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日本のデザインアーカイブの実態調査

どうなっているの?この人たちのデザインアーカイブ

DESIGN ARCHIVE

佐藤晃一

グラフィックデザイナー

 

インタビュー:2020年6月24日 10:30~12:00
場所:東京工芸大学
取材先:ゑ藤隆弘さん、村松丈彦さん
インタビュアー:久保田弘子 関 康子
ライティング:関 康子

PROFILE

プロフィール

佐藤晃一 さとう こういち

グラフィックデザイナー

1944年 群馬県高崎市生まれ
1967年 東京藝術大学美術学部工芸科ビジュアルデザイン専攻卒業後、
     資生堂宣伝部入社
1971年 独立、フリーランスで活動を開始
1982-87年 東京藝術大学非常勤講師
1995-2015年 多摩美術大学教授
2015年 多摩美術大学名誉教授
2016年 死去

佐藤晃一

Description

概要

佐藤晃一の死後、2017年秋に高崎市美術館で開催された「グラフィックデザイナー佐藤晃一展」は、テーマごとに構成された大回顧展であった。多くがポスター作品だったが、その表現力、アイデアの豊かさ、メッセージ力、テーマの広さ、表現における技術力は、「アート」のような質量を発散していて圧倒された。帰りがけ、ミュージアムショップで『学生たちに書き残す本』と題した小さなテキストブックを見つけ手にとった。この展覧会のためにアシスタントだったゑ藤隆弘さんと村松丈彦さんが編集したものだ。勢いのある手書きで記された数々のメッセージには、今まで知りえなかった佐藤の後進へ伝えたいデザインの熱く真摯な思いが浮き上がっていた。その一文を紹介して、ディスプクリプションに代えさせていただきたい。
「デザインの仕事は感覚的な仕事だと思われているが、実は頭の仕事のほうが大きい。
すべて成功したデザイナーの仕事は、他人よりもさらに深くよく考えた結果である。しかし個々のすばらしい作品は長い時間をかけて考えられた結果ではない。それらはいつも考えようとした瞬間にすでにそこに立ち上がっていたイメージである。
この2つのことはムジュンするようだが、デザイナーの意識をさぐるうえでとても重要だ。
つまり、普だんから高い意識を持っていることが重要で、仕事を発想するときはリラックスしなければいけない。リラックスできるためには技に対する自信が前提となるのだ。技は伝えられるが意識をどうやって伝えるか」。
まるでデザインという技をもって競技に臨む熱きアスリートのようではないか。

Masterpiece

代表作

ポスター コンサート「New Music Media」(1974)
ポスター 劇団青年座「死のう団」(1976)
ポスター 音楽座「シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ」(1986)
ポスター 映画「利休」(1988)
ポスター 国際見本市「Europalia 1989 Japan」(1989)
ロゴマーク 江戸東京博物館 (1991)
ポスター 「IdcN」国際デザインセンター設立(1996)
ポスター 「日本人メキシコ移住100年」(1997)
ポスター 「マナスクリーン 25TH ANNIVERSARY」(2003)
ポスター 「多摩美術大学博士課程展2006」(2006)
ポスター 「21世紀琳派ポスターズ」出品作品 (2015)

 

主な受賞

毎日広告デザイン賞特選2席(1970)、
東京ADC最高賞・東京ADC賞(1985)、
ニューヨーク近代美術館ポスターコンペ1席(1988)、
毎日デザイン賞(1991)、
東京ADC原弘賞(1994)、
ブルノ国際グラフィックビエンナーレ特別賞(1994)、
芸術選奨新人賞美術部門(1997)、
モスクワ国際グラフィックデザインビエンナーレ ゴールデンビー最高賞(1996)、
芸術選奨新人賞美術部門(1997)、
メキシコ国際ポスタービエンナーレ銀賞(2014)など

 

主な著書

『KOICHI SATO』(六耀社/1990)
『佐藤晃一 ggg Books 13』(トランスアート/1994)
『Sato Koichi 新世代平面設計家 佐藤晃一的設計世界』(湖北美術出版社/1999)
『佐藤晃一のYES EYE SEE 1982-83』(DNP文化振興財団/2011)など

佐藤晃一作品

Interview

インタビュー

アーカイブの前に、故人を供養する段階が必要ではないか

デザインアーカイブの現状

―― ゑ藤さんと村松さんは2016年に佐藤晃一さんが亡くなって以降、作品や資料の整理をなさったと伺っています。そこで本日は佐藤さんのデザインアーカイブの現状についてお聞かせいただきたく。

 

ゑ藤 村松さんと私が中心になってご遺族と相談しつつ整理しました。まずポスターは、ポスターを収集している大日本印刷のCCGA現代グラフィックアートセンター、凸版印刷の印刷博物館、富山県美術館、出身地にある高崎市美術館などに寄贈しました。ポスター以外の作品や資料は引き受け手がなかなか見つからなかったのですが、最終的には教鞭を執っていた多摩美術大学アートアーカイヴセンター(以下ACC)で収蔵していただきました。

 

―― ポスター以外はどんなものがありましたか?

 

村松 ポスターなどに使われた原画、版下、掛け軸の作品、パンフレットやチラシのような小型グラフィックス、エディトリアル、直筆のスケッチやメモ、写真や手紙、エアブラシやペンなどの道具類です。写真や手紙はご家族に内容を確認いただきました。

 

―― それらのリストはあるのですか?

 

村松 主要なポスターのリストはありますが、それ以外はなく、ACCに寄贈した資料も詳細がわからないものも多くあります。アシスタントがいなかった若いときの作品については手掛かりもないというのが実状です。

 

―― 佐藤さんの仕事はポスターがメインだったのですか?

 

ゑ藤 ポスターが中心で、次がエディトリアルになるかと思います。雑誌は光文社の仕事が多くて、『JJ』、『CLASSY.』などのファッション誌、他には作品集や写真集、展覧会の図録、企業のPR誌、例えば資生堂の『美容研究』、帝国ホテルの『インペリアル』、草月会出版部の『季刊草月』などをしていました。演劇関係も多くて西武劇場の広報誌『劇場』、青年座、音楽座のポスターなどを手がけています。

 

―― ACCに寄贈されるときにはどのような状態だったのですか?

 

村松 生前に、おおまかに分類してあったものをさらに2年ほどかけて整理して、ポスターは2セット、他は1セットを2018年に2度に分けて納めました。現在、作品や資料の正式なデータはないので、ACCでは教授陣、スタッフや教え子たちが中心となって、まず収蔵品をデジタル撮影し、それを基にデータを作成する予定です。

 

佐藤晃一保存画像

ACCに保管されているアーカイブ

 

 

―― アーカイブの総数はどのくらいなのでしょうか?

 

村松 数はわかりませんが、塊でいうと事務所の倉庫で5×3×7メートルくらいを占めていたと思います。蔵書は事務所の引っ越しのたびに売ったり、人にあげたり、処分したり徐々に減らしていたようです。ご自分がデザインした本も全ては残されていません。

 

―― コレクションや嗜好品などは含まれていましたか?

 

村松 コレクションは特になかったのですが、サンプルとして世界の印刷物とか、ハガキぐらいは集めていたかと。崎陽軒の醤油差しなどもいくつか持っていましたが、いわゆるコレクターというタイプの人ではないですね。

 

ゑ藤 私たちは先生にとって晩年の弟子ですが、作品や資料はもちろんですが、私たち以前のスタッフの方々や関係者の話も記録しておきたいと思います。

 

村松 先生が亡くなった後、作品を整理するにあたって、歴代のスタッフの方々に集まっていただきエピソードを語りながら皆で作品を眺めたことがあります。いずれはそうした証言も収集し、テキスト化できればと思っています。

 

―― ぜひ、実現してください。

 

ゑ藤 デザインアーカイブは作品や資料の保存整理だけでなく、そこから何かを読み取とり、これからに活かす段階までいかないと意味がないと思うのです。2018年の高崎市美術館での回顧展のイベントはじめさまざまな機会をいただいて、村松さんと私がそれぞれの視点で先生の作品を語り合ったのですが、その都度、新たな佐藤先生の姿が立ち上がってきて、寂しいながらもとても幸福な時間でした。残されたアーカイブを読みとくことで、何度でもその作家を蘇らせることができると感じました。

 

村松 僕は、アーカイブや作品整理は、あくまで故人への供養のプロセスの一部だと考えています。実際には作品や資料を通じて、目に見えないたくさんのものも片付けなければいけません。個人的にはアーカイブという言葉はとてもドライな印象を受け、自分の行ったこととは隔たりを感じてしまいます。

 

―― 「アーカイブ」というと客観性が重要ですし、そういう意味でドライな感覚を持たれるのかもしれませんね。でもアーカイブが故人の作品や思想を後世に伝える大切なものでもあると考えています。

 

ゑ藤 先生の希望で、一通りの美術館に収めた後、残ったポスターを多摩美の教え子たちに配りました。留学生には優先的に配ったのですが、ポスターを通して先生のメッセージを世界中に広めることができてよかったです。

 

村松 作品をアーカイブとして一カ所に蓄えるだけではなく、教え子の側でデザインの未来を見届けたいという希望でもあったのかもしれません。

 

―― いかにも佐藤晃一さんらしいエピソードですね。高崎美術館のショップで買い求めた『学生たちに書き残す本』も、デザインの後進たちへのメッセージがすばらしく、胸が熱くなりました。

 

佐藤晃一保存画像 佐藤晃一保存画像

『学生たちに書き残す本』から

 

 

デザイナー、佐藤晃一とは?

 

―― さて、お2人にとってのデザイナー、佐藤晃一について伺いたいのですが、まず佐藤さんとの出会いは?

 

ゑ藤 私は2001年に多摩美に入学し、3年生から佐藤先生の授業を受け、2006年から2010年までの4年間アシスタントを務めましたので10年ほどのお付き合いです。その間は、事務所のスタッフというより教え子という立場で接していたように思います。
出会いは衝撃的でした。多摩美では2年生の終わりに3年の授業内容について担当教授からオリエンテーションがありますが、佐藤先生はいきなり「僕の授業は選択しないでください。世界的なデザイナーを目指す人だけが履修するように」と発言をされた。要は最初に学生をスクリーニングするわけですが、私は逆に猛烈に惹かれました。
授業は前期15週間かけてポスターを制作します。自分の個展を想定し告知ポスターをつくるという課題説明が1週目にあり、私は2週目にB全ポスターを完成させ、原寸大で出力までして意気揚々と持って行きました。当然「すごいね!」という言葉を期待していたのですが、結果は40分におよぶお説教でどこがよくないかを理論的に分析されました。そのときは先生のおっしゃっていることがひとつも理解できず、まるで事故に合ったように固まってしまいました。ですが、悲しいとか悔しいなどの感情はまるでなく、私が知らない何かについて本気で取り組んでいる人に出会えたと歓喜に打ち震えました。ある種の洗礼です。

 

―― 以前から佐藤さんのことはご存じだったのですか?

 

ゑ藤 はい、予備校時代から知っていました。ですが予備校生の狭い了見では、先生の作風は平面構成には活かしにくいなとしか認識できませんでした。しかも先生のポスターは印刷原理を活かした作品も多いのですが、残念ながら作品集や年鑑ではそれが再現されていない。直接教えていただくようになり、現物のポスターを拝見して本当の意味で作品のすごさを体感しました。

 

―― どんな作品がお好きですか?

 

ゑ藤 「日本人メキシコ移住100年」や「IdcN」など、さらっと仕上がって見える作品です。これらの作品はグラデーション表現などのいわば超絶技巧ではなく、個々の要素に分解すれば誰でも再現可能で、だからこそすごいと感じます。誰もができることを組み合わせ、あるいは一般的なモティーフや造形要素を構成することで、見たことのない新鮮なイメージや深いコミュニケーションをつくり出している。つまり、シンプルであってもアイデアに絵としての奥行きがあるのです。例えば、日の丸とサボテンの組み合わせは誰でも思いつきそうです。しかし、サボテンのとげが日の丸からも生えている、というのがアイデアの奥行きであり、このポスターを非凡なものにしています。このトゲは、切り絵でラフをつくっているときに、たまたまトゲが日の丸に落ちたのを採用したと聞きました。
この作品に限らず、私がアシスタント時代には絵をつくりながらさらなるアイデアをすくい上げる瞬間によく出会いました。それが、誰もが思いつくアイデアから佐藤晃一の一回限りの作品に飛躍する原動力なのです。
晩年の作品である扇のポスターも好きです。琳派400年を記念した21世紀琳派ポスターズという企画で、浅葉克己、奥村靫正、葛西薫、勝井三雄、佐藤晃一、永井一正、仲條正義、服部一成、原研哉、松永真さんらが出展していました。扇を繰り返し配したデザインで、村松さんから聞いたけれどたった40分で完成したのだそうです。キッチュでありながら同時に品格があり、おおらかでありながら緻密さも感じます。この作品に限りませんが、相反する性質を同時に成立させた稀有な仕上がりです。

 

村松 僕は多摩美でゑ藤さんのひとつ下で、大学の3、4年で教わりました。卒業後に一度就職してから、再び佐藤先生の下で2010年から2016年までスタッフとして働き、亡くなった後も事務所にしばらく残りました。僕も2年生のときにオープンキャンパスの公開講評で先生の話を初めて聞いてショックを受けました。「怖そうだなあ、でもやっぱり受講したいなあ」と葛藤して寝つきが悪くなったほどです。授業説明では、花に鼻、端、韓国語の「ハナ」を絡め「どうやって君たちに花を咲かせるのか」という話をしていました。学生から拍手喝采だったので、ゑ藤さんのときとだいぶ違いますね。
授業では、蛍光色で描いた入れ歯の絵を見せたところ、ノリノリで対応してくれました。佐藤先生はキッチュなものに対する引出しもたくさん持っていて、それまで抱いていた静謐な日本画調の絵を描くデザイナーというイメージが覆されました。3年次に叱られた記憶はほとんどなく、こうするともっとやばい感じなるよというこつばかり教わっていた気がします。
僕は、若い頃の作品ですが、雑誌『レコード・コレクターズ』の表紙が好きですね。それは晩年の「俳グラ」のようにラフにつくられているけど、「俳グラ」に比べて力がみなぎっているというか、肩肘を張りに張っているというか、そういう部分に惹かれているのかもしれません。また、同時期のポスターと比べても、悪ノリしながらつくっているように見えます。『草月』に関しても、海苔1枚をただ配置しただけの表紙を、古本屋で見かけたときは腰が抜けるかと思いました。こうしたナンセンスな作品は、代表作としては取り上げられないのですが佐藤先生らしさを感じさせます。
あとは「多摩美術大学博士課程展2006」でしょうか。大学の卒業式の日に構内で見かけて、立ち尽くした記憶があります。これからこの学校で面白いことが始まる、そのことがポスターから漂っているのにこの場を去らなくてはいけない。その名残惜しさが、佐藤先生のアシスタントになろうと思った動機かもしれません。
いずれも、ただ単純に見たこともないイメージが目の前にあるということ、そして、それを生み出す自由な心と、本当に楽しそうにデザインをしている姿に感動します。

 

―― 村松さんと比べてゑ藤さんのポスターは何が気になったのでしょうか?

 

ゑ藤 お説教されたポスターは、子どもとワークショップをしたときの彼らの絵をアレンジしてデザインしたものだったのです。今から考えると、自分のふんどしで勝負しないで、子どもの絵を持ち出してこれいいでしょ?という精神がまずかったのかなと。それ加えて、基本となるアイデアがないとか、情報伝達ができていないとか、タイポグラフィの扱いとか、中心から端っこまで全部ダメということだったと思います。

 

―― 仕事場ではどんな感じでしたか?

 

村松 今も思い出すのは、夕方になるとビールを飲まれるのですが、自分だけでなくて僕にも出してくれたこと。昔は机の下に一升瓶が置いてあったと聞いたことがあります。もっと若い頃はまったく飲めなかったそうです。僕らが目にしたのは長いキャリアのうちの最後の10年ということになります。お酒に限らず、先生の作品や仕事ぶりについても実感を持ってお話できるのは、ほんのわずかな部分です。

 

ゑ藤 大学での先生は厳しく、私も緊張していたのですが、事務所では非常にリラックスされていていつも機嫌がよかったことが印象に残っています。ちなみに私や村松さんの時代は常勤スタッフはおらず、名刺をもらってスタッフとして仕事をしていましたが、週2、3回事務所に行くという勤務形態でした。

 

―― 仕事の進め方はどうだったのですか?

 

ゑ藤 11時頃に事務所に行くとデスクに先生のスケッチや指示書が置いてあって、PCで作業を進めています。すると昼過ぎに先生がいらして、それぞれ背中合わせに席について仕事を始めます。しばらくすると先生が私の右側に座ってモニター上でデザインしていきますが、先生がモニターに触れてしまうので、擦筆(パステルや木炭で絵を描くときに使う道具)を用意して使っていただきました。村松さんのときは菜箸だったそうです。

 

―― 佐藤さんご自身がPCを扱うことはなかったのですね?

 

ゑ藤 はい。けれどもフォトショップを使っている際には、ブラシツールやトーンカーブなどの原理を熟知されていて的確な指示をくれました。私たちのほうが使い方や表現の可能性を先生から教わった感じです。

 

―― 佐藤さんとは以前、仕事をご一緒したとき、印刷校正で「シアンを何パーセント増やして」、「マゼンダを何パーセント減らして」と数値で指示されていたことが印象的でした。大抵のデザイナーは若干増やしてとか、気持ち濃くしてみたいな曖昧な表現をするのに対して、佐藤さんの指示の的確さには驚いたことを今でも覚えています。

 

ゑ藤 校正紙の赤字で、曖昧な書き方はしませんでしたね。印刷でできることを熟知していたし、経験値もありますから、具体的な指示ができたのだろうと思います。

 

―― お2人への的確な指示は印刷会社のそれにも通じますね。

 

ゑ藤 フォトショップは写真の暗室作業や製版作業をデジタル化したものだと考えると、先生が若い頃にエアブラシを使ったり、暗室で写真の仕事をなさっていた経験が基本にあったのだと思います。体験から得た知見があればこそ、私たちに対して無理難題を押し付けるのではなく的確に指示を出してくださり、予測と違った場合にはすぐに別の可能性を示してくれるので、仕事の上で負担や不満を感じるようなことはなかったですね。

 

村松 僕はトーンカーブの原理は先生から教えていただきました。トーンカーブはシアンやマゼンダといった色の階調のカーブをずらして色調を調整しますが、グラデーションの原理を応用して、仕組みをきちんと理解されていた。理性的、具体的な理解の積み重ねによって、先生は仕上がりを頭に描くことができたのだと思います。

 

―― 佐藤さん世代の方々は身体を通して学び知った知恵がベースにあるからこそ、デザインのツールがペンやエアブラシからPCに代わってもデザインに応用できた。PC世代はいきなりフォトショップのトーンカーブを使ってデザインします。両者の間には作品や発想の違いはあると思われますか?

 

ゑ藤 あるでしょう。先生はある程度こうすればこうなると予測したうえでデザインをしていたわけですが、自分も含めて私たちの世代はPC上で形を動かしながらデザインを決めていることが多い。緻密や計画や狙いがなくても進められると言うか……。ある意味、自分の意思が後手に回っていると言うことができるかもしれません。こね回しているけどなかなか定着させることができず、迷路に入り込んでしまうこともあります。

 

―― 亀倉雄策さんの元スタッフの方のお話ですが、亀倉さんはデザインを決めるまでは熟考されたけど、一度決めると何度も修正、変更することはなかったそうです。

 

村松 佐藤先生もはっきりとした構想に基づいて作業を進められていたと思います。

 

―― 1日の作業を終えたらその後はどうするのですか?

 

村松 一段落した時点でプリントアウトをします。先生は僕らがいない間にそのプリントを切ったり貼ったり修正を書き添えたりして改良案をつくる。それをまた僕らが加工するというアナログとデジタル作業を何度か繰り返して、最終的に完成させるという感じでした。

 

―― お一人でデザインを熟考するための時間と空間を確保されていたわけですね。

 

ゑ藤 そのお陰かいつも考えが明晰で、私たちスタッフも妙なストレスを感じることはありませんでした。

 

―― ご自宅は仕事場とは別だったのですか?

 

ゑ藤 はい。自宅とは別で、仕事場は本郷にありました。何度か引っ越していますが、常に本郷界隈だったと記憶しています。

 

―― お話を伺っていると、仕事は比較的ゆったりしたペースだったのですね。

 

ゑ藤 確かに。けれどもビックサイトで開催される「JAPAN SHOP」や「建築・建材展」 などの見本市のビジュアルデザイン、和菓子の叶匠寿庵のパッケージ、『季刊草月』や『インペリアル』などの機関紙、ADCやJAGDA、多摩美のポスターなどの仕事は定期的にありました。2015年までは多摩美で教鞭も執っていらっしゃいましたし。 それに私がいたときは、安西水丸さん、若尾真一郎さんと一緒に、それぞれ自作の言葉や俳句にグラフィックスを添えて掛け軸に仕立てる「俳グラ」というプロジェクトに取り組んでいて、遊び心満載のグラフィック作品を14,5点くらい創作し、展覧会も開催し、とても充実されていました。

 

村松 僕のいたころは機関誌などの定期的な仕事は終わっていて、単発で依頼されるポスターの仕事が多かったです。また、ギンザ・グラフィック・ギャラリーでの「佐藤晃一ポスター展」や「多摩美術大学退職記念 佐藤晃一展」といったキャリアを振り返る展覧会が幾つかあり、僕は展覧会に向けてポスターを整理したり、作品集をまとめたりしていました。

 

―― すでにアーカイブ作業に取り組んでおられたのですね。お2人は事務所に行かない日は、ご自分の仕事をなさっていたのですか?

 

ゑ藤 私は学生だったので自分の研究や創作をしていました。

 

村松 僕はフリーランスで、自分の仕事をしていましたね。

 

 

答えのない問い

 

―― お話を伺っていると、事務所での佐藤さんはデザインについて師匠として教授するというよりもプロセスを共有しながら自然に伝えておられたのですか?

 

村松 そもそもそういう意識があったのか、なかったのか。

 

ゑ藤 たまに具体的に教えてくれることもありました。私の場合は大学で厳しかったのに、事務所では優しいなあとちょっと拍子抜けしましたね。村松さんのときは?

 

村松 僕は卒業からスタッフになるまでにタイムラグがあったし、スタッフ時代にときどきフリーの仕事を見ていただときには学生時代同様とても緊張したものです。大抵の場合、昼間は褒めてくれるのですが、夜ビールを飲みはじめると鋭く批評し直されることが多かった。今思えば、夜の方が本音だったのかな……と。

 

―― どんなことをおっしゃるのですか?

 

村松 それが色や形といったすぐに解決できるような具体的なことよりも、もっと根本的なこと、デザインに対する思考や姿勢のようなことのほうが多かったです。僕は未だに先生からの宿題が残っています。

 

ゑ藤 そうです。佐藤先生の指摘は具体的なことではなくて根本的な問いが多い。私たちに永遠の問いを発して去っていくという感じ。でもそのお蔭でデザインを続けるモチベーションが保たれているようにも思います。

 

―― 佐藤さんご自身は「デザイン=生きること=遊び」のような人だったのですか?

 

ゑ藤 ある意味そうだと思います。「箱シリーズ」や「俳グラ」のようなアートワークのような仕事はもちろんですが、むしろ実際の仕事でこそ真剣に遊んでいたように感じます。多摩美の博士課程展の一連のポスターなどは、年を追うごとにタガが外れていくようでいつも楽しみにしていました。意外なところではテレビ好きだったということ。お父上がNHKに勤めておられたことも影響しているのか、自然科学系のドキュメンタリーをよく観ていて、事務所で話してくださいました。

 

村松 僕のときも作業中にテレビの話題がのぼっていましたね。ドキュメンタリーだったか、あまりべたべたしていない内容だったと記憶しています。

 

―― 環境問題や自然、子どもや平和といった社会的メッセージを発するデザインなどに対してはどうでしたか?

 

ゑ藤 そのようなテーマに対して声高に主張したり、積極的に活動することはありませんでした。もちろんそうした内容のポスターもデザインしていますが、メッセージを一義的に伝えるだけではなくて、見た人の感性を揺さぶり思考を促すようなデザインを目指していたと思います。

 

―― エッセイや評論といった文章はどうですか?

 

ゑ藤 自分から進んで書いていたという記憶はありませんが、ご自身の本や図録のための文章を書かれていましたね。

 

村松 若い頃は『ミュージック・マガジン』で連載をもっていました。長い間俳句に熱中していましたし、学生時代には詩も書いていたようです。

 

―― 写真はいかがでしたか?

 

ゑ藤 晩年は自分で撮影した写真をスケッチブックに貼った、手づくりで作品集をつくっていました。2枚の写真を組み合わせるという簡単な操作で、そこに詩的な何かが立ち上がる様にはいつも驚かされました。20冊近くは制作したと思います。

 

村松 学生時代には写真部に入っていて、東京藝術大学の卒業制作は写真にしたかったけど許されなかったそうです。その頃、暗室の作業をしていたのでソラリゼーションなど写真や現像の仕組みをポスターに応用したり、フォトショップの知識もあったのだと思います。

 

―― 最近は手を使ってデザインをする機会が少なくなってきていますが、佐藤さんは手作業にこだわっていらしたのでしょうか?

 

ゑ藤 実際はそうなのでしょうが必要以上に手作業を重視したり、無駄に労働することに価値を置いていなかったと思います。先生は全部ご自身でつくっていましたが、作業自体が目的化することに対しては厳しかった。

 

村松 ただ、若かった頃、エアブラシを使っていた時代は徹夜もしていたようです。徹夜をしない、ドロドロにならないというのは、晩年だったからかもしれません。

 

―― 今までのお話を伺っていると、佐藤晃一さんは天才的な方で、最初から仕上がりを想像できていたということでしょうか?

 

ゑ藤 そうではないと思います。予定通りに仕上がることを目指していたのではなく、ある程度までは予測しているけれど、むしろプロセスのなかでデザインが飛躍することを楽しんでおられた。

 

村松 発明に近い感覚なのでしょうか。

 

ゑ藤 確かに発明ですね。最初から予想できるならやらない。

 

―― 他に佐藤さんの仕事ぶりで記憶に残っていることはありますか?

 

ゑ藤 私は佐藤先生のロゴやシンボルマークのデザインが好きで、こんな引出しもお持ちなのだと感心しました。ポスターもある意味シンボルなので当然上手なわけですが、ポスターよりもさらに力強く、野性味のあるデザインに惹かれます。

 

村松 アーカイブという点からいうと、先生はエアブラシでつくったグラデーションや版下原稿もきれいに残していました。例えば、作品Aと作品Bの版下を組み合わせて、新しく作品Cを生み出すこともあったようで、そのために過去の仕事の版下を残しておく必要があったのです。リミックス的な手法ですが、エアブラシは手間がかかるので簡略化された第2の制作プロセスを用意していたのではないかと。僕がいた頃にはエアブラシは使っていなかったこともあり、昔の仕事や版下を引っ張り出してきてスキャンして再利用していました。

 

―― 最後に、お二人にとって心に残る、とっておきの話を伺いたく。

 

ゑ藤 私の苗字は本来「衛藤」なのですが、「ゑ」を使うきっかけは佐藤先生です。それは先生が大きな手術を受ける直前でした。会いに伺ったら「君と出会ったときから衛藤君の名前はよくないと思っていた。特に衛がよくない。僕は考えたよ……」とおっしゃるのです。そのときは冗談かと思っていたのですが、それが先生とお会いした最後になりました。その真意を考えたところ、以前「君は弥生的な感性の持ち主である」と指摘されたことを思い出しました。それは洗練されて美しくてよいことでもあるが、同時に淡白でつまらないということでもあるのです。ちょうど私が独立した時期でもあり、先生が「殻を破れ」と背中を押してくれているのではないかと考えて、「ゑ」という火炎式土器のような渦巻く文字を取って「ゑ藤」と名乗ることにしました。

 

―― 本名を変えたということですか?

 

ゑ藤 仕事のときだけ、いわばペンネームです。それから手術後に電話をしたら、「おもしろい帽子をかぶるとか、派手な髪型にするとか……」というアドバイスをいただきました。「殻を破れ」にしては表層的な気もしますし、この真意はいまだに不明です。

 

―― 確かに、派手は格好をするにはパワーが必要だし、ある意味で殻を破ることに通底しているかもしれませんね。そういうことをおっしゃりたかったのでしょう。佐藤さんご自身も晩年のポートレイトも奇抜なものが多いような気がします。

 

村松 僕は自分の仕事を見せた際に言われた「良くできていると思う。でもそのことが気に入らない」という言葉です。「このデザインであれば、もちろんクライアントは大満足でしょう。でも違うんですよ。デザイナーの本当の仕事はクライアントの想像を超えた美を提示することです。君はいつまでこういう仕事を続けるんですか?」と。まるで呪いですが、今もその言葉を心にとどめて仕事をしています。

 

ゑ藤 確かに呪いだ。

 

―― でも、ありがたい呪いですね。デザイナーから想像を超えたギョッとするようなデサインを提案されると思わず絶句してしまうけど、同時にワクワクするし、仕上がりも楽しい。佐藤さんはお2人に「もっとできるはずだから」と激励してくださったのでしょう。

 

ゑ藤 先生の性格からいって、どうでもよければあえてきつい言葉をかけることもない。技術の前に人間が変わらなければならないということなのですね。

 

―― デザインは人格。小手先ではだめということですね。

 

ゑ藤 頭だけで考えたことを言われてもピンときませんが、先生のように頭も手も一流の人から言われると納得せざるを得ませんね。

 

―― 引き続き佐藤さんのアーカイブのその後については、現在所蔵されている多摩美のACCに伺いたいと思います。本日はありがとうございました。

 

 

 

佐藤晃一さんのアーカイブの所在

多摩美術大学アートアーカイヴセンター https://aac.tamabi.ac.jp

 

HEARING & REPORT

どうなっているの?
この人たちのデザインアーカイブ

What's the deal? Design archive of these people

インテリアデザイナー

倉俣 史朗  1934年生まれ*

北原 進   1937年生まれ

大橋 晃朗  1938年生まれ*

内田 繁   1943年生まれ*

杉本 貴志  1945年生まれ*

植木 莞爾  1945年生まれ

北岡 節男  1946年生まれ*

藤江 和子  1947年生まれ

飯島 直樹  1949年生まれ

調査対象については変更する可能性もあります。

調査対象(個人)は、2006年朝日新聞社刊『ニッポンをデザインしてきた巨匠たち』を参照し、すでに死去されている方などを含め選定しています。

*は死去されている方です。

 

FORMAT MAKING

作品や資料をどのようにアーカイブすればよいか?
共有することを目的とする

How do I archive my work and materials?