日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
河野鷹思
グラフィックデザイナー
インタビュー01:2022年5月12日 13:30~15:30
インタビュー02:2022年6月24日 13:30~14:30
インタビュー03:2022年7月7日 14:00~15:00
PROFILE
プロフィール
河野鷹思 こうの たかし
グラフィックデザイナー
1906年 東京・神田生まれ
1929年 東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科卒業
同年、松竹キネマ(現・松竹)入社、宣伝部に配属
1934年 日本工房(第二期)に参加
1936年 アトリエ・コヲノ設立
1941年~太平洋戦争に従軍、終戦後抑留を経て46年に帰国
1948年 新東宝映画撮影所の契約美術監督として勤務
1959年 デスカ設立
1964年 第18回オリンピック東京大会デザイン委員
1970年 日本万国博覧会日本政府館、展示設計
1976年 勲四等旭日章受賞
1992年 勲三等瑞宝章受賞
1999年 逝去
その他
日本宣伝美術会(日宣美)創設に参加(1951)。
ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ国際審査委員長(1968)。
日本人初英国王室芸術協会会員(1983)。
武蔵野美術大学、女子美術大学、東京藝術大学、愛知県立芸術大学で教鞭を執り、1983―89は愛知県立芸術大学学長を務める。
Description
概要
河野鷹思は日本のグラフィックデザインの黎明期を代表するデザイナーである。アールデコを日本風にアレンジして資生堂デザインの基礎をつくった山名文夫、タイポグラフィとブックデザインに足跡を残した理論派の原 弘、そして西洋のモダニズムと江戸っ子の洒脱をかけ合わせて独自の世界を確立した河野鷹思。戦前の日本では、個性あふれる面々がグラフィックデザインという土壌を耕していた。
河野のデザイナーの一歩は築地小劇場での舞台装置の制作を経て、松竹キネマ(現松竹)の宣伝美術スタッフから始まる。そこでは映画や演劇のポスターのみならず舞台美術や大道具の制作も担当し、三次元世界のデザインにも才能を発揮していた。その後、写真家の名取洋之助を中心に設立された日本工房に参加し、戦中の対外宣伝雑誌『NIPPON』のエディトリアルデザインを通して、写真とグラフィックの融合に挑戦している。1941年に徴用されインドネシア・ジャワ島で終戦を迎え、1年近い捕虜生活後46年に帰国しデザイナーとして復帰を果たす。その後は総合デザイン事務所デスカを設立し、切手から緞帳の図柄までの多様なグラフィックデザイン、ホテルのインテリア、百貨店や展覧会のディスプレイ、公共建築の構想まで、幅広い分野で活躍。またデザイン界の重鎮として東京オリンピック、大阪万国博覧会のデザイン委員として中心的役割を果たし、一方で日本宣伝美術会の創設、世界デザイン会議実行委員などデザイン界の向上にも努めた。
今、河野の仕事を俯瞰すると、シンプルなデザインに込められた洞察とメッセージを読み取ることができる。表現に関しては磯崎新との対談で「(自分流とは)きわめて簡素な、省略法による、いわゆる図案風なもの」と自ら語っている。代表作のポスター「SEHLTERED WEAKLINGS-JAPAN」は独特の風刺が効いていて、70年たった今でも新鮮である。
今回は、没後23年の今、河野鷹思の実娘の菫さん、そのアーカイブの整備にあたる孫の究一郎さん、デスカの元スタッフである椎名輝世さん、金子兼治さんから、河野鷹思のアーカイブとその人物像を伺った。
Masterpiece
代表作
雑誌広告、映画「淑女と髯」松竹キネマ1931
雑誌広告、映画「若き日の感激」松竹キネマ 1932
対外宣伝雑誌『NIPPON』表紙 日本工房 1940
風刺雑誌『VAN』表紙 イヴニングスター社 1946
ポスター「SEHLTERED WEAKLINGS—JAPAN」自主制作 1953/1983(再制作)
ポスター「淡交」淡交社 1955
ポスター「JAPAN」自主制作 1955
イラストレーション「さかな」自主制作カレンダー 1963
東京オリンピック公式ブック『LES JEUX OLYMPIQUES DE TOKYO』
第18回オリンピック東京大会組織委員会 1964
公式ポスター第一号 「XI OLIMPIC WINTER GAMES SAPPORO ’72」
第11回冬季オリンピック札幌大会組織委員会 1967
シンボルマーク「グッドデザインコーナー」銀座松屋 1960
シンボルマーク 第一勧業銀行 1971
イラストレーション「さかな」自主制作カレンダー 1963
著書
『河野鷹思のデザイン』1956年
『マイデザイン・河野鷹思』六耀社 1983年
『河野鷹思映画ポスター輯』青騎書房 1933年
Interview 1
インタビュー01:河野 菫さん 河野究一郎さん
インタビュー01:2022年5月12日 13:30~15:30
場所:デスカ
取材先:河野 菫さん 河野究一郎さん
インタビュアー:久保田啓子 関 康子
ライティング:関 康子
仕事机は常に整頓され、なんでも真っ直ぐでないと気がすまないという潔癖さがあった。
河野作品と資料の現状
― 河野鷹思さんが亡くなって20年余り。その作品や資料はご家族が保管されているそうですね。
究一郎 大部分はここ、デスカ社内にあります。専門家に助言をいただき、作品や資料の1点1点に番号を振って、専用の調査用紙に手書きで情報を記入、その後PCでデジタルデータ化を進めています。作品はポスター、書籍、写真などざっくり分類して保管しています。
― 何がきっかけで作業を始めたのですか?
究一郎 祖父母の他界後、2000年にデザイナーの川畑直道さんが監修・執筆してくださった『青春図會 河野鷹思初期作品集』の出版を機に、さらに東日本大震災後に危機感を抱いたことです。私たちの作品と資料の保管状態がずさんだったことをあらためて認識させられ、適切な保管と整理について専門家の助言を仰ぐこととなりました。作業は1983年に六耀社から出版された『マイデザイン・河野鷹思』の制作時に河野自身と当時のスタッフがまとめていた作品資料のリストをもとに進めています。さらに複数の知人からご寄贈いただいたものを含め、必要に応じて収集も行いました。現時点で詳細がわからないものは保留にして、新情報があったときにはデータをその都度アップデートしています。
手書きの調査用紙。作品の写真が貼られ、作品名、制作年月日などのデータを記述。
これをPCに入力しデジタルデータ化を進めている。
― 『青春図會 河野鷹思初期作品集』は河野さんの戦前、戦中の足跡が克明に記述されていてとても充実した内容です。アーカイブとしても価値がありますね。
究一郎 家族が知らなかったこともまとめられていて、とても感謝しています。
― そういえば整理作業中に、ギャラリー5610で開催した仲條正義さんの初個展「スタジオ」(1973年)の挨拶状が見つかったと聞いて驚きました。仲條さんご自身ですら持っていなかったものを河野さんが保管されていたのですから。
究一郎 私たちも驚きました。資料を整理しているといろいろな発見があってワクワクします。
― 収蔵品にはポスターや書籍以外にどんなものがありますか? 下絵や直筆のスケッチはありますか?
究一郎 作品はポスターや書籍、雑誌広告などの印刷物がほとんどです。資料は河野が執筆した雑誌や新聞の記事のスクラップ、写真、フィルム、ごくわずかですが版下になる前の直筆原稿などで、スケッチや下絵らしきものはほとんどありません。本や雑誌の表紙のための直筆の油絵やイラストレーションもほとんど残っていません。昔は、原画を印刷所に渡してしまうと戻ってくることはなく、河野も気にしていなかったので多くが失われています。彼にとっては印刷物が作品であり、制作過程のスケッチやメモを残す気はなかったのでしょう。
― 亀倉雄策さんもそうだったようです。とは言っても、直筆の絵が残っていないのは惜しいですね。なぜなら当時は、図案や文字のデザインはすべて手作業だったと聞いています。
菫 わたしが短大を卒業してから父の事務所の手伝いを始めた頃、父が図案や文字をデザインして、スタッフの森下俊彦さんがその線に沿って彩色している光景を見ています。森下さんは何度も色出しをして、その都度父の了解を得ていました。
― スクラップブックには直筆の原稿やエスキースもありましたが、修正がほとんどなく、マスのない用紙にまっすぐきちんと文字が並んでいます。その筆跡からお人柄が偲ばれますね。またデザインだけでなく、ファッションや風俗に関するエッセイがたくさんありますね。
究一郎 今ではあまり知られていませんが、河野は服飾時評家という肩書でファッションについて新聞や雑誌に執筆したり、フォトグラファーの尾崎三吉さんと組んで文化出版局の『装苑』の仕事にも長く関わっていました。FMGというファッションモデル事務所ができた際は所長を頼まれて引き受けていました。
河野の学生時代には、考現学調査の手伝いや、築地小劇場での舞台装置からポスター、チラシ、チケット、衣装考証まで手がけています。生涯のグラフィックデザインを主な仕事としながらもパッケージ、ディスプレイ、装幀、舞台美術、コスチューム、モニュメントまで、常にトータルに考えていました。デザインに関する執筆も多く、例えば戦後にデザイン視察の名目でヨーロッパを巡ったときには日本の雑誌にインテリアや工芸デザインについても寄稿しています。このスクラップブックには当時の、文章、掲載記事などが横断的に貼られています。
スクラップブック。デザインのみならずファッションや風俗など
幅広い視野でまとめられた新聞や雑誌の記事もある。
― 現時点で資料の総数はどのくらいありますか?
究一郎 細かい物は未整理ですが、約3000点近くあります。ポスター、本などジャンルごとにざっくり分類していますが、制作年代を特定できないものも多くあります。
菫 以前も引っ越しのたびに整理しています。1972年にこの5610番館を建てる際にも相当量は整理していたはずです。
― ポスター作品は富山県美術館などがコレクションしていますが、河野作品はどうなっていますか?
菫 父は戦前から活動しており、映画や演劇の宣伝用ポスターが多かったので用が済めば捨てられていました。以前、福田繁雄さんがデスカのスタッフだったときに、事務所の壁に貼ってあった父のポスターをくださいと言ったら「いいよ」って、もらったそうです。
究一郎 それらは、福田さんが亡くなられた後に岩手県の二戸市「福田繁雄デザイン館」に収蔵されていることがわかりました。作品の収蔵先は他に、DNP文化振興財団、武蔵野美術大学、特種東海製紙Pam、国立映画アーカイブ、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、宇都宮美術館、愛知県立芸術大学、印刷博物館、国立国会図書館、神奈川近代文学館、川崎市民ミュージアム、東京国立近代美術館、秩父宮記念スポーツ博物館、EXPO’70パビリオン(旧・鉄鋼館)、卒業制作と在校時のものは東京藝術大学にあります。また、戦時中のインドネシアで日本軍の占領政策のためにつくられたプロパガンダポスターが、アムステルダムのオランダ国立戦時資料研究所(NIOD)にあることが最近わかってます。
― 第一勧業銀行のハートのロゴマークは有名ですが、河野さんは企業デザインもなさっていますね。それらの資料はどうなってますか?
究一郎 企業ごとに仕分けして箱に入れて保管しています。ただそれらは、河野個人ではなくデスカの仕事なので、個人の作品として残していいものかどうか迷っています。
― 河野鷹思さんが主宰する事務所の仕事なのだから、河野さんの仕事と言って差し支えないと思いますよ。ところで、作品や資料を保管し続けることは大変ですか?
究一郎 はい。究極的には専門機関で収蔵されることが理想ですが、収蔵されたとしても倉庫にお蔵入りではアーカイブとしてあまり意味がありませんよね。
― そうですね。実際収蔵はされても、アーカイブとして活かされている例は少ないかもしれません。
究一郎 とは言っても、私たちは残しておくことが大切だと考えています。スクラップブックを含めて、資料が保管されることによって、生前の活動全般を知ることができるのです。
ただ、古い資料にまつわることをご存知であろう方々が多く亡くなられてしまい、もっと早くにお聞きしておくべきだった、と残念なこともあります。
― 私たちも究一郎さんと同じ気持ちでこの活動をしています。
究一郎 保管状況は後で実際の収蔵庫を見ていただければと思います。
収蔵庫の一つ。書籍、雑誌、ポスター、
写真、原画、企業物などの内容ごとに仕分けされている。
作品は劣化を防ぐために特注の中性紙保存箱に収められ、それぞれインデックスされている。
原画の箱にはイラストのカラーコピーが張られ、一目瞭然である。
家族から見た河野さんについて
― まず、娘さんである菫さんからご覧になった父、河野鷹思さんはどんな人でしたか?
菫 私が父の仕事ぶりを初めて見たのは第二次世界大戦後、私が小学校3年生のときでした。父は徴用されてインドネシアのジャワ島で終戦を迎え、捕虜生活を送った後、終戦から1年ほどたって帰国してきました。一方、私たち家族は父の出征直後に伊豆の見高村(現河津町)という漁村にあった旅館に疎開していて、父はそこに戻ってきたのです。
父の最初の仕事は総合風刺雑誌『VAN』の表紙デザインでした。以前からの知り合いだった編集者の伊藤逸平さんからのお誘いだったと聞いています。当時は自宅の一室で仕事をしていて、私はその様子を見ながら父の仕事ぶりを知りました。デザインのための道具も乏しく、父は私たちの勉強机にどこからかで仕入れた画用紙を水張りして一生懸命に作業をしていたのです。
しばらくして父は仕事で東京に行く機会が増えてきて、通勤しやすい場所として、まず伊東に、それから2年後に国府津町(現・神奈川県小田原市国府津)へ引っ越しました。国府津の家は、写真家の名取洋之助さんの父君の別荘の敷地内あった別棟で、広いベランダがあり、洋式トイレが完備された西洋風の造りでしたが、炊事場がなくて母はずいぶん苦労していました。ジャワでオランダの建物で暮らしていた父らしい選択だったと思います。この時期になると仕事場は別にして、仕事と家庭を分けていました。
― お仕事も着実に増えていったのですね。『VAN』は、当時の文化人が多く参加した雑誌で、GHQの下で進められていた民主化の動きを世間のさまざまな事象から見てみようという風刺雑誌だったそうですね。そして、あの一世を風靡したVANジャケットのブランド名は、この雑誌名からつけられたと石津謙介さんの評伝にも書かれています。
究一郎 祖父は『VAN』以外にも、同じイヴニングスター社から出版された雑誌・本の装丁やイラストレーションをはじめ、『週刊朝日』や『サンデー毎日』などの表紙を手がけ、戦前からつながりのあった演劇や映画美術の仕事にも復帰したようです。例えば、このスクラップブックにある『週刊朝日』の表紙の原画は油絵ですが、当時東京と大阪に2つの印刷所があり、全く同じ絵を2枚描いてそれぞれに入稿したそうです。まだコピー機が存在していなかった時代とはいえ、こんなに複雑な絵を同時に2枚も仕上げていたなんて驚きです。
― 表紙にこれほどの手間暇かけていたなんて、贅沢な時代だったとも言えますね。
菫 子どものときに、父がこの(スクラップブックにある)絵を描いている姿を見ていたことを覚えていますが、絵の内容が毎日変わるのが驚きで楽しみでした。次にその絵を目にしたのが、表紙になっていた「週刊朝日」を書店で見つけたときで、とても誇らしい気持ちになりました。「これ、お父さんのデザインなの」と言って友だちに自慢したりしていました。
― グラフィックデザインは徹夜も当然というハードな仕事ですが、河野さんはどうでしたか?
菫 忙しかったと思います。若い時分は旅館に缶詰めになって仕上げていたそうです。でも時間のけじめはきちんとしていました。後年ここ青山に越してきてからは、夕方には仕事を終えておしゃれをして銀座に飲みに行っていました。けじめをつけるというのは銀座に遊びに行きたいためだったのかもしれませんね(笑)。
― 戦後の活気が伝わってくるエピソードですね。さて、河野さんは戦地から戻ってきて自宅の一室から仕事を復興されたようですが、いろいろな苦労はあったのですか?
菫 父はデザイン一筋の人でしたから、経理や雑用を担っていた母(夫人、静子さん)の苦労は大きかったと思います。戦後間もない頃は自宅兼仕事場だったので、子ども部屋がある日突然父の仕事場になったり、環境を整えることが大変だったことでしょう。
その後少しずつ仕事量も増えて仕事環境も整備されて、1959年に父と母で、事務所を組織化して総合デザイン事務所「デスカ」を設立しました。それには、当時父が仕事をしていた八幡製鉄所の知人がアドバイスをくれたようで、事務所のお披露目パーティは八幡製鉄所本社の並びにあったホテルのロビーで行いました。
とは言っても、事務所の仕事ぶりはいい意味でめちゃくちゃで、新聞や雑誌広告のデザインではモデルを雇うお金がないからと言って、姉や私がモデルとして駆り出されていました。私にとっては懐かしい楽しい思い出です。
究一郎 この時代、祖父は舞台美術やポスターといった演劇関係の仕事も手がけていますがデザイン料が少なかったので、代わりに舞台のチケットをいただくこともしょっちゅうだったようです。
菫 そのおかげで、俳優座や民芸の舞台をよく観ていたし、楽しかったですよ。
― けじめをつける方だったから、仕事を家に持ち込むこともなかったのですね?
菫 ありませんでした。家庭人としての父の記憶はほとんどありませんね。
― 葵(河野鷹思の長女、葵・フーバー・河野)さんは、現在も南スイスに在住し、デザイナー、イラストレーター、絵本作家として活躍されていますが、やはりお父様の影響があったのでしょうか?
菫 姉は小学校の頃から父と同じ東京藝大に行くと言っていたし、絵も上手でした。周りもそのように見ていました。仲條正義さんが一時期デスカで働いてくださっていましたが、姉のデッサンの家庭教師も務めてくださっていました。
― 葵さんはその後海外に行かれますが、帰国して父親と一緒に仕事をしようということはなかったのですか?
菫 父は姉を一人のデザイナーとして見ていたし、だからこそ父と姉ではデザインや表現に対する意見の相違があったと思います。一方母は姉に帰国してもらって、一緒にデスカを運営してほしいと考えていたようですが、姉にはそのつもりはなかったのです。
― 海外の良いおもちゃを紹介しているアトリエ・ニキティキでは、葵さんがデザインした名作遊具「動物パズル」を扱っていますね。
菫 姉は、ニキティキの創業者である西川敏子さんとは一緒にデッサンの勉強をしていたんですよ。
― 孫である究一郎さんにとってはどんなお祖父さんでしたか?
究一郎 おもしろい祖父という印象です。僕も絵を描くことが好きだったので、子どもの頃は、二人でよく絵を描いていましたが、祖父はとても手が早く、まさに「弘法筆を選ばず」で、古びた筆や、インクのかすれたマジックでも気にせず自在に使い、あっという間に、ユーモアのある、子ども心にも楽しい絵を描き上げてびっくりしたものです。他にはキャッチボールや相撲もしました。それから、ここ(5610番館にあった河野の自宅)で仲條正義さん、福田繁雄さん、片岡脩さん、木村浄司さん、杉浦範茂さん、鶴田剛司さん、舞台美術関係では真木小太郎さん、大庭三郎さんと奥様でバレリーナのかな子さんがよく来られて、祖父と一緒にお酒を飲んでいて、僕も同席させてもらったこともありました。僕がデスカに行くと、絵を描いたり本を見たりと自由にさせてくれました。
祖父が、油絵を描いている姿も見ていましたが、その筆遣いや刻々と変化する色使いがとても興味深かったです。仕事机は常に整頓され、なんでも真っ直ぐでないと気がすまないという潔癖さがありました。よそのお店でも、旅先のホテルでも、架けられている絵や額がちょっとでも傾いていようものなら、ちゃんと平行にするよう直させていたものです。
― 究一郎さんに事務所を継いでほしいと思っていたのでは?
究一郎 祖父は昔、日本画を勉強していたのだけれど、実家が関東大震災の被害にあって諦めたという経緯があったので、僕が高校から日本画を専攻したときにはとても喜んでくれました。日頃から「デザイナーは伝統工芸と違って世襲制ではない」と祖父は語っていたので、孫に継いでほしいというような気持ちはなかったと思います。
― 河野さんはご自分で絵を描き、画面を構成し、タイポグラフィもつくられる方でした。デスカには、仲條さんや福田さんなどアート思考のデザイナー、東京藝術大学出身の方が多かったのは、やはり河野先生の影響なのでしょうか。
究一郎 一時期、藝大で講師をやっていたこともあり、皆さんと知り合ったのだと思います。会社組織として発足するにあたり、そのお力をお借りして総合デザイン事務所としたのでしょう。デスカはDesigners Kono Associatesから来ているので、祖父が受ける幅広い仕事を専門的かつ分業制で進めたいと考えていたのかもしれません。
― デスカの最盛期というと、仲條さんや福田さんがいらした頃ですか?
究一郎 スタッフ数の多さでいうとそれより少し後の1964年の東京オリンピックの後で、20人近くはいたらしいです。カメラマンや運転手さんも含めてですが、社内に野球チームまであったそうですよ。
幅広い資質と先見性の持ち主
― 磯崎新さんの著書『建築の1930年代 系譜と脈略』を拝読しました。本書では、建築家が名を連ねるなかで、河野さんだけが建築以外の領域から「商業美術という視点からみた30年代の文化」というテーマで磯崎さんと対談されていますね。また先述のスクラップブックから、建築、デザイン、風俗、海外事情、ファッションなどあらゆる文化領域に対するエッセイを執筆されていることを知って、その博学ぶりに驚きました。
また河野さんは50年も前に青山の真ん中に豊かな植栽を配した5610番館を建てて、仕事場やご自宅に加えてギャラリーを運営されていた先見性には圧倒されます。河野さんのこのような幅広い資質について、ご家族はどう思いますか?
菫 5610番館に関しては、父は最初から大きな構想をもっていたと言うよりも幸運な出会いやチャンスが重なったのだと思います。
― ここは今や青山のオアシス的な存在です。1972年に建設されたそうですが、経済成長期にこんなに贅沢なビルをつくるのには、何か強い思いがあったのではないかと思います。
菫 これも偶然の出会いだったと聞いています。もともとこの辺りは空襲による焼け野原で空き地だらけでした。当時、現在のスパイラルビルのある場所に「いろは」という大きなすき焼き屋さんがあり、父は映画関係者との仕事の打ち上げでよく通っていました。あるとき父がその女将さんに「この辺に土地を探している」と相談したところ、「裏の土地が空いているから使ってください」と勧めてくれたそうです。そこで親しかった画家の橋本徹郎さんと土地を半分ずつ購入して、父が設計して平屋の建物を建てて1950年に一家で国府津から引っ越してきました。父は玄関横の大きな部屋を仕事場に使っていました。その後、1972年に土地をひとつにして今のビルを建てたのです。ビルの構想は父が考えて、設計と建設は竹中工務店にお願いしました。
― このビルは美しい庭があり、人々が自由に休めるテラスやギャラリーがある贅沢な空間です。河野さんには1972年当初から、パブリック空間やギャラリーなどの文化活動の構想はあったのですか?
菫 両親ともに詳細を話してくれなかったので、引っ越しやビル建設について詳しい経緯はわかりません。ただ、ビルに建て直すとき、木造の平屋の住まいと事務所を含めて4棟の建物があっという間に解体されて、その木材が1日で燃やされてしまったことがとても悲しかったことを覚えています。燃やしてしまうなんて、今から考えると信じられないですね。
究一郎 当時の建蔽率は現在よりも厳しかったようで、祖父はそれをちゃんと守ってこのビルを建てたのでしょう。僕は後年、祖父母はともに日本の「文化」に対する意識の乏しさに不満を抱いていたことを知りました。そんなことから、自分たちの建物の一部に画廊や庭の展示空間をつくって文化の発信地にする意図はあったと思います。それが50年経ち、周辺はほぼ建て替わり、現在、このビルが変わることなく残っているということなのでしょう。
青山の一等地に広がるオアシスのような5610番館、ギャラリーでは展覧会も開催される
― 赤レンガを使ったシンプルな建物は、モダンデザインの思想が反映されていると思います。
究一郎 庭と建物のレイアウト、手すりの形、あえてベランダを付けず、下から見上げたときに屋上の手すりが見えないようにするなど、見た目の凹凸を最小限にするためにこだわったようです。また、タイルの色は、祖父の指定するイメージに近づけるために何度も試作を重ねたと瀬戸のダイワ窯業の方が話しておられました。
― 河野さんは竹中工務店の機関誌『アプローチ』に、「このビルは自分の仕事に関係ある職種の集合体のようなものを考えていた」と書かれていますが、50年経った今もその思いを究一郎さんはじめご家族がきちんと受け継がれていてすばらしいと思います。
究一郎 ご縁の賜物といえます。ありがとうございます。
― ところで、河野さんは教育者としても、女子美術大学、東京藝術大学、愛知県立芸術大学の教授を歴任して、後進の育成も熱心でいらっしゃいました。
菫 女子美で教えていた頃の教え子の一人がニキティキの西川さんでした。その当時父はドイルのウルムやバウハウスのデザイン思想をいち早く取り入れて、教育の実践に活かしていたと思います。西川さんから父の影響を受けたというお話を聞いたことがあります。
― 愛知県立芸術大学では学長も務められましたね。
菫 父は晩年、愛知県立芸術大学の学長も務め、名古屋に拠点を移したいと言っていましたね。長年、公私ともに父を支えていた母とはちょっと距離をおいて、自由になりたいという気持ちがあったのかもしれません。
究一郎 愛知芸大では祖父の教え子だった先生や教授もいて、夕方になるとみんなで飲みに繰り出していたと聞いています。時間的にも精神的にも余裕のある生活を堪能していたのかもしれません。
― ご家族ならではの貴重なお話をありがとうございました。デスカの元スタッフの方々に河野さんについてのお話を伺います。引き続き、収蔵庫のご案内をお願い致します。
河野鷹思さんのデザインアーカイブの所在
問い合わせ先
株式会社デスカ/ギャラリー5610 https://www.deska.jp/profile
Interview 2
インタビュー02:椎名輝世さん
インタビュー02:2022年6月24日 13:30~14:30
場所:桜新町のカフェ
取材先:椎名輝世さん
インタビュアー:関 康子
ライティング:関 康子
略歴
ぺーター・ベーレンスの訳者であり、長く昭和女子大学で教鞭を執ってきた椎名輝世さんは1966から74年の8年間、デスカのパートタイム・スタッフとして河野鷹思のもとでデザインの仕事に携わってきた。ドイツから帰国して初めて日本のデザインに触れた椎名さんにとって河野デザインはどう映ったのか、お話を伺った。
人生に対する姿勢を教えていただいた
― 椎名さんと河野さんとの出会いについてお聞かせください。
椎名 私は1966年から8年間、パートタイムのスタッフとしてデスカに勤務しました。きっかけは、ドイツ留学中の1961年に、偶然、河野先生の作品が紹介された雑誌を見たことです。それはスイスのグラフィックデザイン誌『Graphis』で、先生の作品は8ページにわたって掲載されていて、日本的な要素とモダンが融合したデザインでした。日本にもこんなにすばらしいデザイナーがいらっしゃるんだ、ぜひこんな人のもとで働きたいと思ったのです。帰国後、幸いにも知人で三菱電機のデザイナーだった鶴田剛司さんからご紹介いただけたのです。
― ドイツではグラフィックデザインを勉強されていたのですか?
椎名 偶然の成り行きでグラフィックデザインを学ぶことになりました。私は実家が事業をしていたので慶應義塾大学の経済学部に入っていましたが、どうもなじめなかったのです。その頃、桐朋学園短期大学を経てドイツに音楽留学していた姉からドイツでデザインを学ばないかと誘われて、何か美しいことを学びたいという私の思惑も重なってドイツへ行くことになりました。小さいときに日本画を習っていたことからデッサンと、ドイツ語を猛勉強して、姉のいるヘッセン州にあるオッフェンバッハ・アム・マイン工芸美術学校(現、造形大学)に入学しました。ドイツの大学は先生と学生の距離が近く、恵まれた環境でデザインの基礎を楽しく学べました。卒業後は広告代理店に務めてタイポグラフィのデザインをしました。6年間のドイツ滞在を経て、当時のスイスデザインも学びたいと、著名なヨーゼフ・ミュラー=ブロックマンにオファーしましたが叶わず、日本に帰国し、憧れていた河野先生をご紹介いただいたのです。
― デスカに勤務してどんなことを感じましたか?
椎名 私はパートタイム・スタッフだったので自由な立場でデスカに参加していました。仲條正義さんや福田繁雄さんはすでに退所されていて、長年デスカを支えた森下俊彦さん、大木 浩さんや、空間デザインを担当した葛山善得さん、竹田紀雄さんらがいらっしゃいました。河野先生の初期の仕事は小村雪袋に通じるイラストレーションが多く、舞台装置や衣装もデザインされていましたが、私がいた60年代はグラフィックの仕事や、万博の展示や百貨店のディスプレイ、ヴィラ蓼科のインテリアといった空間デザインも進めておられました。私の在籍中には、大阪万国博覧会、サンゲツ、天童木工、三島食品、第一勧業銀行、河出書房、そして光村出版の教科書などの仕事を手がけておられました。そのなかで特に印象的なのはシンプルで美しいハートをかたどった第一勧業銀行のロゴマークです。
― 椎名さんにとって河野さんはどんな方でしたか?
椎名 河野先生は何といってもかっこよくて、洒脱な人。それは東京の神田育ちのちゃきちゃきの江戸っ子気質からきているのかなあと思います。都会的でありながら伝統も身に付けておられ、ちょっと皮肉屋なのだけど嫌味を感じさせない独特の雰囲気をお持ちでした。先生は松竹や新劇の仕事もなさっていましたが、俳優としてスカウトされても不思議ではないほどダンディでしたね。一方で国際感覚もあって、あの時代に英語もできた方でした。
それに、私は叱られた記憶がありません。何かあるとふんわりとユーモラスにくるんだ皮肉で核心を指摘されるので、こちらも感情的にはならずに妙に納得してしまうのです。先生は普段は打ち合わせなどで外出されることが多かったのですが、戻ってこられると机に向かって仕事をされていました。魅力的な人柄だったこともあって、人間関係を通して仕事のチャンスを増やしておられたのだと思います。
― 椎名さんが河野さんから学んだことは何ですか?
椎名 それは人生に対する姿勢を教えていただいたことです。デスカに入った3年目に私は出産のために仕事をペースダウンせざるを得ませんでした。そのタイミングで昭和女子短期大学家政科の非常勤講師の話がありお引き受けしたのですが、河野先生にご報告したところ「先生屋にはなるなよ」とおっしゃって、先生らしい言い方ですが大切なことだと思いました。そこには「繰り返し同じことをやって満足しないように」「教育現場でも自分なりの工夫をせよ」というメッセージがこめられています。私も決して慣れはいけないと思いました。
それから、デスカを共同運営されていた奥様の静子さんがおっしゃった「デスカは大学院ですから」という言葉も忘れられません。夫人はデスカの経営を担っていらして厳しいところもありましたがとても正直な方でした。デスカは勉強を続ける場所ですよと伝えたかったのでしょう。
― 河野作品で好きなものは?
椎名 河野先生の気質が表されているという意味で、代表作のポスター「SHELTERED WEAKLINGS—JAPAN」が好きです。アメリカを模した巨魚の後を追いかける日の丸の小魚、当時の世相をユーモラスかつアイロニカルに表現した傑作だと思います。それと裏千家の茶道誌『淡交』の表紙は、日本文化とモダンが融合した先生らしいお仕事かと思います。
― 現在もデスカとのつながりはありますか?
椎名 今でも河野先生の次女の菫さん、その息子さんの究一郎さんとはお付き合いいただいています。今年、5610番館が建って50年だそうですが、ちょうど私の在籍中に建て替えがあって、お近くの南青山第一マンションに一時期引っ越しました。先生は緑を大切に考えて5610番館を建てられましたが、その思いが今も引き継がれていてすばらしいと思います。
― デスカで仕事をして、ドイツと日本のデザインの違いを感じましたか?
椎名 私はデスカで「ドイツ人」と呼ばれていたんです(笑)。なぜなら私は事務所にある空き瓶や空き缶を酒屋に持っていて換金していたから。ドイツ人は徹頭徹尾合理的なのでこんなことは当たり前だったのですが、日本ではそうでなかったのですね。デザインではタイポグラフィで苦労しました。私はデザイン教育をドイツで受けてタイポグラフィの仕事をしていたのでアルファベットには慣れていましたが、日本の活字や級数の扱いは一から勉強しなければなりませんでした。それとドイツ的な厳格さが身についていたせいか、ひとつの仕事に時間をかけすぎるきらいがありました。
― 椎名さんが知る河野さんのとっておきのエピソードがあれば。
椎名 それはガダルカナル平和記念公園の戦没者慰霊碑の設計です。シンガポールに駐在していた私の息子がガダルカナル島を訪れた際に、戦没者慰霊碑のパネルに先生のお名前を偶然発見して、すぐに私に知られてくれました。それはソロモン諸島の戦没者の慰霊のために1981年に建立されたものでした。河野先生も太平洋戦争では徴用されて、ジャワ島で終戦を迎えておられます。戦中にデザインで活躍されていた方々は多少とも日本軍のプロパガンダ的な仕事に関わらざるを得なかったのでしょう。そうした意味で河野先生も戦争には一方ならぬ思いがあったと思うのです。その背景を考えると、代表作のポスター「SHELTERED WEAKLINGS—JAPAN」にも、先生の深いお考えが表されているのだとあらためて思います。
― 今日は貴重なお話をありがとうございました。
Interview 3
インタビュー03:金子兼治さん
インタビュー03:2022年7月7日 14:00~15:00
場所:デスカ
取材先:金子兼治さん
インタビュアー:河野究一郎さん 久保田啓子 関 康子
ライティング:関 康子
略歴
「飛鳥山3つの博物館」のシンボルマークなどを手がけ、現在フリーランスで活躍する金子兼治さんは、大学卒業後の1971から87年の16年間デスカに在籍しデザイナーとして腕を磨いた。つまり、デザイナー河野鷹思の後半生を共に過ごしたことになる。ここでは金子さんにデスカでの経験を中心にお話を伺った。
デザインとは「整理すること」
― 金子さんは河野鷹思の教え子だと伺いました。
金子 河野先生は1966年から愛知県立芸術大学の設立にかかわって、68年から教授に就任しました。僕は同大学の三期生ですが、河野先生はすでに「教授陣の中の教授」といった特別な感じで、一学生では近寄りがたい存在でした。ご自身は黒のブレザーにピンク色の仕立てのよいシャツを着こなす格好いい人で、全身からオウラを発散しておられた。
僕は二年生のときに「時計」という課題で先生から直接ご教示いただきましたが、具体的にどのような指導を受けたか、僕のデザインに対してどんな評価をくださったのかはほとんど記憶にありません。ただ締め切り前の三日間徹夜をして仕上げたことは覚えています。
― 卒業後、デスカに参加されたのですね?
金子 はい。けれどもデスカに入社するまでにはいろいろな経緯がありました。僕は資生堂に入りたかったのですが不採用となり、壁紙やカーテンを製造しているサンゲツの関連会社に就職を決めていました。ところが、卒業制作(4×3メートルの巨大な点描作品)を見た河野先生がデスカに来ないかと声をかけてくださったのです。正直迷いました。と言うのは、僕は当時、河野先生が作家として活動していて商業デザインはほとんどやっていないと思っていたからです。けれど東京への憧れは捨てがたくデスカに務めることに決めました。
― デスカではどのような仕事をなさったのですか?
金子 僕が勤務した頃のデスカはスタッフのほとんどが入れ代わり、5610番館の建設も始まっていて、ニュー・デスカとして再出発する時期でした。新人を教える先輩がおらず、僕はいきなり仕事に取りかかることになりました。仕事はグラフィックデザインが多く、天童木工、三島食品、サンゲツなどの企業デザイン、書籍の装丁、タペストリーや緞帳の図柄を担当しました。他に展覧会のディスプレイや、ホテルやリゾートマンションのインテリア、美術館などの公共建築の仕事も担当しました。
― プロジェクトを進めていくうえで、河野さんとはどのようなやり取りをしていたんですか?
金子 ケース・バイ・ケースです。先生がアイデアを出して僕らが図案、図面を起こしていくときもあれば、僕らのアイデアに先生の意見を重ねていくこともありました。たた、どちらの場合もラフな状態のうちに話し合って方向性を決めていくことが多かったです。先生はデザインにはいろいろな答えがあると考えていて、スタッフのアイデアを頭からダメだと否定されたことはなかったです。どの仕事も先生に確認してもらって、OKをいただきました。外から見て「河野先生はもう何もしていないのでは?」という人もいましたが、先生は細かい部分までチェックしていたし、僕たちスタッフが出勤する前に仕事を仕上げていることもありました。
― 印象的な出来事はありますか?
金子 僕が版下制作などの手仕事を熱心にやっていると、「そうした仕事は版下屋さんに任せればいい、君はもっと頭で考える仕事をしなさい」と言われたことです。そのせいか僕はデザインを頭で考えることが習慣化していて、デジタル化された現在でもまず頭の中で構想することを大切にしています。とは言え、実際には、先生は版下屋さんがつくった版下が気に入らないことが多くて、僕は自宅に持ち帰って修整作業していました(笑)。
― 河野さんから学んだことは?
金子 そうですね。河野先生は「整理することがデザイン、シンプルがベスト」という考えの持ち主で、僕はそこに共感していました。「飾ること、プラスすることがデザインである」と考える人は多いですが、先生と僕が同じ考え方だったことは幸運でした。
― 金子さんから見て、河野さんはどんなデザイナーですか?
金子 資生堂では「デザイナーはエンジニア・技術者でありアーティストとは異なる」と聞いたことがあります。河野さんも同じような思想をお持ちだったと思います。デザイナーとはデザインを最大公約数に向けてつくる一種の技術者であると考えておられた。「一見デザインされていないものこそが、真にデザインされているということ」だともおっしゃっていました。
先生が手がけられた戦前の映画のポスターには手描きの文字や図柄を多用した作品がたくさんありますが、どれもシンプルでモダンなデザインです。当時はまだ手描きが主流でしたが、戦後は写植や写真といった技術の発達にともなって、先生のグラフィック表現も変化しました。写植に長体や平体をかけて調整することもありましたが、シンプルがベストというポリシーは一貫していました。
― 金子さんが好きな河野作品は何ですか?
金子 一番に受け入れたのは代表作の「魚シリーズ」です。どれもシンプルな構成でバランスもよく、全体の比例がとても美しい。不思議なことに「魚シリーズ」に代表される先生のグラフィックデザインの多くは数値化することができます。すなわちフリーハンドの線も最終的には自由曲線ではなく円弧の一部の連続として表現することができました。僕はデスカでそうしたグラフィックデザインを実践し、感性を培ってきたお陰なのでしょうか、デザインにデジタル化の波が押し寄せてきたときにも、PCを道具としてすんなり受け入れることができたように思います。
― 金子さんがフリーランスになって、デスカで学んでよかったことはありますか?
金子 いろいろ迷うと、河野先生ならどう考えるかな?と考えてみます。そして、デスカで経験したこと、「デザインは整理すること」という先生から学んだ原点に立ち戻ります。
― 金子さんの入所時に建設中だった5610番館が今年で50周年だそうです。思い出はありますか?
金子 プロジェクトに直接は関係していないけど、外壁レンガタイルと外壁の建設は印象に残っています。レンガタイルはわざわざ瀬戸で焼かせた特注品で、職人が一つひとつ手張りしています。最初は建物の裏側から張り始めて、職人さんが慣れた頃に表側を張るというこだわりようでした。外壁は隣の建物を隠したいということで、基礎を地下何メールも掘って家が一軒建つぐらいの費用をかけて造りました。こうしたこだわりが5610番館を特別な場所にしていると思います。河野先生はデザインにはご自分の考えを妥協なく通されましたね。
― 本日はありがとうございました。