日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
大橋晃朗
家具デザイナー
インタビュー:2017年11月19日14:00〜16:00
場所:藤森泰司アトリエ
取材先:藤森泰司さん(藤森泰司アトリエ、大橋晃朗アトリエの元スタッフ)
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜
PROFILE
プロフィール
大橋晃朗 おおはし てるあき
家具デザイナー
1938年 愛知県生まれ。
1962年 桑沢デザイン研究所卒業。
同年〜69年 東京工業大学工学部篠原研究室(文部技官)。
篠原一男に師事し、建築を学ぶ。
1965〜69年 桑沢デザイン研究所非常勤講師
1969年 東京造形大学助手、翌年同大学専任講師
1972年 アトリエ設立。
1984年 東京造形大学教授
1992年 逝去。
Description
説明
大橋晃朗は、1960年代に建築家を目指してスタートを切り、住宅のインテリアを手がけていくうちに、次第に家具デザインに魅せられていった。坂本一成や伊東豊雄など、建築家たちとのコラボレーションによって生まれた名作家具もある。
大橋は、家具とは、椅子とは何かという根源的なところに目を向け、素材やデザインの手法を何度も変えながら、真摯に向き合い追究していった。70年代に最初に手がけた家具は、「木地箱」「車箱」「長箱」などの、いわゆる箱物だった。その後、箱物に対して椅子を「台のようなもの」と捉え、「台のような椅子 ミリ」をデザイン。そこから本格的に家具に取り組んでいく。スチールパイプを用いた6種の椅子、安い合板で家具をつくることに挑戦したボード・ファニチュア。それまでのデザインはどこか理性的でストイックな印象があったが、80年代に入ると、突然、何かから解放されたかのように世界観が大きく広がり、創造性豊かな作品を発表していく。脚の長い不思議なプロポーションのキャビネット「パック」、ユーモラスなフォルムと鮮やかな色彩の「フロッグ・チェア」、アジアのバティックをあしらった今にも動き出しそうな「ハンナン・チェア」、その後も「トーキョー・ミッキー・マウス」、「ドナルド・ダック」と続いていく。特に80年代に手がけた椅子はデザイン界に大きな衝撃を与え、その続きはどうなるのかと注目を集めていた矢先の急逝だった。
大橋の家具に対して書かれた書籍や雑誌の記事などの資料は少ないが、その思考方法や研究内容は、家具デザインの歴史において貴重な財産である。それらをアーカイブとして後世に残し、それをもとにさらなる研究をしていくことが必要だろう。最後の所員であり、そのDNAを受け継ぐ家具デザイナーの藤森泰司に、大橋のアーカイブについて伺った。
Masterpiece
代表作
建築
「牛ヶ谷の住宅」(1969)、
「大町集合住居」(1971)
家具
「木地箱」(1973)、
「車箱」「長箱」(1974)、
「台のような椅子 ミリ」(1976・「代田の町家」坂本一成設計で制作)、
スチールパイプを使った6種の椅子
(「トゥム」「ハピ」「テム」「オマ」「ピト」「クキュ」いずれも1978)、
「ボード・ファニチュア」(1979〜1984)、
キャビネット(「トリンキュロ」「パック」「フェステ」「タッチストン」いずれも1982)、
「フロッグ・チェア」(1985)、
「ハンナン・チェア」(1986・「シルバー・ハット」伊東豊雄設計で制作)、
「トーキョー・ミッキー・マウス」(1988)、
「ドナルド・ダック」(1989)、
「カフェ・チェア」(1990・「八代市立博物館」伊東豊雄設計で制作)
著書
『トリンキュロ―思考としての家具』(1993・住まいの図書館出版局)
展覧会カタログ
『Touchstone 大橋晃朗の家具』(2006・TOTO出版)
Interview
インタビュー
日本のインテリアの分野でも、もっとアーカイブを
残そうという動きが必要だと思っています。
家具について深く掘り下げて思考する
ー 大橋さんは家具デザイナーとして、60〜80年代に伊東豊雄さんや坂本一成さん、長谷川逸子さんといった建築家と協働して一時代をつくられ、その後の活躍が期待されているなかで、残念ながら1992年に急逝してしまいました。藤森さんは、大橋さんの事務所にいつ頃、どのくらいの期間、働いていらっしゃったのですか?
藤森 僕は大橋先生が亡くなられるまでの最後の約1年、事務所に在籍していました。入所したときにもう一人先輩がいたのですが、その方がすぐに辞められたので、最後のスタッフは僕ひとりだけでした。
ー 藤森さんがそもそも大橋さんの事務所に入所されたきっかけは何だったのですか?
藤森 東京造形大学の教え子でした。家具について、ここまで深く掘り下げて考えている方がいるということに驚き、衝撃を受けました。また、家具によっていろいろなことが表現できることを知り、さらに興味が湧き、在学中に時々、アトリエにも通わせていただいて、卒業後、昔でいう弟子入りのような感じで門を叩きました。
ー 大橋さんは1992年で52歳という若さで急逝されて、事務所は突然、切断された状態になってしまったと思います。そのときは藤森さんが中心になってプロジェクトの引き継ぎや資料の整理をされたのですか?
藤森 スタッフは僕しかいませんでしたし、当然自分がやるべきことだと思っていました。そのときはたまたま建築家と一緒に動いているプロジェクトがなかった時期だったので、その対応で困ることはありませんでした。まずは事務所にある図面や資料を整理していきました。『SD(スペースデザイン)』(鹿島出版会)の雑誌に、大橋先生の追悼の特集号が出ることになったので、そこに掲載する資料をまとめたりもしました。それらの図面や資料は、東京造形大学の大橋先生と同じ研究室で、建築家の白澤宏規先生にすべてお渡しました。白澤先生は、その後、学長になられましたが、今は退職されて大学にはいらっしゃいません。
ー 図面というのは、原寸図ですか?
藤森 A0以上の原寸図と、A1およびA2サイズ、手描きのスケッチもありました。
ー 大橋さんは、初めは建築家を目指され、住宅を2軒ほど設計されました。その図面も残っているのでしょうか?
藤森 おそらく残っていると思いますが、残念ながら詳しくはわかりません。事務所にいた当時も、そういうことを僕から大橋先生に気軽に聞けるような感じではなかったので、今となってはわからないことも多いのですが。
ー 厳しい方だったのですか?
藤森 あからさまに怒ったり怒鳴られたりしたことはないのですが、僕は尊敬の念もありましたし、常に緊張していました。今はなかなかそういう人間関係というのはないかもしれませんけれど。
ー 大橋さんの作品や資料の権利関係については、どなたが管理されているのですか?
藤森 娘さんです。実は図面は大学から引き上げて、今、この事務所にあります。来年、開館予定の香港のミュージアム「M+」に寄贈することになります。大学とご家族の間で協議し、決まりました。現在はその準備を進めているところです。
ー M+には、図面の他に何を寄贈されるのですか?
藤森 おそらく作品なども寄贈されると思うのですが、その詳細については僕の方では詳しく把握していません。作品は、大学にあるものの他は個人蔵が多いです。僕もスチールパイプのシリーズの椅子を2脚、長谷川逸子さんから譲り受けた「ボード・ファニチュア」を2脚持っています。コラボレーションした建築家の方々や、多木浩二先生も大橋さんの家具をご自宅にいくつかお持ちだったようです。東京造形大学のロビーには、「ボード・ファニチュア」があったと思います。それから神楽坂で染色と織りの工房を持たれていて、大橋先生の家具のファブリックを担当されていたテキスタイルデザイナーの尾島径子さんのところには、初期の頃のものがいくつか残っていると思います。おそらくご自身が当時、購入されたものだと思います。
ー どなたかが20脚とか、30脚とか、まとめてお持ちの方はいるでしょうか?
藤森 いないと思います。
ー 写真などは残っていますか?
藤森 おそらくまとめた資料のなかに含まれていたと思います。写真家の方が撮影されたものは、写真家の方のところに残っていると思います。なかでも、家具の写真は藤塚光政さんがたくさん撮影されて保管されています。
ー 大橋さんは、ウェグナーやモーゲンセン、ケアホルムといったデンマークのデザイナーの家具をトレースしたり、シェーカーの家具の複製などもされていましたが、その研究論文や複製のための図面などは残っていたりするのでしょうか?
藤森 シェーカーの研究をされていたのは、僕が入所するずっと以前の話なので、資料の所在はわからないですね。シェーカーのスツールが、事務所に残っていたような気もします。椅子の研究についての論文のようなものもあったと思います。今、東京造形大学に保管されていた図面などの資料をいったん僕の事務所で引き取り、再度整理をしているところです。名作椅子の研究について言えば、通常は文献や図面を参考にすると思いますが、大橋先生は実測したり、1分の1で実際につくったりしながら研究されていました。
ー その大橋さん独自の実測の方法を、東京造形大学の授業で教わったそうです ね。
藤森 学生が3人グループになって、机に模造紙を広げて、その上に名作椅子を載せて実測しました。座面やアームのカーブは、測量で使う重りが付いている「下げ振り」を使って、曲線を1点ずつ出していきました。先生は物の形がもつ表情を「身振り」とおっしゃっていました。椅子にはその時代の感受性のようなものが内包されていて、実測することによってそれをデザインした人の思考を知ることができるのだと。例えば、どういう考えでつくられたものなのか、なぜそういう形をつくったのか、なぜそれを自分がいいと思うかなど。言葉ではうまく説明できないのですが、そういうことが実測していくうちに身体的かつ感覚的にわかってきます。
ー 研究の目的というのは、家具のヒストリーやテクニカルなものをきちんと記録に残すという以外にも、ご自身のデザインにも何かそれをヒントにしていこうという思いもあったのでしょうね。それから椅子を「台のようなもの」とおっしゃって、椅子そのものがどういうものかということも追究されていたと思うのですが、そういう研究は晩年も続けていたのでしょうか?
藤森 僕が言うのもおこがましいのですけれども、お祭り騒ぎをしていたバブル期を過ぎて90年代に入ると、世の中が少し沈静化していったこともあり、大橋先生のデザインもいい意味で“普通”になっていって、新たな領域に移行しようとしていたのではないかと思います。「ハンナン・チェア」以降は、デザインのフィクション性に向き合い、家具を「文化のゲーム」として捉えて想像力をとことん解放させていった。それはある意味、家具デザインという領域を越えてしまうことだったのかもしれません。晩年はもう少し、上記のゲームの手法を経た自身の思考を現実の空間にどう重ね合わせていくか、ということを意識されていたように思います。再度開き直って前を向くような。
見過ごしがちなものが、実は生きるベースになっている
ー 建築の世界では、大学の先生をしながら作品をつくっていく「プロフェッサー・アーキテクト」という言い方がありますが、大橋さんもプロフェッサー・インテリアデザイナーというような立ち位置だったのでしょうか?
藤森 そうですね。研究的な立場でデザインしていた、という言い方の方がいいのかもしれません。僕が入所したときは、いきなりデザインや図面を描く作業ではなく、自分が日常で興味があるものを何でもいいのでピックアップしてレポートを書くようにと言われました。普段生活しているなかで何らか自分に影響を与えているものということで、テレビやエアコン、トイレなどについて書きました。今から考えると稚拙なものですが、先生は「ひじょうに素朴だが良い」とおっしゃってくださいました。よく憶えています。そのレポートをもとに議論しながら、生きていくための道具とは何かということを考えていきました。物の色や形、機能のことだけではなく、普段の生活のなかで当たり前になってしまっていることが実は生きていくことのベースになっているとか、見過ごしてしまっていることに疑いの目をもって見てみるということを教わりました。
ー 物の根源を探る訓練をされていたのですね。いつもお弟子さんには、そういうことを教えられていたのでしょうか?
藤森 どうでしょうか。その前のことはわからないのですが、先生のなかで、そのときどきの思考のトレンドのようなものはあったと思います。例えば、70年代には『野生の思考』(1976・みすず書房)の思想に影響を受けられたそうですし、80年代の「ハンナン・チェア」をデザインされた頃はアジアの文化に傾倒されて、この頃は事務所で1日中、ガムランの曲を流していたそうです。僕が事務所に在籍していた頃は、依頼を受けたときに仕事をするという感じで、研究する時間が主だったので、おそらくまた新しいことに挑戦しようと考えられていたのではないかと思います。
ー ところで、大橋さんが東京工業大学の篠原さんの研究室にいらしたというのは、少し意外な感じもするのですが、その理由や背景、目的のようなことを聞かれたことはありますか?
藤森 おそらく篠原先生が桑沢に教えに来られていたので、そこで影響を受けられたのではないかと思います。大橋先生はとても精緻に図面を描く方でした。篠原スクールの教室には、大橋先生が描いた「白の家」の図面が飾られ、篠原先生が学生に「これを見本に描くように」とおっしゃっていたという話を聞いたことがあります。
ー 篠原スクールでも、議論を戦わせながら物の本質を見極めていくような、思考の訓練のようなことをされていたのでしょうね。大橋さんは仕事以外にも、その篠原スクールに関係の深い伊東さんや坂本さんとの交流はあったのでしょうか?
藤森 もちろん交流はあったと思います。その時期のことは伝え聞いたことしか僕にはわからないので、同時代を共有しているお二人にお聞きになったほうがよいかと思います。
80年代に双璧をなした大橋晃朗と倉俣史朗
ー 篠原スクールには、倉俣史朗さんも顔を出されていたそうです。80年代に、大橋さんと同時期に活躍され、独創的な家具をつくられていたデザイナーとして双璧をなしていたと思います。作風や考え方は違いますし、時代背景もあったと思いますが、作品の流れが似ているようにも思います。60年代に箱物をつくられ、70年代にはスチールなどの素材を用いて理性的なデザインを展開し、80年代には突然、周囲が驚くような作品を生み出しました。倉俣さんはバラの造花をアクリルに封じ込めた「ミス・ブランチ」を、大橋さんは「ハンナン・チェア」を発表されました。社会に対する批評精神や、自分のアーティストとしての立ち位置のようなことにもこだわり続けていたことや、その後、さらなるデザインを模索している途中で、若くしてこの世を去られたということなども、何か重なる点が多いように感じます。同じ桑沢の出身でもあったので、倉俣さんとの交流もあったのでしょうか?
藤森 これも先輩方にお聞きしたことですが、直接会うようなことはないにせよ、お互いのことは意識していたと思います。デザイン界ではよく、倉俣さんは太陽、大橋先生は月と言われていたそうです。大橋先生は、倉俣さんのように華やかな商業施設や飲食店などをデザインされなかったからかもしれません。お酒も飲まない方でしたし、いつも何かを考えている内省的な印象がありました。多木浩二先生とは仲が良かったと思います。展覧会のカタログ(『Touchstone 大橋晃朗の家具』2006・TOTO出版)には、「大橋さんについて想うこと」という多木先生の文章が掲載されているのですが、素晴らしいものでした。ここまでひとりの作家を分析して解体してしまっていいのかと驚きました。しかも大橋先生への強い想いがあふれています。
ー 当時の建築家やデザイナーは、多木さんにどう見られるかということをとても意識されていたといろいろな方から聞きます。倉俣さんは、多木さんが自分のことについて書いた文章が呪縛のようになって長く苦しまれたようですが、その後、エットレ・ソットサスに出会って解放され、それによって新しい作風を生み出すことにつながったそうです。
藤森 今、そういうきちんと批評できる人が、特にデザイン界にはいないですね。
ー 作品や批評を発表できる場としての、インテリアやデザインの雑誌も少なくなりました。倉俣さんには、初期の頃から歴代のお弟子さんがいて「倉俣スクール」とも言われ、みなさんその後もご活躍されていますが、大橋さんのお弟子さんで今もデザイナーとして活動されている方はいらっしゃるのですか?
藤森 あくまで僕が知っている限りですが、家具デザインを続けている方は少ないと思います。ほかのデザインの分野にいかれたり、あるいはダンサーなど、まったく別の道に進まれた方が多いようです。
ー どうしてなのでしょうね。
藤森 わかりません。“家具”という分野において、存在が圧倒的すぎたからでしょうか。僕は事務所にいる期間が短かったので、何もわからないなりに自分で一つひとつ考えていくしかなかったのです。もしかしたら、今続けられているのは、それがあるからかもしれません。
ー 藤森さんは大橋さんが亡くなられたあと、どうして長谷川さんの事務所にいかれたのですか?
藤森 僕が気落ちしていたところに、白澤先生をはじめ、伊東さんや坂本さん、長谷川さんなどの篠原スクールの方々が集まって、僕のこれからのことを考えてくださって。ちょうど長谷川さんが事務所のインテリア部門で人材を考えていたとのことで誘ってくださったのです。長谷川さんには今でもとても感謝しています。大橋先生にはデザインに対する考え方や姿勢のようなことを、長谷川さんには建築の中で家具がどうあるべきかという、公共施設の実務の経験をたくさん学ばせていただきました。1992年から1999年まで7年間ほど在籍したのですが、ちょうど大規模な公共施設をたくさん手がけていらっしゃるときでした。僕は「新潟市民芸術文化会館」の仕事を終えた頃、1999年に独立しました。
展覧会の開催がアーカイブの整理のきっかけに
ー アーカイブの話に戻りますが、発行されている書籍は2冊だけでしょうか? 大橋さんの家具の変遷や研究についてまとめたものや、建築家と協働した作品についてなど、記録としてもう少しあってもいいように思うのですが。
藤森 著書の『トリンキュロ―思考としての家具』(1993・住まいの図書館出版局)と、展覧会のカタログ『Touchstone 大橋晃朗の家具』(2006・TOTO出版)だけですね。特集が組まれた雑誌は、何冊か持っています。『SD』が2冊と、『JAPAN INTERIOR DESIGN 』(ジャパン・インテリア)。雑誌に掲載された記事は、ほかにもたくさんあると思いますけれど。
ー 東京・乃木坂のTOTOギャラリー・間で開催された追悼展「タッチストン 大橋晃朗の家具」は、アーカイブを整理するひとつのきっかけになったのではないでしょうか。委員会のメンバーには、伊東さんや坂本さん、藤森さんもいらっしゃいましたが、どのようなきっかけでその展覧会を開催することになったのですか?
藤森 こういうデザイナーがいたということをきちんと世の中に伝えないといけないと、多木先生がおっしゃって主催され、伊東さんと坂本さんが委員会をつくられて動き出しました。
ー 展示する作品はどのように集められたのですか?
藤森 あるものとないものを洗い出して、ないものに関しては、リプロダクションしたものもあります。「ハンナン・チェア」は、テキスタイルで協業していた尾島さんに生地を張り替えていただいて展示しました。そのほかは個人からお借りしたものがほとんどで、会期終了後にお返しして、一部は東京造形大学に寄贈したと思います。
ー 委員会のメンバーには、他にどういう方がいらっしゃったのですか?
藤森 白澤先生や、大橋先生が亡くなられたあとに造形大で教えられた沖健次さんや榎本文夫さん、教え子であり建築家の伊佐次徹紀さん、前述した尾島さん、井上高文さんです。井上さんは、大橋先生の「ボード・ファニチュア」や「ハンナン・チェア」のフレームなどを製作されていたイノウエインダストリィズの代表の方です。「木地箱」「車箱」などの箱物は、倉俣さんの引き出しの家具もつくられた青島商店さんが製作されていました。
ー 東京造形大学は、武蔵野美術大学のようなコレクション活動はされていないのでしょうか?
藤森 美術館はありますけれど、コレクションはしていないと思います。建築の大学ではアーカイブを残そうという動きがありますが、インテリアの分野では、そういう考えが稀薄なので何とかならないものだろうかと思っています。M+では研究も行うということなので、寄贈することはいいことだと思うのですが、寄贈した大橋先生の作品や資料が日本で見られなくなるということが少し残念でもあります。
設計図のほかにアイソメのドローイングも残した
ー 図面を見せていただいてもよろしいですか?
藤森 この3本の大きな筒に原寸図と、ドローイングやスケッチなどが一緒に入っています。
ー とても詳細に描かれていますね。当たり前ですけれど、当時はすべて手描きですよね。
藤森 大橋先生は、小さなビスまで指定されていました。Rや奥行きなどの寸法の数字は、手描きではなくゴム印で一つひとつ押されています。
ー 藤森さんは、今はコンピュータで図面を描かれますよね?
藤森 はい、そうですね。長谷川さんの事務所にいたときは、ほぼ手描きで、平行定規を使って描いていました。スケッチ図もよく描きました。CADは独立してから使い始め、手描きとコンピュータの両方を実務で体験しているのは、僕らの世代がギリギリかと思います。
ー コンピュータで描くのと、こういうふうに1分の1の図面を自分の手で描くのとやはり違いますか?
藤森 今だとコンピュータですぐに描き始められますけれど、手描きの図面の場合は紙を汚してはいけないので、まず手を洗って、間違えたら描き直さないといけないので全神経を集中させて描いていました。今でも、コンピュータで描いても1分の1で打ち出して、実際のサイズ感を見る確認作業は必ず行っていて、それをもとにディテールを調整していきます。1分の1の模型をつくって検討もします。
ー この点描のようなスケッチは、何ですか?
藤森 大橋先生は、図面とは別にこうしたアクソメのようなドローイングを描いて残されていました。僕が事務所に入ったときに、近年のものはほかのスタッフが描いたものがすでにありましたが、昔の箱物やスチールパイプの家具などがないということで、僕が描くことになりました。ロットリングを使って描きました。
ー コンピュータで描いたようにも見えますが、手描きなのですね。1枚仕上げるのにも、かなりの時間を要しますよね。これをつくる理由は何だったのでしょう?
藤森 お聞きしませんでしたね。これらの図面やドローイングは、寄贈する前に複写をしようと思っています。でも、かなりの費用がかかるのでそれをどうやって工面しようか考えていて、また、これほどの大判のものをどこで複写をしてくれるのか、今、探しているところです。
ー そうですか。大変ですね。
藤森 それは僕の使命だと思っているので。
ー 最後の所員となられた運命でもありますよね。それでは、最後の質問ですが、藤森さんご自身は、大橋さんからどんなことを学ばれたと思われますか?
藤森 やはり一番大きいのは、デザインに対してどう取り組むかという姿勢です。今、大橋先生の教えを僕なりに学生に伝えています。椅子のデザインをするとなると、ただ形を描いてしまう人が多いですけれど、その椅子が誰のために、どんな空間で使われるもので、その椅子があることで何が変わり、その椅子を通して何が言いたいのかということが根底にないと、デザインする意味がないと思っています。
ー 貴重なお話をありがとうございました。今後、ぜひ白澤さんや尾島さんにもお話を伺ってみたいと思います。
左/ 藤森氏が所有するボード・ファニチャー 中央/ 図面の入った筒 右/ アクソメ
左/ 図面 右/ 掲載雑誌
大橋晃朗さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
藤森泰司アトリエ http://www.taiji-fujimori.com/