日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
宮本茂紀
家具モデラー
インタビュー:2018年11月7日 14:00〜16:30
場所:ミネルバ
取材先:宮本茂紀さん
インタビュアー:石黒知子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
PROFILE
プロフィール
宮本茂紀 みやもと しげき
家具モデラー
1937年 東京生まれ
1953〜1956年 斎藤椅子製作所勤務
1956年〜1965年
三好木工、高島屋工作所、三越製作所、内外木材、大島木材工芸勤務
1966年 五反田製作所創立
1983年 五反田製作所の分社としてミネルバ設立
2007年 黄綬褒章を受章
労働省中央技能検定委員、東京椅子張同業者組合連合会会長、
全日本椅子張同業組合連合会理事長を歴任
厚生労働大臣認定 一級家具製作(椅子張り作業)技能士および
職業訓練指導員の資格を保有
Description
概要
デザイナーのアイデアを具現化するモデラーという仕事がある。2次元のデザイン画を3次元の試作に起こし、細部を調整しながら製品化へと導く。長年培ってきた経験や技術力はもとより、創造的な工夫を凝らしサポートしてくれる頼れる存在だ。海外では家具や自動車の分野でその存在が知られているが、国内で家具モデラーとしては宮本が初となる。仕事は主に椅子を中心として、企業やメーカーのオリジナル家具や建築空間のための特注家具、試作開発、文化財の補修などで、日本における洋家具の草創期から携わり、その発展に寄与してきた。
最初に徒弟に入ったのは、1953年の15歳のときだった。50年代はさまざまな家具の製作所で、ワラや馬の毛、コイルスプリング(ばね)などを使った古典的な西洋家具づくりの経験を積んだ。60年代には当時、日本にいっせいに流入した石油化学製品を使った輸入家具製作に取り組み、70年代にはイタリア、ドイツなどのトップメーカーで世界的な技術を修得。80年代以降、建築家やデザイナーとの開発プロジェクトが増え、多くの人々が宮本のところに相談に訪れ、数々の名作を世に送り出した。著書『世界でいちばん優しい椅子』や『椅子づくり百年物語』には、これまで取り組んだ椅子の開発や修復についての経験談、建築家やデザイナーとのエピソード、椅子の構造や素材の図解が掲載されていて、これまでの歴史を振り返っても、試作品や図面、スケッチなどが多数あることが予想される。
2018年で81歳を迎えた現在も精力的に多様な開発に携わり、建築家とデザイナーとつくり手が一緒に考えるデザインの勉強会「家具塾」を主催し、またさまざまな大学でデザイン教育も行っているが、どのようなアーカイブがあるのか、また今後それらをどうするのかという考えも含めて、その実態調査を行った。
Masterpiece
代表作
家具の修復
迎賓館(旧・赤坂離宮)(1970)
博物館明治村(1996)
国会議事堂(1999、2008〜2009)
鹿鳴館(2002)
日本工業倶楽部(2003)
京都迎賓館(2005)
宮内庁玉座(2007〜2008)
宮内庁儀装車・御者台(2008〜2012)
椅子の共同開発
「レインボー」アルフレックスジャパン(1971)
「NT」アルフレックスジャパン、川上元美(1976)
「折り紙チェア」笠松栄(1980)
「ウィンクチェア」カッシーナイクスシー、喜多俊之(1980)
「ヨセフ・ホフマンへのオマージュVol.2」ヤマギワ、倉俣史朗(1986)
「花」シリーズ エドラ、梅田正徳(1990〜)
「ウツリグツリ」ヒロネン(1990)
「光る椅子」隈研吾(2003)
ライセンス生産
「MODEL7」アルフレックス(1971)
「CAB」カッシーナイクスシー、マリオ・ベリーニ(1977)
自動車・車両
夜行寝台列車「カシオペア」JR東日本(1999)
電気自動車「エリーカ」慶應義塾大学ほか(2004)
自社開発
「ボスコ」シリーズ(1974〜)
「トネリコ」(1997)
「マイチェアー」(2001)
著書
『原色インテリア木材ブック』建築資料研究社(1996)
『世界でいちばん優しい椅子』光文社(2003)
『椅子づくり百年物語』OM出版(2005)
Interview
インタビュー
何かを後世に遺したいという思いは、ありません
時代背景とともに書き溜めている年表
― 昨年、このNPOデザインアーカイブ実態調査でお話を伺った家具デザイナーの藤江和子さんから、宮本さんがご自身の年表をつけられているとお聞きしました。
宮本 私は子どもの頃からほぼ毎日、日記というかメモのようなものを付けていて、それを年表にまとめています。仕事のことだけでなくプライベートなことも書いていて、時代背景がわかるように国内外で起きた事象も書き添えています。
― 産業革命の時代から始まっているのですね。「世界を股にかける職人を目指すことを宣言する」「斎藤椅子製作所に弟子入り」、赤字で書いてあるところが宮本さんの個人史ですね。「ガガリーン歓送会に勤労学生代表として参加」されたのですか。「シックハウス症候群」など、その時代の社会問題なども書かれていてわかりやすくまとめられていますね。こういう年表をつくろうと思われたきっかけは何だったのですか。
宮本 何がきっかけだったでしょう。アーカイブ化しようという意識は特にありませんでしたし、そういう野心もありません。強いて言えば、忘れっぽいからでしょうか。例えば、年末に年賀状を書くときに、今年自分が手がけた仕事を振り返るのにも便利です。それから藤江さんと一緒に、建築家とデザイナーとつくり手が一緒に考えるデザインの勉強会「家具塾」を主催しているのですが、この10月には北海道の帯広にあるうちの工房で開催しました。そこで自分がこれまで手がけた椅子についてレクチャーをするときにも大変役立ちました。この時代にはこういう素材の椅子が主流だったとか、大きな流れもつかみやすい。文献を読んで過去のデザイン史を辿るよりも、こんなふうに自分が生きてきた人生と時代を重ね合わせて見る方が実感として湧いてリアリティを感じやすいと思います。
― この年表も貴重なアーカイブになると思います。ほかにも試作や素材見本など、いろいろなものがあると思いますが、みなさんが一番困っているのはポジやネガフィルムの保存についてのようです。宮本さんも写真をお持ちですか。
宮本 開発過程を撮影した紙焼き写真をアルバムにまとめていますが、膨大にあります。日産自動車関連のアルバムは、30冊くらいあります。毎年、1年の半分以上を日産の高級車のインテリアの開発に費やしていた時期がありました。愛知県にある博物館明治村の文化財の椅子の補修をしたときのアルバムは、全部で160冊ほどあります。そのなかにはプロが撮影した写真もあります。
― このアルバムの写真には何も説明が記載されていませんが、これについて語れるのは宮本さんお一人ということになるでしょうか。しかも、写真はどんどん退色していきますしね。
宮本 たしかに退色してきていますね。
― 1993年から3年間続いた『室内』の連載記事の一部は、書籍『椅子づくりの百年物語』にもなりました。宮本さんが手がけた国内外の建築家やデザイナーの家具や素材についての解説や論評、家具の断面図を描いたイラストも貴重なアーカイブ資料だと思います。当時の生原稿を今もお持ちですか。
宮本 残っていないと思いますね。字が下手なので、私が書いたものを女房が校正して清書してくれて、それを編集部に渡していました。当時は仕事が多忙を極めるなか、原稿の締め切りに追い立てられて大変だった記憶しかありませんけれど、今では本になって残ってありがたいと思っています。
― イラストの原本はどこかに保管されていますか。
宮本 ミネルバの本社の倉庫に保管していて、かなりの枚数があります。定規を使って細々としたものを描くのは得意ではないので、私が下絵を描いて、教えているデザイン系の大学生に清書してもらっていました。私は話すのもあまり上手くないので、その弱点をフォローするための道具でもあるんです。外部の人とやり取りするときに、相手がプロだったら一目で理解してくれますからね。家具のメーカーの人たちにもよくこのイラストを見せて、今ある椅子をさらに発展させていくことが大事だと言っています。けれども、景気が悪くなると、特に表に見えない中の素材がまがい品のような、どんどん粗悪なものになっていってしまう。あとでわからなくならないように、最初に開発したときの素材や構造を知る指針にもしています。
試作品や素材見本について
― 座面のクッションの素材見本として、ワラや馬の毛、ヤクの毛、化学繊維などがそれぞれ透明なビニール袋に実物と同じように層状にパッキングされたものがありますが、わかりやすくまとめられていますね。
宮本 椅子のクッション素材として、天然のものに代わって石油化学製品が使われ始めたのは50年代半ばのことです。1964年に東京オリンピックが開催された頃から、いろいろな海外ブランドの家具が日本に上陸したのを機に加速しました。天然素材で椅子をつくれるようになるには、5年くらい修練する必要がありますが、極端に言えば、ウレタンの場合は機械でカットしたものに生地をかぶせるだけという、素人でもつくれてしまう。当時、職人のする仕事ではないと思われていましたが、私はおもしろいと思って喜んで取り組みました。そういう仕事でも何年も積み上げていくと、その道の卓越したところにいくんですね。
その後、1966年に五反田製作所を創立してから、輸入家具を扱ういろいろなメーカーから仕事が舞い込みました。仕事量が一気に増えたこともあり、メーカー別に専属の生産工場をもつことを考え、五反田製作所の工場はアルフレックス、ミネルバの工場はカッシーナ、埼玉県の松伏の工場はウィルクハーン、当時は田園調布にも工場をもっていたので、そこはB&Bというふうにしました。ほかにもオーバーマン、アスコ、エアボーン、イノベータなどの家具の開発にも携わりました。現在はいずれもメーカーの専属工場という機能はありません。私も今年で80歳を迎えたので、ミネルバは息子が頭になって運営しています。私は五反田製作所で、主に試作開発や文化財の補修を行っています。
― 帯広の工房も生産工場としての機能があったのですか。
宮本 いえ、そういう機能はありません。じつは田園調布の工場は住宅街にあったので、しばらくして騒音を出してはいけないということになり、土地を売却しました。その資金があったのと、ちょうど北海道の十勝支庁から帯広の土地を提供してくれるという話をもらったので、年をとったら隠居場所としていいかなというくらいの気持ちで土地を購入しました。帯広の工房には、私が開発を手がけた椅子や試作品、好きで買い集めたヘリット・リートフェルトの「レッド・アンド・ブルー」やハンス・J・ウェグナーの「ジ・オックスチェア」などがあって、全部で100脚ほどでしょうか。そこには年代の古いものがあって、近年のものは埼玉県の松伏の工場に、私が多様な木を使って実験的につくった木製の椅子シリーズ「ボスコ」や試作品が300脚ほどあります。希少な無垢板のストックもあります。帯広の倉庫には東南アジアを含む南方の木を、松伏には北の地域の木を保管しています。試作品については、以前、リスト化を試みてくれた人がいたのですが、途中で終わっています。
北海道・帯広の工房に保管されている木材のストックや試作品。
― 「ボスコ」シリーズは、200脚くらいあるそうですね。以前、著書には木の椅子の魅力をもっと追求していきたいということを書かれていました。
宮本 木については、いろいろなことをやってきましたが、何か迷い込んでしまった感があるんです。木というのは難しくはなくわかりやすいものなんですけれど、泥沼のように深みにはまると抜けられなくなってしまう。アオダモひとつとっても、素材の可能性に何度も挑戦してきたのですが、同じ樹種でも育った環境によって性質が変わってしまう。そんなことを際限なく追求してどうなるのかと思ったのです。それに社会性をもたないと、ものづくりはおもしろくないですよね。竹にも魅力を感じていろいろ挑戦しましたけれど、どれほどの時間と経費をつぎ込んだかわかりません。
― 帯広の工房にも、佐々木敏光さんの金属と竹で構成した椅子「オリジン」や、ミース・ファン・デル・ローエがデザインした「バルセロナ・チェア」をもとに、宮本さんが竹でリ・デザインした椅子がありますね。
宮本 私は幼少期に静岡県の伊豆に住んでいたのですが、そこでは竹が暮らしのなかでよく使われていました。海岸沿いの定置網の浮きや網をつくろう漁具、子どもたちはいかだや鳥籠をつくったりしました。あるとき、竹やぶで伐採された短い竹を1本拾って家に持ち帰り枕元に立てておいたら、翌朝、枕が水浸しになっていました。それほど水分を多く含んでいるということです。それにヤシのように表面は堅いけれど、中は柔らかい。虫もつきやすい。竹自体は安価なものですが、製作するのに手間がかかって生産効率が悪くコストがかかってしまうので、家具として市場に流通させるには難しいんですね。何かできそうなんだけれど、なかなか上手くいかない。今もあるデザイナーと取り組んでいるところなんですけれどね。
開発途中の未完の試作品も
― 保管されている試作品のなかには、今後も発展させていけるような開発途中のものも思います。デザイナーから以前の製品や試作品をもう一度つくりたいという話を受けられたことはありますか。
宮本 黒川雅之さんの椅子「ZO」がまさにそうですね。80年代にデザインされたものですが、20年も経ってからまた製造を始めました。試作品のなかには、デザイナーが最晩年に着手したものもあって、その方が開発途中に亡くなって未完のものもあるんです。それも捨てがたくてとってあって、その続きを何とかしなければと思っています。
― それもまさに後世に残していくべきアーカイブですね。内田繁さんが香港の起業家のエイドリアン・チェンさんと共同開発して最期に手がけた家具も、とてもすばらしいものでした。デザインアーカイブ調査でお話を伺ったときにも、ものをつくりたいという熱い思いを持ち続けられていて、その気迫に圧倒されました。
宮本 そういう最後までものづくりをしたいという根性が大事ですね。先日もあるデザイナーが新作をつくりたいということで、会って話を聞いてきたところです。そのデザイナーの色彩感覚や表現の仕方はこの業界にほかにないので、ぜひ製品化に向けて頑張りたいと思っています。
― その家具の完成を楽しみにしています。試作品は、帯広と松伏以外にも保管されていますか。
宮本 ミネルバと五反田製作所にも少しあるのと、北海道の網走にあるホテル「北天の丘 あばしり湖鶴雅リゾート」内に50坪ほどの「偶(ぐう)」いうギャラリーがあるんですが、そこに私が開発を手がけた20数脚の椅子のコレクションがあります。80年代に千駄ヶ谷のレストランに入れたフィリップ・スタルクの3本脚の「マニン」や完成品に近い試作品も含まれていて、すべて座って体験できます。海外のデザイナーのなかでも特にイタリア人はつくり手の考えを引き出すのが上手い、プロデューサーですよね。ああいう社会では、職人が育ちやすいと思います。日本の場合は、特に私が徒弟だった時代は、先生の描いた図面通りに誠実につくるのが腕のいい職人と定義付けられていました。
― 図面は保管されていますか。
宮本 残っているものもあるかもしれない、という感じですね。おもしろいものがたくさんあったので、今から思えば全部残しておけばよかったなと思います。特注家具関係の図面はたくさんありますし、川上元美さんの図面も相当な量があります。川上さんは、木ネジの長さまで正確に緻密に描くタイプでした。けれども、私が提案したことを否定せずに受け止めてくれる柔軟性があって、新しい世代の人だなと思いました。ヒロネンなどは、「ウツリグツリ」の椅子の開発のときに最初にスケッチ画しかありませんでした。魔法使いの帽子のような何とも不思議な形をしていて、しかも柔らかさを出すことが大事なテーマだったので、その構造を崩さす実現までもっていくのは困難を極めました。でも、職人としての挑戦意欲をかき立てられて楽しかったですね。
― 家具の開発にあたって、ほとんどの建築家やデザイナーは、一度は宮本さんのところに相談に訪れたことがあるのではないでしょうか。これまで国内外のいろいろなデザイナーと仕事をされてきたと思いますが、反対にこの人とやってみたいと思った方はいますか。
宮本 大橋晃朗さんと仕事をしてみたかったなと思いますね。「ハンナン・チェア」なんて、おもしろいですよね。ヒロネンもそうですけれど、私は自分が理解のできない価値観をもっている人に対して、なぜそう考えるのかということに触れてみたいと思うんです。危ないところをのぞくような感じですね。
自分が彼らから違う価値観を吸収したい
― 武蔵野美術大学、多摩美術大学、女子美術大学、駒沢女子大学など、いろいろな大学で教えられていますが、どのような講義をされているのですか。
宮本 先日は1967年にアルフレックスから発売されたチニ・ボエリのウレタンの塊のような椅子「BOBO」をつくりました。型をとって、生地にミシンをかけて完成させるところまで、3日間で取り組んでもらいました。以前、リートフェルトが1923年にデザインしたサイドテーブル「シュローダー1」の1/2サイズを、ベニヤを切って塗装してつくらせたこともあります。実際につくるなかでリートフェルトの思考の足跡を辿ることができるので、そこからいろいろな考えが引き出されたり、新たな発見があったりするのではないかと期待していたのですが、完成後に作文を書かせたら、みんなほとんど同じ内容でした。ネットから引っ張ってくるものだから、文章もそっくり。あれにはびっくりしましたね。
― それは残念でしたね。
宮本 大学の卒業制作の審査に関わったこともあります。その大学では当時、デザインの教育方針として「強度」が重視されていました。例えば、椅子の脚がグラグラして強度に問題が感じられた場合は、採点の対象から外されました。私は審査をした年にある学生の椅子をおもしろいと思いました。強度については多少、不安を感じましたが、さまざまな可能性を感じ評価しました。けれども、やはり強度面に問題があるということで、選出もされませんでした。私はそんなことで創造の世界が狭められてしまうことが、おかしいと思いました。強度なんて、形なんてどうだっていい。それでも羽ばたいて飛べる翼があることが大事なんじゃないの、と思ったりするわけです。熱くなって、先生方と本気でやり合った時期もありましたね。
― 90年代から2000年にかけて、宮本さんが主宰されていた学外ワークショップ「Mプロジェクト」も興味深い活動だったと思います。各美大から優秀な学生が選抜されて、往年の椅子をリ・デザインするなかから学ぶという内容でしたが、藤原敬介さんや米谷ひろしさん、植草力也さん、山田佳一朗さんなど、その後、活躍されているデザイナーが何人も出ていますね。
宮本 今では中堅の最たるものですよね。13年間に50人ほどの学生が関わりました。そのときにつくった試作もうちにあったのですが、自分で保管したほうがいいと思い、2年ほど前に希望者に返しました。
― 「家具塾」や「Mプロジェクト」、大学などで若い世代に教えることも多いですが、彼らにご自身の経験や知識を伝えていきたいという思いはあるのですか。
宮本 経験や知識を彼らに伝えるというよりも、自分が彼らから違う価値観を吸収したいと思っています。そこからまったく違うものが生まれると楽しいですし、自分の考えを改めなければいけないこともあります。最初にアーカイブについて話されていましたが、自分の何かを後世に伝えたいとか、遺していきたいという思いは、私のなかにはないと言っていいかもしれませんね。
― とはいえ、膨大な資料をお持ちだと思います。それらは、ゆくゆくは息子さんに譲られることを考えているのですか。
宮本 どうですかね。息子はまた違う価値観をもっているのでね。資料や試作品については、迷っているというか…、どうしようかと思っているところです。 ところで、最近、こういう冊子に寄稿しました。名誉会長を務めているのですが、全日本椅子張同業組合連合会の60周年記念誌で、そのなかの小さいコラムに家具に関する業界用語や豆知識をいろいろと書きました。
― 椅子張り職人のことをバンコ屋と言っていたんですね。「安楽椅子を大バンコ、肘掛け椅子を中バンコ、小椅子を小バンコ、椅子張り屋をバンコ屋と言っていた。スペイン、ポルトガル、オランダ語。縁台、または腰かけを意味する」(全日本椅子張同業組合連合会、2016より)。これも家具の歴史を知るアーカイブ資料になりそうな興味深い内容ですね。
宮本 何だか最近、過去を振り向くばっかりになっちゃったな。未来のことを、みなさんあまり聞いてくれないんですよね。
― ぜひこれからの野望をお聞かせください。やりたいと思っていらっしゃることは、まだまだたくさんあるのではないですか。
宮本 これまで手がけたものにソファが多かったので、ファブリックを中心にした分野を最後にやりたいと思っているんです。椅子という、座るという行為のなかで、中身のデザイン的なものはそれほど大きくはもう変わらない。そこでソファをもとに着るとか、羽織るとか、まとうとか、着せ替えることでまったく違うものに変えることができないかと思っていて、ファッションデザイナーと言われる人たちと一緒に組んで、ソファの新しい表現方法を探ることに挑戦したいと考えているんです。表現の仕方はいろいろあると思います。
― おもしろそうですね。どなたかイメージされているデザイナーの方はいらっしゃるんですか。
宮本 若い人の方がおもしろいんじゃないかと思っています。民族衣装のような表現とか、シルクやデニムなど、素材感のあるものにも興味があります。
― 実現を楽しみにしています。本日はありがとうございました。
文責:
宮本茂紀さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
五反田製作所 https://www.gotanda.co.jp
ミネルバ本社に保管されている資料や木材のストック、素材見本。