日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
森 正洋
プロダクトデザイナー(陶磁器デザイナー)
インタビュー:2021 年 7月 22日 10:00 ~ 12:00
場所:リモート取材
取材先:筒井泰彦さん(森正洋デザイン研究所 代表)、
向井良久さん(森正洋デザイン研究所 事務代理)、
須之内元洋さん(札幌市立大学デザイン学部、アーカイヴ・アドバイザー)
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
Profile
プロフィール
森 正洋 もり まさひろ
プロダクトデザイナー(陶磁器デザイナー)
1927年 佐賀県生まれ
1952年 多摩造形芸術専門学校(現・多摩美術大学)工芸図案科卒業
1952年〜53年 学習研究社編集部で美術スライドの編集を担当
1954〜56年 長崎窯業指導所(現・長崎窯業技術センター)デザイン室
1956〜78年 陶磁器メーカーに勤める
1978年 森正洋産業デザイン研究所設立
2005年 逝去
Description
概要
森正洋は、人々の生活を豊かにする食器のデザインに生涯取り組んだ、戦後日本の生活文化の変革を担った一人である。代表作「G型しょうゆさし」「平型めしわん」をはじめ、2004年に手がけた無印良品の食器シリーズなど、シンプルでありながら、手にしっくり馴染むやさしいフォルムと使い勝手を考えた機能的なデザインは、現在も多くの人から愛されている。
森は、佐賀県で生まれ育った。佐賀や長崎は、有田、伊万里、波佐見の焼き物の産地として知られる。それまで茶碗や皿、土瓶の生産が主流だったが、他品種を開発することによって産地全体が活性化するのではと森は考え、醤油さしをはじめ、コーヒーセット、パーティ用の皿、コンディメントセットといった多様な商品を生み出した。それにより戦後の荒廃した日本の生活に、まだデザインという言葉のない時代に、そして、伝統的な窯業の分野に新風を吹き込み、人々の暮らしに潤いと彩りをもたらした。
最晩年、無印良品の食器シリーズのデザインを終えたばかりの頃のインタビューで、ものづくりに対する思いをこう語っている。「自分では、スタイルは意識していない。意識するのは生きている時代。今を生きて、今作る意味は何なのかということが、最終的には個性になるのかもしれないけど、個性というよりはその時代に合ったもの、今作る意味、デザイン、作り方を考えたい」(『セラミックスタンダード 森 正洋 作品集』(プチグラパブリッシング、2005)。自分の作家性や名前は出さなくてもいい、アノニマスで構わないと考えていたという森が一貫して見つめていたのは、今という時代であり、人々の日常の生活だった。
合同会社森正洋デザイン研究所では、そんな森正洋のアーカイブを守り、デジタルアーカイブ化に取り組んでいるが、これらを今後どのように後世につなげ、活かしていくかという次の課題に頭を悩ませているという。佐賀と札幌にいる同研究所のメンバーの方々にリモートで話を伺った。
Masterpiece
代表作
プロダクト
「G型しょうゆさし」(1958)、「竹巻きコーヒーセット」(1961)、「キャンドルスタンド」(1963)、「動物オーナメント」(1964)、「ねじり梅シリーズ」(1968)、「花天目平皿」(1969)、「ファンシーカップ」(1969)、「白磁千段シリーズ」(1971〜)、「U型調味料セット」(1971)、「H型コーヒーセット」(1973)、「P型コーヒーセット」(1974)、「S型グラス」(1974)、「A型パーティトレイ」(1976)、「マルティシリーズ」(1976)、「ドレッシングポット」(1976)、「3点コンディメントセット」(1977)、「えくぼしょうゆさし」(1980)、「フリープレート」(1981)、「サーバー、スプーン」(1982)、「シェルボール」(1982)、「白磁さざ波L型パーティートレイ」(1983)、「HR型ガラス皿」(1985)、「うず潮シェルシリーズ」(1987)、「花器マテリアル」(1987)、「魔法瓶」(1988)、「平型めしわん」(1992)、「角型冷酒器」(1993)、「ユニバーサルシリーズ」(2001)、「ラブバード」(2004)、「白磁シリーズ」無印良品(2004)
書籍
『陶(Vol.14) 森正洋』(森正洋著、京都書院、1992)、『やきもの公園(野外博物館 世界の窯)』(森正洋企画・編集、波佐見町、1997)、『セラミック スタンダード ― 森 正洋 作品集』(天野祐里編、プチグラパブリッシング、2005)、『森正洋の全仕事』(森正洋デザイン研究所編著、ランダムハウス講談社、2009)、『文集 わたしたちの森正洋』(森正洋を語り・伝える会編・発行、2012)、『森 正洋の言葉。デザインの言葉。』(森正洋を語り・伝える会著、美術出版社、2012)
Interview
このアーカイブは森正洋のデザイン人生そのもの、一人の人間の遺産ではないかと考えています。
森正洋デザイン研究所の成り立ち
ー デザイナーの方々が高齢化や逝去、事務所を閉じられたりする際に、彼らの資料や試作品などはどうなってしまうのだろうと、以前から疑問に感じておりました。私たちPLATのデザインアーカイブの実態調査では、そういったところをヒアリングしてきちんと記録に残しておきたいという思いで、いろいろな方の助けをいただきながら活動しております。
本日は森さんを直に知るみなさまに作品や資料の状況と合わせて、森さんのデザインに対する考えや人となりなども合わせてお話を伺えればと考えています。最初に、こちらの合同会社森正洋デザイン研究所はどのような経緯で設立されたのかお聞かせいただけますか。
向井 2005年に森さんが亡くなられて、その後、奥様の美佐緒さんが病に倒れられ、お子さんもいらっしゃらなかったので、美佐緒さんの実弟の森重弘さんが成年後見人となり、佐賀県嬉野市にある森さんのご自宅と仕事場にあるものを守られていました。けれども、それらの維持存続に危機感を抱かれて、森正洋のデザインを半永久的に守る組織をつくらなければと考えられて合同会社を設立しようということになり、われわれ有志が集まって2007年に開設されたというわけです。残念ながら、美佐緒さんと重弘さんは2010年に亡くなられました。
ー 森正洋デザイン研究所のメンバーにはどのような方がいらっしゃるのですか。
筒井 みな、森さんの周囲にいて、個人的なお付き合いをしていた人間です。私は森正洋デザイン研究所の代表を務めていますが、もともと平凡社の『太陽』という雑誌の編集者をしていました。私が20代のときに森さんに取材させていただいてからのお付き合いで、同じ佐賀県出身ということで1985(昭和60)年に私が地元に戻ってからも個人的に懇意にさせていただいておりました。
それから、今日一緒に取材を受けている向井良久さんは、森さんのご自宅兼仕事場の近所に住まわれていて個人的な会計事務なども手伝われ、森さん没後は美佐緒さんの成年後見人でもありました。井手誠二郎さんは森さんとは若年の頃からお付き合いがあり、森さんの母校である佐賀県立有田工業高等学校の先生でもありました。古屋伸治さんは有田の大手磁器会社に勤めていたこともあり、森さんのお仕事をいろいろ手伝っていました。それぞれがそんなふうに個人的なつながりがあって、森さんのことを大事に思う者たちが集まって資料や試作品などが散逸しないように管理と整理をしていこうと考えて、森正洋デザイン研究所を立ち上げたというのが経緯です。
向井 今日一緒に取材を受けてくれている須之内元洋さんは、私たちがデジタルアーカイブ化について検討していたときに、どういうかたちでつくっていけばいいかというのをご相談して助言をいただきました。それについては、詳しくは須之内さんご本人からお話しいただけたらと思います。
デジタルアーカイブ化のシステムを一から構築
ー 須之内さんは、森正洋デザイン研究所のアーカイヴ・アドバイザーということですけれども、どのようなバックグラウンドで、森さんのアーカイブに関われるようになったのですか?
須之内 私は、大学は建築学科を卒業して、大学院はメディア環境学を専攻しました。大学の同期の仲間とデザインの会社を立ち上げてプロジェクトを行う一方で、もともともっていたコンピュータのスキルとメディアへの興味から自然とアーカイブの仕事に携わるようになりました。森さんだけでなく、柳宗理さんや廃刊になった建築雑誌、京都の障害者たちのアール・ブリュットの作品を集めたものなど、いろいろな分野のデジタルアーカイブのプロジェクトを手伝わせていただいています。
森さんのデジタルアーカイブの構想に着手したのは、2007年頃からです。森正洋デザイン研究所の、現在はいない所員の人とのつながりから関わるようになりました。当時はデジタルアーカイブのモデルもまだあまりなかったので、メンバーのみなさまと丁寧に議論を重ねてつくっていきました。森さんのアーカイブは、森正洋デザイン研究所のホームページ内で見ることができます。ですから、世界中の方が見ることができます。ここには森さんが蒐集していたアイデアの源泉が詰まっているような品々、生前ご交流のあった方に森さんについて書いていただいた文章や、森さんが世界各地を訪れて焼き窯や焼き物を調査した際の記録や写真、年表、著書や図録のリストがあります。
写真については、森正洋デザイン研究所主催により、2009年に佐賀県立九州陶磁文化館で大回顧展「森正洋の全仕事」を開催して図録を制作したときに、森さんの代表的な作品を写真家の方に撮影していただきました。その写真をこのデータベースに取り込んで公式なものとして公開し、クリエイティブ・コモンズのライセンスで誰でも利用できるようなかたちで提供しています。ホームページには解像度の低いものを掲載していて、この写真を使いたいというご要望があった際に目的や用途などをお聞きして、内部で検討させていただいたのち、オリジナルのデータを提供しています。
アカウントをもっている内部の人間だけが入れるところもあり、そこにはご自身が作品のことを解説している資料、新聞の切り抜きのスクラップといったメディア関係、352冊のスケッチブックなどを格納しています。これらすべて取り込んだデータは、現在、計10万2324点あり、種類別に整理して検索もできるようになっています。
ー アーカイブの骨格をつくる際に、どこかのデータベースを参考にされましたか。
須之内 当初、それほどコストをかけられないなかで、簡単にデジタルアーカイブ化の作業ができることを前提においてオープンソースでしっかりメンテナンスされているもので、継続的に使えるものを考えていました。しかし、結局、私たちが求めるものにピッタリくるものがなかなか見つからなかったので一からつくりました。
ただ、デジタルアーカイブの考えの基礎となるデータの構造のつくり方や運用の基本的な考え方については、ちょうどその頃、研谷紀夫さんの著書『デジタルアーカイブにおける「資料基盤」統合化モデルの研究』(勉誠出版、2009)が発行されたり、東京国立博物館でメタデータの基本的なかたちが示されたりと、そういったものが少しずつ出てきたので、それらも参考にさせていただきました。
デジタルアーカイブ化の作業をするためのシステムは、家電量販店や通販などで一般的に入手できる機材や仕組みを用いて日本国内であれば誰もが容易に作業でき、信頼性の高いアーカイブをつくることが目標としてありました。メンバーの古屋さんが作業をしてくださったのですが、嬉野のアトリエに撮影やスキャニングをする環境を整えたり、古屋さんが一人でも作業できるように簡易のマニュアルをつくったり、私のほうで最低限のサポートをさせていただきました。そのあとは、嬉野のアトリエで古屋さんが膨大な量の資料をコツコツと撮影やスキャンをしていかれました。
向井 残念ながら、古屋さんは3年前に亡くなられました。それもあって現在、実務的な部分についての作業が止まってしまっている状態です。
約10万点の現物は仕事場に
ー データベースにある現物の資料は、どこに保管されているのでしょうか。
筒井 すべての現物は、佐賀県嬉野市にあります。ここには森さんのご自宅があって、その敷地内にいくつか棟があり、ショールームや倉庫、森さんが仕事をしていたアトリエ、半地下のデザインルームなどがあります。
向井 デザインルームには、設計図や型もあります。型については森さんがまだOKと言っていないものから、OKと言う直前のものなど、途中の試作品があって、OKと言ったものは基本的にはこちらにありません。型はたくさん残っていることを期待していたのですが、あまり多くは残っていませんでした。
ー この嬉野の仕事場は、一般の人も訪れて見ることができるのですか。
向井 今までご希望の方にご覧いただいたことはありますが、なかなか不便な場所なので、これまでお見えになったのは数名といったところです。
ー アメリカのイームズ夫妻の自宅兼スタジオは、有料で見学できるようになっています。嬉野には温泉もありますし、アトリエが小さなミュージアムのような機能をもって観光名所になるといいのではと思ったりもします。スケッチや型が展示されていて、テーブルの上に食器が並べられ、森さんが思い描いていた食卓の風景が広がっていて、そこでお茶を飲めるようになっているなど。けれども、今のみなさんの合同会社のようなかたちでは難しいでしょうか。
向井 おっしゃるように、私たちも当初、このアトリエを観光コースのひとつとして盛り込むとか、研修施設としての活用の仕方を考えてみたり、市の方にも相談をもちかけたりしました。しかし、結局のところ、その運営を誰がどうやるのかという問題があり、なかなかいい考えが見つかりませんでした。ほかにも、これらを一般の方々にどのように紹介し、後世に残していくかという方法をいろいろ検討しましたが、そうこうするうちに劣化して、気づいたときには遅かったというのでは困るので、まずはとにかく現状あるものを整理して残すことを優先させることにしました。
人生のすべてが仕事だった
ー みなさんは個人的なお付き合いが長かったということですが、森さんはどういう方だったのでしょう。お一人ずつお話しいただけますか。
筒井 森さんは人生のすべてが仕事という感じの方でした。ご自分の仕事のことだけでなく、焼き物業界や伝統産業についても考えられていました。また、世界各地に足を運んで焼き物や窯の研究をされるなど、その好奇心、探究心は計り知れないものがありました。
モダンクラフトの作家ですけれども、伝統工芸についても深い造詣をもたれていました。九州陶磁文化館に「柴田夫妻コレクション」というのがあるのですが、これはご夫妻が数回にわたって約1万点寄贈された江戸初期から幕末の有田磁器の一大コレクションです。それをもとに第1回目の展覧会が開催されたときに、たまたま私は会場で森さんと一緒になりました。森さんは私にひとつずつ説明してくださり、気づいたら3時間ほど経っていました。森さんから個人教授を受けたようなひとときでした。
向井 森さんは、私から見るとひじょうに率直で、厳格な先生という印象でした。本質を見抜いて直言される方でしたので、それに耐えられなくて離れていった方もいますし、そういう言葉をいただいたことに感謝して神様のように慕っている方たちもたくさんいます。言葉はきついけれども、心は優しくて面倒見が良くて、仕事の途中で失敗した人に本人には知らせないで、ここまでしてあげるのかと周囲が驚くほど、フォローアップをしていました。
筒井さんもおっしゃっていましたが、森さんはご自身のデザインのことだけでなく、陶磁器産業全体のことを考えられていました。伝統産業の現状に危機感を抱いて、この産業を守り後世につながなくてはいけない、そのための役割を自分たちで果たさなければいけないと考えていました。例えば、陶石業社から釉薬も含めて全作業工程の各分担、段階ごとにきちんと事業や販売を継続させる体制を整えることや、使いやすくて安くていいデザインを多くの人に広めることもデザイナーの使命だと感じていました。
現在も好評で続いている、最後に取り組まれた無印良品の白磁シリーズの仕事は、森さんのそうした思いが実現できると確信したからこそ、お引き受けしたのだと思います。晩年、入院されていたときも、お身体の調子がかなり悪くなってからも、病院で無印良品の担当の方とデザインについて意見を闘わせながら試作を続けられ、まさに心血を注がれたプロジェクトだったと思います。
ー 森さんは戦後の物のない時代、日本がひどく荒廃した時代に青春期を過ごされたと思います。そうした背景もあって陶磁器産業を盛り立てていかなければという思いと同時に、日本の暮らしの再興を考えられていたのではないでしょうか。暮らしというと、食がやはり大きな部分を占めますし、そこで食器というかたちで人々の生活を支えていきたいというお気持ちが強くあったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
筒井 おっしゃるように、敗戦体験が森さんの出発点だったと思います。日常的に使うもの、暮らしということを基本的に考えて仕事を始められたときに、ちょうど日本で新しいデザイン運動が起こって合致したのだと思います。1955年に日本デザインコミッティーが設立され、生活全体のデザインが重視され始めた時代でした。そのなかで森さんは焼き物の分野を引き受けて、その取り組みを終生続けられました。
向井 森さんはみなが平和に豊かに楽しめる、日々の家族の食事を支える食器のデザインに取り組まれました。その後、一般家庭で食事が普通に楽しめる状況になってからも、それでも森さんは「食事は家族で一緒にいただくもの」という考えをいつも念頭においてデザインされていたように思います。
筒井 晩年の代表作のひとつとなった「平型めしわん」も食事の時間を楽しく豊かにするための飯碗として考えられたと思います。一般的な飯碗よりも口径が広めにつくられていて、器の内側の模様が見えたり、ごはんがこんもりと載ってお米がおいしく見えます。「やっぱり日本人は飯だよな」と、森さんが何度となくおっしゃっていたのが記憶に残っています。
そのままの状態で残っている仕事場
ー 須之内さんは、森さんとお会いされていないと思いますが、デジタルアーカイブ化の作業にあたって物やスケッチを通して森さんと対話されているなかで、どのように森さんを受け止められましたか。
須之内 合同会社のメンバーや周りにいらっしゃった方から、森さんとのお付き合いのことをいろいろと伺ったのでお会いしたことはないのですが、とても存在感を感じるような不思議な気持ちでいます。
作業をするなかでは、作品そのものというよりも、アトリエの中の物の置き方や整理のされ方、スケッチブックがきちんと順番に何百冊も並んでいて丁寧に保管されているなど、現場でのそういう物の痕跡からお人柄を感じました。デザインルームは半地下なのでとても静かで、地上のアトリエとは違う雰囲気があります。机の上に設計図が置かれていたり、ろくろがあったり、本当につい昨日まで仕事をしていたかのような状態で残っていて、森さんは本当に人生のすべてをかけて焼き物のことを四六時中考えていたのではないかと思いました。
仕事場に隣接して森さんご夫妻が生活されていたご自宅があるのですが、台所の脇になぜか気圧計がかかっているんですね。焼き物をするうえで必要ないと思うのですが、その横にメモが貼られていて、台風が近づいて来て遠ざかっていくまでの日付と気圧が克明に書かれていました。目的はわからないのですが、私も同じようなところがあるので何となくわかるのですが、自分の専門分野でなくても自分が興味をもったものに対してとことん調べたり、記録をつけたりする。意外とそれがどこかで自分の仕事につながったりすることもあるんですよね。森さんはとにかく好奇心が旺盛で、興味をもったものに真っ直ぐに向かっていく、仕事もおそらくそういう姿勢で向かわれていったのではないかと想像します。
実験窯を備えた作業スペースの森正洋のデスク
向井 仕事場も生活の場も、本当に森さんがこういう思いで生きてこられたんだなと感じられるような雰囲気をもっています。合同会社を立ち上げる前に、ご縁のある方や関係者の方にそこに集まっていただいたのですが、みなさんが「森さんのパワーが降りてくるね」とか、「森さんの思いや生きてこられた足跡を感じる」とおっしゃっていました。この椅子に座って試作をつくっていたんだろうなとか、釉薬の窯場もあって、そこで試行錯誤しながらいろいろなことに挑戦していたんだろうなと、そういう光景が思い浮かぶような場所です。
ー アトリエにスケッチブックがきちんと並べられて保管されていたとのことですが、森さんはご自身の試作品や資料を後世に残そうという思いはあったのでしょうか。
筒井 アーカイブのかたちで残そうというような思いがあったかどうかはわかりませんが、とにかくマメな方で、いろいろなものがきちんと整理されて全部残っているということに私たちも驚いたほどでした。
ー 陶磁器メーカーを退社後にご自身で設立された森正洋産業デザイン研究所には、お弟子さんのようなスタッフはいらっしゃったのでしょうか。
向井 森さんの仕事をサポートしていたのは、主に陶磁器メーカーの社員の方々でした。それ以外にも、土や釉薬にお詳しかった古屋さんもそうですし、森さんを慕っていた人が周囲にいて手伝っていました。森さんは常にオープンに受け入れる姿勢でいましたが、自分のところに雇って所員とするのではなく、デザインについてはお一人でされて、必要な素材や技術の相談があるときにそういう人たちに相談していました。
筒井 お弟子さんはいませんでしたが、一番の助手で、アドバイザーでもあったのが、奥様の美佐緒さんだったと思います。生活の面でも、食事や栄養面から何からすべて面倒をみていらっしゃいました。
向井 世界各地への焼き物や窯の調査には、美佐緒さんも同行されました。感性も趣味も同じで、助手でもあるので、二人三脚のようにいつも一緒にいらっしゃいました。デザインについては、美佐緒さんのご意見が大きかったように思います。森さんが試作を美佐緒さんに見せて「これ、どうやろ?」と聞くと、「だめですね」と一蹴されてしまい、世に出なかったものもありました。美佐緒さんは多摩美術大学の卒業生で、受験時の試験官がじつは森さんだったのです。食事について補足しますと、晩年、森さんは腎臓を悪くされたので食事療法が必要になり、美佐緒さんがいろいろ考えられてサポートされました。そのときに参考にされたと思われる料理本や、美佐緒さんが書かれたメニューブックもたくさん残っています。
今、メンバーが希望していること
ー 最後に、今後、アーカイブ作業を進めていくうえで国や大学がサポートしてくれたらなど、これまでのご経験からご希望や今後の提言をお聞かせいただけますか。
須之内 私はさまざまな分野のデジタルアーカイブのプロジェクトに携わっていますが、運営側に予算や資金が継続してあるところは問題ないのですが、そうでない場合は、今後どうしていこうと考えているところも結構、あります。森さんのアーカイブについても、これを永続的に後世に活用してもらうものにしようと考えると、やはり一個人や小さな組織ベースではハードルが高いと思います。
一方で、従来は博物館や美術館のようなところでしかできませんでしたけれども、こうやって思いがある、それを残さなければという人たちの手によってデジタルアーカイブ化して世界中に発信していくことができるようになったのは、デジタル技術の恩恵だと思います。こうしたデジタルアーカイブを日本の文化の発展や後世の人につないでいくために本気で生かしていくのであれば、何かしらのインフラが必要だと思います。例えば、国が国会図書館にISBN付きの本を永久保存するくらいの精度でカバーするようなことが、アーカイブに関しても近いうちに必要になってくると感じます。日本各地の地方の大学の図書館が汎用的なフォーマットを使って機能し、デジタル化された各地域の文化資産を地域に還元していく、そのための資金を国が出すなど。
もし図書館という枠組みでできるのであれば、もちろんそれでいいと思うのですが、このデジタルの環境と今後も社会がつき合っていくのであれば、図書館の機能も変わることが求められてくるでしょう。さらにデジタル化の時代が進んでいくと、アーカイブのデータのつくり手が一般の人も含めた広範になると予想されるのですべてを保存するのは難しいため、何を保存するかを取捨選択できる難しい設計が必要になると思います。
ー 預ける側だけではなくて、預かる側もデジタル化に適応した新しい方法なり、貯蔵空間のようなものをつくらなければいけないかもしれませんね。大きなことですが、本当にそうしないとまずいと私も思います。向井さんと筒井さんは、いかがでしょうか。
筒井 私たちとしては、デジタルアーカイブだけでなく、スケッチブックや写真、資料、作品、型などの現物とセットで引き受けてくださって、その利用者のサービスやメンテナンス、活用の仕方なども含めて考えていただけるところがないかと思っています。今、世の中、デジタル化の方向に進んでいていい流れがあると思うので、こうした遺産を一手に引き受けてくださる組織が現れるといいのですけれども。
向井 私もこのアーカイブは森正洋のデザイン人生そのもの、一人の人間の遺産ではないかと考えています。それらが散逸して消滅してしまうのは、あまりにももったいない。しかも、私たちもいつまでもこのままの状態でいられるという保証はありませんからね。できればどこかの法人か大学、あるいは国家組織のなかでお引き受けいただくことになれば、一番いいのかなと感じています。
今回、PLATのみなさまから声をかけていただいて、嬉しく思いました。PLATでは貴重な遺産を後世につなげ、これからの世の中に生かしていくことを目指されているという点で、われわれの思いと共通する部分があると感じました。私どもが遺産として感じるようなもの、社会としても遺産として評価していただけるようなものが、今、まさに消えてしまうような危険性があるということを多くの方に知っていただいて、ご検討いただきたいと思っています。
ー 私たちは今はまだいろいろな方にお話を伺って、それをウェブサイトで公表するというところに留まっていますが、みなさんの思いはひとつだと感じますので、その思いをもう一歩、ステップアップしたかたちで何か実現できないかと強く思っています。本日はみなさま、お忙しいなか取材にご協力いただき、ありがとうございました。
森正洋さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
合同会社 森正洋デザイン研究所 https://www.morimasahiro-ds.org