日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
黒木靖夫
プロダクトデザイナー、デザインプロデューサー
インタビュー01:2024年1月30日14:00〜15:30
インタビュー02:2023年12月21日11:00〜12:30
PROFILE
プロフィール
黒木靖夫 くろき やすお
プロダクトデザイナー、デザインプロデューサー
1932年 宮崎県生まれ
1957年 千葉大学工学部工業意匠科卒業
1957年 そごうデパート入社、宣伝部に配属
1960年 そごうデパートを退職、ソニー株式会社に入社
1978年 ソニーPPセンターを組織、PPセンター・宣伝本部長に就任
1985年 ソニーPPセンター、宣伝部などを統合して商品本部を組織
1988年 外国部次長・宣伝部長・商品本部・クリエイティブ本部長を経て取締役就任
1990年 ソニー企業株式会社代表取締役就任
1993年 ソニーを退職、ソニー株式会社顧問就任
株式会社黒木靖夫事務所設立
富山インダストリアルデザインセンター所長就任
1997年 ソニー株式会社顧問退任
1999年 富山県総合デザインセンター所長就任
2007年 逝去
Description
概要
黒木靖夫がソニーのクリエイティブ部門のトップであった時代は、「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由豁達にして愉快なる理想工場の建設」と、東京通信工業(後のソニー)の設立趣旨書に起草した創業者の井深 大、経営パートナーの盛田昭夫の二人がトップとして采配を振るう、まさに製造業ソニーの絶頂期であった。その象徴である1979年に発表された「ウォークマン」は、井深が目指した「自由闊達にして愉快なる理想工場」から誕生した製品であった。奇しくも同年にアメリカの社会学者E.ヴォーゲルによる『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版され、日本のモノづくりと製品が世界に認知され、拡大する時期とも重なっていた。
黒木靖夫は大学卒業後、そごうを経て1960年にソニーに入社し宣伝部に配属、今でいうコンセプトメーカー、クリエイティブマネジャー、アートディレクター、ブランドコンサルタント、マーチャンダイザーなど一括りできない仕事ぶりで井深と盛田の信頼を得る。そして1978年にPPセンターのトップに就任する。PPとはプロダクトプランニングからプロダクトプロモーションまで、つまり製品企画から広告宣伝、販売促進までを統括する一大クリエイティブ部門であり、そのマルチな才能をいかんなく発揮した。PPセンターはその後1985年に商品本部、1988年にはクリエイティブ本部へと改組されたが、黒木は両本部長を歴任し、デザイン部門初の取締役就任も果たしてデザイン界では大きな話題になった。なぜなら、黒木の取締役就任はソニーがデザインを重要な経営資源ととらえていたことの証明であったからだ。ソニー企業の社長を経て退社後、黒木靖夫事務所を設立、同時に富山県総合デザインセンター所長に就任し、活動の領域を地場産業や地方のデザイン行政にまで拡大する。
元赤坂にあった黒木靖夫事務所には何度か訪問する機会があった。室内にはアンディ・ウォーホルから送られたという「ウォークマン」のリトグラフが飾られ、だれが来てもウエルカムというドリンクバーが設置され、その中に多くの人に囲まれて楽しそうに対話する黒木がいた。あれは事務所開設から間もないころ、ウィンドウズ95の発売前だったと記憶するが「近未来にはCDとかDVDとは消えて、音楽も映画もすべてインターネットを介して見られるようになる。すべてはデジタル化されて世界中自由に流通するようになる」と、黒木が熱弁していたことを記憶している。当時は何のことだ?とぼんやり聞いていたが、その数年後にはその言葉が現実となった。
黒木の活躍の裏には、当時のソニーの企業風土や時代性もあっただろう。しかし広い視野で世界を俯瞰し、多くの異分野の人々を交わり、アイデアを実現していった黒木から学ぶことは多いはずだ。今回はソニー時代の黒木を知る大矢寿雄さんと、ソニー時代から富山デザインセンターまで、黒木を支えてきた、現富山県総合デザインセンター所長、デザインディレクターの桐山登士樹さんにお話を伺った。(関康子)
Masterpiece
代表作
企業ロゴマーク「SONY」ソニー(1961)
商品開発「ウォークマン」ソニー(1979)
商品開発「プロフィール」ソニー(1980)
商品開発「ジャンボトロン」ソニー(1985)
商品開発「プロフィールプロ」ソニー(1986)
企業ロゴマーク「KAIエッジマーク」貝印(1988)
製品デザイン「透明盾 Pシリーズ」ナンワ(2001)
CIデザイン「Pasco」敷島製パン(2003)
著書
『ウォークマン流企画術』筑摩書房(1987)
『ウォークマンかく戦えり』ちくま文庫(1990)
『大事なことはすべて盛田昭夫が教えてくれた』KKベストセラーズ(1999)
『盛田昭夫と佐治敬三 本当はどこが凄いのか‼︎』(共著)講談社(2000)
『盛田昭夫は会社をこう考えた』(カセットテープ集)PHP研究所(2001)
『ビジネスマンのための個性育成術』NHK新書(2001)
『Mr.ウォークマンの他人とここで差が出る企画術』実業之日本社(2002)
Interview 1
インタビュー01:大矢寿雄さん
インタビュー01:2024年1月30日14:00〜15:30
場所:オンライン
取材先:大矢寿雄さん
インタビュアー:関康子、高橋美礼
ライティング:高橋美礼
ソニーを心から愛し、デザイン部門から経営にかかわる立場へ
日本のものづくりを信じて可能性を高めた功績と影響力
ソニーで手がけた数々の代表作
ー 大矢さんが黒木さんとソニーで働いていた時代のことを聞かせていただけますか?
大矢 黒木さんは1960年にソニーへ入社しました。ちょうど、ソニーが世界初のトランジスタテレビ「TV8-301」を発売した時期です。私は1968年、業界独自のトリニトロンカラーテレビ1号機「KV-1310」が発売された時期に入社し、1970年からソニーアメリカに赴任しました。デザイン拠点を海外に設けたのも、日本の業界では初めてのことだと思います。1ドルが360円の時代ですね。アメリカのニューヨークに3年間いて、現地向けのオーディオやラジオ、テレビなどをデザインしたり、ノベルティ商品のデザインをしたりしていました。帰国後はテレビ事業部で、これも業界初となった、テレビ/ラジオカセット/レコーダー機能が一体化した「JACKAL(ジャッカル)」や、その後の「CITATION(サイテーション)」(13インチポータブルテレビ)などをデザインしました。
それまで我々デザイナーは各事業部に所属していたのですが、黒木さんは直下に開発デザイングループをつくり、そこで私が課長として全体のデザインを見ろということになり、業界初の8ミリムービーカメラなどを世の中へ発表する際の監修などにも携わるようになっていました。1980年代に発売されたカメラ一体型8ミリビデオ「CCD V8」「CCD-TR55」なども、実際に私がデザイン統括担当だった時代に世へ送り出した製品です。
その後、プロダクトだけではないデザイン関連部門も経験しろということで、私は1986年から1990年まではソニー宣伝部門へ異動し、宣伝制作部長としてテレビコマーシャルや雑誌広告などの制作を担当しました。例えば、猿のウォークマン、浅野温子を起用した8ミリビデオ、レベッカを起用したオーディオ、米米クラブを起用したラジカセ、プリンセスプリンセスを起用したシスコンなどが世の中で知られているテレビコマーシャルでしょう。広告代理店とコミュニケーションをとりながら“ソニーらしい広告”を考えて広げていくのが使命でした。猿のウォークマンは、東急エージェンシーインターナショナルと中畑広告制作所との協業で、日本CM協会グランプリ、ニューヨークADC賞、カンヌCM銅賞、クリオ賞などを総ナメにしました。私はこうして宣伝を3年ほど経験した後に1990年から1997年まで再びデザイン部へ戻り、デザインセンター長としてソニー全商品のデザインを統括しました。その頃、黒木さんはソニーを離れたことになります。
ー 大矢さんから見た、ソニーにおける黒木さんの役割と業績について教えていただけますか?
大矢 例えば、ソニーが初めて5インチ「マイクロテレビ」を世に送り出した時の商品広告があります。コピーは「トランジスタがテレビを変えた‼︎」。日本だけでなくアメリカを含めた海外でも展開するにあたって、盛田昭夫さんが黒木さんに新しい戦略を考えさせたのです。コピーだけではなく、大宅壮一さんと組んでマルチプル広告を展開したことも話題になりました。
黒木さんの業績ではやはり海外での仕事が重要だったと思います。1962年にニューヨーク・ショールーム開設プロジェクトの推進、1965年にロンドン・ショールーム開設プロジェクト、1966年にソニービル開設プロジェクト、1971年にパリ・ショールーム開設プロジェクト。そういった海外の主要ショールームを立ち上げるときにはすべて関わっていましたね。こうしたプロモーションや宣伝が得意だったようです。
ー やはり「ウォークマン1号機」の開発の仕事は黒木さんの代表的ですね。
大矢 そうでしょうね。PPセンター・宣伝部本部長に就任してすぐ、1979年に「ウォークマン1号機」の開発プロジェクト、広告宣伝プロモーション推進の仕事をしたはずです。ウォークマンについてはどのようなきっかけで開発がスタートしたのか諸説ありますが、「小型のテープレコーダーに、再生だけでいいからステレオ回路を入れてくれないかな」と井深大さんが事業部にリクエストして、それに従い試作品を作り上げ、盛田さんも興味を持ち、具体的に進めることになって黒木さんが命ぜられ、黒木さん率いるPPセンター(現クリエイティブセンター)のデザイナーが製品デザインから広告宣伝まですべて携わるようになっていったということです。当然、黒木さんも試作機の音を聞いて、これはおもしろいと感じたはずです。「ウォークマン」は、井深さん盛田さん黒木さんの3人が揃って積極的に推し進めていったものでした。ただ、トップがこれだけやる気になっていたけれど、ウォークマンについては否定的な意見も多かったようです。つまり、すでに製品化されていた「プレスマン」にステレオジャックをつけて、大きなヘッドフォンをつけたプロトタイプを経て、開発段階で小さなヘッドフォンを生み出して「ウォークマン1号機」になっていったものだったから。早く市場に出そうとして、基本的には「プレスマン」の型を流用して色などを少し変えたのが「ウォークマン1号機」でしたから。しかし、すべて社内デザイナーが手がけ、その陣頭指揮をとっていたのが黒木さんです。
さらに、発表するものがこれまでにない斬新な商品なら、広告宣伝、そしてマスコミへの発表の方法もこれまでにない斬新なものにしようと試みたのも黒木さんでした。工夫をこらした広告宣伝は当たり、口コミによって評判が広がり、初回生産の3万台は発売後の8月いっぱいで売り切れ、今度は生産が追いつかないほどになり、世界的ヒット商品にまでなりましたからね。
私も実際に「ウォークマン」を持ってアメリカ出張した時には、飛行機内やビーチで人に聞かせると全員が驚きましたよ。体験したことがない音だったからでしょう。最初はたった3万台の予定だったけど、「売れない、売れない」と言われて。しかし一気に売り切ってしまいました。
プロモーションも独自の手法が目立ちました。芸能人を起用してローラースケートで滑走しながらウォークマンを楽しむというメディア記事にしたり、若者向け雑誌「ポパイ」で販促プロモーションを組んだり。黒木さんは当時のメディアにも顔が効く人で、雑誌の編集長やテレビ局の人たちとも付き合いがあったから、そういうつながりをつかってどんどん展開していきました。
そしてオリジナルの型から開発し、さらに小型化させたのが「ウォークマン2号機」ですね。最初からラインナップを多く揃え、世界のニーズにも合うスタイルを提案できたのも、黒木さんがアンテナを張っていたからですよ。黒木さんは文章を書くことも得意だったから、インタビューに応じるだけではなく当時の開発秘話を文章でも残しています。
ー ウォークマンの次に黒木さんの代表作とも呼べるのが、「プロフィール」ですね。
大矢 はい。これもソニーのトップ全員かかわっているプロジェクトでした。最初は、盛田さんが、壁の中に埋め込んでしまうようなテレビはどうか、と話したところ、黒木さんが手描きのアイデアスケッチを盛田さんに見せ、そこからテレビが1台の独立したモニタのような形になっているというアイデアが生まれていきました。チューナーやアンプといったコンポーネントがあるけれど、それと同じようにモニタだけ別にしようというアイデアです。その簡単なスケッチを見た盛田さんが、これはおもしろいというんで開発を進めようと、今度は盛田さんが黒木さんに直筆で書いたメッセージを私も見たことがあります。「テレビをコンポ化する?方向へ持っていったら?」といった内容のメモでした。黒木さんはこうしたやりとりをトップと直接かわしながら、デザインと広告宣伝を一緒に動かすプロジェクトとして事業化していく立場でした。その当時まで、ブラウン管式テレビというのはチューナーと一体化して完成されていたんだけれども、モニタとして独立させる考えはこのとき初めてですよ。
これは笑い話にもなっているけれど、「プロフィール」1号機が世の中に出てヒットしたとき、盛田さんが秋葉原へ行ってモニタ化したテレビを指差して「これがプロフィールだよ」と示したら他社製品だったということがあって(笑)……。つまり他社がすぐに真似したくなるほど新しいテレビだったということです。ソニーはそういった原型となるものを世の中に送り出して話題になり、また別の商品で原型をつくってきました。「プロフィール」では初めにアイデアがあって、そのアイデアを黒木さんがソニーのトップとコミュニケーションを取りながら膨らませて商品化していったもの。ですから、黒木さんの功績は大きいでしょう。「プロフィール」の新聞広告も、「最新鋭トリニトロンは、『裸』です。」という秀逸なコピーとともに大成功を収めました。1986年には「プロフィール・プロ」として、スタジオなど業務向けのプロ仕様となり、スタッキングができるモニターとして活用されるようにもなっていきましたね。マルチのモニターとしてテレビモニタが利用されるようになったきっかけとも言えるでしょう。
ー このモニタを、ナム・ジュン・パイクに代表されるようなアート作品に使う芸術家も登場しましたね。
大矢 そうでしたね。黒木さんはそういったアーティストにも積極的に直接会って、ソニーの技術や製品を提供するようなこともしていました。企業人として文化を支える意識も高かった。そういう意味で、このモニタはプロ仕様にも展開できた成功例です。
1982年のことですが、黒木さんの直下に開発チームを置くことになり、私も加わって「ウォッチマン」の商品化プロジェクトが進められました。これも「初めにデザイン発想ありき」。黒木さんは事業部が発想してくるものや、ルーチンとなっている企画会議で上がってくるものにはそれほど興味を示さず、常に自分たちでオリジナルなアイデアを膨らませたい人でした。誰も発想しないところから考えるのが好きだったのです。私の部署にいたスタッフが提案したのが、外出先でパッと見られる簡単なテレビはないか、というものでした。例えば、野球観戦に行ってその場で情報が確認できる、手のひらサイズのテレビのようなもの。それでスケッチをたくさん描いたなかから、黒木さんがおもしろいと感じたデザインが選びだされました。しかし、商品として実現するためには新しいブラウン管の設計も必要だということで、今度は技術開発にも協力を求めていくわけです。そこの部長も、このアイデアはおもしろいと乗り気になり、普通のブラウン管は直線に配列していくところを、手のひらサイズに小さくするために直角にぶつけようということになり、なんだかんだ開発に2年間ほどもかかりました。そしてできたのが、小さな扁平管です。デザイナーのイメージ通りの大きさにまでなり、最終的に初代「ウォッチマン」として商品化されました。それまでに世の中になかったブラウン管を開発して、当時としては画期的な発想の商品でしたよね。
ー 1985年には「ジャンボトロン」を発表しています。この時期も大矢さんは黒木さんの元でプロジェクトに加わっていたのでしょうか?
大矢 直接プロジェクトにかかわってはいませんでしたが、黒木さんの仕事ぶりは見ていました。最初の発想は、つくば万博に参加しようというところからスタートし、大賀さんが参加するからにはソニーらしいダイナミックなことをやろうということになったのです。当時、東京・銀座のソニービルには、ブラウン管式テレビを何百個も重ねてつくり上げていた大画面があって、それをもっと大きくした画面をつくば万博の会場でできないだろうか、という発想につながりました。プロジェクト推進を任された黒木さんの手描きのスケッチが、これも残っているんですよ。黒木さんは手描きのスケッチがうまかったね。いつだったか、黒木さんが日本画家の平山郁夫さんと一緒に敦煌のツアーに参加したことがあって、敦煌でもたくさんスケッチを描いていたら平山郁夫さんに「あなた上手いね」と褒められたそうです。その絵はいまでもご自宅に飾ってあるはずですよ。
「ジャンボトロン」は最終的に、電子発光菅15万個を使う技術開発を駆使して完成し、つくば万博のソニーパビリオンでその巨大なモニタが話題になりました。苦労話はたくさんありますが、やはり雨風に耐えるものでなければならないこと、昼間の屋外でテレビの明るさを出すということ、それが最大の課題だったかもしれません。並大抵の技術力じゃないわけです。
余談になりますが、私はこの時期に結婚したんです。黒木さんが仲人をしてくださったんだけども、つくば万博の会場でこの「ジャンボトロン」に僕ら2人を写して、さらにその様子を映像に残しておいて私たちの結婚式で見せたりもしました。「ジャンボトロン」を使って楽しんでしまった(笑)。そんな時代でした。
これだけの大規模プロジェクトは黒木さんだから動かせたと思います。全体の予算を把握するのはもちろん、技術開発にも実際に動いてくれる部署のトップクラス、あるいは文化人に技術を提供することもスムーズにサポートできるような経理のスタッフ。一緒になってプロジェクトを進める人たちを、黒木さんは周りに従えていましたね。
人間は誰でも、この人のためにならやってやろう、と思える上司がいないと、いくら仕事でも動けないものです。黒木さんは、この人のために働こう、と思わせる人間性がありました。
新しいもの、最新の情報にも敏感
「この人のためなら働こう」と思われる人間性
ー 黒木さんの人間性とは、どのようなところに感じましたか?
大矢 私が黒木さんとマンツーマンで向き合っていたから、ということかもしれませんが、お互いの信頼感があるっていうことですね。黒木さんも、井深さんや盛田さんのためならなんでもやってやろう、という気概があった。大賀典雄さんも黒木さんの才能を知っているから、どんどん仕事を任せていたっていうこともあるでしょう。ある意味では、大賀さんと黒木さんは似ているのかもしれません。それがちょっとバッティングしているところは、あったかもしれません。大賀さんは、「ウォークマン」ができたときに、自分が責任者ならこれは世の中に出さない、という姿勢でしたよ。なぜなら、技術的な新しさがないからです。ヘッドフォンは確かに小さくしたけれど、すでに発売されていた「プレスマン」を改造しただけだから。大賀さんはどちらかというと、新しいフォーマットのCD、MDのような、業界として新しいガジェットを推進して開発するのは当然だという姿勢でした。井深さんと盛田さんは、そういった2人の違う思想もわかっていたと思います。だから「ウォークマン」を黒木さんに任せた。トップの考え方によって大きく変わってくるところでしたよね。
ー PPセンターと宣伝部を統合して商品本部をつくったのも、黒木さんがいたから、でしょうか?
大矢 黒木さんがいたことによって、デザインや宣伝だけではなく技術、それから商品の取扱説明書を担当する部署、写真スタジオ、そういった職能を複合的に集団化した組織に変わったと思います。ある意味では、自分たちが発想したものは最後まで完成させるという体制です。仕事と仕事の隙間をアメーバ的に動き回る企画や技術が必要で、事業部の垣根にとらわれずに企画し、オーディオやビデオだけに特化しない企画も進めるという部署でした。先ほどの「ジャンボトロン」は、この商品本部の体制から生み出されたものでもあります。会社としては、マーチャンダイザー制度の導入で、商品企画、デザイン、設計、製造、宣伝、発売まで、いわば川上から川下まで携わる横断的な人材を育成する目的もありましたね。ですから当時、社内募集をかけて人材を集めました。その募集要項も変わっていて(笑)、「デザインや宣伝に興味をもつ人」というのは当たり前だけれどそのほかに、「車やオートバイやカメラが好きな人」「原宿や秋葉原を知っている人」「ビリージョエルを聞き、FM東京をエアチェックする人」「理屈をこねない人」といった一風変わった条件がいろいろと書いてありましたよ。
ー そういった新しさにも黒木さんは積極的だったわけですね。
大矢 当時、私がラスベガスにあるコンシューマーエレクトロニクスショーへ出張したとき、とあるメーカーのデモでマイケル・ジャクソンが発表したばかりの「スリラー」のMVを流していたのを見ましてね。会場では、本来のハード製品よりもその映像が話題になってしまって、私も映像テープを持ち帰って社内会議で報告したところ、黒木さんが「その映像をいまここで見せろ」と言うんです。会議室で放映したところ、黒木さんはすごく面白がったのが印象的でした。そういう、新しいものや最先端の流行を、とても敏感に受け入れる人でしたね。広告代理店や大手メディアとのネットワークができるのは仕事上で当然ですが、もっと人として必要な文化的な経験や体験をしろ、というふうにやってきた感じはあります。
ー 黒木さんは取締役になりましたよね。日本の企業では初めて、デザイン部門から取締役になったことが話題になったと記憶しています。
大矢 そうですね、経営にかかわる役員にデザインから上がっていったのは黒木さんが初めてでした。その後は、シャープの坂下清さんなどが続きました。
黒木さんの仕事に話を戻すと、1961年に「SONY」のロゴタイプのデザイン変更も任されたことも忘れてはいけませんね。当時、盛田さんが香港に新しくネオンサインがつくのだが、いいアイデアはないか、新しいロゴでサインを出せ、と命ぜられて香港に出したのが、当時のロゴでした。ロゴに関しては、定期的にチェックして微妙ながらも時代に合わせて変えていっています。グラフィックデザインの担当者と一緒に黒木さんが手がけてきました。その延長線上に、ソニー創業35周年のとき、1981年に、もうそろそろソニーのロゴを変えてもいいのではないかとなり、黒木さんが中心となって、世界中からロゴを公募したことがあります。アメリカの『TIME』誌や『New York』誌にも大きく全面広告を載せて、日本国内でも大変な話題になりました。結果的に、29,883点の候補から黒木さんは1つ選びだしたところ、井深さんが「やっぱり今のままが明快でいい。俺が生きている間はロゴを変えるな」と言ったらしいのです。確かにいまそのロゴ候補を見ると、あまりに簡潔化していて読みづらくも感じますから、ソニーと判読させるには難しかったかもしれません。入賞者には賞金を与えたようですが、結局ロゴは変わりませんでした。黒木さんはそんなふうに、ソニーのことを考えながら、常に次の世代を考えて動く人でした。
ソニーの代名詞的にもなった「It’s a SONY」のロゴとテレビコマーシャルに採用したサウンドロゴも、黒木さんの時代に登場したものです。これも盛田さんが、2次元のロゴマークだけではなくテレビやラジオコマーシャルでも認識されるような音を考えろということで実現させたようです。
ー 当時の井深さん、盛田さんと、デザイン部門を率いていた黒木さんの関係性は、どのようなものだったのですか?
大矢 黒木さんは、井深会長、盛田社長に学び、そこから多くの要望を受けていたと思います。ソニーはある意味で「三位一体」というか、井深大さん、盛田昭夫さん、大賀典雄さん、それぞれの強いところがうまく寄り添って、ソニーという新しい会社が伸びていったのは間違いありません。経営者は大切だと思うけれど、これだけの錚々たる人はなかなかいませんね。この3者の関係は素晴らしかった。盛田さんは大賀さんが芸大時代に、音楽関係のことは任せたいからと呼び寄せ、大賀さんは幼い頃から欧米の本物の音楽機器が身の回りにある環境で育っているから、いいものを見る目、聞く耳を持っていたんだよね。そこに盛田さんは注目したわけです。黒木さんはこの3人とダイレクトに接していたし、食事をしたり、井深さんとは麻雀もしたんじゃないかな。黒木さんはそうやって、コミュニケーションがうまかった人で、トップも黒木さんの手腕を買っていろいろなプロジェクトを任せていました。黒木さんもトップの考えを受け入れて、目指す方向を間違えずに進めていく人でしたから。
文化人、財界人とのコミュニケーション
そして人的ネットワークを活かした独立後
ー 大矢さんが覚えているなかで、黒木さんらしいエピソードはなにかありますか?
大矢 いくつか思い出して箇条書きにしてきました。
<週に1回のデザイン会議に井深さん、盛田さんも参加させ、デザインについては新人でも直接トップの前でプレゼンテーションさせた>
これは、一般的な企業では考えられないでしょう。黒木さんは、デザインに関わることはトップにも直に聞いてほしいし、デザインを担当した本人に説明させたい考えがありました。
<常に「コンビンスパワー(説得力)」という言葉を使っていた>
つまり必要性ですね。デザイナーもマーケッターであるべき、と黒木さんは考えていました。
<文化人たちと「少年クラブ」をつくっていた>
社外での活動ですね。田中一光、石岡瑛子、横尾忠則、繰上和美、浅葉克己、藤本晴美らと月に1回くらい集まっていたらしいです。ゲストには、盛田昭夫さんを連れていったこともあったし、坂本龍一、木滑良久(ポパイ編集長)などがいて、アーティスト、クリエイター、メディアを横断して異業種人との交友が深かったですよね。後に、富山デザインセンターへもこうした人たちに声をかけていたようです。ソニーを辞めて独立する際にも、人的ネットワークがすばらしい人だったから、細川護煕、堤清二、福原義春、中沖豊、今野由梨、といった政財界の人たちとの交流も活かされていたと思います。
<「仕事はおもしろくやれ」「常におもしろい仕事ばかりではない」「苦しい時ほどネアカにやれ」>
こういった言葉を常に黒木さんから聞かされていました。とてもよく覚えています。
プライベートでは麻雀好きで知られていましたね。毎年、自宅や温泉地で、知り合いを数十人集めては麻雀大会を開いていました。ゴルフの大会もしていたし、人が集まる場が好きな人でした。黒木さんは、ソニーを心から愛し、話の引き出しが豊富で、講演会も得意、そしてアーティストへの理解がとても深い人でした。
ー ソニーを退職後、独立してすぐに富山インダストリアルデザインセンターで初めに黒木さんがセンター長になり、桐山登士樹さんとデザインコンペなどを始めましたよね。その後、大矢さんが後任としてセンター長を引き継いだのはなにか、いきさつがあったのでしょうか?
大矢 ひとつは、黒木さんのお別れの会のときに桐山登士樹さんと話し、次に頼める人がいないと聞いて、それなら引き受けてもいいですよとはお答えしていました。その後、富山県でどういった検討があったかはわかりませんが、結果的に依頼されたので後任になりました。
ー ソニーでも、大矢さんがクリエイティブ部門を引き継がれ、富山も引き継がれたことになりますね。なにか、黒木さんがつくりあげた後を任された際の覚悟というか、考えはありましたか?
大矢 黒木さんほどのネットワークを私はもっていないので、同じように動くのは難しいと思いました。しかし、富山県の地場産業については、いかにデザインで盛り上げていくかを考えて、私にできる限りの施策をしてきました。トップの考えが変わらないと始まらないから、県内のトップ企業20社くらいに声をかけて、ソニーでの経験を話しながら、いままで地方の産業が請負とか下請けが多かったけれど、そればかりだと先細りになってしまうから、5%でも10%でも、新しいものづくりに挑戦すべきだと。そこから新しい動きも起こるだろう、という考えからです。デザインコンペなどから商品化すれば、話題性も高まります。それ以外に推進したのは、おみやげプロジェクトです。富山の産業はたくさんあっても、空港を降りたところに何もないなということで、食も含めて富山が自慢できるものを集めてブランド化させるプロデュースを、デザインセンターが中心になって進めました。メーカーも数社入れながら、グラフィックデザイナーも含めて試作品をつくって。県庁にプレゼンテーションをするんだけれども、トップと直に話し合おうということになり、県知事が出張で東京の事務所にいる時に合わせて試作品を持っていってね。当時、富山には多くの人が来るけれど手頃なお土産がないことを県知事も感じていたようで、すぐに話が進みました。やはりトップと直接話をするというのは、ソニーでも同じ経験をしてきたことが役立ったのかもしれません。もちろん、黒木さんがセンター長だった時代から、富山では桐山登士樹さんと一緒に進めてきた功績は大きいと思っています。
ー 貴重なお話をありがとうございました。
Interview 2
インタビュー02:桐山登士樹さん
インタビュー02:2023年12月21日11:00〜12:30
場所:株式会社TRUNK
取材先:桐山登士樹さん
インタビュアー:関康子、高橋美礼
ライティング:高橋美礼
ソニー退職後、独立
人脈と個性的な人格が日本のデザインを変えた
日本のものづくりに必要なのは
「CPUを変える勇気」
ー 桐山さんが黒木さんとお知り合いになったのはいつ頃でしたか?
桐山 出会いは 1981 年だったと思います。ちょうど六本⽊にアクシスが開業したときでエットレ・ソットサスが来⽇し、宣伝会議に勤めていた僕はソニーの取材をすることになって⿊⽊さんと会いました。当時、ソニーの PP センター(PP=プロダクト・プランニング)は北品川の御殿山にあって、⿊⽊さんの部屋を訪ねたのが最初でした。⿊⽊さんは、私に限らず来客には誰でもウェルカム、とてもオープンな方でした。
現在のソニーはセキュリティーが厳しいですが、その頃はセンターの真ん中まで入れて、会社全体がオープンな雰囲気でした。みんなイッセイミヤケのユニフォーム(制服)を着ていて、かっこ良かったですね。他社とは少し違う個性的な雰囲気が漂っていました。
黒⽊さんの周りを固めていた⼈たちも素晴らしい⽅々で、そのうちのひとりが渡辺英夫さんですね。すでに⿊⽊さんは“偉い⼈” (業界でよく知られている)だったから、私の⽅から黒木さんへ連絡することはありませんでしたが、⿊⽊さんから直接「ちょっといま来られない?」と電話があって、ソニーの本社へ⾏く、そんな感じでデザインのよもやま話をするような関係でした。
ー どういうよもやま話だったのですか?
桐山 ⿊⽊さんは博学で、どんなことにでも興味をもつ⼈でした。国内外のデザイン動向や建築家、デザイナーなど、私の知っていることについて興味深かったようで、あたたかく迎え⼊れてくれ、北品川に通っていました。その後ソニー企業の社⻑になってからも、銀座にあったビルへ呼ばれて訪ねていました。
ー 黒木さん自身はグラフィックデザインが専門でしたが、ソニーではどういう存在だったのでしょうか?
桐山 黒木さんはある意味、デザイナーがあたためていたアイデアを経営陣にまで上げる役⽬、いまでいうプロデューサー的役割をしていたと思います。「ウォークマン」などが象徴的ですね。新しいことが大好きだった人で、たえずソニーデザインのありようを考えていた人でもあります。⼀般的な企業では、何⽉何⽇の新製品発売を⽬指すという企画開発会議があって、デザインもその⼀部の役割を担うような流れでものづくりをしていましたが、ソニーはもっと自由な提案型でした。そのなかで⿊⽊さんは、部下の考えていることや、直接の部下ではなくてもエンジニアのアイデアを盛⽥昭夫さん井深⼤さんにぶつける、という稀有な存在でした。そして⿊⽊さんについていちばん特徴的だったのが、やはり PP センターかもしれません。デザインだけではなく広報もあれば、宣伝もある、当時としてはかなり個性的で横断的な組織でしたね。
ー 黒木さんのようなキャラクターの人が輝いていたのは、あの時代だったからかもしれませんね。
桐山 それは大きいですね。ソニーデザインが輝いていた。あの勢いがいま、デジタル時代になりアプリに取って代わられる 21 世紀になっています。またはアメリカのシリコンバレー系の IT企業(GAFAM)が、という時代になったわけです。
ー 日本の1980年代から90年代は、大手企業に名物部長がいるような、企業におけるデザインセンターの役割が注目された時代でした。そうした状況は変わってきていると思いますか?
桐山 いま一番変えなくてはいけないのは、ソニーの PP センターみたいな包括するクリエイティブな組織です。大量生産型のプロダクトをつくるというのは 20 世紀型のひな型です。
現代では、デザインはもっと領域を越えて経営にかかわり役割を果たす時代ですよね。企業のエンジンとなるものを⾒つけ出すことが⼤切で、そこにデザイナーたちが関与できる環境を整えなければなりません。量⼦コンピュータや⽔素エンジン、環境に配慮した新素材など、次の時代を生み出す大きな転換点だと思います。
⿊⽊さんはそういうところの発想が⾮常に柔軟な⼈でした。⿊⽊さんの⾔葉で鮮明だったのは「⽇本は DRAM ばっかりつくっていてはダメになる、CPU をつくり出せなければダメなんだ」ということ。CPU を作れる国になるということ=⼼臓部を掴む、ということなんだと力説していました。
富⼭のデザインセンターの業務は自由に担当させていただきました。黒木さんは私の企画を喜んでみていてくれました。⿊⽊さんとも⽉に1、2回お酒を飲む機会があり、さまざまなものの捉え方、考え方を学べ、とても良い機会となりました。考え⽅が柔軟で発想の幅が広い。⿊⽊塾の直の⾨下⽣でいられたことは私にとって幸運でした。
ー もし黒木さんが当時、松下やトヨタにいたら同じような存在になれましたか。
桐山 いや、やはりソニーだったからだと思います。⽇本の⽂化の貧しさをまねいている⼀因は「出る杭は打たれる」こと。⿊⽊さんは、残念ながら組織のなかでは、そのひとりだったと思います。井深大さん、盛田昭夫さん率いるソニーであっても。世の中を変えるのは変⼈や狂⼈と言われるような⼈物(天才)です。それに近しいところにいたのが、⿊⽊さんじゃないかと個人的には思っています。異なる分野の専門家の話を聞いたり、議論するようなものづくりの⼟壌が⽇本にはまだまだ⾜りなくて、どうしてもわかりやすい⽅にいこうとしてしまいますが、現代のように多様で複合的な時代になると、これまでのような単脳では満たされなくなってきているので、本当に⿊⽊さん的なキャラクターが必要なんですよね。先⾒性や次の時代の予知予測能⼒はデザイナーには必要ですね。⿊⽊さんの⾔い⽅で⾔えば「CPU を生み出す環境」です。
ー その後、渡辺英夫さんが引き継いで、一般的な企業のデザイン部署よりは幅広く、マーチャンダイジングまで手がけるマーチャンダイジング戦略本部というクリエイティブを担う組織になっていったわけですよね。
桐山 はい。⿊⽊さんは常に幅広いアンテナを張っている⼈でしたから、いろいろなアイデアを着地させるのに渡辺さんのような実務に精通した参謀が必要でした。みんな⿊⽊さんの元に団結していた。そういう流れをよしとする⼈もいれば、⼤賀典雄さんや出井伸之さんのように肌が合わない⼈もいたでしょう。これは個人的な感想です。私はあくまでも⿊⽊さんが求めることに応えていただけだから、ソニー内での⿊⽊さんは知らないことが多いです。私がよく知るのはソニー企業退社後、独⽴してからです。
富山デザインセンター長として
地方のデザインを活性化
ー では独立して以降のお話を。黒木さんはソニーを1993年に辞め、元赤坂に立派なオフィスを構えました。
桐山 あれは正直⾔うと、⿊⽊さんには必要ないオフィスだったと思います。当時、私はどう薦めたかというと、オフィスが広いのはいいけど維持管理が⼤変だし、⾼額な家賃ももったいない。それなら⾚坂プリンスのようなホテルを 1 部屋借りて、そこをオフィスにすればいいですよって⾔ったの。ご飯⾷べるにしてもホテルならルームサービスがあるし。でも⿊⽊さんは⾃分の城を持ちたかったんでしょうね。ソニーの役員だった時代、時代を象徴する⼈たちと⼀緒に働くなかで、⿊⽊さんも折れる⼈ではないし信念を貫きたい⼈でしょ。本⼈のプライドも含め、いろいろあったんだったと思います。
なぜ⿊⽊さんが私のことを気に⼊ってくれていたのかはわかりませんが、改めて振り返ると、関係はニュートラルだったと思います。ソニー時代に利害関係はありませんでしたし、聞かれたことは正直に答える。そうこうしているうちに、⿊⽊さんがソニーを辞めることになって。そうすると、先に独⽴して起業している点で私の⽅が少し先輩なわけです。⿊⽊さんが起こした会社をどう経営していくか、実際にはソニーを経営する⽴場だったから経験はあったわけですけれど、資本⾦のことなど会社経営に関して具体的に聞かれたりしましたよ。
ー 独立して、黒木靖夫事務所になったのですね。
桐山 そう、黒木靖夫事務所です。当時は、下河辺淳さんをはじめ、国や大手企業の経営者など重鎮がよく訪問されていた、黒木サロンでした。ソニーの若⼿では、澄川伸⼀さんや安次富隆さん、和⽥功さんらが⿊⽊さんを慕って来るような場所でした。
ー 桐山さんは黒木靖夫事務所でも取締役として机を並べ、事務所の運営をサポートしていた記憶があります。
桐山 ⿊⽊さんは個人経営をやったことがないので、そういう意味では側近が必要だったんですね。私は取締役ではなかったけれど、⾃分の会社を経営しながら、⿊⽊さんの事務所を⼿伝い、富⼭の仕事もしていました。1〜2年くらいやったかな。私も多忙でしたから三つを行うのは無理だと黒木さんに話し、代わりになる方を紹介しました。
ー その頃、すでに黒木さんは富山デザインセンターのセンター長だったのですか?
桐山 はい。当時の名称は富山インダストリアルデザインセンター。富⼭技術開発財団の下に所属する形だった頃です。前任者の平野拓夫さんから⿊⽊さんに替わってセンター⻑に就任しました。
ー 黒木靖夫事務所は、富山に主軸を移された時点でなくなったのですか?
桐山 いや、ずっとありましたよ。⿊⽊さんは⽉に1〜2回富⼭に⾏けばよかった。拠点はずっと⾚坂に置いていました。⾚坂で5〜6年活動し、その後世⽥⾕に移しました。インテリアデザイナーの北岡節男さんが手掛けられたモダンな建物が砧公園の近くにあって、そこに移られたんです。その頃からは、長女の⿊⽊有子さんが秘書を務めデザインやブランディングの仕事などをしていたと思います。松下電⼯、パスコなどのコンサルをやっていたと記憶しています。
ー 実際には桐山さんが実務を担当していたと思うのですが、富山県総合デザインセンターでコンペを始めるなど、いまの礎のある程度の柱は、黒木さんが形づくったのでしょうか?
桐山 私が好きなようにやらせてもらった、ということですね。⿊⽊さんは私が企画したことへの“NO”は出しませんでした。⿊⽊さんという著名⼈が来てくれ、迎えられた⼈だったから、⿊⽊さんが主にやっていたことはロビー活動でした。富⼭県知事をはじめ、県内企業の経営者、組合の理事長など重要な⼈たちと会ったり、講演会をしたり。
私が富⼭プロダクトデザインコンペ(現在の富⼭デザインコンペ)を企画したとき、私は全国レベルのコンペにしようと考えたんだけれど、地元企業の貢献度を提案したのは⿊⽊さんです。⿊⽊さんのなかではその頃すでに⼤⼿企業の役割は出来上がってしまっていて、「これからは地⽅の時代」ということをいち早く明⾔していました。だから富⼭県企業が課題を出したコンペにしたほうがいいと⾔っていたことを鮮明に覚えています。
また、富⼭プロダクツという認定制度については、私ではなく⿊⽊さんの提案でした。富⼭のグッドデザインマークをつけても、ありがたがられるのかどうか、と思っていましたが、⿊⽊さんはわりと強く主張されました。
富山プロダクトデザインコンペティション審査会の様子
ー 世界のソニーで活躍されていたからこそ、日本の地方を活性化したいという強いビジョンが黒木さんにはあったのでしょうか?
桐山 それはあったと思いますよ。ソニーでやってきたこととは別な軸で、中⼩企業を活性化することを考えていたのでしょう。あの頃の講演会の記録をひもといてみても、当時からすでに「地⽅の時代」と⾔っているところはちょっと政治家向きだったと思います。実際、⿊⽊さんに、国会議員になったらどうかと薦めたことがあります。10 万票くらい集めれば議員になれそうだったし、政治からデザイン振興を推し進めてほしいと考えました。そしたら黒木さんは「僕は朝が弱いからダメだ」って(笑)。
ー 黒木さんが所長時代に立ち上げ、いまも続くプロジェクトはデザインコンペなどがありますが、1980年代の日本は特に「地方の活性化」などが強く叫ばれた時代でもありました。根づいているものはそれほど多くなくて、その意味では富山が確実にひとつの指針を示していますね。
桐山 デザインをもっと横断的なものにしなければならないと考えてきました。富⼭にはデザイナーがいないなら、連れてくるしかない、じゃあそれってどういうやり⽅があるか考えて。デザイン会議をして、⼤⼿企業の⼈との交わりをつくるとかね、時代ごとの役割を探ってやってきました。⿊⽊さんはそれに“NO”を⾔わなかったし、その後をついだ⼤⽮寿雄さんも“NO”は出しません。だから 30 年突っ⾛ることができました。でもそれもそろそろ変えないといけないかな。
20 世紀の⾼度成⻑期時代のひな型のなかで、⿊⽊さんはその勢いに乗ってきたし、私もそう。でも、21 世紀になって 20 年以上が過ぎた現在では、20 世紀と良い意味で決別しないとマズイと思っているんです。そうしなければ⽇本の企業は⽣き残っていけないんじゃないかと。もっと違うアライアンスを組むか、ダイナミックな踏み出し⽅をしていかなければ、富⼭といえども、⼤⼿企業に依存型のサプライヤーを組織変更しないといけないなと思っているわけです。
これがまっさらな⼤地だったらスムーズだったかもしれません。⿊⽊さんはポーカーフェイスでね、その最初のまっさらな状態できれいな話を聞かせてくれた。それはそれですごくよかった。私はそのオブラートに守られて、さらにベタな仕事がやれた。⿊⽊さんというオブラートがなかったらもっと⼤変だったかもしれません。
ー 富山デザインコンペティションには、2007年から2018年まで特別賞として「黒木靖夫賞」がありました。
桐山 いまは賞の名前としては残っていません。個人的には残したかったのですが、⿊⽊靖夫って誰ですか、という時代が訪れたことも確かです。特にいまの若い世代には、時代に名を馳せた⼈たちに対するリスペクトは薄いので、⿊⽊さんの名前に拘っても意味がないことかもしれません。ただ、「デザインは楽しくなきゃいけない」、「実践してみてダメだったら元に戻ればいいんだ」というような⿊⽊語録はたくさん残されています。⿊⽊さんが亡くなった後、功績をたたえて富⼭で展覧会を開いたときに、どんなことを発したのか、まとめました。記録は冊⼦「Design Wave 2007 In Toyama」にまとまっています。
ー その記録も参考にさせていただきます。貴重なお話をありがとうございました。
黒木靖夫さんの記録
「Design Wave 2007 In Toyama」
Webサイト「富山デザインウエーブ」 から閲覧可