反省しているところなのです。事務所を移動したりするなかで失われたものも少なくありません。
デザイナーは、事務所で作品をアーカイブとしてきちんと整理されている方が多く、それに比べると私たちは雑然としていて散逸しがち。お仕事をご一緒したデザイナーの方に「あれはないか」と相談すると、ちゃんと保管されていたりするので、そういう方々に助けられているのが現状です。

 

30年の時を経てアイデンティティを伝える

 1960〜80年代にかけて行われてきたセゾングループ、パルコの広告や西武美術館の企画展などについては、それぞれの母体である企業に今も資料が残っていたりするのでしょうか。

 

小池 企業がアーカイブをするということの難しさも痛感しています。1980年生まれの無印良品でさえ、商品や広告制作物のあるべきものがないというのが厳しい現実です。実はアーカイブの必要性については、これまでも企業側にうるさく申し上げてきたのですが、そのための予算を組んで人材を確保するのは現実的にはたいへん難しいことです。
20年に『MUJI IS—無印良品アーカイブ』(著:くらしの良品研究所、良品計画)を発行したのですが、私たちの記憶やチャネルのなかで探せるものを探したりする努力が必要でしたし、それはすでに始めています。 あるポスターが生まれるときの背景などは、表には出てきません。私が1980年代につくった無印良品のコピーライティングで、どういうふうに表現するかと迷っているときに、イラストを担当していた和田誠さんと「当たり前のことなんだけど、われわれを囲んでいる自然というものは、ブランドみたいな印なんかをもたないで、ただ、たくさん周りにあるのよね」と、話をしていたのです。その当たり前なことに現代人が気付いていないおかしさみたいなことを表現できないかというのが、私が投げかけた疑問でした。そうしたら和田さんは、子どもの頭に木星状の帽子を載せ、望遠鏡の外に木星が浮かんでいるイラストを描いてきた。その相似性が、なんだかおかしいわけ。当たり前だけど、不思議なことを生み出すわけです。それを言葉として定着させたのが、「自然、当然、無印。」というコピーでした。
そうしたら2015年、原研哉さんが無印のディレクターになって、ガラパゴス諸島の生物と無印の商品の類似性を撮影する企業広告をつくる際に、このコピーがふさわしいのではないかと、再び使われることになったのです。企業とデザイナーが、時を経て、異なるかたちで再びそれを用いる巡り合わせというのもあるのです。
ひとつのビジュアル作品が生まれる時の背景にあるドラマみたいなものがあのコピーに宿っていたからで、それもやはり時代の記録としてアーカイブとして伝える必要があるのではないかと思いました。30年を経て、企業のアイデンティティやスピリットが伝わっていくことができるんだと実感できた、おもしろい例ですね。

 

 そうしたお話を伺うと、ビジュアルから入るデザイナーではなかなか言葉に表しがたいことを小池さんが言葉にすることで、コンセプトを定着させてきたとも言えるのではないかと考えます。

 

小池 それはそれぞれの生まれる環境によりますね。無印良品の店舗設計をした杉本貴志さんとはまさに阿吽の呼吸で、詰めて議論したことなんてありません。ライフスタイルのくくりとしてデビューさせた青山1号店の店舗設計や什器の整え方は、それまでに田中さんと私がつくりあげた無印らしさのアイデンティティを杉本さんが飲み込んで、バンっと、形にしたものなのです。溶鉱炉の中で使われていたレンガを壁に使ったり、古い桶を什器に使ったり。そこには懐かしさみたいなものがあって、杉本さんはそれが無印良品だということをマテリアルを通じて出してくださるデザイナーでした。そういう方たちとは、阿吽の呼吸ですよね。

 

 無印は、使う素材そのものが価値をもっていました。素材の違いでは、倉俣史朗さんではなく、杉本さんなのだというのがわかります。

 

小池 杉本さんの素材についての確信度は無印が一番大事にしてきたもので、土やメタル、木…、そういうものの提案が議論することなく現れてくるのです。それは企業のアイデンティティについての共感があるからで、田中一光さんが目指すものを杉本さんが理解して、それをより劇的に表現してくれていました。

 

共感力を養うには助走の時間が必要

 ただしそうやってパッと形にできてしまうので、答えは頭のなかにあり、そこまでのプロセスというのは形として表に出にくいので、アーカイブにも出てきません。その阿吽の呼吸で理解し合うには、共感力が必要なのではないかと推察します。小池さんはよくクリエイターの方々と旅行されたりしていましたが、美しいものを見ながら時間を過ごすといった、共感力を養うための努力や仕掛けは意識されてきたのでしょうか。

 

小池 たしかに、助走の時間というのはありましたね。周りに余裕をもてた時代のようにも思います。杉本さんとの最初の仕事は「現代衣服の源流」展で、「バー・ラジオ」をひっさげて彗星のように現れた若きデザイナーの杉本さんに京都国立近代美術館のインスタレーションをお願いすることにしたのです。田中一光さんをADに迎えました。田中さんとは1961年にコマートハウスで発行する『PRINTING INK』誌のアートディレクターを、当時はまだ日本デザインセンターに在籍していたのですが、依頼してからのお付き合いですが、若いクリエイター同士が出会ったあの時がまさに助走の時間でした。お互いに本当に食べることが好きなんです。衣食住についてどんな感覚をもっているのか、共感する部分を多くもっていました。だから仕事の実際の場に立つと、阿吽の呼吸が生まれるのであって、初めてその場でプロジェクトをつくるのではない仕事のやり方かもしれません。互いに常につくり続けている人たちですし、そういうことへの共感もベースにあったと今は思います。

 

ワンウィーク・ワンショーを可能にした時代の熱気

 田中さんと小池さんは、1976年に発足し、後にアクシスビルにスペースを構えた東京デザイナーズ・スペース(TDS)の発起人です。田中さんの求めに応じて発起人になられたということですが、1995年に解散するまで、ジャンルを超えたクリエイター250名が集い、「ワンウィーク・ワンショー」として毎週企画展を行っていました。あのような場も、助走を生む仕掛けで、あの時代にはそれを可能にする時間もあったと思います。

 

小池 TDSのアーカイブこそ、どうなっているのか、気になります。ぜひ調べていただきたいです。とても貴重なことをしたのですから。田中さんが中心となって人の輪ができ、いろいろなジャンルの人間が集まれる場をつくろうというのが一番のテーマでした。デザインの領域では、インダストリアル、インテリア、グラフィック、ファッション、建築、そこにコピーライターの日暮真三さんも入っていらっしゃいます。70年代後半までに蓄えられた新しい若者の動きのひとつといえるかもしれません。会員が毎月会費を払って、そこからスペースの家賃などを賄っていたのですが、みんなでつくっていた、まさにアーティスト・イニシアティブのスペースで、日本のクリエイティブの歴史のなかでも珍しいと思います。
毎週、会員誰かの個展が行われるわけですが、それはまさに表現者としてのコンペティションでした。必ず初日に飲食を含むパーティーがあって、何を飲み、何を食べるかということもテーマになるぐらい。みな凝り性だから、大変でした。それをやり続けていたのは時代の奇跡であり、コロナの時代では考えられません。

 

 好景気に沸き、デザインへの需要が倍々で膨らみ、世の中に浸透し成長していく時代でした。みなさん、忙しかったと思いますが、ああいうものをやりきるエネルギーはどうやってつくっていたのか、今にして思うと不思議でなりません。余裕があったのでしょうか。

 

小池 余裕がなかったのに、ひねり出していたんです。ある種の熱気につかれたような時代だったのだと思います。やはり日本経済の上昇気流という動きがあってこそで、やがて会費がなかなか払えないという意見が会員から聞こえるようになり、時代・環境が変わるのだと思い、私たちは引いたんです。経済的な環境は大きいと思います。

 

 田中一光さんは、グラフィック界の頂点に立っていらっしゃいましたが、グラフィック界だけでなくデザイン界全体をもり立てたいという強い意志もおもちだったのでしょうか。

 

小池 田中さんは演劇も音楽も好きで、若い頃はバレエ・リュスやオペラの世界を目指していたし、ドラマチックな演劇的な表現で一体にしてつくりあげる時代の文化を目標としていたと思います。みんなが集まって交流できる場をつくることに長らく携わり、TDSだけでなく、ギンザ・グラフィック・ギャラリー(GGG)や、TOTOのギャラリー・間の創設にも力を注いでいます。

 

 小池さんは早稲田大学で演劇を専攻され、自由舞台のご出身です。田中さんは舞台美術のポスターを手掛け、舞踏の土方巽と親しかったこともあり、演劇という共通点があることで初対面から親しみが沸いたというお話を著作で拝見しました。磯崎新さんがアンダーグラウンドな文化や反戦フォークが華開いた新宿に入り浸っていたというのはつとに知られていますが、唐十郎の紅テントは花園神社にあり、そのほか寺山修司の天井桟敷や鈴木忠志の早稲田小劇場、佐藤信の黒テントでアングラ四天王と呼ばれていました。都市の中のスペクタクルがグラフィックなどとも結び付いて体感できる、ワクワクドキドキするような時代をみなさんで共有されていたように感じます。

 

小池 当時を振り返って私が誇りに思うのは、レトロスペクティブな歴史の勉強や再演ではなく、自分たちの文化をつくるという態度があったことです。創作劇をするということで学生演劇はあったのですが、私はそれがあったから現代美術という立脚点に立ったのだと思っています。美術史上の名作は置いておき、今、われわれのなかから生まれ出てくる創作というものが大事なのだと。今、表現したいことを一番中心に置いていた時代です。それが表現できる環境をつくることに力を入れたわけです。新しいものを創作する意欲とその情熱があったからこそ小劇場がおもしろかったし、それが時代の勢いにもなっていました。そこが私の原点だと思います。

 

日本初のオルタナティブスペースとして

 1983年に江東区の食糧ビルディングにオルテナティブ・スペースとして佐賀町エキジビット・スペースを創設されます。オルタナティブとは、主流から外れたという意味がありますが、これは田中さんらが活動されてきたGGGなど、デザインにおける場の存在にも触発されたりしたのでしょうか。

 

小池 国内におけるデザインの発表の場よりも、海外の動向の影響を受けました。ニューヨークやロンドン、パリの街の中で起きていることに目を開かされたのです。それらの都市ではいわゆる商業画廊ではない方法で、アーティストと共創、併走できる場があった。日本でもそういうことができるのではないかと気付いたのが佐賀町のきっかけです。現在は小柳ギャラリーを営む小柳敦子さんと美術研究家の竹下都さんの3名で立ち上げました。1992年に発行した『空間のアウラ』(白水社)にも記しているのですが、人間がつくりあげた役所を代表とした機構や組織はやがて形骸化して、保守的になります。日本には、当時、経験の浅い、エマージング・アーティストに対する機会がまるでなかったのです。エスタブリッシュ・アーティストのためのギャラリーはあるけれど、エマージング・アーティストに対しては貸料を取るぐらいのことをしていました。その現状が、佐賀町創設の理由です。

 

 美術館でも商業的なものでもない「もうひとつの場」というオルタナティブなのですね。2000年12月の閉廊まで106回の企画を行い、400人のクリエイターが発表されました。エマージング・アーティストということで、まだ評価の定まらない若手を発掘し、場を与えていらっしゃいましたが、その人選の基準はどこにあったのでしょうか。

 

小池 国内でのファーストショーというのをキーワードにしていました。私たちが提供する空間を使う限り、初めてしっかりとした個展をやってくれるアーティストを探す。森村泰昌さんも、大竹伸朗さんも、内藤礼さんも、みんなそうです。それが自然に私たちのポリシーになりました。

 

 TDSは会費制で、ギャラリー・間はTOTOという企業が資本を提供していますが、佐賀町は小池さんとキチンという小池さんの会社が資金を担うという、肝の据わった運営でした。

 

小池 ですからいつも風前の灯火でした。経済の勢いがある場合はプロジェクトで得た資金をつぎ込んでいました。そういうやり方でやると行き詰まってしまうので、ディーリング・ビジネスをしていれば存続できたかもしれないという思いも少なからずありますが、できるだけインディペンデントの自主運営を貫きたいと思っていたのです。

 

 それはなぜですか。小池さんが申し出れば、スポンサーを見つけることは可能だったと思います。その潔さに頭が下がります。

 

小池 潔いと見ていただくのはありがたいですが、私の方に遠慮があったという感じでしょうか。資本の関係をもつことで、失うものもあるでしょう。私に身についた考え方の違いなので、そのポリシーを通した結果ということですね。

 

 「現代衣服の源流」展以降、仕事領域を広告主体から展覧会の企画、キュレーションにシフトされていますね。

 

小池 あの展覧会を経て、ハワイ大学の研究機関に招かれ、キュレーションを専攻しました。キュレーターという仕事があることを知って選んだ段階で、広告の仕事から、西武美術館の仕事へと切り替えていったのです。その後、こちらが主体的に表現したいかたちがある場合は、初めからスポンサードをもつことはできないということを感じ、佐賀町を設立したのです。
佐賀町では、作家とはディーリングの契約はしません。発表された作品を売ることはしましたが、一般的な画廊が作家と50:50のディーリング契約を交わすところ、私たちはできれば30:70、せめて40:60にと、少しでもアーティストにベネフィットがいくように努めていました。

 

 2011年に3331 Arts Chiyodaに「佐賀町アーカイブ」を設立されています。どういうものでしょうか。

 

小池 基本的なアーカイブです。佐賀町エキジビット・スペースの活動のなかで、アーティストの作品を寄贈されたり購入したりもしてきたので、そうした作品と、われわれがつくっていた運動体として残っているものや記録など。そういうものを少しでも共有して人に知らせていくことを目的としています。

 

 作品とデータなどがあるのですね。将来的にもアーカイブとして保管されていくのですか。

 

小池 「佐賀町プロジェクト」という棚があり、そこにずらっと並べてあります。将来的にはどこかにお渡しするためのアーカイブであり、整理は途上です。展覧会の記録にはおもしろいものがたくさんありますが、3331にはそれを生かす機能はないので、どこかに納めようとしています。現代美術の貴重な資料としてまとめて、受け継いでもらいたいと思っているのです。

 

デザインカーカイブの重要性と課題

 先ほども話に出た2020年の群馬県立近代美術館「佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000」も拝見しました。当時の展示のように、時代の背景まで含めて一緒に感じられると、より立体的なアーカイブになりますね。小池さんの場合は、アートディレクターとの共作となるようなお仕事が多いですが、展覧会ではときにその作家から作品を借りて展示する、あるいは許可を得ることをしなければなりません。作品の権利問題は、アーカイブにおける難しい問題のひとつです。

 

小池 それはまさに壁にぶつかっているところです。実際にデジタル化が進む現在、アーカイブ事業は、ビジネスとしてありうると思いますし、国立の博物館などでも進んでいます。一方で、アーカイブとして著作権者の同意を得て管理している団体がある場合は、私が共作者であってもその作品を使う際には許可を得なければならなくなります。ひとつの作品には多くの人が関わっているものです。製作者であり共作者である人たちの権利というものも、これからのアーカイブの展開において考えてもらいたいところですし、私も闘っていきたいと思っているのです。もっと議論を尽くすべきだと考えます。

 

 アート作品は作家単体のものですが、デザインにはクライアントまで含め、いろいろな人や組織・企業が絡んできます。ひとつのデザインだけでも許可や申請するものが多くあり、それがデザインアーカイブを成立させる難しさの一因にもなっています。長く、デザインアーカイブの必要性が叫ばれているものの、日本にはデザインミュージアムをはじめとしたデザインのアーカイブ組織はまだありません。

 

小池 デザインアーカイブの重要性を最初に予知し、声をあげられたのが三宅一生さんで、三宅さんご自身は文化財団を設立して、多くの資金を投入して人材と場を整えアーカイブを残していらっしゃいます。アーカイブは、アイデンティティを残すという意志として始めたとおっしゃっています。だから重要なのです。そういうことを進める一方で、三宅さんは日本にデザインミュージアムをつくりたいと言われた。これは同じ意志のもとにあること。現状は、力のあるデザイナーたちが自身で自分のわかる範囲でアーカイブをもっておくということをしているわけですが、それを日本国に委託したり寄贈したりする気持ちにはなれない、という人も多いのではないでしょうか。三宅さんが思い描いていたようなしっかりしたデザインミュージアムがあったら、みな、喜んで寄贈すると思います。

 

 小池さんは、まちづくりのプロジェクトの拠点として2008年に開館した十和田市現代美術館の館長を2016年から20年まで務められました。設計は 西沢立衛さんで、街に開かれたように作品が展示されるユニークな美術館ですが、このような新しいコンセプトをもつ公立の美術館でアーカイブ活動を定着させていくということは可能だと思われますか。

 

小池 それはまず、難しいでしょう。日本の自治体は、県知事の右腕に文化担当がいるようなレアケースでもない限り、デザインに対するポリシーなんてとてもつくれないと思います。美術館にはパーマネントコレクションがありますが、あくまでもコレクションであり、アーカイブ的な発想はありません。現代美術が一過性なので、なおさらアーカイブという発想にはつながりにくい。
ただしファッションならば、島根県立石見美術館では国内有数の服飾コレクションを有していて、神戸ファッション美術館と並び、服飾の重要なアーカイブを形成しています。自治体でもそういう可能性はあると思います。勝井三雄さんが深く関わっていた宇都宮美術館でも、柱を「生活と美術」とし、プロダクトやグラフィックなどデザインの歴史的作品を多く収蔵していますね。専門学芸員の橋本優子さんにお話を聞いてみるのもいいかと思います。

 

 アーカイブには、ものが生まれるバックグラウンドも含まれます。それを美術館ではどう残されているのか、橋本さんにもぜひお伺いしたいと思います。とはいえ、美術館では膨大な資料や作品があり、その神髄を辿るような資料は捨てられがちです。そういったアーカイブを残すための最初の一歩は何だと思われますか。

 

小池 やはり、みんなで声を上げていき、役所を動かすことからなのではないでしょうか。この意味で、PLATの活動は大事です。基本的には、アーカイブに対する予算を国がつくるべきなのですが、それには文化庁が文科省の配下にあるのではなく、文化省として独立するぐらいじゃないと日本では難しいでしょう。1988年に、私は日仏文化サミットに参加したことがあるのですが、フランスが国として明確な文化政策をもって巨大な予算を投じて文化振興に努めているのを知り、日本との差に愕然としたことがあります。その差は現代でも広がるばかりで、国のトップの文化に対する理解の差もとても大きいのです。

 

 日本ではデザインが経済活動のなかでとらえられてきたことも、文化施策からは取り残されてしまう原因のひとつに思います。最後に、アートとデザインの領域について伺います。総合ディレクターを務められた東京ビエンナーレ2020/2021は、街中にアートが散りばめられ、現実の世界でのアートを体感できました。生活という視点ではデザインに近いものを感じますが、小池さんにとって、デザインとアートの領域はつながっているのでしょうか。

 

小池 それは、仕事を始めた1960年代からわからないままに走り始め、今も明解な答えはないのですが、明らかなのは、主体性がどこにあるか、です。アーティストのなかから生まれてくるものは、そこに反体制へのメッセージや強い毒をもつこともありますが、生まれた表現はアートなのです。一方、デザインは社会制度や経済、組織に馴染むものだと思います。ただしこれは特徴として思うことであり、もっと簡単な言葉で言うならば、それは見る人が決めること。デザインのすばらしい仕事を見てアートだと感じるものもあれば、アーティストの作品をデザイン的と感じることもあります。鑑賞者の感性が、ますます大事なのだと思っています。

 

 アーカイブをめぐる広範で深いお話を伺うことができました。ありがとうございました。

 

 

 

佐賀町エキジビット・スペースのアーカイブ

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