日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

面出薫

照明デザイナー

 

インタビュー:2024年6月20日10:30~12:00
取材場所:ライティング プランナーズ アソシエーツ(LPA)
取材先:面出薫さん
インタビュー:関康子
ライティング:関康子

PROFILE

プロフィール

面出薫 めんで かおる

照明デザイナー

1950年 東京生まれ
1977年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了
1978年 (株)LDヤマギワ研究所入社
1980年 (株)TLヤマギワ研究所に移籍
1990年 (株)ライティング プランナーズ アソシエーツ設立、代表取締役就任
    「照明探偵団」設立 団長就任
1997年 毎日デザイン賞受賞
2002年 武蔵野美術大学、空間演出デザイン学科教授(~2013)
    以降、同大学客員教授(~2024)

面出薫

Description

概要

面出薫は「照明デザイン」という新たなデザイン領域を生み出し、開拓するパイオニアである。面出と彼が創設したライティング プランナーズ アソシエーツ(以下LPA)の足跡は、そのまま日本の建築都市照明の歴史である。
面出がヤマギワに入社し照明デザイナーを志した1970年代後半の日本は、それまでの機能性と合理性を体現した近代建築の在り方が大きく変わろうとしていた時代にあった。この変化を牽引していたのが、面出が多くの仕事を協働した建築家の磯崎新と伊東豊雄である。二人は建築における「光」の重要性に気づき照明デザインの分野で伴走してくれるパートナーを求めていた。そこに登場したのがTLヤマギワ研究所で活躍していた面出薫であった。面出は著書で磯崎について「建築空間の中で照明器具の存在を消し、建築そのものが巨大な照明器具であろうとする氏の執拗な設計思想に武者震いした」、伊東について「建築に新しい空気を取り入れるために常に光の刷新を要求した」「光の建築家というに相応しい野心と感性をもって、建築照明デザインの方程式を刷新し続ける建築家」と述べている。面出とLPAが多くの現場を通して着実な実績を重ねていくことによって、「照明デザイナー=照明器具のデザイナー=プロダクトデザイナー」という概念が、「照明デザイナー=光環境デザイナー」へ広がることとなった。
1990年代に入り、面出は活動の場を海外、特にシンガポールなどの東アジアへと広げ、それは同時に建築照明から都市照明、環境照明へという領域の拡大とパラレルであった。今や建築、都市デザインにとって光のデザインは当たり前のものとなった。私たちは美しい夜景の都市を散策し、ライトアップを楽しみ、プロジェクションマッピングを鑑賞しているが、一方で、有害な照明、過剰な光も登場し、「光害」についての議論も起こりつつある。面出はLPAと同時に立ち上げた「照明探偵団」を通して照明デザインの現状を調査研究し、さまざまな視点から問題提起を行っている。ここでは、照明デザインにおいて常に次なるステージを見据えている面出薫に、自らの仕事とデザインアーカイブについて伺った。

Masterpiece

代表作

東京国際フォーラム(1996) 設計:ラファエル・ヴィニオリ建築士事務所
京都駅ビル(1997) 設計:原広司+アトリエ・ファイ建築研究所
せんだいメディアテーク(2000) 設計:伊東豊雄建築設計事務所
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(2003) 設計:国土交通省九州地方整備局営繕部 栗生明+栗生総合計画事務所
六本木ヒルズ(2003) 設計:KPF、ザ・ジャーディ・パートナーシップ 他
京都迎賓館(2005) 設計:日建設計
シンガポール国立博物館(2006)設計:W Architects Pte Ltd, CPG Consultants Pte Ltd
Lighting Masterplan for Shingapore City Centre (2006) 
総合コンサルティング:シンガポール政府都市再開発庁(URA)
明治神宮御社殿復興50年記念「アカリウム」(2008) クライアント: 明治神宮御社殿復興50年記念奉祝事業実行委員会
東京駅丸の内駅舎保存復原(2012)設計:JR東日本東京電気工事所、JR東日本建築設計事務所 他
ガーデンズ バイ ザ ベイ・ベイ サウス(2012)設計:Grant Associates,CPG Consultants Ple.Ltd
シンガポールナショナルギャラリー(2015)設計:Studio Milou Shingapore Pte Ltd
みんなの森 ぎふメディアコスモス(2015)設計:伊東豊雄建築設計事務所
成都 太古里(2015)設計:The Oval Partnership.MAKE Architects
ガンツウ(2017)設計:常石造船、堀部安嗣建築設計事務所
Jewel Changi Airport(2019)設計:Safdie Architects
高輪ゲートウェイ駅(2020)設計:JR東日本東京工事事務所、隈研吾建築都市設計事務所 他
石川県立図書館(2022)設計:環境デザイン研究所、マインドスケープ、トータルメディア開発研究所
太宰府天満宮(仮殿)(2023)設計:藤本壮介建築設計事務所

 

主な著書

『面出薫+LPA建築照明の作法』TOTO出版(1999)
『世界照明探偵団』鹿島出版会(2004)
『都市と建築の照明デザイン』六耀社(2005)
『陰影のデザイン』六耀社(2010)
『光のゼミナール』鹿島出版会(2013)
『建築照明の作法』TOTO出版 (2015)
『LPA1990-2015 建築照明デザインの潮流』六耀社(2015)

面出薫作品

Interview

インタビュー

すばらしい建築にはかならず、すばらしい光がある

照明デザイナーへの道

 面出薫さんは建築・都市照明デザインのパイオニアとして多くのプロジェクトを実現しています。まず、東京藝術大学でプロダクトデザインを専攻されていた面出さんが照明デザインに進むことになった経緯を伺いたく。

 

面出 藝大は学科名が時代によって変わっていますが、僕の時代は美術学部工芸科デザイン専攻だったと思います。最初の2年間は基礎課程で3年からビジュアル系かプロダクト系かを選択するのだけど、僕はプロダクトを選びました。ただ勉強はあまりしなかった。僕らはいわゆる団塊世代から1,2年遅れた年代で理屈っぽい人間が多かった。何浪もして藝大に入ってくる人も多くて、今さら動物園でスケッチなんてできるかと授業をボイコットしたり、藝大山岳部が持っていた黒澤ヒュッテという山小屋にこもってデザイン論を戦わせたり、そんな学生がけっこういたんです。僕自身もプロダクトデザインを専攻したけど、高度成長を遂げた日本社会はすでにモノがあふれていて、なんで今さら短寿命な製品をつくる必要があるのかって斜め目線で見ているところがあった。なので大学院では民家の研究をしていた建築系の稲次敏郎教授のもとで勉強していて、環境デザインに興味をもつようになったのです。

 

 卒業後、ヤマギワに入社されたのですね。

 

面出 いえ、ヤマギワの前に日建設計で1年半ほど嘱託勤務をしました。環境デザインといっても当時はそういう職能がなかったし、大学時代からアルバイトをしていた日建で模型づくりの腕を買われて声をかけていただいたことと、先輩の浦一也さんもいらしたのであまり深く考えずに入りました。そこでは尊敬する林昌二さんのチームに入って建物の模型を担当しました。設計図をもらって模型をつくるのだけど、実際に模型化していくと図面とつじつまの合わない箇所が出てきて、そんなときにはデザインを変えて対処していました。しばらくすると、君は藝大でプロダクトデザインを勉強したんだろうとドアノブや取っ手などの建築金物のデザインを頼まれるようになりました。その頃、船舶用金物の大手だったオーシマという会社から日建ブランドの建築用金物のデザイン依頼があって、僕に白羽の矢が立ったというわけです。大学時代、僕は形をつくるデザインからは距離を置いていたけど仕事となれば逃げるわけにもいかないし、今のように3Dプリンターもない時代だったので石膏模型や金型と格闘しながらデザインしました。

 

 日建での仕事は充実していたようですが、どうしてヤマギワに移られたのですか。

 

面出 仕事は楽しかったけどこのままではマズイだろうという気持ちはあった。そんなとき大学の頃から懇意にしてくださりGKデザインの創始者でもあった小池岩太郎さんが、ヤマギワの小長谷兵吾社長と親交があったので僕を紹介してくれたのです。小池さんは僕が学生結婚したときに仲人をしていただいたんです。

 

 面出さんが学生結婚だったと初めて知りました。

 

面出 妻はグラフィックを勉強して女子美術大学の教授などを務めました。僕の卒業制作のときは照明デザイナーの富田泰行さんたちが手伝ってくれて見事「サロンドプランタン賞」を受賞したし、懐かしい話です。

 

 ヤマギワに就職してから照明デザインに出会ったのですね。

 

面出 当時のヤマギワは照明器具のデザインや技術面の強化のために、1970年にLDヤマギワ研究所(以下LD)、1972年にヤマギワ工作所(現TEC)を設立したのだけれど、本格的に活動しているという状況ではなかった。そんなときに小長谷社長から相談を受けていた小池さんが僕に声をかけてくださり、LDに入社することになったのです。LDは伊藤隆道さんが初代所長を務めて、僕が入社した頃はデザイナーの本澤和雄さんが所長でした。

 

 LDで建築照明を模索するようになったのですね?

 

面出 就職して間もない頃、小長谷社長に会う機会があって、僕は正直に照明器具のデザインはできないけれど光のデザインには興味がありますと打ち明けると、自由にやってくださいと言われました。LDに入って2年目くらいに大きなチャンスに恵まれました。建築照明の草分けと言われていたアメリカのエジソン・プライス・ライティング社を訪問できたのです。同社は1952年にニューヨークで小さい照明会社として創業して以降、ミース・ファン・デル・ローエやルイス・カーン、フィリップ・ジョンソンといった建築家と組んで過去にはない建築照明の設計と製造を実現し、まさに建築環境照明という領域を切り開いた会社でした。僕はその仕事や理論、製品に心酔していたので感動もひとしおだった。それだけでなくエジソン・プライスは僕の憧れだったクロード・エンゲル、ポール・マランツといった第一線の照明デザイナーを紹介してくれたんです。
僕は、1950年代以降アメリカの東海岸に「アーキテクチュアル・ライティング・コンサルティング」という職能があることを学習するわけだけれど、同社を訪問してぼんやりしていたものがはっきり見えてきたというか、何か腑に落ちた気持ちでした。それは何かというと、僕が目指していたのはヨーロッパ的な照明器具が発する光ではなく、光源を見せずに建築そのものの光をデザインするということです。1980年前後だったけど日本はアメリカよりも20年くらい遅れていました。

 

 

建築照明デザインの足掛かりを

 

面出 僕がLDに入って2年、建築照明という目標が見えてきた1980年にTLヤマギワ研究所(以下TL)が設立されました。TLは光そのものをデザインするというか、照明計画の設計と技術的サポートに主眼を置いた日本初の研究所でした。1980年代、日本経済は上り坂で建築やインテリアの仕事がたくさんあり、磯崎新さんをはじめとした新世代の建築家の活躍が目覚ましい時期で実験的な照明への要望も多く、僕らは手探りでさまざまな仕事に挑戦していきました。

 

 例えばどんなことですか?

 

面出 建築照明のデザイン、照明器具の開発、輸入照明器具の買いつけ、特注照明器具のデザインなどです。今から思うと、小長谷社長は僕らを自由に泳がせることで、ヤマギワの新規事業の可能性を探っていたのかもしれません。

 

 照明器具とはどのようなものを開発したのですか?

 

面出 照明器具と言っても装飾的なものではありませんよ。例えば、先述のエジソン・プライス社の反射鏡設計のパテントを買ってグレアレスダウンライトを開発したり、当時は知られていなかった壁面を均一に照射するウォール・ウォッシャーという照明手法を初めて使ったり、要は光の効果そのものをデザインできるテクニカルな道具としての照明器具を開発し、現場に導入していきました。

 

 デザイン発注というのは外部のデザイナーに依頼したということですか?

 

面出 あるとき社長から倉俣史朗さんにスポットライトのデザインを頼みなさいと言われました。倉俣さんはヤマギワととても近い間柄でしたが照明器具のデザインに興味があるとは思えなかったので、困ったなあと思いながら相談に行きました。すると彼は僕が持参したスポットライトをその場で分解して、それはいらないこれもいらないとどんどんパーツを剥がしていきました。そして、最少のパーツだけを残してできたのが「K-SPOT」という製品です。僕は倉俣さんの光への感性、例えば光の透過、反射、発光、輝きや陰りなど、空間やモノに対する作用にとても共感していたし、感化されたと思っています。

 

 面出さん以前には、同じ藝大出身の石井幹子さんが照明デザイナーとして建築家と組んだ仕事を多くなさっていますね。

 

面出 石井さんと僕らの建築照明は出発点が違っていると考えています。石井さんは丹下健三さん、菊竹請訓さん、大高正人さん、黒川紀章さんら戦後の第一次世代の建築家との仕事を多くされています。それらは時代が求めた照明であり、石井さんの作品としての意匠的な照明デザインだったと思います。一方、僕らがお付き合いした槇文彦さん、磯崎新さん、原広司さん、伊東豊雄さん、山本理顕さんらは意匠的な照明デザインではなく光源が目立たない光そのものを求めていて、僕らの思想を評価してくれました。石井さんと僕らの仕事は重なっている部分もありますが、もとの発想が違っていたので意識したことはありません。石井さんもそうだと思います。僕らは基本的に光そのものを扱っているために設計者との密なやり取りが必須だったし、一緒に建築設計をしている気持ちで臨んでいました。

 

 TLが順調だったのに、どうしてお辞めになったのですか?

 

面出 当時のヤマギワにはR&Dの部隊としてLDヤマギワ研究所、ヤマギワ工作所、TLヤマギワ研究所があって、それぞれ40数名近いスタッフが働いていました。あるとき3つをまとめてヤマギワ総合研究所のような組織をつくるので、僕に初代所長に就任してほしいと打診がありました。建築照明へのニーズが着実に拡大していた時代であり、僕はTLで建築家との連携が多かったので度々メディアで取り上げられて、一会社員としては目立ちすぎたのだろうと思います。ただ、管理職よりも現役でバリバリ仕事をしたい時期だったし、自分がやりたいこととヤマギワ研究所の将来を考えて、退職のお願いをしました。

 

 とは言え、退社は大変だったのではありませんか?

 

面出 アメリカでは会社から独立して照明デザイナーになることは普通だったけど、日本には前例がありませんでしたから……。ただヤマギワを独立して会社設立まで、本当にいろいろな人の助けがありました。辞職に際してはヤマギワのCIを手がけて影響力のあった亀倉雄策さんが調整役を買って出てくださり、稲葉裕さんや東海林弘靖さんら5人の同僚が僕と一緒にやりたいとヤマギワを辞めて合流してくれました。事務所開設では、不動産に精通していたインテリアデザイナーの杉本貴志さんが青山にスペースを見つけてきてくれて、僕らにとって立派すぎる物件だったけど「このくらいの広さは将来に必要になるから」という杉本さんの言葉を信じて無理して借りました。会社名は「ライティング プランナーズ アソシエーツ(以下LPA)」という社名が決まったら、田中一光さんがロゴマークをデザインしてくれて、3案の中から今のものに決めました。仕事は設立当初からいろいろな方から相談をいただいて、初年度から黒字だったのは幸運でした。

 

 「ライティング プランナーズ アソシエーツ」という社名には面出さんの思想、コラボレーションやチームを大切に考えているマインドが反映されているように思います。普通は「面出照明デザイン」、一歩譲って「ライティング・デザイナーズ・アソシエーツ」になると思うのですが。

 

面出 僕は芸術的で概念的な仕事だけではなくてエンジニアリングやソリューションも含めて体系的に光のデザインを実現したいとう気持ちと、「照明計画」という語意にこだわっていたからデザイナーではなくプランナーという言葉を使いました。それに最初から自分の名前を社名に使おうとは考えていなかった。

 

 LPAの創業が物語ってるように、80年代は異ジャンルのデザイナー同士の交流が盛んで、一体感があって、プロジェクトなども声を掛け合っていましたよね?

 

面出 本当に、あれは何だったんだろうね。亀倉さんや田中さん、倉俣さんといった誰からも尊敬されてリーダーシップをとれる人がいて、デザイン界を盛り立てようと仕事以外にボランティアでいろいろなプロジェクトをやっていたよね。僕は田中さんに誘われて「茶美会」という裏千家の故伊住政和さんが主催する茶道の会に参加して、着物着てお茶のお稽古もしたし。遊び心があったよね。

 

 「24時間働けますか?」という徹夜も当たり前の時代でしたが、遊びや交流も盛んで気持ち的には余裕がありましたね。

 

面出 そうだよね。今よりも猛烈に仕事をしていたけど、同じくらい情熱を傾けて遊んでいたよね。今はそういうまとまりがなくなったし、みんながバラバラに仕事しているという状況になった。

 

 

建築照明デザインを体現する

 

 1990年にLPAを設立されて、その後について伺いたく。

 

面出 ヤマギワに12年お世話になって1990年にLPAを設立して、今年で創立34年です。現在は東京、シンガポール、香港、深圳の4カ所にオフィスがあって、総勢60人のチームです。その間にたくさんの仲間が退社して立派な競合他社になっています。僕は、組織は人材の流動が大切だと考えているので、現状でいいと思っています。

 

 2015年に出版された『建築照明の作法』(TOTO出版)では、面出さんが実践されてきた建築照明の思想をあげていますね。1.光は素材である、2.照明器具は道具である、3.輝くべきものは建築であり人である、4.自然界のルールに学ぶ、5.光は時を視覚化する、6.空間の機能が光を選択する、7.光は機能を超えて気配を創る、8.場の連続性にこそドラマが生まれる、9.光はつねにエコロジカルである、10.光=陰影をデザインする。面出さんとLPAの照明デザインの基本ですね。

 

面出 LPA設立20年を機に、照明デザインの発想と建築との関係性を僕らの仕事を通してまとめてみたものです。

 

 そして現在、34年間、実に多くのプロジェクトを実現されています。詳細はLPAウェブサイトや『LPA 1990-2015 建築照明 デザインの潮流』(六耀社)などの書籍から知ることができますが、面出さんにとってのエポックメイキングなプロジェクトについてお話いただけますか?

 

面出 本当にたくさんあるけど、やはり最初の大プロジェクトだった「東京国際フォーラム」は忘れられないです。会社を1990年8月8日に創立してその3日後にラファエル・ヴィニオリから電話で相談を受けてすぐにニューヨークのオフィスに出向きました。結局、基本設計から竣工まで6年半かかったけど、僕らが考えていたことが妥協なく実現できた。と言うのも、それまでの公共空間の光は均一に明るく照らすことが重要だったけど、ここでは明るさ、陰影、温かさを共存させた建築照明を実現することができた。竣工して28年たって樹木の成長やLEDの普及といった技術環境の変化もあって、全体的に明るく変更されています。残念なのは、その後の光源の変更や追加された照明について僕らに相談がなかったこと。

 

 建築家では?

 

面出 やはり磯崎新さんは大きな存在だったです。先日、鹿島建設の若手設計者を対象としたセミナーをしたときに、この写真(磯崎さんが模型を持って面出さんと話している)を見せたら、みんなすごく盛り上がってね。これは1991年、設立間もないLPAに磯崎さんがいきなりいらしたときに撮りました。LPAのプレゼンルームには実際に近い光を模型に当ててシミュレーションできる設備があって、磯崎さんは「豊の国情報ライブラリー」の模型を持参して照明の相談にいらしたんです。これは大分市内に建てられる図書館、博物館機能をもつ複合施設でした。建築的には古代都市ペルセポリスの「100柱の間」に倣った7.5メートルの高さのある開架大閲覧室があって、そこの照明をどうするかが大きな課題でした。僕らはダウンライトを使わずにヴォールトの天井を均一にアップライトする「超間接照明」を提案し、前例のないプランだったけれど磯崎さんは採用してくれました。影が出ない光環境を実現できて、僕らにとってのエポックメーキングな仕事となりました。

 

 伊東豊雄さんとの仕事も多いですよね。

 

面出 振り返ってみると伊東さんとの仕事は多くて、ヤマギワ時代を含めると40件近いプロジェクトをご一緒していると思います。初期の印象的なプロジェクトは1986年に横浜駅西口にできた「風の塔」。地下街の換気などを担う装置なのだけど、コンクリートの塔ではあまりに殺風景だということで、当時の横浜の都市デザイン室が伊東さんに相談を持ち込みました。伊東さんは当時から、重たい塊としての建築から抜け出したい、もっと軽く透明感のある建築をと光や風や水などに注目していて、従来の建築概念を超えたいと考えていた。そこで、排気口を薄い皮膜で覆い存在感を希薄にし、夜は光で演出するという仮説的な小さな構造物「風の塔」をつくった。今もお会いすると、僕たちは「風の塔」から始まったよねと話します。伊東さんはその頃から僕らに実現したいことをしっかり伝えてくれます。代表作になった「せんだいメディアテーク」もご一緒して、竣工から20年以上経ちましたが未だに人々に愛されていて嬉しい限りです。2015年に竣工した「みんなの森 ぎふメディアコスモス」は、自然採光はアラップが協力して人工照明はLPAがやりました。ここでは、伊東さんは徹底したサスティナブルにこだわって、建物の使用エネルギーを通常の半分にすることを目標にしたので、僕らも限界に挑戦しました。最近は「水戸市民会館」などをご一緒しています。

 

面出薫 資料

みんなの森 ぎふメディアコスモス(2015) 設計:伊東豊雄建築設計事務所

 

 

 他に、建築家との印象的なプロジェクトは何ですか?

 

面出 原広司さんの「京都駅」もビッグプロジェクトでした。場所が京都なので、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』が言う日本独特の陰影のある空間と光をテーマにして、結果的に省エネ効果もある建築照明が実現できた。これも竣工して28年経っていて 中央の大階段にLEDが付けられるなど手が加わっているけど、最初のイメージが比較的保たれています。海外ではレム・コールハースさんとの北京にある「中国中央電視台CCTV本部ビル」の照明基本設計です。このビルは2008年の北京オリンピックを目指して建設されていたけど火事に見舞われ竣工が遅れました。ただ、レムさんやOMAのスタッフとのミーティングは刺激的で楽しかったけど、施工監理の契約更新ができなかった。照明は現場に入って最終調整が重要なので、最後まで見届けることができなかったことが残念でした。

 

 光のデザインについて、面出さんが建築家との対話を通して触発されることはありますか?

 

面出 もちろんあります。ただ僕は照明のプロとして自分の役割を果たしたいし、僕らの提案が建築家を刺激したいと考えています。彼らの要望に納得できないときは「そうではない」と言いたいし、「もっとこうすべきだ」と提案していきたいとも思う。そのため僕らは日頃からいろいろ勉強し、プレゼンにも十分な準備をしているつもりです。実際、建築家が僕らの意見や提案を喜んで聞いてくれると、議論がはずみ、より良いアイデアが出てきます。

 

 

建築から都市照明デザインへ

 

 面出さんが都市照明へと活動領域を拡大されたきっかけは何でしたか?

 

面出 日本でバブルがはじけて経済が縮小していた2000年に、何か経験範囲以外のテーマにチャレンジしたくてシンガポールに事務所をつくりました。間もなくシンガポール政府都市再開発庁(以下URA)から中心市街地照明のマスタープランについて相談を受けました。2003年から2006年まで基本計画に取り組み、僕らはシンガポールのアイデンティティ、つまり気候風土や歴史、民俗や文化の多様性を都市照明に反映したいと提案した。
実はこれの前にザハ・ハディドの「ワン・ノース地区の都市計画」の照明計画をやっていました。そのときに僕らが提案したのは「進化する夜景=Evolving Nightscape」。換言すると、未来の都市照明は街路灯の配置ではなく、都市全体がどのような光で満たされるかが大事であり、その実現にはまずガイドラインやルールを制作して10年、20年先を見透えて取り組まなければならないということ。この実績もあってシティー・センターの照明計画を担当することになり、現在は2030年の完成を目指して新興国シンガポールの夜の風景をつくっています。

 

 その都市照明はどのようなプランなのですか?

 

面出 実はこのプロポーザルにはフランスとドイツの企業も参加していたんだけど、僕らのプランが採用された背景には、ヨーロッパ人とアジア人の光に対する感性の違いがあったのではと思っています。僕らが提出した基本プランは、1.熱帯気候だからこそ夜は涼しくさわやかに、2.強烈な日の光がもたらすリズミカルな光と影の演出、3.熱帯特有の植栽で夜間も瑞々しさを、4.多民族が共生する国だからこそ多様な光、5.水辺を生かした風景と光のデザイン、というものでした。現在はこのコンセプトをブレークダウンしながら、都市空間における明かりの品質、色彩、強さ、フォーカルポントに気配りしつつ進めています。

 

面出薫 資料

Lighting Masterplan for Shingapore’s City Centre (2006) のプラン
総合コンサルティング:シンガポール政府都市再開発庁(URA) 

 

 

 完成が楽しみですね。

 

面出 これが完成したら都市照明デザインの典型となるでしょう。なぜならこのプロジェクトは都市景観や佇まいに思いを巡らしたプランであり、都市の品質そのものを扱っているからです。シンガポールでは他に「リフレクションズ・アット・ケッペルベイ」(2011)、「オーシャン・フィナンシャル・センター」(2012)、「ガーデンズ・ベイ・ザ・ベイ、ベイサウス」(2012)「ジュエル・チャンギ・エアポート」(2019)などの照明プロジェクトに携わっています。これらの実績を認められたのか、日本国内でも長崎、柳川、大阪の川沿いなどの都市照明の仕事も行いました。

 

 シンガポールのプロジェクトはどれも国家規模で、都市照明デザインの概念を変えるものですね。

 

面出 シンガポールなどの都市照明計画は土木工事の規模です。シンガポールでは政府が光のデザインを都市計画の重要な要因ととらえています。計画を進めるなかで、建国50年というシンガポールの国家としての若さを痛感しました。URAは女性管理職や若い人が決定権をもっていて意思決定も早い。国家としての勢いを感じます。
都市景観においては1日の半分は太陽の光がないわけだから、その夜の景観をどうデザインするかは都市経営にとっても重要課題です。また、太陽の光はコントロール不可能ですが照明は人間がコントロールできるので、隠したい部分は光を当てず見せたいところに光を当ててクローズアップすることもできる。だからこそ都市照明はそこで暮らしている人たちとの協議と合意が欠かせない。最近日本でも光害(ライトポリューション)が注目されていて、環境庁も積極的に指導し始めています。

 

 都市照明レベルになると一種のインフラ整備なのですね。

 

面出 都市照明は安全安心な街をつくるというだけでない。都市景観が夜になると昼間以上に美しくなったら、みんなが幸せな気持ちになりますよね。これまではタワーとか橋梁とかのランドマーク的なライトアップが注目されがちだったけど、街の美しい佇まいをつくるためには十分とは言えません。だからこそ、都市照明の基本的なルールづくりから始め、継続させることが重要なのです。

 

 でも最近は集客のために極端な光や強い色合いのライトアップが多くて、かえって景観を汚しているものも多いと思いますが。

 

面出 僕らはそうした行き過ぎた例をきっちり糾弾しなければなりません。

 

 面出さんがLPAと同時に始めた「照明探偵団」は、まさに都市照明のチェックをしていますね。この活動を通じてさまざまな光を体感することは何より重要ですね。光は空間と同意語だから、視覚だけでなく五感で感じ取ることが不可欠だと思います。

 

面出 最近はウェブサイトや印刷物を見て照明効果を知った気分になっている人も多いけど、照明探偵団は実際に現場に行って五感をもって体感し、議論する場です。光、照明は移ろい変化しているので、一枚の切り取られた写真では到底理解できるものではない。僕らはその光の中で生かされているわけです。

 

面出薫 資料 面出薫 資料 面出薫 資料

照明探偵団の活動の一部。建築都市照明のリサーチ、ミーティング、イベント開催など、国際的かつ多彩な活動を展開中。

 

 

 本当にそうですね。光がない闇の世界では生きていけない。

 

面出 そこで僕が言っていることは「自然光に学べ」です。自然の光は常に移り変わり留まることがない、太陽は1日のなかで、季節のなかでと、さまざまな光環境と風景を与えてくれている。光や陰影とともに気持ちよく暮らしていける世界をつくるためには、僕らも含めて生物の生体リズムに変調をきたさないような配慮は不可欠です。

 

 自然光からヒントを得て、どのような建築都市照明をデザインなさいましたか?

 

面出 例えば「六本木ヒルズ」の照明計画では、「夜」といっても夕方から深夜、そして朝までの時間の流れと、生態系との関係性を考慮しつつオペレーションプログラムを作成しました。照明探偵団的に言えば、現代人は照明や光に対して一歩間違うと大変な事態につながりかねない生体実験をさせられています。逆に言えば、光や照明が人間や生態系に与える影響は計り知れない。建築・都市そして環境照明にはそれだけの責任があるということです。

 

 

面出薫のアーカイブ

 

 さて、面出さんのデザインアーカイブついて伺いたく。面出さんとLPAの仕事の記録はまさに日本の建築都市照明デザインの歴史そのものだと思うのですが、それらの保管や記録はどのような状態ですか?

 

面出 僕は自分がやってきたことを残すことに熱心ではないなあ。しかしLPAとしては竣工後の管理や保全のために図面や写真などの必要データはきちんとは保管しています。

 

 WEBを拝見しましたが、プロジェクトの写真や情報が合理的に整理されていてとても見やすかったです。検索もできてかなり深い情報まで網羅されていて、WEB自体がLPAのアーカイブになっていると思いました。

 

 WEBで公開しているものは一部です。設計図、スケッチ、資料、写真、データなどはプロジェクトごとに整理されていて、東京、シンガポール、香港、深圳の4つのオフィスで共通ルールの下で記録、管理していて、社内の誰もがアクセスできます。

 

面出 記録だけでなく、これからの仕事の参考になりそうな写真やレポートもスクラップされていて自由に見ることができます。

 

 それらには面出さん直筆のスケッチやメモなども含まれるのですか?

 

面出 僕のスケッチなどは2019年に21_21デザインサイトで開催された「マル秘展、めったに見られないデザイナーたちの原画展」を契機にまとめました。あの展覧会は日本デザインコミッティのメンバーの図面やスケッチ、模型などを展示したのだけど、評判がよくて会期も延長されたほどでした。僕も「照明デザイナーもスケッチでプレゼンするんですね」とか「面出さんは絵が上手なんですね」なんてコメントいただいてね。そういう意味でデザインができるまでのスタディや制作物の重要性を再考するいい機会になり、僕もスケッチや原画を整理、ファイルして社内の誰もが見られる状態にしました。

 

 面出さんはどのようなときにスケッチするのですか?

 

面出 朝起きたときかな。夜は弱いんだけど、朝目覚めるといろいろなアイデアを思いつくし、思考が比較的整理されているように感じます。それからミーティングの場、人とコミュニケーションしながら思いついたことを描いたり、書き留めることも多いですね。人と話すと頭が活性化されるので言葉とかダイヤグラムを同時に書き込んで、後で見るとその時の思考を辿ることができる。

 

面出薫 資料 面出薫 資料 面出薫 資料

東京都市博、東京国際フォーラム、サイトポールなど、照明デザインのためのサムネイルスケッチ

 

 

 そのスケッチをスタッフの方々と共有しながら仕事を進めていくのですか?

 

面出 アイデア出しのときは自分の案も用意しますが、まずはひとつのテーブルを囲んでスタッフ全員のアイデアを持ち寄って議論を深めていって、最後に自分のアイデアについて話します。スタッフのアイデアでおもしろいものは取り入れますが、今のところ僕の案のほうが優っているから、それを基本に進めることが多くなります。

 

 その強みは何ですか?

 

面出 やはり場数の多さでしょう。それに世界中に行って現場を観ていますしね。今の若い人はパソコンのなかで考えることが多く、周りを意識しすぎる印象があります。とは言え、僕は彼らに触発されることも多いし、ミーティングやブレストは彼らにとって勉強の場でもあるので、こうした進め方をしています。

 

 今、にわかに注目されているデザインミュージアムやアーカイブについて、どのようにお考えですか?

 

面出 ミュージアムというと形がきれいなモノや歴史的意義のあるモノが展示される傾向があるけど、モノだけではデザインは伝えられないと思う。最低限、そのデザインがどうやって生まれてきたのか、スケッチや模型、企画書などの周辺資料はもちろん、完成までの過程で関わった人や場所なども欠かせない要素だと思います。むしろ僕の興味はデザインミュージアムが何かが起こる場であるか、ということ。人々が展示品を見るだけでなく何かに巻き込まれることが大事だし、その仕掛けづくりが重要だと考えます。他者とのコミュニケーションが難しい時代だからこそ、デザインというテーマで何かが起こる、巻き込まれてしまうことが、結果的にコミュニケーションのトレーニングになるようにも思うから。

 

 デザインアーカイブということでは、建築では湯島の国立近現代建築資料館も設立されましたが、磯崎新さんや伊東豊雄さんなど日本を代表する建築家の資料が海外の機関にいってしまいました。丹下健三さんもハーバード大学の資料に移管されましたし。日本国内の美術館や研究機関は手を上げないから貴重な図面などがどんどん海外に行ってしまうのは惜しいです。

 

 建築作品は大学で保存されているケースもありますが、面出さんが卒業された東京藝大はいかがですか?

 

面出 そうだよね。さっき言った21_21デザインサイトの展覧会が盛況だったということは、そうしたものに興味のある人は多いっていうことだよね。

 

 最近では、宇野亞喜良さんや石岡瑛子さん、和田誠さん、それに倉俣史朗さんの回顧展が開かれてどれも大盛況ですし、そもそも作品とアーカイブがなければ展覧会すら開催できませんから。

 

面出 本当に。

 

 さて最後に、面出さんはヤマギワ時代から今日に至るまでいろいろな建築を訪問なさったと思いますが、光という点で印象に残っている建築をあげるとすると何ですか?

 

面出 それは難しいなあ。僕は、照明デザインは自然光に学べと思っているから、空や夕日、夜空や星空といった当たり前の光、あるいは日常に中でハッと発見した光に感動することが多いかなあ。建築照明では、ロサンゼルスのアナハイムにあるフィリップ・ジョンソン設計の「クリスタルカテドラル」のクロード・エンゲルが照明をやった光かなあ。ヤマギワに勤めていて照明デザイナーの道を歩き始めたときにメンバーと一緒に行きました。その日は休館日だったのか照明が付いていなくて。付けてくれるように交渉したのだけどダメで、諦めて車で走り出した途端にパーンと付いたわけ。建物は鋼の骨組みに1万枚以上のガラス板が貼られたガラスの城のようで、そこに光がつくとまるで巨大なランタンが大空に向かって発光しているようで心底感動しました。忘れられないですね。それからスウェーデンのグンナール・アスプルンドの自然光を活かした建築照明が好きだった。今思い返すと、すばらしい建築にはかならずすばらしい光があるよね。

 

 光と言えば、ロンシャンの教会とかはどうですか?

 

面出 あそこもいいよね。時間とともにたくさんの窓から入る光が変化していくので立ち去ることができませんでした。名建築は光とともにありますね。昔の建築家は光を大切にしていたと思います。今は照明でできることが格段に広がったから、何かを演出しようと色を使ったり、強く照らしたりとお手軽になっていることを危惧しています。便利になると安易になりがちなので、気をつけたいですね。デザインは引き算も大切だし、行き過ぎた照明デザインと引き換えに失われる感性もあるでしょう。

 

 本当にそうですね。日本各地で面出さんとLPAの照明デザインに出会います。光を使ってすてきな環境と空間を創り続けてください。今日はありがとうございました。

 

 

 

面出薫さんのデザインアーカイブの所在

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