日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

宇賀洋子

インダストリアルデザイナー

 

インタビュー:2017年12月19日16:00~17:30
場所:宇賀デザイン研究所
取材先:宇賀洋子さん
インタビュアー:関康子(大縄茂さん)
ライティング:関康子

PROFILE

プロフィール

宇賀洋子 うが ようこ

インダストリアルデザイナー

1932年 3月、東京生まれ
1955年 千葉大学工学部工業意匠学科卒業
    理研光学工業(現リコー)企画室入社、のち設計部へ
1957年 松下電器産業(現パナソニック)中央研究所意匠部入社
1963~64年 JETRO海外デザイン研究生として、
      英国 Hornsey college of Arts & Craftsに在籍
1965年 工業デザイナー宇賀洋子研究室設立
1992年 有限会社宇賀デザイン研究所に改組
2005年 研究所解散

武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科助教授、
千葉大学工業短期大学部工業意匠学科非常勤講師、
日本インダストリアルデザイナー協会会員、理事、副理事長、
日本デザイン学会会員、理事など

宇賀洋子

Description

前文

日本のインダストリアルデザイナーの多くは、企業に属するインハウスデザイナーだ。彼らは戦後の日本の経済成長とともに増加し、現在では車や家電といった製品デザインに加えて、事業計画やブランディングなど多様な領域に関わりながら、企業経営にも深くコミットするようになっている。宇賀洋子が千葉大学を卒業してデザイナーとしての一歩を踏み出した頃の日本は、まさに経済復興を背景にさまざまな産業が興り、同時に外国の物まねではない日本独自の製品やデザイン開発に対する自覚が芽生えつつある時期だった。宇賀は「デザイン学 研究特集号」に掲載したコラムで以下のように述べている。「日本のデザイン活動は、明治開国から始まり、欧米に見習うことに徹しながらも、徐々に、独自の模索をし続けてきた。しかし、日本のデザイン運動が本格化し始めたのは、第二次世界大戦後といってよい。中略 レイモンド・ローウィが来日し、日本専売公社のピースのパッケージのデザインを行なって、デザインの話題を最初に一般的なものとしたのは、1951 年であった。それから1960 年までの10 年…、 ’50 年代のデザイン活動が、日本のパイオニアの時代といえるのではないか」。
宇賀は戦後のインダストリアルデザインの発展とパラレルに歩みながら、働く女性、女性インダストリアルデザイナーのパイオニアとして、その地位の向上と確立にも貢献してきたのだ。大学卒業後インハウスデザイナーとしての経験を積み、英国留学を経てフリーランスとなった宇賀は、学研の科学雑誌付録のデザインに始まり、キッチン用品、眼鏡フレームなどのデザインを行うかたわら、1952年に設立されたJIDA(日本インダストリアルデザイナー協会)の活動にも積極的に参加し、JIDAが取り組むデザインアーカイブ関連事業にも少なからず影響を与えている。

Masterpiece

代表作

・毎日新聞社主催第6回新日本工業デザインコンクール(1957)
 (課題:ナショナルテレビ 特選一席 通産大臣賞受賞)共同制作者:鶴岡英世、石川弘
・ プッシュボタン式テープレコーダー RQ-302(1958)
 松下通信工業(現パナソニックモバイルコミュニケーションズ)
・ ナショナル家庭用足踏みミシン(1960)松下電器産業(現パナソニック)
・ 学研 月刊雑誌『○年の科学』の付録デザイン(1965~1972)学習研究社 KAKと共同
・ グリルパン“ヨートー・ハイブラックシリーズ”(1974)袴田金属工業
・ ニコンフレーム(1990)ニコン
・ ニコンペンダントルーペ(1994)ニコン

 

書籍

・ 工芸ニュース 1971 Vol.39-2 寄稿:「デザインのライフサイクル」—その実態調査から—
・『工業デザイン全集」理論と歴史1』(1983)日本出版サービス
・『ニッポン・プロダクト―デザイナーの証言、50年!』(2005)美術出版 木村一男ほかと共同監修

宇賀洋子作品

Interview

インタビュー

デザインは新しい仕事だったので、
自由に仕事ができました

女性インダストリアルデザイナーのパイオニア

 宇賀さんは、戦後の働く女性の第一世代であり、また同時に女性デザイナーが活躍する場を切り拓いてこられました。あの時代にデザイナーを目指すきっかけは何だったのですか?

 

宇賀 当時学制が6・3・3・4制に改定され、旧制高等女学校を5年で卒業し、プラス1年で新制高校を卒業しました。現在もそれほど変わっていませんが、その頃の日本はかなりの男性中心社会でした。私は第二子で次女だったので小さい頃から「男子ならよかったのに」と言われて育ち、いつも「男子に負けないぞ」と思っていました。母も姉も上の学校に行っていたし当然進学するつもりでしたが、どういうコースに進むかは決めかねていました。そんなとき1951年千葉大学工学部に工業意匠学科が創設され、ここで学べば女性でも活躍できる仕事に就けるのではないかと感じて受験しました。とはいえ、『工業意匠学科』が何たるかを理解していたわけではありませんでした。

 

 大学に入って初めてデザインに触れたという感じですか?

 

宇賀 そうです。当時の日本は敗戦の痛手を背負いながらも産業の復興に邁進すべく、製品の意匠、今でいうデザインに対する認識が芽生えつつある時期でした。1951年に松下幸之助が米国視察後、松下のデザインの核となる人物を求めて千葉大学から真野善一先生を招聘し、翌年には日本インダストリアルデザイナー協会が創設され、57年には当時の通商産業省がグッド・デザイン商品選定制度を設置。このような時代だから、家電製品などでは女性の目線も大切だろうということで、女性デザイナーへの需要が生まれつつあったのです。

 

 なるほど、一方大学のデザイン教育はどのようなものだったのですか?

 

宇賀 学生たちにいかにインダストリアルデザインを教えるべきか、デザイン教育については試行錯誤の状況だったように思います。そのようななか、小池新二先生からは海外のデザイン情報を中心に理論や歴史を原書で学び、山口正城先生からは形態構成演習を、非常勤講師で後に松下電器産業の意匠部長に就任された真野善一先生からは、工業意匠演習を通してスケッチや絵具の使い方などを教えていただきました。先生の実演ぶりに感心したことを憶えています。

 

 学生時代はどのように過ごしていたのですか?

 

宇賀 入学して2年間は一般教養科目が中心で経済学、法学、心理学などに興味が引かれました。他の学科生と合同の科目もあり、工学部180名のうち女性は2人。専門科目では、小池先生の講義でニコラス・ペブスナーの原書『ウイリアム・モリスからウォルター・グロピウスまで』を使った授業は新鮮でした。また演習では、山口先生の形態構成で、バランスや美の感覚トレーニングができたと思っています。3年次には工場実習制度があり、夏休みに各自希望を出してフリーランスの事務所などで学びました。現在の大田区下丸子に通産省が管轄する産業工芸試験所があってデザイン開発に関わるさまざまな実験、指導、支援活動をしていたので、私は豊口克平先生が室長を務める機能実験室で実習し単位をいただきました。ほかの人たちは意匠部で外国製の参考品を分解して図面化する実習していたと記憶しています。

 

 このような教育を受けて、インダストリアルデザイナーを目指すようになったのですね。

 

宇賀 当時は産業復興が大きな目標ですから、良い製品をいかに効率的に大量に生産するかということが追求されていましたが、私は機能実験室での実習経験を経て性別やさまざまな体格にもアジャストできるものや、不便なく使える製品をつくることが重要だと思っていました。

 

 卒業後は理研光学工業(現リコー)に入社。配属された企画室、設計部ではどのような仕事に携わったのですか。

 

宇賀 当時のリコーはカメラ部門と感光紙部門があり、デザイナーは企画室長直属でした。私は1年先輩の野中宏親さんと2人で、デザインと名のつくモノ・コト、たとえばイベントのディスプレーや会場のデザイン、コーポレートマークやロゴタイプのデザイン、車内吊り、製品パッケージ、取扱説明書、宣伝カーやカメラのデザイン、新発売の複写機のデザインなど何でもやらせてもらい、毎日がとても楽しかったし夢中で取り組みました。
一方この頃、1955年からJETRO(日本貿易振興機構)による「産業意匠改善研究員 海外派遣制度」で公募試験による研究員制度、翌年からは通産省などが実施する「外国意匠専門家等招聘制度」が発足して第一回目に招聘されたのが、アメリカのアートセンタースクール(Art Center College of Design)のアダムス校長以下4名のデザイナーでした。私はその講習会にどうしても参加したく、上司の許可を得て受講しました。そこには当時活躍中の方々がたくさん参加されていて、貴重な勉強の機会を得ることができました。

 

 リコー時代はとても充実していたということですね。

 

宇賀 リコーに入社して2年あまり、上司、先輩、同僚、また仕事にも恵まれていましたが、一方ではもっと本格的に製品デザイに取り組みたいと考えるようになりました。その頃松下電器では、アメリカのGEのデザインセンターを見習ってデザイン総合センター構想が計画されており、「女性のデザイナーが必要」との話があり、また千葉大から移った真野さんが意匠部長を務めておられたというご縁から転職することに・・・。

 

 良いタイミングで松下に転職できて、恵まれた状況だったのですね。

 

宇賀 とにかく女性デザイナーが求められていたのだと思います。けれど入社してみるとデザイン総合センター構想は消えていて、各事業部にデザイナーが配属され、製造とより密接にデザインすることになっていました。私の所属した本社の中央研究所意匠部は、新規事業などでデザイナーが配属されていない部署の仕事を受けることになっていて、冷蔵庫、テープレコーダー、ミシンなど幅広くデザインを担当しました。

 

 仕事上で、女性だから・・・ということで、不自由を感じたことはありませんでしたか?

 

宇賀 当時、デザインは新しい仕事でした。だから、「男社会」のしがらみとか前例といった縛りが少なく、周囲の人たちにも恵まれて、結果的にはとてもよい仕事に就くことができたと思いました。ただし、お給料など待遇面では男性よりもかなり低かったので、リコー時代は労務・経理のトップに直接その理由をたずねたり、また松下電器では会社と契約している労働組合の仲間たちと一緒に改善を求めたりもしてきました。

 

 その後、英国に留学されるわけですが、どのようなことを学ばれたのですか?

 

宇賀 英国ではRCA(Royal College of Arts)がデザイン大学院大学として知られていますが、手続きや入学試験のタイミングに問題があり、私はHornsey college of Arts & Craftsの大学院生として在籍し、個別に担当教官のアドバイスを受けることになりました。
渡英前に小池新二先生からCoID(Council of Industrial Design)とデザインセンターの活動を通して英国のデザイン振興政策につて調査するようアドバイスがあり、そこのトップ、ポール・ライリー卿への紹介状をいただきました。そのおかげで在学中はCoIDの各部課長に直接お会いして説明を受け、その方針・役割・手法などの理解を深めることができたのです。CoIDは英国で初めて国のデザイン振興政策の一環として商務省傘下に創設された機関。その展示場はロンドンの中心に1956年にデザインセンターとして開設されました。その後、1950から60年代には欧州各地や北米・豪州でも、ここを手本とした機関が設立されました。日本の「ジャパンデザイン・ハウス」、「大阪デザイン・ハウス」もその流れに沿うものでともに1960年に設置されました。
またCoIDでは常時専門委員会でデザイン選定が行われていて、選定品はデザインセンターに展示されています。展示方法もユニークで、選定された製品群がまるで住空間のようにコーディネートされて提示されていました。デザインセンター内のDesign Indexコーナーには、現時点で生産販売されている選定品の情報(発売年、価格、デザイナー名、メーカー名など)がカード化されて誰もが閲覧、利用できました。こうした経験を通して英国製品のデザイン寿命の長さと、英国人の保守性と革新性の同存の面白さや英国デザインの奥深さを感じ、帰国後同じテーマで日本のGマーク商品の調査につながったのです。

 

 帰国後は企業に属さず、独立されましたね。

 

宇賀 1965年2月に帰国しフリーとして工業デザイナー宇賀洋子研究室を立ち上げ、同年8月からKAKと一緒に学研の子ども向け雑誌『〇年の科学』などの付録のデザインを手がけました。それと並行して9月には豊口克平先生の紹介により武蔵野美術大学・短期大学部での非常勤講師、翌年には同生活デザイン学科専任講師、その後助教授として教育活動にも力を注ぎました。そのひとつは、英国留学で研究テーマであった「デザインのライフサイクル」で、日本の実態調査をしようと、学生と調査して1971年発行の工芸ニュース第2号で、「デザインのライフサイクル −その実態調査から− 」と題して発表しました。調査対象はGマーク選定商品(自動車、家電、生活用品など全447製品)でしたが、英国と比較すると当時のミニスカートの流行期間どころか1年毎にデザインを変える短さで驚いきました。これには後日談があり、2013年にポーランドから、この記事をロシア語訳で読んだが原文で読みたい旨の問い合わせがあり、40年以上も経ってこのようなことに関心をもっていることに感心しました。話は戻りますが、助教授当時は学園紛争が盛んで、私も思うところがあり大学を辞めました。

 

 デザイン事務所ではなく研究室というネーミングにしたのには、何か理由があるのですか?

 

宇賀 私は製品のデザインだけでなく、その製品の背景や求められる機能などを基本的に考え、データやグラフにまとめて分析する研究活動にも興味があったので、そのような名前にしたのかもしれません。

 

 その後、1992年に有限会社宇賀デザイン研究所として会社組織化されましたが、宇賀さんの代表的な仕事というとどのようなものになりますか?

 

宇賀 組織は法人化しましたが、インダストリアルデザイナーとしてのデザインのスタンスや作品づくりに何ら変わりなく、クライアントとも長いお付き合いができたと思っています。学研の仕事はKAKの秋岡芳夫さんからお声がけいただき、その後1965年から72年かけては事務所の仲間も増えて、グリルパンなどのクッキング用品からテーブルウェアなどのデザインに携わりました。1973年からはニコンの仕事が始まり、同社初のメガネフレームのデザインするに際には基礎研究から取りかかり、とくにシニア向けメガネはかけ心地などを徹底的に研究して、シンプルな構造で超小型・超軽量を実現してロングセラー商品となりました。その後もシニア向けの眼鏡の市場調査を進めて、普段はネックレスのような佇まいのペンダント式ルーペなども提案し、こちらもロングセラーに。そのほか、体重計などの健康器具、さまざまな生活用品、調査研究などの仕事も工業デザイナー宇賀洋子研究室時代から続けています。

 

 宇賀さんは若い頃から「体型や性別をカバーするためアジャストできて、使いやすい製品のデザインをしたかった」とおっしゃっていましたが、まさにシニアや女性といった立場の人たちのためのデザインを開発しておられたのですね。

 

宇賀 そうですね。この考えは、大学時代から一貫したデザインテーマでもあります。たとえばメガネのデザインでは、単にファッション的なデザインを提案するだけでなく、欧米人と日本人の骨格の違いを調査し使いやすさや・フィット感・小型軽量化などにも挑戦してきました。

 

デザインアーカイブについて

 

 さて、女性インダストリアルデザイナーの草分けだった宇賀さんのデザインアーカイブについて伺いたいのですが、製品や図面、スケッチや資料などの現状はどのようになっているのでしょうか?

 

宇賀 ご覧の通りです。(室内に無造作にたくさんの段ボール箱が置かれている)リコーや松下時代の資料はほとんどなく、事務所を解散した2005年以前のスケッチや図面などの資料は、とりあえずプロジェクトごとにダンボール箱に収めていますが、手つかずのままドッサリと保管しています。事務所を解散した後もクライアントからの問い合わせもあり、その都度資料を出してみるもののアーカーブとして整理するには至っていません。箱に納めた膨大な資料を目前に途方に暮れていますが、どうにかしなければならないという気持ちはあります。今は長年関わっているJIDAに関係する資料だけでも整理しなければと、大縄さんはじめJIDAの皆さんと一緒に少しずつ始めています。

 

 宇賀さんは、JIDAのメンバーとして出版事業やデザインアーカイブにも携わっておられますね?

 

宇賀 2002年にJIDA創立50周年の記念事業として、美術出版社より刊行した『ニッポン・プロダクト デザイナーの証言、50年』は、私と木村一男さん、大縄さんなどJIDAメンバーが監修してまとめました。

 

大縄 この活動を通してプロダクトデザインの黎明期やJIDA発足当時の様子、またビッグネームの方々についてのさまざまなお話を宇賀さんや木村さんから伺えたことは、編集作業とは別の楽しさがあり、活動の支えとなりました。

 

 私も拝読しましたが、インダストリアルデザイン史上で欠かすことのできないエポックメーキングやエピソードが満載で、アーカイブとしても貴重な本だと思います。

 

宇賀 当時のスケッチや図面、写真なども満載で編集作業は大変でしたが、副タイトルにもあるように「ものづくりの原点とヒントに満ちたデザイン・サクセスストリー」であり、これからのデザインへの示唆に富んだものになったと思います。

 

 今はWEBマガジンになっていますが、以前発行されていた機関誌『インダストリアルデザイン』も戦後の日本のデザイン史を語る貴重な資料ですね。また1997年に開館した「JIDAデザインミュージアム」や、今年で20年を迎えるその年度の優れたインダストリアルデザインを選定する「JIDAミュージアムデザインセレクション」事業などは、まさにデザインアーカイブ事業ということもできるでしょう。JIDAのデザインアーカイブ事業は取材させていただき、当WEBにアップしていますので詳細をご覧いただきたいと思います。ところで先ほどJIDAに関する資料の整理とおっしゃっていましたが、どのようなものなのでしょうか?

 

宇賀 事務局に永年保管されていたJIDAの歴史資料の整理をミュージアム委員会が引き受けることになり、ミュージアム活動でいう二次資料として扱うことにしました。多量の作業はデザインミュージアム委員だけでなく多くの学生ボランティアも巻き込み10年以上にわたって続けています。

 

大縄 現在リストづくりはほぼ終わっています。それらにはJIDA機関誌の原稿や多くのデザイン世界会議資料、またスナップ程度ですが写真や音声なども含まれています。日本のデザイン草創期からの様子を知る貴重なものです。後はこの資料をどのように活用し、新たな研究や発見につなげるのか、これからの人たちへ期待したいところです。

 

 大縄さんは時折宇賀さんの仕事場に来ておられるようですが、資料の整理などのお手伝いもされているのですか?

 

大縄 私は主に宇賀さんの事務所に保管されているJIDAに関わる資料整理をメンバーと一緒に行っています。宇賀さんは研究者肌の方なのでデザイン資料だけでなく、JIDAという組織について、たとえば会員数の推移や動向など、いろいろな視点で客観的に分析されています。私はこれらを年表やグラフ化し、視覚的にわかりやすくなるような資料を作成しています。

 

 この調査でも、多くのデザイナーは目前の仕事を優先してしまい、アーカイブの整理まではなかなか手が回らないとおっしゃっています。ただ、資料の取捨選択はご自身しかできません。日本のインダストリアルデザインの草創期を体感し、女性デザイナーとしての道を切り拓いてこられた宇賀さんの資料は貴重だと思いますので、何とかまとめていただければと願います。本日はありがとうございました。

 

 

文責:関康子