日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

小杉二郎

インダストリアルデザイナー

 

インタビュー01:2023年12月15日 13:00〜15:30
インタビュー02:2024年1月10日  14:00〜16:30

PROFILE

プロフィール

小杉二郎 こすぎ じろう

インダストリアルデザイナー

1915年 東京生まれ
1938年 東京美術学校(現・東京藝術大学)工芸科図案部卒業
1944年 商工省工芸指導所入所
1947年 山脇巌らと生産工芸研究所設立
1948年 東洋工業(現・マツダ)に招かれる
1949年 主にフリーランスとして活動
1952年 三条市の嘱託となり金物類など地元製造品の商工業デザイン指導を生涯続ける
    小杉インダストリアルデザイン研究所設立
    日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)設立(理事、理事長を歴任)
1953年 毎日新聞社 第2回日本工業デザインコンペで蛇の目ミシン特選一席
1955年 毎日新聞社 第1回産業デザイン賞(現・毎日デザイン賞)
    工業デザイン部門の作品賞受賞
1957年 有限会社小杉二郎工業デザイン研究室設立
1974年 日本インダストリアルデザイナー協会名誉理事
1981年 逝去
2019年 日本自動車殿堂 殿堂者に選出

小杉二郎

Description

概要

日本におけるインダストリアルデザイン実践の先駆者である。戦後の日本において、工業製品の技術が欧米に比して低かった時代に工学や機械に対する知識や技術を武器に、使いやすく、つくりやすいデザインを提案・実践した。65歳で亡くなる直前まで工業デザインに向き合っていた。フリーランスデザイナーとしても草分けで、東洋工業(現・マツダ)にフリーランスとして招かれ、オート三輪車を開発したのを皮切りに、「K360」「R360クーペ」「キャロル360」をはじめ、16台の車を自身の名で世に送り出している。チームやグループでデザインすることが定着していなかった当時において、プロジェクトを束ねることのできる傑出した存在だった。毎日新聞社のデザインコンペで蛇の目ミシン工業課題のミシンで一席をとったことをきっかけに、以降、数々の同社ミシンを手がけた。また、新潟県三条市の依頼により、嘱託デザイナーとして金属加工品などのデザイン指導にあたり、これを生涯の仕事とした。そのデザイン領域は、車からストーブ、扇風機、金庫、はかり、工具、爪切りまでと多岐にわたる。
1915年、洋画家・小杉放菴(国太郎)と母ハルの第二子として生まれた。東京市立第一中学校(現・都立九段高校)から東京美術学校工芸科図案部に入学。装飾的な図案の傾向が多かった同校で異色な存在であったと、先輩にあたる小池岩太郎は述懐している。卒業制作は椅子とテーブルであった。卒業後は兵役に就き、車両修理関係の仕事を担った。その後、商工省工芸指導所に2年ほど勤務。9Gにも耐える合板による爆撃機の木製操縦席を完成させ、航空関係者を驚かせた逸話が残る。退所後に自転車の構造の特許を得て、プレス加工による十字型骨組み自転車のデザインを発表する。生涯で申請した特許・実用新案の数は、200にものぼるという。
東洋工業ではR360クーペで「二輪スクーター感覚のクーペ」を提唱したり、愛らしいフォルムをつくったり、無機質なトラックをピンクに塗装するなど、人々の心を捉えるデザインを試みた一方、形態は機能に従うものであると考え、デザインのためのデザインは否定した。独創的なデザインは独創的な技術のバックがなければ望むことができないと言い、技術面の進歩に力を注いだ。
日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)を設立したメンバーで、組織づくりの提唱者でもある。JIDAの理事長を務めていた際、通商産業省がグッドデザイン賞を立ち上げようとすると、工業デザインに対する認識不足を指摘しつつデザイン振興への妨げにもなりかねないとして反発し、会員に審査辞退を決議させた。また1960年の世界デザイン会議には、協会としては時期尚早として不参加を表明しつつも、会員個人の参加には縛りなしと表明するなど、人とデザイン、あるいは社会とデザインについて、頑固なまでにまっすぐに向き合おうとした人物でもある。

Masterpiece

代表作

東洋工業(現・マツダ)
「CT/1200」(オート三輪)(1950)、「ロンパー」(1958)、「K360」(1959)、「R360クーペ」(1960)、「B360」(1961)、「B1500」(1961)、「T2000」(1962)、「キャロル360」(1962)

蛇の目ミシン工業(ジャノメミシン)
「320型」(1954)、「560型」(1961)、「670型」(1964)、「366型」(1966)、「801型」(1971)、「820型」(1979)、「817型」(1980)

新三菱重工業(現・三菱重工業)
「シルバービジョン C57」(1954)、「シルバービジョン ボビーデラックスC-80」(1957)、「シルバービジョンC-110」(1959)、「シルバービジョン ボビー300」(1959)、「シルバービジョン C111」(1960)、「シルバービジョン C135」(1963)、アイスクリームボックス、エアコン

新潟県三条市の企業
マルト長谷川工作所 KEIBA ニッパー、ワイヤーストリッパーなどの手工具多数、ダイニチ工業 温風暖房機、噴霧器、田中衡機工業所 体重計、キッチンはかり

その他
アサヒビール PRカー(1950)、日立製作所 X-Ray装置、小林理研製作所(現・リオン) 補聴器(1956)、新日本電気(現・日本電気ホームエレクトロニクス) テレビ、松下電器産業(現・パナソニック) 扇風機、換気扇、熊平製作所 金庫(1960)、自主開発自動車 「MK-600」(1965)

 

著書

『わがインダストリアルデザイン 小杉二郎の人と作品』丸善(1983)

 

小杉二郎 作品

Interview 1

インタビュー01:大縄 茂さん

インタビュー01:2023年12月15日 13:00〜15:30
場所:オー・デザインコレクション
取材先:大縄 茂さん(インダストリアルデザイナー)
インタビュアー:石黒知子
ライティング:石黒知子

 

 


取材にあたって

没後40年を超えると、ありし日の活動を知る人材やアーカイブの行方は辿りにくくなる。小杉二郎は、東洋工業「R360クーペ」「キャロル360」、蛇の目ミシン工業のミシンなどを生み出した日本のインダストリアルデザイナーの草分け。1954年に日本で最初の工業デザイナーの個展「小杉二郎工業デザイン製品展」をブリヂストンビルで開催したり、1965年には自主開発した「MK-600」を発表しメディアにも多く取り上げられたりするなど、注目を集めたデザイナーであった。1981年に急逝。1984年に東京藝術大学 藝術資料館で「デザイン30年のあゆみと小杉二郎の軌跡展」が開催されるも、その後は小杉の仕事に触れる機会はなくなっていた。2015年に燕三条地場産業振興センターで、燕三条・デザインのDNA「亀倉雄策と小杉二郎」展が開催された。そのキュレーションと作品展示を担ったのは、JIDAでアーカイブの調査を行うインダストリアルデザイナーの大縄茂であった。小杉二郎を調査するきっかけとアーカイブの状況について、取材することとなった。

大縄 茂 : 1951年生まれ。桑沢デザイン研究所卒。自動車部品メーカー、写真照明機器メーカー、ID事務所勤務を経て1977年に独立。JIDA会員。プロダクトデザイン史の調査・研究を自身のテーマとしている。2000年より実製品のコレクションをアーカイブ化し、デザイン企画展などへの貸出や、展覧会の企画運営も行っている。


 

 

生涯で16台もの車を送り出したプロダクトデザイナーはほかにいないんじゃないでしょうか。

驚くほど精緻な試作品

 

 大縄茂さんは、2015年に燕三条地場産業振興センターで開催された、燕三条・デザインのDNA「亀倉雄策と小杉二郎」展のキュレーションと運営をなさいました。小杉二郎さんの展示を行うきっかけとそのアーカイブについて伺いたいと思います。

 

大縄 2010年に、私は新潟県立三条テクノスクールで5年間、工業デザインを教えていました。赴任する以前にJIDAデザインミュージアムの展覧会を燕三条地場産業振興センターで催した際にこの地と小杉先生との深い縁があることを知りました。三条へ赴任し一層興味が湧き本格的な調査と作品や資料収集を始めました。三条テクノスクールの5年間にその調査・研究成果を学校が主催するデザインフォーラムを2度開催し、三条での先生の仕事ぶりなどを紹介させていただきました。

 

 小杉さんの東京美術学校の恩師で三条出身の工芸家・広川松五郎さんが、三条市と小杉さんをつないだそうですね。嘱託デザイナーとして2カ月に一度程度、三条市を訪れ、2日間で10〜50件ほどの案件をこなしつつ地域のさまざまなデザイン相談に応じるということを、亡くなる年までのおよそ30年間続けた。地場産業のものづくり振興に尽力されました。

 

大縄 マルト長谷川工作所(以下マルト)という手工具メーカーは、指導事業の初年1952年からデザイン相談をしています。やがて行政を介した相談から個別に契約しています。最初の相談はメーカーとしての認知度アップの方法だったようで、先生はまず、目印となるホーロー看板をつくり全国に送ろうと提案し、デザインを行い製造も自身が東京の業者へ依頼したそうです。

 

小杉二郎 資料

全国の問屋に配るために小杉がデザインしたマルト長谷川工作所のホーロー看板。

 

 

大縄 先生のことをよく知るマルトの当時専務曰く、先生はデザインを依頼するとすぐその場で絵を描き始め、次に会うときにはもう試作品をつくって持ってくるのだそうです。その試作品を見せていただいたのですが、とても精巧にできていてわれわれが見てもびっくりするぐらいの完成度でした。それを毎回繰り返していた。専門家につくってもらっていたのではないかと疑いたくなるぐらい精巧です。

 

小杉二郎 資料

小杉が持参したというミニ・ニッパー試作品(年代不詳)。

 

 

 小杉さんの仕事を手伝っていたのは、目白の事務所でパートナーとして参加されていた松本文郎さんですが、豊口克平さんの本『型而工房から:豊口克平とデザインの半世紀』(1987)に小杉さんについて書かれたセクションがあり、それによると松本さんは数年間一緒に仕事をし、その後は分かれて一人で仕事をしているとありました。晩年、小杉さんがFRPで自作した車「MK-600」では、松本さんも図面と製作をお手伝いしたようですが、マルトでの試作品の製作はご自身の手によるものだったのでしょうか。マルトには試作が残っていますか。

 

小杉二郎 資料

「MK-600」のシートを手に説明している小杉二郎。

 

 

大縄 当時、先生とやりとりされていた方はすでに引退されており、その方がお持ちの試作品を一度拝借し撮影させていただきました。実物を見るとものづくりが本当に好きだったのだろうということが伝わってきました。一デザイナーが、こんな精巧なものをつくってしまうのは本当に信じがたいことです。

 

 

200の特許・実用新案・意匠登録を申請

 

 先ほどの豊口さんの本には、産業工芸試験所で9Gに耐える爆撃機の操縦席をつくり、航空専門技術者を驚かせたと書かれていました。小杉さんはデザイナーの範囲を超え、エンジニアであり、メーカーの役割までされていたと言えそうです。機械やエンジニアリングに精通されていたのですね。

 

大縄 そうだと思います。新しい仕組みを考え出したり、実際に手を動かしたりしてつくるのが本当に好きだったのでしょうね。事務所には工作機械なども備えていたのでしょう。

 

 そうした機械や工学については、大学で学んだというよりも、以前より自ら蓄積してきた知識であり、技術だったのかもしれません。

 

大縄 戦地に行った際、自ら手を挙げたのかはわかりませんが、戦車を修理調整する仕事に配属されています。やはり小さな頃からメカに関わることに興味があったのでしょう。この現われのひとつに、退役後自転車を自分でつくりたくて、自らメーカーとなり販売しようと活動していた時期がありました。

 

小杉二郎 資料 小杉二郎 資料

1947年『工藝ニュース』に掲載されたプレス加工による十字型骨組み自転車とその設計図。

 

 

 「スバル360」をデザインした佐々木達三さんは、最初に入社した三菱重工業が敗戦により解体されたことをきっかけにフリーランスのデザイナーになっています。当時の状況からインハウスデザイナーになるよりも、外部デザイナーとして活動する方が多くのプロジェクトに関わることができる時代だったといえそうです。小杉さんもそう思われたのかもしれません。「デザインは一人の人間のアイデアで決まり、一代のものだ」とも主張し、スタッフも持たずに活動されました。多くの仕事をするなかで200もの特許・実用新案・意匠登録を申請したと言われています。

 

大縄 私もその数が気になり調べたことがありますが特許庁でネット公開されているのはそれほどの点数はありませんでした。デザイナーが意匠登録することはありますが、先生の場合は構造や働きなども含めたデザイン提案が多いようですので勢い特許や実用新案が多くなったのでしょうね。普通はメーカーのエンジニアなどが申請するのでしょうが、先生の頭の中では構造や機構も含めたうえでのデザイン提案が多かったようですので当たり前のことだったのでしょう。

 

 小杉さんは『わがインダストリアルデザイン 小杉二郎の人と作品』という本に作品とその背景、小杉さんの書かれたテキストが収録されていますが、それ以外でアーカイブといえるものはありません。また美術館や博物館では一部の車両を除くと製品のコレクションは行われていないようです。大縄さんは2015年に燕三条・デザインのDNA「亀倉雄策と小杉二郎」展のキュレーションをされていますが、展示品を集めるのは苦労したのではないでしょうか。

 

小杉二郎 資料 小杉二郎 資料

『わがインダストリアルデザイン 小杉二郎の人と作品』には、補聴器(小林理研製作所)やテレビ(松下電器)、扇風機(松下電器)、蛍光灯器具(日立製作所)、タバコ自動販売機(新三菱重工)、温風機(ダイニチ工業)など、多彩な仕事が掲載されている。

 

 

大縄 この展覧会は、燕三条のデザインの源流を辿る二人展で、お一人が燕市(旧・西蒲原郡吉田町)出身の亀倉雄策さん、もうお一人が三条でのデザイン指導を行った小杉先生で、共に1915年生まれで誕生100年の2015年に開催しました。
小杉先生の作品は、三条の企業を中心に集めました。まずマルトは、ニッパーやワイヤーストリッパーなど手工具の製品、また当時同社専務だった長谷川晴生さんの個人所蔵品として試作品やNECのトランジスタラジオを拝借しました。
私のコレクションとしてはジャノメミシンやリオン補聴器、ナショナル扇風機などですね。マツダの実車展示は難しく1/43スケールのミニカーを展示しました。ご遺族にもさまざまにご協力いただきました。娘の山本みどりさんはスケッチや図面を保管しており拝借させていただいたり、また甥で洋画家の小杉小二郎さんにはご長男茂さんとのつなぎをしていただいたほか、高校時代には先生の仕事を手伝われたなどという話も伺うことができました。

 

 大縄さんは個人で、さまざまなデザインをコレクションされているそうですね。

 

大縄 かれこれ、30〜40年になるでしょうか、今ではコレクションが増え倉庫を借りそこに収めています。また一部のコレクションは解説をつけて、インスタで紹介していますよ。

 

 まさにアーカイブですね。

 

大縄 小杉さんのものに関しては、ミシンはほぼ全点集めていたのですが、重く場所もとるので、現在では2点だけ残してあとは手放してしまいました。2016年にはM+(香港デザインミュージアム)へ歴史的デザイン製品のほかA-POCの反物やグラフィック作品なども含め百数十点を売却しました。

 

 

工業デザインは単なる外面的な意匠ではない

 

 1948年当時、まだ社内デザイナーのいなかった東洋工業(マツダ)に招かれ、嘱託デザイナーとなります。どうしてマツダとの縁ができたのでしょうか。

 

大縄 ある方が東洋工業の副社長に、アメリカでは工業デザイナー(レイモンド・ローウィと思われる)が自動車のデザインをしているという話をし、当時その方と一緒に仕事をしていた金子徳次郎氏(三菱自動車でのデザイン経験あり)へ話を持ちかけたら「そんなことをやるなら小杉だ」と返したことから先生とマツダとの関係ができたと、JIDA機関誌 『インダストリアルデザイン』(1957、57号)に書かれていました。

ところで記録を辿って、生涯で何台の車をデザインしたのか、数えてみたことがあります。マツダ車と自主開発の「MK-600」を加えると一生で16台の車をデザインしていました。これには驚きました。日本のデザイナーで16台も手がけた方はそう多くないのではないでしょうか。ミシンもかなり多く27台程デザインしています。

 

小杉二郎 資料

「ジャノメ817型」(1980)

 

 

 それはすごいですね。製品化される確率が高いのですね。

 

大縄 ほとんど、製品になっているのだと思います。先ほどのマルトにしても、製品と違わぬレベルまでつくりこんだ試作品を持ってメーカーにプレゼンしていますから、そのまま採用されていたのでしょう。

 

 小杉さんは、工業デザインは工業生産技術が基盤であり、デザイナーはエンジニアと同等の生産技術の知識をもち、機械的総合性能を十分満たしたデザインにしなければならない、と『工芸ニュース』に記しています(1956、24号)。エンジニアリングとデザイン、さらに技巧的にそれをつくる技術が一人のなかで結びつき商品としての価値を高めていった。あの時代だからこそかもしれませんが、あらためて稀有な人材です。

 

大縄 当時の日本の工業製品の実力を考えれば、確かにそこから変えていかなければさまざまに役立つ製品はできなかったのでしょう。デザイナーが「ガワ」だけ考えているようではだめだ、「中」という基本があったうえで最終的な造形が生まれてくるという論法なのです。

 

 工業デザインは産業や社会と結びつくものであるため、集団としての組織をもって、企業やエンジニアと相互協力していかなければならないとして、JIDAの設立・運営に尽力されました。しかし、デザイン振興の一助とも思われるGマーク制度の設立には反対しています。大縄さんは、それをどのように捉えていらっしゃいますか。

 

大縄 理事長のときですね、デザイン振興を行政がやろうとしていることに大きな声で反対するのは当時としても憚られることだったと思います。デザインが安易に商業化していく様子に危機感を感じていたのでしょう。工業デザインは単なる外面的な意匠ではなく、生産技術、生産コスト、使い勝手、市場性などを十分に満たしたものであるべきで、グッドデザインがもし誤ってこれらが満足されていないものを選定してしまったら、工業デザインへの不信感にもつながりかねない。「グッドデザインのマークが貼ってある商品は使いづらい」と言われることを、懸念していたのではないでしょうか。

 

 グッドデザイン賞はともかくとして、現代でも「デザインはよいけれど、使いにくい」という現象は度々生じます。グッドデザイン賞がその名のごとく、グッドデザインの奨励賞であるならば責任の重大性を慎重に考えるべきとも発言されていました。

 

大縄 勇気のいる発言だったと思います。1965年にJIDA機関誌『JIDA』に書いた文章には、「最近チラホラ、インダストリアルデザイナーがタッチすると悪くなるという声を聞く。カッコいいけど中身が悪いと言う声は、使用者側のデザインへの非難で、機械の進歩にブレーキをかけた、詐欺師のおそれがある」とまで記していました。

お酒を好まれたそうですが、ひょっとしたらお酒が入るとご家族に何かこのような愚痴をこぼしていたりされたのかもしれません。アーカイブはご遺族もお持ちですので、ぜひ、インタビューされるとよいのではないでしょうか。

 

 はい、伺いたいと思います。ところで大縄さんは、JIDAでアーカイブのための調査を続けていらっしゃいます。アーカイブについてのお考えをお聞かせください。

 

大縄 JIDAでは1999年より毎年「JIDAデザインミュージアムセレクション」として質の高いデザイン製品を選定し、それを企業などにご寄贈いただく事業を行っています。つまり1999年以前のもののコレクションはないのです。JIDAで活動するなかで、私はプロダクトの歴史を調べることを中心に活動しています。また根っからの収集癖やモノ好きが講じ1950年以降の古いデザインについて調べ、手が出せるような価格のものは購入し、集めています。古い資料などを読みながらこれらのデザインを見直すと「なるほど」と発見することも多々あり、モノと同様古い書籍や資料も重要だと思います。
そのようなことで機会があるとさまざまな資料をいただいてきたりもするんです。以前にも、宇賀洋子さんにお話を伺いに行った際に、古い資料や写真を捨てようとされていたのでいただいたりもしました。

 

 コツコツ集め、調べられている活動は、すばらしいですね。その資料はどうされるのでしょうか。

 

大縄 さほど多くはありませんが美術館や企画展に貸し出しを行っています。また小学校や専門学校、大学の授業で当時のモノを見せながらデザインの話をしたりもしますよ。私の子どもたちは残念ながらこのようなコレクションに興味がないので、受け継いでもらえる方や団体を探すか、すべて廃棄するかを選択しなくてはなりません。当面は手入れなどを楽しみながらインスタでコレクションの紹介を続けようと思っています。
ところでPLATのアーカイブは、現在、企業のインハウスデザインはあまり取り上げていないようですが、旧・松下電器産業の真野善一さんのように、インハウスからプロダクトデザイン史を動かした方もいらっしゃいます。将来はそちらも対象にされるといいですね。

 

 アドバイスをありがとうございます。アーカイブの調査方法や資料について、また大縄さんにあらためてお話を聞かせていただければと思います。ありがとうございました。

 

 

 

 

Interview 2

インタビュー02:小杉 茂さん 明子さん

場所:取材先自邸
取材先:小杉 茂さん 明子さん
インタビュアー:石黒知子
ライティング:石黒知子

 

 


小杉二郎は、杉並区の閑静な住宅街に住み、目白の仕事場に通う暮らしを長らく続けていた。亡くなる直前まで仕事を精力的にこなしていた。晩年まで共に過ごしていた長男の茂さんと茂さんの奥様の明子さんに、ご自宅で保管していたアーカイブの状況とデザイナー・小杉二郎の知られざる素顔について語っていただいた。


 

 

何事においても段取りがよかったんです。
だからつくりやすさまで提案できるようになったのだと思います。

デザインは芸術ではない

 

 本日は、小杉二郎さんと晩年まで生活を共にされていた、ご長男の茂さんと茂さんの奥様の明子さんを取材させていただきます。小杉二郎さんはエンジニアリングを極め機能美を追求されていました。仕事場はご自宅とは別に目白にあったということですが、ご自宅でのご様子などを伺えればと思います。取材に合わせて、資料をご用意いただき、ありがとうございます。

 

小杉 茂 このあたりは父の原点といいますか、毎日新聞のデザインコンペで受賞して製品化された初期の蛇の目のミシンです。自宅で使っていたものです。

 

小杉二郎 資料

蛇の目ミシン工業「ジャノメ320型」(1954)

 

 

小杉 明子 私、これ大好きなんです。ミシンのカバーが素敵ですよね。これもご自分でデザインしているんです。扇風機やストーブなど、ほかにもたくさんあったんですけれど、引っ越すたびに手放して、どんどん少なくなっていってしまいました。取っておきたいと思っても、どうしても、スペースが足りなくて…。

 

 小杉二郎さんはインダストリアルデザイン史に欠かせない方ではありますが、工業製品はアーカイブとして残るものは限られています。小杉さんの場合は、亡くなられたあとに豊口克平さんらがまとめられた『わがインダストリアルデザイン 小杉二郎の人と作品』が最大のアーカイブとなっています。生前、図面や写真、文章を残されていたことで出版できたと冒頭に記されています。

 

 そうですね、製品として個々のものを紹介している本はありますが、個人としてはこれ一冊ですね。

 

 茂さんは機械科卒業のエンジニアでいらっしゃるそうですね。お父様のお仕事をどうご覧になっていたのでしょうか。

 

 晩年は目白にいたので、私も直接仕事している姿を見たことはないんですが、デザインに関しては「芸術ではないよ」と言っていました。父がやっていた頃は、生産技術的にも今みたいに進歩していなかったので、使いやすさに加え、つくりやすさにも重点を置いていました。
飛行機のような機能美を好んでいました。飛行機を設計する人は、デザインを考えているわけではない。機能を突き詰めて、ああいう格好になっている。船も、波と水との闘いがあり、その上での機能美が追求されています。単なる見てくれというのは、意識してなかったようです。
古いマツダのトラックでは、かなり構造についても提案し、技術者と打ち合わせしながらデザイしていたようです。製品のプレス型まで考慮してデザインするとか、表の見える部分ではない、その時期の生産技術でできないようなことはしない、そういうところにまで気を配ってデザインしていました。

 

 技術的なものは商工省工芸指導所で基礎を学び、それに加えて独自に勉強されていたということでしょうか。

 

 どこで構造的なものを学んだかについては、私もよく知りませんが、戦時中に飛行訓練用航空機の椅子の製造に関わっていたように、藝大の図案科で学ぶだけでなく、独自に学んでいたのでしょう。木工に関しても詳しく、プレスだとか加工の技術についてもよく知っていました。若い頃からグライダーのようなものをつくっていて、それに乗って飛ぼうとして母親に止められたこともあるそうです。

 

明子 義祖父(洋画家の小杉放菴(国太郎))は、義父が小さいときにしょっちゅう時計とかカメラを分解するので、この子は手先が器用だ、もしかすると将来そういう世の中に役立つ仕事ができるんじゃないか、と『放菴日記』に記していました。

 

 メカや仕組みを考えることが好きだったのだと思います。外観だけのものよりも、それを全部含めたものをやりたいと考えた。現代は生産技術が格段に進んで、デザイナーが希望することはたいがいできてしまう世の中です。現代のデザイナーとは、考え方なども違っていたのだという気はしますね。

 

明子 新潟県燕三条には長年デザインコンサルタントとして行っておりました、三条のマルト長谷川工作所さんでも、困ったことがあると義父に相談するんですが、三条から帰ってくる間に考えついて、すぐに電話がかかってくると言われていました。

 

 そして次に行く際には試作を持って行かれるという話を聞きました。

 

 そうですね、アクリル板を削ったりしながら、実製品と同じようなものを手仕上げでつくっていました。自分でつくることまでできるんです。

 

 通常は外注するところですが、それを目白で、手作業でこなしていた。

 

 専門的な工具はずいぶん揃っていましたね。ミシンから始まって、マツダの三輪車とかトラック、軽乗用車、そのほかにも三菱重工のスクーターや扇風機、爪切りまで。これほど多種多様なデザインをしたのは、日本では父だけじゃないのかな、という気もするんです。おそらく、頼まれて自分一人でデザインできる、いい時代だったのだと思います。
現代の車はチームでつくりますから、個人名は出てきません。昔、雑誌の『モーターファン』を見ていたら、デザイナーとして小杉二郎の名前が出てきて、ハッとしたことがあります。トラックも軽自動車も、小杉二郎デザインとして世に出ています。そういう点でも、本当にいい時代だったんだなと思います。

 

 大縄さんが数えていらっしゃいましたが、世に送り出した車は16台あるそうです。ほとんどが実用化されたということではないでしょうか。

 

 でも、駄目になったものも結構あったみたいですよ。市場に出ない模型の写真もありましたから。だから全部が全部、製品化されたということでもないと思います。

 

 

プロジェクトをマネージする力

 

 2019年に日本自動車殿堂に顕彰されています。その紹介文に、さまざまな分野の担当者と打ち合わせしながら商品を完成させる「プロジェクト・マネージメント活動」の先駆者と書かれていました。小杉さんはインハウスデザイナーが定着する前から活躍し、外部デザイナーとしてインハウスデザイナーを引っ張っていく存在でした。

 

 そうですね、ただ指導というのとはまた違うかもしれません。日大の芸術学部で教えていたこともあるのですが、言葉で教えるのは得意じゃなかったようです。
マツダの社内プレゼンも、あまり喋らなかった。見て、判断してくださいというやり方です。デザイナーは、実際にできあがったものがすべて。いちいち説明して売るわけにはいかないわけで、だからああだこうだ、言いたくなかったのかもしれません。

 

明子 でも、デザインだけの独りよがりではないので、言葉がなくてもプロジェクトをまとめることができたのかもしれませんね。

 

 それにしても、色のセンスとか、当時にしては異色だったと思います。軽三輪のトラックを珊瑚礁のピンクに塗るとは、よくマツダさんが許可したと思います。当時ではすごい色遣いです。

 

 ご家庭ではどういうお父様でしたか?

 

 ほとんど休みなしに目白の事務所に行っていました。お正月も休むのは元旦ぐらいで、事務所に行っていましたね。ですから私なんか、父親と一緒に遊んだ記憶があまりない。 何か思いつくと、それこそ広告のチラシやタバコのケースにでも、描き込んでいく。そういう手描きのスケッチやメモがいっぱい残っているんです。食事して一服していると、何かちょこちょこ描いている。デザインのことだけじゃなく、改良することとか、実用新案に出すこととか、思い巡らしていたのでしょう。

 

明子 あなたは知らないかもしれないけれど、義父と義母は、仲のよい夫婦でした。帰って来てから晩酌するのを楽しみにしていました。義父が帰宅すると全員で玄関に出迎えるんです。そのあとは、義父と義母は二人でご飯をゆっくり楽しみながら晩酌して。その仲睦まじい雰囲気が私は大好きでした。素敵でした。

 

 実用新案に申請するようなものは、メーカーからの依頼によるものなのでしょうか。

 

 どうでしょうか。もちろん依頼されたものもありますが、それとは全然関係ないことで、自分でふと思いついたことでもいろいろ出していました。申請だけで通らなかったものもたくさんあります。それらを含めて200という数字になる。
例えば、ラジオひとつとってもダイヤルの機構とか、メモリの動き方、メカの構造とか、さまざまな工夫を考えては実用新案に出していました。特許を出す方は大勢いますが、デザイナーでやるかというと限られるでしょう。そういう意味でも、特殊だったと思います。

 

小杉二郎 資料

NECのラジオと革製のカバー。

 

 

 茂さんから見て、お父様の仕事ぶりはいかがだったでしょうか。

 

 父は何事においても段取りがよかったんです。どういう材料を選んでどうするか、順繰りに考えて、最後はどうなるかという段取りをしっかり見極めていました。普段からそれができていたので、つくる人のためのつくりやすさまで提案できるようになったのだと思います。それはすごいと思いましたね。そしてきれいにつくる。それに対し「お前のつくる物は汚細工だ」とよく言われました(笑)。

 

 頭の中で先を読んで、シミュレーションされていたのかもしれないですね。

 

 そういうところがあったかもしれません。とにかく最後の仕上げまできれいにやる。
思い出しましたが、夜は仕事をしていませんでした。お酒を飲む時間だから、と。朝は10時頃に起床して、コーヒーを飲んで事務所に行き、昼は近くで「森のたぬき」、盛り蕎麦とたぬき蕎麦を取って、6時ぐらいには帰宅するという毎日です。

 

 締め切りやクライアントからの無理難題に対応して、夜を徹して仕事をする…ということはしなかったのですね。

 

 規則正しい生活が軸にあるからか、過剰な装飾は嫌っていました。その頃のアメリカ車に多く見られたメッキのキラキラした表現とかは避けていましたし、シンプルを好みました。

 

 ほかのデザイナーとの交流は?

 

 同世代の柳宗理さんとか、渡辺力さんなど、親しくしていましたね。小池岩太郎さんは本当に仲良くしていただいて、亡くなったときもすぐにうちに飛んでいらして、「まだ温かいよ」なんておっしゃっていたのを覚えています。「ガンさん」と呼んでいましたね。ほとんど藝大の方との付き合いが多かったのではないでしょうか。

 

 

未来のプラスチックの車

 

 さて、こちらには自作の「MK-600」の石膏モデルが保存されています。1961年にトリノのモーターショーを中心にヨーロッパを視察され、カロッツェリアで見て学んだことをベースに、4年かかりでFRPの車を開発されました。製図に松本文郎さんが、制作には甥の小二郎さんが参加していましたね。エンジンや足回りはマツダのもの、シャシーはパイプ溶接で新たに設計、ボディはFRP、シートやハンドルもポリエステル製という先進的なものでした。

 

小杉二郎 資料

自宅に残されている「MK-600」の石膏モデル。

 

 

 完成した当時、プラスチックショーという展覧会があり、そこで展示しました。話題になり、徳川夢声さんと中村メイ子さんがやっていたNHKの番組に出て、「未来のプラスチックの車です」とか言いながら、メイコさんが乗ったんです。
父は運転免許を持たず運転しませんでしたから、完成した「MK-600」は、叔父が教鞭を執っていた慶應大学の自動車部に寄贈しました。もう残ってはいないでしょう。つくると、もう愛着がないんです。ずっと取っておくという意識はなかったんですね。

 

明子 私たちが持っていたものすら、大分手放してしまいました。義父を知っているから、それでもこうやって残していますが、子どもの代になり、さらにその孫の代になったときまで資料を持ち続けられるかはわかりません。

 

 製品は壊れたら捨てられますし、残していくのは難しい。でも、ジャノメミシンの研究所の方が、父が亡くなったあとに、手がけたミシンのアルバムをまとめて持って来てくださったんです。それには感動しました。お通夜のときには、三菱重工でエアコンやスクーターをデザインしていたのですが、その担当の方もわざわざ足を運んでくださいました。

 

小杉二郎 資料

ジャノメミシンから贈られた作品のアルバム。

 

 

 これも貴重な資料ですね。これからも、アーカイブはご自宅で保管されていくのでしょうか。

 

 作品集に掲載された写真などは、ほとんど残しています。描いたスケッチも残っています。知り合いに頼まれてパッケージデザインもたくさんやっていたようです。文章も残しています。一時期ペンクラブに推薦されたほどで、随筆みたいなものを書いていました。インダストリアルデザイナーではありますが、その言葉だけでは当てはまらない人でした。
私はデザイナーじゃないので大それたことは言えませんが、車の世界でも最近は、古い車も人気が出てきています。昔のものも、再び表に出てくると、何か感じることがあるのではないでしょうか。その時代に、皆さんが試行錯誤してデザインしたものです。それが伝わってくるから、昔のものを見るのは、面白い。なんでこんな格好をしているんだろうと考えるのも楽しいですね。

 

 ものが放つメッセージですね。アーカイブはそういう意味でも必要なのだと、改めて感じました。本日は、ありがとうございました。