日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

山口信博

アートディレクター、グラフィックデザイナー

 

インタビュー:2024年10月1日 11:30〜16:00
取材場所:山口デザイン事務所
取材先:山口信博さん、横川知宏さん(横川製図事務所)
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜

PROFILE

プロフィール

山口信博 やまぐち のぶひろ

アートディレクター、グラフィックデザイナー

1948年 千葉県生まれ
1973年 桑沢デザイン研究所入学、中退
1974年 ジャックビーンズ入社
1976年 コスモPR入社
1979年 独立
1996年 DDA賞 ディスプレイデザイン優秀賞
1997年 SDA賞 サインデザイン準優秀賞
2001年 有限会社山口デザイン事務所設立、折形デザイン研究所設立、
    「半畳古道具店」開設
2002年 「礼のかたち」展(リビングデザインセンターOZONE)
2004年 DDA賞ディスプレイデザイン奨励賞
2009年 第7回竹尾賞 優秀賞次席デザイン書籍部門
2011年 桑沢デザイン・オブ・ザ・イヤー賞
2018年 2018 毎日デザイン賞
2019年 造本装幀コンクール 日本書籍出版協会理事長賞
2023年 「相即の詩学 - 山口信博のグラフィック・デザインの仕事」展
    (Capsule Gallery)
2024年 著書『ぼくの始末書』(FRAGILE BOOKS)

山口信博

Description

概要

山口信博は、ブックデザインを中心に、ポスター、パッケージ、CI、BI、VIなどを手がけるグラフィックデザイナーである。書籍の仕事では、創刊から計100冊制作した、植田実が編集長を務める住まいの図書館出版局「住まい学大系」シリーズが代表作のひとつに挙げられる。その中には伊東豊雄の『中野本町の家』、倉俣史朗の『未現像の風景』、大橋晃朗の『トリンキュロ』など、多様な建築家やデザイナーの名著がある。ほかにも建築家やデザイナーにとどまらず、小説家、陶芸家、塗師、料理家など、幅広い分野のブックデザインを手がける。
山口が本をたくさん読むようになったのは、中学時代に病を患い、入院生活を送っていた時期だった。高校に入ってから東京・神保町の古本屋に足を運ぶようになり、そこで北園克衛、杉浦康平、清原悦志らの手がける書籍や雑誌を目にして、デザインの世界への扉が開いた。その後、桑沢デザイン研究所に入学するも中退。山口にとって学びの場は学校の外にあり、古本屋の本や、いろいろな分野の師との出会い、人の縁に導かれながら、ほぼ独学で独自の道を歩んできた。
デザイン活動と並行して、活版印刷や俳句、折形の研究にも取り組んでいる。入り口は好奇心から、やがてグラフィックデザインの本質を探っていくことになる。そして、それらが根っこで結び付いて、山口信博というデザイナーが形成されていった。そのデザインの魅力は、日本の美意識、間(ま)の美しさにある。図(文字や画像)と地(余白)の関係性を山口は追求してきた。図と地の、絶妙な均衡と調和。それはさまざまな人との出会いや学びを経てきたなかから生まれ出るものであり、唯一無二の個性と言える。
折形の研究活動は、2018 年に毎日デザイン賞を受賞した。この賞は、あらゆるデザイン活動において年間を通じて優れた作品を制作・発表し、デザイン界に大きく寄与した個人・グループ・団体を顕彰するものだ。そのときの選評をプロダクトデザイナーの深澤直人はこう述べている。「紙にも折りにも彼のデザインのような静かな力がこもっている。(中略)彼が向ける美しい伝統へのまなざしとデザインの精神は我々が見失ってはいけない暮らしの質の追求であり、これからも継がれていかなければならない貴重な活動である」。
2023年に東京・池尻のCapsule Galleryで「相即の詩学 - 山口信博のグラフィック・デザインの仕事」の展覧会が自身の仕事を整理する機会になったという。今回の取材のアレンジをしていただいた横川製図事務所の横川知宏さんにも同席いただき、山口さんのアーカイブ資料に対する考えや、どのように自身の世界観を創造していったのか、今日までの軌跡を振り返りながらお聞きした。

Masterpiece

代表作

著書、編著+ブックデザイン

『折る、贈る。』(ラトルズ、2003)、『半紙で折る折形歳時記』(小澤實著、折形デザイン研究所編著、平凡社、2004)、『白の消息  骨壺から北園克衛まで』(ラトルズ、2006)、『新・包結図説』(ラトルズ、2009)、 『和のこころを伝える 贈りものの包み方』(誠文堂新光社、2010)、『つつみのことわり 伊勢貞丈「包之記」の研究』(山口信博+折形デザイン研究所著、私家版、2013)、『ぼくの始末書』(FRAGILE BOOKS、2024)

 

ブックデザイン

住まいの図書館出版局「住まい学大系」全100冊、『デザインすること、考えること』(五十嵐威暢著、朝日出版社1996)、『ル・コルビュジエ カップ・マルタンの休暇』(ブルノ・カンブレト著、TOTO出版、1997)、『住宅巡礼』(中村好文著、新潮社、2000)、『ミュゼオロジー入門』(岡部あおみ、神野善治、杉浦幸子、新見隆共著、武蔵野美術大学出版局、2002)、『カトラリーの宇宙』(辰澤速夫著、ラトルズ、2002)、『評伝 北園克衛』(藤富保男著、沖積舎、2003)、『デザインの素』(小泉誠著、ラトルズ、2003)、『かみのしごと』(ラトルズ、2004)、『茶の箱』(赤木明登著、ラトルズ、2004)、『デザインの輪郭』(深澤直人著、TOTO出版、2005)、『と/to』(小泉誠著、TOTO出版、2005)、『きこごよみ』(根本きこ著、主婦と生活社、2005)、『美しいもの』(赤木明登著、新潮社、2006)、『水と空のあいだ』(イイノナホ著、六耀社、2006)、『金沢の手仕事』(坂本善昭著、ラトルズ、2006)、『おいしい台所道具。』(渡辺有子著、主婦と生活社、2006)、『飛田和緒さんちのごはん帳』(飛田和緒著、主婦と生活社、2006)、『ふすま』(向井一太郎、向井周太郎共著、中央公論新社、2007)、『美しいこと』(赤木明登著、新潮社、2009)、『糸の宝石』(鈴木るみこ著、ラトルズ、2009)、『裸形のデザイン』(大西静二著、ラトルズ、2009)、『森へ行きましょう』(川上弘美著、日本経済新聞出版社、2017)、『工藝とは何か』(赤木明登、堀畑裕之共著、泰文館、2024)

 

雑誌のエディトリアルデザイン

『SD Space design スペースデザイン』(鹿島出版会)のアート・ディレクション、『SD』選書のリニューアル

 

ポスター

「素と形・展」(アクシスギャラリー、2004)、「白の消息」展(as it is、2006〜2007)、「新国誠一の《具体詩》」(国立国際美術館2008〜2009)、「IN prints ON paper 山口信博・紙の上の仕事」(gallery yamahon、2010)、「相即の詩学 - 山口信博のグラフィック・デザインの仕事」(Capsule Gallery、2023)

 

山口信博 作品

Interview

インタビュー

 

いろいろなことを手がけていますが、すべてに根拠があって
根っこの部分は全部つながっています

多様な生き方があるように、デザインの道もいろいろある

 最初にお二人のご関係からお聞きしたいのですが、横川さんは山口さんの事務所のスタッフなのですか。

 

横川 いえ、私はスタッフではなく、個人で事務所をもっていてデザイナーとして活動しています。昨年、東京・池尻のCapsule Galleryで「相即の詩学 - 山口信博のグラフィック・デザインの仕事」と題して、山口さんの展覧会が開催されることになり、お手伝いさせていただいたという経緯があります。

 

山口信博 資料 山口信博 資料

「相即の詩学 - 山口信博のグラフィック・デザインの仕事」展の会場風景とポスター(Capsule Gallery、2023)

 

 

山口 最初の出会いは、横川さんが農家の方のサポートをされていて、稲穂を活用したお正月飾りをつくることになり、相談をいただいたときでした。そのプロジェクトは実現には至らなかったのですが、あとから僕が通っている寺の座禅会に横川さんも行かれているのを知って、興味をもっていることが似ているなと思ったり、とても誠実な方なので信頼を寄せていました。その後、横川さんが親しくされていたCapsule Galleryのオーナーをご紹介いただいて、昨年、展覧会を開催できることになったというわけです。

 

 その「相即の詩学」の展覧会は、若い世代の方もたくさん訪れたそうですね。相即というのは、禅問答のようなことでしょうか。

 

山口 そうですね。相即というのは禅の言葉なのですが、生と死、善と悪など、2つの対立する概念を打ち立て否定し、ダイナミックに無限に反転させていく考え方のことです。これまでの僕の仕事を振り返ったときに、その言葉がフィットすると感じたのでタイトルに付けました。本の装丁やエディトリアルデザイン、ポスター、俳句や活版印刷など、これまでいろいろやってきたのですが、展覧会では6つのチャプターに分けて展示しました。

 

 山口さんのご活動は、グラフィックデザイナーというひとことでは語りきれないほど、多彩なご活動をされていますよね。

 

山口 多彩ではないんですよ。多趣味といいますか。とりとめなく、いろいろなことに手を出しているように見えるかもしれませんが、自分のなかではすべてに根拠があって、根っこの部分は全部つながっていると思っています。僕がどういうことをしているのか、どうしてそういうことをするようになったのかと聞かれることが多々あったので、最近、本をつくりました。
最初は「相即の詩学」の展覧会の内容をまとめた本を出そうかと思ったのですが、ほかの要素も加えることにしました。たとえば、「かなかな変奏曲」という章には、自分でつくった俳句を掲載しています。コロナ禍に事務所を出たときに街から人が失せ、クルマも走っていない光景を見て愕然として、社会的な活動がすべて停止してしまうのだろうか、僕はこれからいったい何をしたらいいんだろうと思ったことがきっかけでした。ちょうど事務所のスタッフからInstagramのやり方を教えてもらったばかりだったので、それ以降、写真と俳句を毎日あげていきました。展覧会を開催する頃には、三千くらいの数の俳句ができたので、それを題材にポスターをつくって展示して、本にも掲載しました。
この本は、11月1日に無印良品の出版レーベルFRAGILE BOOKSから発行されます。編集を担当されている櫛田理さんと相談しながら、制作期間が1年余りかかりましたがようやく出版されることになりました。櫛田さんは、編集工学研究所の松岡正剛さんのもとで働いていた方で、今はEDITHON(エジソン)という会社を運営されています。
本のタイトルは、『ぼくの始末書』です。本を始末しようというのではなく、自分自身を始末するという意味合いを込めて、少し遺言めいているところもあるんですけれども。

 

山口信博 資料

『ぼくの始末書』(FRAGILE BOOKS、2024)

 

 

 この本を一冊読めば、山口さんがわかる内容になっているのでしょうか。

 

山口 わかってもらえるか、わかりませんけれども。デザインの分野の先達には、キラ星のような方がたくさんいらっしゃいます。私のように本道から外れてこんな試みをしていた人がいて、そういう人でも何とかやっていけたという、若い人たちに励ましの言葉がかけられたらと思っています。
多様な生き方があるように、デザインの道もいろいろあります。デザイナーになるために美大に行くというコースにのらなくても、デザインをやりながらパンクやロックを楽しんだり、洋服に興味をもったり、化学が好きとか、グジャグジャでもいいと思うんです。自分が興味をもっているものに向かっていくと、それらがいつしか自分のなかでハイブリッド化されたり、発酵して何らかのかたちになったり、最終的には僕のように全部ひとつの根っこにつながっていくんじゃないかと思います。

 

 

グラフィックデザインの世界へ

 

 北園克衛さんも詩人ですが、エディトリアル、装丁、イラスト、写真など、いろいろなことに携わられ、その自由な生き方が山口さんと重なります。山口さんがデザインに興味をもたれたきっかけの一人が、北園さんだったそうですね。

 

山口 北園さんの領域にとらわれない生き方から学んだところは、多分にあると思います。僕は中学生のときに病気を患ってしばらく入院していたので、人より遅れて高校に入学しました。僕が年上だったので、同級生から距離を感じられてしまい、学校にあまり馴染めず、さぼって神保町の古本屋さんによく行っていました。その頃に、東京堂書店で北園さんの同人誌『vou』を見つけたんです。デザインが格好いいと思ってね。日本語の詩なのに横組みで、マイカレイドという紙に不透明インクを使ったりしていました。
ほかにもデザインの格好よさに目を奪われてよく手に取ったのは、グラフィックデザイナーの杉浦康平さんや清原悦志さんのデザインされたものでした。杉浦さんは『a+u』などの建築誌や、『吉岡実詩集』(思潮社、1967)、三島由紀夫の『薔薇刑』(集英社、1963)、武満徹のレコードジャケットなど、ほかにも実験的なデザインの本や雑誌をたくさん手がけられていました。清原さんは、東京教育大学(現・筑波大学)出身で、『vou』のメンバーにもなった方です。バウハウス思想に根ざした「構成」教育を創始した高橋正人さんの愛弟子でもあります。

 

 そういうものを見ているなかで、グラフィックデザイナーを目指すようになったのですか。

 

山口 そのときはまだグラフィックデザイナーという職種をよくわかっていませんでした。ただ、北園克衛さんや杉浦康平さん、清原悦志さんの手がけるものを見てこういう仕事もあるんだ、こういうことをする人になれたらと考えていました。
僕は千葉の片田舎に住んでいたので、美術の先生も彼らのことを知らないし、父親にそういう分野にいきたいと言ったら、「いつか気が狂って、自分で耳を切るような人間になるぞ」と言われて。ゴッホのことですね。それとは違うと思ってもうまく伝えられず、なかなか周囲に理解を得ることができませんでした。

 

 北園克衛さん、杉浦康平さん、清原悦志さんのデザインに影響を受けた部分はありますか。

 

山口 桑沢デザイン研究所に通っていた頃は、杉浦さんのようになりたいと思った時期がありました。かつて、杉浦さんは『都市住宅』『SD』『a+u』という建築の月刊誌を3本、松岡正剛さんが編集長を務めていた雑誌『遊』、ほかにもたくさん仕事をされていました。「デザイナーは40歳までは寝てはいけない」という、有名な杉浦さんの言葉があったほど、忙しくされていたと思います。
僕は『都市住宅』『SD』『a+u』の編集部に電話をかけて、「勉強のために、割り付け用紙を分けてもらえませんか」とお願いして集めました。その割り付け用紙を当時の雑誌に当てて見ると、杉浦さんの見出しの立て方や写真の配置の仕方、罫線の入れ方などがわかってくるわけです。けれども、そうやって杉浦さんのことを学べば学ぶほど、すべてにおいて杉浦さんがすでにやり尽くしているということに気づくわけです。次元が違う、かなわないと思いました。

 

 杉浦さんとは、お会いになったことはありますか。

 

山口 僕がアートディレクションを務めていた『SD』(431号、鹿島出版会、2000年8月発行)で本の特集を組むことになって、そこで僕がインタビュアーとして杉浦さんにお話を伺ったことがあります。とても緊張したのですが、僕の個人的な思いではなく、杉浦さんの思想の根底にあるものは何なのかとか、本にまつわる話をお聞きしました。
松岡正剛さんが編集長をされていた『遊』(8号、工作社、1975)という雑誌で、松岡さんの司会のもとで、杉浦さんは北園克衛さんと鼎談をされたことがあります。北園さんがそういう対談に出ることは珍しいんですね。松岡さんと杉浦さんがお相手だったから、胸襟を開いてお話しされたのだと思います。そこで北園さんがおっしゃったのは、ロシアの前衛芸術家でシュプレマティストのカジミール・マレーヴィチの絵画作品を自分は言語で表現した、つまり、模倣であって、自分には独創性などないと。そして、自分はいつも引き算をして、引き算しながら前進してきた。残ったのが骨だけになったらいいと思っている、というようなことをおっしゃっていました。
僕は杉浦さんにかなわないと思ったときに、今まで一生懸命吸収したものを全部捨てるしかないと思い、北園さんのようにまさに「引き算の前進」をしようと思いました。杉浦さんがよく使う書体、グリッドシステムなども自分はやらないと決めました。色も使う必要がないかなと思ったり、杉浦さんがすることをすべて避けていきました。けれども、そうしたらやれることがまったくないことに気付いたのです。そこで杉浦さんとは逆のことをしようと考えました。杉浦さんは字間を詰めるデザインをしました。それも徹底的に詰める。詰めて、詰めて、デザインを締めていくという方法をとられていました。僕はその反対に字間を空けるということをしました。それは結構、勇気がいることで、そうするとデザインが締まらなくてゆるくなっていくんですね。ゆるくなっていくなかで、白い紙面の中でデザインをどうもたせるかと考え続けて、自分なりに実験を重ねてきたところがあります。

 

 日本の空間には茶室や和室のように、あらゆるところに間(ま)がありますよね。空間だけでなく、レイアウトにも間のようなものに通ずるものがあるのでしょうか。

 

山口 そうなんです。ゆるくなっていくなかで、間をどう使っていくかということに逆に気付かされました。武満徹さんは70年代にデビューして世界に打って出るわけなんですけれど、日本の楽器を使って前衛的な音楽を展開していきました。その当時、彼はいろいろなところで「音、沈黙と測りあえるほどに」と言っていて、本の題名にもなっています。つまり、沈黙という間は、音と等価だと。ヨーロッパの人は音と音の響き合いに意識が向いていると思うんですけれど、武満徹さんは音と音の間、音ではない部分で曲をつくっていたところがあると思います。

 

 私(関)は山口さんの作品がとても好きなんですけれど、紙面の中に情報をいろいろ詰め込んだり、むやみに間をつくるのではなく、山口さんの間にはほどよい緊張感をともなった美意識を感じます。

 

山口 うれしいです。間に関しては、自分ではかなり意識しているところがあります。文字は情報をもっていて大切ではありますが、たとえば、著者名とタイトルとの関係性や、その距離感などを意識してデザインを考えてきました。けれども、すべての人がそれを理解してくれるわけではなくて、「タイトルは端っこではなく、ドーンと中央に大きく入れた方がいいじゃないですか」と編集者から赤を入れられることも多々ありました。

 

 でも、これまでいろいろな方々から本をデザインしてほしいと依頼されるのは、山口さんのデザインや世界観がみなさん好きだからですよね。

 

山口 いえ、それはよくわからないですけれどね。

 

 

雑誌編集や広告制作の会社へ

 

 少し話を戻しますが、桑沢デザイン研究所に入学しようと思われたきっかけは何だったのですか。

 

山口 高校を卒業後、東京藝術大学を受験して、何年か浪人しました。受験のためのデッサン教室にも通っていたのですが、そこでの課題は植物を写生して、色面に置き換えて、画面構成するというものでした。僕は古本屋でいろいろな本を読んで知識を得ていたので、「それはデザインではなく、図案ではないか」と思いました。日本ではどこでモダンなデザインを教えているんだろうと思っていろいろ本を調べたら、高橋正人さんの名前を見つけました。高橋さんは私塾でビジュアルデザイン研究所を運営されていたので、僕はデッサン教室が終わったあとにそこに通い始めました。
そんなことをしていたので藝大には一向に受からず、どんどん学力も落ちていく。そこで方向転換して、試験科目が国語と図法だけの桑沢デザイン研究所を受験し、ようやく入学することができました。その頃には、僕はすっかり頭でっかちになっていて生意気でした。「シュプレマティスムについて、どう考えたらいいんですか?」なんて先生に質問を投げかけて、怒られてしまう。おもしろくないなと思って、結局、学校をドロップアウトしてしまいました。

 

 桑沢中退後は、コスモPRという会社に就職されたのですか。

 

山口 いえ、その前にジャックビーンズという会社に就職しました。桑沢の2つ上に戸田ツトムさんがいて、年齢がほぼ一緒だったこともあり、彼とは気が合ってよく話をしました。それで戸田ツトムさんのお兄さん、戸田麒一郎さんの経営するジャックビーンズを紹介いただきました。ここではファッション誌『mc Sister』と京浜急行のPR誌の編集とデザインをしていて、僕はアシスタントとして手伝っていました。モデルやカメラマンの手配、撮影や取材の段取り、製版の指示入れ、取材で宿泊する旅館の手配、食事の席での注文、自分で企画を考えたこともありました。常に走り回っていて、いつも叱られながら忙しい日々を送っていました。
戸田麒一郎さんとインテリアデザイナーの内田繁さんが桑沢デザイン研究所の同級生だったので、しばらくしてワンフロアを二分して共同事務所のようなかたちになりました。当時、インテリアデザイナーは花形の職業で、内田さんをはじめ、倉俣史朗さんやスーパーポテトの杉本貴志さんなど、彼らが手がけた実験的なデザインのお店が次々に生まれたときでした。

 

 70年代後半くらいですね。山口さんはそういうお店に行かれたり、格好いいと思われたりしましたか。

 

山口 格好いいなとは思いましたけれど、とにかく華やかな世界で、自分とは別世界だなと思っていました。戸田麒一郎さんから、パーティにお前も顔を出せと言われて行きましたけれど、僕は下戸なのでそそくさと家に帰って、一人で活版印刷の実験的な試みをしていました。その頃、僕はタイポグラフィに興味をもち始めて、ジャックビーンズで働きながら活版の欧文組版を教える高岡重蔵さんの嘉瑞工房の私塾にも通っていました。そこに森啓デザイン研究室のスタッフで堀木一男さんという方も来られていて、僕はその堀木さんと一緒に勉強会や読書会をしたり、森啓デザイン研究室で海外のタイポグラフィの本を見せていただいたりしました。何度か通っているうちに、森啓さんからコスモPRという会社で人材を募集していると聞いて、そこを受けて入社できることになりました。

 

 コスモPRは、どのような会社だったのですか。

 

山口 日本で初めてパブリックリレーションという分野を開拓した会社です。副社長の瀨底恒さんは、柳宗理さんが従兄弟、柳宗悦さんが叔父さんにあたる方でした。1956年にアスペン国際デザイン会議のときに、瀨底さんは柳宗理さんの通訳をされて、そこでハーバート・バイヤーやユージン・スミス、マックス・ビルなど、世界中の著名なデザイナーと知り合いになったそうです。1960年の世界デザイン会議では日本の事務局長を務め、1964年の東京オリンピックにも携わりました。
コスモPRの会社では、瀨底さんは企業のコンセプトブックや、竹中工務店の季刊誌『approach』を制作していました。『approach』のデザインは田中一光さん、写真は石元泰博さんだったので、彼らが会社に打ち合わせに来られることもあり、ほかにも書家の篠田桃紅さんなど、そうそうたる方がお見えになっていました。
僕はここで日立製作所の海外広報活動の担当になり、総合カタログや製品広告、フライヤーなどを制作していました。僕が自分の好きなスイスのタイポグラフィで広告をデザインしたら、もっとクラシカルな書体にしてほしいと言われて直したり。当たり前ですけれど、クライアントの意向に沿って考えなければいけないし、制約も多くて大変でした。当てがあったわけではないのですが、3年間勤めたのちに退職しました。

 

 独立してからは、どのように仕事を得ていかれたのですか。

 

山口 最初は友人の名刺やDMをデザインしていました。そのうちに僕は陶芸や工芸品が好きなので、そういうギャラリーに出入りしていたら、DMのデザインを頼まれるようになりました。たとえば、陶芸家の黒田泰蔵さんとは、彼が白磁を初めて手がけた展覧会で僕が作品を買ったことが契機となってDMなどのデザインを依頼いただき、その後も長くお付き合いが続きました。塗師の赤木明登さんも独立されたばかりの頃に展覧会に伺ってご縁が生まれて本を一緒につくったり、坂田和實さんとは、僕が日本民藝館で坂田さんのお店「古道具坂田」の展覧会のDMを見たのがきっかけでした。坂田さんのDMにはコンクリートの壁にマリ共和国のドゴン族のハシゴが並んでいる写真があって、その世界観がおもしろくて、とても興味を惹かれました。それでお店を訪ねて、頻繁に通うようになって、時々、購入もしました。それから骨董に興味をもつようになって、坂田さん以外の骨董屋にも出入りするようになりました。買ったものを眺めていると、だんだん自分がそれを好きな理由がわかってきたり、骨董を見る目を養うことにもつながったかなと思いますね。

 

山口信博 資料 山口信博 資料

「黒田泰蔵」展のDM(2000)と「白の消息」展ポスター(as it is、2006)

 

 

倉俣史朗の『未現像の風景』を制作

 

 以前、「半畳古道具店」という、古道具を販売するお店も運営されていたそうですが、骨董のどういうところに魅力を感じられますか。

 

山口 新しい物は、物でしかないけれど、古い物は人間より長生きしていて、ある種、アウラというものを宿していると思うんです。深澤直人さんが「手沢というのは、僕らデザイナーが絶対太刀打ちできない、デザインできないもの」とおっしゃっていましたけれど、手で愛玩したものは手の手沢がついて、味がつく。でも、デザイン製品は味付けをしないで、そのまま売られるわけですからね。人がものと関わって生まれ出る、そういう手沢やアウラのようなものは、残念だけれど、デザインが立ち入れない領域だと僕も思います。骨董は経てきた時間が物に表れる、やつれている具合とか、侘びたり寂びたりする美意識のようなものに魅力を感じます。

 

 近代デザインには、侘び寂びをもち込めないでしょうか。

 

山口 近代デザインは、そういうものを排除してきたところがありますからね。けれども、そういう侘び寂びのようなものがないというのが、ある種、近代デザインの美意識だと思います。倉俣さんがアウラ性をどれだけ排除するかということを試みたように、そこにも美というものがあると思うんです。
以前、倉俣さんから「ガラスは壊れるからきれいなんだよね。どう思う?」と聞かれたことがあるんです。倉俣さんは、ガラスは壊れたら終わりではなく、割れたり、欠けたりするのも素材がもっている可能性のひとつと考えていることを知り、驚いたことがあります。その頃、三保谷硝子さんと一緒に「割れガラス」を開発している最中だったのかもしれません。

 

 倉俣さんとは、植田実さんが編集長をされていた住まいの図書館出版局の「住まい学大系」の本の制作で会われたそうですね。制作中のエピソードが何かあれば教えていただけますか。

 

山口 「住まい学大系」の仕事は、編集者の羽原肅郎さんからご紹介いただいて、1987年の創刊からデザインに携わらせていただきました。いろいろ制作したなかで、やはり倉俣さんが一番印象に残っています。『未現像の風景』という著書を制作したのですが、担当編集者と倉俣さんの事務所に何度か伺いました。シャイな方でポツポツと話されるんですけれど、とても含みのあるおもしろい話ばかりでした。たとえば、「毎日(自宅から事務所に)電車で通っている途中に、ある建物の屋上に椅子が3脚置かれているのが見えて、それが毎日動いているんだよね」と。ひとつは折りたたみの椅子で時にはそれが畳まれていたり、それぞれ置かれている位置が微妙に変化するというのです。「まるで屋上の椅子のドラマを見ているようで、それが毎日の楽しみなんだ」とおっしゃっていました。
それから『未現像の風景』にも少し書かれていますけれど、戦時中にB29が爆撃する前にレーダー探知を撹乱させるために銀紙を撒くらしくて、それが撒かれたらみんな急いで防空壕に隠れたそうなんですが、倉俣さんはそれがキラキラしてきれいだったから、ずっと眺めていたそうです。学校での授業中も、黒板ではなく外を見て物思いにふけっていることが多かったことから、先生が心配して両親を呼び出して「親御さんからも注意してください」と言ったら、倉俣さんのお父さんは「史朗をいじらないでください」と毅然とおっしゃったそうなのです。だから、倉俣さんの才能が途中で折られることなく、そのまま育っていったんだなと思いました。

 

山口信博 資料

住まいの図書館出版局発行の「住まい学大系」のブックデザイン。左から、『未現像の風景』(倉俣史朗著、1991)、『トリンキュロ』(大橋晃朗著、1993)、『構造設計の詩法』(佐々木睦朗著、1997)

 

 

 興味深いお話ですね。倉俣さんがガラスの割れることも可能性だと考えるように、山口さんが研究されている折形も紙の素材そのものの可能性を追求されているのではないでしょうか。最初に興味をもたれたきっかけは何だったのですか。

 

山口 神保町の江戸の古書を扱っている大屋書房で、江戸中期の武家故実家の伊勢貞丈の「包之記(つつみのことわり)」という本に出会ったことでした。それには、さまざまな折形の展開図と完成図が見開きで紹介されていました。ところどころにキャプションのような日本語が入っているんですけれど、よく意味がわからなかったので購入してみることにしました。自分で調べてもよくわからなかったので、山根章弘先生の山根折形礼法教室に通って、折形について教えていただきました。3年くらいした頃に、山根先生が体調を崩されてしまったので、有志を募って勉強会を始めました。その会を折形デザイン研究所と名付けました。先生から教わったこと以外にも、自分たちで考えていることをオリジナルで表現したらどうだろう、展覧会を開催して発表してみたいと思い、山根先生にお伺いしたら「とてもおもしろい、いいと思います」とおっしゃってくださいました。
じつは、その展覧会の準備をしているときに、次の展覧会をする美濃の和紙職人さんたちが会場を見に来られて、僕がこの活動のことや、そのためにもっとこういう紙が欲しいと思っているという話をしたら、「一度美濃に来てみませんか」と言ってくださったのです。それから美濃に何度か通うようになって、紙漉きの体験をさせてもらうなかで、紙というのは質や厚さなど、自分でデザインできることを知って、目の前が開けるような感じがしました。これまで見本帳から選んでいた紙は、印刷機や製本の都合に合わせて開発されたものということも知りました。
もうひとつ紙漉きの体験で感じたのは、紙がもつ清らかさや霊性やアウラというのは、紙が水をくぐってつくられたことによるものではないかということです。折形は人に贈るときに感謝の気持ちやお悔やみの気持ちなどの心が込められるものなので、そういう水をくぐって人の手でつくった紙を折形に使うことがもっともいいのではないかと思いました。

 

 折形をグラフィックと言っていいのかわからないのですけれど、紙に何かを描くのではなく、折形は紙そのものを活用するということですよね。

 

山口 グラフィックデザインは、紙という支持体の上に言葉や図像でメッセージを伝えますが、折形は図像や文字がいっさいなくて、そのものにメッセージを託します。それは俳句と重なる部分があると思いました。たとえば、俳句は好き、嫌い、怒っている、悔しいというような思いのたけを語りません。本当は名詞だけで俳句をつくれたらいいんですけれど、その名詞に思いを託すわけです。受け止め方はいかようでも構わない。折形では鉛筆を包んで贈るとしたら、その鉛筆というものに何らかの気持ちが託されているわけです。「お手紙をくださいね」、あるいは「もうこれでお別れです」という意味合いが込められているかもしれません。
つまり、俳句も折形も両者間だけで通用するコミュニケーションなのです。それはかなり高度で、グラフィックデザインのコミュニケーションとは次元が違うと思っています。日本人はそうやって空気を読み合うようにコミュニケーションしてきた歴史があるということを、俳句や折形の世界を通して知りました。同時に、俳句や折形の勉強を通じて近代デザインが捨ててきたものや見落としているものに気付かされたり、逆に伝統的なもののなかで失ったものは何かを考えるきっかけにもなりました。

 

 

縁をつなぐアーカイブ

 

 最後に、山口さんのアーカイブの現状をお伺いしたいのですが、昨年の「相即の詩学」展でご自分の仕事を一回整理されて、今後どうするかと考えられたそうですね。資料を整理されようと思われたのは、その展覧会がきっかけだったのですか。

 

山口 「相即の詩学」展の話をいただいたのは、ちょうど事務所を設立して40年ほど経った頃でした。坂田さんも骨董屋さんを始めて40年くらいしたときに展覧会を開催していましたし、40年くらいするとみんな何かする節目なのかなと思いますね。展覧会に向けて、自分が40年間やってきた仕事の資料をカテゴライズしたり、階層性をつくったりして整理していきました。整理しながら、この時期は楽しかったなとか、このときは苦しかったなと思い出したりして。けれども、整理していくうちに、人間が一生でやれることはこの程度しかできないんだな、限られているんだと思って。そうしたら、人にお見せするものがない、見せる必要ないんじゃないかと思い始めたんです。
資料を整理している最中に、横川さんが相談相手になってくれました。僕は頭のなかがグジャグジャで、ほとんど愚痴をこぼしていただけですけれど。そういう僕に「こういう方向もあるんじゃないですか」と踏み込んでアドバイスをしてくれたので、何とか展覧会が実現できたと思います。

 

横川 展覧会というのは、ひとつの答えが示されたものの結晶という感じがするんですけれど、山口さんの展覧会は、6つのチャプターに分かれていて、その場でどんどん組み替えていくという流動性があって、一般的な展覧会とは対極にあったと思います。「活版」は英語で「ムーバルタイプ」と言いますが、活版自体が組み替えていく流動性があるものです。そういう意味で山口さんらしい展覧会だったんじゃないかと思います。

 

山口 今、横川君が言ってくれたように、活版は活字をすだれケースから取り出して、ジャッキで固定して印刷して、刷り終わったらまた元のケースに戻すんですね。あるときに結晶化して、それはいつでも解体できる、一瞬に消えてしまう。活版というと、「紙に圧がかかるところがいいですね」と言う人が多いけれど、僕は一度形をつくったけれど、すぐにそれが消えてしまう流動的な雲のようなところがおもしろいと思っているんです。

 

 活版には、そういう魅力もあるのですね。具体的なアーカイブ資料の内容をお聞きしたいのですが、ポスターにはどのようなものがあって、どのように保管されていますか。

 

山口 マップケースに入れて保管しています。ポスター作家ではないのですが、俳句を題材にしたポスターをつくってみようと思い、制作したことがあります。最初に小澤實さんという、いつも俳句を指導してもらっている方に韻文性の高い名句を選んでいただき、俳句を音に還元するためにローマ字表記にしてみようと考えました。小澤さんに選んでもらったものをローマ字表記にして、B全ポスターを12枚つくりました。レイアウトをするときに、「ふわふわのフクロウの」などと声に出しながら構成を考えながらつくっていったんですけれど、そのときにデザインはなんて楽しいんだろうとあらためて思うことができました。表参道駅構内の駅貼りのスペースを1年間借りて、12枚のポスターを毎月取り替えていきました。デザイナーの人たちも、それを結構見てくれていたようです。
それから多摩美術大学に北園克衛文庫というのがあると知って、頼まれていないんですけれど、北園克衛さんの命日にポスターをつくって贈るということを5年間続けました。
また、以前、坂田和實さんが自身の千葉の美術館as it isで個人コレクション展を開催することになって、光栄なことに最初に指名を受けたのは僕でした。主旨は、展覧会に自分のコレクションを出品してくださいということだったんですけれど、また頼まれていないのに自分でお金も全部負担して、出品したものをまとめた『白の消息』(ラトルズ、2006)という図録のような本を企画出版しました。そうしたら、次に行う別の方のコレクション展でも本をつくってくださいとお願いされて、制作することになりました。ですから、頼まれていないけれど、勝手にデザインしてしまうというのも大切なことだなと思いました。また、依頼されて応えるという図式から外れてしまうという方法もあると思いました。

 

 見ている人はいる、ということですよね。興味のない一万人に見せるより、興味のある10人に見てもらった方がいいですよね。

 

山口 自分には大衆性がないことがわかっていましたから、一人か二人でいいから見てくれている人がいる、感じてくれる人がいる、それでいいかなと思っているんです。
これまで確たるものがあって表現してきたわけではなくて、出会った人たちからもたらされた恩寵のようなもので僕はできあがっているのかなと思ったりもします。行き詰まると、出会いがあるという繰り返しで、本当にいろいろなご縁で生きているところがあると思います。

 

 山口さんはこれまで導かれるように、多彩な分野の方、そうそうたるすばらしい方にお会いになってきましたよね。ご自身がデザインされた本や蔵書の保管状況はいかがですか。

 

山口 たくさんあります。デザイン関係の本は以前、売却したんです。今が手放すときだなと思ったので、相当重要な資料になるだろうと思われるものもかなり処分しました。折形に関係する古書や資料は残しています。北園克衛の『vou』の創刊号も含めた雑誌や彼が装丁した本も含めて、ダンボール2箱くらいあります。そういう価値がわかる古書店に持って行ったのですが、買取金額があまりに安かったので売るのをあきらめました。骨董品もかなりの量があります。

 

 校正紙を箱に入れて保管されているそうですね。

 

山口 校正紙はプロジェクトごとに箱に納めて、全部で20箱くらいあります。その箱は造本家の新島龍彦さんにつくっていただきました。将来的に書誌学の方が見たら、この時代の印刷のレベルがわかるくらいの初稿と再校を箱に収めています。
その中には例えば、小説家の川上弘美さんが以前、日本経済新聞の連載記事を1年半ほど書かれたのですが、それが『森へ行きましょう』(日本経済新聞出版社、2017)という単行本になったんですね。そのときの挿絵をデザイナーの皆川明さん、僕がエディトリアルデザインを担当しました。新聞の記事の切り抜きと、校正刷り、装丁の案、用紙変更などの仕様書などを箱に収めています。

 

 なぜ、校正紙を箱に収めようと思われたのですか。

 

山口 『ぼくの始末書』の前書きでも書いたのですが、倉俣さんの『未現像の風景』を制作していたときに、最後のページを原稿として担当編集者から受け取って、その場でレイアウトして入稿したんです。その夜に編集者から電話があって、倉俣さんが亡くなられたと。その最後のページというのは、機械仕掛けで羽が動くキューピーのレントゲン写真でした。ですから、完成した本を倉俣さんはご覧になっていないんです。そこで校正刷りをまとめて棺桶に入れて、ご葬儀に間にあわせました。
『未現像の風景』の本は、倉俣さんの小さい頃の記憶や夢が書かれていますよね。記憶や夢というのは、言語化や視覚化しなければ誰も知る由もない、表に出ないものです。それを倉俣さんは、本で言語化してスケッチで視覚化した。うがった見方をすると、そのままにしておけばよかったものを昼の世界に引っ張り出して、隠れていたものを顕在化させてしまった。それによって、無意識と意識、生と死の世界が入れ替わってしまったんじゃないかと、本をつくる作業は恐ろしいと思ったんです。

 

 倉俣さんの棺に『未現像の風景』の本の校正刷りを収めたとおっしゃいましたけれど、棺桶というのはその人のすべてを収めて火に託すということですよね。山口さんにとって校正紙を箱に収めるということは、本をつくってもピリオドを打たない、一歩手前の作業ということなのでしょうか。

 

山口 本来、何らかの形で本にまとめるということは、自分を何か一回収める、ピリオドを打つことなんでしょうけれど、ピリオドを打たせないようにするというのが、箱に収めるという作業になったわけです。

 

 そういう経緯があったのですね。そういった箱を含めて、資料を大学や美術館に寄贈しようと考えられたことはありますか。

 

山口 僕は大学に行っていないのでご縁もないですしね。じつは千葉にセカンド・ハウスがあって、建築家の中村好文さんに設計していただいたものなんですね。父が今年亡くなったので、ほとんど倉庫化していたその家を整理し始めているところです。不動産会社の方に聞いたのですが、著名な方が設計した家でも建物には不動産的価値はほとんどなく、しかも僕の家は千葉の里山にありますから地価もそれほど高くない。不動産として所有する価値はないので、あと残された年月で使い尽くしたほうがいいと助言をいただきました。それを聞いて、売るのではなく、むしろ使うことの方が価値になるという考えもあるのかと思ったのです。どういう使い方をしようかと考えて、僕がつくったものや集めたものを人に見ていただくギャラリーのような場にできたらと考えました。興味をもっている方にどんどん譲っていってもいいかなとも思っていて、資料が散逸しても構わないと思っているところもあります。
以前、折形デザイン研究所をつくったときに畳半畳のところに古物を並べて「半畳古道具店」というお店を経営したことがあるのですが、その経験をしたことが今になってよかったと思っています。デザインの仕事をしていると、編集者やカメラマンなど、ある限られた分野の方としかつながりませんけれど、お店という開かれた場所をもっていると、異なる分野の方々ともご縁が生まれることを実感したので、また人のお付き合いも広がっていくのではないかと楽しみにしています。
僕は大学や美術館などの公的な場に依存するのではなく、自分で自由にできる空間があるので、そこをこれから使い尽くしていこうと思っています。来春くらいにはオープンできたらと考えています。

 

 楽しみですね。完成されたら、ぜひ伺いたいです。本日は山口さん、横川さん、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。

 

 

 

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