日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

麹谷 宏

グラフィックデザイナー

 

インタビュー:2019年9月27日 14:00〜16:30
場所:トライプラス
取材先:麹谷 宏
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜

PROFILE

プロフィール

麹谷 宏 こうじたに ひろし

グラフィックデザイナー
1937年 奈良県生まれ
1957〜1959年 早川良雄デザイン事務所勤務
1959〜1966年 銀座・松屋宣伝部勤務
1967〜1970年 フランス・パリのデルピーユ・ストゥディオ勤務
1972年 麹谷・入江デザイン室を設立、主宰
1993年 ケイプラスを設立、主宰

受賞:日本宣伝美術会奨励賞、日本サインデザイン賞金賞、通商産業大臣(現・経済産業大臣)賞、朝日広告賞、毎日デザイン賞、広告電通賞など。また、ボルドー、ブルゴーニュ、シャンパーニュのワイン騎士団「シュヴァリエ」の称号、日本ソムリエ協会「名誉ソムリエ」、フランス政府「農事功労シュヴァリエ勲章」受勲。茶道文化振興賞受賞。

麹谷 宏

Description

概要

麹谷宏は、50年代から70年代にかけて日本のデザイン界が激動する様を間近で見て、体感した一人だ。50年代までグラフィックデザインは関西勢がけん引していたが、1960年の世界デザイン会議を機に、その本流は関西から東京へと移行する。1964年の東京オリンピックや1970年の日本万国博覧会(大阪万博)の開催を経て、日本のグラフィックデザインは、海外との交流によってさらに大きく花開いていく。
そのなかで麹谷は、早川良雄や田中一光、向秀男といった巨匠たちのもとで学び、東京の松屋銀座やパリのデザイン事務所で腕を磨いた。独立後は、新しい時代を拓く多彩なデザインを展開した。田中一光との親交から、堤清二、小池一子ら「無印良品」の創始メンバーとして参画し、新しいライフスタイルを提案する商品コンセプトを考え、ロゴのデザインやエシカルでシンプルなパッケージデザインを開発した。
一方、パリ在住中にワインのおいしさに目覚めて、ボジョレー・ヌーヴォーを日本に広め、NPO「日本ワインを愛する会」を設立するなど、ワインの世界でも活躍。幅広く活動する麹谷に、当時のデザイン界の貴重な話をはじめ、「無印良品」の誕生秘話や田中一光とのエピソード、自身のアーカイブについて話を伺った。

Masterpiece

代表作

ポスター

良品計画(1980〜)
劇団四季(1984〜)

 

パッケージ

「農協牛乳」全国農業協同組合連合会(1972)
「鮭水煮」良品計画(1980)
「こうしん われ椎茸」良品計画(1980)

 

写真集

『キャッツ』劇団四季(1984)

麹谷 宏作品

Interview

インタビュー

アーカイブを遺すことは、大事なこと

田中一光との出会い

 麹谷さんがそもそもデザインを志されたきっかけは何だったのですか。

 

麹谷 もともとデザイナーを目指していたわけではなく、実家が今も近鉄奈良駅前商店街にある「小路谷(こうじたに)写真館」を営んでいたので、長男だから後を継ぐのだろうなとぼんやりと考えていました。
私は戦前の1937年に奈良に生まれました。地元の中学校に入学したのは、戦後の1950年。理系の勉強が体に合わず、高校は進学校に入学したのですが、入ってみると、同級生たちは奈良県中から集まってきた天才、秀才ばかりで愕然としました。学校生活で唯一、楽しかったのは文化祭で、催し物の企画を考えたり、人を集めて演劇の舞台や音楽会を開いて指揮をとったりするのは得意でした。
普段は先生に叱られてばかり。高校1年の途中でどうにもだめだと思い、父に「学校に行きたくない」と相談すると、「そんなに行きたくないなら、行かなくてもいい」と。父も将来は写真館を継がせればいいと考えていたのだと思います。大阪にある大阪市立工芸高等学校という美術学校を教えてくれました。まだデザインという言葉がない時代で、私が選んだのは図案科です。奈良の進学校では何をやっても叱られましたが、大阪のこの美術学校では人と違うことをすると褒められ、世界が一変しました。私がデザインに目覚めたときです。そんな楽しい日々を送っているなか、奈良に「田中一光」という天才がいると、同級生の数人から聞き、なんだか誇らしい気持ちになりました。

 

 その美術学校に通われているうちに、デザインの道に進みたいと思うようになったのですか。

 

麹谷 いえ、それでもまだ学校を卒業したら、家業を継ごうと考えていました。ところが、あるとき図案科の先生から「早川良雄先生の事務所でアシスタントを募集しているからいってみないか」という話をいただきました。グラフィックデザイン界で早川先生は神様のような存在であり、私の母校である大阪市立工芸高等学校の先輩でもあるのです。父に相談すると、「そんないい話ないから、会うだけ会ってみたらいいじゃないか」と言われ、試験を受けて無事に合格し、早川先生の事務所で働くことになりました。
入所して3カ月ほど経ったときのことでした。地味な紺色の背広で、風呂敷包を抱えた保険の外交員のような人が事務所に訪ねて来て「早川さん、おられますか?」と言うので、「今、ちょっと出ています」と答えると、「わかりました」と言って、その人は帰られました。「さっき保険の外交員が来ました」と先輩に言うと、驚いて「ばかね、知らないの? あの人、田中一光さんよ」と言うではありませんか。
早川先生が事務所に戻ると、先輩は早速、私が一光さんを保険の外交員と間違えたことを話し、みなで大笑い。早川先生もすぐに一光さんに電話をかけて、そのことを話してしまいました。ああ、この失敗で一光さんににらまれたりしたら、もう僕のデザインライフはなくなったも同然だと思いました。がっくり肩を落としていたら、その夕方、一光さんがまた事務所に来て「この子ですか?」と、私の顔を見て大笑い。一光さんはなぜか私のことをおもしろがってくれて、「奈良まで一緒に帰ろう」と言って、帰り道のお店で飲むことに。私はものすごく緊張して、そのときに何を話したのか覚えていません。それから一光さんには、いろいろとよくしていただきました。7つ上なので、師でもあり、兄のような存在でもありました。

 

 一光さんと麹谷さんは奈良、早川さんは大阪と、グラフィックデザイナーは関西出身の方が多いですよね。

 

麹谷 日本のグラフィックデザイン界は、50年代は大阪、京都、神戸など、関西勢がリードしていました。沢村徹さん、早川良雄さん、山城隆一さんのほか、片山利弘さん、木村恒久さん、田中一光さん、永井一正さんは若手四天王と呼ばれていました。1960年に東京で開催された世界デザイン会議は、日本のデザイン界のエポックとなる大きな出来事でした。それを契機に関西のデザイナーが東京に拠点を移し、デザインの中心が関西から東京に移ったのです。一光さんは1958年に、私も後を追うように1959年に東京に出てきました。

 

東京・パリでのデザイン活動

 

 独立されたのは、東京に来られてからですか。

 

麹谷 いえ、私は最初に松屋銀座に入社しました。早川先生は、私が東京に行くならばと亀倉雄策先生をご紹介してくださって、亀倉先生が向秀男先生のおられた松屋銀座を紹介してくださったのです。向先生はグラフィック、写真、コピー、映像などを統括してディレクションする、アートディレクターという仕事を日本で初めて構築された第一人者です。サッポロビールの宣伝部在籍中から、アートディレクションの仕事をされていました。その仕事が次第に東京アートディレクターズクラブ(ADC)で評価されるようになり、向先生はライトパブリシティに引き抜かれて、本格的なアートディレクションというジャンルを確立されました。

 

 当時、百貨店はデザイナーにとって憧れの職業だったそうですね。

 

麹谷 松屋銀座は戦後、接収されて進駐軍のためのデパートになり、返還された後も西洋的な雰囲気が残って、海外のモダンで洒落たデザイン製品を多数扱っていました。私が入社した頃は、グッドデザインコーナーが創設され、北欧の家具を販売して評判になりました。高島屋はウィンドウディスプレイのセンスが抜群で、新聞広告やポスターのデザインは、山城先生がディレクションしておられました。
当時の新聞には全面広告などなく、松屋銀座では月に1、2度くらい10段広告を制作する機会があって、そのときは夜も眠れないほど興奮しました。当時の新聞広告はデザイン文化を社会に発表する数少ない場であり、次第に朝日広告賞、広告電通賞、毎日デザイン賞などを受賞するようになり、賞の種類も増えていきました。ほかにも電車の中吊りや駅貼りのポスター、DMなど、いろいろなものを制作しました。デザインを必要とする仕事はとにかくたくさんあって、アパートには着替えに帰るだけというデザイン漬けの生活で、夢中でデザインを楽しんでいました。

 

 その後、パリを目指した理由は何ですか。

 

麹谷 6年目を迎えた頃、そろそろ世界のデザインを見たいと思い、アメリカのコロラド州で開催されるアスペン国際デザイン会議に出席しました。日本に戻ってからも松屋銀座には戻らず、しばらく一光さんのところに居候させてもらっていましたが、なかなか私が仕事につかずブラブラしていたので、一光さんが見かねてパリのデザイン事務所を紹介してくれました。その後、知人がデルピーユ事務所を紹介してくれて、シトロエンやプリズニック、BNP銀行など、大手企業の仕事をたくさんしました。パリには4年ほどいました。

 

 パリで仕事をされていて学んだことはありますか。

 

麹谷 学びというか、強烈なカルチャーショックを受けました。ヨーロッパは、異人種、異言語、異文化の混在する巨大な坩堝(るつぼ)。その土壌が醸す空気感がとてもおもしろかったのですが、そのなかで自分を主張しなければならないグラフィックデザイン、コミュニケーションデザインの仕事は、大汗、冷汗の毎日でした。この頃は、パリ大学の学生デモからフランス全土にゼネストが広がり、5月革命といわれたドゴールの大勝と退陣、そして、超音速旅客機コンコルドやアポロ11号の月面着陸など、世界文化の激動期でしたから、ヨーロッパの中心地パリにいて、いかにインターナショナルな感性や感覚が大事かということを学ばされましたね。

 

 帰国されたのは、いつ頃ですか。

 

麹谷 大阪万博(日本万国博覧会)が開催される1970年に一時帰国したのです。一光さんから大阪万博の公式ガイドブックの制作を手伝ってほしいと言われ、日本に戻ることにしました。帰国して、驚きました。世界のデザイン情報がニューヨークでもパリでもロンドンでもミラノでもなく、東京に集まっていて、今後もグラフィックデザインの仕事を続けていくなら、これはもう東京にいるべきだと思いました。それでまたすぐにパリに戻り、デルピーユ事務所を退社し、パリ生活の後始末をして東京に帰ってきたのです。
最初はまた一光さんのところに居候していましたが、しばらくして渋谷の南平台のアパートに部屋を借りてフリーランスで仕事を始めました。そのときに手伝いに来てくれたのが、入江健介くんでした。松屋銀座の後輩で、当時から仲良くしていました。一光さんから「そろそろちゃんとした会社にしたほうがいい」と言われ、入江くんが松屋銀座を辞めて私と一緒に仕事をしたいというので、麹谷・入江デザイン事務所という社名で会社を設立しました。それが1972年のことです。

 

「農協牛乳」、「無印良品」、劇団四季の仕事

 

 独立後のお仕事で、広く知られているのは「農協牛乳」のパッケージデザインですね。

 

麹谷 帰国してまもなく、農協(全国農業協同組合連合会)が新たに牛乳市場に参入することになり、パッケージデザインの仕事を頼まれました。そこですべての日本のメーカーの牛乳をあらためて飲んで、フランスの牛乳と比べてなぜこんなにおいしくないんだろうと不思議に思いました。調べてみると、牛は夏に痩せて脂肪分が低くなり、冬は太って乳脂肪分が高くなるのですが、日本では夏の低い脂肪分の数値を法定して、年間同じになるように調整しているということが原因でした。
そのやり方はおかしい、自然なままの本来のおいしさを届けるべきではないかと提案し、乳脂肪分無調整の牛乳をつくることになりました。パッケージデザインは、他社のパッケージがとても華やかなものだったので、それを超える派手できらびやかなフランス風のデザインをしてほしいと言われました。けれども、私は土や牧草の香りがするような自然をイメージさせる方がいいとシンプルなデザインを主張しました。先方も大変だったと思いますが、私も胃が痛い日々でした。
そして、商品名も直球で、「農協牛乳」というファンキーさを強調したものに。また、当時はパッケージに商品名以外のメッセージを記載することなどなかったのですが、「自然がおいしい」「成分無調整」という2つの言葉を入れました。この商品は1972年に発売され、半世紀以上も続くロングセラーとなりました。今から思えば、商品コンセプトの確立、無駄の省略、情報を整理してグラフィック化するという点で、のちの無印良品につながる精神が根ざしていた仕事だったと思います。

 

 無印良品の企画は、田中一光さん、小池一子さん、麹谷さんが中心になって生まれたそうですが、最初のきっかけは何だったのですか。

 

麹谷 あるとき、一光さんと私に雑誌の企画の話が持ち上がり、小池さんもそれに加わり、スポンサーは当時、堤清二さんが社長を務めていた西友だったと思います。その話は結局、なくなってしまったのですが、編集のテーマや記事のアイデアをたくさんもっていたので、しょっちゅう4人で会っていました。当時70年代後半から80年代初めにかけて海外ブランドのライセンスビジネスが盛んで、何にでもブランドロゴマークがつけられるようになり、ロゴがあることによって付加価値がつき、質がいいわけでもないのに価格が高くなるという時代でした。そのバブリーな時代の不満や批判の話から次第に無印、ノーブランドの思想が生まれ、素材をシンプルにして製造や包装の無駄を省いたり見直したりするなど基本に立ち返り、理由があるからこのノーブランド商品がいいんだというコンセプトが生まれました。
そして、そういう観点からこれまで疑問に感じていた物の背景を調べていくと、あきれるようなことがたくさん出てきました。たとえば、堤さんはお歳暮やお中元のしいたけが同じ大きさで美しく揃えて詰められていることに疑問を感じていたそうです。調べてみると、綺麗なものだけ選り分けて詰めて、欠けたり割れたりしたものは廃棄してしまうのだそうです。しいたけは刻んで料理に使ったりするので形が整っている必要性はないですし、形が崩れていても味は変わりません。そういう見た目が揃っていることがいいとされた時代の価値観を、その後も疑問とも思わずに生産続けている商品が続々と出てきたのです。

 

 最初の頃、不揃いのしいたけを販売していたのを覚えています。無印良品のプロジェクトは製品のデザインだけでなく、思想からすべてに関わっていたのですね。

 

麹谷 その点こそが最も大切なポイントでした。無印なのに良品であることは、「農協牛乳」が自然はおいしいと主張したことと同じスタンスでした。デザイン以前のデザインですね。そうなってくると、これはもう単にデザイナーの仕事ではないですよね。なんでしょう。偶然の巡り合わせから企画を立ち上げることにつながり、本格的に商品づくりが始まりました。その席に偶然、実業家である堤さんがいたので実現できたことで、われわれデザイナーだけでは、ただの時代の愚痴で終わっていたと思います。

 

 無印良品というネーミングは、どのように決まったのですか。

 

麹谷 「無印」はすぐに決まり、そのあとに続く言葉に「良品」が挙がったのですが、それでは重箱読みになってしまうということで、なかなか決まりませんでした。でも、結局、語呂がよく、コンセプトがひと目でわかりやすいからいいということで決まりました。そのロゴのデザインについては、もともとこの商品はアンチブランドロゴの哲学と精神をもった成り立ちからロゴは無用と考えていたのですが、最初に商品を発表するポスターをデザインするときに、やはり無印良品という商品告知のためのロゴは必要だと思い、それならば最もニュートラルな新聞活字がいいと考えゴシック文字を、と一光さんに話したら「それはいいね」と賛同してもらって決まりました。最初はその新聞の活字をそのまま使っていましたが、その後、一光さんが整理しようと言って、直線の部分は直線に、斜め下に向いている部分も直線に直しました。ですので、ロゴデザインのクレジットは、アートディレクターの一光さんの名前になっていると思います。
それから、「農協牛乳」のときと同じように、なぜその商品が良品なのかという理由をパッケージに記載することを提案しました。ほかにも、内容物はできるだけ外側から見えるようにする、過剰なデザインはしない、余計な包装はしないと決めて、今につながるパッケージデザインの原型をつくりました。

 

 ロゴのデザイン料などは、どのようになっていたのですか。ほかの方に伺っても、契約書を見たことがないということでした。

 

麹谷 デザイン料はもらっていません。雑談をしているなかから、こうしよう、ああしようと企画が生まれてくるので、発注者は誰もいないんですよ。ロゴもこういうものがあったらいいんじゃないかと、私が勝手に考えてつくったものです。10年ぐらい経ってからボードというのが形成されて、最初のメンバーが顧問になりました。無印良品の仕事は、10年ほど前に私がリタイアしたときに辞めました。

 

 麹谷さんのもうひとつの代表作である、劇団四季のポスターについてもお聞きしたいと思います。お仕事をするきっかけは何だったのですか。

 

麹谷 『キャッツ』が1983年に日本で初演されて大成功を収め、翌年の一周年記念に写真集を製作することになり、そのアートディレクションを任されました。高いところから舞台を見下ろしたり、まったく人が出ていない舞台装置だけを撮影したり、いろいろ工夫を凝らしました。できあがりはとても評判が良く、劇団四季の創設者の浅利慶太先生にも気に入っていただき、それから広告やポスターの仕事をいただくようになりました。ただ、デザイン案を10出しても、20出しても、なかなかOKが出ないこともありました。『ライオンキング』では、ディズニー側の決まりが細かくあって、とにかく厳しく大変でした。

 

向秀男のアーカイブに尽力

 

 デザインアーカイブについてお聞きしたいと思います。大学や美術館などに寄贈して後世に遺したいというグラフィックデザイナーも多いのですが、麹谷さんはいかがですか。

 

麹谷 デザインの仕事を初めた頃は、手がけた作品をしばらくとっておいたこともありますが、後で何かしようという思いはありませんでした。その時代に広く紹介されたものは、デザイン年鑑などに掲載されるので、それで十分と思っています。というのも、長い間、広告を手がけてきて賞などもいただき、自分でもよくできたと思うものもありますが、時代はどんどん過ぎていきますよね。振り返って見てみると、やはり古い出来事、古い思い出、古い時代という感じがしてしまうのです。自分の作品についてですが、それを遺してどういう意味があるのかと思うのです。それにとっておいたところで、それらの物をどこで見せるのか。展覧会を開く場合は、私は過去のものではなく、新しいものを見せたいと思います。

 

 劇団四季の仕事では、10も20も案を出したということでしたが、ボツ案も廃棄してしまったのですか。

 

麹谷 今から思えば、とっておいたらおもしろかったかもしれませんね。一光さんや和田誠さんなどは、きちんととっておくタイプでした。しかも、あのときのあれというと、パッと出てくる。私は自分自身について、過ぎたことにはまったく興味がありません。もちろん、デザイン界のアーカイブを遺すことは大事なことだと思います。学生運動によって1970年に日本宣伝美術会が解散し、その後、やはり職能団体が必要だということで、亀倉雄策先生を中心に、私も含めて坂根進さんや何人かと一緒に1978年に日本グラフィックデザイナー協会を設立しました。「JAGDA」というのは、私が提案して決まった名前です。そのときに、アーカイブを遺すべきだと提案をしたのですが、やはりうまくいかなかったですね。

 

 麹谷さんご自身のアーカイブは、今後、どのようにされるのですか。

 

麹谷 私のアーカイブなんて、まったく意味もなく必要もありませんよ。そういうことをしたほうがいい方はもっと他にいると思います。特に不思議に思ったのは、日本のアートディレクターの第一人者である向先生の作品の受け入れ先がどこにもなかったことです。日本の広告デザインにアートディレクションの世界を確立された向先生こそ、アーカイブの保存をしなければいけない人だと思い、私が美術館や大学に片っ端から掛け合ったんです。アーカイブの大半は、ご遺族とライトパブリシティが持っていましたが、このままでは新聞広告などは紙が傷んでしまい、作品が散逸してしまう危険を感じました。けれども、みな難色を示しました。
あるとき、粟津潔さんが新しくできた川崎市市民ミュージアムを紹介してくれました。館長に会って話を聞いて、初めてこういうアーカイブの管理維持には、膨大な費用がかかることを知りました。新聞広告一枚の保存にも、大変なお金がかかるそうですね。けれども、向先生は特別な方だとおっしゃって、アーカイブを受け入れてくださることになりました。それは作品だけで、本当は蔵書まで引き取っていただきたかったのですけれど。今後、そのアーカイブをもとに展覧会や研究会が開催されることを願っています。

 

 向さんのアーカイブは、麹谷さんがまとめて受け入れ先に奔走されたのですね。デザイナーがデザイナーのアーカイブの受け入れ先に尽力したという例は初めて聞きました。

 

麹谷 私の恩人であり、師匠ですからね。向先生の仕事は、時代の重要な広告文化遺産ですよ。

 

 麹谷さんは、デザインと同じように、ガラス作品づくりやワインやお茶など、すべて創造活動の一環として精力的に取り組まれているそうですね。

 

麹谷 1995年からワインボトルの廃品をアップサイクルしたガラス作品づくりを始めています。沖縄サミットでは元首晩餐会のためのガラスのデキャンタを制作しました。1998年には男茶集団「六志会」を設立・主宰して、茶の湯に新しい楽しさを提案する活動も行っています。2009年にグラフィックデザインの仕事を引退しましたけれど、ガラス作品は今もつくり続けていて、個展も開催しています。
ガラスの作品は、一言で言えば、ワインに対する愛です。私はワインのおいしさに初めてパリで出合いました。ワインボトルは飲み終わったら捨てられてしまうのが可愛そうだなと思って、廃品を使って新しい作品に生まれ変わらせることを考えました。みなさんにおもしろいと言っていただき、それで十分。ガラスの作品もまた、アーカイブとして後世に遺すことなど考えていません。
とにかく私は毎日、何か違うこと、おもしろいことがないかと、好き勝手に遊んでいます。肩書きは便宜上、まだグラフィックデザイナーを名告(なの)っていますが、今はもう単なる遊び人というか、ストレスフリーでとても幸せな毎日を送っています。

 

 今後の新作も楽しみにしています。本日はありがとうございました。

 

 

 

麹谷宏さんのアーカイブの所在

問い合わせ先
http://www.kojitani.jp