日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

梅田正徳

プロダクトデザイナー

 

インタビュー:2021 年 6 月 2日 14:00 ~ 16:00
場所:ウメダデザインスタジオ
取材先:梅田正徳さん、菜々絵さん
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜

Profile

プロフィール

梅田正徳 うめだ まさのり

プロダクトデザイナー
1941年 神奈川県生まれ
1962年 桑沢デザイン研究所リビングデザイン科卒業
1964年〜66年 河野鷹思のデザイン事務所「デスカ」でインテリアデザインを担当
1967〜69年 渡伊、A&PGカスティリオーニ事務所勤務
1970〜79年 オリベッティ社のコンサルタントデザイナー
1980年 ウメダデザインスタジオ設立

梅田正徳

Description

概要

梅田正徳といえば、すぐにあの紫の花の椅子「月苑(キキョウ)」が思い浮かぶほど、世界的に知られている代表作がある。これは1988年に「KAGU東京デザイナーズウィーク’88」展で発表されたもので、同会場には、倉俣史朗の「ミス・ブランチ」も展示された。それについて、のちに梅田は、「花をモチーフにするなんて誰もしないだろう、と勝手に思っていたのだが、意外なことに『花』が並んでいたことを印象深く覚えている」(『デザイン国際化時代のパイオニア』武蔵野美術大学美術資料図書館、2005)と語っている。「月苑」と「ミス・ブランチ」に共通するのは、そこには「機能性を越えた根源的な喜びと美」を探求しようとするデザイナーの気概が込められていることだ。
数々の日本人デザイナーがイタリアで修行した60年代、梅田は1967年に渡伊し、カスティリオーニ兄弟の事務所で研鑽を積んだ。1968年の27歳のときに「可動供給装置」でブラウン大賞を受賞し、一躍頭角を現した。1970年からはオリベッティのコンサルタントデザイナーに抜擢され、当時、同社の最高顧問だったエットレ・ソットサスのもとでオフィス家具の開発に携わった。
1979年に帰国し、照明器具やテーブルウェア、家具、インテリアデザインなどを手がける一方で、ソットサスの声がけによりメンフィスの活動にも参加し、1981年に西洋の素材と日本の畳を融合させた「TAWARAYA」を発表してセンセーションを巻き起こした。梅田のデザインは、それまで具象的でストレートな表現が物議を醸すこともあったが、帰国後は次第に日本人の心に根差す「自然観」を追求し、動植物をモチーフにしたデザインが増えていく。その中で花座シリーズは、イタリアのミラノサローネの期間、エドラ社の会場に30年間毎年展示され、特に海外の美術館で多数コレクションされるなど、国際的な評価が高い。梅田の花座シリーズは、本人が意識しているかどうかはわからないが、経済性や効率性が追及される現在のデザイン界にあって、「デザインは今のままでいいのか?」という問いを投げかけているかのようである。
これまでの貴重な作品の数々が香港のM+に所蔵されたと聞き、梅田さんとアーカイブの整理をサポートされている長女の菜々絵さんにお話を伺うために、スタジオを訪れた。

Masterpiece

代表作

プロダクト

「GEMINI」オノラト(1970)、「可動供給装置(※キッチンが製品化)」(1975)、「スタートレイ」日南(1982)、「ムツゴロウ」山加商店(1984)、「ウメダスタンド」ヤマギワ(1986)、「屋外照明ランドルーチェ」岩崎電気(1989)、「NIGHT&DAY」日南(1985)、男女別オフィストイレ「X-SPACE UM」INAX(現・LIXIL、1986)、「OMBRA/SHELL/COMBI」丸富漆器(1997)

 

家具

「シンテシス45」エットレ・ソットサス+梅田正徳、オリベッティ(1975)、「TAWARAYA」メンフィス(1981)、「GINZA」メンフィス(1981)、「アニマル」アルテジャパン(1982)、「メドゥーサ」アルテジャパン(1982)、「月苑(キキョウ)」エドラ(1990)、「浄土(ハス)」ウメダデザインスタジオ(1988)、「早春(ウメ)ロースツール」エドラ(1990)、「ローズ」エドラ(1990)、「UTAMARO」シリーズ、メンフィス(2021)

 

インテリア

「アートコレクターの自邸の部屋」(1974、イタリア)、「フィオルッチ・レッドゾーン」西武百貨店(1983)、「MGプラネット」松屋(百貨店グループ)(1986)、「ドムドム・バーガー」ウェンコ・ジャパン(1986)、「きものやまと」やまと(1986)、「住友銀行店舗」住友銀行(1987)、「日本ゴアテックス オフィス」日本ゴア合同(1990)、「トマト銀行」トマト銀行(1990)、「新岐阜駅」名古屋鉄道(2000)、「ウメダデザインスタジオ」ウメダデザインスタジオ(2018)

 

梅田正徳作品

Interview

私の目標は、ミュージアムコレクションなんです。
美術館に収蔵されれば、自分が死んでもずっと残るわけですから。

 

作品や図面の大半は、M+に

 まず、アーカイブについて伺います。梅田さんの作品や図面の大半は、現在、香港のM+に収蔵されているそうですね。収蔵された時期や点数、内容物について教えていただけますか。

 

菜々絵 時期は2015年で、計174点を買い上げていただきました。内容物は、プロトタイプ、製品、スケッチ、図面、模型、雑誌の記事、製品のパンフレット、そして、父がブラウン大賞を受賞したときの電報なども含まれています。

 

 どのような経緯でM+に買い上げてもらうことになったのですか。

 

菜々絵 2014年秋頃に内田デザイン研究所の方から、M+のキューレーターが父の作品を探していて、私たちにコンタクトをとりたいとご連絡をいただきました。数日後、父と一緒にそのキューレーターとお会いしてM+の考えをお聞きしたところ、彼らはアジア全体のアートの流れを大きな川のように捉えていて、アーカイブにはファインアート、写真、デザイン、建築の分野があり、それぞれにキューレーターがいて多国籍のメンバーで構成されているとのことでした。父は中国らしい大陸的なスケールの大きさと、多国籍のメンバーということにも興味を抱いていました。「ぜひ作品を見せていただきたい」と言われたので、父も私も快諾して、家に集められる限りのものを集めて見ていただき、最終的に私たちが所有していたほとんどすべてのものを買い上げていただきました。

 

梅田 あのときは、驚きましたね。ただ、ブラウン賞を受賞したモバイルシステムユニット「可動供給装置」の模型は、2年間ほど巡回展示をしていた間にぼろぼろになってしまって、補修もできないので処分してしまい手元に残っていませんでした。

 

菜々絵 そのことをキューレーターにお話しすると、「それもアーカイブとしていただきたいので、模型を新たにつくっていただけますか」とおっしゃるので、新たに製作してそれも買い上げていただきました。現在、M+ではウェブサイト上でアーカイブデータを公開しています。オーラル・ヒストリー・アーカイブも始められたとのことで、昨年、父はメンフィスでデザインした「TAWARAYA」についてインタビューを受けました。2時間の予定だったのですが、最終的に3、4時間ほどお話しさせていただきました。
ところで、NPOデザインアーカイブのウェブサイトを拝見したのですが、大橋晃朗さんの記事中に、お嬢様がM+に図面等を寄贈されたと書かれてありました。父は大橋さんと、とても仲がよかったんです。

 

梅田 桑沢で同級生だったんですよ。その桑沢でわれわれは篠原一男さんから建築のことを教わりました。大橋君はちょっと変わった男でしたけれど、お互いに同じような性格でね。1988年に開催された「KAGU東京デザイナーズウィーク’88」展のときに数年振りに会って、「今度、何か一緒にやろうよ」と言っていたのですが、残念ながら先に亡くなってしまいました。

 

菜々絵 父はお互いの作品が同じM+に収蔵されたことを喜んでいました。大橋さんがご生前のときは実現できませんでしたけれど、M+でいつか何かのかたちで一緒に展示されることを願っています。

 

 私(関)がアクシスに在籍していた頃に開催されたKAGU展のことを今でもよく覚えています。アクシスギャラリーアネックスに梅田さんの「月苑」と倉俣さんの「ミス・ブランチ」が一緒に展示されて、あの空間だけほかとまったく違う空気に包まれていました。その展覧会のときに倉俣さんと話されましたか。

 

梅田 会場でお会いしなかったので、話はしていません。倉俣さんが亡くなったのは、とてもショックでしたね。今でも彼が仕事をしていたら、お互いに刺激になって、われわれの分野ももっと広がっていたかなと思います。われわれにとって、「刺激」は大事です。彼らの作品はそれぞれに個性的で、大橋君の作品を見ても、倉俣さんの作品を見ても刺激になりましたし、それを見て「俺もやってやろう!」という思いになったものです。大橋君も、倉俣さんも亡くなってしまって、とても残念でなりません。

 

カスティリオーニ、ソットサスのもとで

 

 梅田さんは最初にカスティリオーニの事務所で働いていたそうですが、そこで刺激を受けたことは何かありますか。

 

梅田 カスティリオーニ兄弟は、お兄さんのピエル・ジャコモが造形派で、弟のアキッレはアイデアマンでした。私はタイプとしては弟さんの方に近く、お兄さんからはいろいろなことを教わりました。当時から彼はミラノ工科大学で教鞭を取っていたので、先生が毎日、事務所に来ているようなものでしたからね。 刺激というか、影響という意味では、アキッレからも受けたと思います。「月苑」の後ろにグリーンのキャスターが付いているでしょう。あれはスケートボーに使うものなんですよ。アキッレの方は、そういうものが好きでね。雑貨屋でいろいろなものを買ってきて、そういうものをよくデザインソースにしていました。

 

 その後、オリベッティに入られましたが、当時、最高顧問だったエットレ・ソットサスさんから刺激を受けたことは何かありますか。

 

梅田 言葉、コンセプトを考えることですね。ソットサスのオーダーの仕方は指示書などをいっさい渡されなくて、いつも言葉だけでした。私はオリベッティでは、オフィス家具、特に椅子を担当していたのですが、あるときソットサスから、「梅田、タイピストの椅子をデザインしてほしいと言われているんだけれど、女性が使うものだから、奇麗でかわいい椅子をつくろう」と言われました。その当時、イタリアでもオフィスチェアは男女兼用のグレー色でした。そういうなかで、「奇麗でかわいい椅子をつくる」という発想がすごいと思いましたね。

 

 60年代にブラウンのシステム、70年代にオリベッティでオフィスチェアなど、長くインダストリアルデザインを手がけていたのに、1981年に突然、メンフィスで「TAWARAYA」を発表されました。この間にいったい、梅田さんに何が起きたのかというぐらいすごい飛躍ですね。

 

梅田 当時、私が急に変わったことに、みんなから理解できないと言われました。オリベッティに入ってから知り合った、あるアートコレクターの影響が大きいかもしれないですね。彼は世界有数のコレクターで、パトロンをしているなかにクリストもいました。彼が自宅でパーティを開くので、クリストに頼んでプールサイドにある4本の木を包んでアートワークをしてもらったんです。クリストはパリのポン・ヌフだとか、いろいろなものを包むでしょう。当時、私はクリストを知らなかったから「この木どうしたの? 病気になったの?」と聞いてしまいました。そのアートコレクターの彼から私はモダンアートについていろいろ教わって、それからアートについて妙に興味をもってしまったんです。

 

 その後の「月苑」などの花座シリーズの椅子の誕生には、奥様の影響があったそうですね。

 

梅田 そうなんです。妻が、花が好きでね。前に住んでいた家の庭にもたくさん花を植えていて、そのなかにキキョウもありました。ある夏の夜、飲んで帰って来たときに、暗い中に月の光がポッとキキョウに当たっているのを見て、「うわーっ、すごいなあ、奇麗だなあ!」と思って。じっと見ていたら、花の椅子のイメージが出てきた。あの花を見なかったら、「月苑」は生まれていなかったと思います。

 

 

梅田正徳作品

ウメダデザインスタジオに置かれているエドラ社の「月苑」

 

 

 その花を見て、すぐにあの椅子のデザインが浮かんだのですか。

 

梅田 ええ、瞬間的に出てきましたね。私は視覚人間だから、視覚情報は一度見て忘れないというか、発想はいつもパッとひらめくほうです。ただ、それがいいかどうかわからない。ひらめいてもすぐにはやらずに、しばらく何年もおいておきます。その後、今というときがきたら、それを引っ張り出してくるという感じです。

 

 ひらめいたときは、スケッチを描かれるのですか。

 

梅田 描きますね。こういう名刺サイズの紙に、色えんぴつで小さく描くんですよ。じつは最初の頃、人からもらった名刺の裏に描いていました。名刺の紙は硬くていいなと思って、それに小さいので会議中などに描いていても人にはわからないでしょう。今では不要になったケント紙の図面を名刺サイズに切って使っています。

 

梅田正徳作品

名刺大の紙に描かれたスケッチ

 

 

 今、新たに花座シリーズを家具モデラーの宮本茂紀さんとつくられているそうですね。

 

梅田 シャクヤクなのですが、製作がとても難しいんですよ。ようやく生地が見つかり、来年、発売します。

 

菜々絵さんから見た、デザイナー梅田正徳

 

 菜々絵さんは、1993年から2000年までイタリアのソットサスの事務所に在籍されて、ご自身もデザイナーとして活動されていたということで、ぜひお聞きしたいのですが、菜々絵さんからご覧になってデザイナーとしての梅田さんについて、どう思われますか。

 

菜々絵 以前、エドラの社長が「月苑」に関してコメントされたときに、「梅田は、真面目な設計者」だとおっしゃっていました。それはどういう意味なのかなと思って、自分なりにいろいろ考えてみたんですけれど、父のデザインは形やテーマによって受け入れられるか拒否されるか、どちらかなんですね。特に日本では、批判されることのほうが多かったように思います。でも、実際に「月苑」に座ってみると、とても座りやすくて心地よくて、「ムツゴロウ」のカップも手にフィットして、すごく持ちやすいんです。
そういうことを見ていくと、プロダクトデザインの一番大事な使いやすさや扱いやすさという機能性のポイントにコミットしているということから、「真面目な設計者」という言葉が出てきたのかなと思ったんですね。また、「月苑」は30年間、「TAWARAYA」は40年間、ロングライフに販売され続けているので、プロダクトデザインという観点でもまっとうしているのかなと思うのです。それは、おそらく多くの方に知られていない部分なのかもしれません。
それからブラウン賞を受賞した可動式システムは、キッチン、バス、オーディオの3種類ありますがいずれも家具でもあって、「TAWARAYA」も空間でもあり家具でもあって、花座シリーズも家具でもありアートオブジェでもあるという、父はカテゴリーや用途など、何らかの領域を超えることをテーマにして一貫してやってきたのかなと思うのです。それゆえに生み出したときには、理解されないことが多かった。日本は細分化や縦割りが好きな社会ですし、どちらの領域のものにもなることが理解されにくかったのではないかと思うのです。
じつは近年、SNSなどを通じて、海外に父の作品のファンという若い世代が結構いるのを知りました。ジャンルの境界線があいまいになってきていて時代が追いついてきたのか、若い人たちが先入観なく作品を見てくれるからなのか、父の作品はちょっとユーモラスでパンキッシュなので、そういうところがおもしろいと思われているのか。父の作品はほとんど海外にいってしまいましたが、浮世絵のように50年、100年ぐらい経って、日本の人がそのおもしろさに気づいてくれて、いつか作品が日本に里帰りできる日がきたらいいなと思っています。

 

 「TAWARAYA」や「月苑」が発表された当初はとてもショッキングで、賛否両論あったと思います。『デザイン国際化時代のパイオニア』には、各作品についての梅田さんのお考えがそれぞれ書かれていて、とても興味深かったです。梅田さんは、著書を出されていませんよね。ショッキングでパンクなイメージだけが先行して、そのお考えがみなさんに伝わっていないのではと思いました。これまで著書を出されなかった理由は何かありますか。

 

梅田 あまり興味がありません、話がうまくないし。私ももうあと何年という年になっていますから、そんな余裕はないですしね。三面図をA3のケント紙に毎日描いていて、300枚くらいほど溜まりました。私にとっては、この図面がアーカイブですね。

 

 梅田さんは自然物をモチーフにすることが多いですが、そういう自然に対する考えはどこからきているのですか。

 

梅田 私が興味をもっているのは、琳派です。すごく影響を受けています。尾形光琳や尾形乾山、酒井抱一など、彼らの描く自然観や色彩の豊かさ、葛飾北斎、歌川広重、喜多川歌麿の浮世絵も好きですね。

 

 新作の「UTAMARO」は、まさに遊郭のような世界観ですね。

 

菜々絵 これは2021年の4月にメンフィス社からウェブサイト上で発表され、同年9月に会場で新色の「スタートレイ」などとともに発表されました。製作もすべてオンラインで行ったのですが、イタリアの職人さんの高い技術力に久しぶりに感心させられました。この生地はプリントではなく、織物で、ファッションブランドのマルニのテキスタイルを長く手がけてきた方が担当されました。「TAWAYAWA」が、イヴ・サンローランのマイアミとパリのブティック、MKというイギリスのギャラリーで展示されたり、「UTAMARO」シリーズがパリでデビューしたり、2021年は7回もさまざまな国で展示していただき、今、なぜかリクエストが増えています。

 

 ところで、梅田さんはどういうきっかけでメンフィスに参加されたのですか。

 

梅田 メンフィス・グループが結成された1980年暮れからの年明けに、ソットサスからA3サイズの封書が届きました。ソットサスの手紙には、「メンフィスというグループを結成した。『インターナショナルなスタイル』の家具を発表するので参加してほしい」という内容が書かれていて、メンバーが描いたスケッチのコピーが入っていました。私は長年ソットサスの元で働いていたので、元ボスからのオーダーという感覚で、ソットサスが期待しそうなものをデザインして送り返しました。ただ、インターナショナルがテーマということなので、自分しかできないものは何だろうと考えたのが「TAWARAYA」でした。その資料と手紙はどこにいったのかわかりません。
その後、ドイツの雑誌にメンフィスのメンバーたちが「TAWARAYA」の中に入っている写真が掲載されているのを見て、初めて自分の作品が選ばれたことを知りました。メンフィスの家具には世界の有名なホテルの名前がつけられていますが、「TAWARAYA」の名前は、イタリア側がつけたものです。現物を見たのは、その翌年のミラノサローネのときだったと思います。「TAWARAYA」のコンセプトは、西洋で使われていない畳(1.824平米)というモジュールを使用した、空間でもあり家具でもあるもの。その空間は、寝る場所でもあり、宴の場所でもあり、斎場でもありうる。リングには、イタリア人が討論好きなことから「知的闘争の場」の意味があります。その意を気に入ってもらったのでしょうか、メンバーがその中に入った写真を見たときはやはり嬉しかったです。
近年「TAWARAYA」はあちこちで展示されているようですが、私自身もなぜなのかよくわかりません。写真には登場するのに、その大きさやいろいろな理由で今までなかなか実物が見られなかったことがメンフィス作品中の珍品となって、かえって若い人や流行を牽引するアパレル業界の人たちの興味を惹いているのかもしれません。

 

目標は、ミュージアムコレクション

 

 梅田さんのアーカイブの話に戻りますが、私たちが取材するなかで、娘さんがアーカイブを整理されているケースが多いのですが、梅田さんのアーカイブも菜々絵さんがまとめられているのですか。

 

菜々絵 そうです。いつかはやらなければいけないと思っていたのですが、M+に売却をした分の作品のデータ化はすべて行いました。そのほかに関しては、M+のことが契機になって少しずつ始めています。父はインタビューされることが少ないのですが、普段話してくれる仕事や昔の話がおもしろいので、録音をして貯めております。

 

 これまで作品や図面はどこに保管されていたのですか。

 

菜々絵 倉庫を借りて保管していました。結構、ラフな状態でしたね。保管するスペースの問題もあったので、廃棄したものもたくさんあります。今、M+に買い上げていただいた以外に手元に残っているのは、いくつかプロダクト(「ムツゴロウ」「カザグルマ」「ウメダスタンド」「GEMINI」)と、最近の作品の三面図や名刺スケッチ、藤塚光政さんや、70年代の古いものですが、ウーゴ・ムラスの奥さんのマリア・ムラスさんなど、父の作品を著名な写真家の方に撮影していただいた写真がいくつかあります。これらの写真のアーカイブをどうしようかと思っていて、目下の課題です。
ちなみに、父の手がけたインテリアのプロジェクトの図面や資料もM+のキューレーターにお見せしたのですが、それらは買い上げの対象から外れたので、それもこちらに残っています。

 

梅田 そうだと思います。インテリアの仕事は、嫌々やっていたのでね。やはり自分が得意で、やっていて楽しいのはプロダクト、特に家具です。それも、いわゆるアート寄りのものです。でも、プロダクトだけでは食べていけないので、食べるためにやっていたんです。事務所を維持するには、インテリアの仕事が一番いいんですよ。それで稼いだお金で椅子のプロトタイプを宮本茂紀さんにつくってもらう、それが目的でした。

 

 インテリアデザインの仕事を食べるためにやっていたというのは、意外ですね。なぜ、インテリアの仕事はそんなにおもしろくなかったのですか。

 

梅田 インテリアデザインは、倉俣さんや内田繁さんのようにうまい人がたくさんいるでしょう、今さら私がやってもしょうがないなと思って。それにクライアントのいる仕事は、自分で自由に表現してしまうと、もう全然だめでしょう。だから、一人になってから、思いきり自由にできるようになりました。

 

 ところで、美術館のパーマネントコレクションの数がすごいですね。ヨーロッパ、カナダ、アメリカ、韓国、ポルトガルと国内外にわたりますが、これらは家具ですか。

 

梅田 家具が多いのですが、「ムツゴロウ」という陶器やヤマギワの照明「ウメダスタンド」、アルミの「スタートレイ」などもあります。今現在、10数カ所の美術館にパーマネントコレクションとして収蔵されています。
私の目標は、ミュージアムコレクションなんです。自分の作品がいろいろな美術館に収められたいと思っています。ウィーンの応用工芸美術館に収蔵されている自分の作品を見に行ったことがあるのですが、美術館で展示されるというのはすごく感動しますね。美術館に収蔵されれば、これからたぶん、自分が死んでもずっと残るわけですから。

 

 美術館には、梅田さん側からアプローチされたのですか。

 

菜々絵 自分たちからは何もしていなくて、すべて美術館側からのオファーです。M+の次に父の作品を多く収蔵しているのが、アメリカのデンバー美術館です。その当時のキューレーターは、80年代にソットサスのところによく出入りされていた方で、私たちのスタジオにも来られて、そのときに複数点、買い上げていただきました。そんなふうに美術館の方から連絡がくるようになったのは、80年代初めくらいからです。

 

梅田 その理由は、われわれもよくわからないんです。私がデザインしたものは日本ではほとんど売れないし、廃番になっているものばかり。ということは、どうも日本の市場に合わないんじゃないかと思うんですね。

 

菜々絵 もしかしたら、カール・ラガーフェルドやデヴィッド・ボウイのような著名人が父の作品を持っていたので、それで知ったのかなと思ったりもしますが、ちょっとよくわからないですね。それから最近はクリスティーズなどの海外のオークションのバイヤーも私たちにコンタクトをとってきてくださいますが、デザインというよりもアート市場として評価されているのかもしれません。

 

 たしかに梅田さんの作品が入っているのは、みな美術館ですね。インダストリーなデザインというより、一品生産に近いアートオブジェとして魅力を感じているのかもしれませんね。梅田さんは、アーカイブを後世に残していくことについては、どのようにお考えですか。

 

梅田 私はあまり興味がありません。美術館ではどこも最終案に近いプロトタイプか、ファーストプロダクションに興味を示して、図面やスケッチを要求してこないので、それを考えたら美術館に収蔵されることと、アーカイブというのは別のことなのかなと思います。M+では、図面やスケッチ、プロトタイプを中心に買い上げてくださいましたので、デザインのプロセスを見せていきたいのかもしれません。

 

 図面やスケッチを要求しないところは、途中経過は要らないということでしょうかね。

 

梅田 そうだと思います。私も実際、製品を発表したときには、頭のなかからそのものがスーッと消えちゃうんですよ。もう次のことを考えている。その途中経過はあまり重要ではなく、最終的なものが出来上がったら、それで終わりという考えです。 けれども、製品をつくったあとの「結果」ということについては、よくわからないんです。10年後、20年後にいろいろな方が評価して、いいとなればそれが代表作になる。私の場合、代表作は3点しかないんです。1968年のブラウン賞を受賞した「可動供給装置」、1981年の「TAWARAYA」、1991年の「月苑」と、不思議と大体10年ごとに代表作が生まれるんです。それ以降、私の代表作はないんですよ。

 

 しかし、倉俣さんといえば、「ミス・ブランチ」、大橋さんは「ハンナン・チェア」、梅田さんは「月苑」とすぐに浮かびますが、たくさん作品をつくっても、そういうエポックな作品がない方もいます。そういう意味では、梅田さんはハッピーなデザイナーだと思います。
今のデザインはヒットしたとしても、新陳代謝のサイクルがすごく速いので、ヒット商品を生んだ人が50年後、100年後、デザインミュージアムに収まるような何かを残せるかというと、わからないですよね。梅田さんのように自分の信念に基づいてじっくり制作した作品を、それこそ人生の中に2点、3点でも残している方のほうがミュージアムというなかでは生き残るのではないかと思ったりもします。ミュージアムの軸としては、産業や経済といろいろありますけれど、梅田さんはアートとご自身でも位置付けられていらっしゃるなら、アート作品として美術館にコレクションされるという、そういう人生もあるかなと思いますね。

 

デザインミュージアムの可能性について

 

菜々絵 デザインミュージアムということでいえば、日本につくられてもいいのにいまだにない理由は、グッドデザイン大賞は通産省の管轄で、美術館は国立に関しては文化庁の管轄と、2つの省庁に分かれていることも影響しているのではと父から聞いたことがあります。

 

梅田 日本は文化庁ですが、海外では文化省なんですよね。文化庁のなかでも、デザインは工芸の分野に入っていて、工芸寄りのものではないと美術館に収蔵されるのは難しい。デザインというのは、まったく中途半端なんですよね。いくらがんばっても、どちらか寄りのミュージアムになるでしょうし、おそらく文化寄りのものはできないと思います。それだったら企業などを動かして、部門別にグラフィック、プロダクト、インテリアと分けて小さいミュージアムをつくって、小さく展開したほうがいいのかもしれません。それが集まったときに大きなパワーになると思うんですよね。

 

 梅田さんがおっしゃるように、小さな規模のものがあって、それが相対としてネットワークを組みながらミュージアムになるという方が実現性は高いと思います。

 

梅田 問題は、ディレクターですよ。いわゆる美術館の専門のキューレーターのような人が、デザインの分野にいらっしゃるのでしょうか。いろいろな人と話をしているなかで、やはり国際的に知見をもっているようなキューレーターが必要だという意見があります。私はイギリス人が一番適していると思っているんです。彼らはグローバルな視野で物事を考えているから、情報も知識も幅広いというかね。日本人でいればいいんですけれどね。

 

 誰がまとめるかは、重要課題ですね。このアーカイブの実態調査の取材でも、そういう声が多く出ています。貴重なご意見ありがとうございました。新作の椅子も楽しみにしています。

 

 

 

梅田正徳さんのアーカイブの所在

問い合わせ先

https://umedamasanori.com