日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

桑沢洋子

衣服デザイナー、教育者

 

文:常見美紀子(デザイン史家・元京都女子大学教授)

PROFILE

プロフィール

桑沢洋子 くわさわ ようこ

衣服デザイナー、教育者

1910年 東京市神田区生まれ
1928年 女子美術学校(現・女子美術大学)師範科西洋画部に入学
1933年 新建築工藝学院入学
    月刊誌『住宅』の編集に参加
1937年 『婦人画報』発行元の東京社に入社 (~42)
1942年 桑沢服装工房を設立
1947年 「服装文化クラブ」設立
1948年 日本デザイナークラブ(NDC)創立に参画
    多摩川洋裁学院を設立、院長就任
1950年 桑沢デザイン(KD)技術研究会設立
    女子美術大学短期大学部服飾科講師に就任
1952年 女子美術大学芸術学部図案科講師
    『KDニュース』創刊
1954年 桑沢デザイン研究所を創立
1955年 有限会社桑沢デザイン工房を開設(~1972)
1958年 第3回日本ファッション・エディターズ・クラブ賞受賞
1960年 女子美術大学短期大学部服飾科教授
1964年 オリンピック東京大会要員のためのユニフォームデザインに参加
1966年 東京造形大学を開学、学長に就任
1968年 大阪万博覧会の民芸館コンパニオンユニフォームをデザイン(共同:柳悦孝)
1973年 藍綬褒章受章
1977年 逝去(4月12日、享年66歳)

 

桑沢洋子

学校法人桑沢学園蔵

Description

概要

桑沢洋子(本籍名:桑澤千代)は、現在の桑沢デザイン研究所と東京造形大学の創立者であ り、バウハウスの思想を取り入れた近代的なデザイン教育によって、日本の戦後のデザイン の礎を築いた。特に桑沢デザイン研究所からは、グラフィック・デザイナー、青葉益輝、浅 葉克己、長友啓典、インテリアデザイナー、倉俣史朗、内田繁、五十嵐久枝、吉岡徳人、他 植田いつ子、五味太郎、滝沢直己ら、日本のデザインを牽引した逸材を多く輩出している。 まだまだ女性が第一線で活躍することが困難であった時代に、衣服デザイナーとしての活 動と同時に、デザイン教育機関を創設し、自らの信念にそってデザイン教育にあたった桑沢 洋子とはいかなる人物であったのだろうか?
1910年生まれの桑沢は女子美術大学を卒業後、建築家、川喜田煉七郎が設立し、亀倉雄策らも所属していた「新建築工藝学院」で学んだ。桑沢にとって、ここでバウハウス由来の構成教育を受容したことが、その後、近代デザインの理念を基盤とした衣服デザイナーとして、そして教育者としての礎となった。
戦後、桑沢は主に衣服デザイナーとして活躍した。それらは主として生活の中の衣服、すな わち仕事着(野良着・ユニフォームを含む)であり、仕事着の素材である合成繊維ビニロン の開発を通して、民芸の柳悦孝ととも、「日本的なるものの美」を探求する。バウハウス理 念を学んでいた桑沢は、衣服デザイナーとしては珍しく、確かな知識や技術、科学 的調査と分析を駆使した。そのアプローチはいわゆる衣服デザイナーというよりもインダ ストリアルデザイナーのものであり、数々の優れた業績を残した。
そうした思想が教育機関設立の大きな動機となった。また注目すべきは桑沢をサポートし た才能ある人々である。先述の柳悦孝、亀倉雄策に加えて、橋本徹朗、佐藤忠良、朝倉摂、 勝見勝、剣持勇、清家清、渡辺力、高橋正人、清水幾太郎、石元泰博、金子至らが、桑沢の 下で新しいデザイン教育を実践し、50年代の日本のデザイン運動体としても機能した。
ここでは、桑沢洋子を研究し、『桑沢洋子とモダン・デザイン運動』の著者にしてデザイン 史家の常見美紀子さんに、デザイナー、教育者としての桑沢と戦後の日本のデザインのかか わりを軸に原稿をまとめていただいた。なお現在、桑沢洋子の資料とアーカイブは彼女が創 立した桑沢デザイン研究所及び東京造形大学デジタルコレクション、デジタルアーカイブ として整備されている。

Masterpiece

代表作

デニムのオーバーオール (1952)
ビニロン展出品作品 (1956) テキスタイル:柳悦孝
和服の要素を入れたハーフコート (1957)
日本の味ー法被と股引 (1958)
パンツスタイルの部屋着 (1960)
シャツスタイルのレインコート (1965)
日石サービスマン・ユニフォーム 白色の整備服 (1969)

 

 

著書

『きもの』岩波書店(1953)小川安朗共著
『現代のアクセサリー』河出新書(1956)共著
『生活の色彩』河出書房(1956)*勝見勝編著、6章~10章(桑沢担当)
『ふだん着のデザイナー』平凡社(1957)
「日本デザイン前史の頃の人々」『日本デザイン小史』日本デザイン小史編集同人(1970)
『桑沢洋子の服飾デザイン』婦人画報社(1977)
『桑沢洋子随筆集遺稿』学校法人桑沢学園(1979)

 

桑沢洋子 作品

 

よいデザインとは、目新しいものではなく
人の生活に役立つものでなければならない

デザイナーまでの道のり

生まれ

桑沢洋子(本名:桑澤千代、以下桑沢と表記する)は、1910年、羅紗問屋を営む桑澤賢蔵・しま夫妻の5女として、東京市神田區東紺屋町十八番地(現・千代田区岩本町2-2-6)に生まれた。母しまは自分が正しいと思うことは父親と争ってもゆずらず、女は弱い者であるという常識にとらわれず、女も男も同等に正しく生きることを教えた。着るものも貴族的でなく、庶民的かつ気品のある、合理的なものを選んだという。

 

女子美術学校、新建築工藝学院での学び

1928年、桑沢は、女子美術学校(現・女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。女子美時代について、「静物画を描く場合でも、美しいリンゴやバラの花より、あざみや野生の百合が好きだった。人物いえば、美しく着飾った女より、藍色のトックリセーターを着た男を描きたかった」と回想している。しかし、西洋画部に進学したものの、新しい絵画も桑沢の心を大きく揺さぶることはなかった。
桑沢は、女子美術専門学校(名称変更)を卒業した半年後,1933年に銀座西7丁目で新しい建築や商業美術や絵の基礎を教える夜学、新建築工藝学院に入学した。この学校は、建築家・川喜田煉七郎(1902-75)が設立した。バウハウス・デッソウで学んだ、水谷武彦(1898-1969)、山脇巌(1898-1987)・道子(1910-2000)夫妻が講師を務めた。当時、バウハウスの予備課程教育を取り入れた学院は、注目の的であった。桑沢は、この学院で初めてバウハウスを知る。後年、彼女は「勤めの帰りにいそいそとこの夜学に通った。学院の教育内容は,建築的総合を目指す造形の追求であり,『構成教育』と名づけた独自の造形の基礎訓練を中心になされていた」と回想する。
構成教育とは、「平面構成」から「立体構成」へ、「色彩構成」から「材料構成」、そして「構造」へと段階的に組み立てられ、眼と手を使い、形・色・材料の造形3要素を、自由に駆使する新しい教授法で、新芸術を生み出す教育であった。
学院は、1934年の1月から7月までは、構成教育科、洋裁科、織物科、建築科、絵画科、演劇講座の6科となった。この時期は、構成教育を女性に適用する試みとして、「洋裁科」と「織物科」が昼に開講された。織物科ではバウハウスで織物を学んだ山脇道子が、洋裁科ではアメリカで裁縫手芸を習得した景山静子が教えた。
この学院の講師を務めた橋本徹朗は、戦後に多摩川洋裁学院、桑沢デザイン研究所の創立の中核の一人となる。また、グラフィック・デザイナーの亀倉雄策は、この学院の1年後輩で、以後、桑沢とさまざまな活動を共にする。

 

 

桑沢洋子 資料

写真家であった田村茂(元夫)のビルマ派遣(陸軍宣伝班員)で集まった新建築工藝学院、『婦人画報』の仲間たち(1942) 
学校法人桑沢学園蔵

 

 

編集者として

桑沢は学院に通う一方で、川喜田が主宰する雑誌『建築工藝 アイシーオール』や、川喜田・武井勝雄の共著『構成教育大系』の編集の手伝いを通じて、次第に近代デザインに目覚めていく。その後、建築雑誌『住宅』の取材記者となり、1930年代に活躍する建築家を取材するなかで、モダ二ズム思潮も受容していった。1937年に『婦人画報』の新年号付録『生活の新様式』の編集後、桑沢は東京社(現ハースト婦人画報社)に入社した。『婦人画報』の服飾関連の編集者となった桑沢は、伊東茂平や田中千代と出会う。そして、次第に編集者としての仕事にあきたらなくなり、伊東に半年間製図を学んだ後、1941年に東京社を去った。
服飾デザイナーとなる前段階の自己形成期は、桑沢にとって、きわめて重要な意味をもった。特に『住宅』や『婦人画報』の記者としての仕事を通して、30年代からの建築家・写真家・民芸の人々・考現学の人々と、ネットワークを形成した。このネットワークは、戦後に桑沢がデザイナー活動やデザイン教育活動をするにあたって、きわめて重要な役目を担うようになる。

 

 

桑沢洋子 資料

編集者時代に桑沢が担当した記事より。最小限の台所実態調査のイラスト(1935) 
学校法人桑沢学園蔵

 

 

 

服飾デザイナーとして

仕事着・野良着のデザイン

フリーランスとなった桑沢は、1942年、銀座に働く婦人のためのスポーティな店「桑沢服装工房」を設立し、服飾デザイナー活動をスタートさせた。個人名で発表した最初の作品は、1943年の「婦人画報」9月号に掲載された「更生品で整えた若い人の基本服装」である。 他方、戦後に羽仁説子、加藤シズエらが結成した「婦人民主クラブ」(1946年設立)に賛同し、洋裁家の立場から女性への啓蒙活動として、地方の都市や農漁村を講演して歩いた。また、舞台衣装家の土方梅子とともに「服装文化クラブ」(1947年設立)を結成して、指導者となった。
そして、『婦人朝日』主催の「全国仕事着コンクール」や、「全国巡回婦人朝日 服装相談会」で全国を巡回し、仕事着や野良着の改良を通して、女性の社会的地位の向上、経済的自立支援という啓蒙を行った。さらに、初代農林省生活改善課長の山本松代に協力し、衣服による生活改善という視点からも野良着の改良を手がけるようになった。

 

ユニフォームのデザイン

桑沢のデザインした物は、一般的なモードではなく、機能性が要求される仕事着(ユニフォーム・野良着を含む)が最も大きな割合を占める。特に、ユニフォームは50点ほどデザインしたという。
仕事着のデザインのためには、各種のデザインサーベイ(他社の実態調査、業務分析、デザイン展開)が不可欠なため、桑沢はインダストリアルデザインの手法を積極的に取り入れた。その代表例が「日石(日本石油)サービスマンのユニフォーム」である。桑沢は、ガソリンスタンドにおける業務分析を行い、「接客中心」と「軽作業中心」という二つの業務あることを明確にし、新たにそれまでなかった「整備服」を制定した。1972年改訂の白色のオーバーオール型整備服は、17年間(1972-1989)という長期にわたって着用され、桑沢の代表作になるとともに、整備服のプロトタイプとなった。

 

 

桑沢洋子 資料

中央が1960年東京オリンピックのユニフォーム。学校法人桑沢学園創立60周年・桑澤洋子没後40年 記念展「ふつうをつくったデザイナー桑澤洋子 活動と教育の軌跡」展示。主催:学校法人桑沢学園(2018) 
学校法人桑沢学園蔵

 

 

合成繊維ビニロンの開発と民芸運動

1950年代に、仕事着の素材として最も使われたのが「ビニロン」である。ビニロンは、日本独自の技術と国産材料で生産できる唯一の合成繊維であった。ビニロンの開発を通して、大原總一郎(倉敷レイヨン株式会社社長・民芸協会会長)や民芸の柳悦孝(織物家・元女子美術大学学長)と交流した桑沢は、民芸の精神である「尋常美」を学び、ファッションにおける尋常美、すなわち「普段着」の美を自らのデザイン理念とした。大原は、「桑沢さんはしっかりした造形哲学をもったデザイナーで、いわゆる服飾デザイナーではありません。しかし、服装デザインの仕事をするときも衣服製作の産業分野でのインダストリアルデザイナーとして仕事をされます」と高く評価した。桑沢の代表作となった「日石サービスマンのユニフォーム」は、まさに「ファッションにおけるインダストリアルデザイン」の代表格であるといえよう。

 

既製服のデザイン

仕事着のデザインをしながら、桑沢は早い時期から注文服でなく既製服を志向し、衣服における量産を念頭においてデザインした。1954年、東京大丸の開店とともに、「桑沢イージー・ウェア・コーナー」と「桑沢オリジナルズ」を開設した。このコーナーでは、桑沢が「ユニットによるコーディネート」という考えでデザインした日常着の既製服が販売され、大変好評で売れ行きも良かった。既製服とは「規格化」された衣服である。「規格化」は、モノによる平等を志向したモダンデザインが目指したものだが、個別化とは相反する。そこで桑沢はこの規格化された既製服を個性化する方法として、「ユニットによるコーディネート」、すなわち単品組み合わせ、という考えを提案した。これは1930年代に形而工房や、木檜恕一が提案した「組み合わせ家具」の発想から影響を受けたものだ。

 

桑沢デザイン工房の開設

こうした桑沢のデザイナー活動を支えたのが、桑沢デザイン工房(1955-1972)であった。この工房では、桑沢のデザイナー活動およびデザイン教育活動を支えるとともに、産業界と直結し、デザイン提案、サンプル制作を行った。また、桑沢デザイン研究所の卒業生を育てるインターンシップ的な役割も担ったのである。

 

 

 

デザインの実践と教育

多摩川洋裁学院を創立

桑沢は戦後の早い時期から、新建築工芸學院で学んだ「構成」を基礎とするデザイン教育ができる研究所の設立を夢見ていた。
そして、啓蒙活動を行うなかで、職能人のための本格的な服飾教育の必要性を、痛感する。桑沢は「そうした職能的な立場を洋裁研究家がもてない原因は、本格的な技術やデザインの専門家がまだないということにも基因していると思います。こうした職能的な技術を教える学校の設立に、KD技術研究会(桑沢デザイン技術研究会の略)は努力してゆきたいと思います。今までこの洋裁学校を卒業した後の『職能学校』そして、徹底したデザイン学と服飾デザインを盛り込んだ本格的な『コスチューム・デザイン学校』を作ってゆかなければなりません。(中略)将来は研究所の設立にまで理想をもっております」と書き記している。この言説は、桑沢がファッションの教育を単なる「裁縫・縫製技術」という狭い意味の洋裁教育ではなく、デザイン学と服飾デザインという、より広いデザイン概念を基礎とするデザイン学校の設立を早くから希望していたことを示している。
桑沢は、1948年に多摩川洋裁学院を創立した。終戦後のシベリアでの3年間の抑留生活後帰国した、彫刻家佐藤忠良は、桑沢に請われるまま、多摩川洋裁学院で人体デッサンを教えた。画家・舞台美術家として活躍した朝倉摂(1922-2014)も、多摩川洋裁学院でコスチュームドローイング、モードクロッキーを教える。
そして、6年後の1954年、「桑沢デザイン研究所」を創立し、近代デザイン教育を目指して、ドレス科とリビングデザイン科(1年目は夜間のみ)を設置した。
創立時には、多摩川洋裁学院時代からの橋本徹郎(色彩)、佐藤忠良(デッサン)、朝倉摂(コスチュームドローイング)、デザイン教室の石山彰(ファッション・デザイン)に、勝見勝(デザイン理論)、剣持勇(デザイン理論)、金子至(生活器具)、清家清(生活空間)、渡辺力(生活器具)、高橋正人(構成)、清水幾太郎(社会学)らが、講師に招かれた。社会学者の清水幾太郎が「社会学」という科目を教えたのは、デザインは「社会」と密接に関係しているという思想からである。
初期のドレス科は、桑沢を中心に、多摩川洋裁学院の卒業生やKD技術研究会の会員、あるいは服装文化クラブの委員が講師を務めた。
他方、デザイン全般を学ぶリビングデザイン科では、橋本徹朗が紹介した、評論家の勝見勝(1909-1983)が「デザイン理論」を教えるとともに、中心となって講師の人選、カリキュラムを決めた。当時、勝見は国際デザイン協会の会員としてグッドデザイン運動を推進し、1960年開催の世界デザイン会議の実現にも尽力した人であった。 東京造形大学では教授に就任し、デザイン学科長を務めた。戦前に勝見は、商工省工芸指導所に勤務していた関係で、同所に勤めていた剣持勇、金子至を講師に招いた。
その後、インダストリアルデザインの豊口克平、構成教育の石元泰博・高山正喜久(研究所3代目所長)、グラフィックデザインの原弘・亀倉雄策・河野鷹思・山城隆一も加わる。研究所の全体的な教育方針は、桑沢、勝見を中心に、橋本徹郎、剣持勇、佐藤忠良、金子至、清水幾太郎によって決められた。
ドレス科とリビングデザイン科の講師たちは、共に進歩的な考えを持ち、学科を越えて異なるデザイン分野の人達と積極的に交流し、創造的風土を研究所内につくり上げていった。
初年度の入学案内書の表紙には「good design good taste good home guidance of Kuwasawa Studio」と、教育方針が示された。当時は、ニューヨーク近代美術館のグッドデザイン運動の影響を受け、日本でも同じ運動が興隆しようとしていた時期であった。桑沢は「よいデザインというものは、単に目新しいものではなく、着たり、使ったりしてみて、その人の生活に役立つものでなければならないのです」と、グッドデザインの本質を述べている。
1954年,「グロピウスとバウハウス」展のために来日していた、バウハウスの初代校長ヴァルター・グロピウスが、6月に剣持勇に連れられて、研究所を訪問した。以後、研究所は「日本版バウハウス」と紹介されるようになった。1955年度の入学案内書には、次の巻頭文が掲載された。

 

 

桑沢洋子 資料

桑沢デザイン研究所を訪問したグロピウス(右2人目)と桑沢洋子(左2人目) 
学校法人桑沢学園蔵

 

 

デザインとは何か?
デザインの基礎とは何か?
その基礎的トレーニングは どうすればよいか?
そして、どうしたらデザインすることが出来るか?
この研究所は これらの問題に明快な回答をあたえます
この研究所は学習の方法をニューバウハウスの予備教科により 
そのセオリーとメソードを 選択した教科によつてデザインのプリンシプルを把握させ 
この基盤のうえに立つて各自 個性あるデザイン創造に向かわせます。

 

 

デザインの基礎としての「構成」

デザインの基礎としての初期の「構成」を教えたのは、東京教育大学で教鞭をとっていた高橋正人とシカゴ・インスティチュート・オブ・デザイン出身の写真家、石元泰博である。「構成」は、すべてのクラスに開講されたが、教育内容は各クラスとも異なっていた。こうしたクラス毎に異なる構成の教育内容は、自由な創造と表現をめざす基礎的内容から、平面での構成練習、次に形や空間感覚の訓練、さらに形・色彩・材料というデザイン3要素と構造を考えた総合的な練習、という階層的な内容であった。

 

東京造形大学の設立背景と実践

桑沢は桑沢デザイン研究所創立10周年記念誌に、「桑沢学園・桑沢デザイン研究所は、この10年間の成果を、いっそう充実発展させ、理想に一歩ちかづけることだと考えます。いいかえれば大学の内容・年限に匹敵し、かつ特色デザイン教育の確立を目指すことだと言えます。ひとつは、近い将来、デザイン大学に移行する目標のもとにたてられた4年課程の『デザイン専門教育』の構想であって‥‥‥」と語り、学校法人桑沢学園創立10周年記念事業として、大学設置構想が浮かび上がった。
翌年の1965年には、キャンパス用地購入から大学設置の準備が始まった。1966年、東京造形大学が創立され、今日「東京5美術大学」のひとつとして、位置づけられている。

 

 

 

桑沢のデザイン理念

モダンデザイン理念:機能主義・合理主義・量産

桑沢は編集者、デザイナー活動、啓蒙活動、デザイン教育活動から、機能主義、合理主義、機械による量産という、モダンデザイン理念を導き出した。
「機能主義」とは、機能を最優先したデザイン理論で、モダニズムを議論するときによく使われる。L.H.サリバンは「形態は機能に従う」と、美的価値と実用価値との統一を目指した。機能性が最も要求される衣服は、仕事着(野良着・ユニフォームを含む)で、桑沢は機能主義者として、仕事着を中心にデザインした。
衣服において機能的な要素は、「着やすい」ことで、着やすい衣服は、「人体の動きと着やすい原型との関係」の探求から生まれる。そして、「人体は複雑な動く立体であり、服とは動く人間を包むものである」として、「桑沢式原型」が開発された。この原型は多摩川洋裁学院設立(1948年)から、桑沢が亡くなる1977年まで、12回の修正が行われた。
「合理主義」とは、ある目的の実現のために、諸手段を最も効率的に選択し利用する態度のことで、桑沢は合理主義的な考えを、「ワードローブ」に集約した。ワードローブとはは、「衣服のひとつひとつ、すなわちユニットを合理的に組み合わせて衣服を計画する」ことである。具体的には、基本的なデザインを中心に揃え、同じ生地でつくったセパレーツをさまざまに組み合わせることで多様な着方ができることを提案した。
「量産」とは、ファッションではミシンによる大量生産である「既製服」を意味する。桑沢は「日本の女性の装いが美しくなることをねがって、着こなしかたや作り方を解説したり啓蒙したりすることより、よい商品を作って着て貰うことではないか、と私は考えました。それには一人一人のためにつくるオーダー・メイドではなく、なるべく大勢の人たちに着て貰えるレディ・メイドによることではないかと考え、今日まできました」と、既製服を志向した理由を述べている。1954年から大丸東京店で「桑沢オリジナルズ」という既製服店をかまえ、カジュアルウェアを販売した。桑沢は、既製服をつくることで、価格は安くなり「モノによる平等化」が進み、既製服をデザインする女性が、職能人として自活可能になり、婦人解放にもなるとも考えたのだ。

 

グッドデザイン

桑沢は、「生活の中で生きるファッション」の論考の中でファッションにおける「グッドデザイン」について次のように述べており、こうした考えを基に「生活の中で生きる衣服」を最優先して、デザインしていた。

 

日常生活の中で必要な価値のあるデザインとは、必ずしも派手で高価な外国製品とは限らない。
それは日常もっとも多く着るものであり、着やすく、生活を豊かに美しくするものであって、た とえ地味でもすぐ消えてしまうものではない。具体的にいえば、身体を束縛しない日常着のニッ ト製品であり、パンタロンやジーンズルックであり、プルオーバーセーターやTシャツなど誰 にも欠かせない必需品である。(中略)生活の必需品のデザインは、時代の要求する新しい感覚 をもち、よい素材をつかった着やすいパターンであり、サイズも豊富で安価な製品でありたい。
このような製品こそライフファッションであり、グッドデザインである。

 

ファッションにおける「日本的なもの」

日本の近代デザインは、どの分野であれ、日本のオリジナリティを重視し創作した。とりわけ、桑沢は「ファッションにおける日本的なもの」を生涯にわたり探求した。1930年代、桑沢は『婦人画報』で「衣服における日本的なもの」をテーマに掲げ、和服から洋服、洋服から和服へという双方向を模索し、西欧の模倣でない、和服にかわる新しい日本服をつくり上げようと模索した。
桑沢は、「法被と股引」を、イタリアのベニスで開催された「国際コットンファッションパレード」(1956年)に出品した。これは、江戸の火消し衣裳を思わせる、粋でいなせな仕事着である。背中に大きな「家紋」を付けたのは、外国での発表を意識したからであろう。「法被と股引」は、現代ファッションにおける「日本的な味」を示した優れた作品である。

 

民芸の「尋常美」

戦後に、桑沢は、合成繊維ビニロンの開発を介して、大原總一郎や柳悦孝という民芸運動の人々とも親しく交流した。仕事着は、毎日過酷に使用されるため、耐久性が第一に要求される。その仕事着の素材として注目されたのが、倉敷レイヨンの合成繊維「ビニロン」である。ビニロンは、優れた特性を持つ繊維だが、染色は難しかった。大原は、その解決策を、染織家の柳悦孝(柳宗悦の甥)に委ねた。桑沢と柳悦孝の交流は、柳が女子美術大学に招かれた1955年5月頃から始まった。後に、桑沢デザイン研究所の講師に就任した。1956年、倉敷レイヨン主催の「ビニロン展」(1956年2月24日~29日東京大丸3階)が開催された。桑沢は、縞の調子やデザイン面を、柳は織物を担当した。そうした過程で、民芸運動の精神である日常生活のなかにある美「尋常美」の重要性を認識するようになる。桑沢の自伝『ふだん着のデザイナー 私の衣裳哲学』(平凡社1956年)のタイトルに、「ふだん着」という言葉を使っている。桑沢の庶民性は、「ふだん=日常」を重視する姿勢に通じ、ひいては民芸の「尋常美」に通底したといえよう。

 

モダンデザインと民芸の融合

桑沢はモダンデザインの思想を重視する一方、「日本的なもの」の探求の過程で、桑沢は民芸の思想から多大な影響を受けた。もともと近代デザインと民芸は、手づくりと機械という生産方法を考えると全く異なる。また、両者の完成品は、視覚的に異なっている。しかし、近代デザインが本質的にもっている「大衆のためのデザイン」という考えは、民芸の精神にも通じる。民芸は「無駄のない健康さ」をモダンデザイナーたちに教えたことである。桑沢も同じ思想を共有し、民芸のめざす無駄のない健康的な美を、ファッション・デザインに取り入れ、ミシンによって大量に生産する既製服に専念した。
柳悦孝は、桑沢の仕事を評して、「働き着はその用途によっていろいろな機能が要求され、それが充たされねばならないのでたいへんむつかしく思われているためだと思う。しかしよく考えると、全く近代的な美しさに結ばれていることが判ると思う。働くためには余分な装飾は不要→簡素、働くためには丈夫さが必要→安定性、経済性、働くためには軽快性が必要→スピード感。これらはどれも、近代美のもつ性格といえよう。桑沢さんが数多い日本人デザイナーのなかで、特に私の頭に残るのは、これらの条件のよく生かされた仕事をしていられるためだと思う」と、桑沢のデザインの特質を近代デザインの機能美に結びつけて高く評価している。
仕事着は、仕事内容によって機能性は変わる。そのため、仕事着のデザインには仕事内容を調査・分析してから、最適な布地を選び、身体の動きを考慮した型紙を作成する。一方、仕事着は、毎日の仕事に奉仕する衣服であるから、奇をてらわず、平凡、かつ質実さが要求される。すなわち、桑沢が情熱を注いだ仕事着には、近代デザインの機能美と民芸の尋常美の両方が不可欠である。桑沢は、仕事着をデザインすることで、「近代デザインと民芸の融合」を成し遂げたということができよう。

 

生活のためのデザイン

アメリカやパリから斬新なモードが押し寄せるなかで、生活の基になる仕事着や野良着はなおざりにされていた。桑沢は「きもののデザインをやる人は、よく、デザインのためのデザインをもてあそびがちですが、私はやっぱり生活のなかに根をおろした『生きたきもののデザイン』というものを考えたいのです」と批判した。「生活に根をおろした生きたきもの」とは普段着や仕事着を指し、その逆に「デザインのためのデザイン」とは,ファッションショー用のコスチュームを意味する。このような伝統も生活感もない、奇をてらった衣服を桑沢は嫌った。戦後に『家の光』で日本の野良着の改良で、一緒に仕事をした考現学の今和次郎(1888-1973)の「生活」を重視する考えにも強い影響を受けた。今は、桑沢デザイン研究所の開校記念講演で「日本の農村着」について講演した。そのなかで「生活学は今日の生活設計についての原理を探ることを目標とすべきではないか。」と述べ、その基礎となる原理は生活改善であると主張した。桑沢の衣服に関する啓蒙やデザイン活動も、生活改善の一環として行われたことを考えると、「生活」という概念を、今と桑沢は極めて近い立場で共有していた。

 

 

 

桑沢の周りにいた人たち

桑沢は、戦前・戦後のさまざまな活動を通して、デザイナーたち、民芸の人々、考現学の人に出会った。彼らについては前述しているので、ここでは、個人として寄り添って、桑沢を支援した人々について記そう。
橋本徹朗は、新建築工芸学院で講師として桑沢を教え、戦後には、多摩川洋裁学院、桑沢デザイン研究所の創立に深く関わった。創立時には研究所の建築・家具設計も行った。研究所では、講師として色彩を担当、オストワルドのカラーシステムによる色彩理論とその展開を教えた。亀倉雄策は、新建築工藝学院の1年後輩で、友人としてさまざまな活動を共にし、桑沢デザイン研究所創立後は講師を務めた。桑沢に寄り添った女房役の高松太郎は、1946年、株式会社「婦人画報社」(編集部)入社したときより、桑沢と仕事を開始した。その後、桑沢が亡くなるまで、桑沢の活動を脇から支え続けた。佐藤忠良は、多摩川洋裁学院、桑沢デザイン研究所で教え、東京造形大学創立と共に教授に就任した。同様に、朝倉摂も、三つの学校で教壇に立った。根田みさは、多摩川洋裁学院の卒業生で、2代目所長に就任して長期間ファッションを教え、桑沢を支え続けた。構成教育を担当した東京教育大学の高山正喜久は、3代目所長に就任。植田いつ子は、多摩川洋裁学院の卒業生で、長らく美智子皇后のデザイナーを務めたことで知られている。生前の桑沢に請われ、彼女亡き後、研究所の講師に就任した。
このように、桑沢の周りには、戦前から続くネットワークに加え、多摩川洋裁学院、桑沢デザイン研究所および東京造形大学で教えた講師たち、すなわち50年代以降の日本のデザイン運動を牽引したデザイナー・ネットワーク、さらに個人的に桑沢に寄り添った人々がいた。彼らとの幅広い交流とサポートが、桑沢のデザイナー活動、デザイン啓蒙活動、デザイン教育を支え続けたのだ。戦後間もない、デザイナーという職能も定まらず、女性が社会で活躍することすら困難な時代に、桑沢の活躍はまさに奇跡であったと言っても過言でない。

 

 

 

桑沢洋子のアーカイブの所在

 

桑沢学園収蔵資料デジタルコレクション 
https://www.kuwasawa.ac.jp/collection.html

 

東京造形大学、「東京造形大学創立者 桑澤洋子について」 
https://www.zokei.ac.jp/university/founder/