日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
仲條正義
グラフィックデザイナー
インタビュー:2018年11月13日 14:00~16:00
場所:仲條正義デザイン事務所
インタビュアー:久保田啓子 関康子
ライティング:関康子
PROFILE
プロフィール
仲條正義 なかじょう まさよし
グラフィックデザイナー、女子美術大学客員教授
1933年 東京生まれ。
1956年 東京藝術大学美術学部図案科卒業後、
資生堂宣伝部入社(59年退社)。
1961年 デスカを経て、仲條デザイン事務所設立
1970年~資生堂の企業文化誌 『花椿』 アートディレクション(~2011)
1992年 毎日デザイン賞受賞
1998年 紫綬褒章受章
2003年 亀倉雄策賞受賞
2018年 毎日ファッション大賞 鯨岡阿美子賞受賞
2021年 逝去
Description
前文
仲條正義は現在、建築家である娘さんが設計した瀟洒な自邸の一室を仕事場に、悠々自適に仕事をなさっている。そして、服部一成さんのブックデザインで600ページ余におよぶ作品集が進行中である。85歳という年齢であるにも関わらず、これだけデザインを面白がられる人生って、なんとすばらしいのだろう。
仲條のデザインの魅力は、今やグラフィックスの主流である写真やCGはめったに使わない、代わりに自らの手描きによる文字やイラストと、色彩を自在に操る独特のセンスにある。それらはご本人がおっしゃるように「主流を目指していない」のだが、片隅からこぼれてくる光のようにキラッとした輝きを放つ。あるいは変化球を突然投げてきて、こちらをハッとさせる・・・そんな油断のならない存在感なのだ。別の言い方をすれば、まさに時間や場所、年齢や性別、文化的境界を自由に越境する無国籍でタイムレスなデザインと言える。タイムレスというのはロングライフといった概念ではなく、50年前も、現在も、そして50年後も、今その瞬間に輝きを放つという意味だ。
考えてみれば、仲條と同世代には、田中一光、杉浦康平、福田繁雄、横尾忠則(後にアーティストに転向)和田誠など、戦後のグラフィックデザイン界に大きな足跡を残した巨匠が綺羅星のごとくいらっしゃる。そしてみんなが独自の表現世界を切り開いていらっしゃる。
時代は昭和から平成へ、さらに新しい年号に代わり、戦後復興から成熟・定常化社会へ移行しつつある現在、デザイン=グラフィクスの役割や期待も大きく変わることになるだろう。しかし、近年、一定の役割を果たした後に「作品」として後世に伝えたい、伝えるべきデザインはどのくらい誕生しているのだろうか? グラフィックデザインは消費の渦に飲み込まれてしまうのだろうか? 仲條の圧倒的な作品群を目の当たりにすると、そんな疑問がわいてくるのだ。
Masterpiece
代表作
1.包装紙 ザ・ギンザ (1975)
2.『花椿』 資生堂(1988年9月号)
3.「資生堂パーラー バウムクーヘン」 パッケージ 資生堂パーラー(1990)
4.ヴィジュアルアイデンティティ 東京都現代美術館 (1995)
5.「仲條のフジのヤマイ」展 出品作品 クリエイションギャラリーG8 (2002)
6.ショッピングバッグ 資生堂パーラー (2015)
7.壁画「トラヤカフェ・あんスタンド」虎玄(2016) AD:葛西薫
8.個展「IN & OUT, あるいは飲 & 嘔吐」出品作品 DNP文化振興財団 (2017)
主な著書
『仲條正義の仕事と周辺 Director and designer scan 6』 六耀社 (1998)
『タイムトンネルシリーズVOL15「仲條のフジのヤマイ」』 ガーディアンガーデン(2002)
『仲條のフジのヤマイ フジ三十六景』 リトル・モア(2002)
対談集『変わる価値―変わりつつある価値』 ワークコーポレーション学芸出版社(2008)
『花椿ト仲條』 ピエ・ブックス(2009)
『IN & OUT、あるいは飲 & 嘔吐』 ADP (2019予定)
Interview
インタビュー
主役にはならないよ、という気持ちはある。
脇役だね。そういうポジションは楽だしね。
準備中の作品集は集大成
― 仲條デザインの集大成となる作品集を制作中だそうですが、きっかけは何だったのですか?
仲條 僕は作品集をつくったりすることに無頓着だし、作品を後生大事にとっておくこともしないんですが、久保田啓子さんからぜひつくりましょうというお誘いをいただきましてね。あれからもう5、6年たちましたかね。
久保田 そうです。嫌がる仲條さんを説き伏せてお願いしました。ちょうどその頃(2013年)、バタフライストロークの青木克憲さんが運営されているギャラリー@btfで、「仲條正義/仲條正義の前半分」展をすることになって作品をざっくりと整理することができたので、それを機に作品集をつくりましょうとご相談したところ、オープニング当日の会場でようやく了承してくださいました。
― 仲條さんご自身は、自分で作品を分類したり、整理しておくことはないのですか?
仲條 終わったことはもう昔のこと、ということで・・・。
久保田 仲條さんはいつも人の恥をさらすなとおっしゃるので、私一人の手には負えないと思って、作品集の制作にはグラフィックデザイナーの葛西薫さんと服部一成さんに編集委員として参加してもらっています。まず展覧会以外の作品も含めて全部見直して、北海道の印刷会社で一点一点撮影し、ブックデザインは仲條さんのご指名で服部一成さんにお願いしています。仲條さんご自身は、内容は一切見ないとおっしゃっていて、見事に今日までまったくご覧になっていません。
― 作品集はどんな構成なのですか? ジャンル別とか年代順とか。
久保田 10年を一括りの年代順です。仲條さんの仕事はジャンルで分けたりできない、横断的なんですね。服部さんもジャンルやテーマで分けられないとおっしゃるし、10年をひとつの単位に緩やかな年代記としてまとめています。ところが不思議なことに、初期の作品を見ても全然古くないんですね。そこが仲條さんのすごいところだと思います。
仲條 だいぶ以前、久保田さんの大先輩でもあった六耀社の橋本周平さんからも作品集の打診を受けたことがあったのだけれど、僕は「売れるかどうかわからない本をつくって会社がつぶれたらどうなるの?」とか言ってはぐらかして、なかなか本気にならなかった。でも、今回整理してみたら作品が膨大にあって自分でも驚いています。 (注)橋本周平:デザイン・アート・建築の専門出版社・六耀社の創業者
久保田 青木さんは以前、仲條さんの事務所でアルバイトをされていたことがあって、自分のギャラリーを持ったのでぜひ個展をしてほしいということになったようです。でもこの展覧会があったから、仲條さんもいい加減観念して作品集の話が進んだわけです。
仲條 僕にとっては過去の作品を一堂に並べられても、あれも良くないし、これも良くないし・・・と、正直辛いんだよね。以前の作品を人様に見られるってことは、何か昔の恥をさらしているようで恥ずかしい気持ちになってくるんですよ。
― でも、先ほど久保田さんもおっしゃっていましたが、仲條さんの仕事は30年前のものでも少しも古さを感じない、いまだに新鮮であることがすごいと思います。作品集には作品解説とか評論とかも掲載されるのですか?
仲條 いいや、作品をポンポン載せるだけです。グラフィックデザインは視覚的なものだし、背景などは特に必要ありません。
― 読者としては、仲條さんのデザインがどのような背景から生まれてくるのかを知りたいところですけど。
デザインの癖
久保田 ご自身では、理論や法則に則ってデザインされているわけではなく、その時々の感覚や直感で表現されているとおっしゃるのですが、私から見ると作品の背後には独特の思想、理論や方法論が存在しているのではなかと感じています。
― たしかに、誰が見ても一目で仲條さんの仕事だとわかる感性というか特徴がありますね。グラフィック王国である資生堂でも仲條さんのデザインは独特の光を放っています。
仲條 資生堂には『花椿』のディレクションを永くさせていただいて感謝しています。
― 雑誌と言えば『暮らしの手帳』の表紙も長く手掛けておられますね。
仲條 『暮らしの手帳』は100号ごとに作家を変えるという方針なので、僕は来年の半ばまでですね。
― これだけ目まぐるしく変化する時代に、一人のデザイナーが何年も、何十年も同じ仕事をやり続けるのは稀有なことですよね。ご自身はどうお考えですか?
仲條 広告の仕事は企業の業態や商品と一緒にどんどん変化するけど、僕の場合はロゴとか企業文化誌とか、美術館関係のグラフィックとか、それほど変化を求められない分野のデザインが多いかもしれませんね。
― 資生堂パーラーの仕事も何度かリニューアルされていますが、一貫して仲條さんにデザインを任せていますよね。そこが何なのだろうかと思います。仲條さんには一貫性のあるテーマが託されると言うか。
仲條 僕のデザインはやはり「癖」がありますからね。その癖がぴったり嵌まったときには、クライアントがそのポリシーに乗っかってくれると言うのか、上手に活かしていこうと考えてくれるのかもしれませんね。癖がブランドや企業文化の表現につながるのかもしれません。
― 自らおっしゃいましたが、仲條さんのデザインの癖とは何ですか?
仲條 この前、佐藤卓さんとか何人かの若い人たちと話す機会があったのだけど、佐藤さんだとかは自分の個性を前面に押し出すことよりも企業や製品のテーマを重視してデザインしていらっしゃるという印象をもっています。だから、どんな仕事でもきちんとクライアントの要望をかなえているのだと思います。一方、僕なんかは流行歌手と一緒で、良いときはいいけど飽きられたらそれでおしまい。でも僕はそれでいいと割り切っているわけです。
― でも、仲條さんは流行歌手とはぜんぜん違っていて、時代とか流行とかを突き抜けていると言ったらいいか。
久保田 時代を先取りした新しいデザインを提示しているのではないかと思います。
― たしかに現在第一線で活躍されている方々は自己主張よりもクライアントの求めに120%回答するといったアプローチでデザインを考えているのかもしれませんね。
仲條 それが今的というか、現在はやはりそうしたアプローチが求められているのでしょうね。
― とはいえ、仲條さんも製品のロゴやパッケージなども手がけておられますよね。どのようなことを考えながらデザインされているのですか?
仲條 僕は大企業とか、大量生産品のデザインをしたことがないんです。大企業では資生堂くらいですが、それも広告や製品デザインではありません。『花椿』にしても創刊当初はフリーペーパーだったし、資生堂パーラーにしても本体の事業に比べれば小規模なものです。それよりも、さっきも言ったけど、ちょっと癖のあるデザインの方が向いている。一般大衆ではなく、ある一定数の、セレクトされた顧客に向けたデザインを任されることが多いように感じています。
― そうですね。スーパーマーケットやコンビニに並ぶ商品と資生堂パーラーのお菓子では、同じパッケージでも対象としている顧客や販売形態はまったく違ってきますね。つまり、仲條さんの癖を愛してくれる人に受け入れられるデザインということでしょうか。そういう仲條さんのグラフィックデザインの源泉って何ですか?
独特のデザインが生まれるまで
仲條 母は下町の深川の生まれ、父は千葉の銚子近くの半農半漁の家に生まれて大工として東京に出て来た人でした。僕は深川で生まれ、幼児期に新宿と中野の中間くらいに引っ越して来てそこで育ちました。当時は今の世田谷や中野、杉並や練馬あたり、いわゆる東京近郊が開墾されて新しい住宅地として拡大していた時期で、大工だった父は仕事を求めてその辺に引っ越してきたのでしょう。僕の人となりは大工だった父の影響を受けているように思います。
僕は昭和8年に生まれで子どもの頃から絵をよく描いていたんですが、小学校5年生のときに千葉に疎開をして、6年生で終戦を迎えるまでの1年間暮らしました。そこでも絵は描き続けていましたが「千葉ののんびりとした風景じゃあ絵にならないや」なんて生意気なことを言っていましてね。子どもながらに都会の風景の方が描きやすいというか・・・。
― 仲條さんの江戸っ子の都会的なセンスは子どもの頃にすでに育まれていたのですね。
仲條 戦後東京に戻って来て、やっぱり絵が好きで描き続けていたんですね。僕の高校の美術の先生は香川県の丸亀出身で、東京でピカソやマチスの展覧会があると僕らを展覧会に連れて行ってくださったり、『みずゑ』『アトリエ』といった美術雑誌を買ってくださってみんなで回し読みをしたり、素晴らしい先生だったんです。それに美術室には石膏が置いてあったりして、僕は授業をさぼっては美術室に入り浸って写生をしたり、絵を描いていましたね。
久保田 お上手だったと思うのですが、その頃の作品は残っていないんですよね。拝見したかったです。
仲條 その丸亀出身の先生と美術家の猪熊弦一郎のお父さん同士が知り合いとかで、僕は先生に連れられて幾つか絵を持参して猪熊さんのご自宅にお邪魔したことがあるんですよ。
久保田 あの猪熊さんに絵を見てもらったということですか。 何ておっしゃったか覚えていますか?
仲條 「ものをよく見なさいよ」って。
久保田 含蓄のある言葉ですね。
― 仲條さんは本格的に油絵をやられていたということなんですね。 それがどうしてデザインに?
仲條 油絵は好きですが洋画科を卒業しても画家として独り立ちできるのはほんの一握り、多くは美術の先生です。僕が大学に入るちょうどその頃、日本も終戦から復興してきて、ポスターのようなグラフィックスが注目されるようになっていました。猪熊さんのご自宅にもバウハウスのハーバード・バイヤーのポスターが貼ってあって「仲條君ちょっと、これいいでしょう」と見せてくださって、僕は「は、はい」なんて答えてね。グラフィックデザインという世界があることを何となく知ったんです。それに東京藝術大学の場合、洋画科よりも図案科の方が倍率も低かったし、そんなことで図案科を選択しました。
久保田 日宣美(日本宣伝美術会)の設立(1951年)もその頃ですよね。
仲條 そうそう。福田繁雄とか藝大生の何人かでこっそり応募して入選したりしてね、楽しかったですよ。同期は20名くらいいたけど、3分の1くらいは亡くなってしまいましたね。デザイナーでも企業に勤めちゃうと定年があるし、役職に就くとデザインできなくなっちゃう。僕の場合はフリーで、何でも来るもの拒まずでやってきたので、今でも続けていられるということかなと思います。
中條デザインの真髄
― 最近活躍されている佐藤卓さんはじめ、原研哉さんや佐藤可士和さんといった方々はグラフィックデザインをベースにしながらも、アートディレクターという肩書での仕事を多くなさっています。やはり、仲條さんたちの時代からグラフィックデザイナーに求められる資質が違ってきているとお感じでしょうか?
仲條 全然違うでしょうね。今は製品と直結しちゃって、まず商品やサービスから考える時代になりました。例えば、昔は「こんなビスケットを商品化するのでパッケージデザインをお願いします」というのがグラフィックデザイナーに対する相談でした。今は「最近はビスケットではなくクッキーの方が人気があるから、こういうプランで進めませんか」という回答が期待されていて、いわゆるアートディレクターの仕事になってきていると思います。
― 以前、亀倉雄策さんの元スタッフでいらした水上寛さんにお話をお聞きしたところ、亀倉さんも編集やアートディレクター的な仕事をなさったけれど、あくまで「グラフィックデザイナー」という肩書にこだわっていらしたとのこと。そういう意味では、グラフィックデザイナーの職能を変えたのは「無印良品」とかを手掛けられた田中一光さんあたりなのでしょうか?
仲條 一光さんも一個人のデザイナーであることにこだわっていらしたように思います。実際「無印良品」は小池一子さんのようなプロデュ―サーとチームを組んで臨まれていましたよね。
久保田 私は、最近の若いデザイナーの方々は優しいというか整ったデザインで、仲條さんに比べるとインパクトに欠けていて物足りないという印象をもっています。仲條さんのデザインはいつも現状打破で常識を打ち壊すような、小手先のきれいさを否定した強さがあるのではないでしょうか。直感的に目先ではなく未来まで見通していらっしゃる、本能的に先取りしていると言うか・・・。
仲條 『花椿』は40数年やりましたが、実に楽しい仕事でした。僕はファッションと写真が好きなので、両方を使って思う存分表現できた。雑誌とかのメディアの仕事は好きだったし、楽しいし、得意だったかもしれません。ポスターだけ、パッケージだけとかひとつアイテムをやり続けていたら煮詰まっていたかもしれませんね。メディアは時代の変化に合わせて、ファッションやアートといった新しいものがどんどん出てくるし、取材でパリやニューヨークに行ったらワクワクする出会いがあったし。そこで感じたり、考えたりしたことをグラフィックとして表現できるんだから、本当に面白い仕事でしたよ。
― 『花椿』は仲條さんにとって単なる二次元のメディアではなく、創造性を思う存分発揮できる「表現空間」だったのですね。
久保田 お話を聞いていると、仲條さんは『花椿』で、思う存分やりたいことをやるために獅子奮闘されていたのですね。
― 雑誌って本来そういうものかもしれませんね。編集者や制作側が熱中している編集が一番輝く。
仲條 今はメディアが紙だけでなくウェブやデジタルサイネージとかに細分化してしまったし、情報が多すぎてつかみきれない。一方で紙媒体である雑誌はどんどん減ってしまうし。
― そうですね。『花椿』が40年以上続いたということは、やっぱり仲條さんと資生堂の相性が良かったということですね。
仲條 ところが必ずしもそうではないんですよ。入社当時の資生堂のグラフィックスは、山名文夫さんの繊細なラインのタイポグラフィやイラストが中心だったし、その後の中村誠さんの時代になると横須賀功光さんのようなカメラマンが登場してきて、写真を主体とするグラフィックスが主流になった。そういう意味で全体の形や量感を突き詰める僕の作風は特異なものだったでしょう。僕自身はどんなに時代やメディアが変わろうとも、グラフィックスにおける「密度」は重要だと考えています。未だにポスターという媒体が生き続けている理由は、グラフィックデザインがもつ密度を表現できるからなのでしょう。だからこそ細々とした小川のように残っているのだと思います。
― 仲條さん世代の方々のデザインの密度は高く、個性がはっきりしているのに対し、現代のグラフィックデザインの密度が薄まっているように感じるのはどうしてでしょうか?
仲條 時代なのかなあ・・・。でも一見すると密度が薄いように見せておいて、実はひじょうに高いというようなデザインはありますよね。何となく人をはぐらかすような・・・。服部一成さんのデザインなんてそうでしょう。
― でも、はぐらかしと言ったら、やはり仲條さんですよ。
久保田 みんなが考えているようにはならないよ、という感じ。
仲條 そうね。主役にはならないよ、という気持ちはある。脇役だね。そういうポジションは楽だしね。やっぱ、主流になってしまうといろいろ大変だろうと思いますよ。競争もしなきゃならないだろうし。
久保田 仲條さんのデザインは癖が強すぎて誰も真似できないし、競争する人もいませんよ。
― 仲條風のデザイナーは、後にも先にも仲條さんお一人ですよね。色使いも独特ですよね。例えば、資生堂パーラーのパッケージデザインは、お菓子にあの色ですか・・・という驚きがあります。
仲條 ちょっとはぐらかしの回答なんだけど、僕の場合、コンペティションをやっても勝ったためしがありません。逆を言えば、君だけに頼むよという仕事しかできないし、残らない。
久保田 大企業の仕事はあまねく誰にでも受け入れられるデザインが求められるけれど、仲條さんはそうではないということなのでしょうね。
― でも、あまねく誰にも受け入れられるデザインしかなくなってきたから、世の中が面白くなくなってきている。最近のデザインは、「当たり前」「普通」「日常性」が重視されていて、個性とか癖を前面に押し出すことが憚れる風潮がありますね。でも、普通や当たり前が行き過ぎてしまって。
久保田 逆に仲條さん的デザインが主流になったらそれも大変だと思うけど、現状ではちょっと寂しい。仲條さんはグラフィックデザイン界の重鎮だけど、いわゆるメジャーな存在ではないとおっしゃる。ご本人もそれを望んでおられない。でも今の若手の多くはメジャーを目指しているから、仲條さん的なアプローチがとれないのかもしれませんね。
仲條 僕のようなアプローチだと事務所は大きくならないよね。僕はずっと少人数でやってきたし、今は一人ですよ。
― でも、仲條さんとお話していると、それでよかったと見受けられますよ。作品は残っているし、80歳を過ぎた今でも第一線で生き生きと仕事をしていらっしゃる。そんなことで、ご本人はアーカイブには興味はおありではないと思いますが。
デザインアーカイブについて
― 最初に過去には興味なしとお聞きましたが、しつこくアーカイブについてお尋ねします。仲條さんの仕事はグラフィック作品が多いし、手作業から生まれるデザインが多いですが、原画などはどうしているのですか?
仲條 一応はとっておいたようですね。でもきちんと整理されたものではないですよ。僕はテーマにもよるけれど文字や構成的なデザインのときは方眼紙の上に形を描いていって、ああでもないこうでもないとくり返し描きながら色のイメージを考えたりします。筆記具は普通の水性マジックが多くて、特にこのペンでなくちゃとか、道具に対するこだわりは強くありませんね。
久保田 私が拝見している限りでは、ミックスメディアと言ったらいいのか、いろいろな手法や画材を上手に取り込んでいらっしゃいますね。例えば、デザインの原画をファックスでやり取りして、そこで偶然生じるズレとかカスレた感じを、これ面白い!ってデザインに取り入れて、それを何度もくり返していくうちに時間切れになって、それが完成!と、ご自身おっしゃっていますよね。
仲條 そうね。最初から計画的に進めていくより、偶然や失敗から思いもよらない、突然変異のようなものを取り入れます。そうでないと生き生きした、はみ出したものはなかなか生まれない。
― 今のデザインって、分りやすさとか、分らせようといことが強調されすぎていて面白くなくなってきている部分があると思いますが、仲條さんのデザインはそこを超越していますね。分らなくなっていいよ!という開き直りが新鮮です。
久保田 仲條さんはプロダクトデザインもされていますよ。展覧会や『花椿』の撮影のための一点ものですけど。資生堂パーラーの椅子や照明器具、それからそこにある猫のチェストなどは仲條さんのデザインです。
― 二次元と三次元のデザインの違いはありますか?
仲條 父が大工だし、娘が建築をやっているから空間や家具には興味もあるし、好きなのでデザインしていても楽しいですね。ただ、三次元でも彫刻は難しいでしょうね。実際、ザ・ギンザのための照明や椅子(写真1)もデザインしています。椅子は仕事場に一脚だけあります。他にも『花椿』のためにデザインした照明(写真2)やオブジェなどもありますよ。
写真1 写真2
― 最後に、デザインアーカイブについて伺わせていただけますか?
仲條 僕よりも久保田さんの方が詳しいので、お願いします。
久保田 作品集のためにせっかく作品を整理したので、まとまったかたちでアーカイブしてもらうという計画はあります。資生堂関係の仕事であれば、静岡・掛川にある資生堂アートハウスに隣接する「資生堂企業資料館」に収蔵してもらいました。それ以外では、主なポスター作品は大日本印刷の「DNP文化振興財団」のアーカイブに入っていますし、それ以外もまとめてどこかに納められればと動いています。
― 仲條さんが卒業された藝大はいかがなのでしょうか?
久保田 藝大はデザインに関してはありませんね。芸術作品は収蔵されているようですが。
― そういう意味では、今、仲條さん、葛西さん、服部さん、久保田さんが進めている作品集が貴重なアーカイブということになりますね。600ページにおよぶ大著になると伺っています。ただ、肉筆のスケッチなどは唯一無二のものなので、きちんとしたアーカイブとしてどこかに保管されることを願ってやみません。本日はありがとうございました。
文責:関康子