日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
永井一正
グラフィックデザイナー
インタビュー:2016年10月25日(火)13:00〜14:00
場所:日本デザインセンター
取材先:永井一正さん
インタビュアー:久保田啓子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
PROFILE
プロフィール
永井一正 ながい かずまさ
グラフィックデザイナー
1929年 大阪府生まれ。
1951年 東京藝術大学彫刻科中退。
1960年 日本デザインセンター創立に参加。
現在、 日本デザインセンターの最高顧問を務める。
Description
説明
戦後のデザイン創成期から半世紀以上にわたって最前線で活躍し、現在は日本デザインセンターの最高顧問を務める、日本のグラフィックデザイン界の重鎮である。
活動を始めたのは1950年代初頭。大和紡績を経て、53年にグラフィックデザイナーの登竜門だった日本宣伝美術会の会員になり、60年に日本デザインセンターの創立に参加した。
60年代から70年代にかけては、東京オリンピックや大阪で開催された日本万国博覧会など、大規模なイベントが立て続けに開催された熱い時期だった。グラフィックデザイナーたちはポスターやマークのコンペを競い、新しいデザインを目指して創造していった。札幌冬季オリンピックのマークは、日の丸、雪の結晶、五輪のマークを縦横に自由に組み合わせて使用できるユニット形式という、新しい時代感覚を取り入れた永井のデザインが採用された。
その後も「アサヒビール」などの企業のシンボルマークを手がける一方で、ポスターのデザインは表現形態や手法を8回も変え、デザインの可能性に挑み続けてきた。コンピュータのない時代に定規やコンパスを駆使した幾何学模様の作品にはじまり、写真と組み合わせた、宇宙の摂理を想起させる壮大な世界観の作品、レリーフ版画作品などがある。
1987年のポスター「JAPAN」から、それまでの幾何学模様の抽象表現から動物を題材にした具象表現に大きな変革を遂げた。有機的な手描きの線や緻密な点描によって生み出された生命力あふれる動物の姿は、見る者の心を揺さぶり感動を与える。現在もその動物をモチーフにした「LIFE」シリーズをつくり続け、国内外で展覧会も行っている。テーマは、「生きる」。それが生涯追求していきたい、究極のテーマだという。
Masterpiece
代表作
<ポスター>
アサヒスタイニー(1965)、アドニス(1976)
JAPAN[亀](1988)、富山県立近代美術館の展覧会ポスター(1980〜)
LIFE[卵](1999)、LIFE[キリン](2016)
<シンボルマーク>
札幌冬季オリンピックオフィシャルマーク(1971)、アサヒビール(1986)
全国農業協同組合[JA](1991)、三菱UFJファイナンシャルグループ(2005)
富山県美術館アート&デザイン(2016)
<書籍>
『永井一正』(2004・DNPグラフィックデザインアーカイブ)
『アートディレクション』(1968・美術出版社)
『生命のうた』(2007・六耀社)
Interview
インタビュー
きっかけは、田中一光さんだった
浦川 日本にはデザインミュージアムがないという現状の中で、デザイナーの方々がご自身の作品をどのように保管されていて、今後それをどのようにしていきたいと考えていらっしゃるのか、実態調査を行っております。永井さんにもぜひお話をお伺いできればと思っております。グラフィックデザイン賞の中で最も伝統と権威のある「ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ」の第1回目に、「アサヒスタイニー」のポスターで金賞を受賞されるなど、その作品は世界的に高い評価を受けられています。永井さんの作品で一番多いのは、やはりポスターでしょうか?
永井 そうですね。ポスターが一番多くて、ほかにもいろいろあります。CIやロゴもありますが、それについては現在、データ化を進めているところです。
浦川 ポスターは、全部でおおよそどのくらいの点数になりますか?
永井 千点ほどでしょうか。2014年に富山県立近代美術館で「永井一正 ポスター・ライフ 1957-2014」を開催したときには、その半分の500点のポスターを展示しました。それは書籍『永井一正ポスター美術館』(六耀社)にまとめました。
浦川 それらのポスターは、どちらかに収蔵されているのですか?
永井 今までは日本デザインセンターの倉庫に保管していました。現在は、ひとつは大日本印刷が運営する公益財団法人DNP文化振興財団に収蔵していただいています。そこはグラフィックデザイナーのポスターや版画などの作品や資料をアーカイブしていて、学術研究助成を行うなど、グラフィックデザインやグラフィックアートの文化遺産を後世に伝えていく活動を行っています。
田中一光さん、福田繁雄さん、私の3人の作品をはじめとして、横尾忠則さん、石岡瑛子さんなど、いろいろな方の作品が収蔵されています。私の場合は、初期の頃の作品をはじめとして、版下や版画、ポスターは各1枚ずつではなく、複数枚まとめて保管していただいています。ほかにもいろいろな資料が含まれています。
浦川 永井さんの作品が、DNP文化振興財団に収蔵されたのはいつ頃ですか?
永井 5、6年ほど前になります。一光さんと大日本印刷の北島義俊社長の親交があったことがきっかけでした。ggg(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)は、一光さんの提案によって生まれたものでした。それ以降、一光さんは、ギャラリーの監修も務められました。現在、gggの監修は私が務めさせていただいています。
2002年に一光さんが亡くなられたときに、その作品や資料をどうするかということになって。弟さんと妹さんはいらっしゃいますが、ご結婚されなかったので、お子さんもいらっしゃいません。そこでDNP文化振興財団が引き取ろうということになったそうです。ポスターや版画、原画、写真、版下、雑誌掲載記事、蔵書など、約5万点余り、すべて寄贈されました。
久保田 そうでしたか。当時、一光先生がお持ちだった作品や資料は、どうなるのだろうとみな心配していましたから、安心いたしました。
永井 その後、福田繁雄さんも亡くなられて、ご遺族から作品や資料を寄贈されたことで、DNP文化振興財団では、一光さん、福田さん、私の3人の作品の本格的な収蔵を始めようということになりました。
浦川 DNP文化振興財団には、それらを保管する倉庫のようなものがあるのですか?
永井 福島県須賀川市にあるCCGA現代グラフィックアートセンターに展示場を併設した倉庫があって、そこに収蔵されています。大日本印刷が運営するギャラリーは、gggやCCGA以外に、2014年に大阪から京都に移った京都dddギャラリーもあって、これらの場所でアーカイブの展覧会を行うこともあります。
久保田 福田先生は、岩手県二戸市に「福田繁雄デザイン館」がありますね。
永井 大きな立体物などは、そこに保存されていると思います。DNP文化振興財団で収蔵しているのは、ポスターが主体になります。福田さんもポスターをずい分つくられていましたからね。亀倉先生は、新潟県立万代島美術館ですよね。
久保田 その美術館に作品も資料もすべて収蔵されているそうですね。
永井 よかったですね。
世界中に分散しているほうがいい
久保田 永井先生は、富山県立代美術館ともご関係が深くていらっしゃいますよね。
永井 開館以来、30年以上、ポスターをデザインさせていただいています。この富山県立美術館にも、私のポスターや版画などを収蔵していただいています。こちらに収められているポスターは、各1枚ずつだと思います。
今度、富山県立近代美術館は、富山県美術館アート&デザインという名称に変わります。2016年の12月ぐらいに完成して、来年の夏頃にオープンする予定です。建物の設計は、内藤廣さんです。私は新しくなる美術館のロゴをデザインしました。富山のT、アートのA、デザインのDを組み合わせたものです。また、Aの部分は立山、Dが富山湾をイメージしてデザインしています。
久保田 版画やエッチングなどの作品や図版は、どちらで保存されていますか?
永井 以前、つくっていた抽象的な白のレリーフ版画の作品などは、東京の町田市にある町田市立国際版画美術館で収蔵していただいています。エッチングの作品は、すべてではありませんが、富山近代美術館にもかなりの量を収蔵していただいています。
浦川 ほかにも永井さんの作品は、国内外の美術館にも多数パーマネントコレクションになっていらっしゃいますね。東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、富山県立近代美術館、群馬県立館林美術館、栃木県立美術館、姫路市立美術館、ニューヨーク近代美術館、ドイツ国立抽象美術館、国際ワルシャワポスター美術館など。
永井 その他にもまだあると思います。新作が次々にコレクションされていますから。
浦川 柳宗理さんは、作品や資料は「できる限り1カ所にまとめて保管しておきたい」ということを口にされていたそうです。永井さんも作品を1カ所にまとめて収蔵されたいとはお考えになりませんでしたか?
永井 いいえ、世界中に分散しているほうが、いろいろなところで多くの人に見てもらえる機会が増えますからね。また、1カ所に収蔵していると、そこが窓口になって各地で行われる展覧会の貸し出しなどにすべて対応しなければいけないので、運営していく人が大変だと思います。 国内外で行われる私の展覧会には、富山県立近代美術館やDNP文化振興財団から貸し出しをしていただいています。2016年の11月からフランスで個展を行うのですが、そこへはDNP文化振興財団から作品を送っていただきます。国内外の美術館に寄贈していただくこともあって、私の代わりにそういったことをやってくださるので、有り難いですね。
浦川 確かに作品を保管して、さらにそういった手配までするとなると、大変かもしれませんね。
悩みの種は、蔵書の行末
浦川 それでは、永井さんの作品や資料は、ほぼすべてどこかに収蔵されているということですね。
永井 そうですね。
久保田 ひとまずは安心ですね。
永井 いえ、実は蔵書がまだ事務所にありまして。一部はDNP文化振興財団にも収蔵していただいたのですが、この収納棚の中は、すべて本です。自宅にもあります。
浦川 蔵書というのは、グラフィックデザイン関係のものが多いのですか?
永井 ほとんどそうですね。アートの作品集などもあります。私も2016年の今年で87歳を迎えましたし、この先どうなるかわかりません。この残りの蔵書をどうするかということだけが、目下の悩みの種です。
久保田 大学などでは喜んで引き取ってくださるようにも思いますけれど。
永井 デザイン評論家で、今、武蔵野美術大学の教授もされている柏木博さんから以前、ご依頼いただいて、一光さん、福田さん、私の3人のポスター250点余りを武蔵野美術大学に寄贈したこともあります。
久保田 武蔵野美術大学では、デザインやアート作品なども含めて、さまざまなものを収蔵する活動をされていますね。
永井 2014年にgggで「グラフィックデザイン展<ペルソナ>50年記念 Persona 1965」を行いましたが、あれは実は1965年に東京・銀座松屋で開催した「ペルソナ」展のときの全作品が武蔵野美術大学の倉庫に保管されていたことがわかったからなのです。
「ペルソナ」展というのは、当時、日本のデザインの胎動期に台頭してきた新しい世代のグラフィックデザイナーの作品展で、日本のグラフィックデザインの歴史における事件といわれました。参加したのは、私のほかに、粟津潔さん、福田繁雄さん、細谷巖さん、片山利弘さん、勝井三雄さん、木村恒久さん、田中一光さん、宇野亜喜良さん、和田誠さん、横尾忠則さんがいました。デザインとは何か、社会との関係や役割、デザインの無名性や作家性といった多様な問題を投げかけて、大きな反響を呼びました。わずか1週間の会期中に、3万5000人もの人が訪れたそうです。
浦川 そのような貴重な資料がよく保管されていましたね。ところで、永井さんは著書も出されていらっしゃいますが、その直筆の原稿はございますか?
永井 残っていませんね。
浦川 掲載された雑誌は、お持ちですか?
永井 一部はDNP文化振興財団にも収蔵していただいたのですが、なるべく廃棄するようにしています。物であふれてしまうのでね。
印刷して出来上がったものが作品
浦川 永井さんは、作品をつくられる前にアイディアスケッチのようなものを描かれますか?
永井 デザインを考えるときは、もちろん、最初に描きます。紙切れのようなものに、ポンチ絵のようなものですけれどね。
浦川 それはどこかに保管されていますか?
永井 捨ててしまいますね。大概、デザイナーというのは、あまりそういうものを残していないと思います。デザイナーにとって作品というのは、あくまでも完成したものですから。印刷して出来上がったもの、それが作品です。私個人の力だけではなくて、印刷所のプリンティングディレクターの協力もあって、それが合わさって作品がつくられるのでね。
以前は作品をつくるときに、版下に手書きで指定してトレーシングペーパーを貼って印刷所に出していましたが、そういう版下はDNP文化振興財団に収蔵していただいている中にあると思います。
浦川 デザインのリソースとして、何か集めていらっしゃるものなどございますか?
永井 いえ、ないですね。趣味というものがないものだから。
久保田 一光先生は多趣味でいらっしゃいましたね。
永井 お茶もやっていましたしね。私は昔から体が弱くて、仕事が精一杯だったので、趣味を楽しむには体力的に余力がなかったということもありますね。
浦川 でも、お仕事はとても体力も気力を使われそうですね。
永井 誰よりも時間がかかるようなことをしていますからね。こんなことをやっている人はほかにいないですよね。
久保田 世界を見てもいらっしゃらないと思います。こうした細かい点描の作品の創作時間はどのくらいかかるのですか?
永井 物にもよりますけれども、卵の作品は、これが一番大変でした。ロットリングのペンを使った点描の作品ですけれども、1カ月近くかかったと思います。
コンピュータの登場によって作風を変えた
浦川 永井さんは、写真は撮られますか?
永井 いえ、撮りません。一時期、造形と写真を組み合わせた作品をつくっていたことがあって、そのために使う写真を自分で撮影していたことがあります。たとえば、東芝やリリカラなどの広告で、空や海、月、夜明けの地平線の写真もあります。
浦川 壮大なスケールの美しいお写真ですね。どこかに行かれて撮影されたものですか?
永井 海外に行くときに、飛行機の窓から撮影したものです。これらの写真も残っていないと思いますね。
浦川 このときは、コンピュータなどない時代ですから、版下で組み合わせてつくられていたんですよね?
永井 もちろん、そうです。造形と写真を一緒に入稿して印刷していました。この造形は、定規やコンパスを使って手で描いたものです。以前、アメリカのある美術館の方から「コンピュータグラフィックの先駆者である、あなたの作品を出展してほしい」という依頼がありましてね。「これはコンピュータグラフィックではなく、手描きなんです」とお伝えしたら、たいそう驚かれていました。
コンピュータが世に出たことを機に、私は作品を幾何学模様の抽象表現から動物の具象表現に変えました。それからLIFEシリーズが生まれました。今は手で描いたラフをコンピュータで仕上げてもらうんですけれど、新作の「LIFE」の風の妖怪なども私がラフに描いた線をコンピュータで描いてもらったものです。この原画は10センチ角ほどの小さなもので、作品はそれを拡大したものです。その大きく伸ばす作業も、コンピュータで行っています。
久保田 一般的には、イラストは原画では大きなものを描いて、それを縮小して作品にしますよね。
永井 大きなものを小さくするほうがいいといいますけれど、私は逆だと思っているのです。線というのは、小さなものを拡大するほうが面白いと思います。
久保田 そのほうが、迫力が出ますね。
懸命に息を止めて描いた
久保田 そもそも永井先生がデザインの道に入られたきっかけは何だったのですか?
永井 私は東京藝術大学の彫刻科に入学したのですが、眼底出血をしましてね。それで静養するために2年生のときに休学して、郷里の大阪に帰ったんです。それが1951年の22歳のときです。その頃から少しずつ社会が安定してきて、父が勤めていた大和紡績では、布や糸以外にワイシャツや帆布などもつくり始めました。
そういった製品を販売するためには、宣伝用のポスターやパンフレットなどが必要だろうということになり、永井のせがれが何もしていなくてぶらぶらしているそうだからと、私が呼ばれたのです。当時は藝大出身者だったら、何でもできると思われていたんですね。
社内には宣伝部などなく、教えてくれる先輩もいませんでした。そこでまずデザイン室をつくってもらって、工芸学校を出た人をアシスタントに付けてもらいました。けれども、私は彫刻科出身でしたし、デザインのことなど何ひとつ知らなかったので、手探りの中で働き始めました。
浦川 著書『永井一正』(DNPグラフィックデザインアーカイブ)にも、そのことが書かれていますね。その当時は烏口(製図用の特殊なペン)をご存じなくて、細い鋭い線を描くのにどうしたらいいかわからなくて、「極細の筆を使って、懸命に息を止めて描いた」というエピソードもありましたね。
永井 それが生まれて初めてデザインしたパンフレットで描いた線です。著書にも掲載されていますが、1951年のときの作品です。最初に描くときは、手が震えましてね。なかなか描けなくて、何度も、何度も描き直しました。ほかにも製品のパッケージもデザインしました。
こうした私のつくったものが、わりとすぐに宣伝・広告印刷物の研究雑誌『プレスアルト』に掲載されたんです。その雑誌には、一光さんの作品も載っていました。それをいつも見ていて、お互いに面白いやつだなと思っていて、そこから交流が生まれたのです。
浦川 その大和紡績時代のパンフレットやパッケージは、どこかに保管されているのでしょうか?
永井 現物がDNP文化振興財団に収蔵されています。
浦川 それはとても貴重ですね。現物を拝見してみたいですね。
デザインミュージアムについて
浦川 デザインミュージアムについてのお考えをお伺いしたいのですが、みなさんいろいろなご意見があって、やはり日本にデザインミュージアムは必要だという声が多いのですが、永井さんはどのようなお考えをお持ちですか?
永井 もちろん、あったほうがいいと思っています。ほとんどの美術館は、アートが主体ですからね。それにグラフィック、インテリア、ファッションと、あらゆるデザインの分野のものを一堂に集めたようなところが日本にはないですよね。
浦川 デザインミュージアムの展示の仕方についてもいろいろご意見があって、単に完成品を並べるだけでは、白い箱の中にある物というだけになって、そのデザイナーの考え方や思いが伝わらないのではという声もあります。永井さんはどのように思われますか?
永井 まずは日本のデザインの歴史において主要な作品や資料を、とにかく収蔵することが先決だと思います。その見せ方や企画の切り口については、いろいろ考えられると思いますので。三宅一生さんのやられている21_21 DESIGN SIGHTでも、あそこは作品を収蔵していませんけれども、毎回、いろいろな切り口の企画の展覧会を行っていますね。
富山県立美術館では、倉俣史朗さんや川上元美さんをはじめとして、世界的に有名なイスをたくさん収蔵されていて、展覧会も開催されています。やはり現物を収蔵していて、多くの人が見ることができる場を持っているというのは大きな強みだと思います。
久保田 物を収蔵していれば、それを用いていろいろな人がいろいろなところで展示ができますからね。作品を収蔵してそのままというところもあるようなので、キュレーターがもっと落ち着いて研究や整理ができるような環境もつくれるといいと思います。
永井 美術の分野のキュレーターは、今、憧れの職業だと聞きます。女性で優秀な人材が輩出され始めていますけれども、一方のデザイン分野のほうは手薄ですね。
久保田 そうですね。デザイン界においては、いろいろなことが手薄のように感じます。
永井さんの考えるデザインとは
浦川 最後に、永井さんのデザイン観についてお伺いできればと思います。日本デザインコミッティのHPの中に、永井さんの「デザインに対する想い」が綴られています。
「デザイナーはそれぞれ何かをデザインする時に、自然にすでに存在している法則をみつけ、それを『かたち』にしていくことだと思う。コストや機能と同時に美しく魅力的でなければ摂理から生まれた結晶とはいえない。それぞれの役割を認識した上で、自然に共通した感覚を大切にしていきたい」と。
つまり、あらゆる自然、生物には共通しているものがあって、デザイナーはその共通している法則の中から何かを見つけて、それを形にしていくことが大事だと。自然の中にデザインのヒントがあるということですね。
永井 自然というのは、偉大だと思うのです。地球というのは、少しでも太陽から遠かったら氷になってしまっていたでしょうし、少しでも太陽に近かったら火の玉になってしまったわけですが、絶妙な位置に存在している奇跡の星なのです。そして、海から水ができて、アメーバーのようなものから生物が生まれて、長年かかってできた惑星です。人間もあらゆる動植物も、みな自然界から生まれたひとつの種。ですから、そこには当然、共通点があると思うのです。今の若い人たちは、コンピュータの中だけで探していますけれど、本当はもっと広く大きな宇宙の摂理、あるいは雄大な自然界の中の答えがあると言いたいのです。
浦川 永井さんにとって、デザインとは何ですか?
永井 そうですね。何らかの意味で、社会に機能しないとデザインとは言えないと思います。見る人や使う人に、より良き何かを与えられることだと思います。
浦川 ポスターですと、ポスターを通じてそういうメッセージを人々に投げかけるということになるでしょうか?
永井 メッセージだけではなくて、そこから受け取るものが多大にあると思います。LIFEシリーズでは、描かれた動物の姿を通して、生や死、命の重みや尊さについて考えることにつながると思います。
浦川 本日は貴重なお話をありがとうございました。DNP文化振興財団さんにも、ぜひお話を伺ってみたいと思います。
文責:浦川愛亜
永井一正さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
日本デザインセンター http://www.ndc.co.jp/