日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
宮城壮太郎
プロダクトデザイナー
インタビュー01:2021年5月6日 14:00~15:30 宮城宣子さん
インタビュー02:2021年5月13日 13:30~14:30 高橋美礼さん
2021年8月23日 16:00~17:00
PROFILE
プロフィール
宮城壮太郎 みやぎ そうたろう
プロダクトデザイナー
1951年 東京都生まれ
1974年 千葉大学工学部工業意匠学科卒業
1974~1988年 株式会社浜野商品研究所(現浜野総合研究所)勤務
1988年 宮城デザイン事務所 設立
2011年 逝去
Gマーク商品選定審査委員(1992-1995)、千葉大学工学部デザイン工学科 非常勤講師(1998-2005)、湘南工科大学工学部機械デザイン工学科 非常勤講師(2004-2010)、千葉工業大学工学部デザイン学科 非常勤講師(2007-2010)、法政大学大学院システムデザイン研究科兼任講師(2007-2010)を務める。
日本デザインコンサルタント協会 会員
Description
概要
宮城壮太郎のデザイナーとしての独自性は、プロダクトを軸にグラフィックからCI、空間デザインまで、クライアントの真の要望を掘り起こして最適な回答を提供することにある。
その姿勢はデザイナーと言うよりも絵も描けるディレクターであり、宮城が15年勤務した「浜野商品研究所(以下、浜研)」で学んだものだ。宮城が浜研ですごした1970~80年代のデザイン界は、企業内のデザイン部門に属するインハウスデザイナーと、看板を掲げるフリーランスデザイナーで成り立っていた。そんななか、浜野商品研究所は建築、グラフィック、プロダクト、編集、法務など多様な専門家で構成された組織であり、一個の製品デザインからブランド開発や商業ビルのコンセプト立案までを総合的に手掛けるデザインファームだった。それは師匠と弟子という師弟関係を越えた新しい働き方と人間関係の実践の場であった。
独立して宮城デザイン事務所を設立以降、宮城はデザイナーとディレクターという立場を自由に行き来し、かつ幅広い人的ネットワークを築き活かしながら、アスクル、山洋電気、東急不動産といった一人事務所では手に負えないスケールの仕事を実現していった。デジタル時代に突入した現在では、数十人規模のデザインファームがシステムやソフトの開発を含む大規模なプロジェクトを手掛けるのは当たり前だが、宮城は一人で現在のデザインファームへと繋がる新しい働き方を実践していたことになる。そういう意味で、宮城の仕事ぶりはデザインという仕事や役割の変化を予言していたと言えよう。今回は宣子夫人と宮城のアーカイブ作業にあたる高橋美礼さんにお話を伺った。
Masterpiece
代表作
カメラ「Fujica HD-1」 富士写真 フィルム(1979)奥成一雄と協働
照明器具「Bio Light」 旺文社 (1986)
CI、アスクルロゴマーク」など プラス/アスクル(1992-1997)
空気清浄機「AirRefire」 松下電工(現パナソニック)(1997)
オフィス家具「PCデスクシステム」 アスクル (1998-2000)
本社オフィスディレクション アスクル アスクル (2000-2001)
石けん置き「Tsun Tsun」 h-concept (2004) 高橋美礼と協働
調理機器「all round bowls」 チェリーテラス (2004)
文具「フラットホッチキス ピタヒット」 プラス (2010)
グラス「Palmhouse Glass FLEUR」 チェリーテラス (2010)
Interview 1
インタビュー01:2021年5月6日 14:00~15:30
場所:宮城さん自宅
取材先:宮城宣子さん
インタビュアー:関康子
ライティング:関康子
インタビュー01:宮城宣子さん
激動の時代に「物」を残す意味があるのだろうか
デザイナー、宮城壮太郎
― 宮城壮太郎さんが60歳という若さで急逝されたと知ったときはとても驚きました。事務所も対応に追われたのではないですか?
宮城 病気がわかったときにはすでに手の施しようがありませんでした。ただ急に体力が落ちるということはなく徐々に仕事のやりくりを進めていきました。クライアントのなかには仕事を続けることが一番の薬だと言って新たに仕事を発注してくださったり、コンサルタント契約していた企業からも仕事を打ち切られることはなく、ありがたかったです。
― 宮城さんは商品企画、プロダクトデザイン、CI、ブランディングなど幅広く活躍されていました。スタッフもいらしたと思いますが、事務所の活動や体制をどうするか、どうのように対処されたのですか?
宮城 事務所の体制は宮城と、長く勤めてくれたアルバイトの平野明さんだけという、実質一人体制でした。平野さんはデザイナーではなくアーティスト志望でしたがデザインもできて、宮城とはよい距離感を保ちながら務めてくれました。事務所を閉めるときも最後までかかわってくれました。
― 宮城さんの仕事量から判断すると事務所には4,5人のスタッフがいるのかと思っていました。実際、あれだけ幅広くたくさんの仕事をどのように実現されていたのですか?
宮城 たしかに、プロダクトからブランドや事業計画まで、大企業の仕事もしていたのでそう思われるのも当然かもしれません。ただ基本的には一人事務所で、仕事の内容や規模によって適材適所、有能な方々に声をかけて協働していました。チームワークというやり方は長年勤めた浜野商品研究所(以下浜研)で体得したものかもしれません。独立した後も元浜研の方々とは親しく付き合っていたし、一緒に仕事もしていました。
― 宮城さんがいらしたころの浜研は、浜野安宏さんと北山孝雄さんを中心に多彩な才能が集まって、東急ハンズ、フロムファースト(青山)、アクシス(六本木)など文化的商業施設のプロデュース、企業や製品のブランディング、事業・製品開発、出版や展覧会の企画など、実に幅広いクリエーションを展開していました。
宮城 宮城は浜研ではプロダクト、空間デザインを中心にさまざまなクリエーションに携わっていました。いろんなことを得ましたが特に人間関係は宝物で今でもつながりがあります。現在の住まいは浜研からお付き合いのある建築家の高市忠夫さんと共同で建てて、下階は高市さんの事務所、上階は私たちの住まいとなっています。宮城の闘病中も高市さんご夫妻が近くにいてくださって精神的にも心強かったです。
― 私の印象では、宮城さんは人々を惹きつける魅力があおりでした。
宮城 そうですね。宮城の周りにはいろいろなジャンルの才能のある方、幅広い年齢の方が集まってくれて、公私ともにサポートしてくれていました。だからこそ独立してから23年という短い間にほぼ一人体制であれだけ多くの仕事を実現し、一方でGマークの審査員や大学で教えることもできたのだと思います。
― 仕事の進め方など浜研の影響があったとのことですが、他にはいかがですか?
宮城 ライフスタイルから発想するということでしょうか。 私たちは何度か引っ越しをしているのですが、1998年、東京の自宅(世田谷)の借金が残っているにも関わらず、軽井沢で気に入った土地を偶然見つけてセカンドハウスを建てました。正直、私は不安だったのです。ところがその時期は携帯電話やインターネットが普及していつでもどこでも仕事ができる環境が整いつつあり、宮城は夏季と毎週末は軽井沢ですごし、東京と軽井沢の2拠点を行き来する生活を実践していました。ライフスタイルへのこだわりは、やはり浜研の影響かと思います。
― そうですね。代表の浜野安宏さんがまさに新しいライフスタイルを体現した人でしたね。「戦後日本デザインの軌跡1953-2005 千葉からの挑戦」展(2006年開催)の図録に掲載されている宮城さんのインタビューにある「(浜研では)自分たちの生き方をどうすべきかが基本であって、マーケティングではないんですよ。コンセプトありき。中略 コンセプトがないとデザインだけではダメ、という考え方はその後ずいぶん参考になりましたね」、「売る側の、大量に売ることこそ良い、急成長こそ良いという発想を変えなくてはダメですよ。少しずつ、ゆっくり進む発想が欲しい。一律ではなく考え方は違ってもいいし。中略 あとやりたいことは『こういう商品はダメだ』という意思表示ですね」という発言は、ライフスタイルから発想する宮城さんだからこそだと思います。
宮城 ありがとうございます。
― 印象に残っているお仕事は何ですか?
宮城 事務所の創業から宮城の死までかかわった冷却ファンなどの部品メーカーの山洋電気の仕事です。IC、プロダクト、インテリアなどのデザイン開発を行っていました。それからやはり、ゼロから立ち上げたアスクルの仕事です。創業者の岩田彰一郎さんは文具メーカーのプラスから独立された方で、宮城とは同年代でもあり古くからのお付き合いで信頼関係も篤かったと思います。アスクルの事業計画から始まって、ブランディングからCI、パッケージや製品まで、幅広いデザインワークを任せていただきました。デザイン以外の部署の若手社員の方々との交遊も広がり、いろんな意味で宮城の代表的な仕事になりました。
― 宣子さんからご覧になって、宮城さんはどんなデザイナーでしたか?
宮城 365日、すべてをデザインに捧げているような人でした。事務所でも自宅でもあちらこちらにメモ帳を置いて、思いついたこと、返事をしなければならないことなどをこまめにメモしていました。リターンが早いとも言われていて、普段からコミュニケーションのキャッチボールも即対応でした。
残された作品と資料
― そんな宮城さんが急逝されて事務所も閉じられて、作品や資料、図面はどうされたのでしょうか?
宮城 正直、私は製品化された現物だけを残しておけば資料は破棄してもよいと考えていました。けれども森仁史さんの助言で捨てずにすみました。森さんは長年松戸市教育委員会の学芸員として活躍され、その後金沢美術工芸大学で教鞭を執り、同大学の柳宗理デザイン研究所の所長も務められた方です。先ほどの「戦後日本デザインの軌跡1953-2005」展は、森さんが松戸市学芸員だったときに企画されたものです。同展は優れたデザイナーを多く輩出した千葉大学工学部意匠学科の卒業生の活動を通して戦後日本のデザインを展望するもので、化粧品のパッケージから自動車や都市デザインまで約400点が展示されました。図録も編集されて宮城の仕事やインタビューも掲載していただきました。
その森さんは「生前の宮城さんとは話す機会がなかったけれど」と、亡くなった後に訪ねてきてくださって、「捨てちゃだめですよ。とにかくとっておくことです」と、作品や資料の譲渡先も探してくださいました。母校である千葉大学にも当たってくれたのですが結局引き受け先はなく、今は自宅で段ボール70箱とパネル類を保管しています。
― その中身は何ですか?
宮城 製品の現物、スケッチや図面などです。本来であれば中身を確認しながらパッキングすべきですが、病がわかってから事務所の閉鎖まで時間がなさすぎました。紙系の資料は平野さんがまとめてくれて、製品などの現物は友人たちが段ボール箱に詰めてくれました。とにかく事務所内の物を自宅に引き上げてくることで精一杯でした。
― 大変だったと思います。他にはどんな物が残されましたか?
宮城 蔵書がありましたが皆さんに差し上げてしまったので、今はほとんど残っていません。他には、2009年頃から宮城自身がポジを少しずつ整理していたファイルもありました。これらには旅先で撮った建築やインテリア、町並みなどの写真も膨大に含まれています。宮城は海外から戻ってくると、事務所でスライドショーを開いて大勢の友人や仲間とわいわい愉快な会を企画していて、「bar MIYAGI」と呼んでいました。そうした仲間が資料の整理を手伝ってくれたのです。
― 宮城さんの人徳ですね。現在、箱を開けて資料の整理をされているとのことですが、具体的にはどのような作業をなさっているのですか?
宮城 時間がたって落ち着きを取り戻した頃にいろいろな方々が集まってくださって、ボランティアで自宅にある箱を一つひとつ開けて中身の確認やデータ制作を続けてくれています。森さんは松戸市教育委員会のスタッフの方と手書きの図面などを整理してくださいました。並行して高橋美礼さんを中心とした有志の方々が、箱に納められた製品化された物とそれにかかわる図面や資料をスマフォで撮影してナンバリングし、さらにエクセルを使って製品名や年代、サイズなどをデータ化してくれています。高橋さんはドムスアカデミーを卒業された後、デザインやデザインに関するテキストを書かれています。帰国後に知人を介して宮城を紹介されたそうで、いくつかのプロジェクトを協働してくださっています。コロナ禍で中断しつつも作業を続けてくださっています。具体的な内容は高橋さんからお聞きいただければと思います。
― 宮城さんの展覧会などのお話もあるとお聞きましたが。
宮城 はい。展覧会は2022年秋に世田谷美術館で開催される予定で、現在学芸員の方と進めております。
― 宮城さんのアーカイブの指針は宣子さんと高橋さんで決めているのですか?
宮城 私は事務所の経理などの雑用をしていましたがデザインには関わっていなかったので、森さんの助言がなければ製品以外の資料は捨ててしまうところでした。なので、やはり森さんと高橋さんのお力によるところが大きいです。
― 2021年、今年は宮城さんの没後10年になりますね。
宮城 事務所を閉めるときに皆さんが集まってくれてお別れ会を開きました。そのとき、ナカサ&パートナーズのカメラマンである中道淳さんがボランティアで美しい写真を撮ってくれました。その写真と闘病中に有志の方々が宮城に行ったインタビューを編集して、小さな冊子をつくってお世話になった方々にお配りしようかと考えています。
小冊子『宮城壮太郎の100の思い』 2021年秋に完成した。
― すてきな計画ですね。宮城さんが亡くなって10年、作品や資料の保管や整理に関して、どのようなことを感じていますか?
宮城 宮城自身はさっぱりした性格の人だったので、自分のアーカイブにそれほどこだわっていなかったと思うのです。
― でも、仕事の整理をされていたということでしたね?
宮城 まだ60歳でしたし、これからも仕事を続けるつもりだったと思うのです。整理を始めたのは事務所が手狭になり、還暦を迎えて区切りとして片付けておこうという気軽な気持ちだったのではないでしょうか。
この10年いろんな方々のご協力を得て少しずつ整理やデータ化を進めていますが、私たちには子どもがいませんので、私が死んでしまった後はどうなるのだろうか、今後のことを考えると正直不安です。特に物は嵩むので全てを残しておくことは難しく、メーカー側が保管してくれていると安心です。どちらにしてもこれらの行き先を決めたいし、製品化された現物とその資料だけでも継承できればと願っています。宮城は特にプロダクトデザインにおいては美しさだけでなく「その形」に理由があることを重視していたので、そうした思想や仕事ぶりを残せればと願っています。
― 本当に、ご自宅で保管されているデザイナーやそのご家族は皆さんご苦労されています。妻と子どもまでは何とか残してくれるだろうけど孫には押し付けられないと。
宮城 それに、物は経年とともに劣化します。浜研時代にデザインしたカメラ「Fujica HD-1」はシャッターに使われているゴム製パーツが劣化しても今では代わりがありません。製品保管は劣化という問題をはらんでいますね。実際、社会や技術の変化は大きく、例えばスマフォの普及でカメラの需要が少なくなっているし、カメラ自体がなくなってしまうかもしれません。このような時代に「物」を残していくことに意味があるのだろうかと真剣に考えてしまいます。ただ残すべきだったら意義のあるかたちにしないといけないだろうと思います。
― ありがとうございました。
Interview 2
インタビュー02:2021年5月13日 13:30~14:30
2021年8月23日 16:00~17:00
方法:リモート取材
取材先:高橋美礼さん
インタビュアー:関康子
ライティング:関康子
インタビュー02:高橋美礼さん
宮城さんとの出会い
― 宮城壮太郎さんとの出会いについてお聞かせください。
高橋 2001年ミラノのドムスアカデミーを卒業して、帰国後にキッチン用品やテーブルウェアの販売を手がけているチェリーテラスの仕事を通じてはじめてお会いしました。その後、偶然にも東京で私が借りた部屋のオーナーの森恵さんが元浜研で宮城さんの先輩だったというご縁から声をかけてくださり、2002年にはアッシュコンセプトの石けん置き「TsunTsun」のデザインを協同させていただきました。他にもリサーチやコンセプト立案などもお手伝いするようになりました。
高橋 宮城さんは受注してデザインするというよりも、いろんな人たちと一緒にプロジェクトに取り組み、その結果としてのデザインが生まれるという感じでした。その代表的な例がアスクルの仕事だと思います。私がご一緒したチェリーテラスの仕事でも単に製品のデザインだけではなく、オーナー家族と食事をして時間を共有することを大切にされていました。そんな寛いだ会話から、その企業のフィロソフィとは何か、どんな製品やコミュニケーションが必要なのか、デザインはどうあるべきかと根本的な問いから始めていらっしゃいました。今でいうアートディレクター、ブランドディレクターといった立ち位置に近かったのかもしれません。こんな感じですから、いろんなジャンルや背景を持った人たちと繋がっていました。
― 宮城さんとはどのようなかたちで協働されたのですか? 例えば「Tsun Tsun」とか。
高橋 「Tsun Tsun」は、宮城さんとアッシュコンセプトの創業者である名児耶秀美さんとの間で、製造過程で発生するゴム製廃材の形状をヒントにしてみるというざっくりした方向性で合意がありました。デザイン段階になって「石けん置きなので女性の視点も大切だろう」と、宮城さんが私に声をかけてくださいました。作業は特に分担を決めることなく二人でアイデアを出し合いながら、宮城さんのディレクションの下でデザインを進めていきました。試作はアルバイトの平野さんと一緒に宮城デザイン事務所で試行錯誤しながら制作しました。
― 高橋さんにとって宮城さんはどんなデザイナーでしたか?
高橋 プロジェクトをご一緒するなかで感じたことは、とても柔軟な部分と頑固なところが共存しているということでした。その態度は、世代の違うデザイナーに対してもクライアントに対しても同じでした。ご自分のコンセプトやデザインを通すために強い物言いをされることもありましたが、それは自身の考えや提案に対する裏付けと自信があったからだと思います。また、作家性を追求するタイプではなく、時代や企業が求めるベストな回答としてのデザインを追求しておられたと思います。
宮城アーカイブの現状
― さて、本題である宮城さんのアーカイブついてお伺いしたく。高橋さんが宮城さんの資料の整理をされているそうですが、そのきっかけを教えてください。
高橋 2011年3月、宮城さんの死は突然すぎました。宣子さんはもちろんですが周りにいた人たちも気持ちの整理ができないまま、とにかく事務所を閉じるために膨大な作品や資料を段ボール箱に詰めてご自宅に移動させました。しばらくするとみんながご自宅に自然と集まってきて、宮城さんがかつて事務所で開催していた「bar MIYAGI」が、場所を代えて宣子さんの手料理をいただく会として復活したのです。ところが時とともに参加者も少しずつ減ってきて、2017年だったと思いますが、私から「箱を開けて中身を確認し、そのリストをまとめませんか」と声掛けしたのです。
― その呼びかけで作業が始まったのですね。
高橋 集まった仲間で箱を開けて、製品やモックアップ、図面や資料などをとりあえず500番までナンバーをつけていきました。それらをスマフォで撮影し、製品名、年代、メーカー名、サイズといった基本情報をデータ化しました。
― 通常、データは年代順、プロジェクト別にざっくり分類することから始めますが、その辺は考慮されているのですか?
高橋 現状は箱を開けた順にナンバーを打っています。当初は月に2回、そのうち月1回とペースダウンし、コロナ前には定期的ではなかったけれど数人で続けていました。作業的にも最初は箱から出して付箋にメモをしてエクセルのフォーマットに記入して箱に戻すといったシンプルな作業でしたが、最近は判断が難しい案件も多いので少人数の方が進めやすいです。
― 宣子さんによると製品化されたものを優先されているとお聞きました。
高橋 はい。例えば、浜研時代の照明器具「Bio Light」、松下電工の空気清浄機、プラスのホッチキス全種、チェリーテラスのキッチン用ボウルセットなどで、現物と設計図、スケッチやプレゼンボード、撮影用のモックアップなどが含まれています。現在70箱ほどあって、ご自宅の数カ所に分けて保管してあります。
エクセルでデータ化された資料と、自宅で保管されている70箱の一部
― 宣子さんはそれらの行き先をどうすべきかと悩んでおられましたが。
高橋 たしかに。今後のことを考えると保管し続けることができるのか、いつかは処分せざるを得ないのか、あるいは保管してくれるところを探すのか、ある時期に決断しなければないと考えています。
― それにしても、有志だけでここまで進められたのはすばらしいことです。
高橋 アーカイブとしては未完成ですがボランティアでここまでできたのは、何より宮城さんのお人柄と突然の死があってのことだと思います。
― 皆さんから慕われていたのですね。
高橋 生前から、宮城さんを中心に集まっていた人たちから自然と新しいプロジェクトが発生することがありました。なかには宮城さんが知らないところで進むこともあったのですが、そうしたことを不快に感じる方ではなかった。人間関係に対して大らかで太っ腹だったので、自然に人が集まったのだと思います。
― 物のアーカイブ以外の計画もあるとお聞きしました。
高橋 アーカイブは没後10年の2021年に何とか一区切りつけたいと500番まで整理しましたが、コロナ禍の影響もあって作業はペースダウンしています。一方で、私自身は物のアーカイブに合わせて宮城壮太郎というデザイナーの「存在」や生きた時代を記録しておきたいと考えるようになっています。例えば、アスクルのような画期的なプロジェクトの誕生の背景やプロセス、クライアントとのやり取りといった「事実」を伝えていきたい。ひとつの方法として「文章」にまとめてはどうだろうかと思いついたのです。今は浜研時代の仕事に遡って、プロジェクトを時間軸でひも解き、同時にプロジェクトごとに宮城さんと協働した方々へのインタビューも進めています。それとは別に、私の大学時代の先輩である世田谷美術館の学芸員に宣子さんを紹介して、宮城さんの展覧会の企画が進んでいることも嬉しく思っています。
― 高橋さんの文章は素晴らしい記録になると思います。アーカイブとしては作品や図面と同じくらい人物の思想や行動の記録も重要です。本人が文章や音声などで残していないかぎり、ご家族やスタッフ、周りの人のインタビューを通して迫っていくしか方法がありません。そんな作業を通して人間性や時代性も浮き彫りにされると思います。
高橋 そう言われると励みになります。宮城さんが亡くなって10年になりますし、記事や展覧会のように締め切りがあるものではない。ましてご本人にインタビューできるわけでもないので、モチベーションを保ちながら進めるために、こうした機会をいただけてよかったです。
― ありがとうございました。
宮城壮太郎さんのデザインアーカイブの所在
問い合わせ先
宮城デザイン事務所 http://www.kt.rim.or.jp/~miyagi/