日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
水戸岡鋭治
インダストリアルデザイナー、イラストレーター
インタビュー:2022年9月7日 13:30〜15:30
場所:ドーンデザイン研究所
取材先:水戸岡鋭治さん
インタビュアー:関 康子、石黒知子
ライティング:石黒知子
PROFILE
プロフィール
水戸岡鋭治 みとおか えいじ
1947年 岡山市生まれ
1966年 岡山県立岡山工業高校デザイン科卒業
大阪のサンデザイン入社
1969年 イタリアミラノのステュディオ・シルヴィオ・コッポラ勤務。
退職後、ヨーロッパ周遊
1972年 ドーンデザイン研究所設立
1987年 「ホテル海の中道」(福岡、現・「ザ・ルイガンス」)
アートディレクション担当
1988年 「アクアエクスプレス」で鉄道デザインに進出
1992年 787系電車「つばめ」でブルーリボン賞、ブルネル賞受賞
2010年 交通文化賞受賞
2011年 第59回菊池寛賞、毎日デザイン賞受賞
Description
概要
JR九州の車両デザインを筆頭に、さまざまな公共デザインを手がけてきた水戸岡鋭治。イラストレーター、インダストリアルデザイナーとして25歳で独立起業し、2022年で50年を迎えた。九州新幹線「つばめ」や「ななつ星 in九州」など、手がけてきた車両がヒットを重ねたこともあり、今では鉄道ファンのみならず、広くその名を知られるが、自身のことは「作家」や「デザイナー」というよりも、むしろ「デザイン職人」と位置付けている。しかし、デザイン職人、水戸岡が車両デザインと鉄道ビジネスに与えた影響は計り知れない。自動車の普及で旅客量が減りつつあった鉄道業界に、新たな「エンターテインメント」という可能性を示したからだ。現在の観光車両の興隆がそれを物語っている。
岡山市で家具製作所の長男として生を受けた。名に「鋭」の字が付いているが、のんびりした性格で不器用だったため、正反対な「鈍治(ドンジ)」というあだ名を付けられた。それが気に入り、ドーンデザイン研究所の社名にも取り入れた。子どもの頃より絵が好きで、家業の塗装職人に絵の手ほどきを受け、岡山工業時代には、デザインと木炭デッサンを学んだ。そうした蓄積がイラストレーターとしての基礎をつくった。卒業後は大阪のデザイン会社に入社。3年勤務したのち、ミラノのデザイン会社に入社。4カ月で退職したが、その後、1年半をかけて鉄道でヨーロッパを周遊。このときの経験が、のちの鉄道デザインに生かされている。
独立後は、イラストや建築パースを描く仕事から、インダストリアルデザインや空間デザインへ、そして車両デザインへと人との出会いをきっかけに活動域を広げてきた。またプロジェクトでドーンデザイン研究所は、車両からロゴ、カタログ、弁当、駅舎、街づくりまで、関連するものすべてをデザインしていく。それにはプロジェクト内での信頼関係が必要で、あるときは「世界一のものをつくろう」と職人たちを鼓舞させながら、不可能と思われた課題をも乗り越えてきた。それまでの車両では使用不可だった木材が用いられるようになったのも、メーカーと不燃試験を繰り返すことで到達した成果のひとつである。
2022年、JR九州の「小倉工場鉄道ランド」に「水戸岡鋭治アーカイブ」ともいえるミュージアムがオープンした。これまでの自身の歩みは、先人の仕事をアーカイブとして学び、応用してきたものだと水戸岡は振り返る。世の中には学ぶべきアーカイブは数多あり、何がアーカイブなのか、その判断が重要であるとも指摘する。ユニークなそのアーカイブ論とともに、デザイン哲学について語っていただいた。
Masterpiece
代表作
「ホテル海の中道」(現・「ザ・ルイガンス」)アートディレクション(1987)、JR九州キハ58系「アクアエクスプレス」(1988)、JR九州787系特急「つばめ」(1992、2004年「リレーつばめ」に改称)、JR九州883系特急「ソニック」(1994)、JR九州「鹿児島中央駅」駅舎(1996)、横浜みなとみらい「クイーンズスクエア横浜」クイーンモールのパブリックスペースデザイン(1997)、「さいたまスーパーアリーナ」色彩およびサイン計画(2000)、JR九州ソニック885系「かもめ」(2001)、岡山電気鉄道9200形電車「MOMO」(2002)、JR九州800系新幹線「つばめ」(2003)、JR九州高速船「ビートル」(2005)、和歌山電鐵「たま電車」「たま駅舎」(2006〜2010)、JR博多駅ビル「JR博多シティ」(2011)、JR西日本大阪駅 「大阪ステーションシティ」の広場(2011)、富士急行線「富士山駅」リニューアル(2011)、板橋区オフィシャルロゴ(2012年)、クルーズトレイン「ななつ星 in九州」(2013)、JR九州高速船「クイーンビートル」(2020)、豊島区池袋周遊バス「IKEBUS(イケバス)」(2019)、「水信フルーツパーラー」(2021)など。
書籍
『イラストレーションパースの展開』グラフィック社(1980)、『ぼくは「つばめ」のデザイナー 九州新幹線800系誕生物語』講談社(2004、2014)、『旅するデザイン 鉄道でめぐる九州 水戸岡鋭治のデザイン画集』小学館(2007)、『電車のデザイン カラー版』中央公論新社(2009)、『あと1%だけ、やってみよう 私の仕事哲学』集英社インターナショナル(2013)、『電車をデザインする仕事 ななつ星、九州新幹線はこうして生まれた!』新潮社(2016)など。
Interview
インタビュー
最終的にはデータを公開してみんなが使えるものにしたい
展覧会を重ねてアーカイブが充実
ー ご無沙汰しております。水戸岡さんのことは1980年代前半から『AXIS』誌で取材させていただいています。イラストレーターとして建築パースを描かれていた水戸岡さんに、パンフレット用にAXISビルの断面図の制作を依頼したことがはじまりでした。
水戸岡 僕はそのとき33歳でした。浜野安宏さんがAXISをプロデュースし、ビルのオープン時に「寛容なる白い箱」というキャッチフレーズとともに15段の新聞広告を出していたのを見ていました。AXISで石橋寬さんや林英次さんを前にイラストをプレゼンテーションしたのですが、この経験はまさに人生が変わるエポックとなりました。パンフレットのためにAXISビルに毎日通って、展示してある照明器具・備品・建物のすべてを実測して、一つひとつ描き起こしたのを今もはっきり覚えています。その仕事が終わったときに、AXISギャラリーで展覧会をしないか、と林さんに声をかけていただいた。日本最先端のデザインの殿堂ですから、そこで展覧会ができるのは夢でした。でも自分には分不相応という思いもあり、資金もなかったので、辞退したいと告げたところ、石橋さんが会場費はプレゼントしますと提案してくださった。それで腹をくくって展覧会を開催したのです。緊張しましたし、準備も大変でしたが、2週間の会期中に多くの方々が訪ねてくれて、そこからデザイナーとして少し認知されるようになっていきました。
細部まで実測して描き上げたAXISビルの断面図イラスト。
ー AXISではその後も、鉄道展やテキスタイル展など、展覧会をされています。
水戸岡 きっかけをいただいたご恩を返すつもりで、新しいプロジェクトがあるとAXISギャラリーで展覧会を行ってきました。会場にいて、来場者と話すのも楽しいのです。僕の場合は、展覧会では作品をただ並べるというのではなく、会場に電車を走らせたり、ベンチを用意したり、新しいものを制作して空間からつくりあげるので、経費もエネルギーも、手間もかなりかかるのです。AXISだけでなく展覧会はこれまで数多く行ってきました。展覧会のたびに資料を整理して振り返り、新たな企画を立てるのですが、展示が終わるとつくったものと資料がさらに増えていくので、仕方なく大きな倉庫を借りて保存していました。
水戸岡ミュージアムが小倉に誕生
ー 2013年にはバンコクでも展覧会を行っています。
水戸岡 インラック首相がタイの鉄道整備の参照としてJR九州を視察したことがきっかけでした。その時は船便で展示品を送って、向こうで組み立てるという大がかりな企画となりました。1972年に25歳でドーンデザイン研究所を設立しましたが、実は活動50年で解散することを決めていて、10年ほど前から事務所を縮小しているのです。コロナ禍で今年パッと解散することはなくなりましたが、若手は海外や他社に行くか独立を促すなどして、人材の行き先については進めてきたんです。倉庫を借りてまで保存していた資料も片付け始め、大きなものが多いので、ほとんど廃棄しました。片付けはじめて1/3ぐらい残ったころに、JR九州の小倉工場が今年の「鉄道開業150周年」に合わせて、10年ぐらいかけて工場をよみがえさせる企画を立てたいと声を上げたので、軽い気持ちでその資料をすべて提供したのです。展覧会のための家具や造作物から、原画やスケッチ、図面やデザインの本まで、たくさん提供しました。
ー 2022年10月にグランドーオープンしたJR九州の「小倉工場鉄道ランド」ですね。そのなかにイラスト原画が常設展示される「水戸岡イラストレーションパースミュージアム」と水戸岡さんの鉄道デザインを体験できる「ドーンデザイン研究室」があるのですね。まさに水戸岡鉄道アーカイブです。
小倉工場鉄道ランドにオープンした「ドーンデザイン研究室」(左)と「鉄道ショップKK」(右)。
水戸岡 鉄道以外の仕事も含まれていますが、それに近いものだと思っています。東京のドーンデザイン研究所からデスクや本など家具を持って行き、事務所を再現しています。子どもが遊び、学ぶことができるサロンみたいなものになっています。まず月に1度は小倉に足を運んで、僕が整理していきたいと考えています。ショップをつくって少しは稼がないと運営ができないので、時々、委託して絵をオークションで売るなどして運用資金にあててもらえばいいと考えているんです。ほかに誰も稼いではくれないので(笑)。最終的には原画を売るのがいいとは思うけれど、今は、コピーでも一緒でしょ。コピーしたものは大きさを調整できるので、大きな原画よりも家に飾りやすいという声も聞きます。利益は出ませんが、絵を買って貰うことをやっていきたいと思っています。これから僕のライフワークにするぐらいじゃないとできないと覚悟しています。
ー 水戸岡さんは、昔から手描きで描かれたイラストをスキャニングしてデザイン展開していくという手法を貫かれています。データとして一元管理するという手法は、アーカイブ化のプロセスと重なります。
水戸岡 僕は自分では携帯電話もコンピュータも使えないけれど、データを残すことは昔から一生懸命に、かつシステマチックに続けてきました。スタッフや専門家にやってもらっています。今の若い人たちは手描きなどしませんが、僕はいまだに手描きです。ときには切ったものをピンセットで紙に貼ってロットリングで線を入れたりもします。それをデータ化して、色を付け展開させていくのです。手の作業は絵にコク(オリジナリティ)が出るから、スキャニングしても軽くならない。コンピュータだけだと絵がフラットになってしまうのです。もとはすべて僕が描いたもので、スタッフが共有してさまざまに展開しています。そうなると、もはや原画というものはなくなるんですね。椅子の図面もすべてデータ化しています。それがアーカイブなのかどうかなんて、考えてもいなかったけれど、みんなが自由に使えるようにすればいいと思ってやってきたこと。最終的には、データは公開して、誰もが自由に使って展開していくことになればうれしいです。その最たるものが、僕のオリジナルのパターンです。パターンは長年ストックしてきてあり、いろいろな素材にインクジェットプリントできるのです。JRの車両の仕事では既製品は極力使わないようにしていて、例えば「ななつ星 in九州」は壁の柄、椅子の張地、カーペット、ガラスエッチングとすべてオリジナルパターンで展開しているのです。
長年、描きためてきたパターンが現在もデザインのソースとなっている。
ー ご自身のデザインを無料で提供しようとされているのですか?
水戸岡 どのようにすれば、デザイナーのパターンが無料になるのか、ゆくゆくは世界の人が自由に使えるようにしたいと考えています。実験的に、初めてバングラデシュのフェアトレードのために無料でパターンを提供してみました。
世界にはウィリアム・モリスをはじめとしたすばらしいパターンを描いたデザイナーがたくさんいます。僕たちもそうした先人から学び、真似てきました。僕は、自分にオリジナルのアイデアがあるとは思っていないのです。すでにアーカイブされたものが世の中にいっぱいあるから。作品だけでなく、本や映像、映画など、資料はたくさんあります。それを見て好きな形にリデザインしていけば自然とオリジナリティとクオリティは上がる。広義では先輩たちの描いたものを参考にして、描き直したものにすぎない。コピーしてひねっただけならば、著作権もないに等しい。僕らも今までそうやってきたし、そうしないと全体のデザインレベルは上がらない。だから誰が使ってもかまわない、という考えです。
新しいものに挑戦するというのは、泥だらけになること
ー 1988年より鉄道の仕事を始められます。JR九州との出会いにより、それまで二次元を中心としていた仕事から、三次元の世界へとシフトしていきます。
水戸岡 僕は家具屋の長男で、高校時代からアルバイトで家具図面を描くことはやっていました。僕がつくりたいと思うのは、かっこいい家具ではなく、使えば使うほど味がでて、どの空間にも馴染む、懐かしくて新しい家具なんです。東京で独立してからはイラストを描く仕事しかなかった。北海道にトマム・リゾートができて、そのパンフレットにイメージイラストを描いたのですが、これをのちに「キャナルシティ博多」をプロデュースする藤賢一さんが見て、福岡で「ホテル海の中道」をつくるので手伝ってくれ、イラストを描いて欲しいと呼ばれたのです。そのときに「水戸岡さんは、本当は何がしたいの?」と聞かれたんです。「僕はデザインがしたい」と答えたら「このホテルでやれよ」と三次元の世界に飛び込むことになったのです。そのホテルのオープニングパーティでJR九州の社長であった石井幸孝さんと知り合い、JR九州の仕事が始まりました。
ー 偶然のような出会いですが、水戸岡さんとJR九州の出会いは鉄道の新しい世界を切り開きました。
水戸岡 切り開いたかどうかはわかりませんが、JR九州が民営化された当時は、このままいくと会社は赤字で、今まで通りではすまされない、なんとかしなければという気運が強くあって、それに僕が乗っかっただけなのです。国鉄がJRとなり東日本、東海、西日本の大手3社を含む6つの地域の民間企業に分かれたのは1987年。大手JR3社はゆとりがあるので新しいものをつくる必要はなかったのに対し、「三島会社」のひとつであるJR九州はまさに追い込まれた状況でした。そこで石井さんが労働組合と力を合わせて、一緒にがんばっていこう、と社員を叱咤激励したのです。デザインする時は、デザインそのものだけではなく、背後にある労働問題や経済問題、環境問題などあらゆる問題が絡んでいるのです。当時のJR九州の社員の熱意はすごかったと思う。業績が上向きになって上場してからは一流大学の優秀な社員が入ってくるようになって、スマートだけど新しいものに挑戦する気運は薄れたように感じます。新しいものに挑戦するというのは、泥だらけになること。人と意見を交わして大議論になったり、酒飲んで一晩中口論したりとか、クールな人たちとの仕事では起きにくいこと。それでもコンピュータのソフトを使えばなんとか仕事としてまとめることはできる。でもこれからみんなが同じソフトを使って、オンリーワンが生まれるでしょうか。心配です。
ー デザインにおいても、ゼロからものをつくることがなくなってきています。アッセンブリーの編集作業ですでにあるものを組み立てて一見、新しいものとしてまとめる仕事が増えています。
水戸岡 オーダーでなくセミオーダーで、既存のものに何かを加えてコーディネートし、アッセンブルし、デコレーションしてできあがったものが増えています。だからどれも似てきてしまう。アーカイブとは何でしょうか。アーカイブとは知的財産であり、そのソフト(考える方法)が大事になってきます。自分流のコンテンツじゃないと、役に立たないのではないですか。日本に世界に売れるアーカイブがあるか。アッセンブルしてつくっただけのものが、アーカイブとなりうるのか。自分の手で、足で、身体で突き詰めたことでないと、世界に出ていくアーカイブにはなりえないでしょう。僕らは人と意見を交わして大げんかになったり、一晩中闘ったりしてきましたが、労働時間が8時間になって、もはや無理な残業ができない時代になっています。リーダーが抜きん出て優秀でないと、何も動かない時代に突入するでしょう。
アーカイブにはガイドラインが必要
ー 作品やそのプロセスがすべてアーカイブとなりうるのではない、ということですね。
水戸岡 アーカイブの定義は難しいですね。まず、誰がアーカイブとしての価値を決めるのか、というのが一番の問題です。PLATの活動を通して、みなさんがそのガイドラインをつくらないといけない。それがないと、どれもこれも残さなければならなくなる。日本の古い街並みもしかり。これだけは価値がある、歴史として物語があり、デザインされ商品価値があるからアーカイブとして残すといった判断が不可欠です。そこには経済、文化、機能、環境、自然など、すべてのガイドラインが絡んでくるので、ガイドライン辞典をつくる研究開発となるでしょう。
ー 大きな課題を提示していただきました。ところでJR九州は当初、古い車両をリノベーションすることから始められました。リノベーションは今では当たり前のジャンルとなっていますが、これも先見性のある仕事と言えます。
水戸岡 当時は、デザインについての予算も、スケジュールも、クオリティの開発目標もなく、それしか手がなかったのです。限られた枠でできることからやろうと、最初に色、次に形、そして素材へと移行していきました。古い車両を色のデザインだけで商品化させる。最初に真っ白から始めました。鉄道業界で白は汚れるからタブーな色ですが、社長の石井さんが承諾してくれた。次はJR九州のコーポレートカラーの赤を塗りました。これも大反対されたけれども勝手に走らせてしまったら、子どもたちから「かわいい」と人気となった。そうやって既成事実を一つひとつつくっていったのです。
ー 水戸岡さんは日本中の職人と「チーム水戸岡」を組んで数々のヒットを飛ばしてきました。その秘訣を教えてください。
水戸岡 ヒットさせるためには、テレビは絶対に欠かせません。全国区のテレビで紹介されること。新聞や雑誌では伝わりにくい。でもテレビで映るときは細部までちゃんとできていないと、そのクオリティが映像でバレてしまうのです。テレビが取材に来るゾ!と職人さんたちに言うと、緊張感が走り、心地よいプレッシャーをかけることとなり、すごくがんばってしまうのです。その放送を家族が、子どもが、仲間が見るからです。手間をかけて、オンリーワンをつくることになるのです。
「ななつ星in 九州」は社長の唐池恒二さんに「世界一の列車をつくろう」と言われて始まった仕事です。古今東西の様式を曼荼羅のように配し、機能的で普遍的で多様性をもち、懐かしくて新しい列車が必要、と言われました。でもそれを実現するにはコストがかかります。「そこをなんとかするのが、水戸岡さんの手腕」と唐池さんは言います。そこで職人たちには、お金も時間もないけれど世界一を目指そうと伝え、夢に向かって走り始めました。
ヨーロッパにオリエント急行というアーカイブがあるから、それを見て、どこまでリデザインできるか挑んだのです。設備では水まわりを北九州に本社があるTOTOと組んで、温水シャワーの蛇口をひねったら冷たい水じゃなくて35℃以上の温水が流れてくる、安心・安全、夢の新しい技術を開発してくれました。
「ななつ星in九州」の初期アイデアスケッチ。
感動体験がアイデアやセンスを開花させる
ー 職人を本気にさせるのですね。
水戸岡 潜在意識のなかで思っていることを実現していくのです。僕が唐池さんに催眠術をかけられたように、僕もスタッフに催眠術かけて走りきりました。人はそういうもの。どうせやるなら、とんでもないことをやりたい。できない理由をあげたら、たくさんある。一人でも利便性や経済性だけを追求する人がいたらプロジェクトは止まってしまう。そんなことは無視して、とにかくいまだかつてないこと、難しいことに向かうほうがいい。
僕のデザインはオンリーワンに向かって、感動や楽しさが詰まっていること。温もりを感じる木材、開放感を高めるガラス、車両ではタブーとされている色や形や素材をふんだんに用い、古今東西の様式やデザインを曼荼羅のように配し組み合わせる。"最高の常識”がちりばめられた空間は、人びとに感動を与える舞台となり、その上では誰もが演技を始める。舞台にふさわしい役者であろうとすることで、自然と自らを成長させる。どんな舞台をデザインすれば、感動体験に出会うことができるのか。人は、経験した感動の量と質がアイデアやセンスに比例していくと思う。だから僕は子どもたち、次の世代に感動を共有してもらえるものをたくさんつくりたい。デザインに限らず、感動体験がなければ子どもたちの感性、知力、情熱は開花していきません。いかにたくさんの感動を与えられるかが大人の仕事です。こんな話のなかで仕事を進めるのです。
ー アーカイブのお話で原画などはすべてデータ化されていると伺いました。模型はどうでしょうか。
水戸岡 僕たちは、模型はつくらない。いや、つくれないのです。JR九州も1/1モックアップをつくったら大変なコストがかかるので、模型はつくりません。イメージ図面と透視図(パース)を可能な限り描く。みなが少し理解できるまで。そこに寸法を入れると絵図面ができあがる、透視図法で作図しているので、模型をつくる必要もないのです。とはいえ電車のデザイナーで、模型をつくったことがないデザイナーはいないでしょう。だからいつも驚かれますよ。でも模型は危険なのです。できた気になってしまうから。僕らは絵を描いて、図面を描くのを繰り返していますが、できあがるまで本当は誰も見えていないのです。最後までどうなるかわからないから、絶えず自分たちの頭のなかでの模型のチェックを繰り返し、模型を完成させていくのです。昔の職人はみなそうで、大工は釿(ちょうな)でいきなり削り出して、複雑な形もこなしてきた。それを今は難しいことはコンピュータに肩代わりさせるから、脳が退化してしまった。どんどん甘やかして能力が低下していったのです。新しいものをつくれるというのは重要なことで、そのためには知力、気力、体力を鍛えなくちゃいけないけれど、今はそれが鍛えられない時代になっている。製品としては完成しているが、商品にはなっていないのです。できた気分になっているのです。
ー コンピュータですぐにビジュアライズされることも影響しています。
水戸岡 同様に、僕たちは映像でのプレゼンもしません。出力されたイラストをテーブルに並べて、その前を社長と一緒に歩いて見て、絵を選ぶというスタイルです。映像は消えてしまうので、記憶に残りにくい。紙のものを自分の眼と手で選んだ方が明解で無駄がない。もちろんイラストの準備は大変です。その手間が、情熱が、信頼を得ることにもつながります。よいデザインができるかどうかは、予算の額でもスケジュールでもなく、信頼の深さによるのです。信頼されると思い切って仕事ができる。信頼されないと心と脳が働かないので、普通のものしかできなくなります。大事なのはお金でも時間でもなく、信頼して思い切って走れるように物事を整理整頓してガイドラインを明確にしてくれるリーダーがいることです。「ななつ星」でも、技術力の高い職人が今まで培った技が発揮できると思うと、自ら残業する、同じ時間でも普段の倍のスピードで仕事をする。クオリティは計算でつくるものではなく、人の情熱がそのままクオリティになるんです。職人にとっては「自分がつくる」「自分の力を最大限に発揮する」ということが何よりものやりがいです。「この図面は60%までしか描けていない。残りの40%はあなたがつくるんだ」。職人を信頼し、並走する気持ちがオンリーワンをつくりあげ、ナンバーワンになっていくと思います。
ー そうして生まれた水戸岡さんのデザインは、旧世代の車両を彷彿とさせます。だからおもしろいのだと感じます。
水戸岡 お客さまの多くは、いまだかつてない手間のかかったものを求めています。そういうものをつくるには予算もスケジュールもクオリティも大変にかかります。「ななつ星」はすべてのものをオリジナルで、十四代酒井田柿右衛門による有田焼の洗面鉢をはじめ、星形のネジや専用ドライバーまでつくり、描いたスケッチや図面は1万枚近くにも及びました。一方で、現代のデザインは合理的で経済的なシンプルなもので、僕らの事務所の1/10ぐらいしかスケッチや図面を描きません。膨大な図面から生まれた手間のかかった車両は何回見ても飽きない新たな発見があり、かけたエネルギーに比例して感動が生まれると思います。「ななつ星」はオリエント急行をアーカイブとしましたが、一部の「貴族」たちのための列車をクラスのない日本の庶民が乗るものとする、その根本の違いをどうとらえていくかがデザインの難しい課題でした。
「ななつ星in九州」を彩る福岡の大川組子。室内の木部はアルミニウム合金に天然木の突板を貼ったもので、強度や耐火性が確保されている。
ー ところで、JR九州に対して、水戸岡さんの著作権は主張されていないのでしょうか。
水戸岡 それを主張していたら、すごい金額になっていき、企業は破綻するでしょう。デザイン料が高額になってしまい、個人のデザイナーではなく車両メーカーがデザインするようになったでしょう。日々の生活と少しの研究開発ができる程度の報酬でいい。特別に儲ける仕組みにしなくても、真面目にコツコツゆっくりやってヒットさえ出せば、自然と安定するのですから。ヒットを出せば次も依頼がくる。ヒットを打つのはどうすればいいのか考えるのがいちばん重要です。仕事は発注者の言いなりにしない、という気持ち大切です。発注者の言っていることをそのままやっていたら、失敗したでしょう。「ちょっと待ってください、これではヒットを打てません」と言えるかどうか。そのためのチームづくりは大切で、時々は人事にも口を挟んでいるのです。人事に口を挟むなんて、と思われるかもしれません。でも、デザインに領域はない。林さんの言葉ですが、デザインは総合的な情報を、創造的にデザインし、計画的に生産し、持続可能なメンテナンスをすることなのです。グラフィックやプロダクトや建築といった区切りは僕のなかにはありません。ダ・ヴィンチやミケランジェロ、古田織部、葛飾北斎、柳宗理もそうでしょう。すべてのことをデザインとともに教育しないといけない。オリエント急行のような日本製の車両をつくるのに、車内で使うすべての製品・サービスについて、当然、デザインし、セレクトし、デコレーションができないと間に合いません。そういうのがわかるようになるには、実際にいろいろな物を使った経験が重要です。そのためには稼いで学ばなければいけない。正しく、美しく稼ぐ。経済のそろばんと文化のそろばんを同時にはじけることが大事で、売れた・売れないだけで生き抜くには限界があるのです。
ー 最後に、これからの活動について教えてください。
水戸岡 事務所は50周年でひと区切りをつけ、これからは稼ぎ仕事ではなく、務め仕事をしている人びとをサポートしたり、アシストする仕事をしたいと考えています。そのひとつとして「小倉工場鉄道ランド」に行って、来てくれた人たちとコミュニケーションをとりたいと思っています。原画やデザイン展、これまでの講演会に用いてきた資料もデータ化されているので、小倉のミュージアムだけでなく、別の場所に持って行って見ていただくことも難しくはないと思います。
時々、「デザイナーになりたいのですが、どうすればいいでしょうか」など、小学生から手紙が届くのです。それに返事として「日本に住んでいても、世界中を歩けるような人になりなさい」「たくさん知ると自分がわかる」と伝えています。この歳になると思うのですが、人にどれだけプレゼントすることができるか。そのためには、気力・体力・知力を鍛えていくことが今の時代は必要だと思います。
ー デザイナーとしてのすばらしい歩みとアーカイブ活動へ一石を投じるご意見をいただきました。本日はありがとうございました。
水戸岡鋭治さんのデザインアーカイブの所在
問い合わせ先
小倉工場鉄道ランド https://www.jrkyushu.co.jp/train/kokurakojo/